■ 心理学本下巻に向けての考察-228:「未知」への意志と信仰-120 / しまの |
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No.1488 2008/02/29(Fri) 12:30:59
■「病んだ心からの治癒と成長」という応用形
「心の成長」の真の姿は、それを歩んだ結果として後から分かるものだという制約がある、という話をしました。 ではそれが見えないところから、それに向かう中で見えるものとは何なのか。何を見ればいいのか。まず見えるのは「人の目」イメージの中で揺れ動く感情だけです。
そこから始めて、深刻なケースにおいては「感情と行動の分離」の「内面感情の開放と理解」あたりを主な踏み台として、何とか「魂感性土台の体験」あたりにまで落ち着かせる。それほど深刻でないケースにおいてはさらっと実践内容を押さえて頂いた上で、魂感性土台と人の目感性土台の違いが分かることあたりから始める。 これが「前期」段階。まあ実はこれは全ての面において準備に過ぎないような話になります。この心理学を整理し始めた頃には、到達だと考えていたようなものが、実は準備段階というような話になるわけです。
ここから、「心の自立」方向性への本格的な取り組みが始まります。 まず理解することからです。「心の依存」と「心の自立」で何がどう変わるのか。その先に何があるのか。
■「心の自立」を目指す
「心の依存」の中では、愛情要求と「存在の善悪」を底流にして、「人間性への怒り」と「否定のループ」が心の表面に主に見えるものになります。
「心の自立」の中で、「存在の善悪」は「行動の善悪」に置き換えられます。「価値の生み出し」が、怒り否定することで得る自尊心を、現実において生み出し、価値を認めることのできる自尊心へと置き換えます。もはや「自分」というものに縛られることのない自尊心に支えられ、「愛情要求」は、もやは愛を与えられることなく愛に満たされている「包含の愛」へと、魂を成熟させます。
まずはそうした根本的変化の話を、何とか頭で受け付けることができるかになるでしょう。そんなの絵空事だと言うのではなく。僕みたいな変化体験を語る人々の話を、「作り話」だと受け付けない人も結構います。人間は変わりっこないと。まあそう考えたら、その通りそれで終わりですね。 心理学本下巻で実例を重視するのはそのためで、作りようもない未知が起きていることをなるたけ描写したいわけです。
次に、そしてそれを目指す気になれるかという話になるわけです。 まずは、そうして成長できた自分が人に愛されるようになる、自分を嫌った人々も見返せるようになる。これは「感情」としては同じことの繰り返しなのですが、まずはそれでいいんです。というか、そうゆう形でしか「動機」を抱き得ないですね。
■「感情を超えたもの」を見る目へ
「実践」への「動機」は、最初は「病んだ感情」の繰り返しの中にある。しかし「実践」は、「病んだ感情」を抜け出す方向のものになっている。 これはつまり、実践に向かわせた動機そのものが、実践の途上で崩れてくるというパラドックス事態が起きることを意味します。
実はこれが「病んだ心からの治癒と成長」の基本形ともなるものであり、それを知ることが同時に、「感情を超えたものを見る目」を意味します。
何が起きるのかを見てみましょう。その時、人は人間の心の全ての真実を見ることになります。 全てが同時に起きます。 「心の自立」に沿った自尊心が心を安定させるほどに、自らの心を成り立たせてきたものの全てが、見える時が訪れます。
まず見えるのは、「心の依存」の中で自分の心を成り立たせていたものです。
それは「愛情要求」という感情をベールとして見えなくされていたもろもろです。純粋な愛への願いの感情。愛されることで何かを得ようとした強欲。愛されるための「あるべき姿」になろうとした嘘。そして、人を愛するような振りをして強欲を叶えようとしたという、最低の人間性。この最後のものは心を病んでいた度合いに応じて、醜く淀んだ色彩の濃い幻想的な恐怖の感情になります。そこに見えるのは、人間の姿をしたできそこないの化け物のようなものになってくる。
そして、幻想が崩れていきます。それは高潔な自分という幻想の中で、幼児的な愛情要求などない顔で、「人の目」によって自分が愛されているという自尊心幻想の崩壊です。そしてそれは、その自尊心幻想のために「これが自分だ」と感じていたものの嘘がばれる時を意味します。それはまさに、自分が「望む資格思考」の中で、「生きる資格などない」とさえ考えていた姿そのものになってくるかも知れません。
そしてやはり心を病んだ度合いに応じて、これらの全体が「恐怖」を引き起こします。それはもうこの世のものとは思えない恐怖です。 それほど深刻でないケースにおいては、この恐怖が、今まで心の安定を脆いバランスの中で維持していた「これが自分だ」という幻想が崩壊する、一種の意識破綻であるという意味が分かるでしょう。最も軽い状態においては、もはやあまり感情動揺を伴わない薄さの中で、心に浮かぶイメージの中で、「あるべき」であったもの、そして「与えられるべき」であったものを嘆く自分のイメージが崩壊する蜃気楼を見るような体験となるでしょう。
■見えないまま起きている治癒と成長
しかしこれが「心の自立」の取り組みの中にあった時、心の治癒と成長としての得がたい積極的な意味がそこにあることを、この人はやがて知ることになります。 主に3つのことが同時に起きていることになります。
「愛情要求」の看取り。「与えられる」ものとしての「愛」を強欲に欲した衝動が、完全に出口を失った消滅へと向かいます。 ここで愛情要求が破綻せざるを得ないのは、愛されるために「こんな自分」であれば、と抱いていた幻想が、何よりもこの意識崩壊の中で抱く「恐怖」によって崩されることです。愛されるための「こんな自分」とは、こんな恐怖など抱いていない、世界に向かっていける自分だったのです。しかし今、自分の現実はそうではなく、病んだ恐怖によって身動きができなくなるという「現実的な障害」を抱えるのが自己の現実であることが晒されます。
深刻なケースの初期的段階では、こうした「現実」を受け入れることができません。意識の首座がまだ「空想」の側にあるからです。ただ「自己操縦心性の崩壊」としてだけそれは体験され、いかにそれをやり過ごすかの山場が起きることが観察されます。
こうして2つめのこととして、ありのままの自分に戻るということが起きるわけです。
3つめに、これがさらに特殊な心理学的現象として、その意味が後になってのみ分かることが起きます。これもやはり心の障害の度合いに応じたものになります。 それは「感情の膿の放出」で、ここで述べた感情動揺の中で、特に身体的体調悪化を伴う「脳内毒の放出」とでも表現するのが相応しい状態が起きることです。典型的なのは「吐き気」であり、まるで脳内毒が「感情」として処理されることなく放出され、胃腸で処理されたかのような感じです。貧血状態も良くあるものです。また緩やかな現象として、強烈な眠気に襲われることが起きます。
これらは一種の病気と間違われる可能性があるほどのものですが、ハイブリッド取り組みの中で前後状況が明確な中で起きるものはほぼ100パーセントこの治癒メカニズム現象として起きるものであることを、相談事例の中では指摘して安心させるようにしています。 まあそうした前後文脈とはまったく別にこうした体調悪化が起きるものは、別の病気を疑う必要も出てくるでしょうが、僕が相談対応した中でこうした出来事まであったのは数例程度ですが、全くそうした心配は不要であったのが事実です。
「感情の膿の放出」は、それが「感情」という次元よりも「生理的」という次元で起きるのに対応して、一定時間経過後に、「感情基調」の全体が生理的次元で改善向上していることが分かってきます。感情が純粋に感情として「清明感」を伴って体験され、「感情」に「生理的変化」が伴うという基本的ストレス感が減少します。これは湧き出る感情が基本的に良いものになっていうという変化になります。
このように「見えないまま起きている治癒と成長」の中で、どのように「自らが真に望むもの」が見えてくるのかの流れを、次に振り返りましょう。 |
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