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過去ログ
2007.05


さすがにたまげた / しまの
No.1241 2007/05/28(Mon) 19:17:36

ジョギングから帰ってTVをつけたら「松岡農相のお通夜」という文字が目に飛び込み、一体松岡農相の誰のお通夜か..と良く見たら松岡農相が自殺とのことで、最近よっぽどのニュースにも驚かない島野ですが、これはさすがにたまげた。

というのも、まあわざわざ解説するほどの話でもありませんが、原理原則的には、松岡農相の政治資金関係の問題は、安部総理がかばっている通り「法律に基づき説明した」とのらりくらりでしのぐか、もしくは腹をくくって自分の非を認め、辞任するなりの潔い姿勢を示せば、それで事は片がつくというのがまずは行動学なわけです。
まあもちろんこれは行動学の話であって、それで道義的なんやらの情緒的問題まで片がつくとは言いませんが。

それを「自殺」とは。。
まあこれはもう「いわずもがな」ですが、「光熱費に500万はナントカ還元水..」なんていう見当はずれな答弁を作ったことからして、この結末という、ヘタな行動学の持ち主だったということになるのでせう。ちなみにアルカリ還元水は僕も浄水器買って使ってる^^;

ま本人の苦しみは察し余るものだったと思いますので、安らかにと祈るのみということで、合掌。


残された問題への視点 / しまの
No.1240 2007/05/28(Mon) 14:22:21

18日のカキコの通り、治癒成長への答え極めて明瞭になっており、一言でいうと「心」と「魂」という2領域それぞれに一つの答えがあるということになります。
「心」においては、穴埋め型の自尊心から「自律型自尊心」へ。
「魂」においては、共鳴愛への願いの挫折を置きざりにしたままの、愛情要求もしくは敵対衝動から、大元の共鳴愛への願いの感情へ。

これは、「心」と「魂」という2領域それぞれにおいて、「障害の膨張」と「治癒成長」を分ける境目が明瞭にそれぞれ一本引かれることを意味します。
これを先日の絵に加えてUpし直しましたので参照あれ。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro12.jpg

で残された問題は、この境目において両者を分ける、決定的な心の要因とは何かです。これはつまり、その決定的な要因に着目してもらうことが、治癒成長への明確な方向性が見えることにつながることを期待できるものになるということです。
でこれをそれぞれ以下のように、現在考えとります。

1)「幼児型自尊心」

まず「心」においては結構明瞭かと。
これは絵にも加えておきましたが、「自尊心」の種類として、「幼児型自尊心」という考えを入れようかと。

今までこの手のネーミングは安直に過ぎることが多く敬遠していた傾向がありますが、これは自尊心のあり方についてまさに「反省」を促すのがいいかと考えています。
「幼児型自尊心」というのは、要は「前の前の相手」に勝ったり誉めたれすることで自尊心を感じるというタイプの自尊心です。「前の前の相手」に言いくるめらるれなど負かされたり、けなされたりすることで、自尊心が傷ついたと感じるタイプの自尊心。

これに対し、先日のカキコで答えになると言った「自律型自尊心」は、「成熟型自尊心」です。
「目の前の相手」ではなく、広く「世界を知る」というのをベ−スにして、世界全体における自分の優劣位置付けを知る視点による自尊心です。

「自分の優劣位置付け」が自尊心において問われるという発想は、残り続けます。これについて、「真の自尊心は優越には関係ない」とかいう、安直な気休め的発想は、僕は言うつもりはありません。まさにこの点についてシビアに、自己の全ての可能性を尽くすことに人生があると考えており、努力をすることもなく何の優越性も獲得しないで終わると、単に人生において負けた人間になるだけだと考えています。
まさに、「自分の人生に負けた」者になると。

問題は、「優越」が「幼児型自尊心」の中で考えられてしまうことにあります。幼児型自尊心とは、とにかく人目を浴びる、目立つことを優越の材料と感じる感性です。
成熟型自尊心は、それを超えた目を持つ自尊心です。「姿」よりも、何が生み出されるか、何をスタートラインにしてどのように前進したかに、より多くの価値材料を見出す感性です。

この視点からは、全ての人間が、唯一無二の優越者になり得ます。なぜなら、全ての人が、唯一無二のスタートラインに立っているからです。今の、そして結果の「姿」ではなく、スタートラインからの前進を、成熟型自尊心は見ます。そして成された前進に、感動し、それを褒め称えます。

ということで、自分の自尊心が「幼児型」か「成熟型」かという「反省」は、有益ではないかと。
「幼児型」というと、安直な自省をまねき、「これが悪いんだ」という自己否定につながりがちですが、この点においては、安直な反省でもおおいに結構「幼児型自尊心の自分は駄目だ!」がまさに幼児型自尊心になりますので、それを含め、では成熟型自尊心だとどのように考えられのか、考えてみるのがいいですね。

自尊心の内容というのはもともとかなり知的に考える問題なので、こうした単純な道しるべで充分役に立つのではと。

2)自己嫌悪の起源:「原罪感情」

一方、「魂」の側で「共鳴愛への挫折」に再び向き合うか、それを否定し去り遠ざかろうとする「愛情要求」もしくは「敵対復讐心」に向かうか、この境目を決定づけるのが何かは、僕の中で、つまりハイブリッド理論として相変わらず残された問題と感じているのが現状です。

「幼児型自尊心」遠ざける要因として取り組み課題になるのは間違いないでしょう。「幼児型自尊心」は愛情要求と敵対復讐心という、魂の大元の願いから遠ざかる感情と結びついています。そして我々が「使える」のは結局「心」の方なので、自尊心として幼児型と成熟型のどっちを取るかが、大勢を決めるものになる。

成熟型自尊心への転換が、心に多くの「肯定の芽」を生み出すと考えています。そして実際に成熟型自尊心への方向性の中で、外面における建設的思考法行動法によってある程度の内面の自信を得ることが、魂の側での方向転換に向かうための、いわば安全な帰港場所になる。

ここで、愛情要求と復讐心が強すぎて、そもそも「自尊心」がトータルに見えないケースも考えられます。こうしたイタチごっこはどこでも起き得ますが、イタチごっこを追うのではなく、トータルな「自己放棄」がまず起きていることに取り組むのがいいでしょう。
そしてその後は、やはりとにかく「心」の側にアプローチです。

成熟型自尊心への方向性が生み出す「肯定の芽」と、来歴の中で骨の芯まで染み付いた「否定価値」との内面戦争が、一つの大きな道標になります。「否定価値の完全なる放棄」というのが、やはり最大の中間道標であり続ける。
これがいつどのように成されるのかが、最も難しいところになるでしょう。この正確な定義がハイブリッドに残された課題かと。

難しいのは、これは「空想立脚」という、思考法や心の姿勢だけの問題ではなく、「現実覚醒レベル」という「障害」の問題に関わってくることです。
現実覚醒レベルが低いとは、それだけ魂が弱い状態と言えます。「心と魂の役割分担論」では、現実を志向するのは魂の役割です。魂が弱い状態として、愛情要求と敵対復讐心に流れ、空想立脚の意識土台になると。

で、この状況を解く鍵は、「恐怖の克服」であり「自己嫌悪の起源」だというのが今の考え。アプローチは、恐怖の正体を知ることです。これを感情分析で行います。
そして恐怖の正体は、必ず、外部ではなく内部へと移っていきます。これは残念ながら恐怖が減ることではなく、恐怖の正体についての認識が変化する効果だけです。


向き合えない恐怖が、「与えられるべき」という感性論理の歪みを生み出し、問題が自分の内部から外部へと映し出される。
これは知的思考では全く解けない問題であり、感情分析でその中核へと自ら問題を紐解いていく意志が、まず必要になります。また感情分析だけではなく、いったん外面への恐怖を減らすという、長い下積みも必要になるでしょう。

そうやって、外部に恐怖の大元があるのではないことが分かってくると、初めて、自分の内部に、何か良くわからないものがあるという疑問感が現実味を帯びてきます。
これで、ようやく、「魂」の側において「膨張」への方向性がやんできます。境目に至るのはまだまだ先で、これでようやくその第1歩が始められるという状況。

この先が、ほとんど「未知」になります。外面への恐怖は次第に減少する。ただし自己の内部への恐怖は、減りません。やがてその正体が次第に明瞭になってきます。
次第に明瞭になってくるのですが、それは同時に、今までの日常言葉では表現できないものであることが明瞭になってきます。
それが「感情の膿」であり、「魂が抱く恐怖」なんですね。

それへのアプローチが極めて重要になってくる。
基本的な考え方を言いますと、恐怖は基本的に、自己処罰感情への恐怖です。自己処罰が自分の外面ではなく、内部に向けられるものであることが分かってくる。つまり、自己嫌悪の正体が何かということが、外部から内部に移ってくるわけです。
その先に何があるのかを、明確にするのがハイブリッドの残された課題

そして、自己嫌悪の正体が外部から内部に移っていき最後に現れるものが、ハイブリッドで「原罪」という言葉を使う自己嫌悪です。
言えるのは、そこまで行けば、今までの意識の全てがはじけて新しい意識土台がリロードされるということです。現象としては、それが間違いのない話です。

この、「自己嫌悪」と「恐怖」が決定づける「意識土台」という構造、その質的変化のメカニズムを解明するのが、ハイブリッドの残された課題ということになりますね。
まだまだ、壮大な心の領域が残されているという感じ。最初の心理学本では、多分ほんの1行程度(^^;)この未知の領域が広大にあることを示唆するのでまあいいかという気分。

ま昨日の夜、そんな新しい話なども頭にめぐらせたので、メモがてら徒然なるままに書いた次第ですが、思い浮かんだのは、実は「魂と心の分離」こそが「原罪」なのではないか..という発想だった次第。

まあこれは後の課題として、とにかく最初の心理学本の原稿をまとめねばp(^^)q


さっそく最新解説の絵などUp / しまの
No.1239 2007/05/18(Fri) 16:45:44

さっそくですが、最初の心理学本で説明に使おうと思う絵など作りましたのでUpします。
例によりかなり細かいのがちょっと悩ましい所ですが、かなり分かりやすくなってきたのではと。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro12.jpg

結局のところ、「感情の中身」としては、「愛の挫折への見返しとして自尊心を追う」というのが問題の根源なわけで、それに恐怖の問題やら価値観思考やらの尾ひれがついて、心の障害というものが生まれる。

解決は、「自尊心」の3態の中での「自律型自尊心」にあるということになります。目の前の相手にどう見られるかではなく、自分を下に見た目を見返すためでもなく、広く社会と世界を知る目を持って、「楽しみ」という感情を基本的な羅針盤にして、自分が生み出すことのできる価値を追求することです。

そうして「穴埋め型自尊心」依存型自尊心敵対型自尊心)は本来の自尊心ではなく愛の挫折の問題として分離し、自律型自尊心によって得る自信と安心感によって、愛の挫折への対処については、大元の魂の願いに向き合うという方向性です。

これは「怒り」が「悲しみ」に変わるのが意識表面で、根底では魂の成長が起きるというのが答え。
これがかなり確実な答えとして言えますね。

あとはさまざまな尾ひれがついてこれが見えなくなるというのが、話が膨らむ部分。今まで長いことかけて精緻なメカニズムを追っていたのはそれなんですが、芯にある問題と答えの軸は、極めて明瞭なわけです。
心理学本は、尾ひれの難しさを切り捨てずにうまく整理して、その明瞭な答えを分かりやすく解説するものにしたいですね。


最初の心理学本原稿へとまい進中! / しまの
No.1238 2007/05/18(Fri) 12:36:38

ということで、近々「次の著作予定」を更新できると思いますが、かなり構想を一新して、「分かりやすさ」を第一とした読みやすい本というのを考えています。
読者層としても、高校生くらいから読んでもらえるように、ハイブリッド用語をできるだけ使わないものにしたいなと。まいわゆる「心理学本」で売れる手のもの狙いですね。でへ^^;

というのも魂論でかなり話が明瞭になってきたからですね。
最初の心理学本ではここ最近の掲示板解説をさらに練って、結局心の障害の中で起きる感情はどんなもので、それがどう解決できるのかという結論「一般言葉」レベルでずばりと説明するものを書こうと思っています。

キモの部分は掲示板にUpしますので、今後ともチェックよろしく^o^)v!


「魂に善悪はない」米工科大乱射犯人を含め追悼した米学生達 / しまの
No.1237 2007/05/15(Tue) 17:13:47

カキコしようと思って新聞記事取っておいたのは、先月16日に起きた、米国史上最悪の銃乱射事件である米バージニア工科大学での事件の話。

19日の読売新聞朝刊の記事の最後の方に出ていた、次の文章が僕の注意を引きました。
建築専攻の学生たちはキャンパスの一角の木々に犠牲者を追悼する黒いリボンをつけた。その数はチョ容疑者も含めた33。同じ専攻の日本人学生(22)は「僕は賛成できない」と言いながらも、連帯を大切にしようとする同級生の心情に理解を示した。

僕はこの話を、学生たちの行動に共感を覚えると、「善悪の放棄」の説明として書こうと思っていたわけです。

「善悪の放棄」の説明は、今日書きました。結局、最もその本質は、「魂には善悪はない」なんですね。チョ容疑者の起こした行動は、彼の「心」が起こしたことです。それはこの現実世界においては「悪」であり、もし彼が生きていれば罰せられる必要があります。僕がその審判を下す役割を持つのであれば、もちろん死刑という判断になります。

しかしその彼の「心」が起こした行動によって、彼の「魂」も犠牲になったのだと感じるわけです。
米学生たちの行動は、同じことを感じてのことだったと思う次第。それは被害者側だけの「連帯」のためというのとは、ちょっと違った気がするんですね。

同じ19日のその朝刊一面には、長崎市長襲撃事件への社説が大きく出ていました。この同じ朝刊に出た、似た出来事への、ちょっと違う雰囲気の言葉が、何とも対照的なのを感じた次第。
「絶対に暴力に屈してはならない。」

こっちの言葉には、ちょっと異和感を感じ。
なぜか。いまさらそう言っても、何にもならないような気がしてですね。まあもちろん、暴力は罰せられるべき行為です。
まあこれはやはり「破壊モード思考回路」になっていように感じますね。「〜ではいけない」「建設モード思考回路」だと「ではどうすればいいか」の答えを出します。良く言っているように、精神論ではなく、技術が伴う答えです。

「暴力に屈してはならない」。ではどうすればいいのか。行動学という技術があります。それがないと、「暴力に屈してはならない」と言ってる人間がまた暴力するような結末になりかねない^^;
まあ、僕が言わなくとも大丈夫でしょうが。

いずれにせよ、こうした行動や言葉の違いから、何となく「魂」に向いている人とそうでない人というのが違ってくるんだとうなぁと感じる今日この頃。

少し前の『アンビリバボー』でも、全身不随の息子の車椅子を押して走る米国人アスリートのこんな話が出ていました。
息子はその中で「自分が障害者であることを忘れた」という、生きる喜びを見出す。父親はそのために全てを投げ打ち人生を捧げる。それが何の不遇を嘆くのでもない、ごく自然なことであるかのように。
やがて62歳の時、この父親アスリートは心筋梗塞で倒れるも、その処置の中で、医者に、「体を鍛えていなければ40前に心筋梗塞で死んでいた」と言われる。全身不随の子供が生まれたことは、実は不遇ではなく、この2つの魂を生かすために神がなしたことなのだ、という感じの話として伝えられていました。

そんな話聞くと、アメリカ人ってやっぱ結構魂が強いんだろかなーと感じた次第。

ということで、今後の掲示板ときたまのお知らせや徒然などあった時にカキコします〜。


魂の治癒成長への実践-68(End) / しまの
No.1236 2007/05/15(Tue) 15:58:28

ではこの「魂の治癒成長への実践」シリーズの最後。
このところちょー駆け足であっちこっちの角度からサマったり返答メール紹介したりと、文章レベル統一まるでなしのてんで分かりにくい感じになったかと思いますが、とりあえず僕としては整理できたので..エヘ^^;

あとはまあ、とにかく今度こそこれで正真正銘、執筆作業を出版本側に移し、今度どれだけ分かりやすい説明をできるかを、出版本の方で頑張っていこうと思います
まあともう一カキコ、当面ありますどね。

とにかくの方にこうご期待。質問などは読書広場へどーぞ♪


■「感情の偽装」

「成長」「障害」そして「治癒」へのを、とりあえず文章レベル未統一のまま収めるべきところに収めるための番地整理のようなものだけ駆け足でしましたが、こうして3つの軸で整理したものが、我々の意識で捉えられるものになります。

最後に、我々の意識では捉えられないものが出てきます。
それが「感情の偽装」です。これだけは、そうした3つの軸のどこからアプローチしても、分かりません。分かるのは、自己操縦心性が崩壊した時に、それが「感情の偽装」であったことが分かるだけです。
「自己操縦心性の崩壊が最後まで特別な現象であり続ける」と書いたのは、そうゆう意味です。

「感情の偽装」については、一連の描写の中でを出しました。その41(4/25)の最後の方です。
===========================================
勝手な自己イメージの中で、自分が誇大的に疾走していたのを感じた。それは現実の自分、少なくとも今のこの感情を全く知らなかったから、成立していたものだった。
===========================================

説明は過去してあり、ここでは省略します。やたら詳しい説明(^^;)が以下などにありますが分かりやすいかどうかは読み返さないと何とも分からない。
2006/06/10 自己操縦心性の成り立ち-87-88:「アク抜き」と「アク毒」-6-7
2006/06/15 自己操縦心性の成り立ち-89:「アク抜き」と「アク毒」-8


これを一体どのように解釈すればいいか。魂論としては、です。

まあこれが、「治癒」の軸の最後である「魂の望みに向かう」の先にあるものだということですね。これが「人格脳」の側の変化になるということです。
これは我々の意識の外側で起きることであって、我々の意識はそれについて「知る」ことはできない、ということになります。
だが、それが「ある」ことは分かる

それを通った時、我々は「現実を生きる」ということを、知ることができます。
しかし不思議な話です。そのあと自分の生きている心の世界がどれだけ「現実」なのかを、知ることはできません。言えるのは、自ら望みに向かい現実世界へと行動する「現実性刺激」によって、「空想を生きる」という殻が破られる効果があるということです。

一体何が本当なのか。何が現実なのか。そう考えるかも知れません。
それに対して言えることはとても簡単で、心に現れるものがあれば、それが「心の現実」だということです。それをベースにして、そこから、向上への歩みをする以外には、ないということです。それが今まで述べた、成長と治癒の軸です。

そうした向上への歩みの中で、「魂の望み」に向かうことが、「現実」へと導きます。これについてはその57(5/11)58(5/12)で先に書いてあります。
現実を志向します。しかし魂は現実を知ることはできない。
「心」外界の現実を見ることはできます。しかし「心」は「現実を生きる」ことを知ることはできない。
できるのは、魂の望みに向かう歩みが導く方向へと向かうことだけだ、と。


これはハイブリッド心理学そのものの、一つの限界とも言えます。それが説明することの中には、「我々」には根本的に不可能なことがあると。しかし、「我々」を超えた何かが、それを起こすのも、また現実だとくる。
まあ、これ自体が「不完全性の受容」の一つだとも言えますが、それで終わるものでもない。「変化を成せないことを知ったときに変化が始まる」とも言えます。

まあいずれにせよ、言葉で説明するのは無理な話です..と実に安直な結論?^^;
最初の心理学本をこの言葉で終わらせるかどうかは分かりませんが(たぶん違いそうな^^;)、答えは、「生きる」ことの中に全てがあるということですね。


魂の治癒成長への実践-67 / しまの
No.1235 2007/05/15(Tue) 13:56:25

間もなくこのシリーズ完結近し♪


■「治癒」(続き)

5)自己の受容・望みに向かう

まず「障害の低減」を成し、「障害から成長への転換点」を迎える。
最後に、「障害からの成長への歩み」になります。

これは「自己の受容・望みに向かう」と呼んでおきたいと思います。

「望みに向かう」ということについてはもうあまり書き加えることも少ないかと思います。「自らは望まない」という最大の「自分自身についた嘘」が「障害」である時、「望みに向かう」が大きな治癒の軸になるわけです。
そして「自己の受容」はこの最後でも出てきます。結局これは最初と最後に出てくるということですね。

最初の自己受容「基本的自己受容」でした。これはその59(5/12)で書いた通り、「唯一無二の存在としての自己の成長へ向かう意志」です。

最後の自己受容「自己の魂の受容」です。以前「真の自己受容」と呼んだのもこれと同じです。
そしてこれが、先に「恐怖の克服の3段階」と言った最後の、「恐怖に怯える魂を守る」と触れたものです。
つまりこれは、「魂の望み」に向かい、「魂の願いを果たすための行動」へと歩み出すことを是とし、その中で怯える魂を守るという、「心」が成す最後の「選択」なのです。

これは僕自身がこうしてハイブリッド心理学を自分なりに完成させることができたと感じる、その最後の「進むべき道」が、今僕自身の人生においても現在進行形の出来事の中でも見えた、ということの中で、その確実感を感じているものでもあります。

それは、僕自身が自分自身の心理学によって涙が出た、「自己操縦心性がついた嘘」に続く2度目の感動的なことでした。
ということで、それを書いたつい先日の日記を紹介しましょう。
=======================================================
・・(略)・・僕はそれについて、自分の中に起きる感情を全て見尽くしたいという考えでいて、こんな場面でかつて自分にあった、「平静の幻想」が壊される、もしくは何かが崩壊する幻想の中に投げ込まれるような出来事もあったのを思い出した。XXXXさんの場合もそうだった。1年前になるか..と。
 そんな中で、僕は間もなく
最終総括を書く内容のことを考えていた。「恐れの克服」ということになる。

 我々にとって「恐怖」とは、結局何なのか。それは「自己像」をめぐるもののようだった。そしてその根底には、魂が抱く、愛が失われることへの恐れがあるように思えた。
 
「心」が抱く怖れは、科学によって克服する。だが「魂の怖れ」は、科学では克服できない。
 それは何によって克服できるのか、と考えた。すぐには答えは見つからなかった。事実
僕はその答えが分からないまま、魂が抱く恐怖の中に晒され、ただ耐えるだけの体験を持っていた
 それは救いのないことのように思えた。だが、
何かが救えるはずであることも感じた。だから今僕がいる、と。
 「神」に救いを求める、というのも浮かんだ。だがそれは僕が使う観念ではない。

 あとは..「命」..か、と思えた。「命」が守られれば、「愛」が守られる。「現実」がどのような形になったとしてもだ。
 そこにおいて「怯える必要はない」と魂をなだめる役割が「心」にはあるように思えた。では「命」が消えた時どうなるのか。「命」を看取った時、魂に魂が宿る。そこにおいて「愛」は永遠となる。

 そう分かった時、僕は泣いた。そこには、まだ僕の中で怯えていた魂の安堵があったのかも知れない・・。
=======================================================

「成長」「障害」そして「治癒」の軸は以上となります。

そして最後に、やはり、「自己操縦心性の崩壊」特別な位置付けで出てきます。それが締めになります。


魂の治癒成長への実践-66 / しまの
No.1234 2007/05/15(Tue) 12:57:55

■「治癒」(続き)

4)善悪の放棄

ここまで説明した「恐怖の克服」と「自己の真実に向かう」そして「愛と自尊心の分離」は、「治癒軸における治癒」とも言える局面です。つまりそれはもっぱら、「障害の軽減」を図るものです。

次が、「障害から成長への転換点」です。これをここでは、「善悪の放棄」と呼びたいと思います。
今まで説明したハイブリッド用語だと、「否定型価値感覚の放棄」そして「不完全性の受容」です。

なぜこれが、やはり「善悪の放棄」なのか。
「魂」の世界には、善悪がないからです。「心」の世界にはあります。はっきり言いますが、「心」には良し悪しというものがあります。良い心と悪い心。
しかし、魂にはそれはありません。魂は、みんな同じです。良い魂悪い魂というものはありません。


これが、今まで読者の方からもよく質問や疑問が投げかけられていた、「善悪観念の完全な放棄」というハイブリッドの思想の、最も正確な理由になるでしょう。

魂には、そして魂の世界には、善悪はありません。
ひとつ言えることがあります。魂の世界では、善悪を使うと、同じものが自分にはね返ってくる、ということです。
「お前には悪霊がついている!悪の化身だ!」と怒る者は、その後に自分を見ると、自分に同じ悪霊がついていることに気づくでしょう。同様に、他の魂を許した時、自らの魂も、救われるのです。


今までの話も含めたもう少し分かりやすい整理は、心理学本の方で。これが多分終盤の大きなテーマになってくると思います。

ここでは、最近の返答メールから、「否定型価値感覚の放棄」そして「不完全性の受容」について説明した最新の説明を掲載しておきます。
これが「治癒の軸」となるのは、そこで説明しているように、「否定する価値」の背景には「空想と現実」という「障害」の軸があるからです。

そしてこれが人間の「怒り」の第3の、もっとも広範囲の大局メカニズムになるでしょう。「善悪」です。
「怒り」は「人間の病」なのです。
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■「現実の選択」

>P.209「現実を生きることができていません。空想の世界で生きています」
P210「事実、「現実」こそが心の圧制者の嫌うものでした」 このあたりが
「そうか、「空想の世界の自分」を今まで「自分」と思っていたんだ」という発見でした。
>プライドも劣等感も作り上げていたのは「空想・妄想・想いの世界の私」でした。「現実のみが進む道」という実感がします。

大きな気づきだと思いますね^^。

というのも、何をどう考えるかという中身ではなく、何に立って考えるかとという、言わば「意識の足場」の選択のような話だからです。
そして実際それが、自尊心人生をどう考えるかという中身の話の外側にある、人間の心に埋め込まれたミスのようなものに関わる、大きな話になります。

「空想に立脚」して考えるか、「現実に立脚」して考えるか、という「選択」です。
そしてこれが意識で選ぶというだけではなく、すでにそのどっちかに方向づけられた意識の中で、思考が動くという厄介な問題があります。

それはいわば「夢」の世界です。半分夢の世界で考えていたわけですね。


■自分を救うためにあったものが自分を破壊する

>今考えると「空想の私」からは、かなりの脅迫状が届いていました。
>もともと「その私」は自分を「不安から守る」ために発生したのではないのでしょうか?それなのに破壊・破滅に追い込んでいってしまうのはなぜなんでしょうか?

これも根本に関わる問いです。

その通り、「空想の自分」は、もともと自分を恐怖から守るために生み出されたものです。そうでもしないと耐えられないような、恐怖があったんですね。
だから、これ現実ではない、本当の自分は空想した方なんだ、という「空想による救済」メカニズムというものが人間にはあります。

>「一部」だったものが「すべてを覆う」ようになってしまったのは、あまりにも対処を「怒り」にたよったからなのでしょうか?

怒りに頼ったからではなく、恐怖が強すぎたからということになるでしょう。

ところが、やがてその空想の中で抱いた「こうあるべき」の価値が、一人歩きしてしまうんですね。
「こうあるべき」空想世界こそが主であり、「現実」は従となる。そして空想から現実を否定することで、その価値の確認をするという心の動きが生まれます。
やがてそれが、その心の動きが望む通り、現実を否定ばかりすることで、現実が貧弱になり、「空想から現実を否定できる」ことが確実になっていきます

これは、人間の心に埋め込まれた、プログラム・ミスです。
それ以外の何ものでも、ありません。


これについてまだお読みでなければ、以下を読んで頂くといいと思います。
2004/12/15 自己操縦心性のついたウソ-17:操縦心性起源の大どんでん返し2
2004/12/15 自己操縦心性のついたウソ-18:操縦心性起源の大どんでん返し3


なぜ心が否定破壊ばかりになったのか。それはあまりにも自分に不利な結果になるにも関わらずです。
確かにそこには、人間の脳に宿命として組み込まれたミスもあります。
しかし最後にあるのは、「愛」なんですね。全てが、傷ついたものを救おうとした愛に始まっている。僕は今でもこの起源を遡った時、涙が出る感があります。


■「否定価値」の完全なる放棄へ

空想から現実を否定することが、大元では傷ついた自分を救うための「自己操縦心性の愛」に始まっていた。
そのことを理解するならば、大きな転換を自分に問うことができると思います。

空想から現実を否定することでしか、自分を救い得なかったものがあった。それが全ての始まりでした。
ならば、これからはその役割を、自分自身が「現実を向上させる」という別の方法によって、担うことです。そのための強さを、自分がもう持ち始めていることを、しっかりと見据えることです。

それを選択するのであれば、あらゆる「否定価値」に、全く何の意味もないことが見えてくると思います。
これを「否定型価値感覚の放棄」と呼んでいます。「否定価値の完全なる放棄」と言ってもいいかと。

実際それは、「善悪」観念さえ完全に崩壊させるほどの転換でもあり得ます。
なぜなら「善悪」は、否定破壊を前提にした観念だからです。まあルールと罰則の遂行としては、それは確かに必要です。
しかし、もし「罰の遂行」という場面を除くならば、「否定する」のではなく「現実に向上させる」ために向き合うことにおいて、「悪」なんていう観念を使う必要は、全くないんですね。

まずはぜひこれを、日常の生活の中で確認して頂ければ。
なぜそれでは「駄目」なのか。
それは結局、「駄目だ」と否定できることに価値を感じたから、駄目だと考えた。それだけのことしかないのではと思います。


■不完全性の受容

「それでもこれだけは」という「否定の基準」を保ち続けたい、という感覚も残るかも知れません。

>仕事をカゼで3日も休むなんてダメな人間だ。
>人間関係も上手く付き合えないなんて生きていく資格ないぞ。

この辺はその類ですね。

これは「不完全性の受容」というテーマに関連します。

「否定できる価値」のために否定するというより、あくまで「理想」として保ちたいという気持ちから、「これだけは許せない」という信念を守りたい。まあ世の人は大抵そう考えるものです。

僕はそれさえも完全に放棄したわけです。
なぜなら、それは「完全」を求める姿勢だからです。「現実」というもの、そして人間という存在の、不完全さを、認めない姿勢です。
そして結局、「これだけは許せない」という「基準」から、否定破壊を向けます。現実はそれによって破壊されます。結局同じなんですね。


なぜそんなことが起きてしまうのか。結局「完全なるもの」という、「空想の世界」に立っているからです。
別にそんな完全を求めているのではない。あまりにひどいものがあるということだ。そう感じるかも知れません。実際僕はこの選択に際して、そう問いを出しました。

しかし、それが本当に「あまりにひどいもの」なのか。そうして自分が考えた「基準」は、正しいのか
そう考えるならば、不完全性とはまさにそこにあるんですね。「あまりにひどいもの」と感じる基準を定める能力自体、不完全なわけです。それが自分の感覚が正しいと主張することは、自分が完全なる神だと主張することです。

そう考えた時、僕の中で、「それはひどい」という感覚そのものが、根底から崩壊したわけです。
そして日常生活の中で、全てにおいて、ほぼ100%、「肯定形」だけで思考するように変化して行きました。
やがてそれが、「怒り」が根底から消える変化にもなった次第です。僕が人生で「怒り」に駆られたのは、いちおう2004年頃が最後です。


ということで、「否定価値の完全なる放棄」「不完全性の受容」というのが、とても大きな転換点になります。
これをぜひ日常生活の中で確認実践してみて頂きたいですね。

その後のことまで書いておきますと、「現実への歩み」そこから始まります否定価値を放棄し、不完全性の受容「頭の中」では成した時、心の世界は一変すると思います。
しかしそれもやはり「空想の世界」にあります。

より肯定的な姿勢で、望みへと向かい、人に接することです。すると初めて、「心の現実」が見えてくるのです。
今掲示板で書いているような、「置き去りにした弱い魂」を再び迎えに行く歩みが、そこから始まります。-------------------------------------------------------------------------

「魂に善悪はない」
このテーマについては、この「魂の治癒成長への実践」シリーズをいったん締めたあと、当面の掲示板カキコの締めとして最近起きた大きな社会的悲劇を題材に一筆書こうかと思っています。


魂の治癒成長への実践-65 / しまの
No.1233 2007/05/15(Tue) 11:56:11

「治癒」の軸として「恐怖の克服」と「自己の真実に向かう」の次の話。

ちょーサマリー返答メール紹介という、全くレベル統一感がないカキコになってますが、とにかく駆け足で内容として書くべきこと書いて、当面の開示版解説を絞め、心理学原稿とりまとめに行こうかと考えており。


■「治癒」(続き)

3)愛と自尊心の分離

これは心理障害メカニズムが「魂の感情を偽った心」という構造である結果起きる、「愛と自尊心の刺し違え相互破壊」への実践的対処法です。
治癒への軸の中でも、最も感情分析的なノウハウになります。

これについては、最近の返答メールから紹介します。
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■「愛を求め自尊心を失う」という心の罠

前のメールで「愛と自尊心の分離」について話ますと触れておきましたが、まず理解頂きたいのは、「愛を求め自尊心を失う」という心の罠があることです。

>例えば、私の場合小学校の時通知表に「消極的なのでもっと積極的になってください」「分かっているのに手をあげていません、もっと意欲的に」と書かれ一人傷ついていました。「積極的でないと先生に受け入れてもらえない」と。
>もし友達が「暑いね〜」といえば「そうだね〜暑いね〜」なんて例え寒いと思っていてもいいませんでした。

これらは全てそうですね。

愛情を求める気持ちの中で、「相手に気持ちを合わせる」ことが愛だと感じる感覚が、人間にはあります。まあこれ自体は自然な心の働きです。「共感」ですね。相手が自分と一緒にいて楽しそうにすると、気分が弾みます。痛み苦しむ相手を前にすると、心が痛みます。
これが「愛」の最も基本的な機能だとも言えるでしょう。

問題は、自分が本当にはそう思っていない時にも相手に合わせる。それが愛だという感覚まで、人間は持ちがちなことです。
「それは愛ではない」とは言いません。それも「愛」かも知れません。

しかし言えるのは、それは自尊心を損なうということです。自分としての考えをしっかりと持ち、自分の考えで積極的に行動できるというのが、自尊心の基本的な基礎だからです。
そして言えるのは、「自尊心」は人間の心にとり極めて重要なので、それが傷つけられた時、どうしても「怒り」が起きるということです。
これが「愛」を破壊してしまいます。

上の例で言いますと、自尊心とは、「消極的であること」の良し悪しについて自分自身の考えを確立することです。それが本当に悪いことなのか。自分としては暑いか寒いか。自分で判断できることです。

相手に合わせることで愛を求めると、そうした「自己の確立」を失ってしまいます。これが心の底で、自尊心を失わされていることへの苛立ちを生みます。その結果、愛情のために自分を合わせようとした当の相手に対して、心底から愛情一本とはいえない、反発感を同時に感じてしまいます。

愛を求めて自尊心を失うのですが、それが愛を壊すんですね。皮肉な話です。

さらにそこには「心の罠」もう一面があります。
そうして自分を失って相手に合わせても、相手にとってもこの人に愛は感じられなくなってしまう傾向があります。なぜなら、相手に自分がないのですから。ただの空気を相手にしているようで、心の手ごたえがないわけです。

「愛を求めて自分をなくす」ことをした時、自分自身の愛の感情が損なわれると同時に、相手からの愛も損なってしまう。全くの、求めるものと逆の結果になるわけです。


■「愛と自尊心の分離」と「建設的対人行動法」

つまり、そこにあるのは、「愛」「自尊心」という、心理メカニズムとしては本来別々のものです。
それが、互いを損ね合うような、人間の心の罠、勘違いがある。

それを本来の別々のものにする思考法が、「愛と自尊心の分離」です。
「切り分け」の重要性を話しましたが、その一バージョンですね。「問題の切り分け」「感情と現実の切り分け」そして「愛と自尊心の切り分け」。最後のが最も人間の深層感情に関わってきます。

ごく実践的な話について言いますと、相手の愛情を得たいという気持ちと、相手の意見などについて自分の考えでは本当にはどう考えるのかを、分離することです。後者は、前者とは無関係に、相手の意見だけではなく、世界全体を見る目と知性で考えることです。

相手の愛情を得たいという気持ちは、どうするのか。これは深い話になります。

相手の愛情を得ようとして自分をなくすという方法が、全く逆の結果しか生まないことは上に説明しました。
そしてまた、相手の愛情を得ようとする感情が、人生の中で自分の心の底に抱き続けた自己否定感情の打消しのために生まれることも知る必要があるでしょう。これは愛に似て非なる感情です。相手が自分を愛さないと、怒りに変わる感情です。

そうした感情を非行動化し、相手の愛情を得たいという気持ちから考え得ることの中の、一片の建設的要素に着目して、それを後押しすることです。
それが「共通目標共通利益のみに着目する」という対人行動法です。「建設的対人行動法」ですね。

そうした実践、それはもう「実践」というよりも「生き方」であり「生きる体験」の積み重ねが、心を成長させます。
そして「愛」は、心の成長につれて増え、質的にも変化して行きます。
どのように変化するのか。まあ一言で言えば愛は相手に求めるものではなく、自分の中から溢れるものになります。これは「未知の感情」として現れます。
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魂の治癒成長への実践-64 / しまの
No.1232 2007/05/15(Tue) 11:26:18

■「治癒」

「治癒」の軸を次に。
これは、「成長」の軸が「障害」の軸によって妨げられ起きた混乱を元に戻すための軸です。それでちょっと数が多くなります。

5つ。「恐怖の克服」「自己の真実に向かう」「愛と自尊心の分離」「善悪の放棄」そして「望みに向かう」。
それぞれを簡潔に説明します。

1)恐怖の克服

「障害」が「恐怖」によって始まるものである限り、「恐怖の克服」は最も基本的な治癒への軸であり続けます。

「恐怖」はいわば、心理障害型の感性・思考・感情の歯車を回すための基本的なガソリンと言えます。感性・思考・感情の内容をあれこれと検討する以前の問題として、いかに正しい恐怖の克服姿勢を持っているかが、外枠で感性思考感情の全体を方向づけています。
詳しくはその58〜61(5/12)を参照のこと。

正しい恐怖の克服姿勢によって、「治癒」は8割がたは決まるといっても過言ではないように感じます。

「恐怖の克服」への道のりは3段階になるような気がしています。

まず第1段階は、外界現実への恐怖を克服することです。科学的思考によって非合理的な恐怖感情を捨て建設的に生きることで人生の基盤を築くことが重要です。
これは精神論ではなく、前者においては多分に科学知識、そして後者においては「社会を生きるスキル」の習得が大切になります。
心理障害が生まれるところには、本来心理障害メカニズムとは全く無関係な話として、そうした科学知識や社会スキルについての大きな勘違いがありがちなので、まずその修正を図りたいですね。後者は一言でいえば、「やる気頑張り」ではなく「役割を見抜く知性」が重要です。

第2段階は、内面の恐怖への対処です。これはその58〜61(5/12)で述べたように、まず「耐性」が重要です。そして「自分に嘘をつかない」こと。

第3段階は、「恐怖に怯える魂を守る」です。これは最後の最後に説明します。この後の話を踏まえないと、意味がないからです。

2)自己の真実に向かう

心理障害メカニズムは基本的に、「魂の感情を偽った心」という構造です。
従って、恐怖の克服姿勢によって、まずその歯車を回す力を減少させていくという外側の話の次にくるのは、「自分自身についた嘘」を解くことになります。これは上述の通り「恐怖の克服」にも含まれる話であり、「恐怖を解く」という意義もあります。

これは「感情分析」になります。心理メカニズム理論の理解は、基本的にこれのためです。
「感情分析」の実践についての、これ以上の最新の分かりやすい説明は、最初の心理学本に譲ります。断片的なものは今後も掲示板に掲載できるかと。

まずここまででカキコしましょう。
治癒の基本は、この「恐怖の克服」と「自己の真実に向かう」の2つになりますね。


■「成長」のノウハウは「治癒」のノウハウでもある

同時に補足したい重要な点は、「成長」へのノウハウである「建設的であること」「生み出すことに生きる」は、この「治癒」への軸を同時に支えるものになるということです。
前者は具体的思考法行動法であり、恐怖の克服につながります。後者は根本的な生きる姿勢つまり価値観であり、その検討が自分についた嘘を解除することにつながります。

このつながりが、「成長」が「治癒」を生み「治癒」が「成長」を進化させる、という好循環の基本的土台になります。


魂の治癒成長への実践-63 / しまの
No.1231 2007/05/14(Mon) 17:03:48

■「愛」と「自尊心」の相互破壊:怒りの大局メカニズム1

先のカキコで「障害」メカニズムを最新視点から整理し直しましたが、より魂論に立って、何が起きているのかを考察しましょう。

「魂」「愛」をつかさどります。「心」「自尊心」をつかさどります。
この本来の役割分担を考慮した時、何が起きているのかは、極めて単純かつとんでもない不毛な事態です。

つまり、「心」が、「魂」の「愛」への願いの挫折への穴埋めを追うことに躍起になっているという事態です。しかしそれは「心」においてなので、意識上は「自尊心」の問題であるかのように見えてくる、ということです。
これでは、根本的に、何も得るものはありません。


あるのは、「愛と自尊心の刺し違え相互破壊」ともいうべき事態です。
「心」は自尊心をつかさどるものです。行動への原動力が愛情要求であれ、復讐心であれ、それとも純粋な「心の感情」に基づくものであれ、「自尊心」とは、自らによって自分を尊重できるような、豊かさを築くことを言います。

愛情要求を通して自尊心を満たそうとした時、まさにその姿勢によって、自尊心が損なわれます。損なわれた自尊心の反応として「怒り」が起きます。これが愛を破壊します。

復習心によって自尊心を満たそうとする、つまり愛を与えられなかった悔しさを見返すために、人を打ち負かす優越の獲得は、一見してそれよりは素直な話のように感じます。
しかし復習の勝利は、愛を破壊します。すると駒が元に戻ります。愛されない悔しさが再び刺激されます。そして復讐心が刺激されます。膨張した復讐心は、満足の敷居が次第に高くなっていきます。
やがてこの人間の敵は他人というよりも、自分の内部の「フラストレーション」になります。それは自分の敗北の印だからです。「フラストレーション」とはつまり「怒り」です。「怒り」を敗北の印として、怒ります。


これが大局的な「怒り」のメカニズムに、なるのかも知れません。

愛されることで自尊心を満たそうとすると、その姿勢によって自尊心が損なわれるので、怒りが起きます。
人を打ち負かすことで自尊心を満たそうとすると、自尊心が満たされないので、怒りが起きます。
怒りが愛を破壊するので、怒ります。怒りが自分を敗北させるので、怒ります。
怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、....^^;


■「空想通りでない現実」:怒りの大局メカニズム2

「怒りの大局的メカニズム」としては、「空想と現実」というもうひとつの軸においてもありそうです。

「あるべき姿」という「空想」を主座としたことにおいて、これは単純な話になりそうです。
「空想通りでない現実」を怒る。

この怒りは、上述の「愛と自尊心の刺し違え」の大局構造で起きる怒りも供給源になる部分もあるでしょう。
そしてもう一つの大局構造が、「あるべき姿」という「神の国」の論理に根ざしているように思われます。
ここに来て、全ての話が最初の駒に戻ります。

全てが「神の国」に生まれ、望む通りに愛されなかった挫折と怒りに始まったように思われます。
そこで魂が抱いた恐怖を、心は受け入れることができず、魂の挫折を否定した「なるべき自分」という空想の中に生きるようになる。しかしそれを貫く論理は、「神の国」が持っていた「正しければ与えられる」という論理です。
結局、全てが、果たされなかったその命題を盾に、破壊的に愛を得ようとする復讐の中にあったように思われます。

なぜその命題を盾にするしかなかったのか。
弱いからです。そして、弱いから、怒ります。怒り弱さの表れです。
全てがここから始まっています。

従って、「治癒」は、この「弱さ」の克服から始まります。つまり「恐怖の克服」です。
魂論からの「治癒」の側面総括を次に。


魂の治癒成長への実践-62 / しまの
No.1230 2007/05/14(Mon) 15:18:03

では最終総括へと行きたいと思います。「魂」「心」という「2つの自分」の関係の中に、全てがつながってくる、ハイブリッド心理学の総絵巻。


■「成長」

「成長」の軸は「愛」「自尊心」です。「魂」「愛」をつかさどり、「心」「自尊心」をつかさどる。
ですから、我々が日常の生きる過程の中でまず目指すべきは、「自尊心」であり「強さ」です。

「愛」「求めることなく向かう」のがいいでしょう。「人生」「魂の願いを果たす」ことの中にあるように思われます。これは「自尊心」を支えにして、「魂の望み」に向かう行動へと踏み出す歩みがその形となります。
それが果たされた時、「魂」が成長し、「愛」は「求める愛」から「溢れる愛」へと、別種の感情へと変化します。


「建設的であること」「生み出すものにおいて生きる」は、そのためのノウハウです。前者は思考法行動法という具体的実践の話であり、後者は根本的な生きる姿勢の話です。

なぜそれが成長へのノウハウとなるのか。それは、その対照の姿が、成長が妨げられる「障害」を生み出すからです。
対照の姿とは、「姿において生きる」であり「破壊的に生きる」です。これによって、この人間は自らの中に生きる原動力を見失い、「人の目」を通じて生き、その過程において、自らにとり最も重要であったはずの「姿」を、自ら貧困化させる「現実の破壊」へと向かいます。

この「障害」の姿を次に概観しましょう。そして「治癒」の側面へと視点を移していきます。


■「障害」

「障害」の軸は「恐怖」そして「空想と現実」です。

「障害」は、人の心がまだ「心と魂」に分離していない、幼少期に抱えた「恐怖」に端を発します。
神の国」に生まれ、「大きな目」の中で、「宇宙の愛」に守られるべきであった自分がそうではなかったという、怒りと自己否定感情を伴う「恐怖」です。幼い心にとってこれを意識体験することはあまりにも破壊的であり、「心」と「魂」の分離を背景に、「心」からは切り離され、意識下に追いやられます。

かくして、「心」にとって、「魂が抱く恐怖」は、全く対処ができない、最大の脅威になります。これが「感情の膿」の正体です。
同時に、「魂の望み」の感情が意識下へと置き去りにされます。「魂の望み」が意識されると、同時に魂が抱く恐怖である感情の膿が意識に触れてしまうからです。

次に、「空想による救済」メカニズムが働くようです。自己操縦心性です。
これは「魂」と「心」のどちらの機能というよりも、心と魂の分離を調整統括している「人格脳」という外枠器の機能と考えるのが正しいようです。「心」はこの「空想による救済」メカニズムの中で動きます。
そして何から何を救済しているかというと、対処することができないような「魂の挫折と恐怖」を抱えるに至った、「現実の不遇」から「心」を、何とか「心」としてのまとまりを保つために行う「救済」、ということになると思われます。
これは大きく3つの側面からなります。

第1の側面は、この人物の「生」において、「空想」が「主座」を獲得することです。まず空想が先にあり、現実をそれに合わせて評価するというのが、この人物の基本的な「生き方」になります。

第2の側面は、その空想の内容とそれをめぐる感情の内容です。これはまず、魂の挫折と恐怖が存在しないかのような「自分の姿」「なるべき自分の姿」とします。
次に、その「姿」の実現へと向かうエネルギーが必要です。「魂の望み」の感情は、感情の膿を伴うので使えません。従って、魂の望みが挫折した後の穴埋め的な連鎖的衝動が、「心」の主要なエネルーになります。これは具体的には、「愛情要求」と「怒り復讐心」です。

第3の側面は、上記のような「なるべき自分の姿」の実現衝動に伴う、思考と感覚感性における独特の論理的偏りです。
これは「与えられるべき」感覚です。自分が特別に、何か良いものを与えられるべきだという感覚。
これは欲求情動論理思考感覚感性という3つの次元で、それぞれ毛色の異なった結果を生みます。
欲求情動においては、自分が特別扱いになれるような、内面外面に渡る材料物を欲しがる、強力な欲求になります。
論理思考においては、「対等性の欠如」になります。意識表面に良く現れるのは、「なぜ自分だけがこんな目に」という思考です。
感覚感性においては、人の目が特別に自分に注がれるという感覚になります。

正確な理論整理を頭の中でしているせいもあり、ちょっと細かくなりましたね。

まとめると、魂の恐怖を受け入れることができずに、「心」魂の挫折と恐怖を否定した「なるべき自分」の姿を描き、大元の「魂の望み」の感情ではなく、それが損なわれた損失を埋めようとして連鎖反応として生まれた「愛情要求」「怒り復讐心」を、それが生来の自分の「欲求」なのだと感じて生きるようになる、ということです。

それがうまく行ったと感じることができている時、全ての問題が存在しないかのように意識体験されるという仕組みは、その57(5/11)で述べたように、恐るべきものがあります。
しかしそれはやがてほころびを見せ、「心理障害という生き方」ができあがることになります。

この描写は「メカニズム」の観点からのものです。
本人の意識体験において、置き去りにされた魂の感情を取り戻すために、つまり魂の視点からこの「障害」がどのように位置付けられるのかを、次にまとめます。


魂の治癒成長への実践-61 / しまの
No.1229 2007/05/12(Sat) 13:00:53

では引き続き返答メールの続き
「恐怖の克服」の基本の続き、そしてその先にある「成長」に踏み出すための、基本的な視点の部分を掲載しましょう。

今日はなにやら突貫工事のようにカキコを連続していますが、まあ僕としても自分自身の人生の駒を一つ前に進めたいということで、この掲示板解説大団円(アハハ^^;)に終わらせ、最初の心理学本原稿とりまとめ作業へ移るのが見えてきた感じで、ラストスパートモード^^;
まあまだ結構あるんですけどね。

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■「恐怖の克服」の基本2:「建設」

次に重要なのが、そうして検知した何らかの「脅威」に対して、どのように対処して克服しようとするかの、基本姿勢です。
これが「破壊」「自衛」「建設」という3つのモードがあるわけです。もちろんハイブリッドとしては、後ろのものほど推奨します。それによって、「恐怖を乗り越える強さ」を現実において獲得することです。

まず考慮しなければならない問題パターンは、概してスタートラインで「弱い」ほど、「破壊」が最初に選ばれてしまうケースが多いことです。
「破壊」つまり「怒りで対処する」のは、「弱さ」の表れです。でも怒り破壊で対処しようとすると、ほぼ必然的に、報復の攻撃を受けることになります。従って脅威の克服ができず、恐怖の中に置かれたままになります。

かくして、「弱さ」が「怒り」を呼びさらに「恐怖」に駆られるという、「弱さと怒りと恐怖の膨張スパイラル」が出来上がります。

まずはこの「弱さと怒りと恐怖の膨張スパイラル」を脱することを選ぶかが、「選択」になるわけです。
それとは異なる「自衛と建設」という方向性を向くか。


まあ最初の敷居は、この選択思考を一貫してできるかどうかですね。
大抵、恐怖はなくしたいと考えるが、怒りを捨てることが考えられない。まずは、この2つがセットであることを知ることから、ということになると思います。

そして「怒り」を取るのであれば、同時に「恐怖」に怯える生涯であることを、受け入れるかどうかです。
まあこれも、「恐怖に怯える自分」は受け入れられない「怒り」の中で考える、というのがまず考えられる。

これが「恐怖の克服」の基本の3つ目の話になります。


■「恐怖の克服」の基本3:嘘をつくのをやめる

「恐怖の克服」の基本3つ目は、恐怖そのものの位置付けについての今までの話とはちょっと違う方向から入ってくる話です。

「嘘をつくのをやめる」ということ、つまり「自分に正直でいる」ということです。
「嘘」は基本的にストレスを生み出し、「嘘がばれる事態」への恐怖という、新たなる恐怖要因を加えます。


ですから、「恐怖を認める」「克服対処」の2段階の両方において、自分への嘘をなくす姿勢が望ましいものです。
恐怖に怯える自分を、「心の現実」として認めることです。
克服においては、嘘による対処はせず、「建設」による克服をすることです。

まあこの3つが基本になるのですが、難しいのは「嘘を使わずに建設による克服」の具体的内容です。
人間の素の思考では、まずこれは思い浮かばないこと請け合いです。これを請け合ってもどうしようもありませんが^^;

こうした問題が出てくるのはやはり心理障害メカニズムが絡んでなので、ここまでの「基本」の話を踏まえながら、さらに「心の障害」における重要なテーマを追加して考える必要があります。

それが「空想と現実」というテーマです。


■「自己像」は「自分」ではない

「成長」は、「愛」「自尊心」というテーマを軸にすることを掲示板で書きました。
「障害」は、「恐怖」と、やはり「空想と現実」というテーマが軸になります。

つまり、「障害」は、「恐怖」によって「空想」が「現実」を覆い、「現実における成長」ができなくなってしまうことにあります。「現実における成長」ができないので、「恐怖」がいつまでも克服できません。

>私がこの恐怖を押して行動したらどうなるかというと、死ぬかと思うほど動悸がして、呼吸が苦しくパニックになり、滝のような汗にまみれて正常な思考が働かなくなります。それこそ目の前が真っ白になります。どうあっても、この恐怖をおして行動はできないと痛感しました。どうしてもその先に行けないのです。
>頭で一人で考えている自己像と、実際に行動してみた現実の自分とのあまりのギャップに改めてめまいのする思いでした。

まず言えるのは、「空想は現実ではない」ということです。同じように、「自己像は自分ではない」
この、あまりにも当たり前のことを、どう考えるかが、実情として「恐怖の克服」の第一歩になるでしょう。


■「心のハンディ」を受け入れる

今までの話を踏まえて、その状態に対して言えることをサマリーしましょう。

まずそれは「現実外界の脅威」を示すものではありません
一方、何かを恐怖に感じて、行動できないほどになってしまう。この事実は、「心の現実」として受け入れるのがいいことです。そうするしかありません。

僕がそれをどう受け入れたかの、実感としての言葉を言いましょう。僕も同じだったんです。
それは「心のハンディ」です。現実外界とは別に、怯えてしまう自分の心がある。これをどう考えようとも、これは一つの現実なんですね。

それを現実として受け入れどう対処するかに、「建設」という話が出てきます。Aさんに一番分からないのは、この部分だと思います。

僕自身の体験を言えば、僕はそこで、自分を「心のハンディのある者」として、受け入れました。ここからは、身体ハンディのある人と、同じです。自分のハンディを「これは悪い夢だ」と怒っても、それは消えてはくれません。
これを受け入れるまでに、時間と失意の谷間が必要かも知れません。それなしに、思考法だけで受け入れることができたわけでも、僕もありません。

受け入れたら、まずそれをいたわるしかないです。怯える自分の心を、優しくいたわることです。
そしてその上で、多少の痛みへの耐性をつけ、それをスタートラインにして、自分がハンディを抱えたまま何をできるかを、探していくわけです。
身体のハンディの場合と同じです。

違うのは、そうして受け入れて自分にできることを探していく「建設」の先で、大元の「心のハンディ」そのものが消える変化へと向かったことです。


■「心のハンディ」を受け入れる空想世界と受け入れない空想世界

頭で一人で考えている自己像」は「空想」です。
「得体の知れないものに怯えた自分」は「現実」です。

この2つのギャップをどう考えるかがキーポイントになりそうですね。

「頭で一人で考えている自己像」とは一体どんなものだったのか。
それを取り下げて、「得体の知れないものに怯えた自分」という「現実に合わせた自己像」を考えようとしたところで、それはやはり「空想」です。

まあ「自己像」の内容よりも、それを考える姿勢が重要になる、とは言えるでしょう。

「自己像」を考える背景にある価値観であり人間観人生観世界観が重要になってきます。これが、取り上げ始めている「価値観思考」になるわけです。

話が長くなりましたので、この具体的検討を今後の課題と考えて頂き、ここでは参考例を出しておきましょう。
『悲しみの彼方への旅』から。

P.58--------------------
残された抑圧の解放

 その後私の中で開放されたのは、もはや「対人関係の改善」を目指して自己分析を始めた人間像とは似ても似つかない内面でした。絶対善悪の否定はすでに高校時代に果たしていましたが、それでもまだつけ続けていた
理想論者の仮面を自らはがしていくような日々が続きます。
 ある出来事の中では、「若い女性を憎むことにこれからの人生の目標をおこうか」と考えるほどの屈辱感と憎悪の中に。
 そして
この世界は万人の万人に対する競争なのだという攻撃性の哲学が自分の中にあることを自覚します。心の中が「敵意と軽蔑のモヤ」に覆われていました。

 しかし、感情の抑圧に回されていた心のエネルギーは、抑圧の解除に伴って、内面の力として、自ら湧き出る感情のエネルギーとなって回復してきます。
 やがて次第に私の中で敵意と軽蔑のモヤが消え、自分の心の中にある幾つかの断片的な感情の構図が見えてきます。
傲慢なナルシズム感情への確信と、それとは全く対照的な、自分はみずぼらしい人間だという被軽蔑感。自分の中のサディズム的性衝動に直面し、その中の暴走色を解除すると同時に、残っていた道徳者的仮面を破棄する時も訪れました。
P.105-------------------
 その日の午後、私は漠然と考えていました。街で見かけた、
自分の外見を勝ち誇るように歩いていた女の子・・。今まで僕には信念のようなものがあった。あの女の子みたいに、自分の外見を勝ち誇るような生き方は、幸福につながらない。自信は内面から生まれるものだと。
 それも結局は、
自分を偽ったステレオタイプの信条であったような気がする。この現代とは、彼女のような生き方で通用する時代なのだ・・。

 自己分析によって目指した、人格の成長。そして自分を飾ろうとする自己への恥辱・・。
 全てが、この現実世界にたち打ちするための心の鎧でした。でも本当に追い求めたものは、そこにはなかったのです。
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そうして、自分が心の根底の本心で考えていることに、一度真正面から取り組むのが、やはり根本的な「恐怖の克服」への通り道になると思います。
そして「万人の万人に対する競争なのだという攻撃性の哲学」の中で生きるとは、結局恐怖の中に怯える人生だと。

その哲学によって、自分の現実を認めないという心の動きになります。手短にその先のメカニズムを言えば、自己軽蔑している何かを、他人に見つけて怒り軽蔑するという心の動きになり、「現実」はその攻撃性が自分自身に向かう潜在的な場として「得体の知れない恐怖」の世界になります。

そしてハイブリッドが示す転換は、そうした心の根底の本心において、「否定価値の放棄」「不完全性の受容」そして「現実の受け入れ(サバイバル世界観)」などを問うことになります。
そうして、「恐怖」という心の現実ハンディの受容が成されます。
そこに立って、恐怖の克服意志を持つことで、真の「恐怖の克服」への道のりが始まります。
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魂の治癒成長への実践-60 / しまの
No.1228 2007/05/12(Sat) 12:17:30

ではその58で紹介した返答メールの続き、「恐怖の克服」概説を。

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■「恐怖」とは何なのか

取り組み実践上は、そうした難解なメカニズムを理解するより、「恐怖の克服」についての正しい理解と姿勢を獲得することが何よりも重要です。

まず、そもそも「恐怖」とは何なのかについての理解からです。

「恐怖」についてのごく基本的で根本的な理解の誤りが、実は「境界性人格障害」などの派手で極端な感情動揺の裏にはあるのではと僕は考えています。
だからこの基本的理解の修正を図ることが、表の感情動揺への「治療」とは全く無関係に見える一方で、劇的に治癒への方向性を生み出す可能性があるのではないかと。
どうでもいい話ですが、これは精神医学にとっても重要な発見になるかも知れません。

でまず「恐怖」とは何なのかですが、学術的表現をすれば、「恐怖」とは極めて中途半端な「危険回避システム」であることを理解する必要があります。

それはまず危険を察知した時の、「逃げろ」という脳の信号です。
その行動に仕向けるだけの、嫌な感情として体験させ、さらに、怒りの場合と同じように多少とも怪我をするのを前提とした、心身状態の変化と機能低下を引き起こします。怒りの場合攻撃エネルギーが促進されますが、恐怖の場合はむしろ活動エネルギーは停止に向かわせられます。

かくして、「恐怖」が逆に危険を増加させる場合があります。足がすくみ腰が抜ける。ヘビににらまれたカエルですね。現実の危険に対処できないどころか、積極的にその餌食になるような始末まであり得る。
こうして、「恐怖の感情」それ自体が「脅威」になる現実があるわけです。

このように、「恐怖」はきわめて「暫定的な危険回避システム」であって、基本的にそれを使う状態から使わない状態への移行が求められるものと考えられます。

まあ実際その移行が、動物の進化であり自然界における勝者を決めるものだったと言えます。
答えは、やみくもに恐怖がなくなればいいというのでもなく、より正解に現実の危険を察知し、より有効に対処できる、「恐怖の感情」とは別の「完成された危険回避システム」を獲得することです。

もちろん、人類の場合それは「科学」です。


■「恐怖の理解」の基本

ですから、より平たく言いますと、「恐怖の克服」の基本の話になります。
まずは「恐怖」とは何なのか「理解」の基本からです。

まず、「恐怖の感情」を、「現実の危険を示すもの」と考えてはいけません。そう考えたらアウトです。つまり恐怖の克服はできません。
これは実に単純な話です。「現実にある危険」を察知するために「恐怖感情」を使おうとするのであれば、「恐怖」がなくなることは、あり得ません。

ですからこれについては、「恐怖」を、「現実の危険を示すもの」と考えるのではなく、あくまで「心が危険を感じている」、それ以上のことでもそれ以下のことでもなく、「現実の危険」については、恐怖感だけで判断するのではなく科学的知性で判断する姿勢が、極めて重要になります。

一方、「恐怖を感じないのがいい」と考えるのもあまりいい方法ではありません。

これは2つの理由があります。一つは恐怖に代わる危険察知の知性が充分発達してない時にそれをすると、「蛮勇」という姿になるからです。これが実際この人間を危険にさらしやすくします。
もう一つの理由は、「恐怖を感じる自分をこき下ろす」という、自己否定自己処罰を生むからです。恐怖を感じる自分を駄目だと考える。そして実はこの「自己否定」が新たなる「内面の脅威」として、実際のところ恐怖を引き起こします。

ですから、「恐怖」というものを理解するための基本は、まず「心が危険を感じている」という、それ以上のことでもそれ以下のことでもないものと知り、受け入れ、その一方で「現実の危険」について科学的知性を使う、ということです。

やはりこの2つを「同時に見る姿勢」が極めて重要です。


■「恐怖の克服」の基本1:「耐性」

次に、そうして認識した恐怖をどう「克服」するかの基本です。
これはまず2つのことが大きいと思います。

まず基本的に、「恐怖」という感情への「耐性」をつけることです。

これは「悪感情への耐性」と言っている話の中の、基本的なものです。「悪感情への耐性」としては他にも、フラスト感苦しみ感嫉妬空虚感嫌悪感被嫌悪感と言ったさまざまな悪感情への、「耐性」というごく単純な姿勢が含まれます。

この「悪感情への耐性」という、地味な話(^^;)が、ハイブリッドの中でも、その話の内容の単純さゆえにあまり多くの説明文章を割かなかったせいもあり、あまり重要に感じなかった方も多いかもしれませんが、これは決定的なものなんですね。

「恐怖への耐性」を説明するごく平易な例は、「注射を怖がらなくなる」ということそのものです。
これはちょっと分析すると、2つの要素からなる。痛みを実際に体験して、「それほどでもない」と感じられるということ。そしてもう一つは、それが役に立つことでもあるのを納得すること。
「それほどでもない」なんて言ってられない痛みでも、人生を変えるほどの役割があれば、まあ人はなんとかそれを耐えるものです。「感情の膿」なんてそれなんですけどね。

まずはとにかく受け流す強さですね。それが「役に立つ」ものでもあることを知るのは、感情の膿を流した後の変化が実感として分かるような、かなり先の話になります。
まずは受け流す強さとしての「耐性」を獲得する、「習得」することが重要です。

僕が変化できた理由として、「恐怖」に対しては、徹底的に科学的思考による「耐性」をつけたという基本的で地味な歩みが、底流にあります。一度この件への自負を短めに書いたことがありますが、その徹底度については絶大なる自信があります。
2005/06/17 「異形」の起源と受容
など。
あまりグロな話を書くのもなんですが、人が死ぬ形態を色々考えて、恐れる必要はないという科学的思考などしたり、結構したものです。
こうしたことなしに、「感情の膿」というもの、「心理障害」というものの克服は、ちょっと難しいのではないかしらと僕は考えているのですが..

まあ取り組み実践においてはそんなラディカルなこと(^^;)をすぐ始める必要はあまりせん。
まずは、日常の生活の中で、恐れを感じた時に、「怖いと感じるということは現実が恐ろしく駄目だということだ」という「感情による決めつけ」思考をやめることです。

そして恐怖を感じたことを嘆き騒ぐことで誇張する姿勢を解除することです。ここに「耐性」が基本的に始まります。

つまり、まずは恐怖感情を受け入れることです。恐怖感情を、感じてはならないものとは考えずに、ただそのままに感じ取る姿勢が重要です。

そして次に、上で述べた「理解」を図ること。「恐怖を感じるという心の現実」と「科学的知性による現実の危険判断」の両方をしっかり見ることです。
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■「痛みや恐怖への耐性のなさ」と「自分で人生を生きることへの絶望無力感」

ちょっとここで補足を入れておきますと、逆の「耐性のなさ」は、先に述べた「自分で人生を生きる」ことへの絶望無力感とも強く結びついていることが考えられます。

当然、「誰かに助けてもらう」という基本的感覚が心の底流にあるわけで、基本手に「耐性」どころの話ではなく、痛みや恐怖を強調する姿勢が生まれることが考えられます。
これがさらに、痛みや恐怖を感じる「か弱さ」「繊細さ」を美化してしまうと、もう完全にアウトです。「痛がり」ちゃんや「怖がり」ちゃん^^;
感情の膿に触れた時に、心理障害の餌食になってあっちの世界にさようなら〜ということになりかねない。いやこの表現は余計^^;

あとはまあ「感情没入」「忘我衝動」といったものによって、痛みや恐怖の感情が強調されることもあるかも知れません。これは本人が感情分析によって解除することが望ましいものです。
これはホーナイ『神経症と人間の成長』の中で、愛情要求に関連して述べたものです。ちょっと引用しておきましょう(P.315)。一部分かりやすい言葉に修正してあります。
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大きな何かに自己を明渡したいという願望は、多くの宗教のなかの本質的な要素であるように思われる。・・(略)・・それは愛に対する切望という形をとるばかりではなく、他にも多くの形をとって現れるのである。
それは、あらゆる感情に我を忘れようとする彼の傾向の中の一要素にすぎないのである。彼は「涙の海」や、自然に対する恍惚とした感情や、罪悪感への沈溺や、性の快感眠りの中での忘我状態への熱望や、究極の自己消滅としての死への願望に我を忘れることもしばしばなのである。

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僕自身が大いに身に覚えがあるものです^^;
そしてそうした「忘我願望」が強いほど、その裏には置き去りにされた「自分で人生を生きることへの絶望と無力感」が隠されていることも、自分自身の体験を通して直感的に理解できる話です。

それがまだ完全に隠された状態の描写も、『悲しみの彼方への旅』から引用しておきましょう(P.60)
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 それは、人生に対する深い絶望感でした。
 もしこのまま自分の容貌の価値さえ失われたら・・。
 それが最後の〃本丸〃だった。感情は何の意味も持たなかった。感情を材料にしていたのは、〃人生が自分に強制されたから〃にすぎなかった・・。
 僕にとって本当は人生など何の意味も持っていなかった・・。
 私は特に大きな感情も感じることなく、ただ自分の中に浮かぶそんな思考を漫然と眺めます。
 その底にある、本当の心の闇の姿を知らないまま・・。

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これは一見、「人生への絶望と無力感」「隠されている」のではなく、「現れている」ように見えるかもしれません。
しかしこれは「魂の絶望感情」をカモフラージュする「心のイメージ」でしかありません。それは「空想から現実を見下す」という「自分自身への優越感」によって、ごく皮相な感情としてごまかされているのです。

この人間が心の底に抱いた、本当の「人生への絶望と無力感」は、この本での描写が示す通り、「望みに向かう」ことで露わになります。
ここで「最後の答え」と言ったものによって、最初の峠が現れるというような話になってしまいますね。

まあそんなものです。全ての話が、大きなスパイラルとなって幾重にも循環します。説明している順番というのは、その中の順番であって、一度一通りこなせば終わりという英単語ドリルの勉強のようなものとは、根本的に話が違います。

先のカキコで述べたような否定感情蔓延ケースでは、僕の体験と同じように、その中盤において最大の絶望の峠を経るというのが、やはりハイブリッドからの理論的帰結です。
ただし、『悲しみの彼方への旅』で描写されたその深い谷のような巨大な絶望は、実は本質的なものではなく、何度か書いたように、「絶望は問題の深さを示すのではなく解決の無知を示す」ものであったに過ぎません。

魂論を踏まえ、明確に治癒と成長への道を知る中においてのそれは、そのように巨大な絶望感の姿になることは全くの無用だと考えています。


魂の治癒成長への実践-59 / しまの
No.1227 2007/05/12(Sat) 10:27:11

■「基本的自己受容」から「恐怖の克服」へ

「恐怖の克服」は、魂論における「治癒への取り組み」の、2番手として位置付けられるものと言えます。

一番手はやはり「基本的自己受容」であり続けます。つまりハイブリッドの取り組みの最初に位置付けられるのがこれです。
これは「ハイブリッド人生心理学による心の治癒成長への道」でも、そのように示していましたね。
http://tspsycho.k-server.org/guide/m00.html

「基本的自己受容」は、「唯一無二の存在としての自己の成長」へ向かう意志と定義されます。これは、人生の生き方を、自分で考えて、自分で選択していくということです。ハイブリッドはですから、「こうしなさい」とは言わず、「心の使い方」の選択肢を示し、選択を委ねるという解説スタイルを取ります。

案外、これが全くすっ飛ばされたまま、ハイブリッド取り組みをしようとするケースがあるのが時々です。それに本人も、そして僕も気づいてないまま^^;
ちょっとその状況をここで書いておきましょう。結構役に立つ話と思われ。

僕としては、ハイブリッドはあくまで「自らによる成長」を支援する心理学であって、お任せモードで「治療」してもらうという「療法」ではありませんよという最初の確認をしてからスタートしているつもり。
そして実に熱心な相談やり取りが続いたあと、突然流れが途切れ、その途切れ方から、その方が実は内面に「基本的自己拒絶」を抱え、「自分など信じない」という頑とした姿勢の上で獲得した、全てが人の目基準での「理解」と「努力」そして「ストレス」の中にあったであろうことが分かります。
あらこれじゃ全然話にならないだわさ、と僕は気づくのですが、後の祭り。チャンチャン、という次第^^;

これは比較的、精神科や心療内科などに通院したような方であるケースが大抵です。つまり、やはり最初に「療法を受ける」という「お任せ」モードがある。いかに僕の意に添うかが治癒だと勘違いしていたケース。
根底には「基本的自己拒絶」

この場合はう〜んとちょっと考えてしまうのですが、感情分析から入って「基本的自己拒絶」をまず明らかにするのがアプローチかなぁと考えています。
本人にまずこれを自覚してもらって、まずはそこに最初の選択があるのだということを、話し合う必要があると感じます。
でないと、その先の全てが始まらないと。

「魂への取り組み」の第1段階として説明した「自分に向き合う価値を知る」というのは、「基本的自己受容」の魂の視点からの表現になりますね。

そうして、自分の頭で考えて自分で決めていくという基本的な姿勢ができて、次に「恐怖の克服」2番手、そしてハイブリッド取り組みの全体を貫く、大きな「治癒への実践」として位置付けられるものになります。


■「自分で人生を生きる」ことへの絶望無力感という「成長」への峠

またこうした「基本的自己受容」が問題になるのは、多少ともハイブリッド取り組みが進んだ後の段階においてもあり得ます。

これは心理障害が生み出す感情動揺が、もっぱら治癒取り組みを促したケースです。とにかくその感情動揺への向き合い方を学ぶことで、多少の心性崩壊などを乗り越え、意識土台が改善される。以前のような絶望的動揺ではなく、なんとなく生活を維持できる。
しかしその後に、ほぼ「完全なる停滞状態」が訪れます。自己嫌悪感被嫌悪感、そして全般的空虚感の中で、全く前進が見えない状態になる。

ここでもやはり、「自分で人生を生きることへの絶望無力感」という、幼児期から獲得した感情の塊が放置されたままになっていることが考えられます。その結果、それが「与えられるべき」感覚幻想に化け、「与えられる」ためには「心がこうならねば」となり、一方で荒廃した衝動があり、自棄的な怒り感情が他人に向けられ、その報復の怒りが向けられるという感覚が起きる。
こうして、いつ終わるのか分からない「恐怖に囲まれた人生」だけが見える状況になります。

これは「人生を生きる」ということ、そしてこの世界と人間についての理解、そうした人生観・世界観・人間観を問う「価値観思考」の検討と同時に行われる感情分析が、アプローチになると考えています。
そしてハイブリッドのサバイバル世界観と科学的人間観が、この人間が幼少期から抱いたそれに対する対案として示されます。

それを、頭の中で考えるだけではなく、一度「自分で人生を生きることへの絶望無力感」に立ち返って、検討する必要があります。
「恐怖の克服」への理解も、そこに連合軍として参加する必要があるでしょう。また「自分で人生を生きることへの絶望無力」の原因となった、社会で生きるスキルについての勘違いも修正を図らねばなりません。
最後に必要なのは、間違いなく、「生と死」というものを天秤にかけての、「自己の現実」に立った「基本的自己受容」を選択する勇気になるでしょう。
これはこの後紹介する返答文の続きで、自分を「心のハンディを持つ者」として受け入れる姿勢として説明しています。

基本的自己受容」そして「恐怖の克服」は、こうして、ハイブリッド取り組みの入り口だけではなく、その中盤においても大きく問われるテーマになるわけです。

こうしてここで書いたような話は、主に最初から否定感情が蔓延した難しいケースの話になりますが、それが成された時、その後の道のりは、そうではない、比較的短期間で変化を体験されている良好なケースと同じものになると考えています。
まあその峠が大きいということになるでしょう。

ちょっと毛色の違うテーマも入ったので、これだけカキコして、「恐怖の克服」概説を次に。


魂の治癒成長への実践-58 / しまの
No.1226 2007/05/12(Sat) 08:29:56

■「見えないものの大きなつながり」サマリー

「見えないものの大きなつながり」の鍵は、「恐怖」「与えられるべき」観念です。
まずこれについて説明した返答メールを紹介しましょう。

そして「見えないものの大きなつながり」のメカニズムとは何なのか。結論を書いておくと、「魂が抱く恐怖」「感情の膿」です。それに対する耐性がない、つまり「強すぎる恐怖」によって、人格の根底に隔離された恐怖感情の膿と、「人生を自ら生きる」ことへの無力絶望感情が置き去りにされ、意識表面には「与えられるべき」観念が生まれる。
「心がこうであれば」というイメージと、「あるべき姿」によって「与えられる」という「自らは望まない」という「自らについた嘘」の最大骨格が生まれます。

答えは「恐怖の克服」にあります。これは意識思考における恐怖の克服と、感情の膿に実際に向かい得る強さという2面によって成されます。
意識思考における恐怖の克服によって、「与えられるべき」観念の中の思考論理面が解消克服されると考えています。
一方、「与えられるべき」観念のイメージ感性面はそれだけでは解消克服されず、ここに「感情の偽装」という最後の「自らについた嘘」の核とも言うべきものが焦点を浴びるようになる。

それを突破する、「望みに向かう」が答えの最後に位置付けられます。最後まで「自己操縦心性の崩壊」が特別な現象として、その役割を果たすものになります。
それにより、我々は自らの心の不実を知ることになるのですが、同時に、なぜそれが必要であったのかを理解しなければなりません。
嘘と真実「現実を生きる」ということ、そして人間の不完全性というものの真の姿を、我々はその時初めて知ることができます。それを受け入れ、全てが「傷ついた自分」を救うために自己操縦心性が成したことであったのを受け入れた時、我々は「無条件の愛」という人生における光を、始めて見ることができるでしょう。

そこに、その光に照らされた、新しい、揺らぎのない人生が見出されると、僕は感じるわけです。


ではまず、「恐怖」と「与えられるべき」観念の意識下つながりという、「見えないものの大きなつながり」のメカニズム解説から。
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■「与えられるべき」感覚の幻想と思考障害

まず、先日のメールで「今まで手付かずだった」と言った件について説明しておきましょう。
これは心理メカニズムアプローチもいまいち見えなかった部分であり、Aさんにもその該当する「症状」があったという話になります。

これは「与えられるべき」感覚の話です。
Aさんの場合ですと、「自分が相手の立場で自分を見たら」という設定で考えてもらった結果、かなり辛辣に攻撃する内容の思考が現れていました。
一方で、でも実際には「攻撃される覚えはない」と感じるという話。これは論理の矛盾です。

つまり、「自分だけは特別」という感覚でもありますね。これはAさんだけの話ではなく、ハイブリッドに相談に来られて、なかなか変化しない方に共通の特徴です。どうも奇妙に、周りの人間世界と自分とが対等な関係にあるのではなく、一方的に自分が与えられる側に立つという論理の偏りのようなものがあるのを、僕としては感じていたわけです。

でその偏りが、どうもハイブリッドで一般的に扱う「感情の動揺」とは、ちょっと異質な問題であるのを感じていたのが正直なところです。
はっきり申し上げますが、つまりそれは「感情の障害」ではなく、「思考の障害」が起きているということです。
これは程度が強くなると、「精神障害」と分類されるものに該当してきます。

ただし「精神障害」というのは実際その強度深刻さが社会生活を難しくするほどのものであり、この要素はいわゆる心の悩み、心理障害においても一般に起きています。Aさんの場合も、レベルとしては充分セーフなので、こうして相談してもらっている^^;

ただまあこの異質な問題の厄介さが深刻なのは否定できず、「感情の障害」ならどんな深刻でも極端でも「精神障害」にはならないのですが、「思考の障害」は深刻になると一気に「病態」の質が悪化してしまいます。
Aさんも以前自分が「境界性人格障害」だと感じたこともあるとのことだったと思いますが、その「精神障害との境界性」が、この「自分だけは特別」という感覚論理になるわけです。


■未克服の「魂の恐怖」(感情の膿)が「与えられるべき」感覚の幻想を生み出す

で今まで、この「自分だけは特別」という感覚論理について、僕としては何とか理性に訴えてその不合理性を自覚してもらうというアプローチしか考えられなかったのが状況でした。
「人にこう思われる」の候補立て分析なども、これを浮き彫りにする手法として考えた次第。

でもそうして「自分だけは特別」という感覚論理を本人に自覚してもらっても、それを自分で疑うことができない状況も考えられ、そうなるとちょっとお手上げかとも考えていた訳です。
Aさんの場合もちょっとこの可能性があるかもと。

ところがどうも、今まで考えつかなかったメカニズムが見えてきたわけです。

それは先日の「人生への嫉妬」が実はイメージの嘘が作っているらしい、という発見あたりからです。この「人生への嫉妬」も、やはり「与えられるべき」感覚があってこそ、そうなりますので。

で考察は、それがなくなった段階までの流れを追ったわけで、この辺のもう少し正確な話は掲示板でまた考察しようと思いますが、明らかに、それがなくなる段階との間には、どうも「恐怖が強すぎて向き合えない」というものが間に介在していたということです。
それがなくなると、「与えられるべき」論理のない感情論理の世界になります。この2つの間には、意識上のつながりは全くありません。

つまり、一方には恐怖が強すぎて向き合えないものが心の底にあり、一方には「自分だけは特別に与えられるべき」という論理が幻想的にあるわけです。この2つの間の意識上のつながりがない

従って、「恐怖が強すぎて向き合えないもの」がなくなれば、意識上ではそのつながりは全くないまま、「自分だけは特別に与えられるべき」という論理の消えた思考が現れるのではないか、というのが僕の今の仮説です。
これが昨日のメールで「恐怖の克服方法が分かってくると、思考の内容が非連続的に変化する」と書いた話です。


■「与えられるべき」感覚幻想の3形態

なおこの「思考障害」としての「与えられるべき」感覚幻想には、大体3形態があると考えています。

これは詳しくはここではどうでもいい話ですが、僕の整理としてこの場を借りて書いておけば、
1)自分は特別に怒り非難を免れるという論理
2)対等性の欠如
3)自分が人に特別に意識されるという感覚

となります。

先日の親睦会欠席の件は、上記3)を浮き彫りにして、対案思考をできるようにすることを狙ったものです。

>>「空気を読んで」の結果としてではなく、つまりAさんの職場ではなく他で同じ状況の人がいた場合の、人がどう思うかの候補として考えて下さい。
>空気を読まず、単純に考えるなら、「行きたくないなら行かないでいいんじゃないの」ですね。

まあ大体そんなところですが、僕が用意した答えは、「特に気にしない」です。
「行きたくないなら行かないでいい」とさえ、意識はしない。

これは非難されるという想定とは逆の形で、孤立感を刺激する可能性があるものです。つまり、自分の存在など誰も気にしないという感覚。
ということは、非難されるイメージは、実はその回避のために生まれているというメカニズムも考えられます。「実は得ているものがある」わけですね。

>実際欠席したからといって誰かの態度が変わるということもありませんでした。

これはまあ「さもありなん」ですね。

こうした思考整理で重要なのは、「白い目イメージ」がまずは現実ではないというのを、しっかりと実感を得ることです。
それは人が自分に向ける目の現実ではない。

ではそれは何かというと、結局「自分の目」なわけです。
そこで、「自分が相手の立場で自分のような人間を見たら」という設問が意味をもってきます。明らかに、自分を攻撃するのは、他人ではなく自分なんですね。

そこに「恐怖」が起きます。

自分に向けられる白い目が他人の現実ではない。自分は非難を免れるべきである。自分が相手なら自分を攻撃している。
これは論理が成立しません。「恐怖」がどこから向かってくるのか、得体の知れないような形になります。
話がつながってきましたね。
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魂の治癒成長への実践-57 / しまの
No.1225 2007/05/11(Fri) 16:51:28

■「ガチガチ人格脳」の3つの特徴(続き)

3)断絶隔離された深層感情の存在

現実の不在」そして「感情の強制」に続く、「ガチガチ人格脳」状態の3大特徴の最後は、今までの話が本人にも何とか分かる話であるのに対して、今度の話は本人には完全に分からなくなるものです。

それは、全く意識体験されていない、全く異なる感情が意識下に存在するということです。
「精神分析」とは、まさにこれがあって成立した科学領域です。ハイブリッドの「感情分析」も、それに近づくアプローチです。
この様子は、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro11.jpg
に図示しましたので参照あれ。

この「断絶隔離された深層感情」の存在を描写した分かりやすい例は、僕の最初の出版本である『悲しみの彼方への旅』の全体そのものです。事実僕はそれを社会に知らせるために、この本を書いたとも言えます。

中でも最も端的なのは、この自分自身の内面の内面に苦悩し、やがて自己の探求の中で置き去りにされた過去の自分を蘇らせた主人公に、それとは全く別の人間として生きることに成功していた「躁の時代」という人生期間が存在したことです。快活さを演じ、自分が思いのままに行動して人とも仲良くなれることに、一点の曇りも感じなかった人生の期間です。
それとは異なる内面を、今の僕の目でその時の、“やがて今の僕になった人間”に見出そうとしても、感じることができるのはその描写で書いた通り、だた“全く音のない静寂”だけが見えるという印象です(P.33)

その同じ人物が、やがて描写したような「心の旅」を歩む。


■恐るべき「魂にとって別人」への成り切りメカニズム

そう概観したとき、人間が心の底に隔離した「魂の感情」とは別人になり切ることが実際のところできる可能性は、恐るべきものがあるように感じます。
事実、心理障害傾向に悩まれる方に、同じように「うまくいっていた自分」という人生の時期を持つ方が少なくありません。そしてしばしば、その気持ちは当然分かるような話として、そうした「元の自分」に戻ることが、自分の心の問題解決なのだと考えます。
これは一体何なのか。

実際のところ、「うまくいっていれば」、そうした「うまくいっていた自分」のままだったかもしれないのです。僕のように心の深層に全くそれとは違う闇の感情が「実在」していたとしてもです。

そうした「うまくいっていた自分」においては、心の成長が実はどうかという視点は、ハイブリッドにはありません。
ただ言えるのは、実際のところそのままでいることができなくなったという事実があり、そこからハイブリッドの視点が始まるわけです。同時に、人が「うまくいっていた自分」のままで最後までい続けることが本質的に可能かどうかを考える視点はハイブリッドにはなく、ただ言えるのは、一度「うまくいかない自分」になった人間が「うまくいっていた自分」に戻ることを解決と考えても、それはまず不可能だろうということです。

実際僕の場合も、「躁の時代」の中では心の成長は止まっていたかと考えれば別にそうでもなく、今の僕から言えるのはただ、それも自分の人生の一時期だったという、それ以上のことでもそれ以下のことでもない「現実」があるということです。
一方その後の人格動乱(^^;)の中では、「躁の時代」の自分への現実感が一過的に失われる場面もあります。これは人格の断裂がある中で、一つの人格から他の人格が見えなくなるというメカニズムでしょう。治癒に伴ってこれは解消し、人生の全ての時期がつながって実感されてくるという形になります。

そしてまた、これだけは言えるというのは、「魂の感情」を偽った感情の上で築いたものは、人生においては何も残らなかった、ということです。
実際それは具体的に何かと考えても、特に何が残らなかったという印象さえ薄いほど、単純に、その時期の自分で今も残るのは、写真の趣味くらいのもので、特に人間関係の面では何も残るものはありません。


■「なりたい自分になれている」という幻想とその崩壊

事実上記の雑感が、その35(4/22)“「あんな心があったら」どうなれると言うのか”という問いを出し、次のカキコで考察すると書きながらしないままでいた(^^;)答えです。

「自分には何の心の問題もない」という自己イメージで生きる状態に、なり得るということです。
ところがこれは、http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro11.jpg
の図における、「ガチガチ人格脳」と「ピュア人格脳」の奇妙な相似形を気づかせるものです。つまり、「ガチガチ人格脳」が完全に深層の魂感情層を切り離すことに成功した時、人は自らの心をピュア人格脳だと錯覚して生きることになる、ということです。
この極端な姿は、もちろん精神障害の世界になります。もはや現実とは全く別の、自己完結した空想世界の中で生きる姿です。

ではその中で生きる人間自身から見た時、何を「現実」と考えればいいのか。
一方には、「自分には何の心の問題もない」と感じて生きている人間がいます。僕の「躁の時代」のように。そして『悲しみの彼方への旅』に描写された内面の闇の中の放浪へと向かう人物も、同じ人間である。そう思い浮かべる時、そのあまりの別世界の感覚に、いったいそのどっちが「現実」なのかという疑問が浮かぶ錯覚も覚えます。

これが、魂論における「治癒」の側面の大きな軸である、「空想と現実」というテーマを投げかけます。
「なりたい自分」に「なれている」という感覚が幻想であるとした時、「現実」はその空想通りであって、それが「現実」ではないかという考えも浮かびます。一方、内面の放浪の中で蘇らせた魂の感情こそが「現実」だとした時、それはあまりに「現実」とは別の、内面だけの話のようだという考えも浮かびます。

まあこれがハイブリッド魂論の中でも、最も深淵な話の領域になります。
結論だけ言っておけば、「魂は現実を志向する。だが魂は現実を知ることができない。心は現実を見ることができるが、心は空想を使いもする。そして恐怖から逃れるために心が空想を使った時、魂の感情と現実が失われる」となります。

「見えないものの大きなつながり」のメカニズムを示唆するもう一つの側面として、「なりたい自分になれている」という幻想がどのように崩壊していくかの過程が、ちょっと僕の興味を引きました。

これはどうでもいい話かも知れませんが、簡潔に言うと、まずそれは自分の心への異和感から始まるように、僕自身の、そして他の多くの例を概観して感じます。
それは「なりたい自分」でいるために「必要な感情」が、自分の中に湧いてこないことへの異和感のように思われます。まるで車のガソリンが切れてしまったかのようです。
そして暗雲の焦りの感覚と共に、自分が別の自分へと変化していくという時間を迎えます。暗雲の焦りはやがて、「なりたい自分ではなくなった自分」が、回りの人々や世界の中で、自分にとってなってはならない構図の中に置かれるというイメージへと明瞭化されます。自己嫌悪感情と、他人から自分に陰険残忍な軽蔑嫌悪が向けられるというイメージが心を覆うようになり、「心理障害状態」として「感情動揺に満ちた状態」へと「安定」します。

このように、「なりたい自分になるために必要な感情」という内面におけるズレが、やがて回りの世界と他人との軋轢と圧迫へと、まるで同芯円が拡大するかのように拡がっていく、という流れです。


■魂論における「治癒」軸のサマリー

一体何がどうなっているのかと感じられるかも知れませんが、答えは実に単純なんですね。
「現実」は「知って」向かい得るものではない、ということです。

魂は現実に向かおうとします。だから、魂の望みに向かうことで、我々は「現実を生きる」ことに近づきます。
そこに「恐怖」が出てきます。「新たな現実」は「恐怖という敷居」の先に開かれます。
つまり、我々は望みに向かうことで現実に向かいます。そこにおいて、望むことが「恐怖」になります。


「心」が恐怖の克服を知らず、恐怖から逃れるために、空想という「自らについた嘘」を使ったことが、全ての問題の始まりです。
「自らは望まない」という嘘をです。「あるべき姿」であれば「与えられる」という嘘を。


従って、魂論における治癒の「軸」は、「恐怖の克服」「望みに向かう」になるわけです。

これを理解するために必要な、「見えないものの大きなつながり」のメカニズムの説明を入れてから、最終総括へと行きましょう。


魂の治癒成長への実践-56 / しまの
No.1224 2007/05/10(Thu) 17:00:01

■「ガチガチ人格脳」の3つの特徴

さて、先のカキコで『悲しみの彼方への旅』から描写を抜粋したような、「ガチガチ人格脳状態」の特徴としては、大きく3つのことを指摘できると思います。

1)「現実」の不在

まず第1に、僕自身が実感としてしみじみそう感じるのですが、「現実」というものが心の中にほとんど存在しないと言える状況が起きていることです。

もちろん完全に「現実」が「瓦解」する「精神障害」ではないので、「現実」が「空想」とは一応別(^^;)に存在していることは分かっているのですが、心の中のイメージや衝動があまりに強く、足元から根こそぎさらうような圧倒性を持っているので、どうしても「現実」をイメージや衝動を通して見るという形にならざるを得ない状態があったわけです。

つまり、空想世界がこの人間の「生」における「主座」を持っています。

中でも、「なりたい自分」「なるべき自分」の空想の圧倒的優先度が特徴と言えるでしょう。外見の話よりも内面の、「持つべき感情」というのが重要な話になります。そこにおいて、空想とは違う「現実の自分の感情」というものを見るならば、まずそこにあるのは「無の空間」であり、まずそれを埋められるものとしてあるのは、「なるべき自分」に合わせての「感情の強制」があるわけです。

そして実際にそう振舞おうとして、そうできない場合にあるのは、やはり「現実の自分の感情」というより、そんな自分を処罰する感情です。まずそれが目の前を覆います。
ここにおいては、はっきり言って、「現実は邪魔者」なのです。

2)感情の強制

2つ目の大きな特徴は、上で既に触れました。「感情の強制」です。

「感情の強制」というのは、改めて書きますが、奇妙な人間の心理現象であって、通常そんなものは何のことか分からないものです。健康な心においては、それは基本的に存在しないものです。一方、感情の強制が充分に機能していると、本人がその存在に気づきません
つまり、感情の強制が知覚されるとは、感情の強制が不十分に機能した状態です。

つまり、「感情の強制」が自覚されるのは、それが存在する心理障害をこうむってから、健康な心へと治癒する過渡期のみに、その存在が本人に自覚されるものです。

これが実に分かりやすい描写が、今行っている僕自身の日記読み返しで、つい先日そんなものがありましたので紹介しましょう。
「実例描写1」の時期のもので、いちおう「メルト人格脳」状態でのものです。
前半は「感情の強制」とは別のものですが、一応それも面白い心理メカニズムが読み取れるものですので、ついでに載せておきましょう。

2003.6.18(水)
 会社で午前、
“頭に血が昇る怒り”の起きる出来事があった。協力会社のTさんから、「・・・をお願いします」とメールが来た時だ。自分の作業はその前段までであって、その作業は先方の役割だった。結局彼が分かっていなかっただけで、その「怒りの反応」によって一時的に起こした心身不調は、事実全くの無駄だったのだ。
 
「戦闘モード」になった時、“相手の力に押される”という感覚があったように思える。それに対抗して、自分の力を結集して相手にぶつけ返すというイメージだ。
 
相手が“力で威圧しに来る”というイメージがスタートだったのか。

 退社する時、ちょうどTさん(男)とMさん(男)が席を立つのと重なってしまい、ぎりぎりで別のエレベーターに“乗れる”。駅までの道を一緒にしたくないという気持ちは切迫したものがあった。嫌悪感の度合いは以前より遥かに小さいものの、同じ構図がどうやら最後まで続くようだ。
 なぜ嫌かと言うと、
道すがら目的のない会話をする状況に入るためには、感情を切り替える必要があるのだ。その切り替える感情というのが、疲れるのだ。・・(略)・・その感情の中では、僕は相手との「話に興味を持たなければいけない」。さもなければ、嫌がっているか暗い気分(閉じこもり気分)にいるかと相手に思われるというイメージがあるようだ。

日記前半の部分は、「怒り」が起きる面白い(?^^;)メカニズムをうまく示す例です。

“相手が力で威圧しにくる”というイメージがまず起きているということです。そのイメージを真に受けずに対処していれば、そのイメージが全くの事実ではないことが分かるわけです。

ところがそのイメージを真に受けて、自分も怒りの力を結集して返す行動に出ると、相手は身構えて同じ姿勢になるでしょう。つまりこの場合、イメージが正しかったのではなく、自分の心の中のイメージを真に受けて行動することが、イメージ通りの姿を現実の相手から引き出すということです。まあ大抵、本人はイメージを真に受けた、「イメージが事実だった」という思考のままです。


■「感情の強制」と「イメージの信じ込み」の意識下つながり

日記の後半で僕が自分の中の「感情の強制」をありありと自覚したのは、まさに「感情の強制」を真に受けない状態になったからこそです。この同じ時期においてイメージも真に受けない姿勢が出ているのは、偶然の一致でなく、意識下には両者の連鎖関係があることが考えられます。

つまり、感情の強制が充分に機能しているとは、他人のイメージも完全に事実だと信じ込む心理構造になっているということです。

ですから、「ガチガチ人格脳」の3大特徴には入れませんでしたが、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro11.jpg
に示す通り、「残忍陰険な他者イメージ」が硬直したものとして抱かれる傾向があるのも、この状態の特徴です。
これはこうした初期段階においては、敵対攻撃的衝動がこの個人の中に不可避に存在する一方、それへの自己嫌悪から目をそらすための感情強制が働いているという状況の結果、かなり必然的なものとして起きていることが考えられます。
まあこの表現は難解ですね。平たく言えば、内面に敵対攻撃感情を抱えながら、自分は正しいと考えようとするならば、どうしても陰険なのは他人の方だという論理になるという感じですかね。

また、上記紹介の日記の描写などから言えるのは、「感情の強制」がかなりストレスのある「作業」であることです。当然、それに対する自分自身内部での抵抗感や反発も生まれるでしょう。
これも再び、感情の強制が有効に機能していると、自分が自らの感情強制への抵抗反発を感じているとは体験されず、人から「あるべき姿」「こんな感情でいる自分」を強制されているという感覚と、それへの抵抗反発感として体験されます。

さらに、そうして「あるべき姿を強制する他人」への抵抗反発を、その相手が察知して、相手に従わない自分への不快嫌悪を抱く、というイメージが起きます。そして再び、その「相手が自分に嫌悪を向ける」というイメージを真に受け、その陰険さを怒ります。

かくして、「自分に嫌悪が向けられる」というイメージと、そうした他人への怒りは、もはや何をどう解けば解消するなんて言えるどころではない、がんじがらめの連鎖の収束結果です。
取り組み上、それを直接解消するような方法はまずありません。正しい方向性は、とにかくそうしたイメージを信じ込まずに、建設的・原理原則的な思考法行動法によって、イメージとは違う現実を見る目をまず持つことです。


そして次は、まず「恐怖の克服」なんですね。ここで完全に、いったん話がつながらなくなる別のことに、まず取り組む必要があるんです。
なぜか。その大局的メカニズムを理解頂くのが、この魂論の当面のゴールです。

ここまでが、「ガチガチ人格脳」状態の中にある本人の心に見えるものです。
引き続き、今度は本人の意識に全く見えなくなっているもう一つの特徴を説明し、そうした「見えないものの大きなつながり」の説明を進めていきます。


魂の治癒成長への実践-55 / しまの
No.1223 2007/05/09(Wed) 12:48:18

では「ガチガチ人格脳」状態実例描写の紹介へ。
このカキコ一つで終わらせましょう。すぐ総括考察へと向かいます。いよいよハイブリッド心理学の完成(何度そう言ったか^^;)が真近の感で今一瞬ジンと来たりして^^;


■実例描写3:「現実が存在しない」段階

「メルト人格脳」状態では、現実を建設的に生きる心の基盤が獲得された一方で、心に閉ざされたイメージと衝動を通して、魂の感情層にまで手を伸ばすことができた段階と言えます。
だから、「魂の望み」に向かう行動を契機に、「ピュア人格脳」への根本変化が起きた。

それが全く起き得ない、初期段階の状態があります。
これはまず実感かつ直感として、『悲しみの彼方への旅』で描写した自分の初期段階にあったと感じます。

まずそれが分かりそうな部分を抜粋します。何となくこの「ガチガチ」がどう「ガチガチ」だったのか、イメージ的に分かるのではないかと。
僕自身が一言でそれを振り返るならば、「現実というものが存在しなかった」が正直な印象なんですね。
それが表れている描写を紹介しましょう。

一方、僕がその後、本で描写したような変化に向かったのは、「自己の真実に向かう」という強力な姿勢、そして実は「メルト人格脳」型の「現実立脚」の部分が人格内に多少あったからです。
「ガチガチ」もかなりの強烈さがあったわけですが、それを突破する治癒への種が同時に埋め込まれていたという感じですね。だから独力でそんな経緯をたどりやがてこの心理学を作るという、宿命的状況があったようにも感じます。

そうした「ガチガチ」部分と、「メルトの種」部分を、色違いでマークしておきましょう。

P.57
 夏休み明け、私の心の中は、人々への自然な振る舞いのできない自分へのすさんだ感情を湧きあがらせることから歩みを再開しました。愛しさを感じた下級生の子にも、
どんな振る舞いをできるかと意識しても、ちぐはぐで何もできない自分。どうせ自分は嫌われるのだ、という絶望的ですさんだ孤独感
 自分は一体これからどのように生きていけばいいのか。。
 私の頭の中に、
他人を憎むことに徹する自分の姿が浮かびます。しかし幸いそれは不完全でした。憎しみに徹することを放棄して、寂しさをさらけ出す自分を思い浮べた時、あの根源的な悲しみが湧き起ってくる。。
 でもそれは暖かいものを前にした時の悲しみなのだ。
現実の人間達はまるっきり違う。そうした人間達の前で、僕はまるっきり無力になるより他はないのか。。
 私には、
自分の容貌への執着の理由が分ったような気がしました。この冷たい世界の中で、せめて自分自身が自分を愛さないとしたら、自分は一体生きるすべを持つのか、と。
 この頃に私を覆った感情は、私の生涯の中でも最もすさんだ感情のひとつでした。

P.64
 私にとって、
恋愛は今まで空想の中でのみ可能なことでした。それを現実の世界での行動とするには、私の前にはあまりにも深い深淵のような不安があったのです。
 しかしもうそれでは済まされない。空想の中で抱いた彼女への愛情は、この現実という世界で果たして存在し得るのか。それにこれからの自分の生き方がかかっているかのように。
 私はすぐに空想と現実のギャップを思い知ります。
 
頭ではあの子に笑顔で手を振る自分を描きながらも、現実には緊張し、体が硬くなって、あの子に見つかるまいとして別の方向に向かう、みじめな自分。泣きたくなるような怒り。
 根本的には
自分は、彼女に認められるだけの価値のない、中身のない人間だと、僕は感じているようだ。僕が持っている、自分の容貌についてのプライドや、いかにも落ち着いた態度でいようとする態度は、それを隠そうとするものなのか。。

P.81
 
結局自分は、あの子に近づくために頼りにすべき自分の感情というものを、持っていないのだ。自分に、彼女に近づくことなど、できないのだ。。
 そうして自分の中の無力感をそのまま感じるようになった私の意識が、いままで表面的な理性で隠していたかのような、深い感情に到達します。
 私は大学のキャンパスで、前方にあの子が友人と一緒に歩いているのを見ます。
 自分がもうすぐ彼女らを追い越す。
彼女の方を向いて、優しい表情で「さよなら」とあいさつしようか。。もうあの子が目の前に来ています。
 しかし
震える私の心は、私の体を別の方向へと歩かせ、私はベンチに座り、全身の力が抜けているのを感じていました。
 
もう自分への怒りは感じませんでした。ただ恐かったために彼女に近づくことのできなかった自分を、私は受け入れていました。
 そのまま帰った私の心の中に、あの子へのあまりにも強い思いが湧きます。私は駆られるように、ホーナイの愛についての記述を読みました。自分の心の問題を克服しようという意志の中で。
 
それは、自己の弱さ、そして強さ、その全てをも委ねた愛の感情でした。他者との競争もない、敵意も軽蔑もない、そして愛が報いられないことへの怒りさえない、愛に身を捧げようとする感情でした。

これらの日々の自分を思い返してまず感じるのは、「現実というものが存在しなかった」です。

一方で、僕にはそんな自分を見る、もう一つの目がありました。科学の目です。
そしてそのもう一つの目で「ありのまま現実」が見えるわけでもありません。そこで捉えられる「現実」とは、「自分に現実というものが存在しない」という「現実」なのです。
それが第一歩になります。

あとはまあ僕の場合、魂の感情が抑圧を免れていたといえますね。

とにかく、最終総括へ向かいましょう。


魂の治癒成長への実践-54 / しまの
No.1222 2007/05/09(Wed) 12:03:53

ちょー学術文章的な説明で一個考察追加ですが、大きな話なので手短単独でカキコしておきます。

■「メルト人格脳」から「ピュア人格脳」への脱皮の契機

先のカキコで説明したように、「メルト人格脳」とは、一言でいえば「閉ざされたイメージと衝動」および「建設的な心の基盤」の並列状態です。
「ピュア人格脳」では、「閉ざされたイメージと衝動」は消失し、「建設的な心の基盤とまっさらな感情」だけの一枚岩構造になります。

で次に、もう一つ「脳の構造」として異なる状態の「ガチガチ人格脳」の具体例を出しますが、その前にもう一つ考察を入れて起きます。

今までの実例描写は全て「メルト人格脳」上で起きたものでしたが、「実例描写1」「実例描写2」に分けていました。この「メルト人格脳」段階内における本質的違いと変化とは何か。

「実例描写1」でたどられた感情連鎖の解きほぐしは、その36(4/23)にサマリーしたように以下のようなものです。
他人の陰険さ」→「感情強制問題」→「敵対攻撃感情」→「人生への嫉妬」→「自分にあるべきだったこんな心」→「欲しかったこんな心

これが「実例描写2」に前進した本質的な違いとは、その感情の最後に示される、「欲しかったこんな心」つまり「心がこうだったら」というイメージによる自分への制約を突破する心の動きが起きたことです。
これはあくまで同じ「メルト人格脳」上で起きたこと。つまり、この変化は「脳の構造変化」ではなく、同じ脳の構造上での思考法行動法の変化だということです。

そしてそれによる「現実行動への踏み出し」が、「現実性刺激」を与えることで、次のピュア人格脳に変化するような、心の根底の地殻変動のような現象が起きたということです。まあそれがハイブリッド用語で言う「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」という治癒メカニズムであるわけです。

一つの脳状態内における「成長」が、次の脳状態への脱皮への非連続的変化を準備したということになります。
そしてこの準備つまり「こんな心イメージによる自分制約解除」が何によって成されたかというと、「実例描写2」の最初の例として紹介したように、「恐怖の克服」です。

これで全ての話がつながり始めてきます。まあ読者の方にはまだ見えにくいものと察しますが。

つまり「脳の構造変化」の正体は、「イメージ」つまり「空想」と「現実」が軸になるということです。そこにおける「脳の構造変化」は「治癒」の側面です。それを促すのは「現実性刺激」というのが大きな役割を果たします。
これは「縦断的」に見た話です。

次に「横断的」に見ると、それぞれの脳状態内で、思考法行動法の変化などによる感情内容の変化があります。これは「」「自尊心」「人生」を軸にした、情緒的な側面です。これは一つの脳状態内における「成長」だということになります。
そしてそうした思考法行動法による「成長」の中で、「恐怖の克服」が、脳の構造変化という縦断的な治癒の動きを媒介するということになります。

よりまとまった総括を、「カチガチ人格脳状態」の実例紹介の後にしましょう。


魂の治癒成長への実践-53 / しまの
No.1221 2007/05/08(Tue) 21:40:03

■「脳の状態が変化したかと思える」の「脳の変化」の正確定義

さて今まで紹介したのは、「人格脳状態」というちょー難解用語で言う「メルト人格脳状態」を舞台にした、変化の過程の描写でした。
「人格脳状態」には3種類があります。以下参照。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro11.jpg

この「メルト人格脳状態」の段階の特徴とは、外面行動においては現実的で建設的な思考と行動が充分にできるだけの心の基盤ができている一方で、心の底にはさまざまな衝動とイメージが交錯するのを見ることができている状態です。
そしてその中で、自分にとって真実と思われる衝動に向かう歩みの中で、今まで硬い底の下に隠されていたような、魂の感情毒のような自己否定感情が湧き出し、その後に、それらすべてが消え去った新しい心の状態が生まれるという経緯です。

その後に生まれる「人格脳状態」が「ピュア人格脳状態」です。
これはほとんど「イメージ」のない心の状態です。「自己イメージ」も「他者イメージ」もない。ただ「現実」の自分と他人がいて、それに対して湧き出る感情でそのまま生きています。
つまり心の内部に、表裏や断層のない状態です。これは実感としてとても良い心の状態です。

こうした心の状態の違いを「人格脳状態」とわざわざ用語をつけたのは、実際それが、「脳の構造が変化したかと思えるほどの根本的変化」と表現している「変化度」の、具体的で正確な正体を定義しようとしているわけです。

それで言いますと、上述における「脳の構造的変化」は明瞭だと思います。
片方では、心に閉ざされたイメージと衝動がさまざまに移ろい変化してはいます。それはイメージと衝動の内容の変化です。
しかたもう一方では、心に閉ざされたイメージと衝動は、もう「ない」のです。
この変化が、量的なものではなく質的なもの、否、「質量」的なものではなく「存在世界」そのものの変化であることがお分かり頂けるかと思います。

同じような、「存在世界」そのものの変化が、「メルト人格脳状態」の前にもう一つあります。
それが「ガチガチ人格脳状態」。まあその印象をそのまま言葉にした安直なネーミングですが、その実例を『悲しみの彼方への旅』から抜粋して紹介しましょう。
そしてその「脳の構造レベルの変化」における差異について説明します。

これもいったん手短にカキコ。


魂の治癒成長への実践-52 / しまの
No.1220 2007/05/05(Sat) 13:41:40

■「心と魂の成長」そしてそれを阻むものと「治癒」

さて、魂論の総括後半へと進めたいと思います。
前半は、「成長」の話でした。これはまだ「障害」のメカニズムが介入しない形での、健全形を主に考察した話になります。

最も大枠における結論は、その50で述べた「心と魂の役割分担」が示すものになります。

「魂」「愛」をつかさどります。「心」「自尊心」をつかさどります。そして我々が意識して思考できるのは「心」です。「魂」は直接意識することはできず、常にそこに「ある」魂の感情を、「心」がどのように受け止めるかの姿勢は調整することができます。
従って、「心」は「魂」が願う「愛」を支えるような「自尊心」を目指すのがいいことです。これは「求めることなく愛に向かう」という姿勢になります。日常生活においては、目指すべきは愛というより、「強さ」だと考えるのがお勧めです。これは愛に背を向ける強さではなく、愛を守ることのできる強さの話です。そのための実践的な答えが、「建設的であること」「生み出す価値に生きる」ということです。


「魂」の「愛への願い」は、それが形において満たされることを求めると、逆に見失われる傾向がありそうです。なぜなら「心の感情」によって魂の純粋な感情がまぎれてしまうんですね。純粋な魂の感情については、我々に最もできるのは「看取る」という姿勢です。魂の「愛への願い」を看取ることができた時、自分の魂に魂が宿り、魂が豊かになり、愛が溢れてきます。この「溢れる愛」は「求める愛」とは別種の「愛の感情」として、やがて満たさせない思いを凌駕します。

これがちょーサマリーになります。
これが「成長」の側面です。


■治癒の総括:「恐怖の克服」と「現実の選択」

「治癒」の側面を総括するにあたっては、何がそのような「成長」を阻むのかを捉える必要があります。
成長を阻む要因が、「障害」です。それが克服解消されるのが、「治癒」です。ですから「治癒」は、基本的には「成長」に先立ってなされることが必要になります。

その順番が大切ですね。心の治癒と成長においては、これがかなり錯綜するのも事実です。今までの解説言葉だと、心性崩壊および感情の膿の放出という「治癒」のためには、多少とも「建設的であること」への「成長」が必要です。しかしそのために極めて重要な素材である「肯定型価値感覚」が阻まれている場合、それを見出すためには心性崩壊が必要です。
多少ともいたちごっこがあったわけです。

それをさらに道筋整理できる視点が、この魂論によってできてきたかも知れません。

鍵は、「恐怖の克服」です。これが全ての始点になる。
そして「心と魂の役割分担」におけるもう一つの軸、「空想と現実」です。「障害」は、この役割分担における混乱と捉えることができます。混乱の原因が、「恐怖」です。
従って、「恐怖の克服」「現実の選択」が、「治癒」の側面における主軸として浮かび上がってくる。

これも短いですがカキコして、具体的考察へと行きましょう。


魂の治癒成長への実践-51 / しまの
No.1219 2007/05/05(Sat) 12:39:22

「魂の成長」という視点から、「愛の成長」というテーマで書いた返答文がありますので紹介しておきます。
基本的考え方から、ごく実践的な姿勢の話までの概説という感じになります。

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今回の懸案テーマは「愛」ということになると思いますので、「愛の成長」というテーマについての最新視点からアドバイスをまとめてみましょう。
大きく深いテーマなので、書き始めているうちにちょっと長くなりました。最初の心理学本にもぜひ載せたいですね^^。


■「既知の愛」「求める愛」と「未知の愛」「溢れる愛」

愛が欲しい、心が満たされる人間関係が欲しい、という気持ちへの向き合い方の話になりますね。

そこでまず心に入れて頂きたいことは、「愛」の感情は「心の成長」の中で、質的に大きな変化があるということです。
もちろん、心が成長するに従って、「愛」の感情は、満たされない寂しさを前提にして求めるというものから、求めることなく満たされておりむしろ自分から溢れ出てくるという、より満足度の高いものへと変化します。

これは「求めるものとしての愛」とは、全く別種の感情と言えるほどです。言葉が別にあった方がいいのではと思うくらい。
これは心の成長の結果、本人にとって全く「未知の感情」として体験されます。

まずはこれを心に入れ、「未知の愛の感情」を目指すかどうかで、話が大きく変わってきます。
それとも今自分が欲しいと感じる「既知の愛」の中で考えるか。

そして、「既知の愛」の中で考えると、心は成長しないようです。「未知の愛」は当然現れず、「求めるものとしての愛」を求め続けます。本人はそれが「愛」だと考え、それが必要なのだと考え続け、満たされないままです。一応話のつじつまは合っています。
満たされないまま、生涯をおくると思います。

つまり、「未知の愛」にとどまり「求めるものとしての愛」を求めた時、それは満たされない、という法則がどうもあるように感じています。


■「求める愛」は満たされ得ない..

なぜ満たされないのか。これはやや不思議な感もあるテーマです。

成長に向かうことがおろそかになることが問題なのか。それとも「求める愛」というのは根本的に満たされ得ない、心の罠の感情なのか。
まあ多分その両方の要素が、少しづつあるのでしょう。

ただ両方とも完全にそうだとも言えない。成長など目指さずに「求める愛」を求めて、幸運にそれを与えてくれる相手にめぐり合うことも、可能性はゼロではない。
これはホーナイも言っていたことです。相手が人間的に成長した強い人間である場合に、それがうまく行く場合があると。そしてそんな幸運は、現実にはまずないと。

だから、「既知の愛」の中で「求める愛」を求め合う関係というのは、求めても満たされないというマイナス感情が次第に心を覆い、結果「傷つけ合う」ということになりがちということになると思います。

そのように、「求める愛」は本質的に満たされ得ない面がある。そんなことも見据えながら、「心の成長」ということを考えていくのがいいと思います。
「求める愛」の中にある、本質的に満たされ得ない面を知ることも、「成長」の一つになりますので。


■「求める愛」は「求める」ことではなく「看取る」ことによって満たされる

では、「求める愛」はいつどのように報われるのか。

僕の経験ですと、「求める愛」が満たされないことは解決しないまま、心の成長への道を歩んだことで、やがて自分の中に溢れてきた「未知の愛」が、「求める愛」を凌駕したという感じです。

「求める愛」は満たされないまま、過去の意識の座へと消えていったという感じ。あくまでこの2つの感情は全く別種の感情ですから、この2つの感情の「入れ替わり」には、何のつながりもないというのがまず実感なのです。

それでも一つだけ、この2つの愛の間のつながりが言えるような気がしています。

「求める愛」の感情について、それを満たすものを求めるよりも、それを求めた自分の「願い」「望み」の感情を見続ける、追い続けることの中に、僕が「看取る」と表現していることが起きたことです。

これは表現がとても微妙な話になります。
「求める愛」の感情を、「幼稚な感情」として否定するのではなく、しかしそれが今大人として別の個人である相手に求めても、形を取り得ないこともしっかりと受け入れる。
その上で、共に過ごすことに価値があるのであれば、その一片の建設的要素に着目し、僕は自分の魂が求める相手とのつながりを追い続けました。

そうして、自分の魂が求める相手との、「現実世界」においては対応な別個の人格としての建設的関係を築き続けながら、「魂の世界」においては「求める愛」の感情の中にあった自分の「魂の願いの感情」を、もはや現実世界とは別のこととして、これも同じように許し、追い続けたわけです。

その結果、「看取る」というような姿になったと感じているわけです。なぜならそれは最後まで、形においては「満たされる」ことはなかったからです。

しかしそれが、その「求める愛」の感情に対して、「形において満たす」のではなしに「報いる」ことができたような気がしているんです。
なぜならその「魂の願いの感情」は、「形において満たされる」ことを求めることで、その純粋な感情がむしろ葬り去られていたからです。

形において満たされることを求めず、形において満たされ得ないものとして、自分の心の中で許したからこそ、自分の心の底に置き去りにされた最も純粋な「愛への願いの感情」が、報われたような気がしているんです。

なぜ「報われた」気がするのか。これが根本的な答えになるような気がします。
純粋な「愛への願いの感情」を自分の中では許し、自分で受けとめ続けることで、それは現実においては満たされ得ないものとして、消えていきます。
しかしその時、不思議なことに、そこで求めても得られなかったはずのものが、自分自身の一部になっているんですね。最後まで「求めて与えられる」形を取らないままにです。
この実際の場面の日記をそのうち掲示板に紹介しますので(これはここ最近に紹介済みのものの話)、ぜひ読んで頂ければ。

そして、そうして自分自身の一部になったものから、愛が溢れてくる、という感じを受けているのです。
だから「求める愛」は、「満たされる」ことによってではなく、「看取られる」ことによって報われ、それが「溢れる愛」に変化する
そうゆう法則性が言えるのではないかと考えています。


■「魂の関係性」の中で「魂が魂に宿っていく」

これは今年になって展開している「魂論」の最も基本的な摂理みたいな話につながりますね。

人間の心においては、「魂」「心」が分離している。そしてそこにおいて、「魂」の感情を受け取ることができるのは自分自身の「心」だけになるのだと。だから「魂」の感情をパススルーして他人が受け取るのを求めてはいけないと。

「魂の感情を受け取ることができるのは自分自身の心だけ」にあと一つ加えるならば、もしその概念を使いたければ、あとは「神」だけが受け取ることができます。
これを「魂の関係性」と呼んでいるわけです。

そうして自分の魂の感情を受け取り、看取り続けた時、一つの魂が自分の魂の中に宿る、という印象を感じています。そうして一つの願いを看取るごとに、自分の魂に宿る魂が増えていく。魂が豊かになっていく。

ちょースピリッチュアルな表現ですが、実感としてそうなんですね。
これが「魂の成長」なのだと感じています。


■「愛が欲しければ愛だけに見入らず」「総合的成長」へ

そうした「心と魂の成長」を通して、「未知の愛」という方向性に向かうことを考えるか。
それとも「既知の愛」の中で考えるか、という話になります。
これは「選択」ですね。

「未知の愛」という方向性を考える場合の、より具体的な実践を説明しましょう。

まず言えるのは、「愛が欲しければ愛だけに見入るな」という格言みたいな話です。
これは2005/08/19からの「愛を目指す姿勢」でも書いた話ですね。

愛が欲しいと感じて、その気持ちが形として満たされることばかり求めた時、どうしても人生の他の領域のことがおろそかになってしまうと思います。人が自分にどう接するか、人が自分を受け入れるか、といった関心が心の前面になります。

一方、人生には自分から事を始め、築いていくための沢山の領域があります。仕事趣味家族生活など。
それをよりうまく行うための沢山の知恵があります。ハイブリッド心理学ではそれを「建設的思考法行動法」として色々と用意しています。

これは「愛」とはいったん別の領域になります。しかしそうした人生の領域での「成長」が、やはり「愛」を「求める愛」から「溢れる愛」に変化させる、重要な基盤なんですね。
この2つの間には、意識上のつながりはないままにです。

ですから、「愛が欲しい」という感情そのものの良し悪しよりも、それに見入って人生全般がおろそかになるのが、まずはまりやすい轍として心得るのがいいと思います。

「建設的思考法行動法」の実践は、具体的なものが沢山あります。
基本的な考え方としては、先日4/23「魂の治癒成長への実践-36」で書いた文章が分かりやすいと思います。
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より具体的に言えば、「人にどう見られるか」ではなく、「楽しみ」と「喜び」そして「生み出すもの」の共有を、対人関係のベースに置く姿勢です。仕事においても、自分がどう評価されるかではなく、自分にどのような「価値の創造」が可能かを考える姿勢であり、人生においては、それらの総合として、人の目の中でいっぱしの何ものかになることではなく、自分が人生で生み出すものにおいて生きるという姿勢です。
================================================

Aさんの場合も、まずは趣味や仕事の領域で、「建設的思考法行動法」の実践が考えられるかと思います。思考法行動法や生きる姿勢を考える中で、「感情分析」も出てきます。手短に言えば、「求める愛」の感情の中にある、純粋な「愛への願いの感情」と「自尊心の穴埋めや飾りとしての愛」といった感情を見分けるなど。
詳しく検討したければ、また色々聞いて頂ければ。

「成長」はそうした総合的な結果として生み出されていきますね。
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魂の治癒成長への実践-50 / しまの
No.1218 2007/05/04(Fri) 12:17:45

ここでは総括の前段として、3つのことをお話ししたいと思います。
「なりたかった心」にさえなれる。その最終ゴールに向いての話になりますね。「成長」の側面。
総括の後段では逆に、それが完全に阻まれた初期段階について、そしてそこからの「治癒」の側面の考察を行い、全体を貫くものを考えたいと思います。

最終ゴールである「魂の成長」について、3つの話。
まず、それが人の心をどう変えるのかという、ごく実感的な意識表面の話。
次に、その根底で起きている「魂の成長」とは何なのかの考察。
そしてそれに向かうための姿勢の話として、「愛と自尊心の分離」という、大きな、しかし今まで書かずに懐で温めていた(?^^;)アプローチの話をします。これは「心」と「魂」の役割分担についての、最も基本的根本的な考えを示唆するものになります。


■「魂の感情」は「全ての人の目」を超える

まず、ごく実感としての意識表面の話を言いますと、その後今では、僕の心の状態は、先に触れたように、まあ大体において、全ての時と場所において穏やかな笑顔でいるような、とても良いものになりました。特にそれが対人感情としてもそうなったということが、何よりも以前の自分からは遥かに異次元に来たと感じている次第です。

それがこれまで紹介したような体験と感情分析の内容とどのような関係にあるのかと言えば、意識体験においては、そこには全くつながりはありません。意識表面上では、過去に起きたこと今の自分の感情基盤は、完全に別のことのように感じられます。

心理学の目で自分を振り返るならば、何よりも大きいのは、そうして心に起きた個々の出来事ではなく、自分自身に対して自分をどんな人間と位置付けるかのブレをなくし、そして現実においても裏表なくその通りに生きるという姿勢で生きた結果であり、また単にその姿勢だけでそうなるという安易なものでもなく、現実において全ての可能性を尽くした結果として、今実際に多少ともその形で生きることができるようになったという実績によるものだと感じています。これは財産ですね。
そうした、総合的な結果だと思っています。

その点では、心理学的にその本質を言うならば、内面においても外面においても、あらゆる形において自分への嘘がなくなるということのようにも考えられます。

それでも、「魂の感情に向かう」という心の出来事自分の変化を生み出したつながりについて、意識において感じることができることが、一つだけあるような気がしています。
それは、魂の感情に向かった時、見出される感情は、「全ての人の目」を合計したのよりも遥かに大きな重みを持っている、ということです。
だから、ごく基本的な話として、そうした心の体験を持った後では、「人の目」によって生きるのではなく、「魂の感情」に従って生きるという姿勢が身につくように感じます。これはあまりにも当たり前のことのように、そう感じます。

その違いとは、例えば、僕がハイブリッド心理学を始めながらまだ会社勤めしていた頃、まあ実際まだ仕事は続ける考えでいた頃のことですが、当時に人事上の上司となり、後にトントン拍子でその大企業の上層に上っていったちょーやり手のボスから、僕は自分の成果の薄さを攻められ、さすがにその場面ではストレスを感じました。やはり会社において自分に向けられる評価の目が、それなりの重みを持っていたわけです。

でもやがて、まだ退職を決める以前の段階で、僕はもう「島野」として生きることへの決意を固めた時、そうした「人の目」の重みは急激に減少していきました。

そしてその一方で、紹介したような「魂が求める相手」への感情を再び自分の中に迎い入れた時、そうしたあらゆる「一般化された人の目」というものは、まるで僕がいつもジョギングしている海までの道の草むらにいる、一匹のバッタが僕のことをどう見るか、という程度の重みしかないというのが実感なのです。

だからと言って、そうした他人そのものへの尊重の念が減ったかと言えばむしろ逆で、僕は逆にそのやり手ボスをも、自分と同じ一人の人間として、その中にある魂に穏やかな愛着の感覚を感じるようにも変化して行きました。これは不思議な話です。
つまり、以前僕がそれにストレスを感じた「人の目」というものがあり、その同一人物にさえやがて愛着を感じられる「人の魂」という感覚があります。これは全く別のものです。

そうやって、ストレスを感じた「一般化された人の目」とは一体何だったのかと考えると、極めて明瞭な答えが出てくるように感じます。
「一般化された人の目」とは、実は「自分の目」だった、ということです。


感情分析とは、それを本来の姿に戻す取り組みだとも言えます。つまり「人の目」として心に映されていたものを、自分自身が自分を見る目として捉えなおし、その上で自己の存在のあり方を問うことです。
その先は感情分析ではなく、思考法行動法と価値観の話になります。そしてハイブリッドが見出した「人生への答え」は、「建設的であること」であり「生み出すことに生きる」です。

これが意識の中で見えること、つまり「心の世界」で分かることです。これが一つ目の話。


■「愛」と「命」の中に生きる「魂」

2つ目の話は、がらりと視点が切り換わります。
上記のような「心の世界」「心の姿勢」の中で進む、「魂の成長」とは何なのか
これはまた上の話とはまったく別の話になります。「人の目」を気にしないようになれることで、別に魂が成長するのではないのです。

これはとても単純な話のように感じられます。
単純に、「魂」というものがあるということです。そしてそれは「愛」を求めて生まれるらしい。そしてやがてその命を終えて消える
この実に単純なことをまっとうすることが、「魂の成長」のように思われます。


そしてそこに、「看取る」という話が出てきます。一つの魂が愛を求めて生まれ出て、不完全なこの現実世界の中で、それは満たされないまま終える面もかなりあるでしょう。それを「看取る」わけです。魂の感情を、最後まで見届けることです。

その時、不思議なことが起きるという感覚を、僕は実感として持っています。
満たされず、求めて失われたはずのものが、自分自身の一部になっているのです。
これを最近、「魂に魂が宿る」と表現しています。魂の感情を看取るたびに、魂に魂が宿って、魂が豊かになってくる

そして、愛が溢れてくる。これもとても単純な法則に従っているような実感を感じています。まあ情緒性ゼロの例えですが、万有引力みたいな感じですね。一つの魂の持つ「愛」が微弱でも、魂に魂が宿って魂が豊かになってくると、魂の重みの2乗で愛が溢れてくるというような。アハハ。
これはもう意識努力など全く無関係に、そうなるように感じます。


■「初めて出会った愛」の位置付け

なおちょっと補足として、そうして「魂が求める愛」が、そうではない「人目に見られるという愛」とでも呼ぶべき「愛」の感情とはどう違うものかの考え。
これは、「生まれてから最初に出会ったものへの愛」が、どうもやはり鍵になるような気がしています。動物に見られる「刷り込み」現象の延長のようなものが、魂の愛の世界にはある。まあ、「命」というごく根本的原初的な問題に関わるから、そうなるのでしょう。
同時に、「最初に出会った愛」が、そんな形で、「無条件の愛」になるような気がしています。魂はそれを求めているのだと。

それはやはり3つのカテゴリーになるような気がしています。「親家族」。そして「異性愛」というベクトルにおいて、「初恋」の位置付けの大きさという考えが浮かぶ。あとは僕はあまりその観念を使いませんが、「」です。

「人目」が大きな位置付けを占める心理状態とは、そうした「始めて出会った愛」における挫折が関連しているように、ちょっと考察を始めている感じです。
これは後の障害メカニズム面の総括でまた書きましょう。


■「愛と自尊心の分離」

3つ目の話。

上のような話を聞いて、「愛を求めるがいいことだ」と考えるかも知れません。実はそれが全くの逆です。愛を求めては、いけません
これは今までにも何回か書いたことのある話です。認知療法のデビッド・バーンズ「いやな気分よさようなら」で同じことを書いていました。愛を「必要なもの」と考えてはいけないと。

どうゆうことか。
それはつまり、「求める」「必要と考える」といった意識は、「心」で考える話なんですね。魂ではありません。
これが、「愛と自尊心の分離」というハイブリッドのアプローチ、そして「魂と心の役割分担」の話になります。

愛と自尊心を分離する。自尊心を、愛に依存してはいけません。なぜなら自尊心とは自らを尊重できることであって、それが人にどう評価されるかや人に愛されるかどうかに依存しているとは、もう既に自尊心が損なわれた状態だということです。

ですから、先日もTVで最近の犯罪事件の際、「自己顕示欲」「優越感」など「自尊心」が鍵になっているというコメントが述べられていましたが、ちょっと違うんですね。
「自己顕示欲」「優越感」は、自尊心が自分では保てずに、人の目や勝ち誇れる相手を必要としているということで、そもそも自尊心が損なわれた状態から派生する欲求です。それが自尊心のために必要だと勘違いすると、自尊心はいつまでも築かれず、また愛もまさにその姿勢によって破壊されます。

つまり、自尊心を愛に依存すると、自尊心と愛の両方とも、失われます。

この裏付けとして考えられるメカニズムが、「魂と心の役割分担」です。

「愛」「魂」がつかさどるもの。
「自尊心」「心」がつかさどるもの。そう考えられます。
そして我々が普段「意識」として「使う」ことができるのは「心」です。「魂」は「使う」ものではなく、背景として常に「ある」ものです。
だから、「愛」は求めるものではない。我々が求めるべきは、「自尊心」だということになります。

もちろん愛に依存せずにです。そのためのハイブリッドの答えが「建設的行動法」であり「原理原則立脚型行動法」です。

もちろん、愛に背を向けた離反や孤独を奨励しているのではありません。
書いたことがあるかと思いますが、まあ「求めることなく愛に向かう」ですね。愛の感情の有無に関わらず、そこに「共通目標共通利益」という観点で一片の建設的要素があるならば、それを後押しして、人と共に活動することを積極的にするのがいいでしょう。それが「建設的行動法」です。

「愛」は求めるか否かに関わらず「そこにある」ものです。それは「使う」ものではなく、「生きる」ものです。
同じように「魂」は「使う」ことによってではなく、「生きる」ことで成長します。「心」はそれを導くように、自らの「心の使い方」を考えるのがいいことです。

この「魂と心の役割分担」の話が、ハイブリッド魂論の、最も大枠における完結になるでしょう。

多少加えるなばら、「現実とイメージ」の関係性の話を加えることができます。
「魂」は現実を志向します。空想に生きることが魂の声に応えるものではないことを、魂は不満に感じます。
しかし「魂」は、「現実」を「知る」ことはできません。「心」が「現実」を「知る」ことができます。
「魂」は多分に「イメージの世界」に生きています。一方「心」は「イメージを使い」ます。
「魂」が「命」を供給し、「心」はそれを「現実」へと導きます。これが本来の姿です。


「心」が現実から目をそらすことに「イメージ」を使おうとし始めた時に、全ての歯車が狂います。これが心の障害のメカニズムになります。

ここではちょーサマリー的に述べました。次に参考まで、「魂の成長」における「愛の成長」ということについてもう少し詳しく書いた(かな?)ものとして、最近の返答メールを紹介します。
そして最後に見えてくる、「心の障害」の魂論からの事例紹介と、全てを貫くものについての考察へと続けます。


魂の治癒成長への実践-49 / しまの
No.1217 2007/05/04(Fri) 00:14:32

■実例描写2:魂の感情へとダイレクトに突入する段階の感情分析例(続き)

「心」の強さを獲得した中で、「自己の真実」に導かれ「望み」へと向かう時、我々は置き去りにした「魂の望み」に対面する前に、まずそれを置き去りにさせた「魂の恐怖」を再び知ることになるようです。
そしてその先に、置き去りにした「魂の望み」の感情が見えてきます。

それは「挫折した魂の望み」の感情であるかも知れません。恐らくそうなるのでしょう。なぜなら、それがあって、今までの閉ざされた「心」の世界があったからです。

これら全てを再び「自己」の中へと迎い入れる作業は、現実世界とは別のこととして、自らの「魂」と「心」の間のこととして成されなければなりません。
全てが、現実ではなく心に映される魂の世界のこととして、僕はただそれを見つめ続けます。
それが「魂の望みを看取る」ということになるでしょう。

9)「アク毒」と「恐怖の膿」の向こうに「挫折した魂の望み」の感情が見える

その48で紹介した日記の続き

 八方の宿に到着してからのメモ。
 家から出発しようとする頃、僕の中に見えていたのは、僕を
牽制するように見下す目を向けているKちゃんのイメージだった。実際、彼女が僕の精神世界における至高の価値の象徴であった時、会うことを誘った僕に対して応じなかった彼女の姿は、僕は天国への資格はないと審判を下されたという構図なのかも知れない、と少し後で考えたりした。
 あとは、
「何かが恐い」という感覚だった。やはり続いていた漠然とした軽い興奮感は、実は恐怖だとも思えた。部外者として神の国に入るという、違和感の強い怖れの構図のようなものを思い浮かべた。
 そして3つ目に浮かべたイメージは、Kちゃんとは別の女性が僕に愛の笑顔を向けるイメージだった。Kの世界が僕のものにならない時、代わりに求めるものという意味があったのだろう。

 スキー部後輩のS君を拾って八方に向かい出してから、僕は
少しふさぎ入るような哀愁感を感じていた。こうしてKちゃんのイメージの波に揺れる自分がおかしいのだ、と嘆くような感情も流れていた。
 あとはただ、
あまりに強い思いの相手が得られないという悲しみの感覚思いを抱いたまま命を断つ人のイメージが浮かんだ。「生きる喜び」と書いた自分がか..と考えたりする。まるでティーンの女の子のような感情だと浮かぶ。小さな子供のように彼女にこがれ、その思いが得られない純朴な悲しみに、あとは浸るのみだった。

感情の流れはまだ続きます。スキーから帰った月曜、それを振り返ります。
最後に現れた感情は、断末魔の毒のような感情でした。「アク毒」の本尊部分です。
そして全ての感情が消え去ります。新しい意識土台がリロードされ、新しい自分として今までのことをどう考えればいいのかと考える、新しい段階が始まります。サイト掲載の「ケース・スタディ」も含め、こうした体験の全てが、判で押したように同じ経過を取ります。思考法を越えたものとして、脳に起きる変化のメカニズムなのでしょう。

2006.3.6(月)
 前の日記からの続き。
 宿での寝床につきながら僕が感じていたのは、
僕がKちゃんに対して行った働きかけについての、濃い嫌悪感の感じられる構図だった。その中で、僕は彼女の、Rを始めとした交友関係に入ろうとしている。もはやKちゃん本人との交友関係が消えたような形でだ。そんな僕を、そうした人々が何か「図々しい異物」を見るような白い目を向ける、というイメージが流れていた。それはやはりごく薄い感情として流れたものではあったが、それが苦しみを伴う感情であるのを自覚するのに充分だった。
 八方で滑る頃には、そうした
全ての感情が消えていたようだった。・・(略)・・僕には特に、彼女の友人に会う興味はない。彼女にとっても友人を僕に合わせる興味もない。そんなイメージが僕の中に浮かんでいた。・・(略)・・

この後はかなりメカニズム論的な自己内省が続きます。まこれも感情分析の一形態になるわけで、運動後の整理体操のような感じですかね(ちょー安直な比喩^^;)。それが自己の変化をしっかり定着させる役割になるわけです。

 書いている今としては、彼女のこと自体が強く視野に浮かばず、それを自然に感じ安定した感情。言わば、“現実”に合った感情でいるわけだ。
 逆に言えば、
現実から離れた感情があったことになる。それは彼女が僕のことを特別な存在と考える仮定において現実から離れていたのではないと思える。むしろ、そう仮定した時に想像された自分の人生の特殊性にある。今の自分から言うならば、その“人生”とは、まるで「自分の外」にあるものだ。それによって自分が変えられるような“人生”。それが「人生」なのだと錯覚する感覚があったことになる。“現実から離れた感情”であったのは、その点にある。
 そしてそれが生み出されていた時の心の背景にあったのが、
“利己的な愛”とそれに対する自己嫌悪の膿だ。それが抑圧されたのがKちゃんへの“恋心”に化けたとは思わない。恋心は一面では事実であったし、一面においては、弱さだった。全くもっての弱さだ。弱さが、彼女の輝きを現実離れのものにした。いや、彼女の輝きに惹かれる自分の感情を、現実にそうである以上のものに欺いたのだ。そんな気がする。心の現実の強さ弱さというよりも、心の姿勢として残っていた弱さだったのだろう。
 弱さが何に化けたのか、と考えた。“愛”に化けた、もしくは愛に惹き込まれる重みに化けたと考えた時、それはまだ事実を見誤っているような気がした。利己的な愛と、それへの自己嫌悪から
目をそらして生きた時、何よりも生み出されたのは、現実を生きることができず、現実から遠ざかることなのだ。
 駒が再びそこに戻るという感じだ。書きながら自明のことのように気づく。現実は、利己的な愛と、それへの自己嫌悪だったということだ。
 ではその
現実に戻らせたものは何か。しばし考えるが、“望みに向かう”こと以外には答えがあまり浮かばないことに気づく。そして“望み”もまずは空想に描かれたものだ。それは別に特別なものもない、自然なことなのだろうと思う。


■「望み」の中に「真実」と「欺き」への答えが用意されている

これはちょっと難解な哲学を展開しているように感じられるかも知れませんが、何を言っているかを最新の言葉から説明しましょう。

「望みの感情」は、「真実」と「欺き」の両方を含んでいるということです。より正確に言えば、「望み」はもともと、「真実」と「欺き」が未分化なものです。それへの向き合い方が、それを「真実」と「欺き」のどちらに傾けるかの作用をすると言えるでしょう。

そして「向き合い方」の答えが、「現実」に向かうという結実の中にその姿を見えることになります。「向き合い方の答え」が「真実」と「欺き」をふるいにかけ、現実に立った新しい意識土台が生まれるということになります。まこれも難解な表現ですが。
そうした「向き合い方」が、「望みに向かう」ことだというわけです。


「望みに向かう」ことの中に、全ての答えが用意されているということですね。それが何の特別なことでもない、自然なことなのだと。
「望みに向かう」ことをやめた中で「望み」を捉えようとした時、一つの歯車が奇妙に分裂して難解なパズルを描き出すということになります。
まあちょっと説明不足の感もありますが、かけ足かけ足^^;

日記の紹介はここまでにします。これは僕の中に起きた変化を十分に説明するものではなく、あくまで「魂の感情」に向かう中で現れるものが、「心の感情」とはどのように違うものなのかの例として、断片的に抜粋したものに過ぎません。より全体的実情の流れとして人格変化がリアルにたどれるようなものを、いつか小説化でもできればと思います。

「なりたかった心」にさえ近づいていると感じる変化は、今回紹介したような体験がその中のごくほんの僅かな抜粋に過ぎないような、沢山の「感情分析と共に生きる体験」を通して生まれたものです。

今回その描写例を出した「置き去りにされた魂の感情」を再び自己へと迎い入れることと、最終的にもたらされた「なりたかった心」にさえ近づく変化、この2つの関係について次に補足説明をし、そうした変化が完全に起き得ないもう一つの別の段階の例の紹介、そして全体の総括へと進めます。


魂の治癒成長への実践-48 / しまの
No.1216 2007/05/03(Thu) 17:03:18

■実例描写2:魂の感情へとダイレクトに突入する段階の感情分析例(続き)

8)「アク毒」の構図が見え始める

置き去りにした「魂の望み」に向かうとは、それを置き去りにさせた「魂の恐怖」に再び対面することでもあります。「アク毒」はその主要な正体です。
次第にそれが見えてくる部分を引き続き。先に紹介したものの翌日の日記です。

感情分析だけではなく、理論考察みたいなものも記してあります。そうやってハイブリッドが進歩してきたんですー。

2006.3.2(木)
 朝起き、僕はやはり○○さんからの返信がないかを意識していた。それがやはりないのを見て僕が自覚したのは、この事態が僕の心において、
“自分の演技に彼女が同調しなかった”というニュアンスを持っていることだった。その時僕は“まがいもの”だという目で見られるという感覚だ。
 それについて考えたのだが、実際にそこには“嘘”があった。だが一方では“真実の願い”もあったと思えた。そこにあるのは、やはり真実と嘘の混合物なのだ。そして人がそこで嘘だけに着目してそれを否定しようとした時、同時に真実が失われる。一方で真実だけに着目した時、人は自分の嘘から目をそらし、自分の嘘への嫌悪から逃避しようとする、“欺瞞の世界に住む”弱い人間となる。
 真実と嘘の両面を同時に見る必要があるのだ。その時、心が強くなる。なぜなら、真実と嘘の両面を持つ“現実”に向かうための、未知の感情が現れるからだ。


 その後、僕の中に残り流れた、
苦々しい感情がごく薄く見えた。それは、「自分に与えられる潜在性のあったもの」が与えられないという感覚だった。
 それはKちゃんが持つ世界であり、彼女ではもはやなかった。Rを始めとする、華々しい友人という財産だろう。
自分をそうした華やかな世界の一員へと変えてくれる相手、という感覚があったのだろう。それが与えられない時、空虚で灰色の世界にある自分というイメージが現れるようだった。そこでは、僕は自分の“愛”の代償として、彼女の“財産”を狙ったという構図になる。精神性において信奉した相手だからこそ、その“現実におけるごほうび”のようなものが与えられるという感覚があったというメカニズムも浮かんだ。
 まあそれについて知性で考えるならば、それが“与えられるもの”としての財産だということだ。それは真の豊かさを生み出さないと。“与えるものとしての財産”、“与えることのできる相手”を財産として考えるのがいい。

 正午に近づいている時刻の今、今日の夜から八方入りということで準備をしながらこれを書いている。確定申告の提出や、文芸社Sさんにフォントのリクエストを早々に出す連絡などをひとまず置いておいて、なぜか
心臓が軽く高鳴っている感覚を鎮める意味もあって、こうして日記メモを書き始めた次第だ。このかすかな興奮感は、幻想の中にあったKちゃんの世界が、その視野にはない新しい世界に踏み出そうとする意志が起こしているものなのかも知れない。


■「アク毒」を隠した硬い精神的高潔性の克服

これも「アク毒」のメカニズムを示す好例ですね。本人が忌み嫌う皮相さ軽薄性が、実は自分自身の中にあったのを見る、毒の感覚です。
ただその皮相な衝動が本心であるわけでもありません。それは弱さの膿が生み出す、「自分が持ち得る潜在的な衝動」として自動的に意識の候補になるという感じです。それを本人の意識は、自己否定感情の膿に触れる危険から逃れるために、それは決して自分が持つ衝動ではないと、内面においてその気配さえ消し去り、他人の中に映されたそれを否定攻撃するという偽りの解決策でしか対処できなかったものです。

それが感情の膿と結びついて、「自分こそが忌まわしいまがいものだ」という毒のような幻想的自己否定感情の膿と化すわけです。そんなものが出来上がってしまっています。この後のこの人物の消極的な道徳的高潔性は、そのストレスの上に成り立ちます。

そうした「アク毒」を心の底に抱える個人は、まず大抵、他人の「精神性の低さ」への怒りに駆られがちになります。一方でその怒りっぽい自分を、心が狭いと自責の念に駆られます。そしてどのような思考法をすれば、怒りに駆られないで済むのかと悩みます。

それについてハイブリッドが示せる答えは、とても紆余曲折の遠回りのもので、人間の素の思考ではもはやそれが答えであることが一見して分からないような代物になります。

「生み出すこと」に価値を見出す生き方の中で、実際に生み出す強さを獲得し、まず「否定破壊できることの価値」を完全に放棄しなければなりません。それは「善悪」という観念の完全なる崩壊と言えるほどでないと、この問題の解決にはつながらない可能性が高い。

精神的な高潔の姿によって、自分に愛や尊敬や、その他良いものが与えられるという観念に、徹底的に依存しない思考法を確立しなければなりません。内面の善悪を問わない、原理原則的な思考法を確立しなければなりません。
なぜなら、そうした「心がこうであれば」という姿こそが、心の奥底で「そうではあれないありのままの自分」を否定するストレスの根源なのですから。他人の中に精神性の低さを見て怒りたくなるのも、その内面ストレスに追い詰められた弱さの表れなのです。

恐怖の真の克服を知らねばなりません。それは恐怖を感じないことではなく、恐怖を感じる中で、現実がその恐怖に値しないことを、上記のような姿勢の中で見据えて生きることにあります。
そうやって、心が強くなっていくのです。

心が強くなると、今まで「自分にはとても」と感じていたような「望み」が、自分が向かい得るものとして再びその姿を現してきます。何か深淵を覗くような漠然とした不安の感覚と共にです。

そこに向かって歩むことです。その時、今まで自分の中で隠してきた全てが、露わになります。
露わになれば済むのでもありません。それが何なのか、その後に何があるのかを知る必要があります。事実そうでないと、それは乗り越えることが難しくなります。

引き続き、望みに向かうことで露わになるものの描写例紹介を続けます。


魂の治癒成長への実践-47 / しまの
No.1215 2007/05/03(Thu) 13:58:16

■置き去りにした弱い「魂」を再び迎えに行く

「魂の望みに向かう」とは、決して、魔法のように純粋で揺らぎなく安心できる「望みの感情」を自分の中に見出してそれに向かうということではありません。

なぜならば、現実において「魂の挫折」そして「魂の恐怖」と共に置き去りにした「魂の望み」があった時、人は現実において強くなってはおらず、置き去りにした「魂の望み」は、基本的に弱さに基づく情動だからです。
しかしそこに、心の「命」の源泉があります。魂の挫折と恐怖と共に魂の望みを置き去りにした者は、心の「命」を失います。そしてこの「心の現実」に向き合う恐怖から逃れるための「心がこうであれば」というイメ−ジを起点にした、「人の目の中で生きる」という生き方の中で成長の止まった心を持て余します。

ハイブリッドが提示する「魂の治癒と成長」への道は、「魂の恐怖」に打ち勝つための、「生み出すことにおける強さ」が道標になります。それは同時に、「姿」に価値を置く生き方から、「生み出すもの」にに価値を置く生き方への転換を含みます。

それがなぜこのような「魂の望みへと向かう」歩みに人を導くのかは、僕にも良く分かりません。つまり、それはもう「知って」向かうことではないのです。
「生み出すもの」に価値を置き、生み出す自分の強さを感じた時、同時にその指針となった「自己の真実に向かう」という歩みが、自然に、そこに導くような気がします。
なぜなら、そこに向かった時に、「魂の成長」が生み出されるのを感じるからです。これだけがはっきりと言えます。決して、置き去りにされた魂の感情に向かう先に、求める「姿」が見出されるからでは、ないのです。「こうであればという心」になった自分を目当てにしての行為とは、まったく違うのです。

それは、置き去りにした弱いままの「魂」を、強い自分の「心」で、再び「自己」へと迎い入れる歩みとして行われるものです。
「魂」が、自己の分身だからです。そして「命」を持つのは、「魂」だからです。


それは同時に、人生の中で目をそむけてきた「魂の挫折」と「魂の恐怖」への対面にもなります。「心」は、それを踏まえた強さを獲得する必要があります。


■実例描写2:魂の感情へとダイレクトに突入する段階の感情分析例(続き)

以下はそんな場面の例の紹介ですが、先に紹介したその45(5/2)のものからさらに半年が経ち、『悲しみの彼方への旅』の出版本原稿が出来上がった頃のものです。

詳しい状況は省略しますが、僕にとっての「魂の女性」との関わりに関連したもので、下記で「○○さん」「Kちゃん」は気分で呼び方を変えている、同一人物です。『悲しみの彼方への旅』を読んだ方はどの人物のことか分かるかも。
また「洋菓子屋の女の子への一目惚れ感情」もまた出てきます。

まあ「魂の望みに向かう」というのが、こうした異性愛絡みの話である必要はありません。「必要」なんて言葉を使うこと自体変な話なんですが、「こんな体験をすれば変われる」なんて短絡発想だけは持って頂きたくなく。
取り組み実践上、重要なのは、「魂の望み」の内容ではなく、上に書いたような、それに向かう姿勢です。それが獲得された時、「魂の望み」の内容はこうした例から学ぶのではなく、自らの中に、人生を通して置き去りにされたものが「ある」はずです。
ただそれがやはり「愛」に深く関係したものであることは確かでしょう。

7)置き去りにした「魂の望み」へと向かう

2006.3.1(水)
 今日昼過ぎに○○さんに短いメールを出しておいた。桜が咲く頃会わないか、ということで。今午後6時だがまだ返信はない。すぐに返信が来るのを期待していた部分も心の中にはあったろうし、その分、そうではなかったことで、僕の中には
何かの反応が起きたようだった。
 彼女からの返信が来ない..そう感じた時に心に起きたのは、
心を埋めていたもののの一部をぽっかりと失うような感覚と共に感じる感情..ということか。それは自分にとっての「命」が失われる感覚とも言えるのだろう。愛とは命そのものなのだ。そんなことを考えたりする。

 午後5時過ぎ、買い物のためにジャスコに寄っていた時、僕の中に現れたのは、少し
足がすくむような感覚と、「自分が生きる世界」で彼女が占めていた部分がぽっかりと抜けた穴を埋めようようとするかのような、洋菓子屋の美少女を見ようとする衝動だった。そしてほんの一瞬その子の姿を見たあと、自分の現実生活においてはそれ以上の何も求めない自分を自覚し、家路に向かった時に流れた、悲しみだった。
 
それらの感覚は、「現実」とは別に流れている。僕はあくまで、自分が現実の上にしっかりと立つことができ、それを維持させるためには何の支障もない程度の弱さでしかない感情達だが、それでも僕はこの感情の中で疲労消耗感を感じている。
 なぜこんなことが起きるのかと言うと、愛は存在の根本であり、感情の膿も同様に、存在の根本に関わるものなのだ。まずそんな言葉が浮かぶ。感情の膿は、今まで考えた以上に、愛に近いものであるように思えてくる。


 そうして自分の中に起きる感情を静かな目で見据えた時、改めて感じるのは、自分の抱いた感情が、
“持てる者”の世界に自分が入っていけるという感覚だったということだ。Kちゃんの場合がまさにそうだし、洋菓子屋の女の子の場合も、その美しさの輝きが、これから自分の持つ世界に含まれると感じた時、“持てる者”の世界に自分が入るというのと似た意味を持っていたのだろうと思う。
 それとの対照にあるのが、僕が桜の咲く頃また会おうと書いたのに対して、
敬遠を感じている彼女のイメージだった。“持つ者”としての彼女をイメージした時にそれをまた思い出した時、僕は一方的に相手の持つ世界を与えられようとする、寄生者とも言うべき構図の中にあった。
 そして現実において、彼女が誰を相手として選ぶかは、その人間がいかに多くの価値を持っているかによるであろうとも考える。その時僕の中に、
自分が価値を得ていこうという、野心とも言える願望が湧くのを感じる。そしてそれは静かに消えていく。

 そのあと僕の中に一瞬現れたのは、何か
あまりにも大きな輝きを見るような思いの対象としての、彼女のイメージだった。それは僕が人生をかけて求めた夢..もしくは闇の中で取り戻した命..そんな、感動にも似たイメージだった。
 そしてそれは、現実から離れた精神においおてこそ、抱きえたイメージでもあったのを感じた。


置き去りにした「魂の望み」の中に、「命」があります。
しかしそれを迎えに行くことは、「なりたかった自分」になることとは、大分話が違うことです。

「魂の望み」を置き去りにさせた、「魂の恐怖」にも、再び対面することになるからです。そして「魂の恐怖」の根底に、「アク毒」という人間の心の歯車の最大の狂いとも言うべきものがあります。

上の日記でもその片鱗が見え始めていますね。僕の心は次第に、その先にある毒の正体へと向かっていきます。


魂の治癒成長への実践-46 / しまの
No.1214 2007/05/02(Wed) 22:21:01

僕自身が体験した、「魂の望みに向かう」最終段階の場面例の紹介に行きましょう。
その前に、この「魂の望みに向かう」ことの位置付けについての概観など。

「恐怖の克服」と「魂の望み」が一直線につながってくる感じですね。全てがそこから派生してくると。
一時はこの「魂論」を一体どのように収束できるものか、あるいは収束しないまま心理学本原稿に突入か?とも考えましたが、かなり収束が見えてきた感じですね。

これは「恐怖」と「与えられるべき観念」の意識下のつながりという、今日思い浮かんだメカニズムが大きい。この総括はまたあとでしましょう。
いずれにせよ、そこで「魂の望み」がその全てを貫く形でつながる一つの方向性になるわけです。


■「魂の望み」が導く「真の恐怖」と「真の強さ」

「心がこうであれれば」という、今までの人生の中での呪縛のようだったイメージが、僕の中で消えていきました。
それは先に書いたように、「恐怖の克服」という単純な前進が導いた変化だったように感じます。

このつながりは意識上では体験されません。「現実という恐怖」から逃れようとする姿勢の表れとして、「与えられるべき」観念が生まれ、与えられるためには相応しい「姿」として「心がこうであれば」という観念が生まれ、自分の感情をそれに合わせ強制しようとする「自分についた嘘」が生まれ、なり切ろうとしている姿として自分を見ない他人が、嘘偽りだらけの残忍さに見え、自分だけが良いものを与えられないこの人生と世界への憎しみが生まれます。

そこで人が意識するのはせいぜい、他人への憎しみの中にある自分の心を、「心がこうであれれば」という途中のイメージに戻って照らし合わせて、自分を責めることだけです。
全てが同じ輪の中で同じ方向に回り続けているだけです。「現実という恐怖」から逃れるための「自分についた嘘」という根本を解かない限りは。

そこには「恐怖の克服」について、人間が素の思考で陥る、大勘違いもあるようです。「恐怖の克服」とは、恐怖を感じないようになることだと。
そして、現実を否定するわけです。空想の世界に生きる。恐怖なんて存在しない。これでいいんだ、と。


恐怖の真の克服は、恐怖に震える自分の「心の現実」と、「現実」がその恐怖には値しないことを支持する「強さ」を自分が潜在的に持っていること、この2つを十全に感じ取る体験を「生きる」ことにあります。

それは「魂の望み」に向かうことが導きます。なぜなら、「真の怖れ」を感じているのは魂であり、魂の望みを否定することが、恐怖を否定した空想の世界に生きるための最高の手段だからです。
しかしそれは「人にこう思われたら」という、偽装された貧弱な恐れの中に、人を溺れさせてしまいます。なぜなら、この人間は現実のところ強くなっては全くいないからです。

人は「魂の望み」に向かう時、「真の怖れ」を知ります。同時に、「真の怖れ」を生きることで、「真の強さ」を獲得するのです。
なぜならば、「魂の望み」が「命」へと導くからです。「心」に「命」が宿った時、人は自分自身の中に、自らを生かすものを獲得します。これが人に最高の「強さ」の感覚を与えます。自分自身の中に自分を生かすものを得た時、もはや誰もこれを奪うことも破壊することもできないからです。


これもここでいったんカキコして、実例紹介に行きましょう。


魂の治癒成長への実践-45 / しまの
No.1213 2007/05/02(Wed) 18:17:53

駆け足で日記の抜粋考察書きなぐりですが、どんどん進めますー。


■実例描写2:魂の感情へとダイレクトに突入する段階の感情分析例(続き)

「人は自分を誘わなかった」という「人生への嫉妬」とはちょっと違う、「どう近づいていいか分からず泣き出す自分」というイメージの感情分析例まで紹介しました。
これは「こんな心であれないという現実」という共通項をめぐって、より魂の純粋な望みの感情に近いものへと変化している流れと言えます。

それがさらに「こんな心であれば」という感覚そのものが消えてくる場面を紹介します。先の紹介例から一月半ほどした頃のものです。

これらの変化は、その43(5/1)でも書いた「魂の望みに向かう人生の転換」という大きな流れがあって、そして先のカキコで書いた、「恐怖の克服という方向性」の前進の結果のように感じます。
つまり、現れてくる感情と、その中の何に向かうかという内容の変化と、それを支えた前進変化とは、つながりのない別のことなんですね。前進変化は、恐怖に打ち勝つ強さの増大だと言えるような気がします。すると、自分が向かうべき感情の答えは自ずと出てくるのです。それを価値観思考でコントロールすることはありません。少なくとも僕の場合は。価値観思考でコントロールするのは、恐怖の克服方向性だけだと言えるかも知れません。

そして恐怖の克服ができるようになった時、自分が向かうべきものとなる感情とは、価値観思考で決めるのではなく、「より命に近い感情」となります。それが「魂の望み」の感情です。
そこには多少無謀な感情さえ含まれることがあり得ます。

そんな中で、「こんな心であれば」という感覚そのものとは違うものが見えてくる場面の紹介です。

6)断片的な悲しみと一目惚れ感情の彼方に純粋な魂の感情が見えてくる

漠然とした悲しみ感の感情分析から始まるものです。今までの感情分析とはちょっと雰囲気が違っており、自分を駆り立てる感情を整理し鎮める行為としてよりも、自分の中にある「より命に近い感情」に自分から積極的に向かうという感じになっているのが分かるかと思います。

2005.8.28(日)
 今日は起きてからやや
悲しみ感が流れ、身の回りのこと、データ保存整理作業など一段落した今午後1時、日記メモに向かい始めた次第。漠然とした悲しみ感はそれ程強くないものの、少し感じ入ると何となく涙を流させるような感があり、日向敏文の「ISIS」など聞きながらこれを書いているところである。
 自分の中に少し姿を見せ始めた、
涙を流させるようなものを探そうと、2つの「神秘の夢」の日記を見返したりする。92年8月4日の、「ISIS」の音楽の中で目覚めた時の夢。僕はいろいろな所を通って、やがて霊になった友達を探しに出た時に、初恋の女性にようやくめぐり会う。失われたものへの哀しみを慰める愛。もう一つは、98年1月27日、誰か小さな女の子のお葬式の場面のような夢だった。淡く軟らかい光の壁。失われたものを哀しむ愛..
 そこに現れた、淡く神秘な光の道。
 僕はそこを歩いていく。

 その情景を思い浮かべた時、僕の中に
嗚咽するような感情が溢れ、涙が流れる。それは何か悲しみの感情だけがあって出る涙なのではなく、その悲しみの上に歩き出そうとする意志のようなものが流させる涙。そこに自分が生かされたものを見る涙なのだ。
 そう言えば今日は○○さんの出る夢を見た。小学校の同窓会という設定だった。僕は彼女に近づいて話したりしたいと感じながらも、実際のところ話すべきことも分からず、消極的で受身という感じだった。諦めて家に帰ろうとしていた所に、T(男)が誘って皆で食事へ。「来年もまたあるかなあ」とか話したりしていた。彼は「もう難しいんじゃないかな」とか答えていた。


「漠然とした悲しみ」は、常に「魂の感情」です。ただし「魂の治癒と成長」の過程でそれが現れる場所は、不定です。これは「空虚感」も同じです。それは常に「魂の感情」ですが、それを感じ取るのは、心の障害が膨張する過程でも、治癒する過程でも、両方あります。つまりその感情を感じ取れればどうこうという話は、ありません
ただまあ「魂への共感」を示すものでもあるので、怒りが蔓延するよりは治癒成長に向いたものと言えます。

また「漠然とした悲しみ」はやはり常に、「魂の望み」への道しるべになります。それを道しるべとして「魂の望み」を探す姿勢は、魂の治癒成長にとり有益なものだと思います。
「空虚感」にも同じことが言えはするのですが、「漠然とした悲しみ」よりは大分「魂の望み」から遠いという感じですね。

翌日、漠然とした悲しみの流れの先に、僕の中でちょっとした一目惚れ感情が刺激されます。これも僕の中で今は過去のものへと卒業しつつある感情の一種類ですね。
こうした恋愛衝動「魂」と「心」の感情の混合品ですが、感情分析の中で、その「構成成分」が抽出されていきます。

2005.8.29(月)
 6時少し前に目が覚める。眠気がほとんどなかったので、そのまま起きた朝の現在9時。
 昨日の今日ということもあるだろうが、
結構強い泣き感がやたら流れている。泣き感というよりは、泣いた後の気分だ。これからまた涙を流すという気分ではない。

 午後1時過ぎ、シャープのDVDレコーダーを修理に出しにジャスコへ行く。帰りに、
洋菓子屋の女の子をまた一目見ることを考える。その女の子は月曜はいないかと思ったが、いて、一番近づいた時は女性客を相手に何か照れ笑いを浮かべながら喋っていた所だった。
 今日僕には、あまりダイジェスト小説原稿の
作業に入り込めないような悲しみ感が流れていて、この感情の中で、その女の子の姿を見たいという衝動の鮮明さと同時に、そうして近づいていく自分に気づかれることへの恐れの感覚を、結構はっきりと感じた。
 で僕はその時、
その子の眉がちょっと無理な整え方のタイプなのを、何か“欠点をみつけたことで惹き込まれずに済んだ”というような安堵感の中で見ていた。だがその後薬品売り場に寄りながら、そうした“欠点”にはあまり目を向けずに、その子の愛しく思える顔を間近で見るのを思い浮かべた時、僕は何か“苦しい感情”が流れるのを自覚した。
 その後僕が自覚したのは、とにかくやはり
惹かれる感情の深さと鮮明さだ。そしてその衝動があると同時に、近づく自分が見られることへの怖れの感覚、そして、そうして惹き寄せられる自分を良しとせず、相手のアラを探して見下せることを求める、反抗の分子が一緒に生じるらしいことだ。

これは僕が人生で体験した、何か僕とっての「魂に触れる顔立ち」の女性に惹かれた幾つかの体験のうちの一つです。これはかなり強烈な一目惚れの感情で、これに絡む感情分析はかなりメカニズム論上の深さと広さがありますが、その話はまたの機会にしておきます。
ここでは、この一目惚れ感情が、先に紹介した恋愛乱痴気感情とはまた別種の、かなり魂に近い何かの感情であることを指摘しておきます。
上記日記の続き

 それにしてもこうした感情の有無が、ちょっとした顔の造作の違いや肌の美しさの違いなどで、全く違う感情の世界を分けてしまうのが印象的だ。
 そして自分はこの感情の上で行動すべきかどうかという問題だ。この感情ではなく、落ち着きのある、“生活全体から女性を選ぶ”などではない、この、
一目で惹き寄せられる感情に従って相手に近づくかだ..
 今はそれに肯定的な感情を持つ。惹き寄せられる感覚の重さが変わらずある一方で、怖れや反抗分子の感覚は減っている。
 
この感覚を追求してやる、という意志を感じるとも言える。洋菓子屋の子に今近づく、のではなくだ。それを虎視眈々と狙っていく。

これもちょっと弁明しておきますと(^^;)、最後の文章に暗示されるように、僕はこの「洋菓子屋の女の子」へのナンパ的行動ストーカー的行動も目論んだわけでもありません。アハハ..^^; 自分の魂に触れる感覚を追求するということ..と言ってこの時の「この感覚を追求してやるという意志」は今となってはいまいち思い出せない感もありますが、まあ、時に触れてその洋菓子屋の方に近づいてそうした自分の感覚の吟味追求をするということを何度か繰り返した次第です。

こうした一目惚れ的感情というのは、恋愛感情の中でもかなり「魂の感情」が色濃く反映した感情であるように感じます。そこにおける「心」の感情成分「魂」の感情成分についての考察は、またの機会にということで。
引き続きこの日記の続きと行きましょう。今まで僕が人生で自覚したことのなかった、「魂の望み」の感情への回帰が、そこに現れているように感じられます。

 午後5時頃、今日もジョギングに行く。悲しみ感は続いたままだった。ジョギングの最中よく見かける、並んで座ってずっとお喋りしている感じのカップルを見ながら、そこに何か自分の切り捨ててしまったものがあるという感覚を少し感じた。話すことなどはない、時間の無駄だ、という観念の中でだ。そうして切り捨てた願望が、女性の外見の特有の造作に惹き寄せられるという感情に変形したのかも知れない。
 先日の○○さんの夢も、そのことを示していたようにも思える。近づいて話したかったのだが、僕は“話すことがない”から、それを諦めたのだ。それもトータルな退却として。
 一方僕の中で“切り捨てた”ように思われる“語らいの時間”とは、かつては
“心を開く” “心を示す”というイメージだったものだ。だがそうではない気がしてきている。別のものを楽しむことのように思えてきている。

「心を開いて親密に語り合う」。これは以前の僕にとって、「羨望のイメージ」でした。そんなものが欲しい「姿」であり、一方、自分にそれを当てはめようとした時の拘束へ、「話すことなどない」という反発が生まれる。この「羨望のイメージと反発」の構図が、今まで見えていたものでした。

それと違うものが、初めて見えてきたわけです。それは自分が切り捨てた何かであり、「心を開いて親密に語り合う」姿への羨望でも、それを自分に当てはめようとする衝動とも、別のものでした。言葉ではとても表現が難しく、「語り合うイメージ」があって自分がどうかという感覚ではなく、語るべきものがあるかないかに関わらず、語ろうとするのはこの自分なのだ、という感覚とでも言えるでしょうか。

その時、「語る」ことは「心を開く」ことではない、と感じたわけです。これも人生で未知の感覚という感じでした。
今考えた表現を書くならば、それは「心を開く」ことではなく、自分の心から「気」を送って、送った「気」が僕が意図しなくても相手の「気」と一体化するということ、という感じになるかと。
これはつまり、「好奇心」なんですね。漢字をちょっと変えて、「好気心」
ハイブリッドがスピリッチュアルだけではく東洋哲学に傾いてきた?^^;

次に紹介する一連のものが、いよいよ「魂の望みに向かう」最終段階になってきます。


魂の治癒成長への実践-44 / しまの
No.1212 2007/05/02(Wed) 17:36:21

■実例描写2:魂の感情へとダイレクトに突入する段階の感情分析例(続き)

次に紹介するのは退職後の生活が落ち着き始めた頃のものです。その41で紹介した、恋愛衝動の先で恐怖感情の膿を放出した体験からは半年以上も過ぎてのもの。

先のカキコで書いた「魂の望みに向かう人生の大方向転換」としては、退職だけ果たした段階で、出版はまだ先です。
そうした過渡期ということで、魂の感情への向かい方もちょっと過渡期的な感じがあるものです。

具体的には、「人生への嫉妬」の感情と少し似た状況の感情分析ですが、少し違いが出てきます。日記の紹介後にこの違いを考察しましょう。
また「人生への嫉妬」に心が覆い尽くされた状態の克服への方向性についても考察します。書きなぐりでまだまとまりいまいちですが、「魂の治癒と成長」の総括に向けた新しい視点になってきます。


5)「人生への嫉妬」とは異なる「近づき得ない自分への悲しみ」

2005.7.19(火)
 朝起きたのは9時前。きのうはジョギングから戻ったあとのビールが夕食代わりになった次第。缶4本と日本酒少々。夜は12時前には寝た。
 朝起きてから、僕は日曜の
スキー部後輩同士の結婚式2次会パーティのことを考えていた。ああした新郎新婦に改まって対面をした場面で、他の人たちは一体何を話したのだろうか、と考えたりしていた。そして、そうした言葉が自分の中にないことへの悲しみのようなものを感じていた。それが自分の来歴を通して獲得した姿勢..という思いもあった。自分の家庭にはそうしたものがなかったという感慨。不思議に、直接的な愛情表現というものが阻まれていた。

ちょっと説明挿入しますと、ここではまだ「自分に欲しかったこんな心」イメージが残っています。ここではそれが、そうした「欲しかった心」イメージのない、別の自己イメージに変化して行きます。

 いずれにせよ、そんな思いの中で、今朝、新聞を取りに下に降りた頃、僕の中に浮かんでいたのは、そうした新郎新婦を囲んだ、
言葉を交わし合っている人々の輪から、僕が一人外れた少し外側にいて、入りたいのにどうしていいか分からず、泣き出しているようなイメージだった。
 そして実際、
泣ける感覚があった。出る涙は出してしまおうという感覚もあり、朝食を取る前に日記メモに向かうことも考えたが、とりあえずスキー部のDB管理の引継ぎ資料の作業に回していた次第だ。

 こうしてメモを書きながら、悲しみ感はちょっと中途半端な感じだ。そしてふと、
悲しみの感情をこうして一人で流そうとしていることに、何かを閉ざしているものがあるのではないかという感覚が起きる。涙を流す自分を人前にさらす..そう考えた時、一瞬再び強い悲しみがよぎる。
 書いていても話がうまくまとまらず、中途半端に泣きかけたかのような感覚があり、あとは
ただこの先が道なき道だという感覚が、確かなことと思える。

「こうした場面でちゃんと語る言葉を持つ自分」というイメージの底に、「どうしていいか分からず泣き出す自分」という感情が埋もれていたということになります。
前者は、後者が否定されたことで生み出されていたものと考えることができます。


■「人生への嫉妬」は実はイメージの嘘が生み出した感情

上記例は「人の輪に入れない自分」というイメージと、それに絡んだ悲しみの感情です。

これはその34(4/19)で紹介した「人生への嫉妬」にかなり似た部分があります。再度引用するとこんなものでした。
-------------------------------------------------
・・(略)・・自分ひとりを置いて、回りの人たちは楽しみの場に向かう。人は僕のいるのを知っていた。だが誘わなかった。人々の楽しみの場から閉め出されたという感覚。それは「人生の羨望」であり「見捨てられ感情」だった。その残泡のようなものがまだ自分の中にはあるのかも知れない。
 その時に起きたもう一つの観念が、
「僕には心理系の書きものがある」と、「自分を閉め出した人々」に対抗するように考える自分の姿だった。
-------------------------------------------------

何が違っているか。
まず一番端的に分かるのは、人々への怒り憎しみの感情が含まれなくなっていることです。
これは、人々の輪に入りたいという願望を、「自ら望む」こととして感じていることに対応した変化のように思われます。
一方「人生への嫉妬」の感情は、「自ら望んで」実現することしてではなく、「与えられること」として感じていることに対応して起きているように思われます。

まあこの論理性は理解できると思います。「与えられるべき」という観念を前提にした時、与えられない結果は怒りは生みます。
自分自身で向かおうとした時、それができないことは、悲しみを生みます。

注目すべきは、この似て異なる体験の間に、「自分に欲しかったこんな心」というイメージがかなり減少する変化が介在しているらしいことです。
これは「人生への嫉妬」の感情についての、新しい視点を与えることのように思われます。つまり「人生への嫉妬」は「欲しかったこんな心」というイメージの嘘によって生み出された感情だということです。


これは「人生への嫉妬」について、裏にかなり考察しがいのあるメカニズムが潜んでいることを感じさせます。
人はこの感情の中で、自分が「欲しかったこんな心」というイメージを抱いていること、そしてその「こんな心」イメージが自分にどれだけの影響を与えているのかを、ほとんど意識しません。しかし、彼彼女が自らの行動に制限を加え、その結果自ら「現実」を貧困なものにし、結果として「自分には与えられない」という「現実の構図」を生み出しているのは、それが張本人なのです。

これは一体何なのか。

まあとにかく言えるのは、「人生への嫉妬」の感情の中で、その感情を感じることにおいて人が自分を不遇と苦境の中にあると感じたとしても、そう感じることで明らかに何かを得ているということです。


■意識範囲外の恐怖の膿が意識内の「与えられるべき」観念に化ける

何を得ているのか。これは逆に、それを感じないようになるとは何を通ることなのかを考えると、少し分かってくるような気がします。

この前後の意識内容に現れる心理要素を並べてみると、前の状態にあるのは
「人生への嫉妬」 - 「与えられるべき」 - 「欲しかったこんな心」であり、後の状態にあるのは、
「自ら望む」 - 「近づけない悲しみ」です。
そしてこの2つの間に通過するものとしては、「こんな心であれない自分」 - 「恐怖感情の膿」があります。

ざっと考えたのですが、ここには2つの論理の世界と、その2つを分断する一つのものがあると僕は考えます。

2つの論理の世界は、それぞれが、それはそれで筋が通った論理になります。その妥当性は置いておくとしても。

一つの論理は、「与えられるべき」観念で成り立ちます。「欲しかったこんな心」になれるように、人は自分に接するべきだった。それをせずに素通りしていった人々と人生への憎しみと嫉妬。
与えられるべきだから、そうしない相手への怒り憎しみを感じます。

もう一つの論理は、「与えられるべき」観念が弱い論理世界です。自ら望んでそうできないことへの悲しみを感じます。人々と世界への憎しみはあまりありません。
与えられるべきとは感じないので、そうしない相手への怒り憎しみはあまり感じない。

この2つの論理世界をまたがる、2つの事柄があります。
一つは、「こんな心であれない自分」という「現実」があります。これは共通項です。
そしてもう一つが、「恐怖感情の膿」です。これは意識論理の世界ではなく、意識がはじけたところにある、意識外の要素です。

どうゆうことか。ちょー難解な話をしているように感じるかも知れませんが、話は実はかなり単純な気がしているんですね。
つまりそこにあるのは「こんな心であれない自分」という「現実」と、その「現実」に向き合うことへの、意識体験としての許容範囲を越えた恐怖の度合いの問題だということです。
意識体験としての許容範囲を越えた恐怖であるとは、精神が崩壊してしまうような恐怖だということです。

それだけなんですね。実に単純な話のように感じるのは僕だけでしょうか。そうです、と言われそうな気も..アハ^^;

自立思考や価値観思考の問題ではないんですね。対応不可能な感情の膿があれば、それは「与えられるべき」観念に化けるということです。これは意識制御を超えたメカニズムなので、この「与えられるべき」観念を「自らによる成長」思考で振り払おうとしても無駄です。
同様に、「与えられるべき」観念によって人への怒り憎しみに駆られる自分を責めることも、全くの無駄です。その感情は、自分を精神崩壊から救っているのです。それに感謝することさえできます。これは言ったことがありますね。



■「他人を悪く見る感覚」ではなく「現実への恐怖」に取り組むのが方向性

取り組みの方向性は何か。これは「他人は残忍で陰険」という感覚が心を覆い尽くす「ガチガチ人格脳状態」からの治癒成長取り組みの話になります。

「現実に向き合うことへの恐怖」に意識を合わせることです。これは「与えられるべき」価値観とも、「他人は残忍で陰険」という感覚とも、全く無関係のつながりないものとして、存在しているはずです。

価値観思考は、「現実に向き合うことへの恐怖」の克服に向けて変革を図ることが方向性になります。決して「与えられるべき」感覚「他人は残忍で陰険」という人間観の修正を行うのではありません。
「現実という恐怖」が取り組み対象です。人のことをどう考えられかの問題ではありません。

そして「現実に向き合うことへの恐怖」の克服の方向性として、「悪感情への耐性」「生み出すことに生きる」という価値観が、決定的に重要になってきます。
それが自然に、「自ら望みに向かう」という姿勢と、人への共感思考を生み出すでしょう。

他人を悪く見る感覚は、「与えられるべき」感覚の結果生まれます。他人を悪く見る自分を変えたいと感じて、自分の心にある「与えられるべき」という観念を捉え、それを方向修正しようと考えるかも知れません。しかしそれを問題のスタートと考えるのは、正しいアプローチではありません

現実に向き合う恐怖があまりにも強いことが原因となって、意識制御不可能な底で「与えられるべき」感覚が生まれます。
現実に向き合う恐怖の克服のために、「悪感情への耐性」「生み出すことに生きる」という価値観が必要です。これは恐怖に向き合う方向に人を向けます。それへの抵抗が、「与えられるべき」感覚なのです。

これを、他人を悪く見る自分を直したいと、「与えられるべき」価値観を修正しようと考えると、「自分に欲しいこんな心」を自分に強制するという、イメージの嘘の中の罠にはまります。これは恐怖を克服せずに逃げる方向です。
他人を悪く感じる自分を意識的に修正しようとすると、まさに正しい克服とは逆の方向になるわけです。結果、他人と自分がますます嫌に見えてくる、というメカニズムです。


先のカキコで、「現実の選択」「魂の望みに向かう」という2つが、連続した一つの事柄としてあるのが「魂の治癒と成長」の方向性だと書きましたが、「現実の選択」の側面の話になりますね。
これは最後の総括でまた説明します。


魂の治癒成長への実践-43 / しまの
No.1211 2007/05/01(Tue) 15:12:02

さてGW帰省も終わり、スキーも帰省中に甥達も引き連れて行った昨日のでそろそろ打ち止め..ちょっと後ろ髪引かれる気分はまだある気もするけど。まいずれにせよこれから夏生活モードという感じで、いっぱい書くぞ〜!っと言ってもとにかく掲示板解説は駆け足で終え、最初の心理学本原稿の取りまとめに一直線に向かいたい日々の今日この頃。

それはとりもなおさず、「僕に言えることはこれだけなんです」と、自分の心理学で見出したことの結論を締める時でもあるのだと、ちょっとしみじみ感じる面もあります。
それが、人間の心が変化するメカニズムの根幹になるのだと。それが3つの「人格能状態」の移行を決定づける「現実の選択」「魂の望みに向かう」になるのだと。

そしてこの2つが一つの連続した事柄に見えてきた時、全てを貫く一つの方向性が見えてくる。
それが「魂の治癒成長」になるでしょう。沢山の難解な心理学を展開してきたハイブリッドが言えるのは、それだけなんですと。

まずは引き続き、「人格脳」の移行の2つの後の方、「魂の望みに向かう」段階の実例描写。


■「魂の望みに向かう」ことと「人生の大きな方向転換」

先のその41で紹介したのは、恋愛衝動という、「魂」の感情というよりはまだかなり「心」の側の感情の色彩が濃い混合状態の「望みの感情」に向かう行動例でした。そこで主に放出されたのは恐怖感情の膿でした。
それが僕にもたらした変化とは、そうした恋愛衝動に伴っていた薄氷感と焦りの感覚の、大幅な消失だったと感じます。
これが2003年の秋のことでした。

その後僕の中で、変化がさらに異次元へと向かうことになりました。今では常に穏やかな笑顔が出るような気分がベースに生きているのを感じます。かつて「自分に欲しかった心」とイメージした心の状態にさえなり始めているのかも知れない、と感じるようなものの片鱗が見えてきたという感じかと。

今回の日記からの抜粋紹介ではそうした大きな変化の流れを追うまでは不可能なので、ここで概観して書いておきますと、やはり2005年6月で会社を辞め、2006年7月に『悲しみの彼方への旅』の出版を果たしたことが、大きかったと感じます。

これはやはり、僕の人生の全てを巻きこんだ大きな方向転換であり、今回紹介してきたような日常の中での感情分析とは、次元が異なります。その道のりの中で感情分析は沢山することになったのは当然のこと、それは、僕が自分自身をどんな人間と捉えるか、そして自分をどんな人間として人に接するかといった、全ての枠組みを現実において根底から変えた出来事でしたから。

ですから、この退職と出版という大きなイベントが僕に与えた心理影響の描写を出さずに、引き続き日常場面での感情分析例を出して行きますが、それによって僕が今の自分の状態になったという短絡的直結はあまり言えませんのでご了承あれ。

むしろ、退職と出版という人生全体を巻き込む転換そのものが、僕にとって何よりも「魂の望み」に向かうことであり、そうした大きな流れの中で、日常場面での感情分析の中で見えてくるものも、よりはっきりと「魂の純粋な感情」が見えてきた、ということになると思います。
同時に、僕自身の「魂の望みに向かう」ということへのブレのなさが増してきたのかと。


ですから、これから紹介するのは、決して「こんな体験をすればこうなれる」という感じで読んで頂くのではなく、あくまで「魂の望みに向かう」中で見えてくる「魂の純粋な感情」は、それ以前の「心の感情」とはどのように違うものなのかを見分ける題材例として読んで頂ければと思います。

その違いを踏まえた上で、各自がそのスタートラインにおいて、「魂の治癒と成長」へと向かうことを選択するのであれば成すべきことを、あとでまとめて考察しましょう。

いったんカキコして実例紹介へ。


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