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過去ログ
2005.3


離反と人間関係と真空状態.. / しまの

『ハイブリッドが勧める「どう生きるか」』(3/24)へのタロさん質問(3/29)への回答です。
幾つかポイントを説明したいと思います。


■「人生の意味」ではなく「幸福の条件」

まず、ホーナイの方で、「人生の意味」という表現はしていなかったと思います。

これは僕の考えですが、「人生の意味」というのは問い自体が間違っていると思います。
「意味」はそれを感じる人間がいて発生する。
つまり人生があって、その中であれこれがどんな意味があるかという話が出る。人生がなければ、意味というものはない。
「人生そのもの意味」は、人生の外から、「人生」を目の前において、その意味を考えるという話になり、そんなものはなし。

心理学で言えるのは、人生の意味を疑問に感じる心理状態というものがある、ということです。
そのメカニズムを一言でいうなら、ずばり「望みの停止」状態で、そうなります。
望みが脳のレベルで閉塞状態にある時、人生に意味はないという感情が生まれます。
これについては今カキコ中のシリーズなど参照。

一方、ホーナイは、人間の幸福の条件を言っています。これは心理学の歴史で有名なものです。
1)自分自身への責任。これはハイブリッド心理学での「自己の重心の選択」そのものですね。
2)良好な人間関係
3)創造的な仕事

ハイブリッドでは「望みに向かって生きる」と言っていますが、その具体的内容にはあまり触れていません。
ただし、それとの対照として、「自分の姿の評価の中で生きる」というのを、お勧めでないものとして説明しています。
これはつまり、「望み」の内容として望ましいのは、幸福な自分の「姿」ではなく、自分が幸福であるような「活動」だという考えを持っています。

「人生の活動」ですね。
人を愛し愛される自分の姿を追うのではなく、人を愛する活動とは何かを考えるのが良い方法です。
楽しみの中にいる自分の姿を思い描くのではなく、自分にとって本当に楽しい活動は何かを探すことが大切です。


その先、何を望もうがそれは本人の趣味嗜好にお任せしますが、
まあやはり、良好な人間関係に囲まれながら、創造的な仕事をする。これに勝る、確実な幸福の条件はないと僕も感じますね。


■人間関係がないと意味が感じられないのは「愛情要求」の問題

良好な人間関係は、より良い幸福への条件ではあっても、「人生の意味」の条件ではありません。

つまり、健康な心理状態においては、人間関係を全く含まないさまざまな喜びや楽しみが感じられます。おいしい食べ物、美しい風景、心地よい運動。。それだけで、心底から幸せな気分になる。
それが、ある特定の状態下で、人間関係がないと全てが味気なく感じることが起きます。
誰か一緒にそれを共有する人がいないと、何か意味のないことに感じられてしまう状態です。


この状態を「愛情要求」と言っています。
「残存愛情要求」と言うこともあります。これは幼児期からの心理発達メカニズムに触れる時使う言葉。

なぜ愛情がないと、全てが味気なく感じるのか。
それは、人格の底に不安が恒常的に控えているからです。そして愛情が不安を打ち消す性質を、生来的に持っているからです。


このメカニズムは「愛のメカニズム」で説明せねばと考えていたものです。
愛が恐怖を凌駕する感情であることは、動物心理学のレベルから言って生来的メカニズムです。
そして不安の蓄積とも、愛による不安の解消も、意識が及ばないところで起きる連鎖である時、背景的不安を持つ人間が強制的愛情要求にとらわれることも、まったく意識を超えた形で起きるということです。
愛がないと、自分は危険にさられているのであり、ものごとを楽しむ余裕などないということです。

この無意識メカニズムは、性衝動の増強という現象において、最も端的です。
まちょっと話がそれてくるので詳細は省略^^;

ようは、「人間関係を含まない中では人生の意味がない」というのは、愛情要求の問題だということです。
この克服はいかに。
話が膨らみすぎるのでこれも今回はしょーりゃく。


■離反における「知性化」という問題

「人間関係がないところでは真空状態」という言葉に注目すると、また別の問題があります。

今度は上の話とは逆で、「自分には人間関係なんて必要ない」と言っているような人の場合。友達なんて。恋人なんて。
本人はしばしばこれを難解な哲学の中で、それが真実かのように考えようとすることがあります。真実の愛なんてない。個の独立こそ真実だ。とか。

この場合大抵、ものごとを頭の中で知的に考えるだけで、人生が分かったような気になっているという問題があります。
これを「知性化」といい、離反傾向に伴って起きる問題です。

実際に体験するのと、実際に体験するのとは、大分違うものです。
自分の人生を見出したいなら、頭で考えるだけでなく、実際に体験することが大切です。


まこんなとこで、言葉から拾える心理学解説でした。

No.500 2005/03/30(Wed) 14:38

 
Re: 離反と人間関係と真空状態.. / タロ

毎回本当に丁重な解説ありがとうございます!本当に助かります。
また質問するかもしれませんが
その際はよろしくお願いします。

No.504 2005/03/31(Thu) 22:45

クリアされなかった発達課題 / 匿名希望

“大人になる過程で、さまざまな心理発達課題というものが起きてきます。
それにより、基本的に子供時代とは違う心理構造になるという次第。

望みが停止されるのは、人を気にするあまりというより、一言でいえば「自己への対処の仕方を知らない」ことによると言えると思っています。
さまざまな不安や、理想と現実のギャップ。そうした自分自身の中にあるもろもろの問題を、望みを停止するという方法で対処するという、基本的傾向が、人間の心にはあります。

それはもう人の心理発達過程の中で蓄積される心の動きなので、もう望みを生み出すべき脳が閉塞状態にあると言ってもいいような感じに、大人になると出来上がっています。”

ということは、その心理発達過程の心理発達課題を一つ一つ順を追ってクリアしていけば「望みの停止問題」はおきないのではないでしょうか。私は、どうも発達過程を失敗してしまったから、今こんなに分からないことだらけのような気がするんです。でも、今の状況は受け止めて、これからもっと納得いく人生にしたいのです。そのために、発達課題がなんだったのか是非、知りたいです。

No.499 2005/03/30(Wed) 05:26

 
Re: クリアされなかった発達課題 / しまの

僕の感情メカニズム理論では、心理発達課題というのは3つを考えています。
なおこれはあくまで「人生における幸福」という上位課題に対してです。学習知性とかについても、幼児期の発達課題というものがあると思いますが、専門外なので。人生の心理学です。

感情メカニズム理論で説明していますが、
幼児期
 基本的信頼の獲得
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech01-011.html
では「基本的安心感」と書いてますね。

思春期要請
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-011.html
 1)自信への要請
 2)優越への要求
 3)人格統合への要請


この中で、「優越への要求」を除いたものが、心理発達課題です。その時期に獲得されることが、極めて望ましい。
獲得に失敗した場合、その状況に応じた心理症状が現れます。
いくつかワンポイント補足。

「基本的信頼」は、よく「十分に愛され人への信頼感があること」と言われますが、僕はかなり異なる考え方をするようになっています。
愛情への信頼よりも、「現実への信頼」だと考えています。これが損なわれた状態は、現実が嘘だという感覚が広がっている場合です。
各種の心の問題を、「子供の頃に十分に愛されなかったのが原因」と言うのを良く見かけますが、「愛情要求」という症状の結果そう考えようとする心理現象が起きるということになります。

「自信への要請」は、人生においてかなり長期的に作用する発達課題だと思います。
「優越への要求」は、「発達課題」ではなく、「自信への要請」という発達課題に関連して顕著に現れる感情です。特に、自信への要請が損なわれている状態で、強烈になりやすい。

これらの発達課題がうまく達成できないと、しばしば自己の内部に矛盾した感情の蓄積が起きます。
それが最後の「人格統合への要請」とかちあってしまう。この結果、心理障害というのが思春期に表面化するというメカニズムになっています。

こうした発達課題の理解そのものは、その課題の適切な獲得や、未獲得課題の回復には特に役に立つ話でないことに注意して下さい。そのためのより具体的心理学が必要になります。
まハイブリッドの全体がそれを説明してるんですけどね。

No.501 2005/03/30(Wed) 15:45

 
Re: クリアされなかった発達課題 / 匿名希望

あちゃー。そうですね。すべてのウェブを読んだつもりで、まだ身になっていなかった、ということですね。理論に拘らずに自分独自の人生を生きることに尽きる、ということのようですね。そのためのハイブリッド理論。
先日、友人に「何で他の人は大人になれていて、私はなれていないのか分かった。それは、私は誰かに「大人はこういうものですよ」というのを言ってほしいのにひきかえ、他の人達は自分で大人になろうとしている、という違いからきてるんだ」って話したはずなのに。。。分かった気になっては行動が伴わない。でも、死ぬまでに何がしかのことを学べれば本望なので、自分の心理的成長の遅さを呪う事はしません。いつもいつも、本当に島野さんにはお世話になります。心から感謝しています。

No.502 2005/03/31(Thu) 05:14

 
Re: クリアされなかった発達課題 / しまの

心理発達課題という考え方は、理論です。
一方、それを獲得するため、また損なったものを回復するための方法という考え方は、ノウハウです。

ハイブリッドではノウハウも全部用意していますので、じっくり読んで参考にして下さいな。
基本は、「望みに向かって生き、心の選択を探し、自己を深く知る」ことです。
その実践の中で、詳細な心理学が役立ちます。
つまり、理論はノウハウによって、初めて役に立つわけです。

No.503 2005/03/31(Thu) 09:34

ハイブリッドが勧める「どう生きるか」 / しまの

きのうハイブリッドがお勧めする2つの「生き方」についてカキコしましたが、似たテーマで返答メールを書いたものがありますので掲載します。
2つのお勧めとは、「自衛と建設」そして「不完全性の受容」でした。

以下に転載する返答文では、「どう生きるか」について、より大局的な総括のようなものを書いています。
これが、この人生をどう生きるかについて、ハイブリッドが勧めるものの話ということになります。

つまり、人生の目標であり、それに向かうための方向性という話。
目標があり、方向性があり、そこで持つべき姿勢や方法という手段がある。自衛と建設や不完全性の受容とは、姿勢や手段の話であり、ノウハウということになります。

では何を目指して生きていくか。その大局観です。
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■ハイブリッドがお勧めする「生きる姿勢」

ハイブリッドがお勧めしている「生きる姿勢」とはどんなものかをまとめたくなりました。
あちこちで書いてはいるけど、今の僕の言葉ではどうなるか。

全体は「実践ガイド」にまとめている通りであり、沢山の事柄があります。
でも本質があり、それは案外簡単なことなんですね。あくまで「口で言うのは」ですが。

それは、自己の望みへと向かって生きることです。
そのために、心の選択を学び、自己を深く理解し、建設的になることを妨げるさまざまな悪感情に対する望ましい心の姿勢を学び、実践する。


「どうすれば」という問いに対して、答えはそれだけです。
感情は人為的に変えることはできません。操縦心性もそうです。そんなものがあることを、一つの制約として、前に進むことです。それを支持する世界観を採用しています。
その過程で、心が成長し、操縦心性は自然崩壊します。
それによって私たちの心は真の自由を見出します。これは「どうすれば」得られるものでもなく、心の自然成長力、自然治癒力として、私たちの意識的努力を超えてそなわっています。
それを開放することです。...と言ってそれを開放すると意識することでさえありません。


「建設的であること」が、そのための一つの技術です。これは意識的に努力することができます。
生きる姿勢、ものごとに対処する姿勢には3種類があり、破壊自衛建設です。
これは生きる姿勢そのものなので、どんな相手にという違いはありません。全てにおいてです。そのために、破壊ではなく自衛さらに建設によって自分を守り、幸福を築いていくための、具体的な行動法思考法を学び実践することが大切です。精神論ではなく、かなり具体的ノウハウがあります。ハイブリッドが細部に渡るのはその辺です。


■「人に対して心を開く」という個別テーマの話をちょっと入れてあります

「こんな相手には、心を開いてもいいんですよね?」という言葉がありましたが、これも自分の願望として捉えるのが良いと思います。
どんな相手に、どんな場面でなら、心を開いて「良い」という、基準はないと思います。何をしたいのか、どう役立つかということだと思います。

ちなみに、僕自身のことを言うと、日々開放的で充実し楽しい嬉しいという気分が主調になっている現在においても、人に対して「心を開く」ことはほとんどありません。というか、心を人に対して「開くもの」と感じる感覚があまりありません。
ちょっと思い返すと、「心を閉ざす」という状態があり、それによって欠乏したものを、「心を開く」という「あるべき姿」の固定的なイメージで追い求めようとした感情があったように思えます。

これは僕自身が強固な「離反型」をベースに生きながら、今の自分を確立できたということもあると思います。男女の違いというのもあるでしょう。
いずれにせよ、そうしたいならすればいい。

なお、「自分の感情をそのまま相手に示す」というのはあります。ただこれは心を開くというより、そうすることが良い結果をもたらすという判断の下で、自分の意志で行っていることであって、まず自分の心は自分で維持するというのが先にあります。
まあ、今後一体化の愛を感じるような相手が得られれば、どうなるかは未知ですが。


■自分批評の中で生きるという感情についてどんな姿勢を持つべきかに触れます

「望みに向かって生きる」のとは対照になるのが、「こうなる」ことを目指して生きるという姿勢です。
つまり自分を他人のように眺めて、あんな姿やこんな姿であるという評価の中で生きる姿勢です。

その姿勢の問題点をここで詳しく繰り返す必要はないでしょう。
むしろお伝えしたいのは、自分を他人のように眺めて批評する感情に対する、望ましい姿勢です。

それを知り、決して否定しないことです。
自分批評の呪縛を脱した人間になることが、ハイブリッドの勧める生き方の目標ではありません。「答えはそれだけ」と上に言った生きる姿勢の定義には、その言葉は出てこないと思います。望みへ向かい、選択を知り、自己を知るだけです。

自己を批評する、閉ざされた感情が生まれるメカニズムが、人間の心にはあります。そんな、弱いものなのです。
それを否定し、開かれた心で人々に向かう自分の姿を求めた時、ループにはまります。
どうすればこの感情から抜け出せるのか。その問いそのものが、その感情を作り出すものから生まれます。自分に閉ざされた感情があっては駄目だ、そんなものないようにならなくちゃ。
そうして自分の望みに向かうことをやめた時、人は自分の人生を生きることを忘れてしまいます。

そんなものがあっても、自分の望みに向かって生きる。
そのための行動法思考法を、ハイブリッドでは用意しているんです。

その過程で、操縦心性は自然に崩壊します。それは多少「峠」の姿になります。心の手術的な。これは意識して「なる」ものではありません。それが通過点としてあるという心得だけが必要です。

「どうすれば」への答えに戻ると、望みへ向かい、選択を知り、自己を知ることです。
どうなるという姿はありません。一生続く、向上のプロセスになります。


「自分はどんななのか」という目から、幾らでも、こうすればああすればという思考がぐるぐる回ると思います。
そんな時、「結局自分は何を求めているのか」という問いに立ち返るのがいいですね。
同じ問いが、少し違う角度から見えてくると思います。
そして少し違う角度から、「自分はどんななのか」という問いが生まれる。そこには再び自己批評感情が入りこんでいるでしょう。
そして再び「結局自分は何を求めているのか」という問いに立ち返る。
これもまあループですが、微妙に、自分を閉ざしていくループと、開放していくループという違いになります。
----------------------------------------------------------------
ひとつここで加えておきましょう。

■望むことを損なった心に対しては..

望みへ向かって生きる。
これが全てを貫く指針としてあります。それが心の自然成長力と自然治癒力を開放するための原動力です。

同時に、それを妨げる大きなものがあることも認識しておくべきでしょう。これが最も科学的心理学として認識しなければならないことなのです。
我々が取り組もうとしている問題は、それを克服するための原動力をまさに損なう働きを持っていることです。


自分は望むことさえ損なったんだ。駄目なんだ。
まさにこの感情が、問題の核として現れるでしょう。

感情はそう言います。これを「変える」ことはできません。
しかし、それは「変わる」のです。
ここに、感情に全く依存しない自己への視線という課題が提示されます。医学の態度そのものです。一切の感情から中立的に、何が自分に起きているのであり、何によってその問題は消えるのか。
その、心理学の知識が必要になります。

人間の心が、他者によってメスで治療できないものである限り、その科学的心理学の目の有無が、常に本人に問われると考えています。

No.488 2005/03/24(Thu) 10:29

 
Re: ハイブリッドが勧める「どう生きるか」 / タロ

ホーナイの本を読んで見たのですが、
その中に離反の部分で「人間関係を含まない中では真空状態と同じ、人生の意味がない」
といった内容の文章があったと思うのですが、これについてどう思いますか。
ちなみにすみません。上の文章は多少間違っているかもしれません。。

No.498 2005/03/29(Tue) 21:25

望みの停止問題-5 / しまの

「こんな自分でも生きていける」。
その希望に満ちた前進への感情が、恐らくどんなに外面的に恵まれない条件下にある人間にも、起き得ると考えています。


これは比較という相対的な問題ではありません。
よく、生きる意味を見失った人に、恵まれない人の姿を見せ、「それに比べれば自分は..」という意欲を起こさせるという方法を勧める人が、世には実に沢山います。
「こんな私だって生きがいを見つけられたんです」という言い方、つまり自分の幸福は決して外面的に恵まれたからではない、という言い方をする人も、沢山います。

僕はそうゆう言い方はしません。
自分の持ち駒は徹底的に生かして、より幸福度の高い生活と人生を実現する。最大限そうするための、「心の使い方」を言うだけです。
持ち駒が少なければ、その分不利になります。
最も幸福にとって不利なのは、自然そのものが生存に適さない状態になった環境です。その点今は幸福な世紀と言えると思います。

僕が詳しく取り上げたいのは、自分の持ち駒が見えなくなる心理というものがあるということなんですね。自らそれを否定するように感情と思考にバイアスがかかる仕組みがあるんです。
それが「望みの停止」というメカニズム。

自己操縦心性は、まさに望みの停止のメカニズムを、その本質として兼ね備えています。
「こんな人生なんて」という感情と思考を生み出す仕組みになっているんです。

そのひとつの要素は、「理想化された自己像」がしばしば、現実離れした高い基準になっていることです。
自己理想化像がしばしば現実離れした高い基準になることは、望みの停止が起きる原因のひとつでもあり、望みの停止の結果でもあると思われます。

現実離れした高い理想像があるので、「こんな現実では..」と望みの停止が起きる。
望みの停止が起きると、行動する意欲が自分から起きなくなり、人から情動を与えられる必要が出てくる。人に相手にされる必要が出てくる。
そのためにはこんな姿でなきゃ..と自己理想化像の基準が高くなる。

実際のところ、意識上に見えるのは、そんな出口のない循環のようなものだと思います。

引き続き返答メール文より。
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■自己理想化像と「望みの停止」

「そんな人生なんて」という感情になるのは、ある自己理想化像が基準になっているからですね。
大抵の人に、というか実際のところ全ての人に、愛される自分。そのためにはこんな姿でなければならない。

「こうあるべき自分の姿」を抱いている場合、自分の可能性を尽くすという意志は生まれにくいですね。
自分がこんな姿であれば、人から愛される。
その硬直したイメージが心をおおい尽くしてしまいます。
自分の可能性という感覚は見えず、多様な現実世界も見えない。

ここに「望みの停止」が絡んできます。
自分から望みに向かう感情が停止されているので、外から感情を与えられる必要が出ています。
他人から情動を与えられなければならない。そのためには、自分がそれに値するように見える姿でなければならない。


意識に現れる感情は、そんなものだと思います。
今までの話の中に、出口は見えませんね。
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こうした、出口のない循環論理の壁を越えるためには、幾つかの異なる視点からの、心理学知識が必要になります。
それを続けます。

また明日以降。仕事もしなきゃ。やべえやべえ^^;

No.495 2005/03/28(Mon) 15:22

 
Re: 望みの停止問題-5 / 匿名希望

大人になると、なんでこんな面倒なことになるのでしょうか。私の5歳の子供は、いつでも「わたしのやりたいこと」を見つけて、何かしらやって楽しんでいます。つまり、いつでも望みがある状態ですよね。なんで大人になるとこうなってしまうのでしょうか。他人をきにするあまり?

No.496 2005/03/28(Mon) 23:11

 
Re: 望みの停止問題-5 / しまの

おはようございまーす。

まあ子供はあくまで脳の発達過程の中にありますので、
心理発達としても違いがありますね。
大人になる過程で、さまざまな心理発達課題というものが起きてきます。
それにより、基本的に子供時代とは違う心理構造になるという次第。

望みが停止されるのは、人を気にするあまりというより、一言でいえば「自己への対処の仕方を知らない」ことによると言えると思っています。
さまざまな不安や、理想と現実のギャップ。そうした自分自身の中にあるもろもろの問題を、望みを停止するという方法で対処するという、基本的傾向が、人間の心にはあります。

それはもう人の心理発達過程の中で蓄積される心の動きなので、もう望みを生み出すべき脳が閉塞状態にあると言ってもいいような感じに、大人になると出来上がっています。
閉塞状態の内部はもう意識では何が起きているのか分かりませんので、「人を気にしすぎる」とか意識できるのがせいぜいです。
つまり、人を気にしすぎるのは、原因というより結果です。

この閉塞状態にある脳を、解きほぐして、望みを再度湧き出るようにする取り組みというものがあります。

まずはこの状態を意識することからですね。自分がいかに、望みを停止するような思考法をしているか。
批評的な思考はその最たるものです。あの人はあんな人だ。自分はこんな人間だ。
また、「望む資格」思考もそうです。あんな人間に何する資格はない。
「身の程」という観念。分相応。自分をわきまえろ。図々しい。「ザマ」という観念。
これら全てが望みを停止する機能を果たす思考法です。

人は、自分の望みが閉塞状態にあることを嘆く一方で、こうした思考法をいかに当たり前のようにしているか、そしてそれこそが望みの停止の基本的背景になっているということに、気づいていません。
まずはそれを自覚することが大切です。

そして、もしその状態を脱することを望むのであれば、全く異なる思考法を学んで実践する必要があります。これは選択です。
場合により、望みの閉塞状態を脱することを「望む」ことさえ停止する心の動きが起きているかも知れません。それもやはり、そんなことが起きていることを知ることからです。

ハイブリッドで採用している人生観世界観が、望みの停止の動きに対抗するため人生観世界観です。
人生はゲ−ムであり、スタート地点に平等はありません。しかしそこからいかに前に進むかということに、このゲームのでの成功がある。
全ては許されている。自分と同じように他人の全てを許すとは、それに応じた対人行動法を習得するということです。これがハーバード流交渉術に代表される、感情には全く依存しない対人行動法です。

最後に、望みの停止を起こさせた根本原因の除去という課題があります。これは脳が閉塞状態にあると表現できるような、脳生理的レベルで蓄積されている問題です。
それが感情の膿と、自己操縦心性
この除去が起きる姿は、専門的な心理学知識として理解しておくことが望ましいものです。多少「心の手術」的な、辛い局面ですが、これにより脳の構造が変わったと思えるような開放状態が起き、望みの根本的回復が起きる、という流れになります。

この心の手術的局面については、このシリーズも含めて今後重点的に解説する予定です。
うん、「望みの停止問題」の良いサマリーになったなあ。

No.497 2005/03/29(Tue) 09:49

望みの停止問題-4 / しまの

返答メール文より。
ここではまず、客観的な思考の重要性を指摘しています。科学的な客観的思考が重要だということです。
なぜなら、それによってしか、操縦心性に具現化された思考の論理に対抗できないと思われからです。

感情に流れる、非科学的思考は、どう頑張ったところで、操縦心性のお友達になるように思えます。

--------------------------------------------------

「乗り越えられない」と感情が感じている恐怖から、思考を分離することが必要だと思います。
思考で「乗り越えられるはずだ」と対抗することではなく、できるだけ客観的な目で、現実というものを見ることが重要です。

書いているうちに、サイトとかで書き足りていないこと全体のサマリーみたいになりました^^;

■イメージと異なる現実世界という大海

現実社会とはどんなものなのか、という認識が大きな役割を持ってくると思います。
まず以下について僕の考えを説明しましょう。

>もっと卑近な例として、容貌が劣る女性が粗末な扱いを受けることなども、
>それを悪と言ったところで現実なわけです。


容貌が劣る女性に対して、ぞんざいな振る舞いをする人もいるでしょう。

一方で、そうでない人もいます。それは別に、それが悪だからと、自制心によって自分の姿勢を正しているからではありません。
もとから美人不美人への分け隔てない態度を、自然に取っている人々がいます。
僕の勤めている会社は外資系の会社ということもあり(?)、男女美醜は全く問われません。
容貌には関係なく、前向きで建設的な人間、そして仕事ができる人間が高く評価され、女性管理職も沢山います。

恋愛においては、美人が有利です。これは自然の摂理。
美醜とは、健康で子供を生むのに適した形態に対して、惹かれる感情がDNAに設計されているのですね。

何を言いたいかというと、この現実社会は、多様であるということです。
人が人に何を求めるかによって、どう評価されるかは異なってきます。ある場やある相手に自分が評価されず愛されないという場合、それは単にアップルパイよりもレーズンパイの方が好きという、趣味嗜好の違いと捉えることも可能です。

実際のところ不美人の女性が、それを理由に、「自分は誰からも愛されない」という思考をする場合、「誰からも」というのは論理的に誤りです。
「誰からも」というのが正しいためには、100%そうでなければなりません。
「なかなか愛されることがない」なら正しいかも^^;

でもそれで「誰からも愛されない」という思考によって人生を捨てようとするなら、それは「自分の可能性を尽くしていない」ということです。
少数派かもしれない、自分を愛する人間を、探そうとする努力をしない、ということです。


そう頭で分かっても、どうにもならない。。
感情が「そんな人生なんて」と言う。

No.494 2005/03/28(Mon) 14:52

望みの停止問題-3 / しまの

3/3に書いた続きです。「感情分析実践指南-8に掲載した返答メールの続編として書いたもの」という返答メールを紹介しようと思って、そのままでした。

これはハイブリッド心理学の取り組みの中でも、より困難な、問題の核への対処に関連する話になっています。
「より困難な問題の核」とはどうゆうことかと言うと、「取り組みによる向上改善」が全く感じ取れない形で、問題の克服が起きる領域のことを言っています。

感情としては、もう悪化としてしか感じられない。
意識の上には、とにかくそれを破滅として避けようとする思考や感情しか出てこなくなります。
ハイブリッドの用語では、「自己操縦心性の崩壊」という局面の話ですね。

紹介することにしといた返答メールでは、これに関わるさまざまなテーマをごく簡潔に通しで説明しています。
操縦心性が起こさせる思考というものがあり、その根底には、操縦心性が触れまい触れまいとする感情の膿がある。それに触れないためなら、その人間に人生を捨てさせようとする。
そんなものがあるのですが、つまるところそれは、ある人間の思考論理が凝縮して具現化された「別の人格体」とも言える振る舞いをする。

まず何が起きているのかを知ることです。
そして、操縦心性に具現化された人間の思考体系に対抗し得る、新しい価値観人生観を持つことが重要になってきます。


サイトなどで書き足りていないことを書きなぐったような感じもあり、多少整理不足のところもありますが、少しづつ分け、補足など加えながら紹介します。

その前にぜひ、前説となる3/3「望みの停止問題-2」に目を通しておいて下さいまし。

No.493 2005/03/28(Mon) 14:44

遅い理由.. / しまの

このタイトルには何となくアハハ..

小説ダイジェストですが、順調に進んでいますが、超スローペース。
とにかく練りに練っているため、執筆作業の割りに、できあがる原稿量はあまり増えていないんですね。何か10回どころか20回くらい、読み直しては言葉を直すというのを繰り返している。

なぜこんなに時間がかかるかというと、基本的には大学当時の日記を元にした小説オリジナルを読み返しながらの作業なのですが、何が起きているのかが僕自身はっきりつかめてなかった部分があるからなんですね。
微細な心理メカニズムという点でです。それがつかめてない所で、片手落ちの描写に終わると、何か薄っぺらな文章ができあがる。
一方、心理メカが見えている所で、印象力のある言葉をうまく配分すると、それは、いつ、どこを読んでも、ありありと、ある心理模様が伝わってくる文章になる。

そのあまりに端的な違いが十分分かっているので、自分が書いた文章が完成したものか未完成なものかは、実感として直感でわかる。
という感じ。

で、何が起きているのかという心理メカを把握するためには、まず感情パズルのこまが記憶なり自分の心理メカ論なりから候補が拾いだされて来て、それらが組み合わされていく流れが頭の中でシュミレーションされる。何か足りない..うんこれが重要だ..とか繰り返しながら。

その作業自体が時間がかかるということもあり、さらに時間がかかっているのが、不足した感情パズルのこまを見出す部分ですね。
しばしばこれが日記そのものには書かれていないことがあります。オリジナルの初稿もまだまだ、日記を読んだ感想を書きなぐっているだけの感じで、そこまで考慮の上では書いちゃいない。
結局どこにも書かれていなかった感情パズルの駒は、今までのダイジェスト部分を読み返したり、オリジナルを読み返したりして頭にとどまっている流れを何度も反芻している中で、ふと湧き出てくる、という感じになります。
主に通勤電車の時間を推敲に当てていますが、日を明けて改めて頭から推敲とかすると、結構スイートスポットの感情の駒なり言葉なりが出てくることが多い。

てなわけでかなり時間がかかっている訳でありやす。
ようやく、初恋当時の自己がありありと蘇ってくるまでの心理メカが見えてきた次第。これは明らかに、今までの部分に比べて難しい所だと思う次第。

4月中にはUpできると思うんだけどなあ。。

No.492 2005/03/28(Mon) 09:50

ふと / ハリー

思いましたが、
最近何かと話題のホリエモンさんとしまのさんがダブって見えます。
テレビとかに出てるのを見るとしまのさんを思い出してしまいます。

No.490 2005/03/26(Sat) 20:07

 
Re: ふと / しまの

ども。

賛否どっちよりのイメージかはいずれかにせよ、
実に感慨深い指摘ですな。

そして実際、どっちでもいいんです。ホリエモンは、自己を社会に対峙させて生きるという生き方の象徴のように思えますね。慣習とか作法とか、無視しているわけではないけど、それもあれやこれやの持ち駒のひとつでしかないわけです。まずは自分がある。持ち駒があり、何ができるか。何を相手に行動できるか。ゲームです。

僕もぜひ彼のように、自分の裸を社会にさらけだして、社会そのものを対等な相手として生きたいですね。洋服脱いだ裸という意味じゃなく。あはは。

ま、マジな話、僕がそうしてもささやかな話。このサイトなどで彼と比較すべくもないと思いますヨ。
でも全ての人にとって、そうではないかと思うんですね。自分が社会にあい対しているという充実感を求めているのではないかと。その答えは、ホリエモンのようになることではなく、今目の前にあることが社会につながっていることを見出すことになるかもしれません。

実は結構熱い感慨の中でこのレスを書いた次第。
実は僕自身、まもなく社会に出るということもあり。島野隆とのつながりはとりあえず出さずに。ま何だったかはいつか出します。
あと、スーパーのバイトで社会とのつながりを感じて涙を流した、今は亡き、ある輝いていたボーダー女性のことなど思い出しながら。。

例によってカキコへのコメントを超えて、連想の赴くまま徒然レスでした^^;

No.491 2005/03/26(Sat) 23:05

自殺肯定派vs自殺否定派.. / しまの

今さらわざわざ書く問題ではありませんが、
ちょっとネットで調べ物してて偶然ひっかかった、ある医師(精神科医?)の一問一答集みたいのを見てたらこんな話題があり、原稿ネタは何でもメモメモφ(・・)ということで。

問いは、自殺の肯定派ですかそれとも否定派ですかというもの。

そのセンセは「死にたいやつは死ねば」とかの、乱暴だが詳しく読むと医者の倫理観みたいのにも触れた結構面白い内容だった。これは省略。

で僕がどう考えるかと書くと、「問いが間違っている」ですね。
「自殺を肯定しますかそれとも否定しますか」って何のことか。「インフルエンザを肯定しますか否定しますか」と問うのと似たような。
「あなたは自殺しますかしませんか」という問いは、文法的にも意味ある。僕はしましぇん。

「自殺しようとしている人がいる。もしくは私は自殺しようと思う。あなたはそれに同意しますかしませんか。」こう言えば文法的には多少意味がある。
でもまあ結論から言えば、「その問いはない」ということになります。あるのは、死を望むようになる心のメカニズムというものがあり、心の選択というものがある。言うのはそこまでです。
これはハイブリッド心理学の説明で言うと、「自己の重心の選択」を言っているので、その問いそのものがなくなるという話。

世のカウンセラーには、「あなたが死ねば私は悲しい。神はあなたを愛している。」というのもあります。著名な心理学サイトのセンセなどもそうでしたね。
それはその人の生き方考え方を示す言葉であり、僕は肯定も否定もしない。まあその「愛の意志」は尊敬できるものと思います。

実際のところ、僕は自殺念慮を伝えられた時、「聞かなかったことにする」という感じ。あっはっはむせきに〜ん。
まあ僕の心理学がそうゆうものなんでしてね。とくかに心のメカと選択肢をお伝えするわけです。

今さら書くまでもない話でしたが、出版本にはこんなテーマも入れるのかなと思いつつ。

No.489 2005/03/26(Sat) 12:21

2つの「生きる姿勢」 / しまの

ようやく仕事合間に原稿メモなどカキコできる状況になってきた。

オフシーズンモードということなんだけど、本格的にオフシーズン気分になるのは、スキーで疲労した体調が回復した時かなと。
あと今回残っているのが、左手の小指根元あたりを曲げる時の痛み。特に何したわけでなく、スキーで小回りターンをする時にストックを激しく突きすぎて痛めたらしい。
捻挫か..まあ骨折はしとらんだろう。
いずれにせよ、どうせ治療は固定するのみ。外目で変形もなく、痛み以外の支障はないということで、なるべく動かさないことにして放置に決定。
些細なことですが、しかるべき処理をすべきものと、気にせず流すのみが良いものとを、自分なりの医学的認識でもって判断する。
この主体的判断が大切
ですな。その正しさについては議論があるかと思いますが、まずは感情に流されずに客観的に自分自身のための判断をする。この主体性が身体面でも心理面においても重要だと思います。
何のためにか、というと、これは幸福になる技術としてですね。
余談でした。

原稿メモとして書こうと思ったのは、ハブリッドがお勧めする「生きる姿勢」に2つのものがあるということ。
これは「実践ガイド」では、人生への姿勢ということで、自信や愛についての話の前に入れようと思っています。

2つの生きる姿勢とは、2つの側面において、人間にあり得る「生きる姿勢」の中で、ハブリッドはこれをお勧めしています、というもの。

ひとつは、物事に対処するための「破壊」と「自衛」と「建設」という姿勢の話。
ハイブリッドでは自衛と建設をお勧めする。これは既に書いている。

もうひとつは、「不完全性への姿勢」という話。
善悪の解体の話は、ここに行き着きます。「望みの停止問題」もそう。
それだけ大きな話なのですが、ハイブリッドにおいてどのように位置付けられるかははっきりさせてなかった。人生観としての「心を解き放つ」とか「唯一無二の存在として生きる」という流れで話すことも可能だろうけど、そこから独立させるべき大きなテーマだと思います。
なぜなら、ハイブリッドの姿勢全てを採用したとして、さらにこの問題が、単独で扱わない限り、残るからです。人間は根本的に不完全な存在である。
「建設」を選んだとして、そこに、完全を求める人間の心のメカニズムが忍び込む。そして再び人間の心を破壊へと向かわせる。

で選択肢として、「不完全性の受容」という姿勢があります。
それは我々の中にある、不完全で、望ましくなく、受け入れがたい、異質なるものの存在に対してどんな姿勢を取るかという話です。
人間が取る、2種類の姿勢がそこに選択肢として現れる。
ひとつは、不完全なるものを消滅させようとすることです。
もうひとつは、共存するままでいることを受け入れることです。

実はこれは、親子間の愛情について考えていて思い浮かんだことです。人間の心の根源的なメカニズムとして。
幼少期の愛情要求は、互いの間に隔たりのない、心の通い合った一体化の状態を求めます。相手への不信が起きるようなことがあった時、しばしば、起きた出来事そのものよりも、不信という感情がまぎれるようになったことへの嘆き怒りが起きる。

しかし人間の成長過程において、これは不可避的に起きるように思えます。今までとは違う、他人を見る視線が入る。親と一緒に風呂に入らなくなった時といったことかも知れません。
もっと根源的な敵対不信の感情を引き起こす事件かも知れません。
それがエスカレートした時、人は「親子の縁を切る」という葛藤に置かれます。
一方で、問題が小さく、建設的な心の土台を自然に持つようになった人間は、心の中に、「他人としての相手」を同居させながら、親子という目も抱き続ける。今までとは少し違った感覚と共に。
それが「包含」という姿勢なんですね。異形なるものを排除消滅させることではなく、自分自身の中に飲み込んで吸収することで、全体を包含することで、問題は問題であることをなくすという方法です。

もちろんこれは「心の選択肢」としては、「どこにそれが現れるのか生きる過程の中で探す」べきものです。
選択にも、それによって始まる選択と、探すことで最後に現れる選択がある。この「包含の姿勢」は後者の方かと。
「未知への選択」や「自己の重心の選択」など、実践ガイドで最初に述べるものほど、始まりとしての選択になってきます。

自己操縦心性は、全て対照的な方の論理で自動的に動く感情の塊、別の人格体です。
それに対する取り組みは、最後は、この利にかなわない不完全なメカニズムの存在そのものを受容することへと行き着きます。
自らの自己操縦心性を消滅させようとした時、魂を源泉とするエネルギーは、操縦心性の方に流れ、それを増強させる。
自らの自己操縦心性を消滅させようとはせず、その意味を、感謝さえ感じるように、深く理解し、それをあるがままに放置し、何もしない姿勢を取った時、魂を源泉とするエネルギーは真の自己そして魂そのものの成長へと流れる。
そこに、山と海を分けるような、分水嶺の起源があります。

No.487 2005/03/23(Wed) 16:43

スキーあけの休日 / しまの

完璧単なる日記ネタ。

スキーあけの休日..なんですが、
目の前にあるのは、先日のスキー部行事のバッジテストで撮影した受験生の滑りの動画ファイルを、それぞれじっくりチェックしてアドバイス書くという結構時間のかかる作業と、山のように積まれた、タイトル書きを待っているトランスCD..

トランスCDなんて作る作業に追われてじっくり聞く機会もないような、ちょっと変な状況かも。あっはっは。
完全に時間飽和状態..^^;

我ながら一度始めたことをあまりに律儀にやる几帳面さに、趣味の領域でもはしょるということを考えねばと初めて(?)思い、日記がてら記しておこうとカキコした次第。

書き物したいしー。メール返答もしないといかんしー。写真集の続き作りたいしー。デート外出とかももっとできるようになんないとって感じだしー。。
などと、けだるい体調感覚(昨日の練習は何か今シーズン一の疲れものだった..)の中、やりたいことが沢山頭の中を渦巻いている、ちょっと風変わりな気分の午後のひと時ナノデシタ。

そろそろ海までのジョギングも再開したいなぁ。。
まなにはともあれようやくスキーオフスーズンがこれからという感じダー。

No.486 2005/03/21(Mon) 13:43

まだちょっと多忙中 / しまの

一般の人から見るとスキーの機会も3月に入ると減ると感じるかもしれませんが、
スキーばかの世界では(あはは)、何かと行事ものが増え、最後の追い込みという感じなんですねー。

僕も先日の部で開催したバッジテストの動画ファイル配布とか滑りのアドバイス作りとか、まだ多忙なんですが、仕事も今日午後のお客様への提案説明で一段落。明日はスキー関係の残作業に恐らくどっぷり。
金曜夕方に部の最後の通常合宿へ出発。

それも終わるとようやくオフシーズンモードが見えてきます。
そしたら一杯書いちゃるぞ〜!出版めざしてれっつらごー。

No.485 2005/03/16(Wed) 09:17

ちょっと手があかん / しまの

金曜夕方スキーに出て、昨日帰って今日は休暇取ってるんですが、
会社のスキー部の行事のカメラマンしてる関係で、
撮影ビデオの動画編集作業まっただなか。これ時間と手間かかるんですねー。

今週末は木曜夜から出発し、準指導員検定会というので、やはり同じスキー部で受験する人のビデオ撮影を担当に出かける予定です。

ということで、掲示板カキコネタもメール返答もぶ厚くたまりつつある今日この頃ですが(^^;)、また時間見つかったら書きますのでヨロシクー。

No.484 2005/03/07(Mon) 11:37

望みの停止問題-2 / しまの

感情分析実践指南-8に掲載した返答メールの続編として書いたものがありますが、こっちは11/16の前宣伝(?)以来の「望みの停止問題」として掲載します。

その前に前説。ちょっとのつもりで書いてたら例によって膨らんだ。

■「別の人格体」との対決

シリーズものの残りは今次第に、治癒論として最後の核になるような部分に向かっています。
基本的自己受容を選択し、心の選択肢を学び、自己の感情を深く知る。まずはこの過程によって、「抑圧の解除」という、治癒過程の基本作用が働きます。
それで多少の開放感と、内面の力の増大が生まれる。

しかし一時的な気分の開放は、すぐに消えてしまいます。
問題の最も根幹部分が、そのまま残されているからです。自傷衝動をもたらすような悪感情は消えたかわりに、より深く静かな、停滞した感情におおわれます。


この先が、ハイブリッドとして最も力を入れなければならない治癒論の領域だと思っています。
なぜなら、これが人格の根底にあり、全ての問題を維持されていたものであり、本人の意識では全く制御できない領域で起きる事柄だからです。

本人はこれを、悪化が起きているとしか感じることができません。頭で何が起きているのかをわきまえ、自己を保つことが必要になります。
これを乗り越えた時に、自分がより良い方向への未知の変化をする。そう実感としても感じられるようになった時、それはもはやゴ−ルへの到達と言って良いものになるでしょう。

感情の抑圧が解かれ、内面の力が増大する。
自発的感情の初めてのいびきもといいぶき
(打ち間違いだけど面白かったのでそのまま^^;)が現れる。
その後に、今までと異質な感情の悪化が起きる。

どうやらこれが、ホーナイの「神経症と人間の成長」で解説された分析進行過程、そして僕自身の体験からも、一般法則として考えられそうです。

その時、「望みの停止」を起こさせた、悪意に満ちた毒のある自己嫌悪感情が、自らの内面にあるものとして体験されると思います。
そしてそれこそが、自分の中に巣くった「別の人格体」として、芽生えてきた自発的な自己との対決の局面になっていきます。

この姿をはっきりと伝える。
それが僕の、社会にそして人類に対する使命(オーバーだなぁ)であるように感じているのだす。
ホーナイが見出し、それをさらに精緻で大きな画像として。

なぜなら、「別の人格体」なので、理性による制御ができません。自己が乗っ取られるかどうかという闘いになります。
そして乗っ取られるのです。
取り組みとしてできることは、乗っ取られ方をより治癒的なものにすることです。


ハイブリッドとしては、以下の2つの指針を考えています。
1)この局面は原則として志向しない。つまり自分からこれを起こそうという思考によって起こすのではないことをはっきりとわきまえることです。
「操縦心性を崩壊させよう」と考えて自己分析をすると、やはり自己分析の基本的結果として、操縦心性が崩され、吐き出された悪感情に乗っ取られる。これはあまり良い乗っ取られ方ではありません。

行うべきは、上に述べた、自己受容であり、心の選択であり、自己の感情を知ことです。
そして、自己の望みへと向かうことです。それを妨げる価値観人生観の変革を学ぶことです。


それによって初めて、この人格体が、本当の自分とは別の人格体であることが実感を持って分かってくると思います。
その深い理解の上で、その人格体に乗っ取られた時初めて、その人格体は消え去る方向に向かう。そんなイメージを持っています。
「マトリックス」で最後ネオがエージェント・スミスの中に侵入して、スミスを破壊して勝利したように。
まあそんな鮮明は姿にはならんでしょうが。

小説ダイジェストの次の「蘇った自己」も、前の場面のあと、一見感情が落ち着き心が開放されたかと見えた後、事態が急変していく。
この流れがいまいち僕自身イメージできず、稿が進まなかったのですが、それは「自己の本質への接近」のラストから全てつながった流れではないからなのですね。僕自身の目に見えない、別の人格体がその牙を初めて現し、僕自身の自己が追い詰められていく動きが始まった出来事が、これから展開するわけです。
大学4年前期の、まだ人との接触をひとつひとつの道標にしていたものから、完全に現実世界から切り離された心の奥底だけで繰り広げられるドラマ。。
ちょっと僕自身のコンテのためもあり話がそれました^^;

2)実践ガイド上、この局面についての知識を、一番最後のものとして位置づける。
「感情へのアプローチ」の最後に、この、意識上は改善よりも悪化になる局面を、「心の手術」という項目に切り出して説明しようと思います。
辛いけど、通ることが避けられないものとして、他の話とはできるだけ明確に分けて説明したいなと。

話がだらだら長くなりましたが、要は、「望みの停止問題」とは、そんなものを起こす「別の人格体」というものが我々の心の中にはあり、これとの取り組みは、「こうすれば感情が良くなる」という簡単な話ではないものとして、心してかかりましょうということです。

そしてその別の人格体とはまさに従来の善悪思考の塊であり、人生をかけた思考体系の変革が必要とされる、ということです。

No.483 2005/03/03(Thu) 15:37

感情分析実践指南-8:自己重心の中で感情の現実性合理性を吟味する / しまの

11/24以来ですが、感情分析のしかたについて実践的な説明をした返答メールがありますので、掲載します。
最近の以下のカキコもこのシリーズに含めていい内容でしたのでご参考あれ。
2/13 2面を同時に見るアプローチその1 対人関係の改善-3
3/02 2面を同時に見るアプローチその1 対人関係の改善-4


最近取り上げている返答メールでのテーマと同じものです。
ちなみに相談者はそれぞれ多少別の方です。問題は皆一緒。僕も同じでした。

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>職場の人に対して以前より自然に話しかけられるようになったと
>思うのに、感情の方はむしろ改善してないです。


外面行動にスムーズさが現れてきたのは、実際のところかなりの前進変化が進んでいるということだと思います。
でも本人には解決感はほとんどない。
問題の核心に迫っているからですね。

ある行動とか振る舞いができるという外面が重大なのではなく、それによって自分が何を感じているかという、内面が解決しなければ、どうにもならないということが体感されて来ていると思います。

この先に、根本的な峠が待っているような気がしますねぇ。。
操縦心性の崩壊とか、根本的な「選択」とか。
前者には絶望の谷と思考の断絶があり、後者には光の見出しがあるでしょう。
どうゆう順番で進むのかは分かりません。でもとにかく根本的治癒の姿はそうゆう表れになるということを、頭の中で保っておいて欲しいと思います。
一般的には、絶望の谷を越えて光が見えるというのが、セットになる傾向があります。
その前に、劇的な洞察というのもあるかも知れませんね。

できるだけ光を見出す方向へのアドバイスを考えましょう。
操縦心性の崩壊は、その取り組みの中で自動的に導かれるからです。言うまでもないですが「操縦心性を崩壊させよう」と考える必要など全くありません。ただそうゆうのがあり、それは流すだけにすべきものと心得ておくだけです。


■自己重心の中で感情の現実性合理性を吟味する

今、ひとつひとつの感情が良く見えるようになって来ていると思います。
そしたら次に実践したいことは、「自己重心の中で感情の現実性合理性を吟味する」ことです。

これが一番、感情分析らしい話になります。
ひとつひとつの感情について、微妙な「味わい方」があり、さまざまな感情ひとつひとつの構造学(?)みたいな知識が役立ちます。

抽象的な話はちょっと置いといて具体的に見ていきましょう。


■「自分と話しても面白くないと思われている」

自分と話しても面白くないと思われる。自分には人間的魅力がないと思う。
この感情をどう自分で理解していくか。

感情分析の実践は、たんに「分析すれば良くなる」ということではなく、病んだ感情のどこかに不合理な側面があることを、心の芯に感じ取らせることがひとつの大きな目的です。
心の芯がそれを感じ取った時、それは捨て去られる方向に向かいます。不合理とはまだ言えない部分は、まだ残るでしょう。
そうして、感情のバランスが少し変化します。自分自身で、少し違う感覚が感じ取れるようになってくる。
どこかで「選択」が見えてくるかも知れません。
感情分析とは、そんな繰り返しですね。

この感情については、まず、イメージとしてこんなものがあるのを把握することになるでしょう。
・輪の中にいて楽しくお喋りしている自分、それに対して愛着感を抱いている人々のイメージ...自己理想化イメージ
・それとは対照的な、輪の中から追い出され、不安と寂しさと無力で途方に暮れている自分のイメージ...恐れている自己イメージ


自動感情(障害感情とかの言葉がどうも感覚に合わないのでこの言葉)というのは、そのように、イメージに結びついて湧いてくるのが、基本的な特長です。
「イメージの中に閉じ込められた感情」なんですね。

その不合理性も、まさにそのことにあります。
それはイメージであって、現実ではないということです。

まあ「イメージとは違う現実」が感じ取られるのは後の話なのですが、「イメージとは違う現実」を探ろうとする姿勢が大切ですね。

そのためには、自分が求めているものは、本来どのように獲得されるのかを、真剣に考えることが大切です。
どうすれば、人の輪の中で楽しくお喋りしている自分になるのか。

はっきり言えることがあると思います。
心底からそのお喋りを楽しく感じているのでないと、そうはならないだろう、ということです。つまり、イメージをどう追っても、それは形を外から見ただけの話であって、中身が伴わず、そうはならないということです。

自分には心底から、彼らとのお喋りを楽しもうとする気持ちがあるのかどうか。それに足る話題というものが、彼らとの間にあるのか。
これを、「和は善」などという道徳観念を脱した思考の中で、吟味すると良いと思います。
多分、肯定的なものはあまり見つからない状況だと思います。

これは、思い描いたイメージに自分がなれないという失意感をもたらす自覚かもしれません。
しかし、同時に、理解しておくのがいい、重要な心理学があります。

心底では彼らとお喋りを楽しみたいという気持ちがないことが、意識の上では、「人は自分と話してもつまらなく感じるだろう。自分には魅力がない。」という感情になることです。

つまり、「自分は何をしたいのか」という、自己の重心を持った思考においては、「自分が愛されるかどうか」という問題では本来ないものが、イメージを追って自己の重心を欠いた思考の中で、「愛されるかどうか」の問題に化けるのですね。

まずはこの認識を持ってもらうのが良いかと。
まずそれを感じ取った時、何かが変わり始めると思います。
そしたら次の道が見えてきます。その先はまだ未知の中です。


■自己重心の中で思考を転換する

上の説明は、他のほとんど全てに当てはまると思います。
問題は次の2面になると思います。

まず、自分は本当にはそれをどう感じ考えているのか。
自分はやる気がない人間か。空気を読むことの意義は。自分の健康にこだわるのは甘えなのか(これなどは僕にすれば天地が逆転するほどあり得ない思考ですが^^;)。

そしてもうひとつが、「ひとりのけ者にされ輪からしめ出される自分のイメージ」への恐怖です。
それが、乗り越えることのできない恐怖であるかのように感じられると思います。

なぜ乗り越えることができないかのように感じられるのか。
その説明はありません。というか、「乗り越えられないものとして位置づけられた」感情が、最初にあるのです。
それが「感情の膿」

感情は「これは乗り越えられない」と言います。
今までは、その感情に、思考の方が全て合わせていたのです。
まずはこの認識をして、思考をその感情から分離させることです。


そう認識した所で、その恐怖感はおいそれとは変わらないでしょう。しかしこの認識を同時に持ちながら恐怖感を体験するのと、理性思考までどっぷりとその恐怖に合わせて体験するのでは、人間の心の成長という点では全く話が異なるのです。
何かが変わります。まずこの方向を向くことからですね。

今まで乗り越えることはできないと決め付けられていた恐怖に、人生で初めて、懐疑の目が向けられると思います。

No.482 2005/03/03(Thu) 13:00

うさこはまだ初心者です / うさこ

少しずつハイブリット心理療法の勉強しています。画面を見ていたら目が痛くなったので印刷して読むことにしました。全部印刷したら500枚以上になりうさこは圧倒されています。こんなにたくさんの言葉があふれてる島野さんのホームページみてて、なんだか感動してちょっと涙でうるうるになりました。今うさこの状態は良好です。もう少し勉強したらまたお便りします。このホームページをつくってくださった島野さんに感謝しています。それからみなさまの健康を祈ってます。

No.474 2005/02/28(Mon) 23:58

 
Re: うさこはまだ初心者です / しまの

おはようございま〜す。
カキコどうもありがとうございます。

そうですね。目のためにも印刷して読んでいただくのがいいと思います。
500枚以上ですか。確かにその位は書いてるかも。
本にして売りた〜い。あはは。

No.475 2005/03/01(Tue) 09:24

 
うさこの反省文 / うさこ

昨日は「うさこが一番に買う、全国の本買い占める」と掲示板に書いてごめんなさい。しまのさんの本が出版されたら、うさこはおとなしく本屋さんに行って、おとなしく2,3冊買うことにします。うさこは昨日の事反省しています...

No.480 2005/03/02(Wed) 23:49

 
Re: うさこはまだ初心者です / しまの

りょうかいでーす。ぜんぜんお気になさらず。
僕も早く本出したいなあ。。

No.481 2005/03/03(Thu) 09:14

2面を同時に見るアプローチその1 対人関係の改善-4 / しまの

2/13カキコでいったん締めたものですが、同じテーマでまとまった返答文がありますので、掲載します。

相談事項としては、職場で伸び伸びとした気分で、良い人間関係を持つにはどうしたらいいかというテーマです。
入門編などを参考に、「心を解き放てばいいのか」ともお考えになったようです。


人間関係の中で「心を解き放つ」ことは容易なことではなく、心を解き放つように、自由な気持ちで行動する結果が良い人間関係にもなっているような姿とは、ハイブリッドの取り組みの総合的な結果として実ることと言えます。
総合的な結果であるということは、そうなった自分を思い描いて当てはめるのではなく、「総合」の前の、いくつかの、個別のテーマとアプローチ方法があるということ。

以下の中で特に重要なのは、他人関係の改善のためのアプローチとして、「人を見る目」のひとつの目標を明示していることです。
それは「中庸の目を自分と他人に向ける」ことです。


-------------------------------------------------------------

■「心を解き放つ」と「心の自由」

言葉の説明を簡潔に。

「心を解き放つ」とは、入門編では「とにかく心を縛るのをやめること」というような、消極的な表現が中心になっていますが、現在はもっと積極的な表現ができるのではないかと思っています。

それは「自己の願望に向かって可能性を開放すること」という感じですね。
ハイブリッド心理学での「幸福になる方法」の基本軸が「心を解き放つ」ことであり、「自己の願望に向かって可能性を開放すること」と言えます。
障害感情の治癒とは、それを妨げるものを克服解消すること、ということになります。

「心の自由」というのは、それとは一応別の話ですね。何かの偏見とかに縛られずに、自由に考え感じること。

自由そのものは、自分がそれを携えて目標に向かうということであって、目標そのものではありません。
まあ自由のない生活をしていることが嫌な場合、自由になることそのものが目標になることはあるでしょう。
でも自由を得て何をしたいか、というその先が大切ですね。

「〜からの自由」だけでは心を解き放てません。
「〜への自由」によって心を解き放つことに向かうことができます。
つまりは、自由な心で、自分の願望を見出し、それに向かって自分の可能性を尽くすということです。


■外面はうまく立ち回る

>態度がだらしなくなっているようで、
>最近何あの態度と思っている人がいるようで・・・。


内面においては常に心を自由にすることを心がける一方で、
外面においては「うまく立ち回る」ことを心がけるのがいいですね。
「2面を同時に見る」という話をよくしていますが、これもその一つです。

なぜなら、内面で心を自由にしたとしても、外の現実世界が変わるわけではないからです。
自由が束縛される現実というのがあるかもしれません。
幸福になるためには、心を自由にしただけでは足りず、その上でこの現実世界でうまく生きる能力を身につけることで実現します。
そのための努力が必要です。

これは以前、仕事で実際に必要な能力については、とにかく身につけるよう努力するしかない、という話をしましたが、それと同じですね。

まああまり深刻に考えることでもありませんが、とりあえずは、あまり無頓着無注意な態度は見せないのが無難ですね。
注意一秒怪我一生^^;


■問題は一度に全体を解決しようとしない・問題はつなげず分けて考える
付記:感情分析実践指南シリーズとして含めていい話かと

>あと葛藤と対人関係の事なのですが、私は人に接する際、
>特別な人ではなく全般的に何か構えているというのを感じまして。


これ以降の話については、最近他の方にも良くしているアドバイスがあります。
さまざまに感じる感情を、一度につなげて全部を一緒に考えようとせずに、一度ばらばらなまま、別々に取り組むことです。
一度に沢山のことに取り組むのは難しいので、特に問題の大きなことから取り組み、他のことはちょっと置いといてという感じになると思います。

頂いたメールだと、「〜だけど〜で、〜だけどやはり〜」という感じで、感じた問題の全体を通して見ようとしていると思います。
しかしそこにある「〜」のひとつひとつが、「自分の中の別人」の感情なんですね。全部つなげてしまうと、色んな人の寄せ集めのような、よくわからない自分になってしまいます。

そして、全部寄せ集めようとして、訳のわからない全体になってしまうことが、問題そのものを大きく見せてしまいます。
全体のつじつまは考えなくていいです。もともとつじつまがあってないのですから^^;

それが障害感情というものです。

では今、どの感情に取り組むのがいいか。どれが一番大きな問題か。
実はメールを最後まで読んで、まず次のことを考えて頂くのがいいと思います。


■めざす目標はひとつ..「中庸の目」を自分と他人に向けること

障害感情は無理につじつまを合わせたり、つなげて考えようとせず、ひとつひとつを分けて取り組む。

一方、問題を考えるだけでは不足します。
どうすればいいのかの、目標を持つことが大切です。
そしてこれはひとつにまとまります。ひとつにまとまるからこそ、目標にできるとも言えます。

今回のような、人への葛藤というテーマについては、「中庸の目」というのがとても大切です。

「自己建設型の生き方」では、自分に向ける目として、真の自尊心について述べました。
http://tspsycho.k-server.org/base/base05-02.html
それは、傲慢に陥ることなく自分の長所を知り、卑下に陥ることなく自分の短所を見ることです。その両方の側面を持つ自分がひとつの存在として前に進むことを宣言することです。

これを、人を見る目にあてはめるならば、神のようにあがめたり、逆に「そんなもの!」と頭越しに否定することなく、人の長所や能力を認め評価することです。
そして、相手の全てを否定しようとしたり、逆に欠点を美化したりせずに、ありのままに弱さや劣った点を認識することです。


人への感情という面から見ると、次のようになります。
つまり、依存することなく共通の楽しみを持ち、敵対したり背を向けることなく互いの相違と自由を認めることです。


これは、この目標を知ったからといって、感情がそうなってくれるというものではありません。
むしろ、上に書いた、「ばらばらにした問題」のひとつひとつを考える上で、ひとつひとつの感情がどう望ましくない感情なのかを考える上での大切な参考になります。


■依存と離反の葛藤への対処

たとえば次のあたりが分かりやすいと思います。

>せっかく他人に何も期待しない 自分という感覚を持ち始めたのに
>ぞういった甘い?一言で一気にまた依存性の強い自分
>他人に期待する自分に性格全体が傾いてしまったのです。
>その間は本と自分が成長していない感じがします・・。


仲良くなりたいと感じると、依存的になってしまう。他人に何も期待しないことで、独立した自分を感じることができる。
そうだと思います。

しかしそれは必ずしも成長ではありません。愛情要求を一時的に切り捨てたことで得た安定でしかありません。
「安定」していても「成長」とは、ハイブリッドでは考えません。なぜなら幸福ではないからです。
幸福ではないとは、満たされない要求が、心の底でくすぶり続けているということです。だからそれが刺激されると、極端に依存的な感情に切り替わってしまいます。

この状態への取り組みとしては、以下の3つの姿勢を考えるといいでしょう。

1)進むべき道は、両極端の感情のどちらにもない。ということは、あるとしたらそれは未知の感情にあるということです。それはどんなことなのかを、どんな感覚なのか、探り続ける姿勢が大切です。

2)建設的な対人行動を習得することが大切です。
「建設的な対人行動」と「仲良くなる」ことは、全然別のことです。仲が良くても悪くても、相手への感情が変わって揺れ動いてしまっても、同じように肯定的な行動をすることです。
つまり、「感情には依存しない行動法」です。

これについて詳しくは、2/12カキコ「2面を同時に見るアプローチその1対人関係の改善」を参照下さい。

3)極端な感情については、自分の心にしまったまま、ありのままに感じ取ります。
それが自分にとってどんな風に重要に感じられるか。重要ではないと感じるか。それは現実的な感情なのか。つまり現実に起きたことについての感情か、それとも心の中のイメージなのか。

やがて、非現実的だけど自分にとってあまりにも重要だ、と感じることもあるかも知れません。
それはもうどうしようもないです。辛いことですが、その辛さをありのままに感じ流すことが、「成長の痛み」になる場面があります。
膿を出すような、「心の手術」というような場面ですね。


この3つの姿勢というのが、エッセンスです。
これはすぐ分かることではなく、まずそれはどんなことだろうかと考えることからです。
それが実際につかめるまで、まだたくさん疑問が出てくると思いますので、何でも質問下さい。

No.479 2005/03/02(Wed) 15:19

善悪の解体・補説-15 / しまの

■別れを告げた世界-1:イメージから現実へ

善悪を破棄した理由を説明してきましたが、これとほぼ同時に僕の中でなされたことがあります。
「悪という観念を放棄する」という今までの説明の側面と一体のこととして起きた、「何を善と考えるか」の思考の、根本的変化です。

これらの思考の変化が「内面戦争」というような様相になったと言いましたが、今までの説明では、それがそんな様相になったという状況を、十分には説明するものではないと思います。
今まで「悪」と感じていたものを、「人間の弱さ」と感じるようになった。同時に、これから何を「善と考えれば」いいのかについても、同時に、全く別の世界が見えてきた。
そして、この2つの話は、説明は一見別のことになるけど、僕の体験においては一体不可分のこことでした。
全く異なる人間の思考の世界がある。今までの世界とは、「悪を怒る」ことであり、同時にあったのが「イメージの中で善を追求する」という世界です。
そして新しい世界とは、「絶対善悪はない」という思考であり、「現実の中で善を追求する」姿勢です。

これは、今まで美徳のように考えていた、信念や良心の呵責・罪悪感そして「べき」の全てを放棄するという選択です。
これについては自己建設型の生き方で詳しく説明しています。ぜひ再読を。
http://tspsycho.k-server.org/base/base04.html

中でも、一番内面戦争的な様相になったのは、信念の放棄だと思います。次は良心の呵責(罪悪感)の放棄かな。
今まで、人間の心の純粋性や優しさについての信念があった。まさにその信念によって、それを損なった人間達への怒りの中で、自分がそれを目指す側の人間であることの確認をした。それが自己像を支えるもののひとつでもあったと思います。
それを、まさに、それを損なっていると思える人間への怒りへの取り組みの中で、放棄したのです。


そこには、あまり「内面論議」はありません。ある論理の世界と、別の論理の世界の間で、論議調停するための論理はないのです。
生きる姿勢としての選択になります。

そしてこの内面戦争の行方を決した指針が、「現実の中で良い結果を生むものを善と考える」ということです。
あの人間は残酷であり、人間の心というものを理解していない。その怒りの中で自分は正しく優しい人間であると考える。そして相手を敵と見なして批判し、変えさせようとする。
それでは現実においては、何もいい結果をもたらさないんですね。

相手は自分の行動を見直すことよりも、批判攻撃されたことへの防衛に、まず心が向きます。こっちの落ち度を鋭くえぐってもくるでしょう。この先が双方の怒りのエスカレーションになることは火を見るより明らかです。

別にそれは悪ではない。でもこうするともっといい。
悪と見る思考を放棄し、敵のように感じた相手を、心の根から、味方のひとりであると感じながらの行動をする。
すると相手は変わるのです。


この変化は劇的であり、僕のこの内面戦争は、人生のある短い期間の中で、急速に新しい世界へと勝敗が決したように感じています。
これを境に、心の健康度が加速度的に増す時期とへ移行したように感じています。
怒りというものを、根本的に使わない生き方を向いたわけですね。

■内面戦争を迎える前に

取り組み実践上、この内面戦争的な選択の局面はいつ見えるのか、ということを考えておきたいと思います。
むやみに「自分もそうなればいい」という、イメージを当てはめるという轍を避けるために。

まず、抑圧されたさまざまな感情の開放が必要です。
がんじがらめの「べき」によって、「こう感じればいい」という鎧を脱ぎ、自分は他人のことを本当はどう感じているのかを、ありのままに自覚していく時期が、まず必要でしょう。
それは今までの自己像にあまりにそぐわず、絶望感を引き起こすものもあるでしょう。人間の心の変化という心理学の目の下で、自己の基本的な受容を選択して頂きたいと思います。

抑圧の開放は、必ず内面の力の増大につながります。それが主体的感情の萌芽につながります。
「与えられる」ことではない生き方が見えた時初めて、他人の行動を善悪ではなく強さ弱さとして見ることのできる感覚が芽生えると思います。

怒ることの真の放棄、そして「現実の中で善である」という選択肢が見えるのは、その時だと思います。
この過程それぞれを、積極的に自ら探っていくのが有益ですね。

■「優しさ」という信念を放棄したとき人は真の優しさに近づける

以上の話に関連して、ひとつ典型的なケースへのアドバイスを書いておこうと思います。
それは「優しさ」という価値に対する観念です。これが一番パラドックスになりやすい。

「優しさ」は間違いなく価値のひとつですが、「優しい感情」を「優しさ」とは別のものと考えたいですね。
「現実において相手を育てる・守る」という結果を生むものを、優しさと考えたいです。

心理メカニズム的に言うと、愛情要求を優しさと勘違いしないよう、ご注意という話。
これは女性にとても多いケースです。愛情要求感情と、それに不可避的に付随する傷つきやすさや寂しさへの感受性を優しさと考えており、これを受容し共有できない外界に対して、怒りがつのるという結果になっています。
現実世界の、心が普通に健康な人にとっても、これに応じるのは至難の業(^^;)です。
この結果、人からは、その「優しさ」は見えず、むしろ結果としての怒る姿が見えるようになる。

本人の内面と、外面における他人との関係があまりに食い違う場合、こんな轍にはまってないかを考えて見るのが良いかと思います。
そうだったとして、自己嫌悪に陥る必要はありません。弱さなのですから。
強い優しさを目指す道が、今まで説明したようにありますので。

No.478 2005/03/02(Wed) 10:32

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