■ 自己操縦心性の成り立ち-36:現実離断とは何か-5 / しまの |
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■現実離断の機能2:現実と精神の乖離
感情の膿というトンデモないシロモノを人格構造の一部として抱えなければならないことを知った自己操縦心性は、まず、感情の膿が現実性知覚によって刺激されるのを防御するために、現実覚醒レベルの低下した心理状態を作り出します。 それで「現実」を「離断」するわけです。
それは現実が遠ざかるというネガティブな側面ですが、その反動のようなポジティブな側面も起きるようです。 それが「現実」と乖離した「精神」という構図です。
「精神性」については既に、 2005/12/15「自己操縦心性の成り立ち-14:背景その1否定型・受動型の価値感-8」 で話しました。 それは受動的価値感覚に関連したものであり、価値が「与えられるもの」という感覚のために、「奪い合い感覚」が広がり、奪い合いの粗野な人間世界の中で、慎ましさを重んじる自分という自己像と共に、「望まずして手に入れる」ための神格化された理想像が描かれるという、「精神性」の話です。 これはまだ日常心理の言葉で解釈し、何となく理解できるものです。
ところが現実離断が絡む「精神性」になると、どうもそれとはまたちょっと違うもののようなんですね。やはり日常心理で言う「精神性」とは異質な状態での「精神性」が生まれるようです。
これは僕自身がまだ心理障害の中にいた状態を思い返しても感じます。「精神」と「現実」が全く別のものとして体験されている状態です。 そこでの「精神」とは、望み描く理想であり、思考であり、自己像や他者像であり、意志です。 そして「現実」は、まるで分厚いガラスの向こうにあるように、そこにある「現実」です。
これは体験した人間にしか理解し得ない、特殊な心理状態であると思います。 また抜け出した人間人しか、それが健康な心理にはない特殊な心理状態であることが分からない心理状態だと言えるでしょう。
今の僕には、その感覚はありません。 「現実」と「精神」は特に分かれているものではなく、一体のものです。「理想と現実」という構図は確かにまああるにはあるでしょうが、それは必要に応じて自分で作り出している「隔たり」だという感覚です。 それは右目と左眼の映像のようなものとして感じられます。一体であるのが自然ですが、距離感を計るために、ちょっと分離させて一時的に2つの映像にして離したり重ねたりして見ることができます。 力を抜くと、自然に元のひとつの映像に戻ります。
ところがまだ心理障害の中と言える時の自分の心理状態を思い出すと、何か最初っから「精神」と「現実」が別のものとして体験されていたという感があります。 一体になることはあり得ない。まるで海の中の風景と陸上の風景のようにです。そしてその重ならない2つの世界を前にした、沈んだ気分が基調であったわけです。 理想と現実が重なったと一瞬思えたのも、海のものと陸のものの姿が一瞬重なっただけの、よく見ればやはり別物なのだという、「幻滅」を繰り返すだけの心理状態だったわけです。
この状態を、「現実から乖離した精神性」と呼ぼうと思います。 これはやはり、現実覚醒レベルの低下によって、「現実」の刺激が色あせたことによる、不可避の必然的結果のように思われます。 その心理状態において「現実は味気ない」ものであるのは、受動的価値感覚から発達した受け身の生活態度や思考法の結果というよりも、既に脳の構造としてそう感じるようになっているという次元のものと思われます。
これはその後のこの人間の「価値観」に大きな、決定的な影響を及ぼすでしょう。 知性の現実覚醒は保たれています。その知性で、「現実とは味気ないものなのだ」という自分の感覚をスタートラインとして、この後の、自分の人生をめぐる様々な思考を作り出していくことになります。 一言でいえば、自分の精神性を極めて重視し、一方で現実を見下すようなものにならざるを得ない。
この必然的結末として、「精神性の暴走」「破壊型理想像」「現実の貧困化」という問題を考察します。 |
No.890 2006/01/31(Tue) 23:47
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