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2006.10


心の表と裏のメカニズム-8 / しまの
No.1117 2006/10/31(Tue) 12:43:19

「変えられないもの」「変えられるもの」が何なのかを、まずじっくりと理解する。
それができたら「選択」を問う。まず、これから「自分の人生を生きる」のか、それとも「人が..」の世界に生き続けるのか
前者を選ぶのであれば、それに応じた生き方に、自分を導く必要があります。「自滅的な感情に耽る」のか、それとも「知性と意志で自分を導いていく」のか。自分が何によって前に進むのかを選択する必要があります。

知性と意志で導いていくことを選ぶのであれば、どのような方向に導くかという、明確な目標が必要です。
幾つかの視点がありますが、なるべく話がつながるように説明していきましょう。


■自己再生への方向づけ取り組み:ステップ3選択を問う-2

3)「建設的な生き方があって心の成長と幸福がある」という人生観

自らを導く目標として、「建設的に生きる」ということを掲げることができます。
ハイブリッドが考える、心の成長と幸福への方法は、極めて単純です。建設的に生きることができれば、必ず、心が成長し、内面外面ともに豊かになり、幸福になれます。
これは「保証できます」と言えるほど、確実なことです。

一方、ハイブリッドに長く取り組みながらも治癒成長変化をなかなか感じられない方の原因も、はっきりして来ています。
典型的かつ根本的誤りは、「建設的に生きる過程」を経ることなく、「心が良くなる」ことを求めていることです。
そして「心が良くならない」ことに苛立ち、その怒りを自他にぶちまける。
これではもう完全に、何も変わりません。

ハイブリッドが教えようとしているものは、「障害感情がある中で建設的に生きる」ための細かい学習ということになります。だから「感情と行動の分離」に始まり、行動学があり、感情メカニズム論があり感情分析がある。
それを学べば「心が良くなる」というものではありません。それはあくまで「心が良くならないまま建設的に生きる」方法をまず伝えるものであり、あとは実際にそうして建設的に生きる過程が、心の実際の治癒成長をもたらします。

「心が良くなる」ことを求めるのは、誤りです。
「心が良くなる」ことを求めないまま建設的に生きることが、心を根底から良くする治癒成長を生みます。

そのことを理解すると同時に、「正しければ世界が自分を幸せにしてくれる」という人生観ではなく、「幸福を自ら建設する」という人生観に変えるという「選択」を、ここで問うのがいいでしょう。
多分これも、日常思考の中で、自分では気づかないままそうした思考法をすることが良くあると思います。例えば、人から誘われないと傷つき、「何で自分は誘われないんだ」といった思考法。そうした受身姿勢を、人は「あの人はどうも気が乗らないようだ」と配慮して、誘わない結果に大抵なります。
また何か「良いことをした」と思うと、何か幸福なことが起きるというような、非科学的思考法

つまりこの人生観の選択とは、心理学的幸福主義の人生観の選択ということです。
3つの車軸「善悪の解体」「自らによる幸福の追究」「科学的世界観」のうち後ろ2つですね。
自分の思考の100%をそれに徹しようとする人は、実際のところ今の日本人にはあまりいないと思います。しかしハイブリッドの「選択」は、そのレベルの徹底を求めるものです。

「人が..」の世界に生き続けるのではなく、「自分の人生を生きる」を選択したのであれば、そうした「選択」を問うことのできる時期がいずれ来るでしょう。
もちろん、そうした「100%の徹底」といったイメージに何かストレスを感じる場合、それはまだ「感情の強制」という「変えられるもの」がつかめていない段階です。無理せず、自分に優しく、自分に味方をする姿勢の習得からじっくり進めてもらえれば。


■「変えられないもの」と「変えられるもの」の把握と「選択」を何度でも繰り返す

「選択を問う」の中身を全て書いてからにしようかとも考えた話ですが、ここで書いておきましょう。

こうして説明してきたステップ1・ステップ2・ステップ3を何度でも繰り返すという形になります。
その7で「第1ステップはまあ一日の中で」「第2ステップは数日間といった生活時間の中で」と書きましたが、その後にステップ3が来て終わりではなく、このセットを何回、何十回、何百回となく繰り返すのが、ハイブリッドの取り組み過程だと言えます。
そして実際何百回という話になった時は(^^;)、もう別人のように成長した自分の姿を見る時だと思います。

それだけまあ、「変えられないもの」と「変えられるもの」の履き違えの轍への対処をしっかりとした上で「選択」を成すというのが基本ということであり、その繰り返しの中で成長し、「選択」がより高度な領域に向かうと言えます。

「変えられないものを受け入れる平静と、変えられるものを変える勇気と、それを見分ける知恵を」という良く言われる言葉がありますが、その具体形の一つがハイブリッドだということになります。


■「選択」を成しえない絶望が治癒になり得る

そうして、自らの心の成長を願うのであれば自らに「選択」を問うのですが、その時、「選択」を成しえない自分の心を見る可能性があります。
それは一種の絶望的感覚を流すことになるかも知れません。

しかし実はそれが感情の膿の一つの表現であり、それをただ流すだけで、破壊的行動をとどまり実存を守ることが、治癒の時間になります。
つまり、選択を成しえない自分の心を知ることが、実は今向かおうとしている「再生」が既に始まっている時間なのだという、逆説的事態がここにあります。


実際、ステップ1から3という段階を定義して向かおうとしている「再生」の本質が、そこにあります。
「再生」であるからには、「今の自己の死」と「新しい自己の再生」という2面が必ずあります。
ステップ1から3を繰り返す中で、常にこれが起きつづけます。そして「再生」そのものがより高度な領域に向かうということです。

ハイブリッドが定義するのは、それに向かう姿勢です。
それを経ることなく「心が良くなる」魔法ではないのです。


「いじめによる自殺」からかいま見える「アク毒」のメカニズム / しまの
No.1115 2006/10/31(Tue) 00:24:59

また「いじめ」に絡んだ中高生自殺のニュースが多くなってますが、さっき見た報道ステーションでの一つの事例が、かなり「アク毒」のメカニズムを思わせるものがあったので一筆。

いじめとしてあったらしいのは、バスケットの部活動4人の女子部員から「キモい」だか何だかと言われ、故意にパスを回されないなどしたとのこと。
遺書には、その4人の女子部員の名が書かれ、自分が死ぬことで「迷惑をかけました。これでお荷物がなくなるね。」というようなもの。

まあその「いじめ」が自殺するに見あうだけの重大なことかどうかとか、実際その「いじめ」が原因なのかとかの話題は人に任せ、ここでは純粋に心理学的考察をしますと、その自殺した女子生徒の方は、その4人の女子部員に対して怒り憎しみを抱いたものの、怒り憎しみ感情がアク毒を刺激しその感情は抑圧され、同時にアク毒が「生きていける場がない」という自己イメージを描き、その身を削る感情から逃れる手段として死を描いたというメカニズムが考えられます。
でそれを行動化してしまった。

そんな心理学解釈など何の役にも立たないと思われる御仁もおられるでしょうが、ハイブリッドがお伝えしたいのは、むしろそのようなメカニズムがあった場合の明瞭な治癒メカニズムの方です。
つまり、もしその女子生徒が自殺をとどまり、ハイブリッド的に「感情の膿を流す」姿勢で対処できたら、彼女の心の中に何が起きるかです。これが「アク毒の放出」という、治癒上の最終通過点のメカニズムを直感的に理解頂くのに役に立つかも知れないと、この事例を取り上げた次第。

もしその女子生徒が自殺念慮の行動化を踏みとどまり、内面に起きる感情をただ流れるに任せるとどうなるか。
多分、4人の女子部員への憎しみによって暴走し、人間とはあるまじき壊れた怪物のようになった自分が、世界の人々の目の前に晒されて精神破滅する、というようなイメージが現れるのではないかと。

「悪感情への耐性」という基本的な姿勢を身につけ、建設的行動法や原理原則型行動法などで自分の外面行動を導けるという心理土台にしっかりと立つことができていれば、そうした意識破滅的なイメージは数時間流れたあとに、突然、蜃気楼が消えるように意識から消え、「現実感」が回復します。

その後に、意識土台が根底から変化した、開放的な意識状態が現れる。この女子生徒の場合は、4人に対して変に卑下的敵意意識のない対等感覚の中で、もういじめを誘発しないような対処もできるようになるでしょう。
あくまでハイブリッドの取り組みのような成長を通して、内面の強さを増大させていることを前提条件としての、最終通過体験の仮想例として、そんなものが想定されます。

「アク毒」とはそのように、もはや「その人自身の抑圧した感情」でさえなくなった「意識が破綻する脅威のイメ−ジ」だけが、遊離した塊のように心の根底に追いやられたまま、ストレス源として感情全体を歪めるというものです。感情全体が、そのアク毒から離れようとするバイアスを受けたものに変形するわけです。
最終解消は上述の仮想例のように、意識に一種の幻想的破綻が映されるのをただ流すことで、まさに膿が流れて消えるような劇的な心理体験の形を取ります。

今までの常識的な精神医療の発想では「こうした感情状態になってはまずい」と考えられていた悪感情状態が、実はまさに根本治癒現象だというのが、ハイブリッドの大きな発見なわけです。
ですから「悪感情への耐性」というのが、本当に決定的に重要です。

僕自身の体験例をまだほどんど描写してないので、その代わりにでもと書いた次第。


 
Re: 「いじめによる自殺」からかいま見える「アク毒」のメカニズム / しまの
No.1116 2006/10/31(Tue) 12:23:57

あっ一応、「ケース・スタディ」で書いた僕自身の「自己治療体験」アク毒の放出の例です。

「こう考えて、僕にとって今回のAさんへの接触は、“学びえた失敗”となった。自分の偽善を知り、意欲の失せたことを正直に考えながらメールを見ると、今回の僕のメールに対する返信は何も来ていないようだった。その時、彼女は僕の心変わりを、というか偽善を見抜いて、攻撃の怒りを向けてくる女性としてイメージされた。「最悪の偽善」などという言葉が彼女から向けられるのが空想に現れた。」
http://tspsycho.k-server.org/case/ca02-05.html
「Aさん」というのは掲示板でもあちこちで出てきますが、人は特定してないので、基本的に皆「AさんBさんCさん」という感じにしてます。)

上記で「自分の偽善」と書いてありますが、実際に偽善的意図がはっきりあったわけではなく、「自分がおぞましい偽善の者」という幻想的破滅イメージがあったわけです。これがアク毒
外面現実において偽善かどうかは、その感覚を基準にするのではなく、もっと明瞭な意志動機や外面行動の建設性などから判断し、「偽善と糾弾される恐れ」に惑わされることなく建設的に生きる姿勢が重要です。


心の表と裏のメカニズム-7 / しまの
No.1114 2006/10/30(Mon) 23:11:53

■ステップ1と2サマリー

他人への怒り軽蔑にすぐ流れてしまう自分。そんな自分への自己嫌悪感情も起きるでしょう。

「新たなる自己」への再生を目指すのであれば、まず第1の取り組みステップは、その怒り軽蔑感情が、自らを感情の膿による精神破綻から守るために起きているものであることを理解することです。
そしてそれに感謝をすることですね。これが障害感情全体の歯車を治癒の方向に転換していく第一歩です。

感謝なんてできない。そんな自分が許せない。そう感じる方へ。
それは障害感情にそのまま乗っかっている姿勢なのですが、まあその姿勢を取りたいのであればそれも自由です。その場合は、何が変えられるかという視点から取り組むのがいいでしょう。これは怒りに感謝できた人の次のステップとしても同じ。
これが第2のステップ

「変えられるもの」の筆頭は、「感情の強制」です。次は「受動的」な自己アイデンティティ・プライド・価値感性で、この順に変えられやすい。
と言っても、変えようとして変えるというより、まずじっくり感情分析できることが必要です。それらの動きが自分の心に起きていることを、じっくりと把握吟味することです。
そしてそれらの動きの心理学的意味を知り、それが不実なものだと心底から感じた時、それらは自然に解消していくでしょう。

こうした取り組みは、頭で理解すればいいものではなく、じっくりと自分の心を把握する取り組みとして行なう必要があります。
第1ステップはまあ一日の中で考えればいい話ですが、第2ステップ数日間といった生活時間の中で、じっくり取り組むものです。


■自己再生への方向づけ取り組み:ステップ3選択を問う-1

そうやって「変えられないもの」と「変えられるもの」が何かという感覚がつかめてきたところで、第3のステップである「選択を問う」という取り組みができると思われます。

逆に言うと、その感覚がつかめないところでは、選択が問えない。
具体的に言うと、内面の感情強制や受動的プライドなどが全く無自覚なまま、他人への怒り軽蔑などの自動感情を何とか正そうと感じる状態だと、「選択」そのものが心理障害感情を反映した、極めて偏ったものになる。
そう言えると思います。

他人との間に起きる感情は原則として変えることはできない。変えることができるのは、自分の内部における、自分自身との間にある感情なのだ、という理解の上で、選択を問うことをして頂きたいなと。
そうして自分自身への感情を変える選択を成した上で生きる歩みが、心の根底からの成長を促し、やがて他人との間に起きる感情も根元から変化する可能性が開かれるわけです。

そうした理解を前提として、自らに問う「選択」とはどんなものか。
5つほど挙げてみました。

1)「自分の人生を生きる」かそれとも「人の目の中で生きる」か

まず最も簡潔かつ直感的にこの「選択」を表現するなら、「自分の人生を生きる」か、それとも自分の人生を生きずに「人の目の中で生きようとし続けるか」かということになるでしょう。
自分自身の内部に、生きる命のエネルギーを感じ取って、唯一無二の存在として心を解き放って生きることを目指すのか。
それとも、「人が..」が最初にある世界を生き続けるのか。これは結局、「自分というもの」がない人生であり、つまりは「自分自身の人生」から逃げ続けて生涯を送るということです。

好きな方を選ぶのがいいでしょう。
そしてもし「自分の人生を生きる」ことを選ぶのであれば、この抽象的なお題目をもっと現実的な話にするための、さらなる「選択」が出てきます。
それを4つほど。

2)「感情に流れて生きる」かそれとも「感情に知性と意志で抗戦する」か

結局のところ、甘く自滅的な感情に流され耽り続けるのか、それともそれを脱する意志があるのか?これを自分に問うことです。
実に単純な問いです。
その意志があれば、心理障害は根本的に治癒します。これは実に簡単なことなのです。
それを脱する意志を持ち、それを脱する意志が導く建設的な生き方をすればいい。それだけです。


なぜ心理障害にある多くの方が、あれこれと悩み考えながら、大した治癒変化もなく生涯を終えるのか。
これも結局は単純な話で、自分の感情を良しとし、感情を基準に考え、結局は心理障害を是とする思考法行動法で生きていくからです。
心理障害の治癒は最終的には、「治る意志があれば治る」という、結果だけ見れば単純な話が言えるのがどうも事実のようですが、まさにその治る意志の障害を生むのが心理障害だというところに、問題が複雑化するゆえんがあります。

最も典型的なのは、心理障害が映す感情を真実と思い込み、さらに、自分がその真実を持っていることを、そうでない「無神経で愚鈍な他人」に対する優位性であるかのように、そこに自分の自尊心を支えるものを求めてしまうケースです。
こうなるともうアウトです。心理障害が生み出す苦しみを感じながら、その苦しみを感じる自分に他人への優越感を感じ、しかもその苦しみが他人のせいだと怒り、さらに心理障害を膨張させていく、という典型的な姿になります。

僕のこうした「意志を重視」する言葉を読んで、「心の障害への理解が足りない」と感じるならば、まさにそれが「心理障害であることへの自尊心」を映した思考かも知れない。

結局のところ、心理障害の苦しみの裏には、甘い感情があるんですね。心理メカニズムとしては、プライド感情と「残存悲嘆衝動」になるでしょう。
それを捨てる気があるのか。
もしそれを捨てる気があるのなら、心理障害は根本治癒するでしょう。捨てる気がないのなら、現状維持のままです。
これは実に単純なことなのです。


これが「自分の人生を生きる」という選択をより実質的なものとして成すことになるでしょう。これがひいては、「変えることができる」自分自身への感情と姿勢の究極のものだということになります。

このように「甘い自滅感情」を捨てる意志を問う瞬間というのが、多分、治癒成長への取り組み上のしかるべき時期に訪れるでしょう。
それはせいぜい1回か2回です。それだけ、これは感情分析の習熟のような反復実践ではなく、純粋に「意志による選択」なのでしょう。
ただしそのためにはある程度の内面の力の増大が得られていることが条件にもなると思います。まだそれ以前の方へのアドバイスをこのあと少し書きましょう。

参考まで、僕に「甘い自滅感情を捨てる選択を問う瞬間」が訪れた時の日記など紹介しましょう。
それは大学院修士を卒業してシステム開発会社に就職し、生活の全てがリセットされたかのような開放感の中でも、やがて沈む自分の感情に向き合った時でした。
初夏に入ろうとしていた時期ですね。

1985.5.6(月・振替休日)
 この1か月、ちょっとした憂うつや孤立感を感じることはあっても、けっこうすぐに立ち直り、けっこう元気にやってきた。
 だがここ最近は何となく悪い、というよりも下降の方向に向かっていたように思える。心の中で、自分から他の人達への疎外感を抱いていき、そして自分は嫌われているという感情の中にいる自分を見られていると思い、“どうせ自分ははぐれ者だ”という退廃的な感情を抱く。人を積極的に愛する心が自分にはない、という思いが、僕を苦しめた。自分が自滅的な思考に陥っていることを分かりながらも、「愛のない自分」への自己嫌悪感をどうすることもできなかった。
 今日になって僕は、“以前よりも人と一緒にいることができる”かどうかを思案している自分を自覚した。だがこうして“以前よりはいい”と考えることができるだけのままでは、もう不毛に思えた。今すぐにでも自分を変えない限り、全てが同じことの繰り返しに思えた。

 午後、一人で壁打ちテニスに行く頃になって、僕は自分に疑問を突き出した。“自分はのけ者だ”という感情に悩みながら、本当にその感情をなくす気があるのか?“自分はのけ者”という感情にいつまでも浸りながら、その上で自分がどれだけこの社会でまく行けるのかと眺めているだけはないのか?
 それは僕の心の中にあった霧を、消したような思いがした。
 もう一度自分に対して確認する。“自分はのけ者”という感情を抱かずにいる意志を持っているのか?

 それがあれば僕はそれを抱かずにいるだろう。それがないとしたら、今までと同じことの繰り返しだ。

これは僕にとって一つの節目になった瞬間であり、あともう一日分日記が書かれたあと、「内面のぎこちなさに蓋をして何とか人々に打ちとけて」過ごした、1年間の日記中断も含む「忘却の日々」が始まった次第です。『悲しみの彼方への旅』P.327)


■意志が問えない場合はまず「自分への優しさ」という基本へ

上述のような「強い意志」を使う試みは、基本的に「自分の味方」でいる姿勢に立ったものであることが条件です。

逆に、取り組み初期などであまりにも自分自身への敵対姿勢が強い場合、まだ上記の「選択」を問える段階ではないということになります。
まずは唯一無二の形で成長するという意志の確認である「基本的自己受容」に立ち、自分に優しくする姿勢を学ぶことが先です。
その中で、なんとか感情分析などを進め、自己不明を解いていき、内面の力の増大を図る。

そうして「感情の流動性」を回復したあたりで、ここで述べたような「強い意志」を使う「選択」を問う段階になると思います。
「人生の大方向転換」に向かう段階ですね。


心の表と裏のメカニズム-6 / しまの
No.1113 2006/10/28(Sat) 22:59:31

■ステップ1サマリー

「他人への怒り軽蔑」という、自分の心の成長を止める感情に対して、最初に取るべき姿勢とは何か。
まずその感情に深く感謝することですね。自分を感情の膿による精神破綻から救っている感情としてです。
同時に、この感情のメカニズムが変更不可能なものであることを受け入れる必要があります。

これが第1のステップであり、感情の膿の破壊的衝撃をまず知的に理解することが課題になります。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro8.jpg赤茶で示した部分。
感情の膿という、自分の「弱さ」を象徴する感情の塊から、他人への破壊的な感情が自動的に起きること。また皮相化荒廃化した自らの情動への破壊的嫌悪から守るために、「アク抜き」のメカニズムが働いていること。
それらは全て「精神の破綻」から自分を守るためのものであり、意識的努力では変更不可能であることを理解することです。

この心理メカニズムに対して取るべき姿勢は、これらの感情が自分にあるべきでないものと否定することなどではなく、それが自分を守っていることを感謝することである。
これが「変えられないものを知る」というステップです。

この姿勢が、つまるところ、脅威は外部にではなく内部にあることを認識する姿勢になります。
それにより、心は強さを増す方向に向きます。外部にあるものを恐れない方向になるからです。そしてこの強さが、やがて感情の膿を克服することにつながっていくわけです。

感情の膿などというものを考慮せず、脅威は外部にあると考えることも自由です。この場合は、心は弱さを増す方向に向きます。なぜなら悪感情の原因が外部にあるとなると、その脅威の発生に対して、無力感が加わるからです。
これは感情の膿に自ら恐怖をくべるような形になります。そして外部を恐れるという、悪循環になります。


これはどっちの思考法を取っても、本人が考えた通りの結果になります。
感情の膿が脅威なのだと考えると、やがて本当に感情の膿を純粋に内面の脅威として感じる「放出体験」を持つようになり、感情の膿が根底から減少し、生きることへの脅威が根底からなくなります。
一方脅威は外部にあるのだと考えると、そのとおり、外部への恐怖が増していく生涯を送ります。

「感情の膿のメカニズム」という考えが正しいか誤りかという問いについては、「どっちでも正しい」ではなく、前者のような変遷があるということは、「感情の膿というメカニズムがある」が心理学的に正しいということになります。


■自己再生への方向づけ取り組み:ステップ2変えられるものを知る

他人への怒り軽蔑が湧いた時、まずはその感情に感謝する。
真の脅威は自分の内部にあるからである。それは自分を救っている感情である。
その内部の脅威は、努力して変えられるような生易しいものではないことを知ることが必要です。

そして変えられないものは、もうそのまま置いといて、変えられるものに目を向けることです。
それが第2のステップであり、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro8.jpg
で青で示した部分です。「自己理想化イメージと感情操縦・感性の変形」および「望みの停止」
これはhttp://tspsycho.k-server.org/img/kokoro7.jpgでは「感情の強制」と書いています。

あっ一応話の前提として、「他人への怒り軽蔑」の感情は自分の心の健康と幸福と成長にとって望ましくないと感じた上での取り組みであるのが前提です。
その感情の中で優越感にひたるのを快感に感じているような場合は、全くの論外。その場合はもう一生それで行ってもらうか(^^;)、もしくは取り組みとしては、怒りの有害性といった最初の勉強になります。

でもし自分を変えたいのならば、まず感情の膿に始まる他人への怒り軽蔑感情という、いわば「外枠」については「変えられないもの」として受け入れ、変更可能なもう一つのメカニズムに注目することです。

その代表が「感情の強制」だと言えるでしょう。自分が特定の感情状態になるように、自ら圧力を加えるものです。
ただしこれも無意識のうちに自動的に働きますので、変えようとして変えられるものではありません。それでもじっくり感情分析などの取り組みをすることで、少しづつ変わってきます。
先の感情の膿からアク抜きまでのメカニズムは、いわば「変えることもできないし変わりもしない」メカニズムですが、この感情の強制などのメカニズムは「変えることはできないが多少変わる」メカニズムだと言えます。

こんなことを感じ取るといいでしょう。
「感情の強制」はうまく機能していると、自分が自分に感情を強制していることが全く感じ取れませんが、必ずストレスを伴いますので、多少血が昇るような生理状態が伴います。
強制する感情とは、まあ「明るい気分」とか「親しみ」とか「やる気」とかの感情であるのが大抵でしょう。

そしてストレスのためいつかは強制がうまくいかず、そこからの「退却」が生じます。
するとぱったりと感情が湧き出なくなると同時に、他人から敵意を向けられる感覚が起きると思います。
この時感じる「敵意感覚」は、感情の膿やアク抜きなど「変わりもしない」メカニズムから起きる敵意と、ちょっと違いがあります。退却によるものは、生理的反発感の類、感情の膿やアク抜きによるものは、感情的な怒り憎悪。

このような違いを感じ分ける感情分析の実践に習熟してくると、「感情の強制」の方は結構減ってくると予測しています。他人との間の敵意感覚も少し薄れるかもしれない。
そうした僅かの変化が起きると、取り組みの構造全体がまた別のものになってくる。詳しくは省略しますが、否定型価値感覚の放棄といった別のテーマでの取り組みも見えてきます。

同じように、「受動型」の感性・プライド・自己アイデンティティも、外部の問題ではなく自己内部の問題として、「変えられるもの」の取り組み範囲に入れるのがいいでしょう。この「受動型」は瞬時に起きる怒り反応の大きな原因になるものです。


ということで、「他人への怒り軽蔑」は心を成長を止める感情であるが、まずはそれは感情の膿による精神破綻から自分を救っている感情として感謝する。それをどうこうするのではなく、変えることのできる「感情の強制」などに取り組む。
ここまでが「変えられないものを知る」「変えられるものを知る」という2つのステップになります。


心の表と裏のメカニズム-5 / しまの
No.1112 2006/10/27(Fri) 14:22:16

■自己再生への方向づけ取り組み:ステップ1変えられないものを知る

他人への怒り軽蔑の感情に肩入れしているうちは、治癒成長は見事に止まっている。
そこで、それとは逆の方向への姿勢を考えたいのですが、どうすれば治癒成長への方向を向く姿勢になれるのかの実際をじっくり考えてみると、一筋縄ではいかないように思われます。

全く逆の方向にある両面を同時に見て、そこに一つの本質を見出す。まさにこのハイブリッドの両面思考の先にありそうだと。
3つのステップになると。
1)変えられないものを知る
2)変えられるものを知る
3)現実において生み出す選択を問う

この3つ。

まず最初の「変えられないものを知る」ですが、他人への怒り軽蔑を抱くことが「現実において生み出す」ことにも匹敵する、さらには凌駕するほどの価値を帯びてしまうのはなぜかを考えます。
他人への怒り軽蔑を捨てるための最大のネックと言えるものです。

これを以下の図に書きました。先の「感情の膿に始まる自動感情」の図の上に加え書きをしたもので、とんでもない複雑な図になっていますが、まあ実際人間心理の複雑さというのはそんなものだと思います。
これに比べりゃー、実際の脳の仔細な構造とネットワークを調べるよりはるかに単純なものだと。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro8.jpg

で図中、赤茶で示したのが、他人への怒り軽蔑感情を捨てるネックになる心理メカニズム部分です。
3つあります。それぞれに向き合う、お勧めの姿勢もそれぞれ書きましょう。

右上から見ていき、まず「現実的憎悪」というのがあります。これは来歴の中でこうむった、現実的な圧迫や被害を与えたものへの憎悪です。
これについては、あまり真正面から触れない方がいいでしょう。それを「捨てよう」と考えたところで、まず誤魔化しになるのがせいぜい落ちです。そしてそう考えても消せない憎悪感情を見ることで、さらに怒りが増すというい悪循環に陥るだけです。

現実的にそうした憎悪感情を克服できるのは、現実的な強さを獲得する中でです。その時、「捨てよう」と考えることなく、根元から憎悪感情は消えていきます。まずこの心理学を頭に入れておく。
あともう一つの姿勢を最後に言います。

次の2つ目と3つ目は、障害によるもので、実際は同時に起きるものですが、分けて認識しておくといいでしょう。
「障害によるもの」とは、意識的努力では解除はできないものだということです。

2つ目「精神性理想の破壊性」と書いたもので、感情の膿に始まる障害の圧迫が強ければ強いほど、「破壊型理想」の破壊性は強度を増します。全てを破壊しようとする感情に覆われるわけです。
同時にこの破壊型理想が、まさにこの破壊型理想そのものに向けられます。『DEATH NOTE』に触れた書いた、「幻想に生きて現実を破壊する自分」への嫌悪ですね。「アク毒」です。
それを防御するために、「アク抜きメカニズム」が機能しています。「アク毒」が強烈であればあるほど、防御のために「責められるべきは他人だ」という感情が生み出されます。これは自動的に起きるものであって、意識的努力では解除できません

この「不実なメカニズム」を何とか分析し解消したいと考えるかも知れません。
全く逆になります。それを3つ目の話と一緒に。

3つ目のネックは、大元の感情の膿の破壊性です。
もし「自分で感情の膿を流して治癒しよう」というような発想があるとしたら、それは感情の膿の破壊性について全く小さく見積もっていることを示します。そして、感情の膿の破壊性が強く、それに対する自己操縦心性の防御が硬く機能していればいるほど、感情の膿なんてものはなく、それを流せば治るなんて話を聞くと「流そう」なんて安易な発想が生まれることになります。

感情の膿の破壊性が強ければ強いほど、脅威は自分の内部にではなく、他人や外部にあると知覚される。そうゆう仕組みになっていると言えるでしょう。
だから、自己操縦心性の防御としてのアク抜きメカニズムも硬く機能し、他人への怒り軽蔑感情の自動発生は融通の利かないものになります。

一方、感情の膿を流し治癒する体験を持つほどに、感情の膿の脅威が実感として分かってきて、脅威も外部ではなく自分の内部にあるものと感じられてくる。
これが、感情の膿の流れる悪感情を、現実を示すものではなく心理現象だと心底から認識した中で流すという「放出」につながる、好循環に向かっていきます。

では好循環になる以前に、意識的に取るべき姿勢とは何か。
まずは知的に理解することです。感情の膿の破壊性をですね。
それは幼少期においては、実際のところ体験したら生きていられないような悪質な感情の塊です。
現在においては、「他人への怒り軽蔑」が治癒成長へのネックだからと言って、そのネックを単純に外して、感情の膿をダイレクトに晒すようなことが起きようなら、まず起きることとして考えられるのは、「精神破綻」です。

それを考えるならば、「ネック」として説明してきた今までの心理メカニズム、そして自動的に湧き起こってしまう他人への怒り軽蔑は、自分を精神破綻から守ってくれているわけです。
つまり、まずはこの感情に感謝をすべきなのです。

「全てに感謝」なんて言葉はよく誤魔化しになりますが、こうした心理メカニズムを知った上での感謝であれば、誤魔化しではない真実になるでしょう。

とまあこの大どんでん返し的な逆説姿勢が、まず最初に意識して頂きたいものです。

こうした逆説的姿勢は、ハイブリッドで結構出てきますね。上で保留しておいた「他人への現実的な憎しみ」についてももそうです。
心理学的な課題」は「憎しみの感情を捨てる」ですが、意識的努力としては、むしろ「憎しみを守る」です。「憎しみの中の真実を守る」
それを守るためには、決して破壊的行動に出てはいけないのです。

この逆説をさらに心理学的に見る(^^;)ならば、結局のところ、「この感情を何とかしよう」は自己否定なんですね。それがまさに、感情の膿に始まる障害感情に乗っかるということであり、心の成長を止めることなわけです。
そこからの脱却の第一歩は、障害を否定破壊する姿勢を持つことではありません。障害が自分を守るために生まれたものであることを、感謝することです。憎しみが教えてくれた真実を、大切にすることです。

これが、今までこの切り口言葉は使いませんでしたが、「感情分析における自己肯定」であり自己受容です。
これをおろそかにした感情分析は、自己破壊の同じ轍の中にしかないということですね。

この自己肯定を、次の「変えられるもの」を見る足元の、土台にする必要があります。


心の表と裏のメカニズム-4 / しまの
No.1111 2006/10/27(Fri) 11:48:17

「心の再生手術術式」説明。
とは言っても、これから説明する取り組み手順内では実は、「心の再生手術」は起きないです。

起こすのは、「人生の体験」です。
現実の中で、望みに向かって歩む体験が、「心の再生」に向けた治癒メカニズムを発動させる「現実性刺激」になります。

以下で説明するのは、それに向かう方向へと自分の向きを修正するための取り組みになります。
ということで、「自己再生への方向づけ取り組み」と呼んでおきましょう。


■治癒メカニズムの理解

まずその「自己再生への方向づけ取り組み」の、さらに前段の話

手短に確認ですが、心理障害の治癒メカニズムとは、結局のところ「感情の膿の放出」です。
心性崩壊の話や各種の心理メカニズムの感情分析の話とかありますが、結局のところ、http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro7.jpgに示すような、感情の膿に始まる自動感情のメカニズムにそのまま乗っかる姿勢を弱め、感情の膿が流す恐怖感情を、現実を示すものではなく心理メカニズム現象だと心底から認識した中で、いかに流せるかにかかってきます。

「現実において生み出す」という価値観人生観そのものは障害治癒とは本体別の問題でもありますが、結果的に上記の姿勢を持たせるための「強さ」という支えは、「現実において生み出す」という価値観人生観の中でしか、現実的に持ち得ないのではないかと考えています。
それがないと、結局、感情の膿が生み出す自動感情にまんまと乗っかるように、人間心理というものはできていると考えています。
先の『DEATH NOTE』に関連したカキコのように。

で実際の取り組みにおいて、そうした「感情の膿の放出」が起きる姿勢とはどんなものかを、より具体的にイメージしてもらうのが良いかと思っています。
この後説明する「自己再生への方向づけ取り組み」が目指すものは、とりあえずその姿勢ということになります

「感情の膿の放出が起きる姿勢」ではありません。あくまで「感情の膿の放出を迎え得る姿勢」です。
「感情の膿の放出」そのものは、その姿勢のさらに先にある、「人生の望みに向かう」実体験の中で起きます。

でまず、その「感情の膿の放出を迎え得る姿勢」を具体的に書いた返答メールがありますので、紹介します。

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■「再生」のメカニズム

>ぜひ、再生を目指す方向へのアドバイスをしていただければと思います。

おっついにその気になりましたか♪..なんて一瞬思ったものの(^^;)、まあそんな直接それに向かわせるような衝撃的かつ乱暴な導きというのは外部からできるものではなく、やはりAさん自身の内面がその方向を探るよう、じっくり考えて行くのがいいですね。

まあ、僕の方ではより直接、「再生」の方向をターゲットにしたアドバイスをするようにしましょう。
今までは視界にそれが見えてもあまり触れなかった感がありますが、状況に応じて積極的に考えようかと。

でまず心理学上の基本を言いますと、先の返答で書いたように、感情の膿から逃げる姿勢では、「再生」からは全く遠ざかる方向を向くことになります。
感情の膿に触れる悪感情を外部の問題とはせずに、純粋に内面の心理現象として認識した上でそれを感じ流す「感情の膿の放出」が、まず「心の再生」の機能を発動させる引き金の一つになるので。

あくまで引き金の一つ。もう一つが心性崩壊。よくこの2つを一緒に言うことがありますが、心理メカニズム的にはかなり話が別の側面があります。

「感情の膿の放出」は、ストレス源の減少。これが「生きる喜び」という心の機能の回復への土台になります。

「心性崩壊」は、幻想的自尊心が破られるという側面です。ここには2つの側面があります。
一つは、自己操縦心性が感情の膿への防御を果たしていることです。その解除によって、感情の膿の放出が起きる。
もう一つは、残存愛情要求を満たす幻想を供給しているという面です。これがかなり厄介な話になります。残存愛情要求は心理発達課題という長期的な問題として起きているのに対して、感情の膿は基本的にストレスとその解消という短期的な動きをします。膿の残量の減少というのは長期の積み重ねの問題ですが、一度の放出の動きはごく短期です。

何のこと言っているかてんで分からない話かも知れませんが、多少僕自身の整理です^^;
(補足)心性崩壊と残存愛情要求についての話は、この際難しいので放っておきます。まあ「感情の膿の放出」が手術とすれば、心性崩壊が残存愛情要求に与えるインパクトは、リハビリとして取り組む問題になります。このためには「現実において生み出す強さ」は根本に関わる課題になってきます。

■「他者への怒り軽蔑」が「再生」とは逆を向かせる

要は、まず知って頂きたいのは、感情の膿から逃げ、感情の膿に触れた悪感情を外部に帰する姿勢の先には、もう全く治癒成長変化がないことです。
その意識表面上の感情が、「軽蔑してくる他人への怒り」というわけです。これに入れ込むうちは、変化はありません。

その点、

>シュレッダーの使い方に慣れていなくて、新入社員の人に真顔で「コンセント抜けてんじゃないですか」とすれ違いざま言われた事がありましたが、こういうのは「軽蔑」以外に何かあるんだろうかと思います。

はやはり、まったく「再生」とは逆の方向を向いている姿勢の中にあることを表現している思考なんですね。
視界に見えたら積極的に気づかせましょうとは言っても、それどころではなく大きく背中を向いている状態なわけです。


■「相手が軽蔑したから」ではなく「被軽蔑感」を感じる姿勢

まあまずは、「それが軽蔑ではない」ことを想定してみることは、あまり意味がないと言えます。
「被軽蔑感」という嫌な感情を消し去ろうと考え、「軽蔑ではなかった」という思考法をする。これが成功すれば、一時的に「被軽蔑感」が和らぐかも知れません。
しかし根本的には何も変わらない。感情の膿の放出になってないからです。やはりそれは感情の膿からの逃げの中にある発想なんですね。

(補足)「あの人の行動は自分への軽蔑ではなかった」と考えることで安心しようとする姿勢というのは、やはり自尊心を他人に依存する姿勢です。そしてその姿勢によって、根底でもう自尊心は損なわれているわけです。自尊心とは自分で自分を支えられるから、自尊心なわけです。
まず自尊心における「自己の重心」の意識が、この自尊心損傷を回復する第一歩です。実際に自分に自信を持てるようになるのは、現実における向上の積み重ねによってです。決して「人のことをどう思えるか」では、ないのです。


感情の膿から逃げない姿勢になると、「それを軽蔑と感じ」、ただし「相手が軽蔑したから」ではない、大元の自己軽蔑があることを感じる形になります。
こうなるともう、「被軽蔑感」という嫌な感情を起こした根本原因は他人ではないので、相手への怒りはもう起きなくなるんですね。

これが「感情の膿の放出」を有効に働かせる姿勢に、かなり近づいてきます。
まずこれを頭にイメージしてもらえれば。「相手に依存せずに被軽蔑感を感じる姿勢」なんて呼べるかと。


■「心理学目標」と「意識努力姿勢」の全く異なる「再生への姿勢」

ただーし、それは「感情の膿の放出姿勢」という心理学的な目標を描写しただけの話です。

現に「軽蔑される怒りに駆られる心」が、どのようにその姿勢に変化できるかは、全く別の話です。
「相手への怒りを捨てた形で被軽蔑感を感じよう」なんて考えができるかも知れませんが、そう考えたところでそうはならないでしょう。

ハイブリッドで良くある話ですが、心理学的な姿勢目標と、それに近づくための意識的努力は、しばしば逆説的に全く逆のような意識表現になることがあります。


この先は掲示板で解説します。また複雑な図を書いてになるので^^;
まずこの返答メールをそのまま載せますのでご了解あれ。

ちょっと整理も加え前段として、それに続いて「心理学目標」と「意識努力姿勢」の全く異なる様相を解説しましょう。
このちょー複雑な状況を俯瞰する目が、「感情を超越した心理学的客観思考」であり、まさに「再生への姿勢」という答えになるんですねー!
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『DEATH NOTE』に想う人間の「破壊幻想」原型 / しまの
No.1109 2006/10/27(Fri) 09:02:32

今日の4chで『DEATH NOTE』が放映されますが、以前からちょっと注目というか気になった映画ということで、多分まあずっと見ないと思うんだけどとりあえずDVDに録画予約。

でちょっと新聞TV欄の解説の言葉を見て感じたこと。
「理想の世界を築くために“死のノート”を駆使して悪人を裁く青年と、捜査陣の攻防を描く」だって〜。

これってまさに、「現実において生み出す」ものを持たない弱い人間が考えることの原型なんですね。「破壊」が理想を築く。「破壊」が「建設」であるという幻想錯覚が起きているわけです。

「変えていく強さ」を獲得した人間には、これはありません。なぜなら、弱い人間が「破壊」すべきものと考えた「悪」も、あくまで様々な側面を持つひとつの本質の、一つの側面に過ぎず、別の側面に着目し役立てることが「建設」だからです。
決して「破壊すべき悪の具現」などというものは、現実には存在しません。それは幻想の中にのみ存在します。

その解説言葉を見て、同時に、この「破壊幻想」という人間心理の原型の先にあるものが浮かんだ次第。
その「破壊幻想」の先にあるものとは何か。最後に、自分が「破壊すべきもの」のリストに載ってくるわけです。
つまり、「DEATH NOTE」に最後に書かれるのは、自分の名前なんですね。

これが、「破壊幻想」という人間心理の原型です。
実際、『DEATH NOTE』のストーリーがその流れになるのかは知りませんが..


 
つけたし / しまの
No.1110 2006/10/27(Fri) 10:02:19

なぜ最後に自分が「破壊すべきもの」に載ってくるのか。

まさに、「幻想に生きて現実を破壊した」自分を見るからですね。それが、最初の「破壊すべきもの」だったわけです。
それてまた、これも幻想です。

これは「アク毒の放出」という、「感情の膿の放出」という治癒メカニズムの中でも最も最後に現れる部分です。
この心理メカニズム全体を俯瞰し、現実を選択することが、最後の通り道だということになります。

実存のみを保ち生かし、精神が死ぬ「再生への通過点」が、その時現れます。


心の表と裏のメカニズム-3 / しまの
No.1108 2006/10/26(Thu) 15:38:49

おっ久々の1日3カキコ♪

■「他人への怒り軽蔑」が治癒成長をストップさせる理由

先の「心の表と裏のメカニズム-2」では、「他人への怒り軽蔑」が治癒成長を見事にストップさせる感情であること、そしてそれが生まれるメカニズムを詳しく解説しました。

サマリーしますと、なぜそれが治癒成長をストップさせるかと言えば、感情の膿の圧力に始まる障害感情に理性知性までが加担することによって、理性知性までが加担するのを止めた先に発動し得る「感情の膿の放出」という治癒メカニズムへの道が全く閉ざされてしまうからと言えます。
まあこの説明はまだ直感的には理解するのは難しい理由説明だと思います。

もう一つそれとは全く別の大きな理由をここで加えれば、「現実において生み出す」という歩みが損なわれることです。
上記はあくまで「障害の治癒」という、見えない心理メカニズムの話ですが、こっちは目に見えてその人の「生」が豊かになるのが損なわれるという、現実的問題をはらんでいます。

これは「成長」の側面です。「感情の膿の放出」は障害の「治癒」の話。
「治癒」と「成長」は、「治癒が完了して成長できる」ではなく、「治癒しないままの成長が治癒を生む」という構図が多々あります。


■「他人への怒り軽蔑」を抱えたまま前を向く姿勢

つまり、「他人への怒り軽蔑」が多少障害込みのものであったとして、その感情が治癒によって消えれば「現実において生み出す」ことが考えられるという思考方法の中だと、何も変わらない可能性が高い。
そうではなく、「他人への怒り軽蔑」を自分の中に感じる一方で、かなり強固な意志で「他人への怒り軽蔑」を内面に置いたままでも「現実において生み出す」ことを考えるような思考法にすることで、変化への可能性が大きくなってくると思います。

変化への可能性とは、その後者の姿勢の中で、「否定型価値感覚の完全なる放棄」という選択もはっきり視野に入ってくるだろうし、そうなると「感情の膿の放出」という治癒メカニズムがダイレクトに働くようになります。

一方そこでネックになってくるのが、「他人への怒り軽蔑」に、「現実において生み出す」ことに匹敵する価値を、その人が感じてしまうことのように思われます。
その「人間として恥ずべき悪」をしっかりと看破し、批判できることに意味があると感じる感覚、ということになるでしょう。

それを純粋に人間観世界観の問題とするなら、それについて僕としては特に言葉をはさむ気はありません。
そこに一人の有識の者がいて、哲学者として生きることに満足しているのなら、それはそれでいいことだと思います。

しかしそこに心理障害の問題が介入していた時、その人は必ず、そうした他人への批判眼の裏で自分が失っているものを、かなり過小に見積もっていると思います。
僕ができるのは、その心理学を説明した上で、選択は任せることです。それ知った上で、好きにすればいい。

「他人への怒り軽蔑」の感情の裏で本人が何を失っているかと言えば、その怒りは心の見えない根底で自分自身にも、人生を通して向かい続けているということです。
そしてそれによって、愛する能力を大幅に失っていることです。自分に怒りを向け続ける者は、愛することはできません。
それを含めて、「現実において生み出せる」ものを、失っているということです。



■「心の再生手術」(^^;)術式入門

上記の見えないメカニズムを知り、方向転換を図るための、一連の取り組み手順を考えています。

まずスタートラインとしては、「悩み苦しむ自分を脇に安穏と生活している人間の愚鈍」への怒り軽蔑がふつふつと湧き立つという感じかと。
それが強ければ強いほど、上述の「失われたもの」は大きい。

強ければ強いほど、その転換は難しく、まず感情の膿に触れる苦しい時間を経るものであることが予想されます。
それを経てでも自分を変えたいという方への、一連の取り組み手順を次に説明します。

そう呼ぶのが適切かどうかはまたの機会に考えるとして(^^;)、「心の再生手術」みたいな感じ。

3ステップからなります。
その内容説明を次から。


最初の心理学本の計画を全面改訂\(^^)/ / しまの
No.1107 2006/10/26(Thu) 12:48:49

さきほど「次の著作予定」を更新Upしましたが、その通りハイブリッドの全てを入門レベルの平易な描写で盛り込む方針へと全面改訂です。
ハイブリッドの全体把握の参考にもしてもらえれば。ちょっと重要な基本解説も付け加えてあります。

この計画変更の内情をちょっと書きますと、「書くことへの意気込み」「安定した収入と生活」という2つの課題を前に、状況見ながら考えを変えてきたわけですね。
最初は『悲しみの彼方への旅』で一気に安定した著作家生活へという夢は、完全に妄想であったことが正解と思われる状況。あっはっは。

でやっぱ「安定した収入と生活」という課題のため、ちょっとIT技術を生かしたSOHOなど始めようかと、実はここ最近準備を始めていた次第。それなら執筆と両立できるかと。
しかしそれはやはり中途半端な話であって、それだと自分が「これだけは社会に伝えたい」と思うもの全てをいつ出し終えられるか、てんで見通しが立たなくなるわけです。
一方、その中途半端だとSOHOの仕事を始めることも、いまいち成功が見えない。

こうなると何かどうも「いじけた人生」の感覚さえ起きるようで、じっくり感情分析しながら、いや感情分析というよりは基本的な選択肢検討を始め、偶然NY証券市場が急騰したのを見て最後の持ち駒の某外国証券を売りに出し、しばらくの食いつなぎの算段を立てると同時に、最初の心理学本で一気に勝負に出るという計画に変更した次第。
(この経験で株というのも案外面白いかもと考えたりして..ま本で成功したらなんて相変わらす能天気^^;)

でまあ感じるのですが、僕の今後の人生は「いかに多くの本を出せるか」なんですね。「安定した収入と生活」のためにそれを捨てるというのは、「安定した生活をするために生きるのをやめる」というのと同じ話なんですね。全く本末転倒なわけです。
たとえ数日間であったとしても、我ながら良くそんなこと考えられたもんだと思える話で、それがつまりは「安定した収入と生活」というのが「人工的自己アイデンティティ」となり、「真の自己アイデンティティ隠蔽」を無意識の内に機能させてしまうという心理メカニズムなのでしょう。

「真の自己アイデンティティ」の感覚を取り戻す中で「安定した収入と生活という課題」を改めて振り返ると、なんかそれって屁の価値もないような気がするのが実感です。まるで中身のないレールの枠でしかない。
今の気分としては、たとえ社会の果てですたれようとも書きたいことを書く、矢でも鉄砲でも降って来いという気分で、やっぱこうゆう何かを持って自分が生きているという強烈な実感を持って生きていけるというのが、「真の自己アイデンティティ」という人生の一つの賜物だと考える次第です。

なお一応、満足いく心理学本の原稿書き上げたらいったんSOHOの準備をちょっと本格的にしようかとも考えております。まその辺は一応抜かりなく^^;

最近「治癒成長への動機」というのを原動力として取り上げていますが、「真の自己アイデンティティを得たい」というのを動機として意識するのも、治癒成長への取り組みとして良いことだと思いますネ。


お買い上げどうも〜 / しまの
No.1106 2006/10/26(Thu) 05:52:39

目が冴えてむっくと起き出し書き物三昧(^^;)しようとPC上げ、何のきなしにアマゾン自書ページ眺めたら、先日まで40万番台(^^;)にまで落ちていたランキング9千番台に大幅ジャン〜プUpの模様。1万以内に入ったのを見たのは、写真入り新聞広告が出た日以来。
まアマゾンのランキングって、おそらく10部も出ればそんな感じになる模様なんですけどね。

先日の同窓会友人経由の紹介でか、それとも読者広場にあった大口購入様か、まいずれにせよお買い上げどうもです〜。

むっくと起きて書こうと思ったのも、アマゾンの「著者からの言葉」で、メモがてらここに書いておこーっと。
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「著者からの言葉」

 「心の病」を扱ったこれまでの文芸作品は、心理学的に見ると絵空事のような解決ストーリーを描いたフィクション小説か、壮絶なドラマの実例ではありながらも完全な解決には至らないものの、どちらかでしかなかったように感じます。
 「心の病」の完全なる解決というものが、それだけ困難なものであるのが現実であったと思います。

 本書は、初めて心理学的な裏づけのある実例描写として、「病んだ心」がほぼ完全に「健康な心」へと治癒成長する過程を仔細に描いた小説と言えるのではないかと、著者島野自身としては考えています。島野自身、これに該当する文芸小説を他には知りません。

 また、「心の病」とは言っても、その根源にあるのは、誰もがこの人生で迷い悩む、「愛」や「自尊心」といった共通のテーマです。奇にてらう異常心理の描写ではなく、「人生」と「愛」を主テーマにした一般小説として読んで頂くこともできる、誌的な味わいもある感情描写の作品として読んで頂けたら幸いです。

 一方、フィクション小説のような感覚で読むと、人間関係劇の展開は少ないことに物足りなさを感じる方もおられるかも知れません。でも実はそこに、心理学的な意味があると島野自身は考えています。
 「病んだ心」の問題は人との関係にあるのではなく、自分自身の内部にあります。それが人間関係によって解決するものと考えた時、やはり自分自身の中にある解決への出口が見えなくなってしまいます。

 といってただ自分の中にじっと見入っていても、解決への変化は起きません。そこに「出会い」という、他に代えがたい人生の賜物があります。
 一つの「出会い」から始まって、心理学の導きの中で、心の奥深くへの一つの旅となる、内面のドラマです。

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頭に浮かんだ文章書けたということで、また寝よ。
アマゾンに入力したところ、掲載まで1週間はかかる模様。ちゃんと載るかな〜。


4者4様の「自己の重心の喪失」から考える「心の生命力」 / しまの
No.1105 2006/10/22(Sun) 17:58:07

時事ネタと基本的解説のごっちゃもの^^;


■最近のいじめの話題(前振り)

少し前の時事ネタ(10/8)でも書きましたが、最近また「いじめ」が話題の模様。
きのうも、金曜からちょっと同窓会イベントで伊豆宿泊から帰ってきて、ビール飲みながら土曜は毎週見ている「プロードキャスター」を眺めていたら、今度は教師もいじめに加担していた中学生の自殺の事例が話題になっていました。

しかし、話の全体が、どうもおかしい
そして、話がおかしいと感じている人がいなそうなことが、またおかしい。ということは実はおかしいのは、おかしいと感じる僕だったりするかも知れないが^^;

そこには、いじめをめぐって4者が登場。いじめに遭う中学生、自殺中学生の学校と教育委、そしてコメンテーター
報道としてはやはり学校と教育委側を非難する方向のもので、まずいじめに遭っている生徒の気持ちを伝えるということで、それらしき生徒がインタビューに答えて、「学校に近づくとお腹が痛くなる」とか。
自殺中学生の親が金きり声で、いじめに加担した教師に罵声を浴びせている場面。「あの笑顔を返せ!俺はオマエが一番憎いよー!」と絶叫。
学校と教育委の明らかに逃げの姿勢が写され、コメンテーターは今度の内閣での「教育再生」について、「こうした問題に切り込まずに教育再生なんて言っても無駄」と批判。

でまあ僕が何をおかしいと感じるかというと、いじめが起きるまさにその場面の視点がまさにぽっかりと抜け落ちているように感じるわけです。
何か、皆それを、何か腫れ物に触るかのように避けているような構図を感じる次第。
僕としてはもし自分がそれについて何かの役割を果たすのであれば、いじめを受ける生徒のところに行って、自衛技術をじっくりと検討伝授するようなことなんですけどね。


■サバイバル思考と道徳思考

いじめに遭う瞬間。そしてその直後に、今後どう対処することを考えるか。このかなり限定した瞬間が、僕としては焦点を当てたいものです。
そして道徳的善悪観念の完全なる放棄をしてる僕としては、そうした出来事は大草原でインパラの子がライオンに取って食われるのと全く同じような話であって、食うか食われるかのこのサバイバル世界の中でどう生きるかの問題だと捉えた時、方策と可能性は無限に広がるとさえ感じるんですけどね。
そこでは、親や学校、教育委についてまず考えるのは、自衛のために彼らを「どう利用するか」です。

そうした思考法は、「ふとどきな思考」と批判されるのがまず世の道徳思考というものかと。「そうゆう考え方をするのは人間として正しくない」と。たしかに道徳観念のへったくれもない思考法です。

しかし、無限の方策と可能性を生むのが前者。ただしその可能性は、「思考法の選択」の時点においてはまだ「未知」のものです。
後者は、「人間としてあるべき正しい考え方」をその時点で「獲得」します。それで何を得るかというと、「自分は正しい」という感覚を、得るわけです。

それからちょっと時間を経ると、ある特徴的な姿が見えることになります。
前者は、多分のびのびと生きている姿。後者は、「追いつめられて」いる姿というのが、どうも浮かぶ。
追いつめられている様々な状況を話題にし、どうすべきか、何が正しいのか、そして人がどうするべきかを議論するわけです。最初に書いたいじめ問題のように。

なぜサバイバル思考ではなく道徳思考をすると、やがて「追いつめられる」ことになるのか。
後者では、「自分が何をするか」がなくなるから。
「何が正しいか」なので。あとは「人が」の世界。「自分が何をするか」がなくなりゃー、追いつめられるわなという感じ。これはあまりに当然の話。


■「自己の重心」と「心の生命力」

さて、タイトルに書いたように、冒頭のいじめ報道の4者の姿を、僕は4者4様の「自己の重心の喪失」だと直感的に感じた次第。
いじめに遭う者の視点としての、「自分はどうするか」がまったくない。とっても受身で、「あるべきでないこと」を嘆き怒るのみ。

直感的に感じたのは「自己の重心」の喪失ですが、話の中身を考えると「サバイバル思考」「追いつめられていく姿」という話が浮かんできて、それは上には書かなかったけど「今という現実を生きる」という話でもある。道徳思考ではそれが失われ、自分から動くことがないので、やがて追いつめられる。

なんか話がうまくまとまらない感もありますが、要は、ハイブリッド心理学での新しい概念を考えようかと思った次第。

それは「心の生命力」。今まで言葉を出したのは、心の「自然成長力」と「自然治癒力」でした。「心の生命力」とは、その根底にあるエネルギーのようなものということになります。
まこうした言葉を定義しないままだと、「生命力」は「身体」に属するものだけを捉える言葉にとどまります。そうではなく、「心」が持つ「生命力」。実際、命がぎりぎりに維持される場面では、心の動きが実に大きな要因になります。

「自己の重心」とは何か。それは自分の心に起きる思考感情そして感性が、自分と他者の間のどこに重みを置いて感じ取られるかを指します。「自分が怒った」と「相手に怒らされた」。感情を自分の心の中の出来事と感じる感性と、感情が人に映し出され、本来は自分の心の中にあるはずの感情が、他人の中にあると感じる感性。

自分はどうするか」というサバイバル思考では、「自己の重心」はより自己に近づき、「何が正しいか」「人が」という道徳思考では、「自己の重心」は自己から離れていく
前者は、「今という現実」を生きる心を育てる。後者は、空想を生きる心を膨張させる。

「自己の重心」とは、「心の生命力」に近づくことを意味するのだ、と言えるかと。だから、心の自然成長力と自然治癒力が発現する。
これがハイブリッドにおける「自己の重心の選択」の理由説明になるかと。

そうやって発現する「心の生命力」をどう方向付けて使うか。それが「破壊から自衛と建設へ」となる。「現実において生み出すことに生きる」という、最終的な「生きる姿勢」となる。

まこうした基本的なことを、「怒りの有害性」という話から初めて全部つなげて分かりやすく心理学本に整理する次第。
目次を全面的に改めて整理しており、すぐ掲載予定。


■「追いつめる」のは..

きのうもそんな風にビール飲みながらの夜長となった次第ですが(毎日のことじゃありません^^;)、ある心理関係の知人のサイトを眺めていて、世の追いつめられ疲れ果てた人々への癒しが必要という感じの言葉を見たりしました。
まあ本人自身が「ぎりぎりの精神状態の中でがんばって私も生きてます」なんて言ってた、けなげな頑張り屋さんなんだけど。

その知人本人に伝えることはしませんが、思わず声をかけてあげたくなった次第。
「いや、追いつめているのは、自分自身なんだよ」と。


心の表と裏のメカニズム-2 / しまの
No.1104 2006/10/17(Tue) 13:09:40

■「他人への怒り軽蔑」の裏メカニズム

「感情の膿を起点にした心理メカニズム理解」としてまず説明しますのは、先に「この感情に入れ込むと治癒成長が完全に止まる」感情として指摘した、「他人への怒り軽蔑」です。

このメカニズム説明をに書いてみましたので参照あれ。結構細かい内容を盛り込み大きな図になったので、くっきり見るために最大表示してもらえれば。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro7.jpg

以下で要点など。


■「6人がかりで押さえ込まれる」ような「他人への怒り軽蔑」自動感情

まず「他人への怒り軽蔑」感情は、感情の膿があるとほぼ不可避に起きます。
これは感情の膿から自動的に起きる、およそ6つの心理メカニズムによって四方八方からその感情へと意識が強制されます。まるで6人がかりで押さえつけられたような話で、まるで抵抗などできたものではありません。
できるのは、これが感情の膿を起点にした心理メカニズム現象であって、現実の他人と自分の関係を示すものではないという知性を、いかに保つかです。

6つの心理メカニズムを簡潔に説明すると以下の通り。図では赤茶の丸数字を書いています。

1)まず感情の膿を抱えた生育来歴によって、他人への攻撃的軽蔑感情がどうしても生まれます。これが次の精神性理想が否定抑圧をすることによって、意識表面からはうまく行くと消去されますが、根本解決はされていないことを、障害として受け入れることが重要です。
なぜ攻撃的軽蔑感情が不可避に生まれるかというと、「弱さ」から必然的に生まれます。
(参照:9/28「ハイブリッドの基本から「心のリロード」へ-1」)

2)感情の膿への防御として、精神性が現実から乖離する形で、精神性理想が抱かれます。とにかく精神の中で、現実を脇において、ある理想が一人歩きする。

3)精神性理想からは、自分の中に生まれた攻撃性は自己嫌悪が向けられます。これは、感情の膿から発生する攻撃的軽蔑感情が「欲求の皮相化荒廃化」の結果でもあり、そこに含まれる残忍な破壊性などは精神性理想からは最も許されない感情色彩のものだからです。

4)そこで「アク抜き」メカニズムが発動され、自分の中においてはそうした残忍な破壊性を否定抑圧し、それを巻き込む恐れのある一切の望みを停止することにおいて、自分が精神的に優れた存在だという幻想的自尊心が生まれます。同時に、意識からは消去された「皮相化荒廃化の色彩」である残忍な破壊性が外化され、他人が一般的に悪意に満ちた存在に映ります。

以上は意識下にて起きます。次から意識表面に現れます。

5)その幻想的自尊心の表現として、悪意ある他人への怒り軽蔑が、意識の表面に現れます。
これはプライドをかけたような、信念の怒りのような感覚になります。これを信じ切ってしまうことが、まさに障害にまるまる自分から加担することになってしまいます。
これをいかに障害メカニズムだと知的に疑えるかが、治癒への鍵になります。

実際のところ、この感情の確信度が、障害の深刻さとほぼイコールだというのが、結構な事例に接してきた僕としての実感です。
ぜひ考えて頂きたいと思うのは、この感情によって思考する時、自分の心理障害がまったく度外視されてしまっていることです。一方で、心理障害に悩む自分を自覚しながら。
我々の心は基本的に多少狂いがあるというのを前提に、自分の現実を損なう姿勢から軌道修正する姿勢が大切です。


6)その感情は基本的に強い敵対姿勢を生みますので、それに対する他人も当然、敵対姿勢を持つという感覚が起きます。敵対感覚の応報です。

なお図では線だけ書いて数字は入れませんでしたが、この怒り軽蔑と敵意に強情さを供給するのが、感情の膿の「追い詰められ」感覚です。
2005/12/29「自己操縦心性の成り立ち-18:背景その2自己処罰感情の利用-3」「自己主張する時の強情さと融通のなさは、追い詰められた獣の直情の性質を帯びる」と説明したものですね。


■克服解決への指針

上述のような障害感情の根本的克服解決への指針は、極めて明瞭です。

まず上述のように、意識に表れた他人への怒り軽蔑の感情を、障害が生み出したものであり現実を表すものではないと、いかに知的に疑えるかが鍵になります。
そして一方で、「現実において生み出す」という価値観をいかに築き、それに向かう姿勢を作れるか。

これは「治るためにとにかくそう考えてみる」という付け焼刃ではなく、心底からのじっくりとした納得として得ることが重要です。そのためには、障害感情の動きと価値観姿勢との関係を、自分の感情体験において知っていくことが必要になるでしょう。
たとえば、他人の欠点を怒る感情は、自己存在をその相手に依存する姿勢の中で生まれます。自ら建設する中では、人への怒りは不要です。

これができると、いずれ、現実において生み出す姿勢を保ちながらも意識が感情の膿に触れ悪感情が流れる、「感情の放出体験」につながります。
すると障害感情の中で、「この感情をどうすれば」と思考したのが全くの無効なものになったかのように、障害感情の大枠そのものが消えます。

この状況を理解頂くために、感情の膿という全く見えないものを原因にして、他人への怒り軽蔑とは全くつながりのない、別の障害感情症状が起きていることを、把握することが大切です。
その代表が、図の左下に書いた、「生の空虚化」という症状です。これは主に「望みの停止」と「感情の強制」という症状と強く結びついています。
つまり、怒り軽蔑を向ける他人が存在しない、自分一人の状態に戻ると、「生」が空虚なものに感じられるという、全く別症状が現れることです。

他人への怒り軽蔑を、障害として知的に疑う姿勢の先に、そうした全くつながりのない症状も一挙に消えるという治癒メカニズムの発動があるわけです。
「他人への怒り」と「生の空虚」という、意識上はまったくつながっていないことが、心の底では実は密接につながっているという、心理学の目を持つことが重要ですね。

これが主に「取り組み前期」における、障害感情とその克服解決への動きのパターンの代表です。
前期課題としては、とにかく自己操縦心性の支配力を弱めるということになりますね。

もう一つ、「取り組み後期」での代表パターンを次に説明しましょう。
望みの回復」を契機とした動きとなり、自己操縦心性の弱化から先に進んだ、「自己の本性の開放」へ向かう原動力メカニズムということになります。


心の表と裏のメカニズム-1 / しまの
No.1103 2006/10/17(Tue) 11:28:08

■治癒成長への原動力サマリー

引き続き治癒成長への「原動力メカニズム」の解説。ガソリンは何かと、アクセルの踏み方の話ですね。

でまず原動力つまりガソリンの最も基本は、「現実において生み出す」という姿勢であり方向性です。これが生む諸々の「豊かさ」が、障害を乗り越えるための力を与えてくれるわけですね。
ただしその方向へととにかくアクセルを目一杯踏めばいいわけではなく、自分自身の障害というものを知りながら、必要に応じてアクセルを緩めることも大切です。これは「自分を深く知る」という側面です。

そして最終的に治癒成長への姿勢として決定的になるのは、この両面を結合させた姿勢である、「障害の中で生み出す」という姿勢になる。
先の「「生き方」「障害」「再生」という視点での「道のり」と「原動力」-2」で言った通り。

そしてそのためには、「感情の膿」という「見えないもの」を起点にした自分の心理メカニズム理解というのが極めて重要になってくる。
これができると、ガラリと進む方向感覚が変わってくる。最近時々それを表現している「ただ流すだけだと20年かかる変化が1年で起きる」といような根本変化への基盤となる次第です。


■感情の膿を起点にした自己心理メカニズム理解

で今回は、その「感情の膿を起点にした心理メカニズム」解説になります。
これは9/11「今後の執筆予定など\(^^)/」「心の手術の術式」みたいな話として予告したものに該当します。
心理メカニズムの細かいレベルで、どの感情にどんな姿勢を取るのがいいか、それは何故か、それによってどんな治癒が起きるかという話ですね。

それは基本的に「見えない」ものである感情の膿が焦点になります。
感情の膿というのは、意識がそれに触れた時は、意識が破綻するかのような悪感情に飲み込まれ自滅的な行動をしてしまうのをいかに保つかだけがただ努力可能なものになってしまいますが、その実体はむしろそうして「流れ出て」はきていない、表面下の見えない部分です。

それが分かるのは、感情の膿が流れ出るのを、「現実において生み出す」方向を向いた姿勢の中でやりすごすことができ、流れ出た分だけ感情の膿の総量が減少する「感情の膿の放出」に成功した時(ま本人の意識においては「成功」なんて感覚は微塵も得られませんが)、感情の基調が一段階良好なものへ、そして「現実感」が増したものへと根本的に変化する、その前後の違いを感じた時です。

目にまず見えるのは、一段階良好なものになった意識基盤です。
あと事実としてあるのは、それが「感情の膿が流れる」悪感情を経た前後の違いであること。
心理障害の根本治癒は、この形で起きます。
思考法行動法の修正による気分の改善もありますが、「現実感の増大」までは思考法だけでは起きません

ということは、もろもろの障害感情と、全く見えない感情の膿の実体部分が、実はセットで存在したということになります。
今起きる自動感情は、全く見えない感情の膿を原因にしているということになります。
このことを考慮せずに、今起きる自動感情を、目に見える他人と自分の間で起きているものと感じて考え行動してしまうことが、実は心理障害が生み出す不合理にまるまる乗っかる話になるわけですね。
これはもちろん心理障害を維持膨張させるだけの話であって、その克服など到底見えたものではありません。

「今起きる自動感情を見えない感情の膿を起点に考える」。これがアクセルの基本的な踏み方ということになるかと。
目の前に見える光景には、裏があるということですね。それを計算に入れて、車のハンドルを回すのがいいと。

これを前振りとして、次に具体的説明へ。


「生き方」「障害」「再生」という視点での「道のり」と「原動力」-2 / しまの
No.1102 2006/10/11(Wed) 13:06:15

先のカキコの続きとして、取り組み意識における要点を書いておきますと、以下のような感じ。

1)「生き方」の検討

「評価の目に生きる者はやがて自らの評価の目によって見下される人間になり、生み出すことに生きる者はやがて自らの人生を得る」。
この「人生の法則」(なんかどっかで聞いた言葉^^;)をどう考えるか、自分の人生観として真剣に問うことです。

これはハイブリッド心理学の学習を進める中で検討して頂きたいことです。思考法行動法心理メカニズム。そうした具体的な視点を増やすに従って、「生き方の選択」もより具体的かつ広範囲に生活の中に適用できるようになります。そしてそうした「選択を生きる過程」の積み重ねが、「心の成長」につながる。

ここで「自分を変える」ために働かせるのは「知性と意志」であり、「変える」ものとして向かうのは主に「外面生活」です。
感情を変えるのではありません。感情を変えようとする姿勢が、問題の根本です。
一方、「知性と意志」は「感情」から多少の独立性があります。これを如何に働かせるかになります。
「根本選択」としては、「破壊から自衛と建設へ」というのが主に関わります。


2)「障害」に向き合う

上記では「問う」ことが答えになりますが、ここでは「問わない」ことが答えになります。
「問う」のは「知性と意志」。「感情」は問うのではなく、むしろ「看取る」という姿勢を向けます。
「知性と意志」と「感情」を分離して、全く逆のような姿勢を取るのがキモになります。これは「感情と行動の分離」という大原則の一貫。

まず「自分を深く知る」というのがここでの取り組みであり、感情分析の実践。感情分析とは要は、「自己の重心」という根本選択に立った自己理解の技術です。

「看取る」姿勢を持てるためには、「こんなことは起きるべきでなかった」という思考法を完全に脱することが重要になってきます。
神の国から放たれた野へ」という、サバイバル世界観否定型価値感覚の完全なる放棄が重要になってくる。

ありがちなのが、「評価に生きるから生み出すことに生きるへ」というテーマを知ると、生活外面についての思考法行動法に全く目を向けないまま、「評価に生きることに価値を感じる感情」になろうと、じっと自分の内面に見入る姿勢です。これでは全くの今までの姿勢そのままの焼き直しです。
実はこれが取り組みされてる10人のうちほぼ10人が判で押したように面白いように(いや失敬^^;)そうなるというシロモノです。まあそれが自己操縦心性の変幻自在な百面相という本質でもあります。

「知性と意志」。それと「感情」。これについてそれぞれ全く逆方向のような「選択」をまずする。
次にこの2つを、さらに合体させた高度なワザ(?^^;)を次に作る。


3)「障害の中で生み出す」

「生み出すと同時に看取る」という人生の体験へと積極的に向かう姿勢と言えます。これは「真の自己受容」です。
ここでのポイントは、「目に見えないもの」を、自らを導く軸としてしっかりとつかむことです。自分が向かう方向を、「感情」でも「思考」でも「行動」でもないものを基準に考えるようになる。

その自分が向かう先を考える上で基準にする「見えないもの」とは、まずは「現実を生きる感覚」ということになるかと思います。
これはつまり現実覚醒レベルの向上した感覚です。これと、「評価に生きる」中にある時の、空想的自己感覚との違いを、はっきりと意識して頂きたい。上記の2段構えの取り組みで、まず治癒効果としてこれを得ることが、取り組み前期達成の一つの節目になると思います。

そうした「現実を生きる感覚」の先に、「生み出す」ことがある。対人関係や人とのつながりも、それに立った行動の先にあるということを、しっかりと知ることです。
これは最後には、「愛する能力」の感覚になってきます。「魂の成長」を感じるという世界。

まず最初に基準としたい「見えないもの」は、「現実覚醒」という、意識の外枠での変化感覚です。これは「生み出す」側面。
次に基準としたい「見えないもの」は、「感情の膿」を基準にして自分の心理メカニズムを理解することです。


「感情の膿」は、流れた時の苦い感情よりも、埋もれたまま見えない部分がその本質です。それによって、意識の外枠全体が歪みます。我々はその中でしか感じ、考えることができない。
これを、「感情の膿を起点とした心理メカニズム」を理解することで、全く見えないものが起点になって自分の感情の枠ができていることを、自分の人格構造を外から俯瞰する目で理解することです。

そして上記の「現実を生きる感覚」の先に得られるものが、自分のどのような「感情の膿の放出体験」によるものであるかのかを、実感として理解することです。
これができると、進む先についてのイメージががらりと変わってきます。感情が「こっちに行け」と言うのとは全く逆の方向に道があるのが、はっきりと見えてくる。
あとはそれを進む、人生の時間です。それは「生み出す」ことが同時に「膿を出す」(洒落じゃないけど^^;)という感じになってきます。

「感情の膿を起点とした心理メカニズム」については、ハイブリッドとしてもう少し解説が必要です。今後それを掲載の予定。


という感じで、自分が今どの位置にあるのか分からない時は、基本的には上述の頭から、一つ一つじっくりと確認してもらうのが良いと思います。
最終的には「多面を同時に見る」という心の動きの中に結実するのですが、実践はまず一つ一つ分けてじっくりとが基本です。そうやって一つ一つが定着した先に、多面同時の動きというものが見えてきます。
焦らず進めましょー\(^^)/


「生き方」「障害」「再生」という視点での「道のり」と「原動力」-1 / しまの
No.1101 2006/10/10(Tue) 14:09:26

ハイブリッド理論としてほぼ整理が完了したのは、
1)心理メカニズム
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro.jpg
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro2.jpg
2)治癒メカニズム
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro3.jpg
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro4.jpg
3)治癒成長の道のり
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro6.jpg
ということになっており、最後に「動機」を云々し始めましたが、要は「原動力」という最後の領域の話になります。
地図と車があり、あとはガソリンは何なのか、どうアクセルを踏むのかという話ですね。

でこれの「原動力」の話を随時モノで引き続き整理しているのですが、先のカキコの「生き方」「障害」「再生」という視点を入れると以下のようになるかと。

1)自分の「生き方」が向く方向性を知る。そして選択を問う。

これはhttp://tspsycho.k-server.org/img/kokoro6.jpgでの「大方向転換」の前の、取り組み前期にほぼ該当するものになるかと。
その図の『取り組み指針』に書いたように、「自己を深く知り現実を生きるスキルを学ぶ」という過程。
感情分析を開始し、自己操縦によるごまかしを解いていくのが重要になります。外面において変えられるものは変えていく。

2)障害によって選択が成し得ないことを理解する。ここに真の選択が現れる。

これは自己を深く知る過程が進み、自己操縦姿勢の根本を直視できる状態になった段階です。上述のような、感情分析や生きる姿勢取り組みで変えられるものと、微動だに変えられない根底を、はっきりと知ることです。
「感情の流動性の自覚」は、これを可能にする通過点と考えることができます。

「生み出すことに生きる」を願いながらも、生み出すことに生き得ない自分の心を知るというステップになります。
ここで真の選択が問われることになります。「否定型価値感覚の放棄」です。

3)「障害の中で生み出す」ことに生きるという選択。

「再生」につながる、ハイブリッドの奥義の世界(^^;)です。
これは「真の自己受容」に該当します。このために、「心のリロードを視野に入れた客観思考」が重要になってきます。
これは精神論ではなく、「感情の膿を前提にした自分の心理メカニズム理解」という、「感情を超越した心理学思考」が極めて重要になってきます。

まこの超サマリーでは何のことやらという感じと思いますが、ま僕自身の整理ということで。
詳しくはいつかまた〜^^;


「生きる姿勢」の究極のベクトル / しまの
No.1099 2006/10/10(Tue) 00:36:55

ちょっとメモがてらですが、「生き方」と「障害」のクロスだという、取り組みの最も大枠についての超重要な視点の表現が浮かび。

話は実に単純なのだと。
「評価の目」に生きようとする者は、やがて自らの「評価の目」によって見下される人間になる。
「生み出すこと」に生きようとする者は、やがて自らの人生を得る。
「生き方」については、この選択肢となる。

「障害」がクロスするとは、「生み出すこと」に生き得ない自分の心を知ることである。
それを自己叱咤し否定しようとすることは、「評価の目」に生きることである。
それを「障害」として認め絶望と共に生きることが、「生み出すこと」に生きることになる。
パラドックスです。

これが根本。これがいかに複雑怪奇な心理メカニズムの裾野を持って広がるのかを、整理するということかと..。


 
「生きる姿勢」から「人生」へ / しまの
No.1100 2006/10/10(Tue) 10:40:26

そして「障害の中で生み出す」ことを知った時、「再生」という最も深淵な心のメカニズムの発動が生まれる。
これがまさに「人生」なのだ、ということです。

うん、「生き方」「障害」そして「再生」。この3命題ハイブリッドの最も根本の命題ということですな。


神、神、神..^^; & 「広義の原理原則」 / しまの
No.1098 2006/10/08(Sun) 09:45:31

珍しくつれづれ時事ネタなど。ここ最近印象を受けたニュースなどまとめて。

また一つ世界の犯罪史に名を残すものが起きてしまったと感じた、悲惨な出来事が起きてしまったのが、2日米ペンシルバニア州のアーミッシュの小学校で起きた、10人の女子生徒を人質にした上での発砲事件。内4名に加え、教員助手の女性1人が死亡とのこと。

今日の読売朝刊にその後の判明事実が載せられており、その時死亡した13歳少女マリアン・フィッシャーさんが、年下の仲間を救おうとして、「私を最初に撃って他の子たちは開放して」と訴えていたことが分かった、と報じていました。
なんとも痛ましいことです。一命を取りとめた妹が家族に語ったとのことで、この妹も「次は私を撃って」と訴えていたとのこと。
アーミッシュと言えば、恐らく現代社会で最も信心の厚い人々のように感じるのですが、そうにして、そうした行動が可能になったのか..との感を覚えます。
これを伝え聞いた人の「何と勇敢だったか。神様が勇気を与えてくれたのだと思う」という言葉が報じられていました。

一方、犯人は直後に自殺し、動機は不明だが、女児たちの「なぜこんなことをするの」との問いに、「神に腹を立てているからだ」と答えたとのこと。
なんともいやはや..。

時は9.11の米同時多発テロから5年目で、新たに特集報道が組まれているのを幾つか見ましたが、WTCビルに突入しようとした時犯人が叫んだのは、「偉大なる神よ!」というものだったとのこと。
壮絶な脱出劇を経た人々の様子にも随所に見られるのが、「神さま..」という心の声。
何とも、神、神、神..。

「恐怖の克服」と、いろんな意味での「勇気」を与えるものがそうした「信仰」なのが脳のメカニズムなのだろうが、改めて「信仰」が両刃の剣であるのを感じる次第。

ちなみに僕自身も、「魂の成長の成り立ち」シリーズの終わりの方で書いたように、案外「信仰」の感覚を持ってたりするのですが、「死ぬ時には神の国に還る。それでは放たれた野で生きる」という感覚であり、今生きている「現世」の中で「神」を擬人化してイメージするものではないので、生きている中で「神よ..」という感覚はないような気がします。


あと一つ最近のニュースとして印象が強いのは、「信仰」とは全く関係なく今度は「原理原則」の話になってきますが、滝川市の小6女児が去年自殺した件で、滝川市教委「いじめの認識」に不備があったと取り上げられ、5日になって滝川市教委はそれまでの不備を否認する態度を一転、遺族宅に謝罪に訪れた様子が報道されていました。
滝川市長までが同行し、土下座する姿が実に奇妙に思えた次第。「分からないなあ..」と口にする。

何が奇妙かというと、その姿は「加害者」の姿なんですね。市教委および市のミスによる人災事故があった場合に、その姿になる。
何とも分からないのは、事の根本である小6女児の自殺が起きてしまったことそのものに対する、市教委および市の関係が、良く分かんない。
まあ実際、そこで取り上げられているのは小6女児の自殺ではなく、それに対する市教委および市の「態度」なわけです。これはもう小6女児の自殺発生とは、ほぼ無関係です。
もっとも、そうした出来事を防止し、もし起きた時なら遺族の心を癒し、後に役立つような手を打つことが、彼らの役割です。これが出来ていたら、彼らは信頼されこそしても、土下座して謝らなければならない姿には、本来はならないものです。

これはまあ、無機質な狭義の原理原則だけに捉われ、情緒まで絡む広義の原理原則を見誤った例だと言えるでしょう。
法を持ち出せるような狭義の原理原則においては、「いじめの事実は確認できていない」は案外それで正しかったりするかも知れない。僕が小6女児の「遺書」など見た範囲でも、これはどうもはっきりしたいじめ以上に心理障害的な問題が絡んでいるかもと感じたりします。
しかし広義の原理原則においては、まずは学校側の対応不備を追究し改善するのが役割であって、学校の弁護をするのが役割ではないわけです。ところが彼らは逆の行動をした。
この結果、彼らは「加害者」になってしまったわけです。

こうした「広義の原理原則」への目の重要性も改めて認識させてくれたニュースでした。


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