■ 善悪の解体・補説-14 / しまの |
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あと少し話の続きがありますので、早いとこ書きませう。 「別れを告げた世界」という話と、「性善説」の話が残ってます。
その話につなげていきましょう。 まず全体のおさらいのような話から。
■自己受容のために
2/13のその13までで、善悪の解体放棄を進めた要因について説明しました。 ひとことで言えば、それは論理的なものと情緒的なものがある。
論理的なこととは、宗教的な思考を採用せず、科学的思考に徹し、善悪というものを人間自身による「契約」と考えること。法律とか約束事。 後は個人の欲求にとり都合がいいか悪いかという話がある。 法律や約束を守るかどうかも、対等な自己の欲求として選択していくという思考方法を採用しています。 これはもちろん社会道徳を無視するということではありません。それに従うかどうかも、自分の欲求として考えるという思考法です。
これは、自己の欲求を自己の行動原理として考える思考法です。 この世界において、自己の主体性によって生きるという生き方を志向する思考方法だと言えます。
そして自らの主体性で行きようという意志の芽生えが、情緒的な面での善悪解体につながります。 自己の主体性によって生きようとした時、善悪という、傍観者的な視線の先にあったものが、人間の強さと弱さという別の問題として見えてくる。
最後に、不完全性の受容というものが、善悪破棄の決定的な理由になります。 これは論理的なものでもあり、情緒的なものでもある。 人間も、この現実世界も、不完全なものである。確かに、ものごとの良し悪し、より望ましいものと望ましくないものの優劣という尺度はある。しかしそのモノサシにおいて、受け入れられるものと受け入れられないもの、これは許せないという、「受容と拒絶」を分ける基準についての人間の判断能力も不完全である。 拒絶すべき絶対的なものなどない。全ては許されている、という世界を採用したわけです。
そして、そもそもなぜこのような思考変換をするのか。 その根本は、自己を受容したいという動機からなんですね。 これだけは許せない、という善悪観を持つ人間は、必ず同じ怒りを自分に向けます。
もちろん人は、その観念によって、自分はそうはなるまい、自分は正しくあろうという意識を持ち増す。 それによって、自分自身がその怒りの対象になろうとするのを避けようとする。 しかし、実際のところ人に怒りを向ける人が、同じ怒りを自分に向けるのを免れている例を、僕はほとんど知りません。 これはちょっと不思議な感覚がするほどです。正しくあろうとする意識により、それが成功すれば、人に怒りを向け自分には怒りを向けないことは理論的にはあり得ても、実際のところそうした様子の人を、見たことがない。
もちろん、表面的には、他人に厳しく自分に甘い人はいます。 しかし意識はしないストレスが、生活の中で、そして人生を通して彼彼女を圧迫している様子が、大抵感じられる。 なぜそうなのか。自己操縦心性のメカニズムなどが絡むと、これはもう必然的な仕組みとなりますが、それは抜きにしても、人を怒る者は自分をも怒るというのが、実に自然なことに感じられます。
それは結局、人間が不完全な存在だということが、我々人間に分かっているから、そう感じるのだと思います。
ということで、善悪破棄の根本には、自己受容という目的があることを指摘しました。 自分を許すためには、他人も許せる必要がある。 ただし「自分を許すために他人を許す」という思考では付け焼刃です。自他を問わず、全てを許す、確固とした世界観である必要があります。
ここまでは、主に「悪と思うもの」を無くすという方向性の話だったと思います。 さらに、「善と思うもの」についての思考の変換もありました。これは「イメージから現実へ」という選択に絡む話です。これによって、善悪の放棄がより確固としたものになります。 |
No.473 2005/02/28(Mon) 13:28
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