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過去ログ
2005.2


善悪の解体・補説-14 / しまの

あと少し話の続きがありますので、早いとこ書きませう。
別れを告げた世界」という話と、「性善説」の話が残ってます。

その話につなげていきましょう。
まず全体のおさらいのような話から。

■自己受容のために

2/13のその13までで、善悪の解体放棄を進めた要因について説明しました。
ひとことで言えば、それは論理的なものと情緒的なものがある。

論理的なこととは、宗教的な思考を採用せず、科学的思考に徹し、善悪というものを人間自身による「契約」と考えること。法律とか約束事。
後は個人の欲求にとり都合がいいか悪いかという話がある。
法律や約束を守るかどうかも、対等な自己の欲求として選択していくという思考方法を採用しています。
これはもちろん社会道徳を無視するということではありません。それに従うかどうかも、自分の欲求として考えるという思考法です。

これは、自己の欲求を自己の行動原理として考える思考法です。
この世界において、自己の主体性によって生きるという生き方を志向する思考方法だと言えます。

そして自らの主体性で行きようという意志の芽生えが、情緒的な面での善悪解体につながります。
自己の主体性によって生きようとした時、善悪という、傍観者的な視線の先にあったものが、人間の強さと弱さという別の問題として見えてくる。

最後に、不完全性の受容というものが、善悪破棄の決定的な理由になります。
これは論理的なものでもあり、情緒的なものでもある。
人間も、この現実世界も、不完全なものである。確かに、ものごとの良し悪し、より望ましいものと望ましくないものの優劣という尺度はある。しかしそのモノサシにおいて、受け入れられるものと受け入れられないもの、これは許せないという、「受容と拒絶」を分ける基準についての人間の判断能力も不完全である。
拒絶すべき絶対的なものなどない。全ては許されている、という世界を採用したわけです。

そして、そもそもなぜこのような思考変換をするのか。
その根本は、自己を受容したいという動機からなんですね。
これだけは許せない、という善悪観を持つ人間は、必ず同じ怒りを自分に向けます。


もちろん人は、その観念によって、自分はそうはなるまい、自分は正しくあろうという意識を持ち増す。
それによって、自分自身がその怒りの対象になろうとするのを避けようとする。
しかし、実際のところ人に怒りを向ける人が、同じ怒りを自分に向けるのを免れている例を、僕はほとんど知りません。
これはちょっと不思議な感覚がするほどです。正しくあろうとする意識により、それが成功すれば、人に怒りを向け自分には怒りを向けないことは理論的にはあり得ても、実際のところそうした様子の人を、見たことがない。


もちろん、表面的には、他人に厳しく自分に甘い人はいます。
しかし意識はしないストレスが、生活の中で、そして人生を通して彼彼女を圧迫している様子が、大抵感じられる。
なぜそうなのか。自己操縦心性のメカニズムなどが絡むと、これはもう必然的な仕組みとなりますが、それは抜きにしても、人を怒る者は自分をも怒るというのが、実に自然なことに感じられます。

それは結局、人間が不完全な存在だということが、我々人間に分かっているから、そう感じるのだと思います。

ということで、善悪破棄の根本には、自己受容という目的があることを指摘しました。
自分を許すためには、他人も許せる必要がある。
ただし「自分を許すために他人を許す」という思考では付け焼刃です。自他を問わず、全てを許す、確固とした世界観である必要があります。

ここまでは、主に「悪と思うもの」を無くすという方向性の話だったと思います。
さらに、「善と思うもの」についての思考の変換もありました。これは「イメージから現実へ」という選択に絡む話です。これによって、善悪の放棄がより確固としたものになります。

No.473 2005/02/28(Mon) 13:28

小説ダイジェスト予告 / しまの

これは予告宣伝というより僕自身の原稿コンテみたいな感じ。
次の「蘇った自己」ですが、原稿の方はカタツムリのような遅々としたスピードで進んでおり、Upできるのは3月中旬以降だろうなーという感じ。

前編から1か月近く書き出しがどうもまとまりがなく、ストーリー展開というか感情の流れをどう構成するかを練るのに時間がかかった感じ。
それがようやく固まってきた。

2/10カキコの「Making The 小説」で書いたけど、続編を書き始めようとオリジナルをざっと読んだ時、「あれっ?」と感じるほど淡々と読んでしまった。
初恋の時代の自分が蘇るんですけど、それを、初恋の少女への純粋な思いの蘇りがテーマであったかという感覚で読んだわけです。
そうじゃない。むしろ、幼少時代に抱いた離反感情も蘇ることがキモなのですね。

クライマックスはそこから高潮へと向かい、苦悶の中で、つながりのなかった自己がつながって行く
そう考えると、それは「解かれたパズル」の最後に出された「心の自由と愛」という問題に対する、答えが出された瞬間でもあったわけです。どちらもが真であった。そして主人公から出される言葉..「僕は精神だけの存在だ」。うーん我ながら何と劇的な詩情の言葉を書いていたものよ。

やがてラストの場面、追憶を振り切り、現実の時の流れに合流しようとする主人公の中に湧き上がる映像。。これがチョー涙もの、それはもはや追憶の映像ではなく、主人公が追い求めたものの象徴のイメージ。
自分自身で何度でも、何十回でも何百回でもこの流れを追うと涙が出る感じです。いつかオリジナル出せたら、自分の小説で日本中を癒しの涙の海に浸しちゃるなどど考えた(^^;)ことのある次第の場面。

今朝はそれで電車の中涙こらえて鼻ぐじゅぐじゅという感じで通勤。
こうなれば一応ストーリー完成ですな(^^)v

そうして純粋な自己による歩みへと踏み出し、今までの人生を支配していた圧制者から自由になろうとする主人公に対して、いよいよ、今まで目を閉じていた追撃者が、心の闇の中から鋭い眼光を開け動き始める。
無力な主人公は、この追撃者に成す手なく打ち破れ、人生の危機が訪れる。それを救ったのは他ならぬ..
という感じでその次の章へと進んでいくのデシタ。

No.472 2005/02/25(Fri) 09:44

嫉妬感情の克服-2(End) / しまの

その1に書いた通り、嫉妬感情は「望み」という人間の根本が絡むだけに、根強い。
それを頭越しに否定しようとするのではなく、自分の心の成長への取り組み全体の話になってくる。

その全体は「実践ガイド」に整理している通りです。
心の選択を知り、自己の感情を知り、望みへ向かって可能性を尽くして生きること。

で匿名さんの質問から感じられるニュアンスを考えた時、「自分が本当に求めたものへと還る」という部分が重要になると思います。これはダイジェストでも使っている言葉ですね。
還る前の世界がある。それは嫉妬感情に苦しむか、嫉妬などないものと断じる姿勢の中で、サディズムという情動の変形の中を生きる世界です。
「すごく醜い感情だと分かっている」という言葉に、その一端がうかがえます。

■来歴の受容

ここでは、そこから抜け出るために特に重要となるポイントを考えたいと思います。
多少抜け出た後は、ハイブリッドの取り組み全体の道となります。

まず思い浮かぶことは、「来歴の受容」という話です。
逆に言えば、嫉妬に苦しむ人間は、自己の来歴を否定している。

なぜ自分が嫉妬に苦しむようになったのか、そこには、そうならざるを得ない来歴というものがあったはずです。
自分は何を求め、何を奪われたのか。その結果、今の自分の感情を抱くようになったのは、自分の「誤り」だったのか。
同じ来歴を持ちながら、恵まれた愛情の下で育ったかのように、そうした感情など何もない「きれいな心」に、最初から最後までいた人間などいるのか。

ですから、それを決して「醜い感情」などと自らを否定する必要はないということです。
少なくとも僕はそうした人間の心を醜いものとは思わない。

自分のこの嫉妬心なんて醜いと考えることは、そうなるに至った自分の来歴を否定し、その来歴がなかった完璧な人間像を、自分に押し付けることなのですね。
人間は、そしてこの世界は、不完全なものです。その不完全さを受け入れた時初めて、進むことのできる方向が見えると思います。

■見せつけ衝動への取り組み

まずは自己の来歴と、現在の自己を受け入れ、自分の味方になってあげて下さい。
しばらくは心の自分の内面にしまい、感情を不安定にする状況から離れ、心を休めるのもいいでしょう。
そして、前に歩む力が回復してきたら、自分の心への取り組みが待っています。

そこで特に課題になるのが、「見せつけ衝動」だと思います。
人に自分の幸福を見せつけることでの勝利感を求める衝動ですね。

2つのことを強く意識してもらうと良いと思います。
これが自動的に起きるものとしてあること。
同じものが他人の中にあると感じる「外化」が起きていること。

人の幸福を見たとき、それが「願い」のフラストレーションと同時に、自分が幸福を見せつけられている、という被虐感情が刺激され、憎悪敵意を起こすというメカニズムがあります。

■対処

まずは、感情と行動の分離の原則です。
感情は一切問わず、非建設的な感情は、ただ行動化しない。
まずこの実践ですね。

何とか外面に出てしまうのをこらえられるようになったら、自分の人生観価値観をじっくりと問い直すのがいいと思いますね。
幸福とは何なのか。自信とは何から生まれるのか。
どこに書いてあるかというと、あちこちで(^^;)、そのうち実践ガイドの項目に合わせて整理したいんだけど。。
そこから、「自己の重心」を置いた幸福への道のりというものを学んでいくことになると思います。

とりあえず嫉妬感情に着目した特別な話は、こんなとこかなー。
詳しい説明はっしょてるところも多々あるので、良く分からないことあれば何でもどうぞ。

「望み」への姿勢の問題は、全てに絡む重要な話で、もうじき「望みの停止問題」シリーズを書けると思います。
応援してますので、頑張って下さいねー。

No.470 2005/02/24(Thu) 17:06

 
Re: 嫉妬感情の克服-2(End) / 匿名希望

暖かい励ましのお言葉、ありがとうございます。心に沁みます。
自分のケースを振り返りながら、-1、-2共にじっくり吟味して読まさせていただきました。結局、私は「ねばならぬ」の呪縛にとり付かれていて、自分の望みの実現に向けて進んでいながら不安なんだと気がつきました。いつか私も、しまのさんのように清々しい朝を迎えたいものです。これからも、どうぞよろしくお願いします。

No.471 2005/02/24(Thu) 21:10

嫉妬感情の克服-1 / しまの

暫くぶりのるんるん気分回復の朝\(^o^)/。えへへ。
春一番が吹き、早くも冬があける気配。。もう春スキーかー。いかんそれでは行き足りない!
どうなることやら。とにかく今週末はまたスキーはお休みの予定。


さて、苦々しい嫉妬の感情がどう克服できるものかというテーマについて一考したいと思います。

ハイブリッド心理学の取り組みとは、心の選択を探し、自己の感情を深く理解し、その上で自己の望みへと向かって可能性を尽くして生きる体験を重ねることです。
それによる心の成長が、問題の解決であるということです。

で実際に我々が体験する悪感情について、それぞれ、2/15カキコ「魂」へのタロさん質問への返答(2/21)で書いたように、感じ取ることの先がある。
悪感情それぞれについての心理学があります。ひとからげではない。心理学の深さと広さが問われることになります。

その話を始めるにあたり、「その感情は選択の対象になるのか」という観点から始めましょう。

その感情を自分のものとして、これからも支持あと押しするか。それとも放棄の方向を向き、感情を感じ流すだけにするか。
思考の変換によって、選択の対照になる感情というものがあります。
怒り憎悪楽しみなどはこの部類です。怒りを使わない対処法の中で生きる。ものごとの良い面に注目する。これは思考の選択の対象になります。

選択の対象にはならない感情というものがあります。つまりそれは、その人間の心が置かれた状態を、しばしば本人の意識的抵抗を排して表すものです。
これも上に言及したカキコで触れている話ですね。
基本障害感情である、抑うつ感空虚感漠然とした悲しみは、この部類です。
これは「選択の対象」ではありません。
もう自分は良くなった。そう思っていてもふと現れるそれは、その人間が本当にはまだ何かを求めていることを示すものです。

では嫉妬がどの部類に属するかと考えると、どうも微妙に思えます。単純な話ではない。
それは嫉妬がもともと、単一の原感情というより、幾つかの感情の合成による、ひとつの感情という部類であるためですね。

おしなべて言えば、概してそれは、選択の対象ではない、という気が体験的にもします。
つまり思考法によって、それを克服することはできない。

むしろ安直な思考法によって嫉妬の感情を切り捨てた時、人の心にサディズムという情動の歪みが起きます。
自分が価値を感じたものを、自ら価値のないものと断じる冷笑的傾向と、自らによって望みを停止した結果湧き出る、良いものを持つ人間達への敵対的破壊衝動が生まれます。
自らの望みに向かうのではなく、人の望みを挫くことによる勝利感が、その人間の人生への原動力となってしまうのですね。

現代日本で良く言われる「勝ち組負け組み」という感覚は、自分の望みを見失い、他人の嫉妬を刺激する勝利感を、多くの人達が人生の原動力にしていることの表れだと思います。

僕自身の体験を紹介しますと、嫉妬感情の克服は、とても後期です。つまりかなり根強く残る。
ダイジェストでも、嫉妬の抑圧が解けた時の絶望感など描写していますね。
嫉妬感情への取り組みは、その感情にどう対処するかよりも、その感情の深い抑圧傾向がまず取り組み対象になる

僕自身は、ごく最近になって、ほとんどの嫉妬感情を抜け出られたように感じています。軽い、じわっとした羨望感とかはまだあるかも。
参考まで、「自己嫌悪感情」はもっとずっと前に、もう体験しなくなっています。「苦しみが思い出せない」という話を以前カキコしましたが、自己嫌悪感情も思い出せなくなりつつある。
そんな段階になってさえ、嫉妬感情の膿が埋もれてたりしたように思います。

なぜ嫉妬が根強いか。
それが「望み」を含むからなんですね。
「望み」こそが、人間を人間たらしめるものだと考えています。
簡単に消えるものではないし、消そうとしてはいけないものです。

従って、「嫉妬感情への対処」という個別の話があるというより、取り組み全体にまたがる話、とくに「望みへの姿勢」についての話が重要になってくると思います。

そんな前説として、取り組みへの考慮点をまとめましょう。

No.468 2005/02/23(Wed) 13:03

 
Re: 嫉妬感情の克服-1 / 匿名希望

お忙しい中、一つのテーマとして取り上げてくださり、感謝しています。嫉妬感情の克服-1でのご説明で、ベースの部分が分かりました。こんがらかっていた紐が少しほどけてきた感じ、とでも申しましょうか。「-2」を心待ちにしております。

No.469 2005/02/23(Wed) 17:36

久々にホッ^。^; / しまの 引用

これは個人的メモがてら。

3日間の缶詰研修のあと即スキーの土日。1日置いて、ようやく一段落。
久々に自分の時間を取り戻した感じでホッと^。^;

日曜帰宅してからも気が抜けなかったのは、今月上旬の追突被害事故が思わぬ展開になってたんですねー。
同乗者に同じスキークラブ員の女性2人がおり、その時「私はそれほど衝撃は感じませんでした」と言っていた、一番問題ないと思っていた人間が、後から首まわりの症状を訴え始め、示談or人身事故扱いなど、どう処理したものかということで、結構話がこじれそうな情勢に。

詳しい話は省略しますが、今後人身事故扱いにするためには、その女性本人が直接相手方保険会社とやり取りする必要があるという段取りを伝え、僕の方でまとめた示談で終わりにするか、それを一旦ご破算にしてその女性自身で処理してもらうか、本人に判断を任せることにして、ホッと一段落したところなんですね。
今回知ったのですが、人身事故の保険では、本人の同意書を作った上で、保険会社が病院に接触して調査を行い診断書を作成。治療費の支払いも本人の銀行口座に対してなど、手続きは本人が主体になる。
つまり被害車の運転者がどうこうする話ではなくなってくるんですね。

でこの件、僕にとって結構気疲れする話だったのですが、なぜそうなったのかと分析。

ひとつは、事故当時の状況から、警察には届けず何かあっても示談で済ませそうだと踏んでその後の行動を始めたため、同乗者のことも含めて“何とか僕がうまく収める”という焦りがあった。
これに関連して、僕の中で、こんな機会もなけりゃ永眠状態のままかも知れない感情の膿に抵触したところもあったようです。これはひとつの感情分析体験となった。

それは情緒面の問題であり、一方で、重大な判断ミスがあったのですね。
人身事故被害の諸手続きを、被害車の運転者がフォローするという考えです。個別の被害者本人が対応をするというのが原則のようです。これは僕の知識不足でもあった。
この点を踏まえ、最初から、症状が出て保険処理する場合は各自で行ってもらいます、という認識をはっきり持っていれば、あまり気苦労をすることもなかったかと。

また一個、自分にとって未開拓だった問題を扱ったということで、ひとつの収穫であったと考えたいと思っています。
まあ今後も可能性が実にある話であり、いい「人生の授業」だったかと。
ハイブリッドの取り組みでもあるという面について言うなら、情緒面の問題だけではなく、人生上の物事への対処法の正しい知識の獲得が重要だということですね。

No.467 2005/02/22(Tue) 10:55

嫉妬の感情への対処の仕方 / 匿名希望

しまのさん、スキーをバッチリ楽しんでいらっしゃることと思います。でも、くれぐれもお怪我をなさらないように。
しまのさんの提唱されるハイブリッド療法では、「感情を否定することなく、人生を生きる」ということが骨子にあるかと思いますが、今、私は嫉妬の感情に苦しんでいます。すごく醜い感情だと分かっているし、表に出さないようにしようとしても、だめなんです。しまのさんにはこのような経験はありますか?また、できればアドバイスをいただければうれしく思います。

No.463 2005/02/19(Sat) 06:42

 
Re: 嫉妬の感情への対処の仕方 / ペーター

匿名希望さんに便乗して僕も聞きたいですね、これ。

以前「人間は嫉妬という感情を決して克服できない」
みたいなことをどこかで読んだ記憶があるんですが、
確かに裏から見れば「人から羨ましがられること」を
行動原理にしている面も人間には多々あるような気がします。

「嫉妬」は「他者に勝利したい欲求」(敗北することの恐怖)と
きわめて親和性の高い感情だと思いますが、もしそれらを克服できたら
人生にはまったく新しい地平が開けるような気がしてなりません。

No.465 2005/02/21(Mon) 14:11

 
Re: 嫉妬の感情への対処の仕方 / しまの

こんにちはー。
じっくり考えると結構いろんな説明になると思いますので、
これもシリーズもので解説しませう。
「嫉妬感情の克服」にて。

No.466 2005/02/22(Tue) 09:23

「魂」 / しまの

これは心の構造、つまり人格構造の考え方として最近になって使っています。
サイトでの人格構造説明は
http://tspsycho.k-server.org/theory/02/02-032.html
に記載していますが、そこでは、「自己成長力(真の自己)を感情の膿と自己操縦心性が圧迫する」という構図にしています。

ホーナイも、彼女の場合はこうした絵は書いていないですが、同様に「真の自己」と「自尊心システム」の対立という構図で、人格構造を捉えています。

この構図を修正しようと考えたのは、自己分析をされる方が、「真の自己を見つけよう」とする誤りを避けさせたいためです。
自分の感情にじっと見入って、どれが操縦心性で、どれが真の自己かを見分けようとする誤り。
気持ちは分かります(^^;)。自分の中で、信頼の置ける感情を見つけ出したいという一心。

でもそれは、どう「分析」しても、見つからないんですね。
なぜなら、感情が出る大元は、見えないからです。そこから感情が出た後だけしか、我々は知ることができません。
そして我々は、そうして現れた感情に惑わされることなく、見ることのできない、感情が生み出される大元を優しく育てるという技術が必要になるんですね。

その、感情が生まれる大元のことを、今のところ「魂」という言葉で言っています。
この言葉は、非科学的だからこそ、それを表すのに適した面があります。なぜなら、科学は「知」から成り立っており、感情が生まれる大本は、知る対象ではないからです。生きる対象です。

科学も、大元は、科学を生み出したものから成り立ちます。それ自体は科学が説明するものではありません。
具体的に言うと、「意識と物質」という2元世界を生み出したものです。
しかし、「知」の世界は、必ずどかかで、その「へり」で、その大元に接触します。
自然科学では、それが「量子」の世界です。「不確定」「観察行為」という非科学的な言葉がそこに現れます。
この心理学では、「魂」というのが、「知」のへりの向こうにあるものを指す言葉として、今のところ使われます。

例によって抽象的な科学哲学の話になっちまいましたが、ハイブリッド実践の話に戻しましょう。
新しい心理構造理論では、以下の構図にします。


感情が湧き出る源泉が、「魂」である。
この言葉があまりに違和感あるなら、「自己源泉」みたいな言葉でもいいと思いますが、これもちょっと今いち。
これは人間の成長とおなじく、成長するものである。魂がまだ弱ければ、不安定で頼りない感情が多く湧き出る。魂が成長すると、安定し力強い感情がより多く湧き出るようになる。
結局のところ成長途上の我々の感情は、頼りないものなのです。それを受け入れ、感情に揺らぎなく前を向ける姿勢を学ぶことが大切になってきます。だから善悪の破棄が重要。

「真の自己」「自己操縦心性」は、魂から湧き出てこようとする感情をいかに使うかという態度の集合です。感情の通り道。
見えない感情の源泉を受け、表に見える感情へと送り出す。
結果として、これが「人格」として捉えられるものになります。操縦心性は、「別の人格体 Another Personality」です。

真の自己は、魂が湧き出させる感情を、無垢なまま表出させます。
操縦心性は、魂が湧き出させる感情を、独自のメカニズムで変形さすます。本来とは別の意図性を持たせるのです。

取り組み姿勢の心得として言えば、自分の感情にじっと見入って、信頼と自信の置ける感情はどれかと探しても、それは見つからないのです。まだ魂が弱いからです。
操縦心性によって歪められた感情を見分けることはできます。それに抗戦することができます。
これではまだご期待のものには足りないでしょう。
しかしこの成長未了の自分を受け入れ、人生を生きる過程が、魂を成長させるのです。そして成長に従って、安定した感情がより多く湧き出るようになります。

それは「真の自己を探す」取り組みではありません。
「真の自己で生きている」ようには見えない自分を受け入れ、人生を生きる過程です。

No.454 2005/02/15(Tue) 09:54

 
Re: 「魂」 / タロ

真の自己が成長部分で仮の人格は構造的にも成長しないとサイト内に図などで示してあったと思いますが、自己操縦性に覆われている部分もすくめて成長未了な自分を否定せず受け入れる事で、真の感情が湧き出ている魂を成長させる事が出来るという事なのでしょうか。とてもパラドックスですよね。
これは島野さんの今までの体験からそうだと思いますが、どうしてそうなのか
に関して何か解明が出来ているものなのでしょうか。
感覚的にはもちろんそうだとは思うのですが、何か理由とかがわかれば、より
理解しやすいと思いまして・・・。
魂から直接湧き出た感情を知る事はできなく、我々が知る事(感じる事ができる感情)
はいろいろ合成された結果の感情しか知る事ができないとの事ですが、
だから自己嫌悪などの感情は信用してはいけないのですね。
あとサイト内に、何か空しいとかいう意味のわからない気持ちを感じるという事は
探すべき自己が存在しているという記載があったと思いますが、
(すみません、サイト内の場所を探したのですが探せなくて・・)
その通りだと思いますが、その空しいという感情も真の自己から湧き出た感情を合成
したものなのですよね?
健康な心=魂から湧き出た感情をより直接感じ取れる状態という事なのでしょうか。
そして魂は成長する。
魂から自分が感じ取れるまでの経路間に障害がより少ない状態になるという事なのでしょうか。

よろしくお願いします。

No.459 2005/02/17(Thu) 16:05

 
Re: 「魂」 / タロ

追加です。
なすさめとかではなく、
自己操縦を含めた自分を肯定受け入れる事により、見えない大元の魂を成長させる
事が実際に出来るものなのでしょうか?

No.460 2005/02/17(Thu) 16:09

 
Re: 「魂」 / しまの

時間の関係で超簡潔に結論だけ。
明日会社から直接スキーに行くので、何か補足できそうなことがあれば日曜以降カキコしまっす。

>自己操縦性に覆われている部分も含めて成長未了な自分を否定せず受け入れる事で、真の感情が湧き出ている魂を成長させる事が出来るという事なのでしょうか。

まず、この図式説明は、心の構造を外から見たものを説明したものであって、本人から見てどう感じ取ればいいのかとは別のことです。

魂・真の自己・操縦心性は感情の出所と通り道の話であって、見分ける感情の話ではありません。
そのため「操縦心性に覆われてる部分も受け入れる」という表現はできないですね。「自分の全てを受け入れる」とかの表現はできる。
「真の感情が湧き出ている魂」もなしです。魂から湧き出る時点では、真と偽物という区別はありません。
自分を受け入れただけでは、成長は起きません。自己の幸福と望みに向かって可能性を開き生きる体験の中で成長します

>あとサイト内に、何か空しいとかいう意味のわからない気持ちを感じるという事は探すべき自己が存在しているという記載があったと思いますが、(すみません、サイト内の場所を探したのですが探せなくて・・)
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-025.html#sk
だすね。

>その空しいという感情も真の自己から湧き出た感情を合成したものなのですよね?

今の図式ではこうなります。
空しさは、操縦心性によって変形された感情ではなく、魂の声を真の自己が直接感じ取っている感情である。
従って、空虚感が自己欺瞞であることはありません。空虚感は常に「正しい」と言えます。

>健康な心=魂から湧き出た感情をより直接感じ取れる状態という事なのでしょうか。そして魂は成長する。

Yes。

>魂から自分が感じ取れるまでの経路間に障害がより少ない状態になるという事なのでしょうか。

障害というより、不整合とか分裂という方が合ってますね。
操縦心性は基本的に分裂と不整合を起こします。
また「感情の膿」の少なさが健康度に直結します。

>自己操縦を含めた自分を肯定受け入れる事により、見えない大元の魂を成長させる事が実際に出来るものなのでしょうか?

上記通り、受け入れた上で生きる体験の中で、成長します。
生きる体験なしに、受け入れただけでじっと見つめていても、成長はしないですね。
望みを探しましょー。望みに向かって、行動しましょー。それを妨げているものを、見出し、取り組みましょー。

No.461 2005/02/17(Thu) 23:35

 
Re: 「魂」 / タロ

ありがとうございます!
>空しさは、操縦心性によって変形された感情ではなく、魂の声を真の自己が直接感じ取っている感情である。
感情によりぞれぞれ意味があるのですね・・。
サイト内に感じ取ればいい感情として
自己嫌悪感情・不安・不信感情・・・などその他もろもろありますが、
それぞれに意味があるのでしょうか。
そしてその感情に対してどのように考えて分析すればいいのでしょうか。
漠然とした質問ですみません。
でも、自分の望みを知ってから、そういった感情に取り組むということですよね。

No.462 2005/02/18(Fri) 22:05

 
Re: 「魂」 / しまの

こんばんは。島野@スキー帰りです。

>サイト内に感じ取ればいい感情として
>自己嫌悪感情・不安・不信感情・・・などその他もろもろありますが、
>それぞれに意味があるのでしょうか。


もちろんです。
「感じ取ればいい」というのは、「感じ取れば良くなれます」という話ではなく、
自分が実際に持っている感情を感じないことは、その内容に関わらず、あまり望ましいことではない、ということを指しますね。
存在する感情を抑圧するために、エネルギーが使われるので。
そのエネルギーは、本来、もっと生き生きした感情に向けられることが望ましい。

ただし、持っている感情を感じ取ったところで、その感情に対してどのように対処するのがいいのか、それぞれあります。
そのための心理学が必要です。
今までそれがなかったので、結局どうすればいいのか分からない。抑圧するしかない。元に戻るしかない。そんな感じになってしまうと思います。

「感じ取る」ことの先が、ひとつひとつの感情に対して、あります。
サイトの説明はあちこち断片的なので、「この感情を感じたら、どうしたら」というのは探すの難しいのがサイトの現状かと。
具体的にあれば何でも質問して下さい。

No.464 2005/02/21(Mon) 00:27

私は精神分析療法に3年と2ヶ月通った経験があります / うさこ

はじめまして、うさこと申します。私は精神分析療法に通って悲惨な結果になった元患者です。最近しまのさんのホームページにたどり着いて善悪の解体など哲学的な考え方に触れ心が癒されつつあります。ついこの前までは「私の人生もう終わり」と思っていました。でも今は自分の運命に負けたくないと思っています。
私の今の人生の基準は、この心理研究室から学んだ「自衛」と「建設」です。

No.456 2005/02/15(Tue) 13:20

 
Re: 私は精神分析療法に3年と2ヶ月通った経験があります / しまの

メールどうもですー。
精神分析療法でひどい目にあった話は他でも聞いています。

人への精神分析指導(「療法」と言えるようなものは今の時代まず不可能だと思います)ができるためには、指導者自身の自己分析による治癒体験、そしてしっかりした治癒理論の裏づけ、そして人間愛が必要だと思いますね。

どう考えてもそれに遠く及ばない「分析家」しかいないのが現状ではないかと。。
まあ分析学会など入ってもおらずその惨状(^^;)の実態は僕には想像でしかありませんが。
変な医者にかからんよう、まずは「自衛」が大切ですね^^。

終わりになる人生など、ありませーん!
そうゆう感情を生み出す、心のメカニズムがあるということです。

病んだ感情を克服したいのですから、まずは感情を鵜呑みにしないことからですね。
応援してます!

No.457 2005/02/15(Tue) 16:08

 
Re: 私は精神分析療法に3年と2ヶ月通った経験があります / うさこ

私が今度投稿するときはもっと元気になってると思います。
しまのさん、返信ありがとうございました。
がんばります!

No.458 2005/02/15(Tue) 17:45

「ただの人」と「唯一無二の存在」 / しまの

質問の最後の言葉。
この2つの言葉は、世界観に強く密接しますね。

ハイブリッドの世界観の中において、この2つの言葉は、同じことを指します。
全ての「ただの人間」は唯一無二の存在である。

ハイブリッド心理学の世界観とは、「宇宙に意図はない」です。自然科学的な法則と、あとは偶然が支配します。

宇宙全体にも意図があるかも知れない。「神」がそれをつかさどっているかも知れない。
そうした思念を、ハイブリッドは否定しません。しかしそれは人間がいかなる形においても知覚できないものであると考えています。
神という存在があり、その「意志」によって、ある結果が起きたとする。しかし、そうであることを、人間は知覚できない。
「我々は神に支配されている」 vs 「我々は全てにおいて自由である」
「神」を人間が知覚できないとすれば、この2つの命題は等価です。どっちが正しいかを問うことはナンセンスです。

ハイブリッド心理学では、宇宙に意図はなく、人生に法則はない、という世界観人生観を採用しています。
これは選択です。これが正しいという言い方はしません。
同時に生み出された何10万という命が、地球上のどこに宿るかは、偶然が決める、と考えています。
そして現実世界は多種多様な世界です。
産み落とされた場所が、幸福にとりどれだけ有利かについて、平等性はないと考えています。
しかし、与えられた有利性は、必ずしも幸福を生まない。むしろ、そこからいかに可能性を尽くして前に進むかというところに、幸福があるらしい、という人間観をしています。


この世界観人間観においては、全ての人間が、唯一無二の存在です。

「ただの人間」は、「自分の人生をまっとうする、ただの人間」という風に使っています。
逆に言うならば、そうでない人間とは、別人の人生を生きようとする人間です。
この人間は、どんなに非凡で、優秀であろうと、幸福にはなれない。なぜなら自分に嘘をついているストレスが、その人間を苦しめ続けるからです。

「自分が凡庸になってしまう」という感覚は、操縦心性が生み出すものの一種ですね。
特別な自分という理想化された自己像と対照的に、存在性の薄い唾棄された自己像が生まれます。この対照性は、その内容と強さにおいて、奇妙なほど釣り合っていることが、自己分析により分かると思います。

操縦心性を克服したあとに感じられる「唯一無二」感覚は、その2極のどっちとも違う、未知の感覚になると思います。
頭でどう考えるかは色々あるとして、感覚的に、違う感覚になったのが僕の経験です。

No.455 2005/02/15(Tue) 11:34

「プラス思考」と「未知への選択」 / しまの

この2つは全く別のことです。

「プラス思考」は、ものごとが持つ多面の中から、プラス面に注目する思考方法です。
これは我々の日々の感情をより肯定的で活力のある、幸福に近づくものにするための、「技術」だといえます。
技術であるとは、やり方を覚えて、習熟することで、効果も確実に向上することができるということです。

例えば僕の先日の追突被害を例に取ると、僕はこの体験から保険の仕組みとか、もっと深刻な事故に際して自分がどう行動すべきかとか、結構勉強することができました。
怪我もなく、相手も誠実な、適度な(?)深刻さでそれが学べたことは、実に良いことでもあったのです。
今回僕が特に考えたことはその程度です。事故被害に会った不運ということは、考えません。なぜなら、最初からそのリスクを承知で行動しているからです。

ものごとは多面的であり、良い面と悪い面を必ず持ちます。
どうせ見るなら良い面を見た方が得というもの。

「未知への選択」は、個々の思考法に先立つ、根本的な生きる姿勢としての「選択」です。
つまりそれは、今の感情によって自分や人生を決め付けないことです。未知の自分があり、未知の人生があり得ることを、否定しないことです。
プラス感情を期待することでもありません。感情分析において、抑圧された悪感情を解放することも含んで、そう言っています。それも含めた、人格治癒の姿を理解することでもあります。

「思考は現実化する!」という自己啓蒙について。
これについては一言。そうできたらホント楽でいいねぇ。。^^;

No.453 2005/02/14(Mon) 16:24

「直感」と「ひらめき」 / しまの

息抜きついでに、次いってみよー!こっちに乗ってきた..?^^;

「直感」と「ひらめき」。これ大いにありますね。

これは我々がものを考え理解する過程での、「きっかけ」となる心の動きですね。
ただしそれで考えた内容の正しさには無関係です。その直感が正しいこともあれば、とんでもない見当違いのこともある。
物事の理解は、やはりあくまで、直感を受けての思考そのものに依存します。

ただし面白いのは、精神分析においてちょっと違う様相になることがある。
決定的な洞察体験というのは、強烈な「ひらめき感」を伴います。それが抑圧された強烈な自己嫌悪感情のパズルが解かれたもののような類である場合、それは卒倒してしまうかのようなものになることがあります。ホーナイの「自己分析」のクララの症例もそんな場面があった。ダイジェストの「解かれたパズル」もそんな場面を描写したものです。

そこで面白いのは、洞察体験としての重要性と、その直感した時の思考内容の正しさは、必ずしも一致しないことです。
もう少し正確な表現をするなら、問題がそもそも言語では表現できない深い心理現象、場合によっては意識表現さえない深層を扱っているので、そこで何かが衝突したり変化したりする洞察体験とは、もともと言語思考的な体験ではないのです。
もっと漠然とした、かつ強烈な体験。

従って、その時何を感じたのかの、本人による報告は、よほど心理知識に詳しくない限り、あまり正確なものではなくなります。
実践上は、それでいいのです。

さらに感情分析の進行一般について言えば、操縦心性の破綻のような分析体験は、頭で理解して起きるのではなく、理解できないまま起き、過ぎ去って行きます
これが自己分析に熱心な方の陥りやすい穴でもあります。自分をとことん理解して、答えが出ることを期待するような。
自己理解ばかり追うと、逆に分析体験が停滞します。知ることより、生きることが大切なんです。


理解できないまま、分析治癒体験は起きます。本人は何かの破綻が起きたようにだけ感じます。
何が起きたかを正確に知るのは、全てが終わったあとの、「研究」という話になってきます。これは取り組み上特に必要なものではなく、本人がその体験をどう今後役立てたいかの趣味嗜好で行えばいいことです。

No.452 2005/02/14(Mon) 14:58

善悪の解体・補説-13 / しまの

■怒りのない人生の完成

今述べた新しい生き方、自己の主体性と自己の重心を選択し、善悪を破棄し、不完全性を受け入れ、「自衛」と「建設」という行動様式を徹底する。
これによって、「怒りのない人生」になれるわけではありません。そのための取り組みが、ここから始まります。

何が変わるのかというと、一切の感情がメカニズムの問題になってくることです。

心理医学という観点で、行いたいのは、感情の膿と自己操縦心性の克服解消です。これがあると、どんな善人であろうとどんな悪人であろうと、人生はストレスと不安定な感情に満ちた、現実に比して割の合わないものになってしまいます。
これが解消されると、人生で初めて体験するような、開放感と生き生きした感情に満ちた、未知の精神状態を味わうことができます。
明らかにそれは脳の構造レベルで、人の心を圧迫しているものです。

その解消は、不安が消える、自己嫌悪感情が消える、といった消極的表現での成果だけではありません。むしろ、恐れることなく人を愛せる、今まで感じることのできなかったものに、喜びや楽しみを感じることができる、という積極的表現の成果をもたらします。
そして消極的側面については、何が起きているのか、まだ論理的つながりがあります。ストレス源が消え、症状が消えた。
しかし積極的側面は、論理的つながりがありません。なぜ恐れを感じずに愛せるのか。なぜこんなに嬉しいことに満ちているのか。何の理由付けもできないのです。
だから、それが、身体の自然成長力と同じ、心の自然成長力と考えられるわけです。それは人工的に作り出すことはできません。何が生まれるのかを先に知ることもできません。
それは最後まで未知のものです。

そして、そうした克服解消のための具体的技術が、感情分析であるわけです。

感情の膿と自己操縦心性は、基本的に、善悪を放棄した新しい生き方と対照的な、「これまでの生き方」の論理に従う動き方をします。
完全性を求め、定められた姿を善とし、イメージを重ねて一致しないものを悪と容赦なく見下す。自己の重心と主体性を放棄し、正しければ世界が自分を幸せにしてくれるべきだという論理で、現実覚醒が低下した半夢状態で自動的に動く感情です。

これに対抗し得るのは、合理的科学的思考をたずさえた現実理性です。それ以外にないのかどうかは何ともいえない。僕は知らない。
自己の主体性と自己の重心を選択し、善悪を破棄し、不完全性を受け入れ、「自衛」と「建設」という行動様式を徹底する。それに徹した時、初めて、「何か別のものがある」ことが判別するのです。それに対する対処の姿勢を、ハイブリッド心理学で定義します。
これが、病んだ心を健康な心に変化させる、技術なのです。

ですから、感情分析というものを、決して、「自己分析をすると良くなる」という、良く伝えられるイメージで考えないで頂きたいと思います。
善悪の破棄が、その大前提であり、それに代わる新しい生き方で人生を生きる体験そのものにおいて、感情分析というものが意味を持つことになります。
またその新しい生き方を徹底しようとする意志によってのみ、実効果のある感情分析へと自然に導かれると言うことができるでしょう。

善悪の観念は、その取り組みの全てをぼかしてしまいます。

ひとつ具体例を出してみましょう。
僕が今のところ最後に怒りの感情を感じたのは、去年の夏頃、偽善的な親しみの態度をストレスたっぷりに押し付けてくる、現場における上司の役割の人間に対してでした。この場合、ちょっと無理して笑っている声のデカさが物理的に迷惑だったのですが(同僚一同がもう呆れてた感じ^^;)、僕が感じた苛立ちは、明らかに、自分が現実的にこうむっている被害に比べて不合理でした。
その人間が、欺瞞にまみれた世界の中に住み、それをこっちにまで押し付けてくる、こっちまでその欺瞞の世界の住人になるよう誘おうとしている。感情分析を進め、その感覚が苛立ちの原因であるのを自覚しました。

そしてなぜ苛立つ必要があるのか。それは自分が欺瞞の存在ではないことを確実にするための、つまり自己の存在をかけた怒りとして動いていることを自覚しました。
この体験も、操縦心性の核メカニズムの完成を導いた体験のひとつでした。

感情分析という取り組みとしては、それで終わるのでなく、それに対する自分の姿勢の選択を決するわけです。
その苛立ちを正当なものとして支持するのか。それとも不合理なものとして放棄するか。
「それは別に怒るべきものではない」。
欺瞞的な親しみが善か悪かといった、それまでの思考回路の中での、何の論理変換の結果でもありません。ただ、まったく別の思考回路の方を選択したということです。
本物と欺瞞は相対的なものです。どんな欺瞞の中にも、たいてい一辺の本物があります。そして本質的にそれは本物か欺瞞かといえば、どっちでもないのです。両方の側面を持つ、ひとつの本質があります。それは本物か偽者かという視線で知ることはできません。できるのは、強さと弱さを見ることはできます。
その人間は弱さゆえに、外面的には欺瞞的姿を多く見せることになった、実際のところちょっと可愛そうな人でした(その後うつ病になったとのことで現場から離脱)。そして僕はそれに影響されない自分をもう持っている。
で僕は、その感情分析の結果、苛立ちを放棄すると同時に、この感情を動かした「自分が本物である」ことを証明しようとする操縦心性のストレスも同時に捨てたわけです。

こうした積み重ねを経て、自分の中にストレスの源泉が根元から消えているのを感じます。
体験的に端的なのは、「苦しみを思い出せない」という話をいくつかの所で言っていますが(ダイジェストでも)、あとは「自己嫌悪感情」というものが感覚的には思い出せなくなりつつあるのを感じます。ちょっとした緊張とかはまだあるかも。
あとは、はっと非日常的場面に出くわした時とかの生理的感情といいうのがなくなってきましたね。冷や汗とか、心臓がキュっとする感じとか。先日実はスキー帰りに車の追突被害にあったのだけど、その場面でもその後の応対でも、特に感情はなし。
まあボクチャンこんなにヨクナッタンだジョーという話はいいですよね(アハハ)。

以上、善悪観念の破棄というものが、ハイブリッドの取り組みにおいて実に重大なことであることを解説しました。
あとは、それと同時に切り捨てた、ある種の繊細というのがありそうだという話、それに性善説の話を続けようと思います。明日以降になるかも。


P.S
善悪解体の解説の主要部分は以上で完了です。
これまでのところで質問とかあったら、積極的にカキコくださいませ。

あとペーターさん、別の質問もあるとかおっしゃってましたが、そろそろ出して頂戴な。
今メール返答も一応全部済ませた状態のため、頭の中に新たなテーマ検討するスペースできてきた感じ。
掃除掃除〜。

No.447 2005/02/13(Sun) 15:05

善悪の解体・補説-12 / しまの

■善悪の破棄のまとめ

善悪の解体から、やがて完全なる破棄へと至る、以上の流れをまとめると、次の要因がそれを促すものであることをまとめることができます。

1)契約論的世界観..善悪は人間による人間のための契約であるという世界観です。これは宗教を採用せず、自然科学的な思考を採用するということです。
心理学からは、善悪は全て人間の欲求の表れとして理解できます。

2)主体的意志..自分が受身的に与えられる側であり、自分が正しければ世界が自分を幸せにするべきだという感覚の中で生きる時、過不足の問題は善悪の問題となります。それに対して、自分が主体的に人生を生きる意志に従って行動しようとしたとき、過不足の問題は能力や強さ弱さの問題となります。
主体的に生きる姿勢にとり、善悪は邪魔になるというより、あまり関係ないものになってきます。

3)不完全性の受容..なによりもこれが大きいように感じます。自分と世界が不完全なものであることを受け入れたとき、「善悪」を決するための境目は消失します。なぜなら、たとえ優劣というモノサシは厳然としてあったとしても、それは同じ不完全性の中での話なのですから、「善悪」「肯定と否定」という2極を分ける我々の判断能力も不完全だからです。それは個人的恣意的であり決して普遍的なものではありません。
完全なるものを求める人間の思考こそが、善悪という2極を生み出します。それは自ら神になろうとする愚かな傲慢です(←なんか脅しっぽい言葉。ま言葉の綾ということで^^;)

善悪という思考は、人間にとってどんな意義があったのか。僕の考えを総括しましょう。
それは自己の主体性と自己の重心を放棄し、与えられることを求める姿勢が生み出したものです。そしてその姿勢において、不完全性の認識はされず、完全性への期待が起きているものです。
ここでもうひとつの要因を加えましょう。それは人間の行動様式として、善悪は「破壊」を志向する観念です。破壊するものと、受け入れるものを分けるという目的のための思考なのです。

より高度な行動様式として推奨されるのは、「自衛」と「建設」です。この行動様式において、2極はありません。

自己の自由と主体性が閉ざされた、ある時期の人々にとって、それは役に立つものであったかも知れません。
しかし自由と主体性への可能性のある現代において、それは無用です。
今「愚かな」という言葉を使いました。なぜ愚かなのか。それは自らの幸福への芽を摘み取る行為だからです。

僕はそう感じます。自己の主体性と自己の重心を選択し、善悪を破棄し、不完全性を受け入れ、「自衛」と「建設」という行動様式を徹底する。それによって獲得することができた幸福というもの、そしてその具体的ノウハウを伝えるのが僕の心理学です。
結局のところ、何を幸福として目指すのかになりますので、理屈の話ではないのです。どっちを選ぶか。自由な選択です。

だから、今言ったよう言葉の使いまわしは、ここだけ。出版本の中でも1回だけそうゆう決め付け言葉をつかっちゃおうかなーと^^;

で、具体的ノウハウというのが、この後に登場するわけです。

No.446 2005/02/13(Sun) 12:50

2面を同時に見るアプローチその1 対人関係の改善-3(End) / しまの

前回は、「2面を同時に見ていく」ということで、
1面は現実行動。感情は内面にしまい、問わずに、とにかく共通目標共通利益を探る
という行動法が推奨されます。
もう1面は内面感情。建設的な行動法にそぐわない内面感情は、人間関係の問題では
なく、自己の内面の問題として取り組みましょーということ。

付記:以下は「感情分析実践指南」シリーズに掲載しても良かったような話になります。

■感情分析

次に、内面感情も一面的なものではなく、分けていく必要があるという話を途中までしました。
いくつかの感情を、「〜だから」「〜とすると今度は」とか、つなげない。

なぜなら、ひとつひとつの感情が、独自の論理と独自の背景から生まれているからです。
それぞれが「別人」なんですね。それを同じ自分の心の中のことだからといって、無理につなげたり相互関係を想定してしまっているものだから、なんとも奇妙な寄せ集めの羊頭狗肉(?)みたいな感情の集合になってしまうわけです。

これを一度ひとつひとつの感情に分解し、それぞれがひとつの人間性として取り組む。
ここからは本格的な感情分析ということになります。

行うことは大体2つ。前書きましたが、
1)ひとつひとつの感情は、何の感情であるのかの理解
2)感情相互間の重要度を吟味し、選択取捨していく過程
このうち1)が意識的に行うことで、2)はその結果ある程度自動的に起きることになるでしょう。場合によっては「葛藤」という様相になることもあるでしょう。

Aさんのメールからだと、以下のようなことそれぞれが、本当のところどう感じているの?と考えてみるといいと思います。

「周囲から孤立するのはイヤ」
「仲良くなりたい」
「付き合いは面倒だ」
「人に好かれる事が目的となってしまう(のが嫌だ)」
「自分もああ言われている。それはまずい。」
「仕事が出来ない人は、その人の生き方そのものまで否定される」
「夜11時ぐらいまで熱心に仕事をしているように見えるのに自分が何も考えていない」

中には、比較的表層的な思考のあや程度に過ぎず、じっくり検討してみると無意味だったことが分かるようなものもあるでしょう。中にはあまりに根源的で、出口のない永遠の迷路のように感じるものもあるでしょう。
皮相なものは消え、根本的なものは残るでしょう。

僕からみて表層的に思えるのは例えば「夜11時ぐらいまで仕事を」というテーマ。
これは一体どんな意味があることなのか。熱心さが誉められることか。それとも計画性のなさを批判されてしかるべきものか。残業代稼ぎというのもある。

そして、はっきり自分に問いて欲しい質問はこれです。
「私は夜11まで残業することで、仕事の熱心さを皆に示したいの?」

そしてその妥当性と現実性を問い、それが肯定されるのであれば行動に移すという前提で、真剣に問うことです。

そうして自分が主体的に動くという真剣さで、自分の感情や思考を問う時、その検討によって、感情や思考が根本から変化していくのです。
この例で言うと、いちおう「夜11まで残業する」ことが誉められることだとして、一方でそれは自分自身の健康を損なうことになります。
どっちをとるか。選択です。

そして自己の重心を選択し、自己による幸福の追求を選択するとは、それを自分自身の責任において考え、決断することです。
決して誰々がどういったからでも、皆がどうしているからでもない。もちろん参考にすることは良いことです。でも最終判断は自分自身への責任において、自分で判断する。
なぜなら、そうすることで心が成長するからです。失敗があれば学びになり、成功すれば自信になります。
自己への責任を持たない姿勢だと、いつまでも自分が中空のままなんですね。

■行動学

こうした感情分析に加え、行動学を考えるのもいいでしょう。
人からの評価かそれとも自身の健康か、であれば、行動学とは、人からの評価を得て自身の健康も保つ方法も考えることです。
表面的な姿に拘泥せずに、意図目的の根本を考えることで、それへの道が開けます。
決して夜11時まで仕事することが目的ではないのです。では本当の目的は何か。そのための手段は他にはないのか。

■心の手術的局面

ひとつひとつの感情や思考を分けて検討することで、表層的なものは自然に消え、根源的なものが残ります。
表層的なものが落とされることで、心が少し軽くなり、自分の感情を力強く感じ取るための「内面の力」が増大してきます。

しかしこれはやはり最後には、出口のない根源的な悪感情の袋小路に出会うことになると思います。
これを何の人工的理屈づけもせず、ありのままに感じ流すことが、感情の膿を出す、あるいは操縦心性の崩壊を受け入れるという、根本的治癒になります。

これは体験上はあくまで「受け入れることができない」「耐えることができない」ものとして体験される。それを苦しむ自分を客観的に見つめる、第三の自分を、理性によって構築するという感じです。
(第一の自己、第二の自己、っていう厳密な話ではなくなんとなく言葉の響きが合うもので^^;)

これを経て時間が少したつと、未知の自己が現れます。それは人生で今まで体験したことのない、開放的で生命力に溢れた自己です。
この流れが実感として分かるようになった頃には、加速度的に心が健康化されています。
これを最初に迎えるまでが大変ですね。一度分かったらもう迷うものはないという感じかと。

ただしこれはもう意識して行うことではありません。あくまでそうゆうこともあり得るという、担保として心にとめておいて欲しいと思います。
意識して行うのは、感情分析であり、行動学です。それと共に生きるということです。
そして生きていれば、壁にぶつかり痛み苦しむこともある。それを受け入れることです。最初から完成した人間の姿を自分に押し付けるのではなく(そうゆう感情が自動的には起きるでしょうが)、不完全な存在として、より良い不完全な存在へと(^^;)変化する主体として自分があることを認める、否、そうあることを選ぶという意志です。

そうゆう存在であるのならば、生きる過程にはかならず痛みというものがあります。
でもそうゆう存在として生きることを選んだ時、それは成長の痛みになるのです。
我ながらなんか宗教家みたいな語り口..アハハ^^;

No.445 2005/02/13(Sun) 00:04

2面を同時に見るアプローチその1 対人関係の改善-2 / しまの

孤立感を例にして、2面のアプローチを説明します。

この「2面」にも、さらに2つの2面がありそうです。
常に全体を見る目が大切ですね。1面だけに目が向いた時、他面が損なわれ、それが遠回りに、偏って注目しているまさにその1面を増強するのです。
1面だけ解決しようとしても、元に戻る。2面を同時に見て、両面の弱化が結合した時に、問題の本質が解消に向かう。
抽象的表現ですが、これが治癒そして心の成長の姿です。


■現実行動と内面感情という2面

最初の2面は、既に説明している、現実行動と内面感情という2面です。

1)現実行動

良好な人間関係は、建設的対人行動の習得によって育てることができます。
建設的対人行動とは、感情に依存しない、建設的な対人行動の仕方です。

それは、互いの内面感情は不問とし、現実的な共通利益、共通目標に注目して行動することです。不一致には目を向けない。これは前のメールで説明しましたね。

人間関係を、互いの内面を理解し合い、受け入れあうことだとは、できるだけ考えないで下さい。
人の心は、その人だけしか生きることはできません。人それぞれが、違う心の世界を生きています。
互いの心を共有しようという気持ちは、心を外に持ち出し、人の前にそれを置いて品評し合うという、幻想的で非現実的な感情を生み出します。度が過ぎると精神病理の世界の感情につながるもの。

世の中の人々は、良い人間関係とは心を共有することだと、大抵勘違いして生活しています。
できるだけそれに巻き込まれないことを心がけて下さい。それを批判することも不要です。
どんな相手とも、共通目標や共通利益、そして共通の楽しみがあれば、積極的にそれに着目して、建設的な行動を考えてみて下さい。

2)内面感情

上のような現実行動への姿勢を取るにあたって、内面感情は一切無理に変えようとしません。
内面感情を無視することもなく、自分自身の中しまったまま、ありのままに置いておくことです。
そしてまずは、内面感情と現実行動の妥協点を見出し、そこで行動することです。「建設的行動方法と内面感情の共通利益」を見出して行動していく、とも言えますね。

無理をする必要もありません。建設的行動法と一致しない感情は、内面においたまま、内面だけの取り組みを行います。
離反感情におおわれた時は、相手との必要最低限の接触にどどめたり、接触から一時退却して心を休めるのもいいでしょう。積極的な意欲が見えるのであれば、勇気を出して行動するのもいいでしょう。度が過ぎた親愛要求は、あまり表には出さないで、ひと呼吸おいて自分の感情を吟味するのが賢明かもしれません。
自分の味方でいること、その上で自分の魂に選択を委ねるという姿勢が良いと思います。

■内面感情そのものの2面

建設的行動と一致しない感情は、自分の心にしまい、その上でさらに取り組みの実践があります。
これが本格的な感情分析になります。

主に2つのことを進めます。
1)ひとつひとつの感情は、何の感情であるのかの理解
2)感情相互間の重要度を吟味し、選択取捨していく過程

ここで2面といったのは、感情そのものが一面的なものでないということです。
「周囲から孤立するのはイヤ」「仲良くなりたい」「付き合いは面倒」etc。
これらがそれぞれ、まったく別々の感情であり、別々に取り組む必要があるんですね。
それらを「〜だから」「〜でも」とひと並びにつなげてしまわないで、いったん個々に取り出して取り組む必要があります。

ちょっと時間の関係で、ここで一旦送りましょう。
個々の感情への取り組みを、また次に。

No.444 2005/02/12(Sat) 23:53

2面を同時に見るアプローチその1 対人関係の改善-1 / しまの

「2面を同時に見る」。これがハイブリッドの最大の智慧。
それが心を成長させるための、「心の使い方」なのです。

ということで、この具体的な適応を整理しようと思っているのですが、メール返答でちょっとまとまった文章ができましたので掲載します。
実に多い悩み事例だと思います。っつうか「基本共通問題」みたいなものですね。

相談:職場で回りと会話のない状態が続いており、どうにかしたいがうまく行かない。孤立感を感じる。

>自分がどういう立場におかれているか、というのを把握することができないのですね。

とにかく仕事上における自分の位置づけの話と、人々の輪における自分の位置づけの話を、明確に分離して考えるのがいいですね。

仕事における立ち回り方は、答えのある技術です。これについては教科書があり、具体的質問があればいくらでも説明できます。
こうゆうのをきちんと習得することは、職場での信頼を得ることに役立ちます。
それが自分の安心感にもつながり、もうひとつの、次の側面についても援護となりますね。

仕事の役割とは一応別の、感情面における人々の輪の中での立ち振る舞い方には、教科書はあまりありません。
その人本人が何を望むかという本心をまず自分自身で探り見出し、そして回りの人々のそれとの相性などが次に問題になるでしょう。

■良好な人間関係への指針

仕事上の役割とかに限定しない、自分の生き方としての、良好な人間関係を育てるということについて。
現在のAさんの状況から察するに、一面的な事柄ではどうにもならない段階になっていると思います。
全体思考がとても重要になりますね。
自分の成長というものの、全体像をつかんでおくことが重要です。

ハイブリッドとしての指針は、感情に依存することなく、建設的であることです。
やはり2面なんですね。

1面は、人間関係における建設的行動法とはどんなものかという、基本的な姿勢の習得です。
ハーバード流行動学」が基本です。相手との関係は、共通目標や共通利益、楽しみを共にすることを基礎におきます。不一致にはことさら目を向けません。不一致の範囲が多く、基本的に一緒にいることが難しい相手とは、接しないだけの話です。

これができるためには、価値観の変換が必要になります。
不一致に目を別に向けないとは、不一致があっても怒らないということです。怒るとは目を向けることであり、破壊という人間関係が起きます。
人が評価するものと、自分は違う。それに怒らないためには、自己評価を自分自身によって行うことができるようになる必要があります。

そのためには、自分がどう思われる、自分が理解されるされないうんうんといった感情を、自分の心の中の問題として取り組む必要があります。
これを無視することなく、あくまで自分にしまった上で、取り組む必要があります。
これが2面目です。


まずこの全体観の把握をお勧めしたいと思います。
自分がどう思われるかという自己評価や自己嫌悪が、実際の人間関係の中で起きていることだと考えた時、人間関係というもは解決法のない、泥沼になります。
それは人間関係に求めているものが間違っているのです。本来自分自身との関係にあることを、人との関係にあるように、錯覚しているのです。

では自分自身の中の問題として取り組む面は、どうすればいいか。
現実の対人行動は感情に依存しない建設的なものとして、こころにしまった感情にどう取り組むかです。
「孤立感への対処」として、次メールにて。

No.443 2005/02/12(Sat) 23:44

善悪の解体・補説-11 / しまの

■思考戦争

人がある「思想」なり、独自の価値観世界観なりを、本当に自分のものとしているか。
それは、その人の感情生活において示されると思います。

「ハーバード流を座右の銘にしている」と語りながら、それとは正反対に攻撃批判にばかりどっぶり耽る人を見たことがあります。
はじめの頃のこの掲示板に攻撃カキコした人なんですけどね。その後この方ネット界における問題児であることが判明。アハハ。
ま余談でした..^^;

善悪という観念さえない。全てが許されている。
僕がその思想を本当に選択したのは、やはり自分が追い詰められた憤りのような感情の中で、真剣にそれが問われた時です。
内面の弱さに応じて、怒りは自動的に起きます。それはあるべきではない。自分は正しいことを知っている。
一方で、怒りを抱えること自体への自己嫌悪感や、相手に気押され飲み込まれることへの不安や、あるいは虫のいい行動をしている人間への苛立ちなども起きます。

一方で、今まで述べたような思考の変換、そして自分が主体的に生きる唯一無二の存在であるという感覚。
それを背景に、まったく異なる世界の思考同士が戦争状態になる時というのがあったわけです。
感情的には結構苦しい状態で、自分に疑問を投げます。
なぜ「そうあるべきではない」のか。誰がそう決めたのか。あるべき通りでない時、何か問題なのか。

で、やがて僕は今までとは全く違う思考の方を選んだわけです。
「別に問題ではない」と。
それは別に悪などではないし、怒る必要もない。自分の利害にかかわるのであれば、「怒りを使わない対処法」でうまく相手を操縦すればいい。

この選択の理由付けとなる論理は、ありません。
なぜならそれは、ある閉じた論理の世界と、全く異なる論理の世界、その2つの衝突だからです。
ある思考回路と、全く異なる別の思考回路の間の衝突です。2つの思考回路の合間には、「思考」はありません。あくまで思考はどっちかの回路の中で動きます。
2つの思考回路を比較評価するための思考は、ないのです。
従って、それはむしろ生き方の選択です。

やがて僕は、「何も問題ではない」という思考の方を徹底するようになりました。
もちろん、物事には、より望ましいものとそうでないもの、優れたものと劣ったものというモノサシはあります。
その中で、あまりにも程度の低いものは、「悪」という観念に似た否定の目を向けるのは妥当なことではないか。人間の向上心としてそれが必要なのではないか。

結局それは、「完全なるもの」を求める思考なんですね。自己と世界の不完全性を認めまいとする思考です。
優れたものを肯定し、劣ったものを否定する。そうゆう「善悪」とか「白黒」をつける場合、どこかに境目が生まれます。この程度まではOK。それ以下は駄目だという思考法。
でも、我々人間が不完全であることを認めるのであれば、我々が考える善悪の境界というもの、不完全なわけです。
どの程度の不完全なら許されるかなど、多種多様な社会と時代と民族の中で生きている我々に、決められるわけもありません。
「これだけは許せない」。その判断を自分が決めるとは、神になろうとすることです。

僕は神じゃあない。

自分は善悪の境目を決める存在ではない。境目などない。
つまりそれは、「善悪」という観念そのものが完全に消え去る瞬間でもあったわけです。

No.442 2005/02/12(Sat) 19:38

善悪の解体・補説-10 / しまの

■新しい世界観

僕の中で「善悪」が完全に放棄されたのは、社会人になってから、そして社会人としての自分に自信を感じられるようになってからだったと思います。

それまでは、やはり善悪観念的な感覚が残り続けていたんですね。
また、それによって自分のパフォーマンス(仕事の成果)を向上させ続けた面もあります。仕事の目的とお客様の希望を理解し、自分の能力を生かし、最善を尽くす。
つまらない事で人との軋轢を持ったこともあったし、仕事の本質を理解せず独善的に見当違いなことをしている目下の人間を叱り付けたこともあります。自分が堅い仕事人間であるかのようにしている一方で、仕事と無関係なことでなごんでばかりいる一団に苛立ちを感じたこともあります。
骨の髄から利己的な風情の人間への憤りを感じたこともあるでしょう。
世界には、まだ、「憤るべきもの」が満ちていました。

それが変化してきたのは、がむしゃらに仕事をしてきた時期が去り、社会人としての自信も持てるようになり、一段落したかのように、自分の人生を振り返るようになった、30台後半あたりだったと思います。
経済的な見通しは立った。でも自分が人生で得ることができなかった大きなものがある。。
再び、心理学への関心が戻ってきて、静かな自己分析の中で、埋もれていた心の問題をときほぐすようになった頃だと思います。

バーンズの本を手にしたのも、そんな頃だったろうか。初版が1990年だからそうですね。とても学ぶことが多かった。
中でも感銘を受けたのは、バーンズの「自尊心」についての言葉です。
「こうまでして、自分を取り扱う方法を勝ち取らねばならないものでしょうか。いや、これはそんなに難しいものではないのです。自尊心とは自分自身の強さと不完全さの両方をしっかりと見据えた上で、自分で行うひとつの主張なのです。まやかしの優越感を捨てて自分のプラス面を評価し、自己卑下や劣等感を感じることなく、弱い面にもスポットライトをあてることです。この態度こそ自己愛と自己を尊敬するエッセンスを具体的なものにするのです。それは勝ち取らねばならぬものではなく、第一勝ち取ることができるようなものでもないのです。」
この姿勢については「中庸の思考」でも引用していますね。
http://tspsycho.k-server.org/base/base05-02.html

この言葉が、ハイブリッドの基本的な思想の原点とも言えるかも知れません。
そこに含まれる根本的な事柄とは、ひとつに「2面を同時に見る」ということです。物事にはさまざまな面があり、我々はひとつの視線では、その中の一面しかみることができません。しかしそこには本質はないんですね。
さまざまな側面を同時に持つ、本質があります。人間の心は、それを感じ取る能力をもっているのです。それは「知る」ものではなく、それを本質として扱うという「意志」なのです。
そしてバーンズが「勝ち取るものではない」と言っているのは、それが「条件」に依存しない、「選択」であるということです。
また、バーンズが心の健康法として指摘した、「中くらい」であることに積極的に心を向けることなども役にたちました。

そうしたものの影響で、自分が唯一無二の存在であり、全てが許されているという世界観が視野の中に入ってきました。
ものごとの一面だけを見るのをやめた時、「知る」対象ではなく「意志」を持つ自己存在そのものが、本質となります。それは唯一無二の存在です。
自分も、この世界も不完全なものです。心理障害や歪んだ感情に至るような望ましくない環境も出来事も、「そうであるべきではなかった」理由などないもないのです。現実は不完全なものなのですから。

そうした世界観を知り始めると同時に、怒りや善悪観念もなくなる..わけではありません。
やはり実際に起きた憤りの感情を舞台にして、内面で全く異なる思考回路同士の戦争が起きるわけです。

No.441 2005/02/12(Sat) 18:54

善悪の解体・補説-9 / しまの

その6で書いた、4つの段階。
1)心理学と行動学の教え
2)主体的感情の芽生え
3)内面戦争
4)怒りのない人生の完成

前カキコまでは頭で考える話で、次は情動の変化についの話です。
順番としては、前の話のあとというより、それと平行する別の流れとして起きている変化です。

■主体的感情の芽生え

怒りは有害な感情である。
怒ることで事態が改善されるのであれば、その怒りは合理的である。そうでないなら、その怒りは不合理である。
怒りの源泉には完全性を求める思考がある。人間は不完全は存在である。
怒りを使わない対処法を学んだ時、善悪という観念は意味を失う。

それはそうです。頭では、理屈としては、そう理解できるかも知れない。
しかし決定的なものは、別のところにあったように思えます。

僕が怒ることをやめた最大の対象とは、やはり親なんですね。
これは理屈を超えた話です。

そして、極めて単純であり、明瞭な理由からです。
親が弱く見えたからです。
この経過を思い返す時、不思議と涙が溢れます。今もそんな気分が一瞬溢れました。

親は明らかに、幼少期の僕の愛し方を間違えていたのです。
それを怒り、憎しみの感情も顔を覗かせていました。
親の誤ちの中に、人間における、ある「絶対悪」が映されているという感覚でいたのです。まあ親がその化身だとまではいかないとしても。

それが変化したのは、ダイジェストで詳しく描写している時期から始まる、結構長い時間を通してだったと思います。
具体的にどんな感じだったのかの紹介は別の機会に譲り(あまり外面的エピソードはないかも)、心理的観点から、何が決定的だったのかをお伝えしましょう。

それは、自ら主体的に人生を生きようとする感情の芽生えです。
これは、自己欺瞞を捨て、自分の本心へと還る、そして自己の重心を獲得するに従って、何の人為的操作も必要とせずに、自然に芽生えてくる感情です。
感情の抑圧を解除し、外化によって外部に映されていた感情を、自分の内面のこととして取り戻す。
そうした感情分析の進行の全てが、内面の力の増大として実を結びます。
それによって、今までの、受身的に与えられることに依存した生き方から、自ら動き働きかけていく主体的な生き方への意欲が芽生えてくる。
それが、理屈を超えた、人間の本姓なのだと思います。

そして、自分自身の主体性によって生きようとした時初めて、容易にできることと、そうでないこととの違いが見えてくるのです。
親のああした態度は誤りだった。では自分はどうできるか。自ら主体的に生きる意志によって、初めてそれが分かります。
そして、自分が弱ければ、うまくいかないことも。
親も同様に、弱かったのです。
それは同時に、自分が親に与えられる存在ではなく、親を助ける存在になろうとしていることを自覚していった時期だと思います。
そうして、僕の中で、「悪」は「弱さ」へと姿を変え、僕は怒ることをやめるようになってきました。

受身に与えられることを求めた時、過不足は「善悪」の問題になります。
主体的に実現しようと自己を開放した時、過不足は「能力」の問題になります。

主体的に生きようとした時初めて、人間の強さと弱さというものが見えてきます。

No.440 2005/02/12(Sat) 10:35

善悪の解体・補説-8 / しまの

■行動学の教え

これは何といっても「ハーバード流ビジネス交渉術」です。
一応ビジネス関係の本ということで、読んだのは社会人になってからですが。
http://tspsycho.k-server.org/base/base07-02.html

ハーバード流から見るならば、交渉とは、互いの主張を戦わせ優劣を決する場ではなく、互いの共通目標共通利益を探し合意点を見出す場である。

これの基本的な行動法は、相手を決して非難せず、「それは間違っている」とか「悪い」とか言わないことです。
なぜなら、相手を非難した時、相手はその内容の妥当性に関わりなく、武装の構えをするからです。つまりこちら側を「敵」として認識する。
この結果、基本的にこちらの意に添うことへの反感を、相手は持ちます。
善悪はおいといて、とにかく共通目標共通利益に着目し、その合意をする。これがハーバード流。

より一般的行動学として説明しましょう。
相手が望ましくない行動をした。それを諭し、変えさせたい時、人は全く同じことを2通りの言い方で言うことができます。
「それじゃ駄目だ」と「こうするといい」。

これは2004/11/19カキコの「過去から未来への選択」でも説明しています。

さらに日常的な描写をしましょう。これは僕が最近になって、こうした行動法によって相手の態度が劇的に変化するのを習得したことです。
つまり全く同じ事を、全く同じ言葉を使って相手に言うのでさえ、笑顔でいうのと怒り顔でいうのとで、相手の態度が正反対になることです。
「それじゃあなんとかだねー」。
これを、何かユーモアであるかのように笑顔で言う。すると相手も笑顔を見せ、自分からその行動を変えることを考え始めます。
それを非難のような雰囲気の中で言うと、相手の表情は硬くなり、自分の正当性を維持しようと、敵対姿勢になります。
これが「怒りを使わない対処法」です。

「怒りを使わない対処法」は、善悪観念を排除するというより、善悪観念があまり必要ではなくなります。
また、善悪観念があると、「怒りを使わない対処法」が難しくなる傾向があります。「それは悪だ」と感じるとは、やはり怒りですので。善悪を考えていると、この行動法がうまくできない。

そもそも善悪とは何なのか。我々がそれを感じることに、どんな意義があるのか。
怒りを使わない行動法は、その疑問を呈示します。

ここまでは、論理的な話です。つまり頭で、どうなのかを考えること。
一方に、情動的な、善悪観念放棄への動議もなされます。
善悪放棄のより本質的なものは、そっちにあるように感じます。

ちょっと出かけ夜に続きを。

No.439 2005/02/11(Fri) 13:43

善悪の解体・補説-7 / しまの

わーい久々に自由時間たっぷりの3連休。いっぱい書いちゃるぞー。
このシリーズ完結を目指しませう。

僕が「善悪」というものを完全に捨てた過程の説明から。
すでに書きましたが、それはひとつの論理的帰結ではなく、沢山の事柄があって、その全てが、もうそれ以外にはあり得ない帰結として、「善悪の破棄」へと向かっていったという感じです。

精神分析一本やりで自己操縦心性の巨大な崩壊を迎え訪れた人生の危機を、ある偶然が救い、僕の人生に初めての平安が訪れます。この辺の経緯は簡単にダイジェストに収録する予定。
それでも多くの問題が残っていた。自分は一般社会人としては生きていけないという自己不全感を抱えたまま、何とか早稲田大学大学院に合格。
多少落ち着きを獲得した人格状態の中で、新しい人生の生き方を模索する、新たな歩みが始まります。
そんな感じで始まった取り組みの中で、以下のようなことがあった。

■心理学の教え

まずは、怒りが有害な感情であるということです。これは論理療法からだったと思う。
このため、「怒りへの対処法」が、心の健康化にとって重要な課題である。
基本指針は、
1)相手は本当に悪意からそれを行ったのか。それとも利害の不一致や、思い違いや、ミスとして行ったということなのか。これを現実的に把握すること。
2)怒ることによって事態の改善につながるのか。
この2つの条件が満たされるのであれば、その怒りは合理的な怒りだと言える。そうでないなら、その怒りは不合理である。

まあこれは、実際に起きた怒りを見直すという姿勢を学ばせてくれたものです。
怒りが起きても、怒りの発展成長はなくなる。でもやはり起きる怒りは起きる。

もうひとつはホーナイの基本的な教えです。これは対他よりは対自の側面に目が多く向けられています。
自己嫌悪感情とは、つまるところ自分への怒りです。
それは健康な向上心とは全く別物である。向上心とは、現状を受け入れ、現状をベースにして主体的に変化するという意志である。
一方自己嫌悪感情とは、「あるべき姿」の基準を掲げ、頭越しに現実を否定しようとする姿勢である。それは「望みの停止」という機能を持つ。つまり、向上への意欲を励ますものではなく、むしろそれを積極的に挫こうとする感情である。

こうした嫌悪感情の背景には、「完璧主義」的な姿勢というものがある。
理想を明確に描き、欠点を見逃さず正そうという姿勢。その一見美徳とも謳われるような姿勢に、人間の心の悲劇がある。
なぜなら基本的に人間は不完全な存在だからである。

人間は不完全な存在である。神経症的傾向は、それを認めまいとする人間の思念が背景にある。
ホーナイのこの教えが、この後の全てをつなぐ知慧でした。最後にまた総括しましょう。

ここまでは、怒りとか善悪観念のもたらす消極的側面の理解でしかない。
やはり自分にとって「悪」に見えるものは「悪」です。「悪」に出会えば怒る。それはそう簡単に変わるものじゃーありません。
善悪を考え、怒りによって対処するという積極的側面が手付かずだからです。
「善悪」も「怒り」も用いずにものごとに対処する、行動学が必要になります。

No.438 2005/02/11(Fri) 12:19

見たい映画 / しまの

仕事の緊張感が抜けて雑談モードの島野^^;

今日のYahooのトップには、全米で大ヒット「ボーン・スプレマシー」とのこと。
http://event.movies.yahoo.co.jp/theater/bournesupremacy/
これ見たいなぁ。

最近映画ぜんぜん見ない。作り話あまり興味なし。自分の書きものとかトランスCD作る時間でいっぱい。
最後に見たのは、レンタルで「マトリックス・リローデッド」を、去年のG/Wにだったかな。それもかなり久しぶりの映画で、ここ数年通して見た新たしい映画ってそれだけかも。

この「ジェイソン・ボーン」の映画は、ずっと以前、リチャード・チェンバレンとジャクリーン・スミスの共演による「スナイパー/狙撃者」で見たことがあります。
僕はこれが超好きで、何回目かの視聴をしようとレンタル店に探しに行きレンタル落ち販売に回っていたのを買って持っているほど。

これチョー記憶もの
上のURL広告にも出てくる言葉..「自分はいったい何者なのか」..僕のダイジェストでも出てきますねー。
この言葉が出てくる時のあの感情。自分の中に、今見ることのできない何かがある。しかも自分を決定づける、自分自身という別の人間が、自分の中にある。。
小説オリジナルでは、その感覚が至るところに、バラエティを変え、さまざまな映像の中に出てきます。

「ボーン・アイデンティティ」の方、連休中に見てみようかなー。

などと書いている間に、仕事を残したまま時間がどんどん過ぎてゆくのであった^^;

No.437 2005/02/10(Thu) 15:41

Making The 小説 / しまの

ワーイ\(^o^)/、久々に「今日しなければならない仕事」がもうない状態。
「明日できる仕事を今日するな」。これ大原則 ^^;

小説ダイジェストの続編を書き始めているのですが、やっぱ結構時間かかってますね〜。
世間話ということで、どんな風に作っているかの話。

まず最初の材料は、おびただしい量の日記。
感情の流れが残響のようにあるならともかく、そのまま読んだらあまりの混沌状態。
まずそれをじっくり読みながら、感情の流れと人格状態の変化を検討し、分かりにくい日記の文言は直し、本体部として過去を語る主人公の言葉と、時に島野の心理学の目からの言葉を書き、日記引用部と適当に組み立てていく。

感情スパイラルのサイクルというものがあり、それを節目にして「節」として、さらに大きな心理局面として分けたものを「章」とする。
そうしてまずオリジナルを書いています。

だいたいサイトの立ち上げと同時に書き始めており、サイト初期の文章が何とも硬直した、こなれてないものであるのと同様に、小説オリジナルの大半はまだまだ使えん感じの文章。何か自分の日記を読んだ感想文を並べている感じで、「臨場感」なし。
サイトの活動を通して僕自身の人格がこなれて軟化した頃、今の掲示板を始めてますが、その頃同時に、臨場感を意識した、文芸小説的な文体に変化してきています。

今のダイジェスト版は、感情の流れと人格変化のメカニズムが分かるレベルで凝縮するのを指針にしています。
オリジナルを読み返してそれを考えるのですが、面白いのは、オリジナルを読むときに、主人公の心理背景についてどんな共感的想定をしながら読むかによって、起きている心理変化のリアリティが全然違ってしまうことなんですね。

次の「蘇った自己」は小説の中での最大のクライマックス場面のひとつなのですが、先日一度オリジナル部分をざっと読み直した時、「あれっ」て感じがあった。以前何度もうるうるの中で読んだものが、ちょっと軽々しいまま進んでしまった。
それは読んでいる時に、主人公の心理背景の想定として抜けがあるんですね。こんな感情が現れ、こんな場面になり、こんな感情になる。それを抱えて、こんな場面を迎える。
その心理背景があるからこそ、次に現れる感情の重みというものが出てくるわけです。
この結果、ダイジェスト板はまさにこの心理背景そのものを抽出して映像化するという感じになっています。


「映像化」と書きましたが、まさに、文章化ではなく映像化。
映像が伴わなければダメっという、僕が書く時の基本姿勢のようなものがあります。なぜそうなのかとあまり考えることもなく、そうなんですね。
それは何故か。。書きながら浮かぶにまかせてこんな話となっていますが、考えるに、映像の伴わない感情の記述は、「今」のことだけでしかない。映像が伴うことによって、時間の流れが生まれる。「今」のどれだけの時間を経てのことなのか。遥か遠い過去のことなのか。

心理の流れという点で面白いのは、オリジナルをざっと読んで、それだけでは今いち何が起きているのか分からず、しばしば時間の流れを逆にするように、逆方向にたどっていくことで、流れがつかめてくることです。
それはつまり、先日の「島野にとっての文芸」(2/2カキコ)でも書いたように、精神分析を経ながら人生の出来事の中で起きる感情の流れは、外面においては時間が正の方向に流れている一方で、感情の流れは逆方向に戻っているわけです。後に起きたことが先に見える。原因が起きるのを見て結果が見えるのでなく、結果が先に見え次に原因が現れる。その後は原因が生まれる前のものが見えることになります。
なんかこう書いていると、それはまるで、宇宙の遠方を見るかのようです。遠くを見れば見るほど、それは始まりの姿なのです。

ま、そんな感じで書いてます。
そんな意味で、一度オリジナルを書いて、ダイジェストを書いて、またオリジナルを書き直す、という感じになりそう。
今回のダイジェストは主に、自己操縦心性の巨大な崩壊までを描写するものですが、将来別のダイジェストとして、その後の長い前半生を対象にしたものを書くかもしれません。

「映像化」という点で関心があるのは、自分の小説がそれなりのものになれることはほぼ自信というか確信を感じているのですが、「映画化」というのができるものかどうか。
世の小説や映画とは全く異なる、ほとんどひたすら内面心理のみで成り立つ小説です。通常の映画化手法ではできないでしょう。
僕が書いたストーリーそのままじゃ無理かなぁの感。もうちょっと外面的に分かりやすい人間関係劇を作って、そこに僕の小説で提供する心理変化と記憶との関連のからくりなどを映し出せば、今までにないタイプの面白い映画ができるのではないか、とか考えるのですが。
先日Upのダイジェストの最後の部分で、遠い過去の自分が蘇るところとか、それなりの流れの中で本当に映像化されたら、かなりインパクトあるんでないか、などど空想のかけめぐる島野でした^^;

などと手先の向かうまま書いてたら、今日しなければならない仕事発見^^;
だらだらやるか〜。あはは。

No.436 2005/02/10(Thu) 15:11

あみちゃんを救う会 / しまの

サイトには直接関係ありませんが、スキーでの知人から募金のお願いと共に「あみちゃんを救う会」の紹介があり、僕としても輪を広げるのに微力ながら役に立てればということで、ここでご紹介したいと思います。

今シーズンに入って、見かけないなぁと思っていたメンバーでしたが、スキーを断念してこの活動に専念しているとのことでした。
僕も募金しようと思っている次第。

あみちゃんを救う会
http://ami.heart.mepage.jp/

その知人からの文面から、ホームページにはまだ未掲載と思われる部分を抜粋しておきます。

 ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、現在の日本では15歳未満の子供がドナーになることは法律で認められておらず、海外に渡航しての手術しか道は残されておりません。また、ご想像の通り、渡米しての心臓移植には莫大な費用がかかり、とてもサラリーマンが負担することはかないません。

 1月25日に都庁にて開いた記者会見を皮切りに多くの善意をいただき、現時点で8,000万円近くの募金が集まりました。

 しかし、一方で愛美ちゃんの病状が進行し、国内最年少最小体重での補助人工心臓取り付け手術を受けざるをえませんでした。このことにより、米国でのドナー出現待ちの期間に掛かる費用が3,000万円増えてしまいました。一時は必要額をクリア出来そうな勢いに思ったより早く収束を迎えるかと思われていたのですが、これにより現在の募金活動を継続していくことになりました。


P.S
また仕事とかで忙殺傾向だけど、今日の仕事を乗り越えれば、また余裕が見える見通し。
今度の3連休はスキー行かないので、善悪解体補説とかメール返答とか、はかしたいと思っているところです。

No.435 2005/02/09(Wed) 15:45

善悪の解体・補説-6 / しまの

僕がどのようにして善悪という観念を完全に破棄したか、その経緯をお伝えしようと思います。

■契約思想

単に知的観念としての「絶対善悪の否定」は、高校時代に果たしていました。
善悪は人間が人間に欲求に基づいて定めた、もしくは情緒的に嗜好する、取り決めの一種に過ぎない。明示的もしくは暗黙の契約であり、約束ごとである。
これは社会哲学のひとつである契約思想そのものです。

人間を超えて、善悪を判断する存在はない。
僕がこうした考えをしたのは、まあ小さい頃から科学図鑑を隅から隅まで読みながら育ち、宗教心とか信仰心は持ちたくても持てないような「科学の子」という感じだったのが大きいと思います。
大学当時の苦しみの中で、「自分は宗教によって救われることさえできない人間だ」という悲哀を持ったこともあるのを覚えています。

自分は何によっても救われない人間だという観念の中、自己操縦心性の巨大な崩壊を迎え、「完全なる絶望」へ。
ある偶然が僕を延命させ、僕は新たな人間として生き始める。
多くの問題が残されていました。操縦心性の自然崩壊力だけではどうにもならない、根本的な生きる姿勢の変革がなされていなかった。


■生きる姿勢の根本的な変革

やや落ち着きを得た人格を土台に、生きる姿勢の根本的な変革がゆっくり進められることになります。

この経緯を整理してみると、主に4つの段階を経ていたようです。
1)心理学と行動学の教え
2)主体的感情の芽生え
3)内面戦争
4)怒りのない人生の完成

これを経て、「善悪」というものが僕の中で完全に破棄されました。

これを考えると、「善悪の解体」だけではない「善悪の破棄」という心の選択というものを話すことができるようになると思います。
そしてそれは思考の変換だけではない、つまり論理的帰結ではなく、情動的な選択であったと言えそうです。


「善悪の解体」とは、善悪を、人間の欲求を基準にして分解し解釈することです。
善であろうとすることとは、「自分が善い人間である」ことによって得る利得への欲求である。相手を思い、相手に尽くすことを心底から喜ぶ欲求というのもある。
結局のところ、各人が各人の欲求の中から、最善と思われるものを、自らの責任において選び、自己の幸福のために全力を尽くせばいい。

ここまでは合理的思考の結果として導きださされます。
論理的帰結である、ということになる。

それでもこの思考の段階では、いくらでも「そうあってはいかん」「こうあらねば」という感覚はあるんですね。
善悪という言葉さえ使わないものの、自分なりの善悪の世界がまだある。

それさえも破棄されたのは、思考面の帰結ではなく、さまざまな事柄が関わって、「善悪の破棄」へと集約されていった、という感じ。
これこれだから善悪というものが破棄される、という一面的なことではなく、多面が関わりあって、もうそれ以外にはありえない、確固とした人生の地盤へとなったわけです。

続きはスキーから帰って月曜以降になるかも。
だらだらでゴメンネー。エヘ。

No.434 2005/02/04(Fri) 11:10

「“ごめんね”じゃなく“ありがとう”」 / しまの

もうひとつのこの言葉は、録画しておいたのを昨日夜見た「動物奇想天外」で。

盲導犬が病気で体に障害を持つようになり、新たな盲導犬との出会いのため、北海道の盲導犬協会を訪れたお婆さんの映像。
まだ引退年齢ではないが、盲導犬であり続けるのは無理と判断してのことです。
今まで付き添ってくれたその子(盲導犬)との別れの瞬間。お婆さんの目から涙が溢れ、おばあさんは「ごめんね..ごめんね..」と。

そこで、その子を引き取りに立ち会った老犬担当の辻さん(この番組を見てる人には有名人)、優しく「“ごめんね”じゃなく“ありがとう”って言ってあげましょうよ」と声をかけます。

そうなんですよね。
「ごめんね」は、相手に悪いことをした、迷惑をかけたと感じた時に言う言葉です。
その子にとって、このお婆ちゃんを愛してつき添っていた日々は、その子にとっても幸福な時だったのです。
「ごめんね」という言葉の意味をもしこの子が理解したなら、「えっ何を?」と疑問に感じると思います。

まあお婆ちゃんの心理(なんか面白い言葉の響き..)としては、この先も面倒見てあげるべきなのにそうできない、とか、今回の判断のことを思っての言葉なのでしょう。
ただあの画面の流れ、場面の流れの中で、「ごめんね」という言葉はやはり軽い違和感があるんですね。どうゆうことかと考えると、その場面というのは、いままでその子と一緒にいた日々の全てが浮かぶ場面だからです。それはとても良かったことであって、嬉しいことなのです。
それを「ごめんね」となると、えっそうじゃなかったの?という感じになってしまう。

まあこのお婆ちゃん個人の心の内は置いといて、そうした違和感の背景にちらほらと感じられたのは、日本の高齢女性に実に典型的に見られる、「我慢は美徳、人のためは善」という心の世界。自分の幸福を自分の目で見ることを悪と感じるような世界。自分の幸福を自分から考えることを、「わがまま」といった言葉で考える世界。

そしてその先に見えるのが、「願いの停止」の中で生まれる感情論理の世界です。
良い者が望むことを許される。悪い者は望んではいけない。悪い人間に笑顔を見せる必要はない。
悪い自分は望んではいけない..。

この「望みの停止」という、「潜行する自己破壊衝動」によって、持続的な苦しみが背景に流れるようになります。
そしてここに抜け道がある。「思いやり合いの世界」です。誰よりまず、辛い人を思いやる。それが優しさ。
潜行する自己破壊衝動によって苦しむ彼彼女は、その心の底において、まさにその苦しみにおいて、世界が自分を幸福にしてくれることを「望む資格」を得るのです。

例によって話の流れという感じであまり練らずに書いてるので、解説不足の面もありますが、ここに、彼彼女が自己嫌悪の苦しみの中に留まることを是とするための、完璧とも言える感情の論理が自己完結するのです。
「望みの停止」「自己の重心の放棄」「善悪思考」「自己理想化像」といった全てが、この自己完結の中でつながります。どれがスタートなのか、どれが原因でどれが結果なのか、もう見分けはつかない。

別の道を探すとは、論理の世界ではないのです。
ひとつの論理の世界の中で、どう思考をめぐらせても、どう組み立て直そうとも、その世界の中で動く。

全く別の世界がある。もう一方の世界とは、論理のつながりがない。
どっちを選ぶかは、生き方の選択になります。
善悪の解体は、論理的帰結というよりも、情緒的選択である。

と言う話からシリーズものへとつながります。

No.433 2005/02/03(Thu) 13:18

「できることはしたので満足している」 / しまの

仕事の余裕が見えてきたので、そろそろ善悪の解体補説の続きが書けるかと。
その前に、TVで見かけた、ちょっと印象に残る言葉の話を2つ。

ひとつは冒頭の「できることはしたので満足している」
これはスマトラ地震の津波で、自分を残した家族皆が犠牲になってしまった遼平くんが、今だ行方不明のお母さんの捜索に現地に戻り、同行した伯父さんらしき人が言っていた言葉。

こうした言葉に、達成できない願望への心の収まり方の心理学が表れています。
自己の全ての可能性を尽くした時、満たされない願望は「満足」という別の感情に変化するのです。まあ同時に悲しみが、痛みを癒す作用のために流されるでしょう。
確かに失ったものはあるでしょうが、こうして達成できない願望が過ぎ去ったものとして心の座に静かに収まることは、「心の豊かさ」でもあるのです。なぜならこの現実世界は、達成と喪失、出会いと別れの連続だからです。
自己の可能性を全て尽くした時、心の豊かさが生まれ、それが、これからの自らの人生と、そして次の命を支えるようになる。そうなるように人間の脳が設計されている。

人生にとって大きな願望であるほど、このことが重大になってくると思います。
「どうせ..」という思考によって、可能性を尽くすことなく願望を停止した時、辛い感情を切り離すと同時に、その人はまるで人格の一部を切り捨てたかのような、希薄な感情しか起きない心を持つようになってしまいます。
そして、決して切り捨てられるものではない、人間としての本能的な欲求が、変形した形で漏れ出す。ふとした時、目の前の人がちょっとした不運で苦しむのを、嬉しいことであるように見る自分に気づく。人間の欲望とは道徳に反したものだという言い訳の中で、欲望と善悪の矛盾という構図の中で生き出す。

そこからの回帰とは。
ダイジェスト版でも書いたように、この来歴の中での自己へ還ることです。
自分の可能性を尽くすことなく喪失したものを見出した時、地団太踏みほぞを噛む苦しみも通らねばならないでしょう。
それだけでは足りません。それを自分の立つ地として、前へと歩き出すことです。
そして人間はそうすることができるようにできています。それが現実であり、数100万年の進化の中で、そうした現実を生きてきた人間の脳が、我々の心の舞台なのですから。

「善悪の解体」とは、まさにそれを選択することです。説明はシリーズ続きカキコで。

No.432 2005/02/03(Thu) 10:13

島野にとっての文芸 / しまの

小説ダイジェストの感想をメールで頂いたことに関連し、思ったこと。

頂いた感想:読んでいて感情の動揺や涙がこみ上げる場面、そしてなにごともなかったように嵐が去っているいう読書感を感じた。このような読書体験は初めてかも知れない。

これは僕が自分の小説で狙っていることでもあるのを感じます。
返信文を以下に。
----------------------------------------------------
なにごともなかったように嵐が去っているという読書感は面白い話ですね。
時間の流れが逆になっているからだと思うのです。嵐が起きて、後に何かが残る。精神分析ではその時間の流れを逆にさかのぼるわけです。
VTRを逆回ししたように、嵐のあとは、嵐が起きる前になるんですね。それは心の中の成長として吸収され、後には何も残らないわけです。

ちょっとこの話は掲示板にも転載しようと思いながら書きますが、
「病んだ心の崩壊」がその最大のクライマッックスになりますが、これがまさに「後に何も残らない嵐」の最大のものになると思います。
それは人間のなかで、ひとりの人間が死に、新しい人間が生み出される、再生のようなものですね。

この、自己操縦心性の巨大な崩壊を、読者にシミュレーションさせる。これにまさる、僕が社会に提供するものはないと感じていますね。
これが人間を再生させる動きである一方で、現実生活での問題と同時にこれが起きると、とても危ない。それを文芸という、現実生活から切り離すことのできるものとして提供する。
これが心の問題への最終兵器になり得るような気がしているのです。
----------------------------------------------------

ここで補足するなら、操縦心性の崩壊は、本人にとって「乗り越えることのできない絶望」として体験されます。
そう理解して乗り越えましょう、ではなく、乗り越えられないのです。
ハイブリッドではそれをできるだけ緩和した形にするような進め方を考えていますが、それでも、そのような体験は、通過点として、どうしても残ることになる。理論上そうなってます。

ただしそれが僕の事例のような猛威になるのに対抗するものをハイブリッドが提供していることは、間違いないと思っています。
僕のケースは、病巣の主の毒虫を、その活力を減らす手立てを何もしないまま駆除したようなものであって、活力を残した操縦心性がその駆除に際して大暴れしたわけです。
操縦心性への対処の技術がまだ確立してなかったので、そうなった。

ハブリッドでは、先にその毒虫の活力を徹底的に減退させてから、その駆除に向かうという進め方を考えています。
それが果たしてどのようになるか。これは一人の人間の一生に一度あるかないか、という話なので、この結果が世に言われるようになるのはまだまだ先でしょう。
まあ僕は何につけ今は楽天家でおり、結果はあまり気にしてない面もある。自分が語るべきものが膨大にあるというだけでも、僕はもう報われてるんですね。

あとメールでは、文調などについての感想も頂きました。
それにつき感想として返信したことを以下に。
----------------------------------------------------僕も言葉にはチョーこだわりますね。
文芸と位置づけるものについては、「それ以外にはあり得ない言葉」というものがあり、それが僕という媒体を通して出てくるという感覚で書いています。
そのためか、自分が書いた文章という感覚が、後で読み返してもしないですね。というかそんな感じになった時が、稿ができた時という感じです。
まるで自分が自分に語っているように感じるというのも、そんなところが一応うまく行っている結果なのかも知れませんね。

反面、言葉を練るのに時間がかかるという感じ。オリジナルは結構な量になってますけど、ほとんど書き直しが必要な感じで、先は長いなと。
その分、充実したダイジェスト版を早く書きたいと思っています。

No.431 2005/02/02(Wed) 16:34

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