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2006.01


自己操縦心性の成り立ち-36:現実離断とは何か-5 / しまの

■現実離断の機能2:現実と精神の乖離

感情の膿というトンデモないシロモノを人格構造の一部として抱えなければならないことを知った自己操縦心性は、まず、感情の膿が現実性知覚によって刺激されるのを防御するために、現実覚醒レベルの低下した心理状態を作り出します。
それで「現実」を「離断」するわけです。

それは現実が遠ざかるというネガティブな側面ですが、その反動のようなポジティブな側面も起きるようです。
それが「現実」と乖離した「精神」という構図です。

「精神性」については既に、
2005/12/15「自己操縦心性の成り立ち-14:背景その1否定型・受動型の価値感-8」
で話しました。
それは受動的価値感覚に関連したものであり、価値が「与えられるもの」という感覚のために、「奪い合い感覚」が広がり、奪い合いの粗野な人間世界の中で、慎ましさを重んじる自分という自己像と共に、「望まずして手に入れる」ための神格化された理想像が描かれるという、「精神性」の話です。
これはまだ日常心理の言葉で解釈し、何となく理解できるものです。

ところが現実離断が絡む「精神性」になると、どうもそれとはまたちょっと違うもののようなんですね。やはり日常心理で言う「精神性」とは異質な状態での「精神性」が生まれるようです。

これは僕自身がまだ心理障害の中にいた状態を思い返しても感じます。「精神」と「現実」が全く別のものとして体験されている状態です。
そこでの「精神」とは、望み描く理想であり、思考であり、自己像や他者像であり、意志です。
そして「現実」は、まるで分厚いガラスの向こうにあるように、そこにある「現実」です。

これは体験した人間にしか理解し得ない、特殊な心理状態であると思います。
また抜け出した人間人しか、それが健康な心理にはない特殊な心理状態であることが分からない心理状態だと言えるでしょう。

今の僕には、その感覚はありません。
「現実」と「精神」は特に分かれているものではなく、一体のものです。「理想と現実」という構図は確かにまああるにはあるでしょうが、それは必要に応じて自分で作り出している「隔たり」だという感覚です。
それは右目と左眼の映像のようなものとして感じられます。一体であるのが自然ですが、距離感を計るために、ちょっと分離させて一時的に2つの映像にして離したり重ねたりして見ることができます。
力を抜くと、自然に元のひとつの映像に戻ります。

ところがまだ心理障害の中と言える時の自分の心理状態を思い出すと、何か最初っから「精神」と「現実」が別のものとして体験されていたという感があります。
一体になることはあり得ない。まるで海の中の風景と陸上の風景のようにです。そしてその重ならない2つの世界を前にした、沈んだ気分が基調であったわけです。
理想と現実が重なったと一瞬思えたのも、海のものと陸のものの姿が一瞬重なっただけの、よく見ればやはり別物なのだという、「幻滅」を繰り返すだけの心理状態だったわけです。

この状態を、「現実から乖離した精神性」と呼ぼうと思います。
これはやはり、現実覚醒レベルの低下によって、「現実」の刺激が色あせたことによる、不可避の必然的結果のように思われます。
その心理状態において「現実は味気ない」ものであるのは、受動的価値感覚から発達した受け身の生活態度や思考法の結果というよりも、既に脳の構造としてそう感じるようになっているという次元のものと思われます。

これはその後のこの人間の「価値観」に大きな、決定的な影響を及ぼすでしょう。
知性の現実覚醒は保たれています。その知性で、「現実とは味気ないものなのだ」という自分の感覚をスタートラインとして、この後の、自分の人生をめぐる様々な思考を作り出していくことになります。
一言でいえば、自分の精神性を極めて重視し、一方で現実を見下すようなものにならざるを得ない。

この必然的結末として、「精神性の暴走」「破壊型理想像」「現実の貧困化」という問題を考察します。

No.890 2006/01/31(Tue) 23:47

自己操縦心性の成り立ち-35:現実離断とは何か-4 / しまの

■心理医学の目

現実離断のメカニズムについてさらに詳しい考察を進めますが、その話のほとんどは、日常心理の言葉では理解できない内容になってくると思います。
病理の話をするわけです。心理医学の目が大切ですね。
日常心理としては理解できない現象を起こすメカニズム、およびその治癒のメカニズムが、日常心理の延長で説明できるわけないんですね。

それはひとえに「感情の膿」が関わるところに起きてきます。これは通常の意識体験の許容範囲を越えた、破滅的感情の源泉が、意識できる感情としてではなく、脳内に蓄積された膿のような、一種の物質的に存在するものという考え方です。我々が自分の意識の中でそれを見分けることは原則としてできず、我々の意識全体に、つまり脳全体に外部から強い電気圧力を加えたような、意識の歪みを生じさせます。

ハイブリッドが考える心理障害の構造は、残存愛情要求自己操縦心性感情の膿の3つで構成され、残存愛情要求および自己操縦心性の基本機能だけなら、まだ日常心理の言葉で理解可能です。

そしてその範囲での、心の治癒成長への方法論とアドバイスをすることも可能ですし、それをしてきたわけです。それは心の持ち方使い方であり、愛と自信についての理解であり、社会における思考法行動法であり、価値観の話であったりするでしょう。
しかしそれによる効果は、あくまで現在の「脳の状態」や「人格の状態」を維持したままでの治癒成長だけです。まあ多少辛さが減り、よりうまく人や社会と付き合うことはできるようになるでしょう。
でも多分、「生きる喜び」は湧かないだろうし、自分の人生を獲得したと感じることもないように予測します。

でも、脳の構造が変化したかと思えるような、人格が根本的に変化したと思えるような治癒成長は、今話しているような、病理部分への取り組みに依存します。
それはひとえに、感情の膿の量をいかに減らすかです。単純に身体物質的な量の話です。愛と自信の理解でも、価値観でも精神論でもございません。もしそれが可能な魔法のメスがあるのなら、こんな小難しい心理学など学んでもらわなくても、感情の膿をちょちょいと取れば、もう生きる喜びがわいてくる。そんな話なのです。

でもそんな魔法のメスはないのが、残念ながら現状なんですね。これから解説する「自己操縦心性の崩壊」という現象を通して「感情の膿の放出」が起きた時、感情の膿が根本的に減少する。これがかなり確実に言えることであり、そのための心理学的方法論を作っているわけです。

こうした、日常心理の言葉で理解できる範囲を越えた、心理医学の目を持つか。
まあ、脳の構造が変化したかと思えるほどの、根本的な人格の治癒成長が欲しい方が、それを持てばいいと思います。そんな方たちはこの「現実離断」の話を勉強してください。

別にそんなものいらないということであれば、こんな話を勉強する必要もないです。


■現実離断の機能1:現実覚醒レベルの低下

さて、ということで現実離断というちょー難解な心理学の話に進みますが、自己操縦心性は「感情の膿の人格への組み込み」に際し、何をどう防御しようとするかを考えます。

これは、「精神破綻的な恐怖もしくは自己嫌悪感情」への防御です。そしてその手段が、「現実覚醒レベルの低下」です。
つまり心理障害における現実覚醒レベルの低下は、単なる付随的特長ではなく、自己操縦心性がまさに意図してそれを行った、自己防衛のための根本機能です。

これはどうゆうことかと言うと、恐怖や自己嫌悪感情などのひどいマイナス感情は、「現実性知覚」によって刺激されるからです。
ピストルをつき付けられる場面での恐怖は、それを空想の中で描いた時と、臨場感たっぷりの映画の中でと、正真正銘の現実においてそうされた場合とでは、全く異なります。現実にそんなハメになったら、ちょっとパニックになるでしょう。

現実性知覚の刺激を遮断することで、そうした悪感情の発生を停止させることができます。

心理障害傾向の方の恐怖感情や嫌悪感情は、現実の対人場面で起きるのが特徴です。そうでなく、一人でいる時は、対人場面を空想してもそれらの悪感情はあまり起きません。
そのため、自分が体験する対人恐怖感情の理由が、本人に良く分かりません。むしろ、そんな理由の分からない恐怖が起きること自体への不安が膨張し、本格的な恐怖症になるわけです。

この「現実性知覚の遮断」のために、自己操縦心性は夢のメカニズムを使うように思われます。心の中に、現実覚醒レベルの低下した領域を作り、現実性知覚を全般に減らそうと試みるわけです。
意識体験としては、現実が現実ではなく、夢を見ているような感覚が起きることになります。これが起きている間じゅうもずっと続くわけです。

ただしこの防御は、心理障害においては不完全です。知性の現実覚醒はまだ保たれています。
この防御機能が知性までおおうようになったものが、精神病だという解釈もできるでしょう。

こうした半夢状態のため、現実性知覚は減る一方、感情が理性制御を離れて勝手に動く傾向が大きくなります。そして知性は現実覚醒を保たれる。
これがはなはだ錯綜した状況を作ります。勝手に感情が動く一方で、この理解できない自分の感情を、知性が理屈付けをします。それがさらに問題に輪をかけることがしばしば起きてきます。
恐怖感情を「病気」と見なし、薬で治そうと考えることなども、そうした知性の理屈付けの誤った例と言えるでしょう。薬づけになって生活基盤を損ない、マイナス感情の基盤を強化するわけです。

知性による誤った理屈付けは、心理障害全体の膨張を引き起こします。この基本パターンを後に考察します。その状態は心理障害の「膨張構造」と呼べるでしょう。上の方で述べた、日常心理の言葉の範囲内の取り組みは、知性による誤った理屈付けを解除し、膨張状態をなくすものだと言えます。
知性による誤った理屈付けをなくしても、自己操縦心性の崩壊による感情の膿の放出がない限り、心性による防御構造の基本部分は保たれます。以前「壁」と呼んだのはこの状態ですね。専門用語としてこの状態を「ベース構造」と呼ぼうかと。


■夢に理性を送り込む

感情の膿を取り去る魔法のメスはないので、心理障害の治癒は心理的アプローチに依存するのが現状だと思います。
そのために本人の知性や理性による治癒意志が頼りになるのですが、感情は理性の制御が利かない形になります。
このため、知性や理性による自助努力では、上で言った膨張構造を減らすまではできても、ベース構造はそれだけでは手足が出せません。

このため、「心理障害の根本は基本的に治らない」という、この数世紀の心理研究の歴史を通しての体験則とも言える事態が、多少ともあります。
ここで述べた「現実覚醒低下」という仕組みの考えからも、多少それがいたしかたないという感さえ感じるところがあります。


しかしそれが完全に不可能であるわけではありません。
夢を解く方法が、ひとつだけあるように思われます。夢を外から解く方法はありません。ならば、夢の中に、夢を解く理性を送り込むことです。


これは空想論でも比喩でもない、心理障害の治癒方法論としての、僕の考えです。
「明晰夢」という話を聞いたことがあります。「見たい夢を見る方法」です。ある程度それが可能である仕組みが、人間の脳にある。
具体的に言えば、自己理想化像の内容を、心理障害の治癒の方向に合うように、描き直すことと言えるでしょう。
僕が独力で心理障害を根本的に抜け出すことがでいたのは、これが偶然最初から備わっていたからです。治そうとして治せたものではありません。心理障害に翻弄された歩みそのものが、心理障害を抜け出させたのです。

夢の中に理性を送り込む。そんな特殊な姿勢がないと、心理障害は抜けられないのか。。
そう考えています。でもそれは可能だと考えています。
僕自身は明晰夢の体験はありませんが、夢の中で起きようともがいて、実際に起きたことはあります^^;
あとはそれをするかどうかですね。別にそんなことしなくてもいいんです。今の状態で一生を終えることで満足であれば。

入門編で「人生をかけた闘い」だと書きましたが、そうゆうことですね。

No.889 2006/01/31(Tue) 13:51

自己操縦心性の成り立ち-34:現実離断とは何か-3 / しまの

■「現実」の「離断」..

「現実離断」とは、サイトの感情メカ理論を最初に整理した2003年当時に、僕が自分で考えた一種の造語です。
現実に三くだり半を突きつけるような心の動き。もう現実は重要ではない。空想した世界の方が本来の世界である。
「現実は駄目なものなのだ」という弾劾を全てのスタート地点とするかのように、空想の世界にまず自分の立脚点を見つけ、そこから現実の自分を見下ろすという逆転。

http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-022.html#gr

その時は、「離反」し「断絶」するというイメージからそう付けましたが。。

で今回それをさらに、進化したハイブリッド理論に合わせて精緻化する。この後の感情論理を細かく説明できるものにする。感情の膿との関連が重要になります。「現実覚醒レベルの低下」という、重要な特徴もあります。

それにあたり一度何の気なしに「離断」という言葉が他に使われるのかなぁとネットを検索してみたことがあります。
ありましたねぇ。医学用語だったようです。
たとえばこれ。それによると、「離断」とは「関節から手足を切り離した状態」ということです。一方、骨の途中から手足を切り取った状態が「切断」。
http://www2p.biglobe.ne.jp/~mujintho/amputati/setu_rid.htm

でこれを見て改めて、「現実離断」というネーミングが適切なものであったのを感じた次第です。
「現実」を「離断」します。関節から切り離すように。。
無理に切り捨てるわけではない。ある切り離せるポイントで、切り離す。
切り離せるポイントとは、まあ言ってみれば、夢のメカニズムでしょう。半夢状態なわけです。


■根本は「感情の膿の組み込み」

さて、では心理障害の中で起きる現実離断とは何か。
今まで心理学の言葉で、比較的日常の感情の言葉でも理解できるような形で、心理障害傾向の発達過程をたどってきました。
同じような感じで、現実離断とは何かを考えてみた。自己操縦心性は何をどうしたのか。

そう考えることは、どうもあまりにももやっとしたブラックボックスのようなイメージしか浮び上がらせませんでした。一体何が起きたのか、良くわからない。
特に、感情の膿に対して自己操縦心性が何をしようとしたのかです。まずはっきり言えるのは、この思春期の時期に、「人格統合の要請」によって、今までの、感情の膿を単純に意識から切り離すという方法が取れなくなった事態が起きていることです。これは確実に言えることです。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-011.html#3

やがて僕は発想を転換しました。人格統合の要請によって、自己操縦心性と感情の膿の間で何が起きたのかを、そもそも感情の言葉で理解できる形で捉えようとすること自体が間違っているのではないか。
上記のサイト解説でも、「この要請そのものは意識で感じることは全くありません」と書いていましたね。

何が起きたのか。
単純に、今まで人格から切り離されていた「感情の膿」という心理構造を、人格の構成要素として取り込んだ。現実離断という現象の根本は、これだと思います。


感情の膿とは、児童期までは「体験したら生きていけない」ような色彩部分だけが切り離されて膿化したものと定義しています。
ときどき「今飲み込んで抑えた怒りが膿化しないか」というご心配を述べられる方がいますが、感情の膿というのは、そんな生易しいものではありません
あくまで幼少期から児童期までの、脳の発育時期に、体験不可能なほどの酷い感情が意識できないまま蓄積する現象です。
成人以後、もし「悪感情への耐性」をつけないまま、それに激しく接触する事態が起きると、「精神破綻」という錯乱状態が起き得る。そんな代物です。

そんなシロモノが、人格の構成要素として、組み込まれる。
自己操縦心性としては、とにかくそんな精神破綻状態への防御を行うわけです。
この前提を考えることで、自己操縦心性の細かい動きが、ようやく理解可能な言葉で表現できるようになってきます。

No.888 2006/01/30(Mon) 15:52

自己操縦心性の成り立ち-33:現実離断とは何か-2 / しまの

■現実離断の位置付け

「現実離断」の位置付けについてまず考察しますと、それは心理障害があくまで健康な一般心理とは異なる「病理」であることを決定づける、ハイブリッドの心理メカニズム理論上の恐らく唯一のポイントです。

これまでに解説してきた流れは、心理障害傾向のメカとは言っても、基本的に、人間の一般心理に含まれるものです。
否定型価値感覚による「望みの停止」に始まる、受動的価値感覚による感性の変形。そして情動の皮相化と荒廃化。
自己処罰感情と感情の膿。ただし感情の膿はまだ「切り離され」、意識にはあまり影響を及ぼしていません
自尊心という発達課題の初期的損失状態としての、残存愛情要求。そして思春期以降に活発化する、優越による自尊心という課題の影響。そして自己理想像の形成。
自己操縦心性の基本機能としての、感情への感情空想による救済と、空想の中での優越。やがて形作られる軽蔑感情自己軽蔑感情

完璧に健康な人間はいません。そうした心理要素は、程度の差こそあれ、全ての人間に存在します。
我々はそれを理性で捉え、理性でより自分の利に合わせた思考や感情へと修正することができます。その範囲で、あくまでそれらは人間の一般心理としてのメカニズムだと言っています。

心理障害では、それができなくなります。理性で修正できなくなる部分のことを心理障害と言っています。
だから心理障害の克服に「頑張れ」という言葉が全く意味を持たないことは当然のことです。「病理」を正しく理解し、それに応じた正しい対処の技術を施すことが必要です。
医学の姿勢が必要になるわけです。


■現実離断の兆候

現実離断が起きた後の人間の心理状態には、理解不可能な論理が入り込んでくるのが特徴です。論理の中に破綻が起きた論理とでも言えるものです。

それが「発動」する時の個人の心理状態を、サイトの感情メカ理論で描写しています。
思春期になり、自意識が強烈になる。今まで空想世界とは別のことにしていた、自分の現実が気になる。
「現実」がついてこない、という焦りの感覚におおわれる。何かが変になっている。どうしよう。世界が崩壊するような漠然とした不安におおわれる。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-024.html

そのあとこの人間に、ちょっと理解不能な様子が見られることになります。

その「理解不能性」が端的に言動に現れた事件を、最近TVで見る機会が3度ありました。「一体これは何なのだ..」という強烈な感覚の中で、いつかそのメカニズムを解明しようと記憶にとどめたものが3つあります。

ひとつはまだ心理障害という外面的な姿は取っていない、ごく些細な言葉の中に、僕が何かの異常性を感じ取ったもので、
1/5「自己操縦心性の成り立ち-19:背景その2自己処罰感情の利用-4」で「感情の膿の善悪および宗教観念への影響」として例にあげた、マンション耐震強度偽造の被害者女性の言葉です。「何でこんな目に..わたし何か悪いことしたかなぁ..」
これはまだ心理障害という雰囲気ではないが、その論理破綻はちょっと心理障害特有の「理解不能性」に通じるものがあると感じています。

あとの2つは異様な殺人事件です。
ひとつは町田市の女子高生殺傷事件。犯人少年は、中学校時代に親しい言葉をかけてくれた被害者女性に、ちょっと片思い的な意識を持ったようですが、高校生になり、「何も悪いことしてないのに無視されたからやった」という動機供述の、この殺人事件を起こしているわけです。
これは一体何なのか。。

もう一つは学習塾講師の小学6年生女児殺傷事件です。馬が合わないことを苦に、「生きるためには彼女にいなくなってもらう必要があった」

一体これは何なのか。この、「自分の人生を生きる」という人間の健康な心の課題とは究極の対照にある、自分の存在が他者の消滅に依存するという論理は、一体何から生まれるのか。
もちろんそこには、異性感情の膨張といった、一般心理の延長で理解できる側面もあります。ストレスの中で自分を見失い、人の言動が法外な大きさで受け取られることも、まだ理解できるでしょう。

しかし理解できないのは、そうした感情の歪みよりも、そうした行動を本人が理性で反省することが全くできずに現実行動に移してしまうという、心理状態そのものです。
ちょっとした殺人衝動程度なら、誰だって体験したことはあると言えるでしょう。僕だってあります。しかしそれを現実化したら、自分自身の人生が破滅という不利をこうむります。そうした「現実思考」が最後まで保たれている。
そうした「現実思考」が完全に崩壊した心の状態があり、それが心を覆い尽くす瞬間があるという話になります。

悲惨な事件の例などあげましたが、実は心理障害の中で動く思考や感情のほぼ全てに、この現象が入り込んでいると考えています。
殺人事件を起こさないでいられるのは、問題の程度が軽いだけです。悪感情が流れた後、冷静になって考えても、常に理解不能な部分が残る。なぜ自分はあれだけ怒らなければならなかったのか。なぜ自分の得になることは何もないのに、前向きな姿への抵抗無気力が起きるのか。


■現実離断のメカニズム序論

答えが僕自身に、ごく最近見えてきました。
治癒成長がゴール感を伴うほどまでに進み、心の姿勢で変えられるものも良く見える今です。
それでもやはりまだ結構な量の感情の膿はあるのでしょう。1週間ほど前に、ちょっとした感情分析体験をしました。自分の心に起きた感情の流れを微細にたどり、ひとつひとつの感情成分がどんなメカニズムで起きたのかを考える。
感情成分それぞれに、自分の対処姿勢が分かります。これは残存愛情要求に基づく。流し見取るしかない。これは人間の本能としての感情だ。それは認めるべきだ。などなど。

そうやってたどると、ある時点で、今でも見事に理性制御不可能なポイントがあります。そこでは意識がすっ飛んで、いきなり次の心理成分が現れる。
その一つは、「外化」です。そしてその直前に起きているのが、「自己理想像に向おうとする積極的衝動の消滅」です。後者の消滅と同時に、理想に向って駆り立てるものは自分の中にはなく、外部にあると知覚される。
詳しくはこの後の解説に譲りましょう。

これは理性はまったく効かずに動きます。どうやらこれが「現実離断」のメカニズムの尻尾のようらしい。
その裏に「甘くない自己嫌悪」、感情の膿に結びついた最悪の自己嫌悪状態が控えていることは、今までに何度もそこを通った僕としては分かっています。

同時に、この、最も理性制御不可能なポイントこそに対して、何とかそれがない「健康な心」を自分に課そうとする人間の思考というのがはっきりと見えてきた次第です。

内側ではどんなメカニズムになっているのか、解説しましょう。
意識より深いところにあるメカニズムです。

それを理解することこそが、心理障害のメカニズムの理解です。自己受容とは、その理解の上にこそ築かれるものです。
それを理解してもらえば、心理障害の克服の方向性について今までのようなくどくどとした遠回りの説明は不要という感さえ感じています。
何があるかはもはやはっきりと見えるでしょう。あとはそこに進むかどうかを判断してもらえばいい。

と言う感じになればいいんだけどなー^^;

No.887 2006/01/30(Mon) 14:55

自己操縦心性の成り立ち-32:現実離断とは何か-1 / しまの

「成り立ち-31」で、次は「人生感覚」についてと書きましたが、「現実離断」の解説へと変えます。

それは今までの心理発達の流れ経緯としても、ここで「現実離断」が発生していると考えて大体良いと思える状況があるのが一つ。
あと一つは、この後の自己操縦心性メカニズムを考えていた僕の頭の中で、この現実離断の話があまりにも大きなインパクトがあり、早く言葉に形作りをすると同時に、取り組みアドバイス面においてもこの理解が決定的に重要なものになり早くお伝えしたいという理由があります。

これが分かった時、僕自身としても拍子抜けするほど、今まで不可解であった心理障害の論理が見通せてきた感がありました。
同時に、心理障害への対処姿勢についても、何か今までの意気込みを根底から覆すような結論が見えています。実際のところ、その「意気込み」に根本的な間違いがあるわけです。だから治らない。

それをどう気づかせるかに苦心して、紆余曲折な説明を繰り返してきた今までの自分が、あまりに不効率であったという感はもとより、ちょっと徒労があったとさえ感じるような、ハイブリッド理論の大きな前進になります。

出し惜しみしないで、結論のキモになる事柄を書いておきましょう。

今まではこんな感覚があったと思います。自己操縦心性が、自己理想像に向って自分を駆り立てる病理の源泉である。それへの対処として、自己の受容が重要だ。
そうじゃなかったんですね。自己理想像に向って駆り立てたのは、我々自身です。自己操縦心性はそのことを打ち消し、我々が「自分は自己受容をしようと考えている」のがホントウだと思い込ませる働きをしています。


「障害」はひとつのハンディです。自己で手足を失ったのと同じように、それは変更不可能な「現実」です。受け入れるしかありません。
一方、それをどう受け止めるかという「姿勢」は、変更可能です。変えることができる「姿勢」を変えることです。心理障害の場合は、それが「障害」そのものがやがて克服消滅につながる方向性がある。

自己受容できず、自分に捉われる姿勢が、「変えるべき姿勢」であり、抑うつ感情や自己軽蔑感情が、「障害」だと感じていたかも知れません。
だから「自己受容できるための思考法」を一生懸命ハイブリッドから探そうと、その結果障害感情が克服できると感じていたかも知れません。


逆です。

自分に捉われる姿勢「障害」です。これは変更不可能です。抑うつ感情や自己軽蔑感情「姿勢」です。これは変更が可能です。
「自分に捉われる姿勢」という変更不可能な障害を、「自己受容しなきゃ」と自己軽蔑感情の「姿勢」で攻撃していた。これじゃ問題は解消するはずもありません。逆に問題が膨張するでしょう。


まず、自己受容できず、自分に捉われる状態が発生します。これが「現実離断」という心理障害の病理の根本です。
「自己受容」とは、その状態を受け入れることを意味します。自己受容が全く不可能な状態が自分の心にあることを受け入れることが、「自己受容」の真の意味になります。

その上で、自分の治癒成長に向って踏み出すという、心理学の目が重要になります。

これを前振りとして、「現実離断」という、心理障害が「障害」たる根本メカニズムの解説をじっくり行います。

No.886 2006/01/30(Mon) 12:56

自己操縦心性の成り立ち-31:基本機能その2空想の中の優越-5 / しまの

■用語の変更

自己操縦心性について説明する言葉ですが、ちょっと修正しようと思います。
2つあります。

1)「価値感」→「価値感覚」
「価値感」と「価値観」が紛らわしいので。「感」と「観」の字で分けようと思ったのですが、言葉が似ていても表現対象は全く別のものですので。

価値感覚..感性のレベルです。思考では修正できず、心理障害の治癒という全体の中で解消克服を考える必要があります。
価値観..知性思考のレベル。思考で修正します。
取り組み上は、感情に流されるように混同状態であったこの2つを分離し、純粋に知的に、これまでとは違う価値観に変えていくことが重要です。その結果生まれる価値観と価値感覚のギャップが、その後の治癒成長のための糸口になります。

2)自己操縦心性の「根本機能」→「基本機能」
「根本機能」という呼び方はやめ、「基本機能」と「病理メカニズム」に分けます。
自己操縦心性の、「理性では理解不能な形で勝手に動く」メカニズムの根本を理解頂くためには、この2つに分けた理解が重要になると思います。

基本機能..一般心理にもあるものとしての、自己操縦心性の機能です。これは理性意識で本人が把握でき、心の姿勢によって変更が可能なものです。
病理メカニズム..心理障害として自己操縦心性が「発動」する仕組みです。基本機能をベースにして、感情の膿との関連により暴走を起こす仕組み。この暴走の発動を「現実離断」と呼んでいます。後に詳しく。

このような整理により、心理障害の中で動く自動感情の仕組みのほとんどは、理性で把握でき、修正の方向が定義できるものになりそうです。
その中に入り込む一片の病理要素が、全ての歯車を様変わりさせてしまう様子を、今後解明します。それへの対処姿勢も定義できるでしょう。
全ての出口が明らかになる時は近い。そんな感p(^^)q



■心理障害の悪感情の基本成分

「軽蔑感情」劣等性をもって愛に値しないと攻撃する感情であることを理解した時、心理障害の中で起きる悪感情の基本的な成分というものが分かってくると思います。

「自己軽蔑感情」とは、自分自身で劣等性を認識し、そのために愛されるに値しないと自らを攻撃する感情です。
それは同時に自己処罰感情も伴うことになるでしょう。自らによって愛を剥奪された悲哀感情も伴うことになります。
この結果、自己軽蔑感情は生理的不調感さえ伴う抑うつ感情として体験されることになるわけです。


以上が、自己操縦心性が心理障害として発動する「現実離断」を迎える前の、心理障害を構成する感情のほぼ全ての登場人物になります。
こうした材料が、「現実離断」によって心理障害特有の歪んだ感情論理によって組合わされていく様子を、次に考察して行きます。

その前にもうひとつ、大きな材料があります。それらの登場人物が闊歩することになる、特別の舞台があります。
それが自己操縦心性の「人生感覚」です。これがあるために、心理障害は人生を舞台にし、人生を狂わせることになるわけです。
それを次に。

p.s
明日あさってと自主トレーニングのためスキーに行ってきま〜す。

No.885 2006/01/26(Thu) 18:28

行政の問題ではないマネーゲーム暴走 / しまの

引き続きLivedoor問題の時事ネタなど。最近の時事ネタはまず「原理原則」の話になりますね。
今回はかなり上級編(?^^;)。

報道では今、今回の問題の背景に規制緩和という行政の背景があったという考えを取り上げるようになっています。
昨日の国会でも、小泉首相「衆院選でホリエモンを応援したことと今回は別問題」と答弁する様子を流していましたが、さすがに僕も「いや別問題じゃ済まないだろうー」とひとりごちましたね。ホリエモンの手法を多少とも容認し、盛り上げさえするものではあった。
首相はむしろ、何らかの責任を自己表明し謝罪的な弁をする方が、国民の信頼を得るには得策ではと考えたりしましたが、その後やはり「不明と言われれば甘んじて受ける」と、責任を認める発言に修正した模様。

今朝の読売新聞では、『“ひずみ”見逃した行政』という報道特集が1面で始まっており、今後、今回のLivedoor問題についての行政の責任の論議が高まるでしょう。

僕はちょっとちがう考えですね。「行政が見逃した」んじゃないです。社会統制の仕組みに抜けがあるんです。
これは「社会行動の原理原則」の最初に位置付けられるとも言える、「役割分担」という概念による考え方です。


現在の日本の国家運営の基本は三権分立です。
立法..法律を決める(国会)
司法..法律違反を処罰する(裁判所)
行政..国家運営の統制実行をする(内閣)


ここで足りないのは、「監査」の機能です。これは社会の現場における法遵守の監視機能です。
行政に現場レベルでの監査機能を求めるのは無理があるんですね。それを可能にする仕組みが必用です。

そこで登場するのが「SOX(サーベンス・オクスリー)法」です。米国で2002年に導入されたもの。
「監査人の独立性、会社の責任、財務ディスクロージャーの強化、ホワイトカラー犯罪に対する罰則強化等を規定」とのもの。
これを会社で教わった時は、「1990年代以降の米国の強さを決定づけたもの」という感じで教わったのですが、2002年導入ということは、米国の経済回復の原動力という話ではなく、経済回復の締めくくりみたな位置付けなんでしょうね。

Livedoor問題が今「行政の責任」をテーマにし始めた先には、「日本版SOX法」という言葉が多分そのうちにマスコミに頻出するようになるでしょう。予測ですね。

ま詳しい話に興味ある方はネットで調べられるかと。
今回話したかったのは、原理原則立脚型だとこんな話になるのですが、そうじゃない世の人々は、誰が悪い悪くないというのを情緒的に議論するのに終始すると思いますんで、原理原則立脚型というのは日常思考からして、そうじゃない人と別世界になるという雰囲気をお伝えしたかった次第でした。

そう言えば耐震強度偽装も、結局決定的な問題は、「監査」がその役割を果たしていなかったことにありますねぇ。

しかしまあメンヘル系サイトとは思えないようなカキコですが、こうでなきゃーと?^^;

No.884 2006/01/25(Wed) 11:38

自己操縦心性の成り立ち-30:根本機能その2空想の中の優越-4 / しまの

■理想価値と心理障害の治癒

思春期になって、個人の心に抱かれるようになる「理想価値」について、主な材料まで説明しました。
最後に触れましたが、それらはあくまでこの個人自身が抱く理想価値であって、自己操縦心性が「勝手に」抱くものではありません。

つまり、その理想価値を抱き続けるかどうか自体は、治癒の問題ではなく、価値観の問題です。
美貌や能力を価値として目指すかどうか。「優しさ」と価値と考えようが「辛いのを我慢する姿」が価値あるものだと考えようが考えまいが、本人の自由です。

しかし幾つかの価値観領域においては、価値観の選択が心理障害の治癒と大きく関係してきます。
「辛さ価値観」はその最たるものですね。いずれ説明しますが、自己操縦心性の大きな機能に「機能性の苦しみ」があります。
「辛さ価値観」は自己操縦心性による「機能性の苦しみ」を是とし、維持します。その脱却のためには「辛さ価値観」を根本的に捨てることが必要です。
「辛さ価値観」を今後も取るのであれば、心理障害の苦しみとも一緒に生きていくということです。

その全体を理解した上で、自分の価値観を、自分の決断によって、選択するのがいいでしょう。ハイブリッド心理学が言えるのはそこまでで..
じゃーないんですね。価値観の選択が不可能になるのが心理障害なんです。そのメカニズムを理解してもらった上で、取るべき姿勢を説明しなきゃー。
それがハイブリッド心理学の最大のキモになるでしょう。

不可能にするのが、自己操縦心性ですね。
そのメカニズムを考えるための材料を引き続き。どうやら「自己操縦心性に自己理想像はない」という、とんでもない結論に頭の中ではなりつつあるのですが。。
理想像を自分に押し付けたのは、我々自身だったのです。自己操縦心性はむしろ、それを止めさせようとしたのかも知れない。ハイブリッド理論自体の大どんでん返しかも。。


■「空想による救済」から「精神による現実の見下し」へ

さて、個人の抱く理想価値がどんなであろうと、それは空想の中で抱かれたものです。
そしてこの心理過程にある個人にとって、現実ははなはだ不遇で満足のできるものではありません。だからこそ、空想世界に救われるかのように、理想の世界に耽ったわけです。
これを「空想による救済」と呼んでいます。

思春期になり、優越欲求が不可避的に昂進していく状況においては、この本人は、それまで現実とは切り離した空想世界を、今度は自分の優越性のための理想像として抱くようになると思われます。
皆の注目を集めて輝くような自分の姿。どんな敵をも打ち負かすような自分の姿。素敵な異性と結ばれた自分の姿。。そうした現実逃避的空想が、そのまま自己理想像になると思われます。

同時に、思春期要請のひとつである「現実的な自信への要請」の中で、本人は発達してきた自我つまり自意識によって、現実の自分を眺めることになります。
それはとうぜん、空想に抱いた自己理想像とはちょっと、もしくは大幅に、ズレたものでしょう。

ただそれを本人がどんな真剣さで認識するかには、若干曖昧な部分があります。
というか、空想的な自己理想像と現実の自分のギャップについて、どう現実の自分を向上させて理想に近付けるかという「重み」の感覚がぽっかりと欠如していることに、自己操縦心性が心理障害として発動し始めている兆しを見ることができるように思われます。
多くの場合それは、「やる気になりさえすればいつだって..」というような観念の中で奇妙に何もせずにいる姿であったり、受け身の空想的自己理想像のために、現実的努力という観念そのものが全く持ちようもないままであったりするでしょう。

それでも観察されると思われるのは、自分の抱く空想的な理想価値そしてそれを抱く自分自身の精神性のようなものへの信念です。
その理想はあまりにも気高く、それに比べると多くの現実はあまりにも下劣なものに感じられるでしょう。
そうした高い理想を抱くことに、自分自身に感じることのできる自尊心がある、という感覚もあるでしょう。
この感覚のことを、「高貴な精神性による現実の見下し」と呼ぼうと思います。


■軽蔑感情の出現

かくして、この後の心理発達を大きく方向付ける、新しい感情が出現します。「軽蔑感情」です。

実は少し以前、この「成り立ち」シリーズを頭に整理し始めた頃、「軽蔑感情」とは一体どんな感情かと考えたことがあります。
僕自身が、「軽蔑する」という感情を思い出せない感じがちょっとありました。軽蔑感情ってなんじゃらほい、と。

これは面白い話かも知れませんね。治癒後に「思い出せない」感情というのは、健康な心の基本機能としては存在せず、何かが合成されてできた、心理障害が生み出した特別品なんですね。
僕として端的に思い出せない他の感情としては、高校時代の対人恐怖を冷徹な哲学の中で振り切った後、「苦しみを自分のアイデンティティと感じた」という時の「苦しみ」の感覚や、自殺を決意した時の感情などは、今は全く思い出せません。
参照:2004/06/13 苦しみを思い出せない

怒り」はまだ思い出せます。というか、身体的攻撃に反撃するためには、意識的に「怒りを奮い起こす」というのができると思う。
障害感情としての、自動的に起きて心身消耗する類の怒りは、ちょっと思い出せなくなりつつあるかも。

で、「軽蔑感情」については、心理学的に頭を使うことで、ちょっと思い出す感じがありました。
それは相手の劣等性を見る感情である。
ただ、人の何かの劣等性を、軽蔑感情を全く伴うことなく認識することはあります。ありますというか、人の長所短所を正しく認識し、それとうまく付き合うことが、社会行動や対人行動のスキルというものです。そこには「軽蔑」というニュアンスは全くないんですね。

もうひとつ、「軽蔑しちゃうね♪」とか表現してみて、♪がハートマークになって表現されるものでは、軽蔑というのはない。相手の劣等性や短所を見る目でも、愛着心を伴うのは、軽蔑ではない。
つまり、相手の劣等性を持って愛情に値しないと決め付ける感情が、軽蔑感情なんですね。実は複雑な感情なわけです。

これは、「精神性による自尊心」のための、「相手を打ち負かす」タイプの優越ということになると思います。
相手の劣等性を愛される価値ないと攻撃する感情ですね

この「攻撃」は、むろん空想の中で行われます。空想の中で、相手を叩き潰すわけです。
身体的物理的攻撃ではありません。身体的物理的攻撃を伴ったとしても、身体的物理的なところ以外で相手を傷つけようとする部分が、軽蔑感情なわけです。

従って、軽蔑というのは、相手が自分自身でそれを自己軽蔑感情によって受け取らないと、「軽蔑」「侮辱」として成り立ちません。
ブルース・ウィルスを「ハゲ!」と軽蔑しようとしても、あんま軽蔑になりにくいのは想像できるかと思います。アハ。

以前2004/07/12「屈辱の世界からの脱出-2」で書いた、
実のところ、「軽蔑する」という行為自体が幻想の中で行われる営みであり、屈辱が真実に感じられやすいのは、向き合う2者の間でこの幻想が重なりやすいのですね。
というのはこのことです。

ということで、空想の中で優越欲求を満たそうとする感情が、軽蔑衝動として発達してくることになります。


いちおう自己操縦心性の根本機能という中で説明しましたが、ここで自己操縦心性が果たす役割は、空想世界の重みが現実の重みを逆転しているという側面だけです。
つまり「軽蔑」という営みそのものは、我々自身の心の姿勢によるものです。
ですから自己操縦心性の機能として説明するのはあまり適切ではないかと。心理学本の方では直しましょう。

軽蔑感情そのものは、心理障害が絡まなくてもあるでしょうし、その範囲では、自分自身の心の姿勢によってそれを止めることができるはずです。
心理障害が絡む時に、修正が不可能になる。そこに自己操縦心性の「心理障害としての発動」のメカニズムがあります。それは感情の膿との関連で起きます。

その考察に進む前に、あと少し心理障害で特徴的になる諸種の感情について考察しておきます。

No.883 2006/01/24(Tue) 12:42

原理原則を見誤ったホリエモン / しまの

今や「容疑者」という社会的肩書きで呼ばれるようになったホリエモンですが、TVでは、かつて「確実と近代性をほこる日本唯一の金融会社」を謳って大成功を収めた「光クラブ」の山崎晃嗣との類似性について取り上げている模様。
この山崎さんの方は、当時の銀行法違反などで逮捕され、巧みな弁舌により釈放を勝ち得るまでは実に精力的であったが、そのすぐ後にはあっけなく自殺したらしい。

TVでは両者の発言を引用し、その価値観の類似を指摘しています。
山崎、「違法だと誤解されている事が沢山ある。合法違法すれすれを追求する。
ホリエモン、「誤解を恐れずに言えば、人の心は金で買える。

さて、両者の価値観をどう見るかについての識者の意見はまだ見てませんが、それが「道徳意識の欠如」の末路だと指摘するものもあるかも知れませんね。
僕は「原理原則を見誤った」のだと考えますネ。

善悪の完全なる崩壊に立つハイブリッドでは、絶対善悪を否定する代わりに、人間や社会や世界を動かす「原理原則」の見極めと、それを「人生をうまく生きる」つまり「勝つ」ための戦略として活用する、「原理原則立脚型行動法」を極めて重視しています。

「原理原則」の内容を今後具体的にまとめますが、1)原理原則総論、2)社会行動の原理原則、3)人間関係の原理原則、の3部にまとめようと思っています。
その中で今回の話に関連するのは、社会行動の原理原則のひとつである「法の遵守」に関連します。

それを、善悪道徳としてではなく、戦略としてやるんです。
具体的には、「法の遵守」については、「法よりも遥かに厳しいルールを設定して守る」が一つの方法です。
僕はそれを、20代の頃何の悪意もなく何の気なしにした行動が大騒ぎになり即客先出入り禁止になった手痛い失敗と、その後のいちおう一流企業と呼ばれる会社での仕事生活の中で学んで行きました。

それが「社会からの信頼」という報酬を獲得するための、最強の戦略なわけです。
絶対善悪の観念などないからこそ、そうなるとも言えると思いますね。善悪は相対的なら、虎視眈々と「善の一般相場」を見極め、それより上を行くルールを定義し、実践している姿を示すのがいい。

絶対善悪があり、絶対的基準があるかのような観念から、逆に、「違法すれすれの追求」なんて愚かな発想が生まれたり、疑惑を掛けられてから「悪くないはずだ」なんて悪あがきが出る。「社会でいきるノウハウ」としては、疑惑を掛けらるような行動をした時点で、もう落第なんですけどね。
「李下で冠を正さず」ですね。

こうした意見が「道徳心の欠如」と取られるかも知れませんが、何故かそうした戦略を取る当人は、その戦略によって内面自体が実に人畜無害な温厚なものに円熟していることに、やがて本人自身が気づくでしょう。僕の会社のトップの人々も、そんな感じで実に温厚で建設的な人が多かったですね。
なぜか。戦略として行うとき、自分の決断として、自らの意志によって能動的にそれを選択しているからです。だから心の底からしっかりと定着するんです。

絶対善悪みたいに、外部から与えられるものと捉えた時、それは受け身の姿勢の中で、心の底にはどこか反発を残したものにならざるを得ないような気がします。無意識の反発が、人に「見つからなければ」悪くなろうという誘惑を起こすかも知れません。

意識があんまり道徳的だと、無意識が非道徳化するというパラドックスがあるようですね。
芥川賞『ハリガネムシ』の主人公の高校倫理教師などその典型だったなぁ。。

No.882 2006/01/24(Tue) 10:29

2つの「自己責任」で別世界になる人生の舞台 / しまの

島野@スキー帰りです。
今回のスキー行でのふとした出来事を通して考えたことなど一筆。

今までちょっと言葉にするのが漏れていた感じがありますが、心理学本にはぜひ載せたいテーマですね。
結論をまず書いておきますと、「自分自身で決断する」ことの重要さがまずあり、それは自分でそうするのが一つあるとして、あとはそれを尊重する人々と生きるということがある。この2つの「自己責任」で、どうやら我々の人生の舞台は全く別世界になるようだという話です。

どんな出来事かと言いますと、今回のスキー行はOBとして会社のスキー部の合宿に参加したもので、誰でも参加可能なスキースクールをしますという合宿でした。僕も講師の一人になった次第。
で僕の車にスキースクール参加の女の子2人が同乗する予定だったのですが、その一人が出発直前になって、大雪を家族その他が心配し止められたため行けないとドタキャンになったわけです。

その時の僕の行動としては、2つの選択肢があります。
一つは何とかしてその心配を解いてもらい、キャンセルしないよう働きかけるもの。もう一人の女の子としても、今回初めて参加する合宿で、友人が誰もいないのでは心細いとちょっと心配そう。せっかくの楽しい行程にじっさい少し水をさされることでもあります。
もう一つは、相手の判断を尊重し、特にどうこうしないもの。

で僕としては内心「えっ信じランナーイ」と感じながらも後者を取る。僕としてはスキー場方面の天気予報は曇りときどき雪程度の全く問題ないものであったのを把握しており、その判断を軽く伝えましたが、結局こっちの判断に従ってもらっても責任は取れないので、向こうの判断にまかせます。
連れの女の子は、職場の上の方の知り合い男性がたまたまスキー部古参で今回も来るので、携帯で相談してオープンな雰囲気なので心配ないよということで、少し安心した様子でそのまま参加となりました。

でスキー場の方はというと、土日ともほぼ快晴の、めったにない好条件だったわけです。参加した女の子も、超明るい性格の女性講師につき、似たようなレベルの女の子数人のレディース班となり、とても楽しかったとのこと。

一方首都圏とんでもない大雪だったようですねー。スキーから夜帰って来たときには、何かまたスキー場近辺にきたかと感じたようなありさまでした。

今日そんな出来事を思い返しながら、キャンセルした女の子からお詫びメールが届き、全然ノープロブレムですよと返信。
家族の心配は判断ミスだったことを諭すような言葉も浮かべてましたが、書かないでおきました。

そんな中考えていたのですが、僕としては、自分の移動経路に従った天候の心配をするわけです。土日の東京の天気は気にかけない。で今回は全然問題なかった。
一方、その女の子の家族は、スキー場などの天気の情報を多分持たず、首都圏の天気を主に知って、行くのは無謀だと考えたんだろうなーと。

それってどうも、自分の心配をして人の行動に口出しするという構図の感があるなあと感じた次第。
そもそもスキーに行くかどうかを自分で判断決断できないという状況に呆れた感がありましたが、まあその子は自分の判断で行動することを許してくれない家族の中にいて、そんな感じなのでしょう。
その女の子は、スキー場は快晴であり合宿は楽しいものだったことを友人女性から聞き、家族への不満を感じるかも知れません。家族が止めたせいでそんな機会を逃したことを、家族に怒り文句を言うかも知れません。

同じなんですね。自己責任で決断しない時点で、もう人生を逃しているわけです。

ということで、「自己責任で決断する」ことには、2つの意味がありそうだという話。

自分の責任で、自分の判断で、決断する。これが人生にとってとても大事です。
そのうち色んな「原理原則」をまとめようと思いますが、ものごとがセットでやってくることが、重要な原理原則の定石パターンのひとつです。権利と義務。責任と権限など。
「自己責任決断」によって、我々は「自由」と「自分の人生」を得ます。これはセットです。その行動様式の中で、人生を生きるノウハウ心の強さも得るでしょう。
これがまず自分自身としてそうだという話。

次に、人間関係の様相です。人生の舞台でもあります。

自己責任決断を尊重する人は、人の自己責任決断も当然尊重します。人の決断には原則として口をはさまず、共通目標共通利益だけに直目した行動で、楽しいことだけが人間関係の中で表に出るような世界があります。

他方には、自己責任決断できない人々、しようとしない人々がいます。人の意見に左右され、人の行動に口出しして、人の自己責任決断を許そうとしない人々です。
「自分の行動の責任を他人が取ってくれるのを求める」世界のような。。
でも結局できるのは、自分の心配をして人の行動に口出しするようなありさまでしかないんですね。「自由」も「自分の人生」もノウハウも心の強さもない、相互牽制し合うだけの人生を送るような世界があります。
不満と怒りばかりが、当然人間関係の表の主流になるででしょう。

全く別世界の人生という感を感じます。

本人の心の姿勢だけでは済まないところもあり、そうした人々との決別をどのように果たすかというひとつのテーマが、厄介な問題ですがやはり出てくるんでしょうねー。。

No.881 2006/01/23(Mon) 11:39

ダイジェスト小説『読者の声』短文募集! / しまの

さきほどダイジェスト小説トップページにも載せましたが、表紙帯に掲載を検討する『読者の声』短文を募集したいと思います。
ぜひあれば島野あてメールにてご提供くださいませ。

採用された方には無料にてサイン入り初版本を贈呈としたいと思います。
なおダイジェスト小説の掲載はもうちょっと様子見た上で終了としたいと思います。出版社にもこのHPを直接原稿として見てもらっている安直方法を取っていることもあり。エヘヘ。

よろしくで〜す!

p.s
今日夕方からまたスキーに出かけますです。

No.880 2006/01/20(Fri) 12:29

自己操縦心性の成り立ち-29:根本機能その2空想の中の優越-3 / しまの

自己操縦心性が心理障害の中で発動するまでの心理要素を、ざっとおさらいしてみましょう。
1)親の否定型価値感の下で発達する受動的価値感とその結果としての感性の変形
2)自己処罰感情感情の膿
3)残存愛情欲求
4)優越による自尊心課題による優越欲求の昂進(優越感劣等感)
5)感情への感情
6)空想力自己理想像


思春期の心理としてもうひとつ考察しなければならない、強力なものがありますね。


■重なり合う「愛」と「優越」

思春期にもう一つ加わる強力な心理要素とは、性欲の昂進とともに高まる、性愛衝動恋愛感情です。
これで、人間が持つ愛をめぐる感情の全てが視野に入ってきます。

子供が幼児期に親に向ける愛情欲求と、男女が思春期以降(青春期と言っておきましょう)に異性に抱く愛情欲求は、人間の愛の感情の中で最も「一体化への欲求」の色濃い感情です。
多少そのニュアンスは異なります。
幼児期の愛情欲求は、「宇宙の愛」への欲求です。これは自分が何でも許されているという、素朴な全能感万能感の土台としての役割を果たすものでしょう。
青春期の愛情欲求は、排他的欲求としての色彩が特徴です。相手が自分だけを見ることを望みます。これは「優越」という意味合いも含んでいると思われます。

愛と優越が重なってきます。
望む異性を得るための、相手に愛されるような価値。これが、人の自己理想像の方向性を大きく決めるものになるでしょう。
また、異性を得ること、愛を得ることが、人の優越欲求の大きなテーマになるでしょう。


■理想価値の概観

個人が何を「愛される優越価値」と捉えるかは、もはや「何でもアリ」の世界と思われます。
だたし中でも強力なものを、いくつか挙げていけると思います。

1)一般の人間にとって大抵は優越価値となる、美貌や才能、強さ、財産や地位。これが優越欲求とベクトルを同じくします。

2)一般の人間にとって大抵は愛情や好感の対象となる性質。上記優越価値の一部はこれに重なります。あとは可愛らしさ、素直、正直、天真爛漫さ、感情表現の豊かさ。

3)「自らは望まない」姿勢。これは「奥ゆかしさ」「慎み深さ」や「謙虚さ」として知覚されます。
これが実は、望みの停止による情動の変形を裏に控えたまま、愛されるための価値として抱かれることに、この後の錯綜の芽があります。

望まない姿勢を価値とした時、裏では必ず、感性の歪みと情動の変形が起きています。受動的価値感による感情全般の他者依存性奪い合い感覚嫉妬傾向、望みの停止の度合いに応じた破壊衝動など。
性衝動は「秘められた貪欲」の色彩を帯びます。詳しい解説は省略しますが、感情の膿の影響により、性衝動そのものが昂進しており、枯渇した感情を埋めるための刺激と、身を削るような空虚感への麻酔剤として、そして「相手の情動を操作し眺めることを楽しむ」サディズム衝動のはけ口として、まるで吸血動物が相手にすいつくように、快楽を貪る衝動に変貌してしまうのです。

こうした感性および情動の変形は、この個人が他人や社会を、それを通して見るフィルターにもなります。
自分が価値と感じる慎ましさに対するものとして、あさましい他人の強欲さがあります。人間の本性は攻撃的であり、それを自制することを知らない、無道徳の恥知らずがいます。
性欲は貪欲な衝動だと考えます。それに自分が負けるか、勝つか。健康な心理発達の中で、十分に自制可能な「軽快な性欲」の感覚を、知る由もありません。

この「慎ましさvs貪欲さ」という構図は、この後の心理発達において極めて重要な位置付けのものになります。

4)辛さや苦しみ。これは心理障害傾向の発達過程にある個人が、何らかの形で現実においてこうむっている辛さや苦しみがまずあります。幸せになるための条件を何か奪われた苦しみであり、望みの停止による苦しみです。

一方、「自らは望まない」姿勢が発達する環境では、「辛さに耐える姿勢」を価値あるものとする価値観があるのが大抵です。辛抱や苦労が美徳になります。
また辛さや苦しみが「望む資格」になるような価値観の存在が、重要な役割を果たします。ある大学のサークルが一人のボーダーの勝手な行動で乱された心労を相談した女子学生が、指導員から「あの子は病気だから我慢してあげて」と言われたという話を見たことがあります。

「辛ければ何でも許される」という論理のある世界があります。これと優越欲求が結びついた時、「辛い者勝ち」という世界になってきます。
実際のところ、比較的深刻な心理障害への心理医療現場では、それが花盛りです。

辛さが人に認められることを求め、ただし敬意が払われる形にならなければ許さず、そこに潜む不誠実性が指摘されると怒りで暴走するという、典型的な「心理障害者像」があります。

ただしそうした心理障害特有の心理パターンは、ここで述べたような「誤った理想価値」で説明できるものではありません。
どんなひねた理想価値も、それを価値として抱くのは我々自身であり、自己操縦心性が勝手に抱いたものではありません。

これらはまだ人間心理一般に起きえることであり、その不合理性を本人が学べれば、理性的な取り組みによって修正が可能です。

心理障害の「病理」は、それが修正不可能になることにあります。特有の感情パターンが強制的に起きるようになるわけです。
それを決定付けるのが自己操縦心性が起こす「現実離断」ですが、あとちょっとその前の材料の考察を続けましょう。


「現実離断」の正体は、今僕の頭の中では次第にぼんやりと形を取ってきているのですが、何かとんでもない結論が導きだされそうな予感がちらほら..「理想像に向かって駆り立てた」のは実は我々自身であり、自己操縦心性が行ったのは別のことのような。。
自分を「変えようとしても変えられない」のが基本的な現状が、うまくいったら打破できるかも..

No.879 2006/01/19(Thu) 15:24

自己操縦心性の成り立ち-28:根本機能その2空想の中の優越-2 / しまの

思春期を迎えて心理障害が発動するまでの心理メカニズムについて流れを追っていますが、「発動直前」の心理要素として「空想」に注目した話をしました。
自己理想像があり、望めない自己像望める自己像が出てくる。

ただ、自己操縦心性の機能を話し始めて、まだこれと言った「新たな感情」は出ていません。
登場済みなのは、自己処罰感情、残存愛情要求、優越欲求、あとは生来欲求程度。

実はあとひとつ、新たに出現する特別な感情のメカニズムまで、この「空想の中の優越」で説明したいと思っています。
それは「軽蔑感情」です。多分それで、その後の心理過程を構成する感情の要素がほぼ全て揃う気配あり。

「軽蔑」というのは、現実世界ではなく、空想の中で行われることなんですね。
自分自身の中に折り込まれたように自らを軽蔑する空想世界へ飛翔する、「現実離断」を説明するのに必要な役者が、それで揃うわけです。

その「軽蔑感情」の出現までの話ですが、まだ長そ..


■思春期要請による優越欲求の昂進

思春期になるとともに、自尊心確立という人間の心理発達課題について、新たな段階が到来することになります。
それをハイブリッドでは「思春期要請」と読んでいます。その内容はサイト掲載の感情メカ理論にて大体述べた通りであり、考え方に特に変更はありません。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-011.html

まあ変更点と言えば、それ以前に起きている心理要素の考え方が異なることですね。追従・攻撃・離反という基本態度というよりも、受動的価値感による受け身態度や、「奪い合い感覚」からの強情さが、これからの心理発達をどう色づけするかになります。

思春期要請の結果、個人の心に現れる心理変化として最も注目すべきは、優越欲求の昂進だと思います。
それは「社会への自信」と「異性獲得への自信」という要請と結びついています。

意識上では優越欲求をどのように体験するかには個人差があり、特に、自己理想像と結びついた感情演技感情や感情強制感情により、もはや類型を考えるのはあまり意味ないほど千差万別の意識になるでしょう。
それでも間違いなくこの時期から少年少女の心を捉えるのは、「優越感」「劣等感」です。これだけは、どう自分の感情を演技しようと、それを意識することを免れる人間はいないように思われます。これが何よりも、思春期に昂進する優越衝動というのが本能であることを示しているように感じます。


■優越欲求の発現形態

「優越」の基本的な形態については1/16「背景その3優越による自尊心課題-5」で既に考察しましたが、ここでは思春期の少年少女の実際の心において、昂進した優越欲求がどのような内容で体験されるのかを考えてみましょう。

最も健全な形は、自分の理想通りになろうとする、創造的で生産的な活動に熱中するものです。少年少女はこの活動の中で、「価値の獲得」に向かい、自分の資質や現実の壁に応じたものを獲得するに至ります。
その結果高い成果を得たものの優越感は、高揚した栄誉感として体験され、低い成果にとどまった者は落胆の中で、目標を修正するでしょう。まだ「努力を尽くした満足感」には早いです。栄誉感も一時的落胆も、特に害のある感情ではありません。

受動的価値感があると、自己理想像が衆目を集めるタイプに偏ってきます。とにかく人目を引くような姿になりたい衝動が湧くのを抑えることができません。

「相手を打ち負かす」という形の優越へ向かう破壊的勝利衝動を発達させた子供の場合は、一見して健全型と同じような理想的価値追求に向かうものと、文字通り他人を打ち負かす形の勝負に没頭するものと、2通りがあります。
前者の表現場面として多いのは、学校の成績の競争。外見は健全型と同じですが、内面が異なり、他人全てを打ち負かすという破壊的勝利への感情があります。後者はまあ喧嘩に明け暮れるようなもの。

自己処罰感情が強い場合、優越欲求はいったん飲み込まれて目をそらされます。しかし完全否定できるものではない優越への欲求は、皮相化荒廃化した形で意識に漏れ出します。
人を見返すという色彩を帯びた破壊行為嫉妬に駆られての攻撃行動などが目立ってきます。

受動的価値感・破壊的勝利衝動・自己処罰感情が組み合わさった先には、破壊的行動によって衆目を集める優越衝動という、昨今の陰惨な少年犯罪の心理が見えてくることは、容易に想像できるものと思われます。
神戸の「酒鬼薔薇聖斗」事件の「少年A」などはまさに、この心理メカニズムが生まれる条件を典型的に示したものと言えます。


あと少し思春期に見られる心理要素を考察し、この時期に「自己理想」が帯びる特徴の材料を洗い上げてから、「軽蔑感情」の考察につなげましょう。

No.878 2006/01/18(Wed) 21:29

自己操縦心性の成り立ち-27:根本機能その2空想の中の優越-1 / しまの

自己操縦心性の機能としてまず「感情への感情」を説明しましたが、これはまだ心理障害特有のものではなく、人間心理一般にあるものであり、ほどほどの程度をわきまえる範囲なら、使ってもそんな害のあるものではありません。

次の機能も、やはりまだ心理障害の発動には踏み出していないものですが、踏み出す直前とも言えるものです。
「空想」が登場します。どこまでが「正常」で、どこからが「異常」なのか、境界線が次第にあやふやになる領域ですね。


■自己理想像の描出

アクションヒーローやアイドルになった自分を空想して、すっかりその気になっている仕草の子供を見るのはごく普通のことです。
こうした空想力によって、自分の理想像を描くこと自体は、その実現に向かってさまざまな人生の活動をする原動力ともなる、極めて高度で前向きな心の機能と言えるでしょう。

心理障害傾向の中でそれが次第に歪んだ姿になる要因とは、なんと言ってもまず否定型価値感の下で発達する受動的価値感です。
否定できることに価値を感じる、「それじゃ駄目だ!」という大人の感情の下で、子供は望みの停止を「学び」、価値ある者だけが望む資格があるという「望む資格」思考の中で、人生の望みのためには「価値ある姿」にならなければと感じ始めます。

これは望みの中途停止状態です。自分が価値ある姿なら望める。「望み」こそが人生の意味であり、情動の源泉です。
「価値ある姿」なら望めるとは、何の前提もない自発的自律的な心の動きとしては感情が湧かず、価値ある姿だという「自分を見る目」を前提にして感情が湧くということです。

細かい心の動きを追うと、実はもう「望みの停止」が起きているんですね。いったん望みを停止して、立ち止まる。そこにはもう「望めない自分」が既にあるわけです。
次に「自分を見る目」があり、「自分の姿」がある。大丈夫..となれば踏み出すことになります。これを「自己像確認」と呼びましょう。

実はもうここで、心の分裂の芽が生まれていることになります。「望めない自分」がまずあり、「基準となる理想」があり、「自己像」があり、自己像確認の結果、「望めない自分」が確認されるか、もしくは「望める自分」となるか。
最初の「望めない自分」は、あくまで最初にあるのですから、何かがあるわけです。しかしそれはもう意識では捉えられないほど漠然とした何かです。そんな「望めない自分」。
後の「望めない自分」は、「確定された」「望めない自分」です。「望めない自分像」とでも呼び分けるのがいいでしょう。

「望めない自分」がまずあり、望めるための理想基準があり、これが「自己理想像」ですね。そして自己像確認の結果、「望めない自己像」もしくは「望める自己像」が確定される。その結果、「望めない自分」もしくは「望める自分」になるわけです。

こうした心の動きの仕組みそのものにおいて、健康と心理障害の間の境界は、曖昧です。むしろ同じと言えるように思われます。
大きな違いは、心理障害傾向が生まれる状態においては、「望めない自己像」があまりに酷いことです。なによりも、感情の膿とこれが結びついた時、この子供は得体の知れない悪意ある獣に囲まれて怯えながら、幸せを感じられるようなもの全てを奪われた、あまりに酷い自己像です。それが人間世界を前にして感じるものになるのです!

そこまで酷い自己像は、児童期にはまだ体験されません。感情の膿が単純に切り離されているからです。
思春期以降の心理障害発動によって、そうした最も酷い自己像が意識に触れ始めることになります。それは「見捨てられた自己像」「唾棄された自己像」などと呼べるものです。

健康な姿においては、自己理想像を基準にした「望めない自分」「望める自分」は、現実の中で自己理想像に近づこうとする努力の中で、理想像を達成するか、もしくは達成しなくてもそれなりの向上体験と、努力の経緯が「豊かさ」に変化する中で、現実に見合った自己像へとまとまって行きます。
つまり、自己理想像をめぐる心の分裂の芽は、現実を生きる中で統合に向かう。心に本来そうした自然成長力があるということです。
そうした成長の中で、もはや揺らぐことのない「望める自分」を、「達成された自己像」と呼んでもいいでしょう。ただしこれはもはや自己像としてあえて意識する必要はあまりない自己像です。

自己処罰感情の下ではどうでしょうか。
そこには「自分は駄目な子だ」という自己像があるでしょう。これは上述の、感情の膿に結びついた唾棄された自己像ほど酷くはないものの、やはり幸せを奪われた自己像です。
どうせ自分は駄目な子だ。自分だけが悪い子だ。
そうした意識が実際に体験されているかどうかは、心理障害傾向を持つ人の中でも多少差があると思われます。
しかしそうした意識が子供自身にどう捉えられても、子供はそれについて何をすることもできず、自己理想像と望める自分との間の統合は阻まれたままにならざるを得ないと思われます。

自己理想像が異なる役割を果たすことになります。


■空想による救済

自己処罰感情の中で抱く、「どうせ自分は駄目な子だ」という「幸せを奪われた自己像」に対して、子供は無力です。
そこで働くのが、「空想による救済」です。
現実世界に働きかけて自分を救うことを諦めた一方で、空想世界に生きることで自分を救うという、心の機能です。
これは現実じゃない。空想の方が現実なんだ。そう自分に思わせることで、子供は自分の逆境の心を救うわけです。今の家の子供としての自分は実は本当ではなく、自分は高貴な家柄の子供なのが何かの事件の中でここにいる。そんな空想がありがちだと思います。

ここで、空想世界と現実世界が全くつながりのないものとして切り離され、空想世界の方が重みを増すという現象があります。

これが自己操縦心性がその後に起こす「現実離断」の起源のようなものと位置付けています。
2004/12/15 自己操縦心性のついたウソ-18:操縦心性起源の大どんでん返し3
2005/12/27 匿名さん「よろしくお願いします。」へのレス「精神の高貴性=空想による救済+否定型価値感」

で述べたことです。

そうした空想世界にひたる傾向自体が心理障害につながるのでは、ありません。あくまで心理障害の発動となる「現実離断」などという「心のバグ」が、なぜ人間にあるのかの発生学的起源(例によっての用語^^;)に関する話です。
また、そうした空想世界の中で抱く自己像も、心理障害の中で自己操縦心性が抱き駆り立てる自己理想像とは、いちおう別物です。自己操縦心性の場合の自己理想像は、もはや自分がそんなものを抱いているという自覚さえなくなるような漠然としたものです。
これはこの後詳しく。

心理障害傾向のある方でも、そうした空想世界を持ったという記憶のある方とそうでない方と、人により違いがあると思います。
あった場合には、ただそれは、現実世界とも、「自分は駄目な子だ」という感情とも、何のつながりもないものとして、ただ抱かれたままで、思春期を迎える頃には何となく視界から薄れます。

「現実」が迫ってくるからです。恐ろしく差し迫ったものとして。
そんな「差し迫った現実」を迎える直前に子供の心に現れている心理について、「空想の中の優越」という視点からあとちょっと考察をします。

No.877 2006/01/18(Wed) 13:51

善悪という名のゲーム / しまの

報道ステーションで今日のライブドア強制捜査についての解説ニュースを見ながら、とにかく口から出るのは、「わっかんねー」の連続..
押収された幹部のメールには「危険だが実行しよう」というのがあったとのこと。それ見たときは「こりゃ黒っぽいなぁ」
解説によると、甲社を乙社が買収した。乙社はライブドア関連会社であったことをその時隠していた。というようなことらしい。
だが、乙社がライブドア関連会社であることをその時公表する義務とは、証券取引法でどのように定義され、どのように違反立証されるのかの解説がない。

これじゃー見ている僕からは、「法」そのものが良く分からないから、「違法」かどうかもてんで分からない。
ただ分かるのは、もともとマネーゲームなわけです。その中で、参加者の倫理を保つために、マネーゲームのルールの中に細かい罰則規定を設けるわけです。マネーゲームのルールを知らない人間が外から見て判断できるようなものではなくなってくるんですね。
例えばどこからどこまでが「インサイダー取引」なのか..

そんな微妙な取引手順の中で合法と違法が分かれるなんて複雑なことしないで、一般人にも明瞭な基準にすれば..と思う人もいると思います。
でも、もともと複雑なことをしている世界の中で、まるで駆け引きのような細かい「合法性遵守」を追求する真摯さ誠実さを、問うわけです。だから業界人にしか分からないような合法違法の線引きの世界になる。

僕もいちおう大きな会社で働いていたので、この問題は「法の遵守」「コンプライアンス」というとても微妙な問題として、常づね社内教育など受けとりました。

何のことか良くわからない話かと思いますが、何でこんな話に触れたかというと一つだけ。
そうした企業社会における「善悪」は、もはや学校の道徳授業で教わるような「善悪」とはかけ離れているということです。まあ言えるのは、善悪の判断は情緒では全くできず、かなり技術的な判断になってくるということ。善悪そのものが一種のゲームのようになるということですね。技術の劣る人間が負ける世界であり、善悪が技術のひとつになる。気持ちの問題ではなくなるわけです。

ハイブリッドの「善悪の解体」、そして善悪が解体された世界でも残る「善性」という話とつながってくる話です。
どうつながるかというと、とりあえず善悪とは自分達で決めたルールのことであって..とそれ以上つなげようとしても曖昧模糊とした雲のようなつながり話になりそうなので、とりあえずそんなニュースもありましたという徒然でしたで終えましょう^^;

No.875 2006/01/17(Tue) 23:45

 
付記 / しまの

今朝のニュースによると、ライブドア本体にも粉飾があったとのこと。
こうなると分かりやすいですね。ま何の重みもない(^^;)僕の予想を言いますと..やっぱやめとこ。言わぬが無難^^; まあ「縮小」ですね。

ようは、ウソいっちゃーいけないよ、ということ。これが社会における行動理念のかなり上位にランキングされますね。
社会行動理念に反する行動をすると、心理障害の中で人間関係が阻害されるというレベルどころではない、社会全体からの制裁を受けることになります。これは原則的に回復不可能です。

そうした社会行動理念を知って体得するというのは、本来心理障害への取り組みとは全く無関係ともいえますが、ハイブリッドでは、心理障害によって生み出される無力感の克服のバネとして、社会でうまく生きるための技術としての原理原則立脚型行動法を採用しています。

今回のライブドアの話なども含め、社会行動理念とはどんな原理原則の上にあるのか。社会では実際なにを原理原則と考えて行動すればいいのか。
その極めて実践的な具体的内容をそのうちまとめたいと思います。こうご期待です。
「ハイブリッドお勧めの原理原則」とでもしようかな♪
掲載開始はまだちょっと先かと^^;

No.876 2006/01/18(Wed) 11:20

焦り / おやじ

おやじです。 今年も宜しくお願いします。

私もご多分に漏れず焦りまくります。
しかしNo.870 2006/01/16とは逆に、人との待ち合わせになると、
のろのろして約束時間に遅れそうになる事が頻繁にあります。
これは先に行って待っている間に、「イライラ」するのが嫌だからです。
それとも優越感ですかね?「待ったら負け」「待たせたら勝ち」ってな感情はあるのでしょうか?
焦らなくてもよい事には焦ってしまい、期日が迫っているような事には「のんびり」です。
この「のんびり」は性格的なものと思っていました。「俺はズボラなんだな」で済ましていましたが、感情吟味の対象ですよね?

No.871 2006/01/16(Mon) 12:36

 
感情分析 / しまの

ど〜も〜。今年もよろしくです。

>「待ったら負け」「待たせたら勝ち」ってな感情はあるのでしょうか?

多少ともそんな感覚があるからその言葉が出たのでしょうから、その感情はあるのでしょうね^^;
もちろん「感情吟味の対象」になり得ますが、感情吟味して何をどうするのかの方向性が重要ですね。
その点、以前、感情分析で行うのは「感情の反芻吟味だ」と言ったような説明の仕方は、もうやめようと思っています。エヘヘ。
「吟味」だけでは意味ありません。

最近使う説明の言葉は、「感じ分ける」です。一つの感情を、複数の要素に感じ分ける。だから「分析」。そのためには反芻して吟味する場面も出るでしょう。
「感じ分ける」ためには、何と何に感じ分けるかのガイドが先に必要になりますね。それなしに感情分析しようとしても意味ありません。
一言でいうと、1)望みの停止に始まる情動変形、2)その中で自己の重心が失われたあり方、3)心理発達課題損失による情動変形、の経緯をなぞらえる形で、変形経緯上の前後の感情に感じ分けることです。
難しいですねー。詳しくはまた。

おやじさんの例で言いますと、自分自身の問題としての感情場面と、人に見せる感情として場面という違いから、焦る時と何か意図的ズボラのような時の違いが起きることを把握していくのがまず切り口になるでしょう。
まこの先はメール相談などで。

なお感情分析の進め方については、まずはさっきカキコの「感情への感情」を自分で明瞭にしてはがしていくのが最初に重要と思いますので参考下さい。

No.874 2006/01/17(Tue) 14:53

自己操縦心性の成り立ち-26:根本機能その1感情への感情 / しまの

自己操縦心性の背景として、以下を説明してきました。
1)否定型価値感から始まる感性からの情動変形(受動的価値感)
2)自己処罰感情の利用(および感情の膿)
3)優越による自尊心という心理発達課題

これとあと、残存愛情要求があることになります。注目すべきは残存愛情要求と優越による自尊心課題が見事にバッティングする姿ですが、それについてはこの後の解説の中で適宜触れたいと思います。

これらの心理の組み合わせが、児童期までの基本的な感情模様を構成することになります。
ここまでが、「自分自身の中で屈折する」心理障害特有の感情が登場する以前の、「比較的素直な」感情群になります。

これがどのような心理要素の登場によって自己屈折の様相を示すようになるのかを、考察して行きましょう。
引き続き、なるべく発達の道のりを順に見ていこうと思います。

これから登場する心理要素が、人間の心にある「自己操縦心性」という機能を構成する要素機能になります。
頭にとめておいて頂きたいのは、自己操縦心性の機能そのものは、心理障害に限定されずに、一般的な人間心理として働いていることです。それが心理障害という「病理」になるのは、ひとえに感情の膿の存在によります。この大局的メカニズムについても後に説明しましょう。


■感情への感情

自己操縦心性に属すると思われる心理機能で、もっとも来歴の早期から現れると思われるのが、この「感情への感情」への機能です。
自分の中に流れた感情を見て、さらにそれに対する感情を抱く、という心の機能です。

これについては3つの形態があると思われます。

1)感情評価感情
自分の中に湧いた感情の良し悪しを感じる感情です。
最も初期的に見られるのは、悲哀を「弱さ」と恥じてこらえようとする態度です。4歳児くらいから見られるかと。また何事もないように動じない感情を良い感情のように思い込むのも一般的でしょう。

「感情の善悪評価」が生まれることは、自分の中に良くない感情が流れた時、自己処罰感情が起きることを意味します。これが起きる程度は、親などの養育態度に依存するでしょう。
「泣いちゃいけません!」という激しい叱責を体験した子供は、悲哀を悪しき感情だと思い込むと同時に、それが湧いた時の自己処罰感情も同然ひどくなります。

2)感情演技感情
上記の例で既に現れていますが、泣くのを我慢して「何でもない振り」をするという時、感情が実際「振り」通りであると思い込む心の動きであり、また特定の望ましい感情になりきろうとする心の機能です。

じっさいそうした「感情の演技」能力が、人間にはあるわけです。名優は涙を流す演技で、実際に自分を悲しい気分にして実際に涙を流すことができます。
「〜ぶる」「〜がる」といった言葉が、この心の機能が一般的であることを表現しているでしょう。

自己操縦心性においては、そうした感情演技が、そのように意識するよりも遥かに深い心の底で、来歴を通して行われているのが特徴になります。それはもはや自分が感情演技をしているという感覚さえ消し去るほどになります。これを自己欺瞞と言います。
自己欺瞞の多用は、自己不明感の原因となります。

3)感情強制感情
感情の演技に加えて、その感情になるよう自分自身への強制ストレスを加えるものです。

頑張り」「気力」とは実際のところ、この心理機能のことです。
どうやって感情を自分に強制するかというと、「自分を追い込む」わけです。つまり、「危険が迫っている」という空想などを活用して、「そうしないと酷い目にあうぞ」という脅迫を自分に加えるという方法です。
「頑張って〜する」という言葉で表現されるものはこれですね。

自己操縦心性では、「感情の膿」という、体験したら生きていけないほどの恐怖という格好の材料を使って、感情の強制を行います。その様相はもはや通常の人間心理とは全く異なったものになります。その詳細をこのあと考察していきます。


■「心を成長させる」という新たな視点へ

「感情への感情」という自己操縦心性の最も初歩的機能を概観すると、我々が今まで「自分の心を鍛える」とかの言葉を使って教わった「成長」は、実のところ自己操縦心性と全く同じものでしかないことが分かると思います。
自分に勝つ」「自分に負ける」という言葉も同じですね。
それは自分の心の最も深い源泉と一体となり成長する姿ではなく、心の源泉を敵と見立てた姿です。だから「勝ち負け」が出てくる。
心の源泉は手が届くものではない。手に余る「感情」なるものを如何に自己統制する「気力」「精神力」を培うか。そんなイメ−ジがあったと思います。

http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro.jpg
に最新の心理構造図を示しますが、「精神力」「気力」は自己操縦心性側にあるものと位置付けています。
「頑張り」「やる気」「辛抱」「気持ちが大切」「気持ちの持ちよう」etc全てこれです。
逆の「わがまま」「甘え」は、それらが足りないと言っている言葉でしょう。
全て、根本的な心の治癒成長には、全く役に立たないものです。

ハイブリッドが考える「心の成長」とは、それとは全く異なるものです。
「感情への感情」には一切頼らず、また来歴を通して蓄積して固着してしまったかのような「感情への感情」を解きほぐしていき、「感情への感情」による自己統制とは全く異なる、心の源泉そのものが成長するものを目標とします。


そのためにハイブリッドでは、「感情と行動の分離」に始まる、思考法行動法へのアプローチと感情へのアプローチをまったく別々に進める2面的方法を定義しています。
その中でも、感情面への取り組みの中の自己操縦心性の克服除去という最も根幹部分は、進め方をつかむのがとても難しいものです。
その最初は、まずここで述べた「感情への感情」機能の多用の結果、いかに自分の心の底からの本心が自分で分からなくなっているかを実感することからと言えるかも知れません。

ハイブリッド心理学を使って感情を改善しようとする姿勢そのものが、「こうした思考法をすれば感情がこうなるのでは」という期待の中で、「思考法を探る」ようなものになっていないか。
それは「感情偽装感情」の繰り返しに過ぎません。

「感情への感情」を、一枚一枚脱いでいく。その先に、自分の心の底からの本心というものが見えてきます。それは「裸の欲求」とも言うべきものでしょう。
「感情への取り組み」は、それをさらに深く、心理メカニズム理論の助けを借りて理解していくことです。変化はその後に起きます。

「裸の欲求」が見えた時、それはもはや今まで自分が「精神力」で自分を統制して「なろうとした自分」とは、もはや似つかわしくない化け物のようなものかも知れません。
しかしそれは自分の本性ではなく、心理障害によって歪んだ姿の感情だという客観的知性がとても大切になってきます。
感情への取り組みとはいったん切り離して進める思考法行動法は、そうしたどんな感情が内面にあったとしても、他人や社会との調和を保ちながら行動できる基盤を作るものです。
思考法行動法自体でその感情そのものがどうこう変わるということは、ありません。

外面は建設的な行動のみにどとめ、感情は内面にしまっておく。まずその姿勢で、本格的な感情取り組みのための基盤の姿勢を作ります。
そして心の底の本心が見えてきたら、それが何をどう意識することによってどう変化するのか。

その具体的道筋も、自己操縦心性の詳細メカニズムを考察する中でさらに具体化できると思います。

No.873 2006/01/17(Tue) 14:49

自己操縦心性の成り立ち-25:背景その3優越による自尊心課題-5 / しまの

「優越による自尊心課題-4」の終わりで、「優越の価値を追い求めて人がたどる道筋」について次話しましょうと書き、実際それについて昨日多少だらだらと(^^;)書き始めてはみたのですが、その健全な姿を基準にした考察を書くに従い、どーも何か「あるべき姿」というニュアンスが強くなり、「損失からの回復」への方法論を語るのとはかけ離れる感を感じます。
このため、優越価値への道筋一般論はごくキーワードを書くにとどめ、早々に自己操縦心性の根本機能についての話に進もうと思います。

つまり、この後に登場する各種の心の動きにより、「優越の価値」の姿があまりにも歪められてしまうんですね。
その歪みを克服してから健康な「優越の価値」に向かい直すということもまあ取り組みの先にはあるでしょうが、あるいはその歪みの姿を十分に知るというだけでも、実は既にひとつの価値を実現したことになるのではないかという感さえ感じます。

それだけ深く広範囲な人間心理に関わる話が、このあと出てくるわけです。それを知ったものは、人間の心についてのひとつの大きな知恵を得たことになります。それ自体がもうこの人間社会におけるひとつの「優越価値」になるでしょう。

ここでは「優越価値」をめぐって人間がたどる幾つかの道をごく簡潔に述べます。


■価値獲得に向かう人生の経緯

「優越」という人生テーマに対する、人々の人生を通しての変遷は、主に3つのパターンがあると思います。

1)健全型..可能性を尽くした価値獲得から調和へ

優越の形としては「価値の獲得」に向かっての努力を尽くすことが人生の活動の主な内容になるものです。
我々の「人生の活動」は、「価値の創出と獲得」という方向性に向かって、様々な欲求を巻き込んだ包括的な意欲として行われるのが特徴です。ちょっと抽象的っすね^^;

まあ要は、優越の3つの形態の中で「価値の所有」を目指して進むのが、健全型だということです。
そこでは、「全力を尽くす」ことと「可能性を尽くす」という、2面での「尽くす」ことが重要になります。


「全力を尽くす」ことで、成長がおきます。全力がやがて余裕になり、また全力を尽くすという繰り返しで、より大きなことが可能になります。
このため「目標」は現在十分に可能と思われるよりやや高めに設定するのが心理学的技術と言えます。あまりに容易な目標や高すぎる目標は、停滞感や無気力を生みます。

「可能性を尽くす」ことで、世界を知り、社会を知ることができます。
これによって我々は、社会における自分の満足できる位置を知ることができます。可能性を尽くすことなく、与えられた環境の中に安住するだけでは、自己アイデンティティ不全症状を抱えてしまいます。空虚感です。
可能性を尽くすのが本性なんですね。それをしてないことを、意識ではどう自分に言い訳しても、心は気づいているんですね。

全力と可能性を尽くすうちに、やがて「現実の壁」が見えてくることになります。もういくら全力を出しても、上に行けない。
この時、今までに尽くした努力が意味を持ってきます。一つ一つの向上体験の記憶が、それ自体価値を持つからです。まだまだ向上できる潜在力が大きいとき、この価値はまだ良く感じ取れないかも知れません。心がもっと上を求めているからです。

しかし現実の壁を知った時、「世界を知った」という一つの到達の中で、全ての成功体験、場合によってはそこから学んだ失敗体験、それら全てが輝きます。この結果、人は「心の豊かさ」を感じ始めます。
そこには、人に伝え得るものが沢山あり、自分の向上ではなく、自分が人を向上させ得るという新しい形の優越価値を感じるようになります。
この優越価値は、自分自身の優越価値よりも大きなものになります。なぜなら単純に、前者は1人の向上ですが、後者は複数、さらには無限の数になり得るからです。

また、この「心の豊かさ」価値は、自分で到達できた価値の「社会的地位」の高低に関わらず、獲得し得るものです。なぜなら、世界はいつまでも多様だからです。
「向上」の価値とは、到達ポイントの高さよりも、スタート地点から如何に前に進んだかの価値です。スタート地点でハンディを持った者は、似たようにハンディを持つ他の人々の向上を手助けできるだけでなく、ハンディを持たない人々にも勇気を与ええるものになります。なぜなら誰でも事故などで自分がハンディを持つ側になる可能性があるからです。

こうして、「価値獲得」に向けた人生の活動は、やがて「心の豊かさ」と共に、「調和」という新しい形の優越価値に至ります。
これが健全な流れです。
キーワードだけのつもりなのだが、結構長っ..^^;

2)ニセの調和

可能性を尽くすことなく、可能性を尽くしたあとの結果であるかのような「調和」のような姿を装おうものです。
これが、これから詳しい解説を載せる自己操縦心性の根本機能に関連してきます。
自己操縦心性が抱く自己理想化像は、出世に捉われたり外面的な美に捉われたりするだけのような皮相なものでは、決してありません。自己操縦心性は、「心の豊かさ」を知っており、それを偽装するのです!

これは2005/11/20 ダイジェスト「新たな人生へ」Up!
への最後のレスで一度触れたことです。
詳しくは今後の解説にて。

3)破壊的勝利衝動の発達

「相手を打ち負かす」という形の優越を追い求めることに向かうケースです。
人間が持つこの破壊性は、病理の結果だという理解が重要だと思います。基本的に心理障害傾向のある現代社会では、攻撃性が人間の本性だという性悪説を取る人が少なくありませんが、それが事実であれば世界は別の姿になっています。

ここでは詳しい考察は省略しますが、破壊的勝利衝動を発達させる要因には、1)破壊的行動への慣れという純粋に生育環境による要因、2)屈辱体験、3)望みの停止による憎悪という心理障害からの一般傾向、の3つが主なものになると思われます。

「優越による自尊心課題-4」で述べたように、「相手を打ち負かす」という形の優越は実は「弱さ」です。
心はそのことを多少勘付いており、この形の優越に頼る人間は、心の底にむしろ無力感と不安感を抱き、それを打ち消そうとさらに「相手を打ち負かす」優越に頼ろうとします。
そして、その破壊性により、実際に自らの生活基盤を損なっていき、心の底に抱える無力感と不安感が予知していたかのような、安住のない無力な姿に、現実において落ちていくのが大抵になります。


■「弱さを振りかざす」という歪められた「強さ」

「優越」そして「強さ」という価値をめぐる人間の生活史を概観した時、そこに、人間が本来強さを求めて成長しようとする存在なのだという「業」があるという感を感じざるを得ません。

そして、犯罪者のような形で道を誤るにせよ、心理障害という形で自分自身の中に折り曲がり、生きることの苦しみから自分自身と他人を憎むにせよ、そうした人間としての本性を見失わせ進む先を誤らせる、何か大きなひとつのベクトルがあるように思われます。
それは一言では、「弱さを振りかざす」という歪められた「強さ」と言えるように思われます。


この歪みには2つの形態があると言えるでしょう。
ひとつは積極形であり、「相手を打ち負かす」という「一種の弱さ」を「強さ」として頼ることで攻撃性が発達します。
もうひとつが消極形であり、心理障害に深く関連します。つまり「望みの停止」から始まる全ての情動変形の大元にある、「自らは望まない」という病理を、人間としての価値のように感じ始める現象があります。

自らは望むことなく望むものを手にする。この超越的とも言える価値が、やがて「精神」と「現実」を分裂させ、精神の自己が現実の自己を嫌悪することをもって自尊心としようとする、心理障害の心理メカニズムの最も中核にある一つの「姿勢」が、この人間の心深くに根付くことになります。
それが「現実への離断」という、自己操縦心性の暴走の始まりになります。


そのメカニズムの本質を知り、全体を見る目が、やがて人間としての本性の開放へと回帰する、「現実との和解」を見出すために役に立つでしょう。

ということで、次からいよいよ自己操縦心性の根本機能の解説に、レッツラごー!

No.872 2006/01/16(Mon) 15:13

質問です〜。 / 名無し

掲示板のNo.312 2004/10/28(Thu) 分の
最後に【悪感情への対処としては、あと「有意義な悪感情の理解」や「自分を追い立てない方法」とかあります】とありますが、
既に「 悪感情への対処の基本」は述べていただいてますが、
自分を追い立てない 方法について、詳細があれば教えていただきたいです。
よろしくお願いします。


No.869 2006/01/15(Sun) 17:31

 
自分を追い立てない方法 / しまの

ど〜も〜。
「自分を追い立てない方法」というテーマを考えると、3つほどの話が主にありますね。ちょっと心理学本原稿など意識して解説しませう。

1)基本的自己受容に始まる「自己受容」
まずは「自己受容」という大きなテーマがあります。

ここでは詳しい解説は省略しますが、ハイブリッドでは「自己受容」という言葉はあまり単独では使わず、主に他の言葉と組み合わせて使っています。まず「基本的自己受容」。これは「自分独自の成長をする意志」のことです。
それ以外にはあまり「自己受容」という言葉は使いません。心の治癒成長の全体の結果が大きな自己受容につながってきます。
「現実の自分の姿の受容する」になると、心の成長とはちょっと方向がズレてくるのに注意が必要ですね。

感情の膿に始まる心理障害要素があると、どうしても自分を追い立てる傾向が起きてしまいます。治癒成長の全体が、「自分を追い立てない方法」の大局的方向です。

2)無駄な焦りを見分ける
そうした大きな「自己受容」を目指す細かいテクニックのひとつとして、「無駄な焦りを見分けて解除する」というのがあります。これは「悪感情の基本的軽減法」として定義しているものの一つで、名無しさんが引用した上記カキコもそれについて触れたものですね。

心理障害傾向の中で、「焦ること」そのものが人生に必要な姿勢であるかのような感覚が広がってしまいます。人との待ち合わせ場所に30分かかる時、余裕持たせて1時間前に出かけているのに、それでも焦った様子で行動している人がいます。
とにかく現実知性で、自分の焦る様子の妥当性を見る目を持ち、「焦る必要はないんだ」と自分に言い聞かせる習慣が有用になってくるでしょう。

また、自分の行う行動がちょっとしくじると、何か人生の破滅があるかのような感覚も広がりがちです。これも、自分の行動の結果がどうなり得るかを冷静にケース立てして、どんな事態が起きても人生の破滅などないという現実知性を持つことが重要ですね。

そうした現実知性に立った上で、「どれになってもいいんだよ」という優しさを自分自身に向けることが大きな自己受容の体験になる時というのが、治癒成長への歩みの中で何度かあると思います。
そうした体験は同時に、自分の来歴の中にそうした優しさを持った人間がいなかったことを知る、悲しみを伴う感慨にもなるでしょう。

こうした自己受容は、あくまでその現実を受け入れて問題はないという現実知性判断の基盤が重要です。自己受容の感情ばかりに耽ろうとすると、逆に成長を見失う危険があります。「自己受容しようとすると自己受容できなくなる」という轍があります。
常に受容と成長の両面を見る目が重要ですね。

3)問題整理の心理学技術
どんな事態が起きても破滅などないという現実知性基盤」を大きく推進するのが、「問題整理の心理学技術」です。今回の名無しさんの質問の文脈で言うと、これが最もマッチするかと。

これは「葛藤への対処技術」と呼んでいるものと同じです。
ようは、複数の問題を一度に解決しようとすると、個別に対処すれば十分対処可能であるものが、まるで袋小路に入ったかのように進める先がないという錯覚に陥るという現象があるものです。それを解除するために、問題を幾つかのケースに分け、個別の対処法を検討する方法です。
詳しくは、
2005/05/01 葛藤への対処と解決-6-9:葛藤への対処概説-1-4
など参照頂ければ。

「問題整理の心理学技術」は、心理障害傾向のないところでも結構重要です。実は僕自身、最近これを1回使いました。これ紹介して解説を終わりましょう。

会社辞めて執筆に専念するようにして、今はすっかりこの生活が板について先はどうにでもなるという脳天気状態ですが、最初っからそうなわけではなく、多少の気分変動はやはり経ています。
中でも一度、「自分はこれではマズイのではないか」というような身のつまされるような焦り感に取られた時がありました。手短に言うと、当面収入がない状態で、「やりがいを感じられないことはできない」という感覚で安易な職探しをしないという判断と、この執筆活動が成功しない可能性という想定が重なった時、何か生活手段を失った自分のイメージが浮かんだんですね。親に全て頼るような空想が流れた。

しかしすぐ、その自己イメージに間違いがあるのに気づきました。とりあえず執筆活動は置いて就職に専念すれば、結構な仕事は見つかるという、結構揺ぎない自信があります。これは今ちょっとまとめ作業を始めていますが、企業での行動の原理原則を修めると共にIT系のスキルが役立てられるからです。生活手段を失って全て親頼りなどあり得ない。

それが何でそんな自己イメージが起きたかというと、「執筆が成功する可能性がある限りやりがいのない仕事はできない」という最初のケース判断の中の「仕事はできない」が一人歩きして残ったまま、執筆が成功しないケースを想定したからです。これは明らかに思考のミスです。なぜなら執筆が成功しなければ仕事する意志は最初から最後まで十分あるのですから。
この思考ミスの結果、「何もできない自分」という現実にはあり得ない自己像が生まれたわけです。

結構些細な思考ミスが、身のつまされる焦りの感覚という感情面で大きな揺らぎになるわけです。これを解除することも結構簡単でありながら大きな感情改善になる。

こうした問題整理の技術は、深刻な内面葛藤への対処から、こうしたごく現実的な舵取り場面まで重要です。
その積み重ねで、かつてのちょー悲観人間の僕が今はちょー脳天気人間になった次第..?^^;

No.870 2006/01/16(Mon) 10:59

ダイジェスト小説掲載終了のお知らせ / しまの

このたび正式に出版社と出版契約を交わし、ダイジェスト小説の使用権を出版社に移しましたので、サイトへの掲載を間もなく終了致します。
水曜あたりに終了作業しようかと。

販売は7月下旬予定です。サイン入り初版本販売などしようかなと♪あとその内表紙帯にでも入れる「読者の声」を募集しようかと思います。ぜひこの小説を読んで受けた感想を表現する鮮烈な短文など考えて下さいマセ。

ということで、しばらく手元で読めるようにしときたい方はプリントなどしといてもらえれば。

No.864 2006/01/15(Sun) 10:35

 
Re: ダイジェスト小説掲載終了のお知らせ / 澪瀬

お疲れ様でしたm(__)mというより・・おめでとう♪ですね(^^ゞ
小説まだちょこっとづつでしたが・・
わたしもいつか自分の半生というか人生を本というカタチにして残せたら。なんていう
夢を描きながら・・時々読ませていただきましたm(__)m
ありがとうございました。

No.865 2006/01/15(Sun) 11:44

 
Re: ダイジェスト小説掲載終了のお知らせ / しまの

どうも〜。

>わたしもいつか自分の半生というか人生を本というカタチにして残せたら

ぜひ、「人生を生き尽して」みて下さいナ。生き尽した人生は必ず、人に伝える輝くを持つものです。
島野の名が売れたら、「ハイブリッド心理学の助けを得て人生を生き尽した人々」みたいな監修ものも出せたらなぁと思っており、人生を本という形に残したい方にはそんな形でのお手伝いができるかと思っておるのです。

僕ひとりで伝えられることは限られてますのでネ。

No.866 2006/01/15(Sun) 12:44

 
Re: ダイジェスト小説掲載終了のお知らせ / しまの

どもー。
「ハイブリッド心理学の助けを得て..」うんぬんはこの場を借りて今後の読者さんも含め何となく考えたことですので、何でもオッケーで〜す♪

No.868 2006/01/15(Sun) 15:14

自己操縦心性の成り立ち-24:背景その3優越による自尊心課題-4 / しまの

ここでは、「優越による自尊心課題」の達成の姿について考えて見ましょう。


■「自尊心」と「自信」

人間の生涯を通しての心理発達課題とは、「自尊心の確立」です。
揺ぎない自尊心の中で、この社会を生きる自信を身につけた時、もはや今まで自尊心のために必要であった、人から愛されることや人に勝つことへの欲求は、あまり感じなくなります。
代わりに、人のために生きることへの欲求が強くなってきます。また、人のために生きるという要素を自分のアイデンティティの中に持つことが、自尊心の条件でもあり、社会を生きる自信の条件だと思われます。

「自尊心」とは、自己の重心を尊重できる態度のことを言います。これは心の内面だけに注目して把握することのできる、心理要素です。
「自信」とは、「うまくやって行ける」という、自分自身への信頼感です。これは「どんな社会で」という、外界との関係についての心理要素です。

「自尊心」と「自信」が密接に関連し合い、それは自分自身のこと、人との関係のこと、そして社会における自分の位置のことに関連します。
「優越による自尊心課題-2」でも述べたように、「自尊心」の条件には、「」「強さ(優越)」そして「自己アイデンティティ」の3つがあります。この3つが調和して満たされた時、揺ぎない自尊心が生まれます。

揺ぎない自尊心と自信が得られた時、人を愛する心が自然に湧き出てきます。中でも子供を愛する気持ちが、この人間を生かす、生涯でももっとも大きな感情として輝くようになります。
これは何らの理論帰結もない、体験的な考えです。でも世の中で「自分の人生を勝ち取った」人に見られる現象として、恐らく間違いのないことでしょう。


■優越の形態

自尊心条件の中で、再び「優越」の側面に焦点を合わせ、その実現の姿について一考します。

優越の実現形態には3種類があり、「相手を打ち負かす」「価値の獲得」「調和」です。

1)「相手を打ち負かす」という優越
これは「破壊と自衛と建設」という行動様式の中で、「破壊」の方向での優越です。
自分がいて、打ち負かすべき相手がいて、打ち負かせた時、自分が勝者となるという優越です。

2)「価値の獲得」という優越
これは多くの人々にとって価値と感じられるものを自分自身のものとして所有するという優越です。
美貌や才能、財産や地位、名声や人望、etc。

スポーツやゲームでの勝者となること、また各種のコンテストや成績比較での勝者になることは、その競争場面の本来の位置付けは、この、価値の獲得です。より優れた者になりたい、より優れた者を見たいという欲求に基づいています。
同時にこれは、その人間にとって「相手を打ち負かす」勝利として捉えられる場合もありますが、それは本来の意義ではありません。あまり低いレベルでの勝ち負けは、人もあまり注目しないものです。

3)「調和」という優越
この世界が様々な競争や調和の活動から成り立っていることを考えた時、「調和」はそれ自体がひとつの優越になります。より調和している者は、そうでない者よりも優越している。
「調和」とは、一つの存在がその本来の姿において、他と一体化し、全体として大きな力を持つようになっている姿です。

この3種類の「優越」の中で、最も強い優越とは、「調和」です。
なぜなら調和の中でひとつの存在が獲得する能力は、調和を構成する全体の力とイコールだからです。単純に、1人の強さがどんなあっても、100人がまとまった強さには勝てるものではありません。

「相手を打ち負かす」が最も弱い優越です。
それは基本的に「破壊」という行動様式なので、必ず自分自身の消耗や損傷を伴います。またこの形態では、「打ち負かすべき相手」がいないと、自分自身では優越価値が自律的にはないことになります。これは自分の価値が相手に依存するという、むしろ「弱さ」の一種になってきます。

次は、こうした「優越の価値」を追い求めて人がたどる道筋について、考察してみましょう。

No.863 2006/01/14(Sat) 13:44

自己操縦心性の成り立ち-23:背景その3優越による自尊心課題-3 / しまの

■感情メカニズム理論の重要修正

心理発達課題について、「優越による自尊心課題-2」でサマったような考えに立つことより、サイト掲載の感情メカニズム理論の中で、「基本的不安」とそれから生まれる「3種類の基本対人態度」という考え方を全面的に修正することになります。

これは基本的にはホーナイ理論によるものであり、「基本的不安」は「子供は世界を潜在的に敵対的なものと見なし、その中で自分は孤立し無力な存在だと感じる」というものです。
これを障害傾向の発達過程の最初とした時、どうしても、鳥類の雛における「刷り込み」のように、他人への不信感不安感が心の底に根付いてしまったのだという、なんとも固定的で変更要素のない障害根ができたという、治癒克服に対して悲観的な印象を感じさせるざるを得ない理論でした。

ハイブリッドではこの「基本的不安」の概念を、メカニズムとしては「自己処罰感情」「感情の膿」に置き換えます。この2つについては12/29「自己処罰感情の利用-3」など参照。
上のように描写された子供の心理は、むしろ自己処罰感情と感情の膿を持つようになった子供の心理を、大人が想像して最もしっくり来るようなイメージを表現したものに過ぎないように思われます。
まあ確かに大人になって振りかえったら、そんな心理状態に自分はあったと思えるケースが大半でしょう。しかしそのような感情の自覚のないまま、大人になって心理障害傾向を感じる方も少なくないはずです。

なお子供自身が体験するのは自己処罰感情だけであり、感情の膿はほとんど意識に現れないような形で「切り離され」ます。
むしろ、夜驚や時折のパニック症状、そして自律神経系の慢性的不調やアトピーなど、身体系のストレスとして漏れ出します。こうした状況において子供は現実に対してやや異常な悲観視の傾向をもつことが多いでしょう。

次に、追従・攻撃・離反という3種類の対人基本態度は、もはや感情メカニズム理論として重要な要素概念ではなくなります。
それは人間の対人行動の3種類のベクトルという一般論だけの意味しかもたず、表面の結果を観察したものでしかありません。

そう言えば僕自身がかつて、また時に人にアドバイスする時に、その概念を使って自己分析するようにとしたのがほとんど何の役も立たなかったのが思い出されます。自己分析に使って効果の出ないメカニズム理論は、どこか誤りがあるんですね。
またサイトの感情メカ理論自体でも、僕は3種類の対人基本態度について「必ずしも子供の行動理解のための情報ではない」などと但し書きを入れざるを得ない感じでした。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech01-022.html
僕自身書いていて、これでは子供の心理を説明できない、と感じていたわけです。

ハイブリッドではその代わりに、子供の心理まで説明するメカニズム理論に改訂します。そもそもメカニズム理論とは、発達の最初から最後までの過程を連続的に説明できるものでないと駄目なんですね。

児童期までにある心理要素とは、上述の自己処罰感情感情の膿の他には、自己処罰感情と絡んで起きている望みの停止受動的価値感、そして自尊心課題の初期損失状態である残存愛情要求、今回テーマにした優越への欲求があり、あとはその子供特有の生来の各種欲求があります。
なお生来欲求についてはもう要素論や類型論は不要です。たしかに個人差はあるでしょうが、それは何ら本人にとって障害感情につながるものではないからです。

この結果、一人の子供の心理が追従・攻撃・離反という基本衝動の優勢関係という単純な構図ではなく、衝突傾向を持った心理要素が最初から群雄的に存在するような、複雑な様相になります。
そうした複雑な群雄要素の何が強調されるかによって、子供の心にも様々な彩りの感情が現れることになり、最終的な「性格類型」は、「亜形」まで入れるともう何万種類という、単純類型論はあまり意味のない様相になる。これが結構実情にあっているような気がします。

追従・攻撃・離反という、大人からから見た基本対人態度には、心理要素の中で幾つかのものが強調された結果であることを考察できるでしょう。
追従は「人によって望める」という望みの中途停止状態であり、残存愛情要求が強調されています。
攻撃は、受動的価値感の結果発達する「奪い合い感覚」と、優越欲求が強調されています。
離反は、愛情要求と攻撃的優越欲求の衝突による行動制止が強調されています。さらに離反では、障害傾向メカニズム全体によって生来の心が侵食されることを嫌悪する、「内面の純粋」の維持という特別な話が加わります。これがこの後の「空想力」という深淵な、自己操縦心性の根本に関わる話に関連してきます。

No.862 2006/01/13(Fri) 12:45

肯定型価値感の世界 / しまの

今日街で見たふとした光景の中で考えたこと。

ハイブリッドの感情面における取り組みは、感情の膿・残存愛情要求・自己操縦心性という心理障害の構造を根本的に克服除去するという治癒成長によって、その人の本性としての「生を喜ぶ心」を開放する試みだと言えます。

でこれは最新の感情メカ理論では、「肯定型価値感」「能動的自己」と言っています。ここでは定義説明は省略。
それに対して障害構造の中で動く感情の土台になるのは、「否定型価値感」「受動的価値感」です。なお「受動的自己」とは呼ばないのは、「自己」と呼べるような主体性はないからです。

で今日見た光景の中で、ある心理の特徴が鮮明にイメージされました。これは取り組み途上で個人の「自己価値感」の材料となる受動的価値感と、根本治癒後の肯定型価値感全く別世界のものであることを、結構直感的にイメージできる話ではないかということで。

やたら角ばった用語の羅列(^^;)はそこそこに置いといて、どんな光景だったかと言うと、光景というほどでもないですが、親子連れの3歳くらいのとてもかわいい女の子を見かけたわけです。肌が白くて髪がちょっと茶色っぽい、外人の子みたいな雰囲気がちょっとあった女の子。
でもちょっと近づいた時、虫眼鏡のような分厚い凸レンズのメガネをかけていて、あら残念と感じたわけです。子供の強度の遠視ですかね。時々そうゆうメガネの子供を見かけることがあります。

で僕の中に、その女の子とその母親のある光景が空想されました。

母親は、女の子の器量良さがそのネガネによって台無しになってしまったのを、嘆き悲しんでいる。障害の何もない子供を産むという観念に捉われた母親だったら、あるべきでない出産をしたという感覚にさえ取られるかも知れない。不憫な子を産んでしまった。
輝くような器量という価値を手にし損なった女の子の心が映し出されます。それがないために人生の輝きがないというイメージ。

空想の角度が変わると、別のイメージが現れます。その女の子はまだ、自分が人からどんな器量良しとして見られるかに関心はない。
その代わりに、その子の心は世界への好奇心に満ち溢れています。人の目を奪う美しさを自分が持っているかどうかに関心はなく、代わりに、目に映る様々な美しいものへの感動に満ちています。

母親が「生きる意味ないワネ..」とため息をつく。女の子は「生きたい!」と言う。
そんなイメージ。

これは僕が実際そうしたイメージング作業をしながら感情メカ理論を作っているという例ですが、この場合、母親の頭の中に描いた女の子の心のイメージが、受動的価値感の中で抱かれる自己像のある端的な特徴を表していると思います。
つまり、他人が自分を見て感じる印象であろうものを自分の中身そのもののように据えた自己感覚です。
表現するための言葉使いの微妙どころですねぇ。

実のところこれが受動的価値感を土台にして築かれる、自己操縦心性による練り上げ的自己アイデンティティの特徴なわけです。
この感覚、こんな描写で感じ取れますかねぇ。
そして、肯定型価値感の世界が全く別世界であること。

詳細な理論説明は「成り立ち」シリーズにて後に。

No.861 2006/01/13(Fri) 00:55

自己操縦心性の成り立ち-22:背景その3優越による自尊心課題-2 / しまの

■自尊心課題と「正の輪廻」「負の輪廻」

ハイブリッド心理学では、人間の心理発達課題を、幼児期における基本的信頼の獲得ではなく、生涯を通じての「自尊心の確立」であると考えています。
人間の生涯の中で、その健康な心の姿においては、幼少期に親の「宇宙の愛」を受けることから、素朴な全能感万能感を土台にして、自発的な欲求に従い能動的に現実社会に向かうことで、全ての可能性を尽くして現実の壁にぶつかる体験を経て、世界における自分の居場所を見出すことで達成されます。
揺らぎない自尊心が確立された時、自尊心を求めて何かに向かおうとする欲求は消失し、代わりに「子供への愛」に満たされ始めます。そしてそれが新しい命へと向かう。この「正の輪廻」があります。

文明社会が出現し、善悪の観念の下で社会が高度に秩序化されると同時に、社会のレールの上で生きる代わりに自己アイデンティティを失い、自尊心発達課題の達成を妨げられる人間が出現するようになりました。
親が「子供への愛」を見失い、子供は世界への信頼感を損なったまま育ち、社会のレールに縛られ自尊心を確立できないまま、子供を産み育てます。これは「負の輪廻」になります。


■自尊心課題への3つの条件

上のような描写からも、自尊心の達成のために必要な条件として、大きく3つの要素があることが抽出できると思います。
」「強さ」「自分自身であること」です。後ろの2つは「優越」「自己アンデンティティ」という言葉で捉えることもできます。

以下では「強さ」もしくは「優越」という側面について主に考察します。


■優越への欲求

子供の行動は、幼児期の心理発達課題が「愛されることによる基本的信頼」というよりも、生涯を通じた自尊心達成への助走段階と考えた方が、より理解できると思います。
この話は2005/05/25 心理発達課題の損失と回復の考え方-2:幼児期課題は「自尊心の獲得」
で一度しました。そこで触れなかった特徴としては、子供が大人の真似をしたがるのはまさにそんな感じですね。

自尊心の一側面である「優越」への欲求は、3歳頃から見られるように思います。これは恐らく、「自分」という観念が生まれるのとほぼ同時です。
この幼児期から児童期までの優越欲求は、比較的単純な、「競争勝利」つまり勝つことへの欲求や喜びの形になると思われます。
遊びのゲームやスポーツの中で勝つのを喜ぶのがごく自然な心理として観察できます。

思春期以降になると、これは大分様相が異なってきます。
自我の発達により、自己像とその評価における優越という様相が強くなってきます。またこの段階で決定的な要因が、「人生」という感覚の出現です。人生における勝利、人間性の優劣、生き方の優劣、性格の良し悪し、etc。
この複雑な様相については、「自己操縦心性の人生感覚」という極めて特別な心理要素の考察として後に。

思春期には優越欲求の様相が複雑化すると共に、その強烈さが突然膨張することが観察できます。
これは間違いなく異性獲得競争に根ざした、生物学的背景がある現象でしょう。

この点は、動物の世界は実に識烈です。高等動物になるに従い、競争相手を容赦なく殺すような残酷性は減り、直接攻撃を避け儀式的勝負により優劣を決するという調整が行われるようになります。ただし高等動物ほど残酷性が薄れるとは必ずしも言えないことは、動物に興味がある方ならご存知でしょう。

人間の場合、思春期に強烈化する優越欲求は、もはや異性獲得という限定した目的で意識体験されるのではなく、人生全般に向けられた欲求のように体験されます。
また優越欲求がどれだけあからさまにもしくは控えめに意識されるかは、人により多種多様です。


優越欲求の意識のされかたを多様化するメカニズムを次に考察しましょう。
「基本的不信感と3つの対人基本態度」という、サイト掲載の感情メカ理論は撤回し全面的に書き変えることになります。

No.860 2006/01/11(Wed) 11:17

「万人に愛される」自尊心条件と原理原則立脚型行動法-4(End) / しまの

自分は全ての人を好きになれるし、全ての人から好かれるという安心感がある。
「それは必要なことじゃない」と自分をなだめようとするような他の心理学とは全く異なり、ハイブリッド心理学では、それが「自尊心の確立」という人間の生涯を通じた心理発達課題の達成の姿であり、それに向かう道があるのだということをはっきりと述べる立場を取ります。

それについて、僕自身の理論整理の端緒となるような言葉の羅列をしたわけですが、最後にもうちょっと実感的な描写をして絞めたいと思います。


■感情が指し示すのとは逆の道を行く

上述のような最終的な心の境地にはっきりと向かい始めていた時の僕の中に現れた、ある明瞭な姿勢を書いてみたいと思います。
それは「感情が指し示すのとは逆の道を行く」ような姿になります。

ひとつの典型的な姿勢は、知ったかぶりに知識をひけらかそうとする人物を前にした時のものです。
感情は、相手のニセをあばき嫌悪を向けようとします。それに対して取る姿勢とは、その感情については何もせず、相手が伝える知識の中に有用なものがあれば、素直にそれを評価尊重します。

その姿勢はやがて、自分自身が「ニセへの嫌悪感情」の標的となるような行動に踏み出すという段階を迎えます。
自分が知ったかぶりで鼻持ちならない行動をしているという、薄氷のような感覚を体験することになります。そうした嫌悪が人から向けられるというイメージもちらつきます。
その感情については何もせず、自分は自分の伝える知識の中に、それ自体としては純粋に有用なものがある限り、それを伝える行動をします。そして、そのように自分の知識を受け取る人物こそが、自分の向かう相手であることを肝に銘じます。
そうではない相手には、何もしません。対応もせず、排斥もしない。これを相手の気分を損ねることなく行うには、多少の行動学への習熟も必要です。


■肯定型価値感と能動的自己へ

実は別の具体的行動例なども書いてみたのですが、話があまりに膨らんでくるので、今回はここで終わります。
どう膨らんでくるかというと、自己操縦心性の崩壊メカニズムの話になってくるからです。

上記で「感情が示すのとは別の道」と書きましたが、それが抽象的な話ではなく、具体的なものとして見えてこそ、「感情が示すのとは別の道」として進むことができます。
結局のところ、それは「肯定型価値感」と、それを土台にして発達する「能動的自己」を自ら成長させるという道です。
そしてそれは自己操縦心性が崩壊した分だけ、心の中に芽を見せ始めます


「全ての人を好きになれる」という、自尊心課題の達成の姿との関係で原理原則立脚型行動法について説明して見ましたが、まだあまりにも「自己操縦心性の崩壊」という大きな谷間が、話をつなげられないものとして横たわっている状況です。

全体感をつかんで頂くために総括しますと、自己操縦心性の崩壊という根本治癒によって、肯定型価値感と能動的自己という、今までとは全く別世界の心の芽が見えてきます。
これが、自尊心獲得という人間の心理発達課題への、「病んだ心から完全なる成長を遂げた心への道」の、ちょうどと言うかようやく、半ばまで来たことになります。

その先は、現代社会人一般よりも先へと歩む道になります。原理原則立脚型行動法が意味を持つのはその段階になってからです。

「誰でも好きになれる」ことが、そうした大きな道の先にあり得るという、方向を掴むのがまず課題になると思います。
「誰でも好きになれる」ことで、人生が始められるようなイメージがあるかも知れません。そうでなければ行動するのが恐いと。

まさにその感情が示すのとは別の道の先に、その姿があるということです。「こうでなければ」という思考を生み出している、感情の膿と自己操縦心性に取り組む。「こうでなければ」という思考は一度崩壊し、「こうでなければ」という今までの感情が示していたのとは逆の道を進むことになりでしょう。
でもやがて、その道は「こうであれば」と想像したものに、全く別の感情で至る道であることを知ることになります。

ということで、とにかく自己操縦心性とその崩壊メカの理解が急務ということで、「成り立ち」シリーズを頑張って進めましょーp(^^;)q

No.858 2006/01/10(Tue) 13:40

 
ちょっと訂正 / しまの

>その先は、現代社会人一般よりも先へと歩む道になります。原理原則立脚型行動法が意味を持つのはその段階になってからです。

この表現はあまり正確ではないですね。
原理原則立脚型行動法は、取り組みの最初から、「感情と行動の分離」をした行動法として、感情によって揺らぐことのない内面基盤を培うために決定的に重要になります。

自己操縦心性崩壊後に芽を出す肯定型価値感能動的自己と共に歩む新たな人生を通じてそれは同様ですが、心の治癒成長の幾つかの段階で原理原則立脚型行動法がほぼ純粋に決定要素になるのが、自尊心課題の達成の姿としてハイブリッドが定義する「時代への調和」の段階です。

「時代への調和」とは、時代を動かす原理原則を体得することです。これはまず頭で理解することから始まり、実際に社会で活動する場面の中で、具体的なその実像を知る経験の中で、身についていきます。
そして時代を動かす原理原則に則った行動がほぼ自動的にできるようになった時、その人間は揺らぎない自信を得ることができるはずです。
それだけではまだ完成ではありません。本人自身の自己アイデンティティの確立が、その後に、真の完成を迎える潜在力を持ちます。それは時代を動かす原理原則の中における自分の位置付けを知ることであり築くことです。
これが達成された姿を「時代への調和」と呼びたいと思います。

現代社会においてこの心の成長段階にまで到達した人間は、明らかにごく僅かです。多分それは特別な資質と環境に恵まれた形で、それに押し上げられるように到達した姿です。

ハイブリッドではそのような心の成長の本質を心理学的技術として明確化することで、全ての人が「時代への調和」への到達が可能であると考えています。
それを決定づけるのが、「弱さを知ることが強さである」という命題です。
これによって「優越による自尊心」への答えが、「調和」として導かれます。

なぜ「調和」か。人間は不完全な存在であり、平等ではないというサバイバル世界観によってです。
平等ではないから、逆に全ての人間が唯一無二の存在として世界を構成する役割を担うわけです。「平等」が理想だと考えるのは誤りです。平等に価値があると考えて全ての動物を草食動物に変えたら、全ての生態系が滅びます。全ての生きるものが、強者であると同時に弱者でもあるのです。

No.859 2006/01/11(Wed) 10:01

「万人に愛される」自尊心条件と原理原則立脚型行動法-3 / しまの

■「治癒」と「成長」の2面

自分は誰でも好きにされるし、誰からも好かれる。そんな自信感にさえ至るような、ハイブリッドが考える道は文字通り「治癒」と「成長」の2面から成り立ちます。
「治癒」の側面は、感情の膿や自己操縦心性の消滅です。
「成長」の側面は、原理原則立脚型行動法の習熟です。

「万人に愛される」の「愛される」という部分は、「愛する能力」の増大によります。これは否定型価値感の減少とイコールです。そもそも肯定型価値感とは愛の感情の別名に近い。
ただし心理障害の治癒では、自己操縦心性というあまりに特別なものへの特別なアプローチが必要です。自己操縦心性は否定型価値感で成り立っています。

「万人に愛される」の「万人に」という部分が、原理原則立脚型行動法による部分になります。


■ハイブリッドにおける原理原則立脚型行動の発展

原理原則立脚型行動法の定義は、2005/11/10「究極の行動学:原理原則立脚型行動法-1」で多少書いています。
キモは、相手に対する感情のぶつけ合いをせず、自分が依って立つ原理原則を行動で示すというような行動法にあります。

この行動法への習熟は、僕自身の体験で言いますと、以下のような位置付けを伴いながら発展しています。

1)治癒取り組み姿勢の確立..感情は内面にとどめ、外面は建設的行動のみにする(感情と行動の分離)。これは「心を曲げ続ける姿勢をやめる」という段階です。自信感はまだありません。

2)治癒成長の実践..内面は感情分析。外面は建設的行動のみ行う。この実践で障害傾向の減少と、自発的行動への内面の力の増大が確実に起きます。自信の感覚が芽生えてきます。
「愛せる」感覚は、否定型価値感から肯定型価値感への根本的意識変革によって芽生えます。これを決定づけるのは、「不完全性の受容」です。否定型価値感は人間の不完全性を認めない観念だからです。これを感情を味わうことにおいて自覚するのが「現実との和解」です。「万人に」向かえるという感覚はまだ

3)全ての可能性を尽くす人生の活動..「ステップ・ドリル」の最後まで行った後に開ける段階です。つまり「ステップ・ドリル」に書いてない、「根本的治癒後の過程」です。
「自己像に生きる」自己操縦心性が崩壊した分だけ、その人間は現実の中での自分の可能性を知る潜在力を獲得します。「現実の壁にぶつかることで自分の限界を知る」のも、この後です。
ここでは自己アイデンティティの確立の感覚が得られてきます。

4)時代への調和..「全ての可能性を尽くす」ことで、社会の実像が見えてきます。ここに至る前の社会イメージは、感情の膿や受動的価値感が映し出した、その人間が捉われた心の問題を映し出した虚像に過ぎません。
現実の社会像と、自己アイデンティティが調和した時、ここまでの歩みを支えた原理原則を支持する相手と社会を見分ける目が獲得されたことになります。
「自分は万人に愛される」という感覚は、ここから生まれます。なぜなら、自分の原理原則を支持する相手と社会を見分ける目を持った時、自分が共に生きる相手と、自分の住む場所が、自分自身によって見出せるからです。「万人」はその範囲における「万人」です。
人間の生涯を通じた「自尊心」という心理発達課題が達成されるのは、この段階と思われます。

..と書きながら、これじゃー読んでも全然分からないだろうなぁエヘヘと思える断片的言葉の羅列ですが、3)以降の話を書いたのはこれが初めてでもあり、まずは言葉を出すことに意義があるということで^^;
あとちょっと実感面での心得など書いとくかも。

No.857 2006/01/10(Tue) 00:36

「万人に愛される」自尊心条件と原理原則立脚型行動法-2 / しまの

「万人に愛される」ということが明らかに自尊心課題のひとつの命題であること、そして原理原則立脚型行動法がそれに対する一つの答えであることを説明します。う〜んこれまさにハイブリッド心理学とは何かのキモですねぇ。


■「万人に愛される」という自尊心命題

「誰にでも好かれ誰にでも愛され得る人間」。

そんな自分を苦しめるだけの役にしか立たないような理想の人間像について、多くの心理学「誰にでも好かれることが大切なんじゃない。まず自分を愛せることが大切なんだ。」という風な言葉を伝えるのが一般的と思われます。
つまり多くの心理学では、「万人に愛されること」は心の安定と幸福にとり必要ではないという考えを、大抵は必死の願いのように取るものだと思います。

ハイブリッド心理学は全く違う立場を取っています。
つまり、「万人に愛され得る」ことが自尊心という心理発達課題の重要な一命題であることを認め、その獲得のための具体的な方法を提示します。それが原理原則立脚型行動法になります。



■さまざまな心理に現れる「万人に愛される」理想

「万人に愛される姿」は、自己操縦心性が掲げる自己理想化像の、明らかに重要な命題のひとつです。
この話は2004/12/15「自己操縦心性のついたウソ-17:操縦心性起源の大どんでん返し2」「高く掲げる価値」でしたことがあります。(ログは2005/01
それを分析していた時に僕に浮かんだイメージは、魔法の光を放って輝く水晶玉でした。その光を浴びた人全てが、まるで魔法にかかったように自分を愛するようになる。そんなイメージ。

あるちょー有名な心理著作家が書いたこんな文章を見かけたことがあります。
人間は全ての人を好きになる必要もないし、全ての人に好かれる必要もない。全ての人を好きになろうとするとか、全ての人に好かれようとすると、自分で自分が嫌いになるだけである。
これはやはり、全ての人と好き好かれる姿という圧迫感があっての言葉なんですね。でなきゃーわざわざそんなこと書きません。
一体誰がそんな理想像を掲げて圧迫してくるのに反発している言葉なのか。その正体が見定められることはほどんどありません。結局、何か自分自身の中にある圧迫と闘っているイメージが感じられます。

そして関連する言葉をグーグルで検索していて出た言葉は、「嫌われるのが怖い」という言葉でした。
嫌われるのが恐い。だから全ての人に好かれないと、安心感が感じられない。これは感情の膿を背景にした典型的心理ですね。

感情の膿の恐怖感を逃れるため、そして魔法の輝きのように万人に愛される姿という、消極方向および積極方向2面からの理想として掲げられるわけです。
そして自己操縦心性は、自己を圧迫すると同時に、それに反発します。自己操縦心性は自己操縦心性自身に反発するわけです。自己操縦心性が完全なパラドックスである一面です。この解説も後に。


■「自信」に伴う「自分は誰にでも愛される」という感覚

一方、ハイブリッド心理学は僕自身の体験を元にした心理学です。こんなことが起きました。それはどうやらこんな仕組みで起きたようです。
でそれが自分なりの科学観の中で、人間の心のメカニズムとして共通するものだという見込みを立てています。その範囲において「心理学」と言っている。

で今はゴール感とも言える自信感(多分まだこれも先があるんでしょうが)に伴っているのを感じるのが、やはり「自分は誰にでも愛される」という感覚です。同時に、「自分は誰でも好きになれる」という感覚が伴っています。
これはどっちが先とも言えない、一体の感覚のように感じます。ただ表現するならば、「自分は誰でも好きになれる」が先ですね。誰に対しても、ほんわかと好意感が体に湧き出るのを感じると、もうそんな自分が向かう誰からも自分は好かれるという感覚が自然にあります。

そんな体験から、「誰でも好きになれ誰からも好かれる」という「万人対応」が自尊心の条件だという考えを採っている次第。
それはどんな治癒成長過程によって獲得されるかを次に。

No.856 2006/01/09(Mon) 18:08

「万人に愛される」自尊心条件と原理原則立脚型行動法-1 / しまの

1/6迷える子羊さんの「原理原則立脚型行動法」へのレスとして考えたことですが、レスで言及した通りハイブリッド超サマリーの中で原理原則立脚型行動法の位置付けを考察したものです。


■人間の心を形づくる2つの柱
まず、人間の生涯における心のあり方を決める、2つの大きな柱があります。

ひとつは心理発達課題です。ヒトという動物として生まれた上での生物学的課題をうまく満たした時、より幸福な感情が湧き出るという基本的な仕組みがまずあります。
中でも、親から子に命を継ぐという種の保存課題を背景にして、幼少期からの発達段階に応じた欲求(要求)の達成状態が、人間の心のあり方を変化させ、人間の生涯における心の変遷を形づくります。

この柱における損失は、残存愛情要求という特有の心理状態を生み出します。またより一般的な感情メカニズムとして「望みの停止」を起点にする情動の変形という問題が起きます。

もうひとつの柱は、怒り不安恐怖などの神経緊張型の感情をどう使うかについての、人間自身の姿勢です。
これを多用すればするほど、不幸な心の状態になります。しかし人間の場合、それが「正しいこと」だという観念の中で、自らそれを選ぶ傾向があります。
これは、ものの見方考え方の問題であり、価値観の問題です。
この悪影響は、自己処罰感情感情の膿という現象の形で、人間の心を苦しめるようになります。

この2つの柱における問題を背景にして、自己操縦心性という、心理障害特有のメカニズムが働くことになります。


■自尊心という心理発達課題

人間の心理発達課題は「自尊心」です。それを達成した時、確固とした「自信」の感覚が獲得されます。
それがまだ未達成である時、心には自尊心を獲得しようとするためのさまざまな衝動が起きることになります。これが上述の2つの柱における損失の結果とバッティングを起こすことになります。このメカニズムは「成り立ち」シリーズでそのうち。

自尊心が達成された時、自尊心を獲得しようとするための衝動は消失し、代わりに豊かさと愛の感覚が湧き出るようになります。


■自尊心の条件

自尊心の条件には、大きく3つの源泉、「」「強さ」「自己アイデンティティ」があると考えています。

幼少期に適切な愛を受けることによる「基本的信頼感」の獲得が心理発達課題であるという考えを、今ハイブリッド心理学としては完全に否定しています。感情メカ理論は、これについては撤回する形で改訂することになります。
それは生涯を通じて課せられる「自尊心」課題への、単なる補助に過ぎません。例えるなら、自転車の補助輪のようなものでしかありません。

この例えは実に適切だと思います。実際、多くの子供はまず補助輪を付けた自転車に乗ってバランスに慣れることで、自分で気づかないうちに本輪で走るようになり、補助輪を外します。
一方、幼少期の不適切な環境のために基本的信頼を損なった人間は、補助輪を使わずに、いきなり自転車に乗る訓練を始めるような形になります。
この例えそのままのその後があることになります。補助輪の支えがないので、何度も転んで体中すり傷を作りながら上達するしかありません。しかし、実際、それでも可能なわけです。実際自転車に乗れるようになったら、他の人間ともう何の違いもありません。

幼少期に獲得される基本的信頼は「愛された」ことへの自尊心と言えます。これは単なる補助輪です。
大人としての自尊心になると、今度は「愛せる」ことへの自尊心が必要になってきます。何度か引用していますが、ホーナイ「自分は愛されない」という根深い感情の原因を、「愛する能力」の損失だと言っていました。

とりあえず以上が、原理原則立脚型行動法が大きな意味を持ってくる、背景までの話でした。いったんここでカキコ。

No.855 2006/01/09(Mon) 14:47

原理原則立脚型行動法 / 迷える子羊

新年おめでとう御座います。
まだ原理原則立脚型行動法を体得していないので、人間観系に円滑さがありません。
ドリルにあるように「一般人」との感性のズレの修正が上手くいきません。
人とのお付き合いは、どうしても控えめになってしまいます。
無理して積極的にする事もないと思っています。
「一般人」との感性のズレは自分だけが感じているものか?それを気にすること自体が問題なのか?・・・がわかりません。
原理原則立脚型行動法をもう少し詳しく具体的な、わかりやすい説明をお願い出来ないでしょうか。
正月早々無理なお願いで申し訳ありません。

No.852 2006/01/06(Fri) 14:37

 
Re: 原理原則立脚型行動法 / しまの

どうも〜。

>「一般人」との感性のズレは自分だけが感じているものか?それを気にすること自体が問題なのか?・・・がわかりません。

う〜ん心理障害傾向の中ではどうしても感性のズレが起きちゃうものですね。またそれを気にする仕方も、きっと取り組み対象になると思います。
ただ「感性のズレの修正」というのはまだ言葉だけで、説明は載せてない情況^^;

実際には人によりかなり違いがある話で、また感性のズレだけ小手先で直そうとするのは無理で、対人関係の改善という大きなテーマの中で取り組む感じになると思います。
そこには大きく以下の4つのテーマが出てくると思います。
1)「良い人間関係」についての基本的理解
2)残存愛情要求への対処
3)建設的行動法・原理原則立脚型行動法
4)価値観の変革・感性の修正

「感性の修正」は結構最後の方ですね。

これから書く心理学本で、これら全体を分かりやすく説明し直そうと思っています。
原理原則立脚型行動法についてはとりあえず以下が解説済みのものなので、まだでしたら読んで頂ければ。
2005/11/10 究極の行動学:原理原則立脚型行動法-1
2005/11/11 究極の行動学:原理原則立脚型行動法-2
2005/11/11 究極の行動学:原理原則立脚型行動法-3
2005/11/26 究極の行動学:原理原則立脚型行動法-4
2005/11/29 究極の行動学:原理原則立脚型行動法-5


これからスキーに出かけますので、またちょっとした説明追加できないか考えときます。
人それぞれかなり具体的アドバイス変わってきますので、ぜひメール相談もご活用下さい(←営業^^;)

No.853 2006/01/06(Fri) 17:24

 
Re: 原理原則立脚型行動法 / しまの

ちょっとハイブリッド心理学全体における原理原則立脚型行動法の位置付けについて一考したのですが、少々長いので「「万人に愛される」自尊心条件と原理原則立脚型行動法」として新規カキコします。

ご要望の具体的で分かりやすい説明というより、現時点でのハイブリッド超サマリーみたいな感じです。
その流れで原理原則立脚型行動法について。簡単な例などもひとつ入れときます。

No.854 2006/01/09(Mon) 14:29

自己操縦心性の成り立ち-21:背景その3優越による自尊心課題-1 / しまの

詳細理論ものが続いてお腹一杯になってしまうかもしれませんが(アハハ)、正月2日目に書いた残りを載せましょう。なおこの後はちょっと筆が鈍り、DVDに録画したTV番組見ながら酒のんでグータラした3日目となっとりました。内容的にもちょっと練る必要がある部分に、このあとなるわけですね。

ということで、自己操縦心性の素材となる背景の、次の話。

これは「心理発達課題」についての話であり、別解説シリーズとして立てることも考えられる重大なテーマなのですが、あえてこの「成り立ち」シリーズの中に収めるのは、自己操縦心性の根本的本質を考えるというこの難題のために、かなり多面的な理解を進めねばならんという考えに立つものなのですね。

「優越による自尊心」という心理発達課題の話です。


■「心理発達課題」への今までの常識を根底から覆す理解が必要

人間の「心理発達課題」についての、ハイブリッド心理学からの新しい考え方をここで表明することになります。
これは今までの心理学の常識を根本的に覆す考え方と言えると思います。
大きく2点においてと言えるでしょう。


「心理発達課題」について、今までの心理学で認められていた考えとは、幼少期における「基本的信頼感」「基本的安心感」の獲得だという考え方です。
幼児期に十分な愛情を受け取ることで、心の底に培われる、人は自分にとって良い存在だという感覚。そしてその中で安心して自分の人生に向かえるという感覚。
そのためには、幼児期に「たっぷり愛されることが必要」だというような考え方。

誰に対しても愛情を持つことができる、誰を相手にしても傍に座って微笑む、そんな人がいます。
そんな人物像をひとつの理想像として、そうした「心理発達課題」論ができていたように思います。

何のことはない。それは人間の心理発達課題についての事実を言っていることではなく、心理発達課題の未達成に悩む現代人という例外ではない心理学研究者が、「そんな人間になれることが重要」という、心理発達課題未達成の結果現れる心理状態をそのまま表現したものに過ぎないという感を、僕は感じます。

心理発達課題について今までの常識を根本的に覆す考え方が必要である。そのひとつは、幼児期の心理発達課題とは「愛情の獲得」ではなく、それを手段とした「自尊心」こそが目的なのだということです。

これについては
2005/05/25 心理発達課題の損失と回復の考え方-2:幼児期課題は「自尊心の獲得」
で延べました。
親の「宇宙の愛」を受け取ることで、自分が宇宙の中心であり、自分の心の世界の重心は自分の中にあり、自分の感情は自発的に自分から湧き出させることができるのだという感覚。世界がそれを自分に許しているという基本的な信頼感と安心感


■青年期まで巻き込んだ単一の発達課題「自尊心の確立」

愛情の獲得自体が課題なのではない。それに加えてもうひとつの、今までの常識を覆した理解が必要なこととは、人間の心理発達課題がそもそも幼児期に達成されるものではないという考え方です。

それは単なる助走に過ぎない。心理発達課題は連綿として続いているのであり、「自尊心の確立」という単一の発達課題が、人間の生涯を通して課せられているという考え方をしたいと思っています。

幼児期の「愛される」ことによる自尊心という側面に加えて、その後は「優越」による自尊心という側面が出てきます。その詳しいメカニズムをこの後考察します。
いずれにせよ、愛されることそのものが課題なのではない。優越することそのものが課題なのではない。揺らぐことのない自尊心が課題である。


■「自尊心」は「愛」に戻る

そうして揺らぎない自尊心が獲得された時、心は安心感と、自分が生み出し育てることができるという自信感に満たされることになります。

すると「愛」が自然に湧き出ます。これは何の理論的考察でもなく、体験的な実感です。僕自身が自分の心の成長が未知の次元に入ったことを感じたのが、「子供への愛」の感情の体験でした。今度は自分が大きな宇宙になって、子供を包むんです。
その時、大人の心から「自分」が消えます。自分は子供の宇宙です。

僕自身は今、それが自分を生かしていると感じる感情です。今まで人生を生きてきた中で、一番大きくて確かな感情。だって、「自分」をもう何も意識することなく、他の沢山の命のために自分が生きている、そう感じられることほど大きなことがこの世にあるだろうか、というのが、今の実感なのです。


■心理発達課題の「達成」と「損失」と「回復」

1)心理発達課題のための欲求
心理発達課題を達成させるために駆り立てられる欲求がある。心理発達課題に関係する欲求であるとは、発達課題の達成状態によって、欲求そのものが質的に変化するということです。
最も端的には、課題の達成によって、欲求そのものが消滅します。そして新しい、未知の感情が出現する。
一方で、発達課題の損失によって、欲求が皮相化し、渇望状態が起きるというメカニズムがあるようです。

2)損失
幼児期の「愛されることによる自尊心」という課題が損失を受けると、「自尊心のために愛されることが必要」という、残存愛情要求の状態が生まれます。
「愛される」という外面的な形に皮相に捉われる、愛情への飢餓感が生まれます。

児童期以降の「優越による自尊心」という課題が損失を受けると、人を打ち負かす勝利への欲求ばかりが皮相に膨張します。

そして残存愛情要求によって人が愛の獲得を逆に妨げられるようになるのと同様に、人を打ち負かす勝利への欲求の中で、人は真の強さの獲得を見失います。

3)達成
自尊心の達成という、生涯を貫く心理発達課題が達成された時、「愛されること」も「人に勝つこと」も、もういらなくなります。
自尊心の維持のたの欲求そのものが、消滅するわけです。
代わりに、愛が心を満たし始めます。それが子供を育てるために、人間の心のDNAに用意されたものだったのでしょう。
その愛の中で、子供は自尊心獲得のための歩みを始める。

輪廻ですね。これが「正の輪廻」だったのだと思います。
愛の中で自尊心が育ち、自尊心がやがて愛に戻っていく。そうして命が、心が継がれていく。

4)回復
そういった自然の姿を念頭にした、損失状態を本来の自然な姿に回復させる知恵というものが重要だと思います。
ハイブリッド人生心理学は、まさにそれを提供しようというものだと言えます。


2日に書いたのはそこまでで、小見出しは今日入れました。
あまり整理せずに殴り書きしたような感じでしたが、今日ざっと眺めてみて、ハイブリッドが伝えようとする、ひとつの重要なメッセージが浮き彫りになる感を覚えます。
それは、心理発達課題の損失に対する、明瞭な回復技術があるのだということです。

「三つ子の魂百まで」といわれる重要な時期に、自分は不適切な親の態度で育てられたせいで、人生を大きく損なった。
決して完全に消し去ることのできない、その観念があると思います。
それを根本的に覆す心理学理論を提供します。僕自身はもうそれに確信を持っています。


今ひとつ浮かんだことを書いておきましょう。
幼児期の心理発達課題は「基本的信頼感」だと言われてきました。自分が宇宙の中心であり、何でも自分の心から湧き出る自発的感情で行動していけると、世界が自分に許している感覚。

自分は基本的信頼感を獲得しないまま大人になってしまった。どうすればいいか。
「原理原則立脚型行動法」がその答えです。社会に大きく通用する原理原則を体得した時、自分が全ての人に受け入れられるという、ひとりよがりの感情ではなく、実績に基づいた安心感が芽生えます。
実際のところ、幼児期にどんな基本的信頼感を獲得した人間であっても、大人として社会で行動する原理原則を誤った時、行動するごとに人との軋轢を起こす、とても安心感など広がらない生活になるでしょう。
そうした人を、この社会にいくらでも見ることができると思います。

一方で、僕自身は、かつて自分が「基本的信頼の獲得に失敗した人間」だという自意識など全く無意味になるような、他人全般へのほんのりと体の底から湧き出る愛着感のようなものを感じます。これが「基本的信頼感」であり「基本的安心感」なんだろうと。

全く無意味な心理学理論があったわけですね。
まずその改訂を次にちょっと一考して、引き続き「優越による自尊心課題」の考察を続けます。

つけたし。
「愛されることによる自尊心」の損失の回復への答えは「原理原則立脚型行動法」だと書きましたが、もうひとつの重要な答えがずっと書かないままなので、ここで言葉だけ。
「優越による自尊心」の損失の回復への答えです。それは「弱さを認めることが強さである」という事実を知ることです。完璧な人間はいないので、その点において全ての人間がその答えへと到達できる潜在力を持っていると考えます。

実際、「弱さを認める強さ」も原理原則のひとつです。
そうした原理原則に立って行動することは、もはや「損失」に対する回復などではなく、人間の生涯を通じて課せられている心理発達課題に対する、随一の答えそのものです。

No.851 2006/01/05(Thu) 16:42

自己操縦心性の成り立ち-20:背景その2自己処罰感情の利用-5 / しまの

■どうすれば自己処罰感情をなくせるのか

自己処罰感情とは、同じような望ましくない自己の認知でも生理的不快感を伴うものを指し、とても嫌な感情なので、そんなものはないようにしたいものだと考えるのが自然と思われます。
どうすれば自己処罰感情なるものをなくすことができるのか。これを一考して自己処罰感情に関する考察を締めたいと思います。

1)基本は「なくせない」
まず単純に言って、それをなくすことはできません。自己操縦心性がそれを使います。
自己操縦心性はまず、否定型価値感と受動的価値感の中で流れる感情を粘土材料のようにしてできた人格体として動きます。
それが最初に行うことが、幼児期に学習した自己処罰感情を利用した自己統制です。この自己統制は、我々の意識が働くよりずっと前に動きます。
「そんなもの使わなくていい」と自分に言い聞かせたところでどうにもならないことが、自己操縦心性が基本的に意識的制御不可能な人格体であることの、ひとつの初歩的(?)な表れと言えます。

2)自己処罰感情をまったく伴わない「自衛と建設」思考
一方で我々は、自己処罰感情を全く使わない、全く異なる思考回路にスイッチを入れることができます。
これは基本的に「破壊から自衛と建設へ」という思考の選択です。「それでは駄目だ」という否定思考の中で、望ましくない事態の消滅を求める。その相手が自分自身である時、自己処罰感情が流れることになるのは自然です。
一方「自衛」もしくは「建設」という方向の中で「ではどうすればいいか」と知恵を絞る思考の中では、自己処罰感情は全く出る出番はありません。
その結果具体的な答えが出れば、自己処罰感情はいちおうどいたままでいるでしょう。具体的な答えがないと、「どうせ自分は駄目だ」という思考の中で自己処罰感情に戻ることになります。

まずは、いかにこの自衛と建設の思考法を強化するかの闘いになると思います。
ただしこれは、自己操縦心性が統制する自己処罰感情そのものには、全く立ち入ることができるものではありません。

3)自己操縦心性による「オリジナル」に対する「上乗せ」の解除が可能
3つめに言えることとして、自己操縦心性は、自己処罰感情の「オリジナル」に対してかなりの「上乗せ」を行っています。この上乗せ部分の解除は、取り組みのかなり早期から可能だと考えています。
上乗せの仕組みの典型的なもののひとつは、「自己嫌悪する自分への嫌悪」というような自己循環膨張です。漠然とした自己嫌悪感情が何を対象にしているのかの感情分析の中でそうした自己循環を自覚することは、多くの人の自己嫌悪感情の軽減に役立つでしょう。
「上乗せ」を起こすより詳細なメカニズムについては、この後考察していきます。

自分が望ましい姿になることを損なった時の生理的悪感情という自己処罰感情の「オリジナル」は、自己操縦心性が保持します。
従って、自己操縦心性の崩壊以外には、自己処罰感情を根本的になくす道はありません。

4)自己処罰感情の根本的消滅の姿
体験的観察から言いますと、自己操縦心性が崩壊する際には、同時にその直後に自己操縦心性によって防御されていた感情の膿がどっと放出されるような感じになります。
一方自己操縦心性がおおかた消滅した後に、自己操縦心性との結びつきがあまりない「遊軍」的な(この表現わかるかなぁ)感情の膿が残る感じです。後はこの感情の膿に触れる体験ごとに、感情の膿はただ放出され消えていくことになり、自己処罰感情そのものが質的に穏やかな感情に変化していきます。
そうなるのは取り組みの最後も最後という時期ですね。

No.850 2006/01/05(Thu) 15:54

自己操縦心性の成り立ち-19:背景その2自己処罰感情の利用-4 / しまの

帰省先では、1/1に実家から2時間程度で行けるスキー場ヘ行ったのですが(天気良かったー)、あとは酒飲んでグータラするしかない時間を持て余し、ノートパソコンに結構解説原稿書いてましたので載せませう。
自己処罰感情の影響の話から、引き続き。

自己処罰感情、中でも感情の膿が人間心理に及ぼす影響について、さらに広範に考察してみようと思います。
望ましくない事態に対して、生理的悪感情を感じる傾向、そして「世界と人生に悪意が潜み自分は危険下にある」という極めて漠然とした感覚によって、以下のようなことが起きると考えられます。


■感情の膿による性格傾向

自己処罰感情と感情の膿によって起きる性格傾向とは、「神経質」であり「せっかち」です。
前者は、神経がいつも張り詰めている状態、後者は「焦り」の感覚が背景に流れていることによるものですね。

これらが弱くなる軸の反対側では、性格に「おおらかさ」という特徴が現れてくると思います。常にリラックスしている性格。
「のんびり」では必ずしもないですね。まあ確かに焦りの感覚がなくなってくると全般的にのんびりしてくると思いますが、てきぱきした迅速さが価値ある状況でどうなるかは、また別の話になってきます。「おおらかでてきぱき」はあり得る。

ちょっと関連して浮かぶのは「几帳面」ですが、これもまた別の軸の話で、自己処罰感情や感情の膿とはあまり関係ないかと。
神経質で几帳面」というのが、人の性格のひとつの典型例ではあるでしょうが、これは「几帳面」つまり細かいことに注意が行き届き、漏れがないことは、社会的に価値ある性格傾向なので、神経質な人が向かって獲得しやすい性格価値になりやすいということですね。
実際、「おおらかで几帳面」、つまり注意が行き届く一方で多少の手抜きを許せる楽天傾向のある性格というのが、この社会では最も重宝される性格ではないかなと思われます。

楽天傾向と書きましたが、実際のところ「楽天的」「悲観的」かという軸が、まさに感情の膿によるものと思われます。
世界と人生に悪意が潜むという漠然とした感覚があるため、とにかく「何か悪いことが起きる」という観念や空想が発達することになります。
「身内に事故が起きる」という空想が起きやすいのは、感情の膿の直接的な影響が考えられる一例です。家族への憎しみのために「事故が起きてくれ」と思念するとなるとまた別の話ですが^^;
感情の膿がなくなってくると、「悪いことが起きる」という観念が起きないのに加え、実際に「悪いこと」が起きても感情があまり揺れない、つまりそれがよっぽどのことでない限り「悪いこと」だという感覚さえ薄れてきますので、「お気楽」な性格というひとつの典型例ができてきます。
今の僕などはちょーお気楽性格で、生涯の中でかつてのちょー神経質悲観的性格からこのようにまで変化するという、実例があると言えると思います。


■感情の膿の善悪および宗教観念への影響

感情の膿による「世界と人生に悪意が潜む」という感覚は、もちろん何の現実認知によるものでもないので、本人はこの感覚をしばしば、非現実科学的な観念によって意識に明瞭化します。
あるボーダーの日記だったか、明らかに感情の膿が意識に触れているような悪寒状態を、「自分は地球の唸りを感じ取る感受性がある」とかいうような表現をしていたのを見た記憶があります。

目に見えないものが悪意を発散しているという感覚は、人知を超えた巨大な善意悪意の主という感覚になるでしょうし、それが人間の宗教的観念の基本的源泉になっているという心理学的解釈が、かなりの範囲において可能だと思います。
そしてその巨大な主の意に沿うようなことを「善」として行わなければならない、それに反した者にはその人知を超えた主の怒りに合うという儀式的善悪観念を生み出す。

それが、人間一人一人の思惑を超えた、絶対的な善悪があるという観念につながるのでしょう。

最近の時事ニュースに関連して、この心理が見られた典型的な姿を見ました。
巷で話題のマンション耐震強度偽造の被害者女性。頭を抱えて涙を流しながら、「何でこんな目に..わたし何か悪いことしたかなぁ..」と。

ハイブリッドが推奨するサバイバル世界観と現実科学世界観からすれば、その思考はちょっとあっけに取られるほど見当外れの妄想チック思考なんですね。
この世界観からすれば、その事態は単純にアンラッキーだったのと、耐震偽造について知りようもなかった結果でしょうが、そうした被害に合わないような自衛能力がなかっただけの話です。

それが「悪いことした報い」とかの非科学思考で考える場合、それが感情の膿の影響による思考かどうかは言えないにせよ、はっきり言えるのは、自分の現実観察能力を超えたものに自分の運命が支配されるという観念の中で、感情の膿が消滅する方向に向かうような、恐怖を克服する強さなど、身につきようもないことです。


■感情の膿克服への基本姿勢

この点で感情の膿の克服要件を言うならば、現実科学的な思考に徹することで恐怖を乗り越えることへのかなり強靭な意志が重要です。
ものごとを100%現実科学的に考える意志と、実際の正しい現実科学的知識の、両方が必要です。
例えば「幽霊」という観念と恐怖について言うと、それは主に電磁波が起こす実際の自然現象や、脳が電磁波を受けた時の感覚体験の影響であることが知られています。

そうした科学的思考に徹する意志を持った時初めて、人知を超えたものに悪意や怨念を向けられるというような恐怖感情は一種の脳のミスであり、現実はそんな恐怖など感じるに値するものではないのだという感覚を、心底から持てるようになります。
そうした科学思考に徹する姿勢が確立した後、感情の膿が意識に触れる体験は、そのまま「感情の膿の放出」という、その根本的消滅に向かう治癒体験になってくるのですね。


感情の膿の克服要件について今までの話をまとめますと、
1)自己処罰感情を「性格」「気質」などと考えないこと。ましては「感受性」「繊細さ」などと美化して考えないこと。
2)そして現実科学的思考に徹することで、恐怖感が体を流れた時それが現実には値しないものなのだという考え方を心底から行っていこうと意志、その具体的な現実科学の知識を積極的に学んでいくこと。
ということになります。

No.849 2006/01/05(Thu) 15:46

自己の重心の選択 / きむちゃん

しまのさん、あけましておめでとうございます。

しまのさんの著作が、ますます多くの人の目にとまり、すばらしさが理解されますように!

さて、怒りの理由を自分自身に説明しようと、頭の中で色々言葉を選んでいた時に、自己の重心の選択をしているつもりで、実はしていない自分に気づきました。思考というより、外界の出来事に対する反応として、感情がおきる、という感覚が深〜く根付いている感じです。まるでヒヨコのすりこみ状態みたい...。自己の重心の選択にうまく慣れていく方法はありますか?

No.845 2006/01/03(Tue) 23:33

 
Re: 自己の重心の選択 / しまの

どうも〜。今年もよろしくです。

「自己の重心を欠いた感情の塊」が自己操縦心性ですね。そんなものが我々の心の中にはあります。
それに対してできることは、その「自己の重心を欠いた論理」をその感情を味わう中において、深く知ることですね。
自己の重心を重視して生きようとする気持ちが心底から強くなるにしたがい、それを感じ取ることが、それを弱めることにつながります。

そのためには、2面が大切です。
「それを知り、何もしない」ことと、「自分を導く」ことです。
以下の図は、ダイジェスト小説の次に出版を目指す心理学本に載せようと思う絵ですが、参照あれ。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro.jpg

自己操縦心性を中心にした、心の成長を妨げる心理要素については、「それを知り何もしない」です。
その代わりに「これからどうするか」を、心理学と行動学のノウハウで自分を導く。

自己操縦心性を「知る」まではいいのですが、「これからどうするか」を考える時にまた自己操縦心性の上で考えてしまうのがありがちです。
するとまた自己の重心を欠いた答えになってしまいます。こんな自分になってあの人々にこう思われなければ..と。
そうじゃなくて、全く別の思考回路を使って、自分を導く。
これを、具体的な中身がある形で実践するのがハイブリッドの実践です。

具体的にどう考えるのがいいかは、まさに具体的状況に応じてありますので、メール相談など活用頂ければ。

No.847 2006/01/04(Wed) 16:00

 
Re: 自己の重心の選択 / きむちゃん

はーい、気が向いたらそのうちご相談します。ありがとうございます〜。
ぜんぜん話がかわりますが(しかもどうでもいいことですが)、ちょこっと連想した私の「人生のゲーム」のイメージはドッチボールです。ボールは現実の出来事。小さい子供のころにたくさんボールの直撃を受けちゃうと、しゃがみこんで丸くなってその場から身動きできなくなって、ずーっとそのままの姿勢で大人になっちゃう。ただその姿勢でいることだけで苦しい状態。自分で動けるようになって、ボールを上手くよけたり、受け止めたりできるようになると楽しめるようになる、そんなイメージです。(笑い)
しまのさん、応援してます。

No.848 2006/01/04(Wed) 22:00

謹賀新年っす^^; / しまの

読者の皆さん、あけましておめでとうございます
帰省帰りの島野です。今年もぜひよろしくお願い致します。

今年はようやく出版本が出ます(の予定)。いっぱい売れたらいいなー。
今年はとにかく書いて書いて書きまくるぞーp(^o^)q 本の反響に応じて何かこれからの人生が幾つかの想定内にて全く違うものになってくる分岐点が今年の終わり頃にあるのではと考えているのだけど、どうなっても悔いのないよう書き尽くすことが今年の使命なのだー。

あと今年はペンネーム「島野隆」を変えるかも知れません。「出版の際に見直しが必要となる場合がある」との出版社からの連絡を、一度てっきり「見直して下さい」と勘違いして一考したせいというわけではないのだけど、多少前々から気になってたことでもあるんですね。
島野隆って人結構他にもいそうだしー。
そして「隆」というのは、ダイジェストでも出てきた初恋女性の名から来ているのと、ちょー好きなスキーヤーだった「斉木隆」からという由来があったのですが、ちょっと借り物感覚が残るんですね。

で候補は「島野貴宏」あたりかなぁと。「たかひろ」は本名なのです。字はちょっと違うけど。
「島野」は絶対変えないですね。「島」で始まる本名ですが、「野にある人間」という響きが好きで「島野」。
「しまのたかひろ」って悪くないと思うんですけど、どうでしょうかねー。感想あればぜひお寄せ下さい。

No.846 2006/01/04(Wed) 13:59

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