掲 示 板
過去ログ
2008.02


心理学本下巻に向けての考察-228:「未知」への意志と信仰-120 / しまの
No.1488 2008/02/29(Fri) 12:30:59

■「病んだ心からの治癒と成長」という応用形

「心の成長」真の姿は、それを歩んだ結果として後から分かるものだという制約がある、という話をしました。
ではそれが見えないところから、それに向かう中で見えるものとは何なのか。何を見ればいいのか。まず見えるのは「人の目」イメージの中で揺れ動く感情だけです。

そこから始めて、深刻なケースにおいては「感情と行動の分離」の「内面感情の開放と理解」あたりを主な踏み台として、何とか「魂感性土台の体験」あたりにまで落ち着かせる。それほど深刻でないケースにおいてはさらっと実践内容を押さえて頂いた上で、魂感性土台と人の目感性土台の違いが分かることあたりから始める。
これが「前期」段階。まあ実はこれは全ての面において準備に過ぎないような話になります。この心理学を整理し始めた頃には、到達だと考えていたようなものが、実は準備段階というような話になるわけです。

ここから、「心の自立」方向性への本格的な取り組みが始まります。
まず理解することからです。「心の依存」「心の自立」で何がどう変わるのか。その先に何があるのか。


■「心の自立」を目指す

「心の依存」の中では、愛情要求「存在の善悪」底流にして、「人間性への怒り」「否定のループ」が心の表面に主に見えるものになります。

「心の自立」の中で、「存在の善悪」は「行動の善悪」に置き換えられます。「価値の生み出し」が、怒り否定することで得る自尊心を、現実において生み出し、価値を認めることのできる自尊心へと置き換えます。もはや「自分」というものに縛られることのない自尊心に支えられ、「愛情要求」は、もやは愛を与えられることなく愛に満たされている「包含の愛」へと、魂を成熟させます。

まずはそうした根本的変化の話を、何とか頭で受け付けることができるかになるでしょう。そんなの絵空事だと言うのではなく。僕みたいな変化体験を語る人々の話を、「作り話」だと受け付けない人も結構います。人間は変わりっこないと。まあそう考えたら、その通りそれで終わりですね。
心理学本下巻実例を重視するのはそのためで、作りようもない未知が起きていることをなるたけ描写したいわけです。

次に、そしてそれを目指す気になれるかという話になるわけです。
まずは、そうして成長できた自分が人に愛されるようになる、自分を嫌った人々も見返せるようになる。これは「感情」としては同じことの繰り返しなのですが、まずはそれでいいんです。というか、そうゆう形でしか「動機」を抱き得ないですね。


■「感情を超えたもの」を見る目へ

「実践」への「動機」は、最初「病んだ感情」の繰り返しの中にある。しかし「実践」は、「病んだ感情」を抜け出す方向のものになっている。
これはつまり、実践に向かわせた動機そのものが、実践の途上で崩れてくるというパラドックス事態が起きることを意味します。

実はこれが「病んだ心からの治癒と成長」の基本形ともなるものであり、それを知ることが同時に、「感情を超えたものを見る目」を意味します。

何が起きるのかを見てみましょう。その時、人は人間の心の全ての真実を見ることになります。
全てが同時に起きます。
「心の自立」に沿った自尊心が心を安定させるほどに、自らの心を成り立たせてきたものの全てが、見える時が訪れます。

まず見えるのは、「心の依存」の中で自分の心を成り立たせていたものです。

それは「愛情要求」という感情をベールとして見えなくされていたもろもろです。純粋な愛への願いの感情。愛されることで何かを得ようとした強欲。愛されるための「あるべき姿」になろうとした嘘。そして、人を愛するような振りをして強欲を叶えようとしたという、最低の人間性。この最後のものは心を病んでいた度合いに応じて、醜く淀んだ色彩の濃い幻想的な恐怖の感情になります。そこに見えるのは、人間の姿をしたできそこないの化け物のようなものになってくる。

そして、幻想が崩れていきます。それは高潔な自分という幻想の中で、幼児的な愛情要求などない顔で、「人の目」によって自分が愛されているという自尊心幻想の崩壊です。そしてそれは、その自尊心幻想のために「これが自分だ」と感じていたものの嘘がばれる時を意味します。それはまさに、自分が「望む資格思考」の中で、「生きる資格などない」とさえ考えていた姿そのものになってくるかも知れません。

そしてやはり心を病んだ度合いに応じて、これらの全体が「恐怖」を引き起こします。それはもうこの世のものとは思えない恐怖です。
それほど深刻でないケースにおいては、この恐怖が、今まで心の安定を脆いバランスの中で維持していた「これが自分だ」という幻想が崩壊する、一種の意識破綻であるという意味が分かるでしょう。最も軽い状態においては、もはやあまり感情動揺を伴わない薄さの中で、心に浮かぶイメージの中で、「あるべき」であったもの、そして「与えられるべき」であったものを嘆く自分のイメージが崩壊する蜃気楼を見るような体験となるでしょう。


■見えないまま起きている治癒と成長

しかしこれが「心の自立」の取り組みの中にあった時、心の治癒と成長としての得がたい積極的な意味がそこにあることを、この人はやがて知ることになります。
主に3つのこと同時に起きていることになります。

「愛情要求」の看取り。「与えられる」ものとしての「愛」を強欲に欲した衝動が、完全に出口を失った消滅へと向かいます。
ここで愛情要求が破綻せざるを得ないのは、愛されるために「こんな自分」であれば、と抱いていた幻想が、何よりもこの意識崩壊の中で抱く「恐怖」によって崩されることです。愛されるための「こんな自分」とは、こんな恐怖など抱いていない、世界に向かっていける自分だったのです。しかし今、自分の現実はそうではなく、病んだ恐怖によって身動きができなくなるという「現実的な障害」を抱えるのが自己の現実であることが晒されます。

深刻なケース初期的段階では、こうした「現実」を受け入れることができません。意識の首座がまだ「空想」の側にあるからです。ただ「自己操縦心性の崩壊」としてだけそれは体験され、いかにそれをやり過ごすかの山場が起きることが観察されます。

こうして2つめのこととして、ありのままの自分に戻るということが起きるわけです。

3つめに、これがさらに特殊な心理学的現象として、その意味が後になってのみ分かることが起きます。これもやはり心の障害の度合いに応じたものになります。
それは「感情の膿の放出」で、ここで述べた感情動揺の中で、特に身体的体調悪化を伴う「脳内毒の放出」とでも表現するのが相応しい状態が起きることです。典型的なのは「吐き気」であり、まるで脳内毒が「感情」として処理されることなく放出され、胃腸で処理されたかのような感じです。貧血状態も良くあるものです。また緩やかな現象として、強烈な眠気に襲われることが起きます。

これらは一種の病気と間違われる可能性があるほどのものですが、ハイブリッド取り組みの中で前後状況が明確な中で起きるものはほぼ100パーセントこの治癒メカニズム現象として起きるものであることを、相談事例の中では指摘して安心させるようにしています。
まあそうした前後文脈とはまったく別にこうした体調悪化が起きるものは、別の病気を疑う必要も出てくるでしょうが、僕が相談対応した中でこうした出来事まであったのは数例程度ですが、全くそうした心配は不要であったのが事実です。

「感情の膿の放出」は、それが「感情」という次元よりも「生理的」という次元で起きるのに対応して、一定時間経過後に、「感情基調」の全体が生理的次元で改善向上していることが分かってきます。感情が純粋に感情として「清明感」を伴って体験され、「感情」に「生理的変化」が伴うという基本的ストレス感が減少します。これは湧き出る感情が基本的に良いものになっていうという変化になります。

このように「見えないまま起きている治癒と成長」の中で、どのように「自らが真に望むもの」が見えてくるのかの流れを、次に振り返りましょう。


心理学本下巻に向けての考察-227:「未知」への意志と信仰-119 / しまの
No.1487 2008/02/29(Fri) 09:55:16

■「心の成長」の基本形

まとめましょう。「心の成長」基本形と、「病んだ心からの治癒と成長」という応用形への、最終的な答えです。
「心」「魂」の関係性、そして「人間性」という視点まで全て視野に入れてのものです。

「心の成長」基本的な姿は、「自己の重心」によってありのままの自分と現実に立つ方向性と、「価値の生み出し」によってもはや「自分」に縛られない、「価値を認めることができる」そして「価値を生み出すことができる」という自尊心を支えにして、人生を生きることで自然と培われるものになります。

「価値の生み出し」の「匿名性思考」自他未分離意識「魂の感情」と調和するものであり、我々をより「魂の望み」の感情へと近づけさせてくれます。やがてそれは、「命が望むもの」として、もはや「愛」と「自尊心」も未分離な、人がそれによって揺ぎなく生かされる芯のようなものになります。これが「魂」の感情「包含の愛」へと成熟させ、この人間の人間性を高めることになります。

こうした成長変化の全体が、「心の自立」という大きな摂理の中にあります。「心の自立」とは、心を人に依存することなく自らによって支えることができるようになっていくということであり、人に依存することなく愛することができる、望むことができる、価値を感じることができるという肯定的能動的な形に、その真の姿があります。

人に依存しないという側面だけを真似て、人に背を向けることで自分が自立しているという錯覚を得るのは、実は依存の中自己の空想に生きているに過ぎません。そして自己の幻想がある先に「人の目」がある時、それは結局は「愛」に帰結します。


■「恐れるもののない心」へ

心の成長は、まず自らを支えることのできる自尊心の獲得を携えて、「望み」に向かい「現実」に向かう体験を通して、自分が真に何を望んでいるのかを知って行く体験として生まれます。決して、自らが望むものを頭の中で十分に知ってから現実に向かうのでは、ないのです。そう考えると人生を見失います。

我々は、今見える望みに向かい現実に向かう体験の中で、自らが真に望むものが何かを、知っていくのです。これは別の表現をするならば、「感情」という表面を見ただけでは、自らが真に望むものが何かを知ることはできないということです。

望みに向かい現実に向かう体験の中で、自らを知る中で、自らが真に望むものとは、「魂」が望むものであり、さらにそれは「命」が望むものであることが分かってきた時、それは「愛」であることが分かってきます。

その時、「魂と心の分離」という構造において、「魂」「命」は我々の「意識」としての「自分」ではなく、もはや自らが「自分」とは別のものに生かされる存在であることを知ります。そして「魂」と「命」が連綿と続くものである時、それは自らが永遠に生かされるものを得たことを意味します。

ここに、「恐れるもののない心」が生まれます。これがハイブリッドの示す「心の成長」おおよその道のりと考えていいでしょう。こうした心の成長は、頭で考えて作り出す姿勢としてとしてではなく、体験を通しての意識変遷として生まれます。


■「命の感性思考」へ

これが基本形として、問題は「病んだ心からの治癒と成長」という応用形になってきます。

上記で強調した「感情という表面だけ見ていては自らの望みは知り得ない」というのがになってきます。
では何を見ればいいのか。そうした、何を見るかの目が問われるのが「感性」であるわけです。

「命の感性」が答えになってきます。それを使う、「命の感性思考」が、「否定価値の放棄」の先に獲得したい、ハイブリッドの到達目標として浮かび上がってきます。


心理学本下巻に向けての考察-226:「未知」への意志と信仰-118 / しまの
No.1486 2008/02/28(Thu) 15:49:02

■自尊心の安定と「貪欲」の分岐路

自尊心「愛されること」「相手を打ち負かすこと」から、「価値の生み出し」に比重が移るにつれて、何が起きるか。

「愛されること」や「相手を打ち負かすこと」への依存度が減ります。心の安定のために、です。
これは話のそのまんまの繰り返しに一見してなるのですが、それ以上の裏があります。

つまり、自尊心として本当の安定が得られてくるということです。これは心の表面としては、「自尊心」をめぐる感情そのものがあまり切羽詰ったものではなくなってくるという変化に、まずなります。もう自尊心を必死に求める必要がなくなってくる。
実はこの感情の安定が、さらなる自尊心になってくるわけです、これもかなりパラドックスですね。

一方、「愛されること」「相手を打ち負かすこと」では、結局のところ自尊心が安定せず、要は自尊心全体が不安定におとしめられるということです。
心の表面では、さらに自尊心を求める衝動に駆られることになります。そしてさらに「愛されること」や「相手を打ち負かすこと」を求める。ここに「貪欲」というものが生まます。


■病んだ心からの治癒成長現象メカニズム

こうして、「価値の生み出し」による自尊心の獲得と共に起きるようになってくる、治癒と成長原理の説明は、以下の図として説明しました。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro20.jpg

一言でいえば、「人の目感性土台の解体」とでも言える変化が起きてくる。全てが見えてくるわけです。
魂の「愛への望み」も、それが「心」を通って「現実世界」の中で叶えられることを求めた時、それがあまりに幼児じみて、叶えられることを問えるようなものではないことも。

魔法のようにきれいになった心がそこですぐ見えるようなものではないことを、ここで説明するのがいいでしょう。「人間性への怒り」「否定のループ」という硬い表面の下に隠した屈折した意識構造どう解消されるのか、その実際の姿は、次のような劇的な心理体験基本的な単位とすることになります。

それは自尊心の安定化の中で、対人関係や社会行動の中で、「自ら望む」ことへの心の動きが台頭してくるような形で始まります。
決してそれは純粋な魂感性によるものではありません。望みはまず人の目の中に始まり、魂へと向かう。それが「不完全性の中の成長」なのです。
それが今起きます。

それについて、僕自身が比較的最近書いた日記の引用で、まず描写したいと思います。ここ最近の考察は、この時見えたことをかなり整理の材料にしたものです。

2007.12.5
・・(略)・・。それはちょっとした夢を見るようなことから始まった訳だ。もしあの人に思いを寄せられたら、自分はどうなれるだろうかと。そこで、望みに向かう中で自分に嘘をつくということが起きる訳だ。そして嘘が心をすさみ、空想した自分のようにはもう相手を愛することのできない自分を知る
 そして自分に戻る。これがありのままの姿なのだ。弱さが残した庇護幻想と自分幻想の中で、自らへの嘘をついた痛みと共に、「心」は「魂」と「現実」に近づく。これが自立のない庇護幻想の中で起きた時、心を病ませる方向に向かう。この一線を定義していきたい。


全てが同時に起きます。心を病ませるものの解消も、心の自立も。さまざまにつながりのない問題の全てが、終わる時には一点に収束するわけです。

始まり「人の目感性」です。人の目にこう見られる自分。
それを引き金にして「望み」が刺激され、現実において向かおうかという「現実性刺激」が心の中に起きる。
すると、今まで屈折した人格構造をオブラートで包んでいた保護膜が取りさられ、全てがありのままに晒されることになるわけです。
純粋な愛への願い。
愛されることで何かを得ようとした強欲。
愛されるために必要な「あるべき自分」を演じることが含んだ嘘。


■自分の中の「最低の人間性」が消える時

そしてここに、この治癒メカニズムの先の説明の際には触れなかった、もう一つの要素もここで晒されることになります。それはこの人間の心にそれが本当にどこまで生きた衝動だったのかはちょっと不明なまま、上記要素の合成のように現われるものです。
嘘をついて何かを得ようとした強欲という、最低の人間性。
これが「アク毒」の正体です。

もしこれが「心の自立」の方向性のない、「人の目」依存の自尊心維持衝動の中で起きた時、このさまざまな側面を一点に同時に収束させた出来事として、「破滅」という色彩がより焦点をあびるようになります。「どうにかしなければ」という圧倒的な衝動に負けた時、この人は現実において「破滅」を生み出す行動に走ってしまうかもしれません。

事実、深刻な心の障害傾向からハイブリッドに取り組んだケースにおいては、まず例外なく、ハイブリッド取り組み以前にはこの現象の中で何らかの破滅的行動をしてしまった傾向がある感じになります。
そしてハイブリッド取り組みを始める中では全く同じ構造の現象「自己操縦心性の崩壊」として起きるのを、「ただ実存を守れ」という指示によって乗り越えてもらいます。アク毒はしばしば吐き気などの体調悪化を伴って吐き出されます。

そして一定時間が過ぎた後に、全てが消えたまっさらな状態が現われます。
治癒成長のまだ初期的な途上段階にある場合は、それはただ「開放感」とだけ理解されます。自分が変化できたと過剰な幻想に再び戻るのが大抵です。そして再び、何らかの契機で「自己操縦心性の崩壊」が起きる。

治癒成長が進むほどに、自分に現われる「未知」の、より積極的な意味が分かってきます。「人の目」が消えた感覚の中で、人に積極的な感情を持つことのできる自分を知るのです。
それはかつての自分にとって、「こうなれれば」という自分そのものに近いのですが、不思議なことに、かつての自分が「こうなれれば」という自分によって叶えようとした願望そのものも、同時に消えています。まあ僕の場合は、「こうなれれば女の子にモテモテなのに」と抱いた自分になれた時、女の子にモテたいという貪欲衝動も消えていたという感じ。アハハ^^;


これが意識の表面で起きることであり、僕としても、一体何がどうなっているのか全く分からないがとにかくこうゆうことが起きるのが病んだ心からの治癒成長メカニズムとして存在するのだということから、この心理学の整理を始めたわけです。

最新視点から、ここで何が起きるのかを整理しましょう。
実際こうした特異な体験にまで及ばないであろう、心の成長のより一般的な意味としてもどう考えられるかという観点で。


心理学本下巻に向けての考察-225:「未知」への意志と信仰-117 / しまの
No.1485 2008/02/28(Thu) 14:10:38

2日スキーの予定を1日に変更しきのう戻ってきたので、ちょっと早めのカキコ復帰^^。

■「自己の重心」から「心の自立」へ

例により最新視点を入れて全体振り返りから始めています。最新視点とは「人間性への惑い」というような話ですね。人間は人間性において不完全な存在だという視点。

表面には「人間性への怒り」という硬い大人の顔と、「否定のループ」という心を病んだ姿がある。その底には、置き去りにされた自立と、生きる方向に惑うがある。そこにはまるで幼児のような未熟な衝動も含まれているのだが、硬い表面に隠されて明瞭には見えない。
これが問題の始まりになります。まあ最初に見えるものですね。

その硬い表面が、ただ単純にその人が健康な心の成長の先に築いた思考なのか、それとも置き去りにしたものを隠した、屈折した意識構造の結果なのかは、もはや本人にさえ良く見えなくなってしまっています。
それでも、どうやら後者に属するものであるらしいことは、その人が対人関係や社会行動でのストレスや、人生への空虚感を抱えていることに示されることになるでしょう。

それに対しハイブリッドは、隠された内面にむやみにメスを入れようとするのではなく、ごく実践的な心理学と行動学のノウハウを示すことから始めます。問題が単に思考法にあったのであれば、それが人生の向上にすぐ役立つでしょう。
一方それが妨げられる様子から、心の底に隠された問題の存在を知り、より本格的な取り組みをすることになります。

それは「自己の重心」最大指針とし、「人が」から「では自分では?」という問いから始めることで、自分の心の状態のありのままの現実を知るとともに、それをハンディとして受け入れた上で、上述のような建設的思考法行動法を試みるという形になります。

それが根本的に目指すのは、「心の自立」でした。自分の「気持ち」は自分で受け止めるという姿です。
その先に生まれる、成長した自分が人に愛され賞賛されるという、「人の目」期待のループに陥るのもいいでしょう。それが心の現実なのであれば、まずそれをありのままに認めることからです。それが「自己の重心」です。
では「人の目」期待のループから、どのように抜け出せるのか。
その問いにも答えとなるような、「心の自立」の成り立ち説明となっている次第です。


■「心の自立」と「人間性」

「心の自立」「人間性」についても再度確認。これは「心の自立」をなぜ目指すのかの話になるでしょう。

ハイブリッドでは「人間性」とは、「思いやり」「真心」をごく初歩的な表面と考えた上で、より根本は「破壊から建設へ」というその人の全体的あり方と、あとは「魂の成熟」だと書きました。
これはまあ平易な表現をするなら、前向き建設的でおおらかで包容力があるという人物イメージへの方向性となるでしょう。そんなイメージで、「人間性」を成長させることは人間的な魅力につながることであり、目指すことのできるものだと。
まあそれによって愛されるという、「人の目」期待ループがまた見えるにしてもです。

でそうした「破壊から建設」「魂の成熟」というものを生み出す原動力として、「心の自立」があるという位置づけと言えるでしょう。

「自立」そのものは、もはや人工的意識法思考法ではなく、「命の最大摂理」として、全ての生きるもののDNAに設計済みのことです。それにありのままに沿うことです。
それが人間の場合、生活基盤についてはあまりにも社会が高度化し、外面的自立というのは見えにくくなる中で、「自分の考え」と言うものを持つこと、そして自分の気持ちを自分を受け止めることといった、内面的「心の自立」が問われてくる。そうした「心の自立」の中で、自分が望むものを知り、建設的な方向でそれに向かう中に、「破壊から建設」「魂の成熟」というものにつながる「人間性の成長」がある、という話になります。


■「価値の生み出し」による「心の自立」と「自尊心」

ハイブリッドのアプローチは、基本的にそのような「心の自立」を目指し促すための方法論となるものだ、と言えるでしょう。

「自己の重心」は、自分の考えを持ち、自分の気持ちを自分を受け止めることへの、基本的な方向を向くための思考法転換と言えます。
そして「価値の生み出し」は、そこでの「自分の考え」の内容、そして自分で受け止める「自分の気持ち」の内容を、上述のような「心の自立」の先にある「人間性の成長」へと向けるための思考法転換だということになります。

「人」ではなく「価値」を見る。それによって、人間関係模様と人間関係順位しか目に入らないような、愛情要求存在の善悪におおわれ、「傲慢で利己的な善」という人間性の惑いの中にある思考から脱する。

これは特に、我々の「自尊心」のあり方に影響するものと言えます。
「自尊心」については、大体3つの形態があるという説明をしています。この3つとは、多少表現が異なる場合もあったかも知れませんが、「愛される」「相手を打ち負かす」「価値の生み出し」という3つです。

「愛される」「相手を打ち負かす」自尊心が、「心の依存」の構図にあります。「愛される自尊心」は自明的にそうですし、「相手を打ち負かす自尊心」はやはり相手の存在に依存します。
さらに言えば、「相手を打ち負かせる自分」が、やはり「人の目」の中にあってこそ自尊心になることにおいて、「相手を打ち負かす自尊心」の背景に実は「愛される幻想」が控えていることが考えられます。これは表面では愛情要求があまり目立たないケースにおいて、人に勝利できる優越の獲得に失敗したときに現われる抑うつ反応に示されることになります。

「価値の生み出し」では、そうした「自尊心」において、もはや「自分」という人物をとっぱらった上で「価値」を見る思考の先に、「価値を生み出すことのできる自尊心」「価値を認めることのできる自尊心」を育てることになります。
これは「自尊心」が実は「自分」についてのものではなくなってくるというパラドックスです。自分そのものではなく、自分が生み出す、自分から離れて生き続けるものに、「自尊心」が移ってくる。

ここに、「自立」という命題と「自尊心」という命題がつながった答えが見えてくると感じる次第です。なぜなら、「自立」の先には、必ず「自己」の衰え、そして「死」があるからです。
「自分」に縛られた「自尊心」は、かならず崩れていく定めがあります。もし人が「自分」に縛られた自尊心に心の安定を求めようとした時、その人がやがて心の安定を失う運命にあることは、火を見るより明らかです。

「価値の生み出し」の「匿名性思考」は、「人物」という枠を捨てた思考の先に、そうした「自立」の宿命に沿った自尊心を、我々に与えてくれます。
またそれが、心のDNAに設計されたものだったのではないかと考える次第。


■「命」が「自尊心」に

また先のカキコの終わりで触れておいたように、この「人物」ではなく「価値」を見る「匿名性思考」は、「魂の思考」と一致したものになります。「魂」はもともと自他未分離の意識しかなく、自他の区別に立つ「愛される」「相手を打ち負かす」自尊心は、魂の感情にはあまりそぐわないんですね。

「人の目」イメージが消えた「魂感性土台」においては、漠然とした人と人のイメージと、抽象化された「価値」のイメージが現われます。
「価値の生み出し思考」は、それと一致する思考形態において、「心」が自尊心を獲得する方向に向かうものになります。
これが「破壊から建設へ」そして「魂の成熟」という人間性の成長にもそのままつながることになるわけです。

すると何が起きるのかという、「治癒と成長」の原理についても振り返り、最後の踏み切り台と着地場所の説明へ行きましょう。


2/28(木)まで不在 / しまの
No.1484 2008/02/25(Mon) 12:29:54

どんどん続けたいところでちょっと中断ですが、また帰省してスキー。
あと数日分程度のカキコで、全て完了できそうな見通しですね^^。


心理学本下巻に向けての考察-224:「未知」への意志と信仰-116 / しまの
No.1483 2008/02/25(Mon) 11:30:26

■「価値の生み出し」を通し「心の自立」へ

「人間性への怒り」「否定のループ」といった表面と、その底にある問題を描写しましたが、その両者がありのままに、ごまかされることなく見据えられることが、ハイブリッドにおける根本的成長へのスタートラインになります。
つまり、まだ何も始まってはおらず、これからが始まりなのです。

なぜか。ここまで問題が明らかになったというのに。
その疑念に、「破壊幻想」が示されるでしょう。問題が明らかになるということと、解決が示されるということとは、全く別のことなのです。

ハイブリッドにおいて、思考法の最も大枠における指針として「自己の重心」を言ってきました。これは、ありのままの自分の現実へと戻るための思考転換です。
その上で「感情と行動の分離」における建設的思考法や、心理メカニズム学習に基づく自己理解も、思考法の転換ではあるでしょう。しかしこれはあくまで「ありのままの現実」に即した思考をするということになるでしょう。建設的思考法とは、ありのままの現実におけるノウハウであり、メカニズム理解ありのままの自己の理解です。

「価値の生み出し」は、そうした「自己の重心」というハイブリッドの最大基本指針と匹敵する、思考転換指針です。
それは、「心の自立」への思考転換という位置づけにおいてです。

この視点から、「価値の生み出し」についてもうちょっと解説を加えましょう。


■「価値の生み出し」とは「匿名性による思考法」

「価値の生み出し」とは、主に「社会行動」と「対人行動」において、我々の行動において「生み出される価値」とは何かを、それを行う人物評価を視界から外した「匿名性」において考えるという、まずは思考方法のことを指します。
そして次に、それに基づく行動をするという行動法が出てきます。この面では、外面的には「建設的行動」ともうあまり違いのあるものではなく、「価値の生み出し」の重要な本質「匿名性による思考法」という点にあると言えます。

誤解されがちなのは、「価値の生み出し」が、「建設的思考法行動法」の先で人に賞賛され自尊心にもつながるような、何か素晴らしい生産的行動をするという、建設的行動の一段の向上のこととして考えるものです。

それは違います。まあ用語として「価値の生み出し」で一番いいかという正しい日本語問題はありますが(^^;)、まず「価値の生み出し」とは、自分が何をできるかという、「自分」という人物評価に向かう思考から、「自分」という人物をとっぱらってしまう思考法なのです。
まず、自分のことであるのかAさんのことであるのかB君のことであるのかではなく、今自分が目の前にしていることがら、そして回りの人々が目の前にしていつことがらにおける「価値」とは何なのかを考える、とても抽象的な思考法です。

こうした思考法を教わることは、まず今までの学校や家庭では、ありません。僕はそれを優れた大企業の中で体系化される、社会と時代をリードするノウハウの教育のようなものとして、学ぶことになりました。
そしてそれが結局、僕の仕事の能力も、人生観も、根本的に変えるようなものになったわけです。

まあこの辺が、世に出ている結構高度なビジネスもしくは人生の成功学ハイブリッド心理学の接点的なものになりますね。
しかしそれがあくまで、この社会を生きるどんな場面においても大きく役立つものだと、僕としては考えるわけです。


■「価値の生み出し」と「心の自立」

ではそうした「匿名性による思考法」である「価値の生み出し」とは、どのように「心の自立」とつながるのか。

まず「心の自立」とは、外面的な自活人に頼らない行動法のことではなく、自分の気持ちを自分で受け止めることができるということなのです。
それに対して、「心の依存」にある姿とは、自分の気持ちを自分で受け止めることができず、自分の気持ちを人に受け止めてもらわないと始まらない、という姿です。

そうしたものとして、「心の自立」を目指すかどうかは、もちろんもう自由です。
しかしハイブリッドは基本的に、自らのDNAに反したものへと向くことは、基本的に健康と幸福を損なうことにつながるという考えを取っています。
「心の自立」について言えば、「そんなのどうでもいいじゃん」と心の表面では考えることに成功したとしても、事実その人がもう「大人」と呼ばれる年齢なのであれば、恐らく、まず「自尊心」が損なわれるのではないかと。それが連鎖的に、「愛」や「人生」を損なうことにつながっているのではないかと、考えるわけです。

「心の自立」に向くことで、それとは逆の好連鎖が起きます。
だから「心の自立」を目指すのが、やはりお勧めです。

で、「価値の生み出し」がどう「心の自立」とつながるのか。

「価値の生み出し」は、「人」ではなく、「価値」を見る思考法です。「価値を見る目」を旨とする思考法です。

一方、「心の依存」では、「人」に縛られた思考法になります。
「心の依存」は、ものごと全てにおいて「人間関係模様」「人間関係順位」しか見ていないような思考になります。まあお昼のメロドラマ中学生の「仲良しグループに入るかいじめか」の世界ですね^^;
これはハイブリッド的には、「愛情要求」と「存在の善悪」でしかものごとを思考できない様子、ということです。

そしてそうした「心の依存」の底には、「人間性」をめぐる人間自身の惑いがあります。
「心の依存」、自分の気持ちを自分で受け止めることができず、人に受け止めてもらう必要がある、その先には、自分の気持ちを人に受け止めてもらうことの先で、「良くしてもらう」という、「自ら望む」ものの不明瞭な「依存幻想」があります。
その先に、「傲慢で利己的な善」という、「存在の善悪」の闇があります。

そうして、「人間性への怒り」「否定のループ」へと戻ります。「心の依存」「愛情要求」「存在の善悪」「傲慢で利己的な善」..。
これら全てがつながっています。出口のないループの中で。

「価値の生み出し」「匿名性思考」は、それとは全く世界のものになります。
ただこの2つの別世界の間をどう飛び越えるのかは、まだ見えないですね。ここまでの話では、ただ別の世界として浮かんでいる感じになります。


いったんカキコして、引き続き「価値の生み出し」「心の自立」のつながりについて。
その「匿名性思考」と、自他未分離「魂」の思考一致してくるという話になります。その先に、2つの別世界の間を飛び越える、最後の踏み切り台着地場所の詳細を説明していきます。


心理学本下巻に向けての考察-223:「未知」への意志と信仰-115 / しまの
No.1482 2008/02/24(Sun) 22:57:30

■置き去りにされた「自立」と「愛」

難解な哲学、もしくは硬直した善悪の思考。
その中で「否定」ばかりに傾いている人の姿が、もしそれが比較的健康な心の成長の先にある姿であるならば、それこそそれは純粋に哲学の議論の話なのかも知れず、それについてハイブリッドはあまり口を出すものではありません。

しかし、この表面の底に、もし「心を病む」という問題が差し挟まれているのであれば、その硬い表面の底には全く異なるものが見えてきます。
それは置き去りにされた「自立」と「愛」という、幼い挫折のまま時間を止めた「魂」が眠っている姿です。

糸口は、この人が他人や自分を怒る時の、理由や基準の曖昧さ不明瞭さになるでしょう。自分でも何をなぜ怒っているのか、良く分からないでいることが、精神分析的な取り組みの先に、判明するかも知れません。
それは、自分で何かを望むことが、できていないのです。まず「人が」、彼彼女のために何者かであってくれなければ、思考が始まらないのです。
「自己の重心」という視点による、思考の形態の詳しい分析が、そこに「阻まれた自立」があることを明瞭にさせていくでしょう。


■あまりにも無様な愛情要求と魂の嗚咽..

そしてその底には、「愛情要求」があります。それが見えた時点で、もう最初の大人の顔での哲学の思考とは、まるで別の姿が見えてきます。
そこにあるのは、自分に注目してくれる相手を必死に求め、稚拙な自己顕示欲にかられながら、人の目に晒されると恐くて何もできなくなるという、その人自身にとってあまりに無様な、愛情要求の中にある姿です。
まさにそれが僕の歩んだ道のりとして書いています。まずこの「自己の現実」認めることができるかどうかが、この先の根本的な治癒と成長の変化に向かうかどうかの別れ目になるでしょう。

そしてさらにその底には、そうした自意識さえ消えた、「魂」の挫折の感情があります。それはただ、出生において自分に向けられた「生からの拒絶」という「罰」にあえぎ、自分がそんな「罰」を受けるような「罪」を背負った存在だという根源的自己否定感情を抱え、自分が進むべき道を示す「神」の声を望みながらそれを得ることができず、ただ嗚咽の中にあるような姿です。

あるいは「魂」はそこで、「悲しみ」を捨て「怒り」と「憎しみ」を選ぶようになるかも知れません。ここにもやはり、分かれ道が現れることになります。「悲しみ」を捨て「憎しみ」を選んだ魂は、もう後戻りのできない荒廃の道へと進んでいくような姿が、人間の歴史の中で観察されています。
しかしそれでも「悲しみ」「愛への願い」置き去りにされたまま、生きています。それが再び取り戻された時、この人間の心に、健康な普通の人々よりもはるかに清らかに浄化された心が生まれる可能性を、マリー・ヒリーのような人間事例が我々に示唆しています。


■「現実世界」と「魂の世界」

こうして我々は、「人間性への怒り」「否定のループ」に対して、難解な哲学思考を繰り返すのとは全く異なるアプローチへの視点を得ることになります。

「自己の重心」がやはり入り口です。「人が」から、「では自分では?」どう考え、何を望むのか。そこから外面向けの思考法行動法の問題として比較的簡単に問題が済むケースもあります。

そうでないケ−スでは、自己の重心を喪失した思考の先に、絶望的な愛情要求の存在が見えてきます。また、見えるかが問題になってくるでしょう。否定傾向が蔓延するケースでは、自分自身の愛情要求があまりに屈辱的であり、他方に存在する否定攻撃衝動との食い違いがあまりに激しいので、ここで意識が弾かれてしまうのです。そして振り出しに戻ります。
多少この繰り返しを続ける中で、意識の土台が徐々に解きほぐされ強くなってくるのに、多少の時間を必要とするかも知れません。

やがて内面外面鮮明に分離される段階が訪れます。愛情要求あまりに幼児じみて、全ての思考を放棄して相手にすがり、身を委ねようとするような、まるで赤子の自分の感情を知ることになります。
こうして本当の現実の自分の感情を知るのですが、そのあまりに極端な「愛を求める」様子に、逆に、それが「現実世界」においては理解を求めたり実現して叶うことを問えるようなものではないことを、次第に感じ取るようになってきます。

ここでもハイブリッドは、他の心理学とは一線を画する道を示します。
そのあまりに現実離れした愛への願望を否定することなく心の中で開放し、一方で「現実世界」においては、対等な大人の個人対個人として歩むことのできる社会行動への道を、進むのです。
ここに、「魂の世界」「現実の世界」という、まじわることのない2つの別世界を歩み続けるという、「ハイブリッドの世界」への入り口が、実はあるのです。


■見えなくなる問題の核心..

現実的ではない愛への願望を、心の中では開放するとは言っても、そこに隘路が再び現われるのを見ることになるでしょう。
それは恐らく、心の中では愛情要求が美化される一方、外面行動においてはストレスを抱えるというのを、基本的な構図にするかも知れません。

その中で、人によって、その現実離れした愛情要求が、現実の中で何らかの特別な癒し的な設定で満たされることが、自分のこれらの「症状」の解消のために必要なのではないかという、安直な心理学の発想に流れがちかも知れません。
人によっては、結局自分の「症状」はもう脳に焼き付けられてしまった病気もしくは体質のようなものであって、解決は脳生理学的なほどこしにあるのではと考えるかも知れません。
あるいは、大人の外面の顔に徹して、自分の心に残る何かの幼少期の影の全てを飲み込んで、自動機械のように進める生活に徹して、人生なんてこんなものだと、もう考えるのをやめてしまうのが正しいのかという考えに流れるかも知れません。


まあここまでが、ハイブリッド取り組みとしては、「魂感性土台の体験」や「人生のリセット感」を経て「とりあえず生きて行く」ことのできるような心の基盤の安定状態の獲得というような、「前期」の完了段階になります。
これは心理医療の現場では“「完治しました」状態”(^^;)なのですが、ハイブリッドにおいては、行方不明だった心がこれからの根本的変化成長の道のりへのスタートラインに立ったような位置づけになります。
また心の障害傾向というほどの深刻さはないケースも、このような心の状態からのスタートと考えると良いかと思います。

大きな方向転換への助走が、「価値の生み出し」として始まります。


心理学本下巻に向けての考察-222:「未知」への意志と信仰-114 / しまの
No.1481 2008/02/24(Sun) 13:45:28

■「不完全性の不受容」の底にあるもの

かくして問題「人間性を損なったものへの怒り」というものを焦点にするようになります。

これは実は心の障害の基本的な姿の話でもあります。それへの取り組みとして始められるハイブリッドの理解は、心を病むメカニズムへのさまざまな視点と、社会を生きるという外面行動におけるノウハウの視点、そして心と魂の成り立ちについての視点を経て、そこに再び焦点が戻ることになります。

また大きく振り返った整理をしてみましょう。「人間性を損なったものへの怒り」というものの底に、何があるのかです。

心の障害の姿とは、否定感情が心をおおい尽した姿です。彼彼女は、人間性を損なった他人と社会と、そして自分を怒ります。
それによって彼彼女は、彼彼女自身が苦しみの中で生きてきた人生において、最後に守るべきものと感じる何かを、守っているのです。
しかしそうして「損なったもの」への否定感情ばかりに心がおおい尽されている自分の姿が、やはり「あるべき姿」に比べると損なっているので、そんな自分を責めるのです。そうして自分を責めるのですが、それによって守るべきものと感じるものを守っているのです。しかしそうして否定感情ばかりに心がおおい尽されている自分の姿が..^^;
出口のない永遠の否定のループが、そこにはあります。

そこには、「不完全なもの」を受け入れない心現実を受け入れない心があります。「現実」というのは、不完全なものです。


■「行動の善悪」と「存在の善悪」

「ありのままの現実を受け入れる」。
この、ハイブリッド以外でも良く言われる命題について、ハイブリッドに興味を持った方々の持つ態度はまちまちです。
ある人は、一生懸命に「受け入れよう」と考えています。でもそうすることができません。ある人は、「善悪の放棄」に疑問を投げかけます。「善悪」を捨てたら人間世界の秩序など成り立たない、と。そして再び怒りの世界にいます。上述のループの繰り返しであるかのように。

こうした混乱を避けるための明瞭な視点は、最近になってようやっと僕としても書いた次第です。
「行動の善悪」「存在の善悪」

「行動の善悪」というのは、大いにあります。それはしっかりと学び理解することです。
ハイブリッドは基本的に(今のところ)、成人後の方々を対象に書いています。独立した人格における、対等な個人同士の関係を尊重する、自由主義社会における行動のマナーとルールというものを、まず「原理原則」として学ぶことを、「感情と行動の分離」における外面向け実践として行います。それが自尊心につながるものとしてです。

「行動の善悪」において、怒るしかない場合には、大いに怒るのがいでしょう。もちろん怒りに頼らず対処できるのであれば、その方がモアベターです。
「怒り」「弱さ」であり、事実我々人間不完全な存在であり弱さを抱える存在である時、実際のところかなり強力な悪意の攻撃に遭遇した場合は、ある程度捨て身の最終手段によって反撃するしかない場合もあるでしょう。
「怒り」とはそうゆう場面で使うものです。ただ、実際そのようになるケースは、あまりないでしょうし、実際僕自身においては幸い、今考えてもそれに値するといえるような場面に遭遇したことは、まだ人生でありません。

いずれにせよ「行動の善悪」というものが厳然とあるのであり、そこにおいて、怒りに頼らずに対処できる他の方法や知恵が手元になく、怒ることで問題の解決に役立つのであれば、大いに怒るのがいいでしょう。
これは「怒りの有用性判断」という、サイトの「「自己建設型」の生き方へ」でも書いた基本的な話の最新整理になります。
http://tspsycho.k-server.org/base/base07-01.html

この辺がまず「否定感情」へのハイブリッドの最初のアプローチになるわけですね。
「とにかく受け入れましょー」という大雑把な話をするのでは、ハイブリッドはないわけです。道徳的善悪に厳しい態度の人が、社会行動のルールに音痴というのが結構ありがちです。むしろ「社会の原則と善悪」大上段から整理することで、独り善がりの善悪を脱するというのが最初になります。

深刻なケースでは、自分にはとても「対等な個人対個人の関係」が考えられないという、深い自己否定感情と絶望感の中で始まるかも知れません。
それについてハイブリッドが言えるのは、むしろその人生の窮地を、ありのままの原点として認めるという意味での、「自己受容」です。を思うのであれば、実際それだけ困苦と不遇の中にあったわけです。それを「普通」などという曖昧な基準で自分を縛ることをやめることです。それを「唯一無二の成長」への原点として受け入れることです。そして「未知」を選ぶのであれば、相変わらずブレーキがかかったままのような中でも、少しづつ前に進む力が芽生えてきます。その中で、ここで書いたような「行動の善悪」を学んでいく。


■「人間性」における「破壊」vs「建設」

そうした「行動の善悪」が解決できてきて、いよいよ心の問題の根本にあったものが見えてくるわけです。
「存在の善悪」という命題と、「人間性」という「価値」

存在に善悪はありません。我々人間は、我々人間自身の「人間性」を、時間を切り取った静止画のように抜き出して、善悪の審判をできるような存在ではないのです。それは自分が神だと考える不実な傲慢です。
「人間性の価値」は、審判すべき基準ではなく、「望み」として向かうべき、輝きです。

これがハイブリッドの主張です。

「人間性の価値」という言葉は、しばしば有名な心理学著書のタイトルにもなったものです。
世の人は、これをハイブリッドとは逆の姿勢で掲げるものにしてしまうのですね。「人間性の価値」が、存在の善悪を決める、と。そして「存在の善悪」という根本的な誤りを放置したまま、「人間性」とは何かと、そして人はどう「あるべき」かと、自分の方が正しく理解しているぞと、競争するかのように難解な哲学の議論を展開します。

そうして「存在の善悪」という根源問題が置き去りにされたまま、「不完全性の不受容」にあるのが、まずは「人間性」における「破壊vs建設」という命題になるでしょう。
もちろん悪を許すという話ではありません。両方とも、いちおう「善」なんです。「破壊」という姿の「善」と、「建設」という姿の「善」

そして「破壊という姿の善」の底には、「破壊幻想」があります。
まずこの人が陥っているかもしれない、最も単純な錯覚勘違いとして、人間性を損なったものへ怒りを向けることで、自分がその同じ欠点を免れるという幻想があるでしょう。

そしてより根本には、人間性を育てること、そしてそれを損なった状態から根本的に清く豊かな人間性へと根本変化する成長の過程への、無知があります。実際のところ、それをどう知るかという問題が難しい話として出てきます。それが分からねば、「人間性における建設」が選びようがない。
そうして、「破壊」を選ばざるを得ない心がそこにあるわけです。

ここまでが見える表面です。そしてこの底には、全く別の心の世界があります。


心理学本下巻に向けての考察-221:「未知」への意志と信仰-113 / しまの
No.1480 2008/02/23(Sat) 17:13:38

■「人間性」はメカニズムではなく「思想」

ということで、まずは「破壊から建設へ」という方向性における、その人の思考と行動の総合的なあり方が、ハイブリッドがまず「人間性」として基本的に考えるものになります。

この表現、また先のカキコで「自ら愛せること」や「自分への嘘のないこと」はまた別の話だといった表現からも分かるように、ハイブリッドとしては「人間性」を、独自のメカニズムの話のことではなく、心のメカニズム全体の中でどの要素に着目し、重要だと考えるかの、「思想」だということになります。

人によっては「愛情の豊かさ」が人間性だと考えるかも知れませんし、「誇り」が人間性だと考えるかも知れません。
それについてハイブリッドとしては別に正しいか間違いかを議論するつもりはなく、あくまでハイブリッドとしては、そうした特定の見栄えの良い感情のことではなく、「破壊から建設へ」として総合的にその人が進んでいる方向性を、重視したいということです。
まあそれをさらに細かく言えば、「建設」の思考と行動がどううまくできているかよりも、それに向く「意志」が重視したいものになるとか言えるでしょう。

そのように、「人間性」として何が正しいかと言うよりも、ハイブリッドとして重視したいものと言う根底には、結局は、それが人を成長と幸福に導くものとして最も重視するものだという話があるわけです。
「幸福」をどう考えるかは、もう決まった正解があるというより、人それぞれでの「思想」の選択になってくるということですね。

そしてそのように、人を成長と幸福に導く、最も重要なものが人においてどう表れているか「人間性」とするならば、「破壊から建設へ」における「思考と行動と意志の総合的なあり方」がまずそれだという話になるわけです。


■「人間性」への視点-3:「魂の成熟」

そのように、「人間性」という独自のメカニズムがあるのではなく、既述のメカニズムにおいてどの要素を重視するかとして、まず思考と行動と意志の総合的な「破壊から建設へ」基本としてあります。それが「人間性」の向上増大への、方向性の獲得という視点です。

次に、その方向性における実際の到達度という視点も出てきます。それが人間性への視点の最後3つ目の、「魂の成熟」です。

つまり、ハイブリッドでは「人間性」とは「破壊から建設へ」という方向性をいかに持つかであり、さらに実際の到達度「魂の成熟」だと考える。
「人間性」とは「魂の成熟」だという結論という風に言ってもいいでしょう。

これはより詳細メカニズム的には、基本的に「包含の愛」の質量の増大を指す、と言えます。
これは2/19「未知」への意志と信仰-106でもまた触れた、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg
の図に示すような、「魂の成長と荒廃」という、「魂」の感情が一貫して「愛」というベクトルにあるというものにおける、「愛」の感情の質的変化です。

つまり、「人間性」「魂」のレベルにおける「愛」の感情に示されるという話になります。

全てが「愛」に帰結します。愛に依存しない、優越による自尊心なども、結局は人の目があるところで意味を持ちます。無人島で学歴を誇っても意味ありません^^; 結局は人にどう見てもらえるかという話になるわけです。
そうして「自尊心」も結局人との関係があってこそ意味を持つことにおいて、結局、愛に帰結する。

そのように帰結する「愛」における質的成熟に、人間性というものの要素があります。


■魂は他の魂との関係において「人間性」を感じる

ここで一つの問題状況が想定されます。自分はまだ魂の成熟をしていないし、「包含の愛」も分からない。これは自分の人間性が劣っているということか。
そうした懸念思考ですね。

これは話がおかしな方向になってきます。どうおかしいかと言うと、そうした思考では、「人間性」優劣比較評価されるものになっているということです。
この先には当然、自分の「人間性」を他人のそれと比較して、優越感や劣等感を感じるという話が出てくるでしょう。

自分の人間性の高さに、優越感を感じる。
これは何とも変な話です。それはむしろ、人間性を損なった姿です。


どうゆうことかと言うと、ハイブリッド魂論的に言えば、「魂」はもともと自他がはっきり分離した意識を持っていないので、自分の格の高さ低さというものを他と比較するというのが、もともとないんですね。これは「魂の感情」「この感情において生きる」と表現できるような、対象を明瞭に区別する感情ではないことを体験的に理解した方なら、分かる話だと思います。
一方、「魂」「根源的自己否定感情」において、自らの「人間性」が何か「罰」を受けるような「罪」を背負ったものだという深い思いを抱えます。「魂」はそこにやはり、「人間性」として「あるべき」といえるような何かを漠然と感じています。

これはつまり、ハイブリッドが「人間性」の本体そのものであると考える「魂の成熟」においては、もともと「人間性」は他の「人の目」との関係におけるものでは、ないということです。「関係」を言うのであれば、人間性とは、魂が自らにおいて問うものであり、自他分離の不明瞭な他の魂との間で感じるものであり、さらに「神」との関係において感じるものだということです。


■「人の目」のための「人間性」..?

ですから、世の人がその心の表面「人間性」についての比較競争や、優劣攻撃をする時、実にパラドックス的な事態が起きていることになります。
それが起きたところでは、まず人間性の損ないがおきています。これは恐らく、そうした心の表面の下で、その「人間性」についての比較競争そのものが人間性を損なったものであることを、実は本人が心の底ではうすうすと感じているものと思われます。

さらにパラドックス的なのは、人が自分の人間性に劣等感を感じるという場面です。
これは一体何を指しているのでしょうか。この人の人間性の本体らしき何かに損傷があったということでしょうか。それとも、人間性を他と比較評価しようとしていることの方に、この人の魂が自ら人間性を損なったものを感じ取っているということなのでしょうか。

事実、人の目の中で、自分が高い人間性の持ち主として賞賛され愛されるという空想の先には、あまり人間性が高いとは言えない(^^;)、「存在の善悪」による「利己的な善」が潜んでいるように思われます。

何らかの利害関係の中で、思いやりが足りないと相手を怒る時、人はその相手の人間性に怒り、そこにおいて自分が大切な人間性を守るのだと感じます。しかしその怒り主張もし「神」に認められたならばどうなるのかと、その人の空想の先を見るならば、そこには間違いなく、自分だけが得をするべだという強欲が顔を覗かせるように思われます。

実にパラドックスです。人が「人間性の高さ」を求める時、まさにその姿がその人の人間性を損なうことになるんですね。
なんでこんなことになるのか。
答えは単純な気がします。「人間性だけは完全であるべきだ」と人が考えているからだと。人間の不完全を認めることなくです。

「否定価値の放棄」の「選択」とは何かを言える時が、来た感じですね。


心理学本下巻に向けての考察-220:「未知」への意志と信仰-112 / しまの
No.1479 2008/02/23(Sat) 12:31:46

■「人間性」への視点-2:「破壊」から「建設」へ

ハイブリッド的「人間性」を考えるのであれば、「自ら愛することができる」「自分への嘘をなくす」は、まずは人それぞれの「心の成長」の問題です。また、その結果が、その人の人間的な魅力につながるという話も出てくるでしょう。
しかしそれは「人間性」の問題ではない

どうゆうことか。人は「心を病むメカニズム」という人間の業の中で、その成長の過程において、自ら愛することができなくなる心の苦しみや、自分への嘘を抱えてしまう存在だということです。それが人間の不完全性です。
そうした人間の不完全性を前提として、そしてそれを受け入れた上で、それを成長の原点として歩むことに、「不完全性の中の成長」があります。
そしてハイブリッドが考える「人間性」とは、その成長の歩みにおいて絵に描いた餅の完成された姿のことではなく、そうした「不完全性の中の成長」を歩む方向性をいかに持っているかとして、まず捉えられます。


その人の外から見た姿や、感情の見栄えのことでは、ないんです。
進む方向をどう持っているかなんです。そしてそれを歩んでいるかなんです。

それで言うのであれば、ハイブリッドが捉える「人間性」は、思考と行動の全体における「破壊から建設へ」という方向性です。
これがまずハイブリッドおける「人間性の基本」になります。


■「否定価値の放棄」のターゲットは「人間性への怒り」

実際のところ、世の人が「怒らなければいけない」「決して許してはいけない」と考え、「決して許さずに怒ることに意味がある」と感じるものとは、「人間性を損なったもの」に対してだと思います。

実際のところ、「否定価値の放棄」のターゲットがかなり明瞭になってきたのを感じます。それはまさにそうした、「人間性を損なったもの」に対して我々人間が怒る「怒り」です。

これはもちろん「行動の善悪」習得され解決した先の話を言っています。悪事を許すという話とは、根本的に話題が違います。
「行動の善悪」というものがあり、ルールを守らない行動は罰します。これは答えがはっきりしていることであり、原理原則として学び、自分として持つことが、自分を築くということであり自己の確立ということです。

「行動の善悪」「行動への罰」は、「人間性」を問うものではないんです。
まずこのことを分かって頂けるか。「人間性」を問いがちな「存在の善悪」は、「存在が善」だと全てが許されるような幻想を含んでいます。人間性が高いと賞賛された人の行動は、全てが喜ばれる。
そうではありません。どんなに人間性が高くでも、現実社会の中でミスを犯した時、損失や罰を痛まなければならないんです。

危害が自分に関係するのであれば、「怒り」で反撃することもあるでしょう。これはこうむる危害に対して、怒りに頼らず対処できるほどの技術や強さを持たない場合の背に腹代えられない対処法です。これはもうそれしかない場合というものもある。
「否定価値の放棄」とは、そうした自分を守るための最後の手段としての「怒り」まで捨てるような、「気にしない〜」的ごまかし姿勢を指しているのではありません。

そうした自衛的な怒りとは別種の、そこにおける現実的利害危害の問題ではない、相手の中に見る「人間性を損なったもの」への怒りが、「否定価値の放棄」のターゲットになります。またこれを明瞭に切り分けるのが、この後説明する最後の「中期実践-4」となる「否定価値の放棄の選択」という話になります。


■「人間性への怒り」という不実

実際のところ、ここに「心を病む」という問題の有無に関わらない、人間の根本的な選択があるのを感じます。
「破壊」「建設」のどちらを価値あるものとするか。

「人間性」においてです。
まず言えるのは、「人間性」を生み出すものが何かを知らないままでいる無知と、「人間性を損なったもの」へ「怒らなければ」という姿勢を持つことが、つながることになるでしょう。

この事例として最近印象にあるのは、某年配女優息子薬物違反だか何だかで逮捕されたのを受けてのインタビューに、涙ながらに「勘当したい」だとか「自分が死んで息子が直るのであればいつでも死ねる」とか語っていたもの。
ここに「建設vs破壊」の端的な姿を見た感がありました。

この年配女優の態度姿勢悪いという話じゃ、ないんです。その人の言葉は、大いに「善」を示しています。
「善」なのですが、「破壊」です。
自分が死んだところで、直るという問題じゃないんです。まずそうした不毛な空想思考が起きることに、その人が心を健康に育てるという「建設」について無知であったという、真の問題が示されているという印象を感じました。


■「破壊幻想」という根源

こうした話の根源に、「破壊幻想」があるとハイブリッドでは考えます。悪しきものを破壊すれば、善なるものが生まれるという「幻想」です。
なぜそれが「幻想」なのかというと、悪しきものを破壊して無に帰するのはいいとして、善なるものがどうすれば生み出されるかが、ぽっかり抜けているということです。
まるで、悪を排除すれば、善が地面から生えてくるとでも言うかのように。

そしてそうした「破壊幻想」の背景に、「依存幻想」があります。全てが「与えられる」という構図で思考が回る世界。「生み出す者」は思考の舞台の外にいるような。
自分が「生み出す者」の側にならないと、始まらないと思うんですけど..。それが「自立」というものになります。

この「破壊幻想」典型的な表れが、「DEATH NOTE」のようなストーリーですね。「キラ様」とのこと。それを崇高なる救世主として信奉する人と、あくまで殺人は「悪」とする警察側との攻防..^^;
う〜んいいですけどぉ、話が基本的に子供..という雑なコメントご容赦。

世界は、悪人をどう退治するかという側面よりも、住家を作り水や電気などの社会インフラを作り生産活動をするという側面がまずあって成立しています。この両方のテーマの比率は、天文学的に後者の方が大きい。
「DEATH NOTE」「キラ様」的感覚の先には、どうも水や電気ガスなどの社会インフラというものが、悪人を退治すれば地面から生えて出てくるとでも思っているのかしらんというような印象が..。

まいずれにせよ、我々の脳は、一度に「破壊の思考」と「建設の思考」を回すことはできないようにできています。自らを、破壊を旨とする人間とするか、建設を旨とする人間とするか、選択しなければならないということです。
両者をうまくバランス取って..ということができるのか、僕にはよく分かりません。この辺が、ハイブリッドがあくまで人生の体験を元にした心理学であり、人それぞれにおいては、人それぞれの人生で確かめていただくしかないと思うところです。
僕の場合は、一度「破壊思考」の歯車が回った時、それは僕自身が目の前のことをそれによってどう対処するかどうかを超えて、連鎖的に全てを失っていくことのように思えました。も、自尊心も、そして人間性も..。ここまで自分の心を突き詰めて探求した結果としてです。


否、突き詰めたからというよりも、心を病むというもう一つの問題を、同時に抱えたからということになるのでしょう。最初から健康な心に育てられた情緒の安定なら可能な多少のバランスが、心を病むというもう一つの問題の介入によって、難しくなってくる。
まあこれがこれからの現代人共通の課題になるということなのかも知れませんし、「人間の不完全性」が「心を病むこと」と大きく輪廻を生んでいるという人間の業における課題になるということなのかも知れません。

ですから、僕は人生のある時期に、人生においてもう「破壊」型の思考を一切使わないことに、決めたのです。
「否定価値の放棄」「選択」そのものは、そのような、細かい話は無視した(?^^;)大きな自己決定のようなものになると考える次第です。

そしてそれが、「人間性」というものがどのように成り立つのか、どのように高めるものかについての、しっかりとした理解の上で、「破壊」ではなく「建設」を「選択」することとして、「否定価値の放棄」が成されると考える次第です。

「人間性」についての3つめの「魂の成熟」という視点により、それが確実になるのではないかと考えます。


心理学本下巻に向けての考察-219:「未知」への意志と信仰-111 / しまの
No.1478 2008/02/23(Sat) 10:45:05

■「神的」な感覚観念と「人間性」と「存在の善悪」

「神的」な感覚観念「ストレス症状」「現実を生きる」ことの喪失とつながっているという話に比べると、「人間性」とどう関連するのかという話は、やや複雑です。

まず思い浮かぶであろうのは、対極とも言える姿です。
人は神を敬う信仰の中で、自らの人間性を高めたいと望みます。
一方、「存在の善悪」という論理の中で、自らが神になる傲慢の中で、人間が人間性を失う最も悲劇的な姿が生まれたりします。人類の歴史の中でも最もその端的な表れに、ナチスによるユダヤ人大量虐殺などがありました。その時、ナチスを信奉する人々は、自らが神になるという陶酔に浸ったのでしょう。それによって自らが最高の人間性という高みに上るという、恐らく幻想の中でです。

やはり、パラドックスです。最高の人間性を求める姿が、現実においては最低の人間性へと人の心を破壊する..

現代人の心の悩みにおいても、その感情の揺れの根底には、「存在の善悪」があるように思われます。その審判の目を、人と社会から向けられる圧迫に怯え、心が切り替わると今度は一転して、その目を自分と他人に向けます。
そしてそこで「存在の善悪」の「基準」となる「人間の価値」とは、つきつめるところ「人間性」というものであることが浮かび上がってくるように思われます。

人が「存在の善悪」を向け合う目に取られたとき、そこでは「神」は消えています。「存在の善悪」は一見して我々自身のことだからです。
しかしその時、「神」はじっと、「存在の善悪」の目を向け合う人間の姿を見ている、というイメージが浮かびます。何も語ることなくです。事実その時、人の心の中で、自分が神になるということが起きているように思われます。

先に述べた「神」「未知」とする、「現実世界」においては自らのできること全てを尽くすという姿勢の者は、「存在の善悪」という視線を自他に向けない人であるような印象を受けます。実際僕自身、「存在の善悪」という目を自分の中から完全に捨てたのは、「これは自分が神になることなのだ」という自覚と共に「否定価値の放棄」を成した境目と、ぴったり一致しているように感じます。
そしてその一方で、「存在の善悪」の目を持つ人たちは、日常生活のどこかで、「神の威光」「圧倒」という感覚観念や、「神頼み」的絶対思考を持つ人であろうような印象を受けます。

全てが、見えないところでつながっているようです。


■終章-14:「人間性」とは何か

「神的」な感覚観念と、「人間性」と、「存在の善悪」。
この見えないつながりを解きほぐすために、大上段から整理をしてみましょう。
まずはそもそも、「人間性」とは何なのか。
なおこの見出しの「終章-14」というのは、語るテーマが幾つかあるか数えている程度の、あまり意味のない番号です^^;

まあ先に引用した辞書からの「人間の本性」「人間らしさ」という定義でも、そこには「善いものとしての」というニュアンスが加わっているのが実際でしょう。
で、それはより具体的に、何なのか。

「人間性とは何か」という問いは、ほぼ同じ問いとして「どうすれば人間性を高められるか」という問いを伴っています。
これについてのハイブリッド的分析考察をするならば、3つの視点が考えられます。
1)「思いやり」と「真心」
2)「破壊」から「建設」へ
3)「魂の成熟」

という3つです。


■「人間性」への視点-1:「思いやり」と「真心」

まず世で「人間性とは」という問いの中で語られる典型「思いやり」「真心」というようなものになるでしょう。
これはハイブリッド的に定義するならば、「愛」とくに「自ら愛すること」の話であり、「嘘のないこと」ということになります。

これはそれでいいのですが、「人間性」の話としては初級的(^^;)なものになります。「人間性入門」もしくは「人間性初級」。アハハ^^;

実際のところ、「思いやり」なら爬虫類からしてあります。ワニが子供への愛情を持つ様子が観察されている。
とてもじゃないが、「思いやり」をもって「人間性」というのはあまり答えにならないです。
「人間性」を「思いやり」「真心」という感じで考えるのは、「人間性とは?」という問いに対して、実際のところ答えが出ていない不明惑いという入り口に、その人があることを表していると言えます。

そうして世の人が「思いやり」を「人間性」と考え、「思いやりを持てる人に」と心がけるのは大いに結構なのですが、そこに「人の目目当て」の衝動が侵入してくるごとに、その「思いやり」に「嘘」が混じるということが起きてくるという隘路を抱えます。すると「真心」でなくなる。そして悩むわけです。どうすれば本当に思いやりを持てる人になれるのでしょ〜〜か、と。

まちょっと言葉を茶化した点ご容赦^^; ともかく「思いやり」「真心」という視点については、ハイブリッドとしては「愛における自立」という壮大なテーマと、「自分への嘘」という心を病むメカニズムの問題全体の話になりますので、これは「人間性」の視点としてはもう外すのがお勧めになります。

「愛における自立」「自分への嘘を解く」内面課題と同時に、外面においては、「存在の善悪」ではなしに「行動の善悪」をしっかり分かる原理原則の習得が重要です。「思いやり」「真心」とばかり考える人は、対等な人格同士の関係を前提とする、個人の独立を尊重する現代社会での、「行動の善悪」が実際のところ良く分かっていないという問題に自分でも気づかないという事態になりかねません。社会行動「思いやり」「真心」という思考ではちょっと行動がトンチンカンになりがち。

まあ大人としての社会行動ではやはり、対等な人格という前提での、明確な権利」と「義務」、「役割」、「約束(契約)」「自由」といった原理原則をしっかり把握した行動ができることが、やはり「人間性」の一要素になると思います。
この辺は、ハイブリッド以外でも色々と勉強の手立てがあると思いますのでぜひ視野を広く持って学んで行きたい領域ですね。


心理学本下巻に向けての考察-218:「未知」への意志と信仰-110 / しまの
No.1477 2008/02/22(Fri) 22:55:34

■「現実を生きる」ことの喪失

「神的」な感覚観念の弊害2つ目。これは「神頼み」型の非論理的絶対思考に関連した話です。
話は次第に、心の障害の症状という表に見える顕著なものから、心の成長を裏で大きく妨げるものという問題になってきます。

「神頼み」その他の非現実的絶対思考に頼る中で、人は「ありのままの現実を生きる」ことを失います。つまり「現実の受容」をしないままでいるということです。不完全性を受け入れないまま生きるということです。

ありのままの現実を、ありのままに見て、ありのままに身と心を晒すのとは違う、「こうなれたらいいな」という空想を描くこと自体は、自然であり健全です。しかしあくまでそれは「現実に接する」ということの前段階までの話です。
実際に「現実」に接した時、いかにありのままにそこに身と心を晒すことができるかに、心の成長の分かれ道があります。
「現実」に向かうような場面でなお、「あるべき世界」の空想に生きる。「神頼み」「おまじない」型の思考はそうした姿になってくるでしょう。

「心の豊かさ」は、基本的に損失や喪失を超えた先に生まれる、というのがハイブリッドの基本的な考えです。それは決して、恵まれた条件によって「与えられる」ことが生み出すものではありません。
これは「魂の豊かさ」「魂に魂が宿る」ことによって生まれるという、最も大きなレベルでの「豊かさ」での話です。もちろん恵まれた条件によって豊かな生活ができることは、貧困な生活をするよりは豊かな感情も増えるでしょう。
しかしそれは「魂の豊かさ」に較べれば、誤差の範囲でしかないんですね。

そうした最も大きなレベルにおける「心の豊かさ」は、「魂の豊かさ」つまり「魂の成熟」によるものであり、「魂の成熟」は基本的に「魂に魂が宿る」という仕組みによるものであり、これは基本的に「望みを看取る」ということを一つのサイクルとして、一回の「魂に魂が宿る」ことが起きるというようなメカニズムだと、ハイブリッドでは考えています。

現実は不完全なものであり、そこには必ず損失や喪失があるのであり、それを前提にして魂が成熟するというメカニズムができているんですね。
「神頼み」的絶対思考の中で、そうした「ありのままの現実に心を晒す」ことが、失われています。「あるべき世界」という空想「主」「ありのままの現実」「従」という構図になってしまうからです。


■「ありのままの現実」に向かう姿勢

ではどうすればそうした「ありのままの現実の受容」という方向に向かえるか。意識的実践、意識的な心がけの方向とは。

もちろん、「魂が成熟した人間になろう」と考え、「喪失を痛もう」と考え、「望みを看取ろう」と考えたところで、心は急に止まれない、じゃない急に方向を変えてくれるわけでもありません。
結局、魂が成熟した人間になろうと考えるのはいいのですが、「そうなれてどうなる」の先に「人の目」があるところに、問題が原点に戻るわけです。「自己の重心の喪失」という問題の原点に。

話の全てが、「依存と自立」という最大命題の中にあることを理解下さい。「望みに向かい現実にぶつかっていく」という心の成長大原理は、「自立」に向かう中で働きます。
それが人間の場合、自ら望むことができないまま、「人の目」の中で「こんな自分になれたら」と、それによって何か幸福が自分に与えられるべきだという「依存」の中で、心の成長の真似をするという姿に陥る「さが」があります。

「それがいけない」という減算法的な思考をしたところで、全てが同じことの繰り返しです。
そういった全てを考慮して、ハイブリッドでは意識努力することとその順序を、極めて明確に定義しているわけです。まず「自己の重心」からですと。そして「感情と行動の分離」によって、内面は開放し、ただありのままに理解するまでを行う。感情を正そうとは決してしない。上述のように自己の重心を喪失した「依存」の構図にある心の動きが自分の中にあることも含めてです。なぜならそれが人間の不完全性だからです。

そしてそうした減算法的思考ではなく、加算法的思考として積極的に向かうのが、「価値の生み出し」を携えて「望みに向かう」ということであるわけです。
そこでもやはり、「人の目感性」がきれいに切り離された純粋で見栄えの良い「望み」がまず自分の心に見えてからと考えると、また全てが同じことの繰り返しになります。「望み」がきれいになって行くのは、「不完全性の中の成長」一つのサイクルとした中で起きるのです。望みはまずどうしても「人の目」の中に始まります。人間とはそうゆうものなのです。その中に、「現実において生み出す」要素に着目して、そこに向かうしかないです。
そして「現実」に向かった時に、「現実性刺激」というものが、「ありのままの現実と自分」というものに、我々を向き合わせてくれる。

その時、ありのままの現実に身と心を晒すことで生まれる、神秘なる心の成長の通り道に向かうか、それとも「あるべきこと」という空想を守り、不完全な現実を受け入れない怒りに向かうかは、もはやこの時になって「選択」できることではなく、この人間がそれまでに選択を成していた根底の姿勢によって決せられることになります。
根底の姿勢とは、「心の自立」「信仰」における立ち位置です。

ここで「心の自立」について正しい理解のために手短に言えば、それは「人に頼らない」とかの外面のことではなく、人に依存したいならば依存したいという気持ちを、自分自身で真正面から認めることなのです。人がどうあるべき云々といった論理によって隠すことなくです。
つまり「心の自立」とは、自分の気持ちを人に認めてもらうことで認めることができるのではなく、自分の気持ちは自分自身で受け止めることができるということなのです。これはどんなに腕力経済力など外面的な力が弱くても、大人になる中で心がおのずとそうなることを自ら求めるように、心のDNAに設計されているはずなのです。

まずはそのように、自分の気持ちを人に推し量ってもらうことが始まりと感じる「心の依存性」を克服し、自分の気持ちを自分で受け止めるという「心の自立」を目指すことが、「ありのままの現実とありのままの自分を生きる」ということの最も大局的な一歩です。


■「人事を尽くして天命を待つ」「神は自らを助くるものを助ける」

「信仰」についてはどうか。「神頼み」的な思考をどのように変えるのが良いのか。

その考察の詰めをしているのがここでの話の流れですが、ハイブリッドが示す方向同じものが、実は「天の恵み」といった思考やキリスト教などの「偶像化信仰」の領域でも既に言われている部分があり、実感的に分かりやすいと思いますので、まずそれだけ触れておきましょう。

それは「人事を尽くして天命を待つ」「神は自ら助くるものを助ける」といった言葉です。
まず「現実世界」において、自分のできることの全てを尽くす。その上で、結果を神に任せる。

実際、人生で何かを成した人は、大抵この姿勢の持ち主のように感じます。以前一度触れた話ですが、「神の手」を持つと言われたスーパードクターが、超難関の手術に際し、「思わず心の中で神さま..と言ってました。僕自身は無神論者なんですけどね(笑)」といった談話がそれです。
やはり、「不完全性」の先に、「神」が出てくる。

そこでは、自分にできること全てを尽くせば、神がそれを助けてくれる、という論法になるのですが。ここで「神が助ける」とは、必ずしも望みが叶うことではないことが、実はそれらの言葉には含まれているのではないかと、僕としては思う次第です。神が助けるのは、望みを叶えさせることではなく、望みを尽くした時に現われる、神秘なる魂の成熟の方なのではないかと。
それを、「神に祈ったところで叶うわけがない」という論理思考まではいいとして、「どうせ」という思考に至った時、この人は実は「信仰」において自分が神になる絶対思考に傾いたのかも知れません。

いずれにせよ、「人事を尽くして天命を待つ」「神は自ら助くるものを助ける」と言うとき、自分の全てを尽くすことで向かう先は、「未知」として扱われることになります。そこにおいて「神」「未知」になるわけです。
これはハイブリッドの「未知への信仰」と符号するものであり、「信仰における自立」ということになります。


終わりの方はちょっと書きなぐりで、説明としては中途半端ですが、まとめると、「神的」な感覚観念の弊害として、まず「神の威光」「圧倒」といった感覚観念がストレス症状とつながり、「神頼み」的な絶対思考「現実を生きる」ことを失うこととつながる、という話までしました。
ここまでは「神的」な感覚観念と、心の健康と成長への妨げの、関連が比較的見えやすい話と言えます。

3つ目の弊害の話になり、一見するとテーマは「神」から離れます。「神」の話ではなく、我々自身の話になるからです。
「人間性」というテーマです。
それが、一方で「神」という感覚観念を人間が持つ時、人間が人間自身の「人間性」を、人間を超えた目で見ようとする幻想が生まれるという話になってくる。
そこに、人間が「人間性」の真実を見失った根源があるように思われます。


心理学本下巻に向けての考察-217:「未知」への意志と信仰-109 / しまの
No.1476 2008/02/22(Fri) 11:02:48

■中期実践-3:「神の威光」への依存性の脱却

ということで、「魂感性土台の体験」を足場に、「匿名性」を重要な特徴とする「価値の生み出し」というのを体得する取り組みに向かう。ごく外面における原理原則的な建設的行動ができるようになる。一方で、「人間性」というものにおける深い喪失感が同時に見える。

そんな通り道において同時に検討頂きたい取り組みが出てきます。
「信仰」に直結する話で、「神のような」という感覚への取り組みです。

「神を信じるか?」といった抽象的思考の話ではなく、ごく日常感覚の中に入り込んでいる、「神のような」という「威光」「威圧」そして「圧倒」という感覚感性の影響度を、まず自己把握することです。
何かで特別に優れた人を前にして、何か神のようにあがめたくなる気持ちを体験するようなことはあるか。自分が何か特別にうまく行ったことについて、自分に神が乗り移ったというか自分が神の力を得たというような、空想感覚に浸るという体験はあるか。「選民思考」という話も出しました。人を選り分けるという感覚。その審判をするのは神の位置のわざになります。そんな高みから人間を見下ろすという感覚に陥ったり、他人がその感覚で自分や他人を見下していると感じたり、と。

ごく現実的な問題について、「神頼み」的な思考を使うことがあるか。「おまじない」「占い」もかなりその範疇になってきます。現実的科学的論理のない、何か絶対的な観念に頼る思考。
ありがちなのは、健康や事故災難に遭わないことについて、そうした類の思考に走るものですね。これは最もお勧めでない人生の方法です。健康や事故防止などは最も医学や科学など日進月歩の技術進歩がある領域であり、いかにより高度な技術を自分の味方につけるかが、人生をうまく生きることへと最短につながります。

いや、技術よりも日ごろの心がけだ。神を敬う気持ちが大切だ。それがそうしたものに表れるのだ。科学的な思考への基本的な馴染み度という問題があるかも知れません。
ハイブリッドは基本的に、科学の時代にふさわしい、心の成長と幸福を科学の姿勢で考える心理学ですので、まずそのスタンスに共感する方が、この心理学の取り組みを検討することになるでしょう。


■「神的なもの」への観念感覚とストレス

上述のような「神のような」という観念感覚の弊害を、ここで3つ説明します。どれも、一見すると「神」の話とはつながりのないことです。しかし、それが人間の心のあり方と、心の健康大きく変えているのですね。

ちなみに僕自身は、上述のような傾向は、今はほぼ皆無です。現実世界のことについて神頼み的な観念を持つことは元々ありませんし、特別に優れた人や美人に圧倒的に惹かれなびく感情が湧くことも、もうなくなりました。特別な美人に吸い込まれる感情も湧かなくなったのはごく最近ですが^^;
でも今はそうした人達にも、同じ魂の存在をまず感じるようになりました。これは心の足をちょっとひっぱる足手まといのようなものがなくなった、有難い変化だと感じています。

で、まずそうした「圧倒」という感覚の弊害です。「威光」「威圧」という感覚観念ですね。最後には神の威光が何とかしてくれるというような観念。

これは全く意外な話に聞こえるかと思いますが、これは心の障害としての「ストレス」と、ほぼ同じものを示しています。
つまり、そうした「威光」「威圧」「圧倒」という、ものごとを理屈で考え処理するのとは違う、才能や魅力による「圧倒」の力で他人に影響を与えたいという感覚観念があることと直結したメカニズムとして、「ストレス」という心の機能、脳の機能を用いる傾向になるということです。

つまり、脳に血を集めて、全身の神経と筋肉を緊張させ、内臓の機能を低下させるという、例の状態ですね。終わった後に、自分が健康に害のありそうな嫌な疲労をしていることに気づく、例のやつです。
「威圧」「圧倒」が好きな人の場合、ことあるごとにそれが自動的に起きる傾向が生まれてきます。

人に反論する時や、子供を叱る時、言葉の内容よりも語気の荒さ強さによって相手を押し倒そうとするような傾向。
人が語る内容ではなく、語る物腰や声色のすばらしさによって、語ることが正真のものだと信じる傾向。「こんな素敵な人が言っていることなのだから間違いはない」と。そうして悪徳商法や詐欺のカモになってしまうのですね^^;

まあまずは、そうした外見様子の素晴らしさや圧倒性に惹かれる感情と、そこに存在する論理的問題を、しっかり切り分けることからですね。
魅力を感じるものは、追求し続けるのがいいでしょう。しかしそれが我々の生活の現実問題をどう解決するものかは、全く別の話として、これまた現実的なノウハウを追求し続けることです。

ストレスが嫌であればストレスに頼らずに論理思考で対処するという日ごろの習慣をつけることですね。

これ当然。怒りで相手を圧倒できるのがたまたま起きるのに悦を感じる一方で、大抵は怒って醜い姿になる自分を直したいと考えても、心はそうはいかないんですね。自分が本当に怒りを有益だと考えているのか無益だと考えているのか、まずはっきりさせることです。
そして「選択」を問うわけです。ここでもう人がハイブリッドとは違う道を選ぶことについて、もう何も言えなくなる部分があるのも事実だと思います。心の健康を害しても、怒りが好きならもうしょうがない。
ハイブリッドができるのは選択を示すまでです。また選択の底に横たわる複雑なメカニズムを説明することまでです。まあこれが尽きない話となるわけですが^^;

いったんここでカキコしましょう。残り2つの弊害の話が、さらに大きな視点のものになってきます。


心理学本下巻に向けての考察-216:「未知」への意志と信仰-108 / しまの
No.1475 2008/02/21(Thu) 15:58:02

■「人間性」と「信仰」の問いへ

まあ手短に言えば、まず「自己の重心」によって内面の落ち着きをまず得て、次に外面行動のための原理原則に自信を持てるようにしましょーというのが、先のカキコの話になります。
これがひとたび「どう見られるか」になると、全然違う流れになってくる。そして「こう見られる」ためには「こんな感情にならなければ」というストレスの振り出しに、戻るわけです。ありがちなのはこの先に外面の建設的思考などを考えるものですね。全てが「こんな感情に」から始まっている。その元には「こう見られる」がある。

そこを、まず「自己の重心」からという振り出しにまた戻るという繰り返しが実践になります。そして「人の目」が消えた感覚での外面行動のの原理原則に自信を持てるようになっていく。
という流れ。

まあこの段階で完全に外面では心の健康な人と同じような感じになってきます。深刻な状態からスタートしてそうですし、そうでないケースでも、心にはもやっとした感情が流れても、外面では自信を持って建設的行動ができるという姿になることを、まず通り道と考えています。

内面では、深く「失ったもの」「損なったもの」が見えてくる段階になります。それが、人の目に頼らずに、自分で本当に自分のことをどう感じているのかを自分で分かるようになるということなのです。自分で自分を、どう損ない失っているかを感じ取ることにおいて、人の目の影響は減ります。人の目によってあまり動揺しなくなってくる。
でも内面は深い喪失感を引きずっています。

そうゆう流れなんですね。ハイブリッドが想定しているのは。
それが「まず感情が良くなることから」と、人が心の障害の中で思考の始まりとして持つ思考にとどまるのは、結局、根底の自己否定を塗り消すために「軽蔑されるための自己理想」を描き、人の目に悪意を感じ破壊行動に走るという、全てが同じことの繰り返しにしかならないと考えるわけです。
「自己の重心」の先に、そうした錯綜を全て自分の内部へと取り戻すわけです。

そして、こうした内面外面の安定化が、「現実において生み出す」という一貫した姿勢の先にあるのであれば、我々が根底において「あるべきもの」と感じるものと、それが損なわれたものを前にして怒るということの意味を、根底から問うことが可能になってくると、ハイブリッドでは考えるわけです。
それが一体何の意味を持つのか。そして何がそれに意味を感じさせることになったのか。


■人間は「人間性」において不完全な存在

で話は「否定価値の放棄」直結する実践部分の話になるのですが、もう一つ先日の治癒メカニズム結論と同時に僕がパラドックスとして感じたを感慨を書いておきましょう。

そうして我々が根底において「あるべきもの」と感じ、それを損なったものを前にして怒るものとは、ハイブリッドが上述のような道のりの先に浮き上がらせる、自分自身においてもそれが何か損なわれたという喪失感がテーマにするものを、ここではこの言葉を使って指そうと思います。

それは「人間性」です。人間として、我々が心の底で守るべきものであり、時に自分の中にそれが損なわれた影のようなものを見て自分を責めることになり、また他人の中にそれを損なったものを見て、「怒らなければいけない」と、「決して許さないことに善性がある」と感じる、そしてそれによって我々相互間の根底での「信頼」が築くことができる、そんなものとしての「人間性」です。

もし心の悩みの底に、外面での建設的思考法行動法に習熟してもなお残るもやもやがある時、深い自己理解の先に浮き彫りにされる「根源的な否定感情」は、自分や他人の「人間性」に向けたものであることが分かってくるでしょう。
拭い去れない根源的な自己否定の先にあるのは、自分が「人間性」を損なったという深い感情であるのが分かってくるでしょう。

そもそも「人間性」とは何か。
辞書を見えと、「人間の本性」であるとか、「人間らしさ」とあります。
実際そうです。我々が「人間性」という感覚において自分や他人に問題を感じる時、そこには、人間の顔をした、相互理解不可能な、自分と同じ人間として心を通わせることの不可能な、「まがいもの」のような何かを感じるという問題が起きるわけです。

事実、人間はこの「人間性」において惑いを持つ存在のようです。人間は、人間性において不完全な存在であるようなんですね。

これは「心を病む」ことが人間性を損なうことにつながるというのとは、ちょっと違うように思われる形においてです。僕は自分なりにそうだと言えるのですが、「心を病む」ことを見据えたからこそ、人間性のための真実が見えるということが出てくる。それが次に生まれる心を健康へと導くことにつながるでしょう。一方、そこそこ健康な心でいても、人間性のための真実を分からないまま生きる人というのがやはり出てくる。そしてその下に育つ心が病むということが出てくる。

だから、「心を病む」のは、「心を病む」ことの負の輪廻のように、実際僕自身がこの心理学を整理し始めた頃は考えていました。
でもそうではない。人間が人間性において不完全な存在であることが、「心を病む」ということと、相互の輪廻を成しているんですね。人間とは、そうゆう存在なのです。目頭を熱くさせるような深い思いと共に、この結論を感じている次第です。


ですから問いは、もはや心をどのように病むかの問題を超えた、人間の心の根幹に関わる問いになるわけです。
ハイブリッドとしては、そのためのごく実践的な方法論を用意します。それを次に。


心理学本下巻に向けての考察-215:「未知」への意志と信仰-107 / しまの
No.1474 2008/02/21(Thu) 13:21:12

■「人間の心の成長」のパラドックス

さて、「心の治癒と成長」メカニズムについては先のカキコのものが結論であり、これについては僕としてももう確信とも言える終結感がある次第です。
その道のりを経ることによって、我々人間の心は、必ず、もはや「叶えられる」ことを必要ともせずに満たされるような形において、「望み」へと向かい続ける心の充実と、もはや何も「恐れるもののない心」の強さと安定へと、成熟することができます。

しかし話はここで終わらないわけで、「否定価値の放棄」への実践の核心部分をまだ残しているという話の段取りもさることながら、まず印象として心を打つのは、そうした心の成長への道のりが、それを歩もうと意識して歩めるものではなくいったん意識を全く別のところに向ける必要があるという、パラドックス的なそのあり方です。

人間の「心の惑い」と「心を病む」という問題は、「魂と心の分離」にまつわる幼少期の挫折体験と、「信仰の誤り」という2大原因による、と考えるのがハイブリッドのほぼ結論になります。

しかし人間は、そのどちらにおいても、まず自分には問題がないという顔をすることに駆られて生き始め、次に、自分がそのどちらかにおいて問題を抱えるという現実に気づきながらも、他方については全く考えることをせず、根本的な人間の心の変化成長を知らないまま生涯を送ります。
あるいは、「普通」という曖昧な基準を用意することで、自分がそこそこ成長できていると考えて生きることにおいて、人間の心の成長を全く知らない人生を歩んでいるのかも知れません。

心の治癒成長のメカニズムの結論をはっきり感じると同時に、僕の心に印象としてまず打つのは、そうしたパラドックス的な姿でした。
で、ちょっとこの「パラドックス」の正体そのものの根本を、ちょっと考えてみました。


■「今の心」で考えては答えの出ない「根本的な変化成長」

人間の心の成長がこのようにパラドックス的なものであり、またパラドックス的な答えを模索する必要があることの理由は、基本的なところにおいてはあまりにも自明であり明白です。
なぜなら、今の心とは全く異なるような心へと根本変化成長するのであれば、今の心で考えていては答えが出ようがない、ということです。

まず、このあまりにも明白で自明の法則に、人は大抵気がつきません。そして一生懸命、今の心を基準にして「どうすれば」と思考します。
それでは答えが見えるはずもありません。

しかしながら、そうは言っても、あくまで我々が思考をできるのは今の心を使ってです。根本的な変化成長というのは、今の心で考えても分からないのですが、今の心で考えるしかない。
これは結局、人間の心の成長というのが、実際のところかなり分からないまま人間の歴史が積み重ねられているのが実情だということになるでしょう。

つまり、我々は人間の心の根本的な変化成長というものは、基本的に後から知るという仕組みがあります。
まあ、さまざまな人間事例などを通して、先人が「後から知った」ものを学ぶという人間の歴史の積み重ねの中に、我々自身も今いるということを踏まえると共に、結局自分自身におけるそれは、「未知」の先にあるといのが答えだということになるでしょう。


■「ありのままの自分」と「ありのままの現実」という成長の原点

一方、やがて根本的な変化成長へとつながるものとして、「今知ることのできるもの」もあります。ハイブリッドがまず目を向けるもの、そして「実践」として強調するのは、それになります。

それは「ありのままの現実」です。ありのままの自分の現実と、ありのままの外界の現実です。そして外界の現実には、それに応じた「知恵とノウハウ」や「ルール」があります。
それを知り、ありのままの自己の「望み」に向かい、ありのままの現実に身を晒し、得られたものをありのままに喜び、損失や喪失をありのままに痛み悲しむ先に、「望みの成熟」という、人間の根本的な変化成長への神秘なる源泉が働くことを、上巻原稿で説明しています。

「望みの成熟」とは何か。なぜそのようなことが起きるのか。望みに向かうその瞬間においては、望みが叶えられることはむしろ稀であり、痛み悲しみの方が多いにもかからわず、そのようなことが起きるのは不思議なことです。
しかしそうした喜びや痛み悲しみの揺れ動きを超えて、そこに何か一貫した、得がたい何かが起きており、その積み重ねが、「望みの成熟」になるのでしょう。

それは「現実を生きている」という実感です。自分に「命」があり、それが自分を突き動かし、「現実」へと羽ばたいているという、そのダイナミック感であり、湧き上がる「力」の感覚であり、「自由」の感覚であり、「開放感」の感覚でもあるとでも言えましょうか。観念論ではなく、そうした感覚が、肌で感じられるように頭の頂点から足の先までを貫く、人生の瞬間というものがあります。

おそらくその部分が、「望みの成熟」の種になる部分なのでしょう。そして望みに向かう中で与えられる「生きる実感」心の樽にたまってくると、やがてそれを他に与えたいという望みへと、望みの全体の質と内容が変化してくる。


■「望みの開放」と「望みの停止」

そこにはまた、「望み」というのはその「満足」によって、心に収まってくるという基本的な法則が働いていることが考えられます。まあ卑近な表現をすれば「飽き」というものが起きる。おなか一杯という感じで。

で僕なりに結構望みを追求した人生を経て感じることなのですが、「望み」は「現実に叶う」ことがなくても、心の中で思いっきり開放して追及することだけで、そうした「満足変化」がかなり起きるようだということです。
これは僕の場合例えば、恋愛色恋沙汰の領域で望みが叶ったことなどほとんどない前半生においても(アハハ^^;)、心の中で思いきり開放し追求した歩みの先に、もう結構お腹一杯感があるのが今日この頃であるのが現実です。世の中でそうしたものに騒いでいる老若男女の話の中で、かつての自分であれば嫉妬にこげるかも知れないような話も、「あっそう。そりゃよかったねえ」程度にどーでもいい話のように今では流す自分を感じます。
まどーでもいい話にそれてますが、要はそうして人間が丸くなっていくわけで^^;

それを、「こんな自分には」とか「どうせ」とかの思考で、心の中で望むことを最初からやめてしまうと、話が全く別のものになってしまいます。
「望みの停止」ですね。心の荒廃と、心を病むという問題へところげ落ちていく坂道が、その先に姿を現すようになってきます。
より大元でより純粋な「望み」を心の中で押し殺すほどに、まあその瞬間はそれを良かれとしてのことなのでしょうが、やがて一定の時を経て、より淀んで醜い色彩の「衝動」が自分の中に湧き出るのを、暗雲の感覚と共に見ることになります。
そしてさらに「欲を押さえることが大切」だとその道徳姿勢を硬化させるか、あるいは自暴自棄という別の道への分岐路が近づいてくるかも知れません。


■「あるべきもの」と「怒り」

ここでも人間は、「ありのままの現実」に身を晒すのではなく、「あるべき」ものを空想で描き、それに満たない現実の不完全性を怒るという、望みに向かう心の成長とは全く別の道を歩むという「さが」を抱えた一面があります。
その時、人は心の中で「あるべき」ものを保つのですが、現実世界の中にあるその人の現実は、「現実破壊」という姿になるのが実情です。

上述で「現実世界」には「ルール」があるという話もしていますが、そうした外面現実におけるはっきりしたルール違反にどう対処するかの話ではありません。まあそこでも、対処する知恵とノウハウがあるほど、感情動揺もストレスもなく対処できるでしょうし、知恵とノウハウが足りない場合は対処ができず、「怒り」に向かうしかなくなるという話はあります。「怒り」は「弱さ」ですので。

問題はそうした明白なルール社会での善悪の話ではありません。まずこれについては習得し、「価値の生み出し」によって現実の外面行動においては自分の進むべき建設的な方向性への答えが出て、それでも残る「あるべきもの」「それを損なったもの」という深い感覚をテーマにしています。
また、そうした深いものどのように自分の心に存在し続けているのかを切り分け浮き彫りにするのが、「魂感性土台の体験」を足場にして進める「価値の生み出し」実践でもあります。


■「個人の独立と自立」と「人間性」テーマ

..と「否定価値の放棄」の話につなげる話としてここまで書いて感じることですが、まず話がこのような流れになるかどうかという問題があります。

つまり外面行動における善悪と建設的方向性が解決し、それでも内面で残る深いものがある。これが根源的自己否定感情が関わる、「人間性」や「信頼」の問題です。自分の中にそれを損なったものが深くあるが、外面ではもう問題なく思考行動できる。

なかなかそうなれないケースが考えられます。外面行動の善悪が実は良く分からないというケースです。
これは「心の自立」という全体的方向性においてかなり未了の段階です。基本的に依存性の中で思考しているケース。
これは対等な個人対個人の関係における外面行動の良し悪し判断というよりも、「気持ちが大切」という、「気持ち」によって行動の善悪が見られるという思考の中にあるケースになります。

これは若干、ハイブリッド以前の問題になってくる部分もあります。つまり絶対君主制や奴隷制の社会での思考法を日常で使い、基本的人権と自由主義に立った原理原則での思考が基本的に良くできていないというケースが、案外あるかも知れません。これはまず学校教育に問題があるでしょう。

まず「個人の独立と自立」への権利と自由という、根本的な理念の下に、我々人間社会の目指すものがあります。こうした理念の下にあるものとして、「前期」からの外面向けの「建設的対人行動法」や「原理原則立脚型行動法」があります。その先における「価値の生み出し」習得は、我々に自分の人間性のあり方についての、向上成長に向かう正しい方向性にあるという自信感を与えてくれるはずです。まずこの体得が、「価値の生み出し」までの実践になります。

まずはこの辺まで視野に入れることで、「人間性」というのものへの、我々自身の「あるべき」という根本的な感覚を問うことが可能になってくると、ハイブリッドでは考えます。
それが「否定価値の放棄」への問いになるわけです。


心理学本下巻に向けての考察-214:「未知」への意志と信仰-106 / しまの
No.1473 2008/02/19(Tue) 16:52:33

■治癒メカニズムの答え

心の底の自己否定感情はそのままだが価値の生み出しはできる」。
この状況から「価値の生み出し」による自尊心が得られてくると、何が起きるか。まず治癒メカニズムの答えから説明します。

ずばり、人の目感性土台の中で「人の目にこう見られる」という形において重なってきた愛情要求と自尊心要求から、まず自尊心要求が人の目感性に全く依存しないものへと分離されることで、魂感性における「一体化の愛」への望みの感情が単独に浮き上がってくる、ということが起きます。
つまり、「価値の生み出し」による自尊心を引き金にして、「人の目感性土台の解体」とでもいうべき意識変化が起きてくる、ということです。

そしてこうして抽出された形での「魂の愛への願い」の感情は、「看取る」ことが可能なものになってくる、ということです。
ずばりこれが治癒メカニズムの答えなんですね。

これをにしましたので参照あれ。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro20.jpg

「看取ることが可能」とは言っても、それは「感情がこうなれば」という感情依存の中で感情が見栄え良くきれいになることをイメージした「看取り」だけでは済まされない、根源を見る体験になるわけです。
それは今まで「恐怖」から目をそらすために、そんなものはないという顔をしていた、「真の望み」を「現実」において問うという、「恐怖」への対面を意味します。それが「魂」が出生において抱いた、「命」において抱いた恐怖です。

その恐怖とは、「一体化の愛」を望んで生まれた魂が、「生」からの拒絶を体験した中で抱いた、「罰」への恐怖です。
自分は「生」からの「罰」を受けるような、何か「罪」を背負った存在なのだ。この深い自己否定感情と、その「罰」への恐れは、今までそんなものはないと否定してた、「一体化の愛」への願いが表面化すると同時に、表面化します。


■根源的自己否定感情の正体

「魂」はそのように、自分が「罰」を受けるような「罪」を持った存在だという感情を抱く一方で、その理由が分かりません。ただ、自分はそんな存在なのです。
そうした根源的自己否定感情を抱えた存在において、「一体化の愛への望み」が見えるごとに、この自己否定感情の原因の正体もはっきりしてきます。

それはパラドックスです。この根源的自己否定感情を抱えたこと自体が、「罪」なのです。本当の始まりがどこにあったのかは、もう分かりません。でも一度、自分がこの「罪」を持つ存在だという意識を持ってしまったことにおいて、これ自体が「罪」だというループに陥ります。
なぜなら、そうして自分が「罪」を抱える存在だという意識が、「あるべき一体化の愛」を阻害するからです。

もう一つ、根源的自己否定感情の明白な原因があります。それはこうして「愛への願い」が人の目感性と魂感性の中で混迷する中で、「こう見られる自分」であるために別人を演じるという、嘘をついていたことです。これもやはり、魂の「一体化の愛への願い」が表面化することで、同時に表面化します。

これはほぼ不可避に、望む愛が叶えられようもなくまず破られることを意味します。つまり、「喪失の悲哀」を同時に迎える事態になるということです。


■「神」は「自立」を指図した..

こうして、「人の目感性土台」から、まず「自尊心」が人の目に全く依存しないものへと分離することで、魂の「一体化の愛」への望みの感情が浮き上がる。それが、ある特定の「現実性刺激」の中で現われることになります。
その時、3つの事態が同時に起きるわけです。
根源的自己否定感情が露わになること。
自己における嘘の暴露
そして「一体化の愛」における喪失と分離の悲哀です。

実はこれは深刻なケースで「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」の体験として観察された巨大な感情動揺を伴う治癒現象の論理内容そのものです。
それが今、はっきりとその姿を明瞭にした形で、人間の心の業からの治癒と成長としての意味を現すことになります。

なぜかと言うと、そこに一つの命題が加わるからです。「自立」です。
もし「一体化の愛」が「あるべき」ものだったとするならば、これは出口のない破綻を意味します。特に「嘘の暴露」が、そこに「破綻」の色彩をもたらすものになります。
しかしもし嘘がある時、それをありのままに晒し痛むことが、我々人間の「人間性」を浄化し育てるものであることを、我々はさまざまな人間事例を通して理解し始めていると思います。

すべてが一つに収束してくるわけです。愛を願い、罪を抱え、愛のために自分に嘘をつくことになった。
ここに一つの鍵があります。
「依存」の中にとどまる時、そこでの愛のためについた嘘が暴かれることは、破綻になります。
しかしそこから「自立」へと向かう時、話が変わってきます。そのために嘘をついた「愛」そのものが、もう自分の求めるものではなくなってくる可能性があるからです。そして人はありのままに嘘を晒し、その痛みの中で、愛の喪失の代償として自らの心の純粋という価値を手に入れるわけです。

はこの事態の前で、惑うわけです。「心」が答えを出す必要があります。

「心」が「愛」を「あるべきもの」と考え、それが「神」の指図したものであると考えるのであれば、この人間はただ愛の回復を乞い、自らの罪への許しを神に乞うことになります。そして「あるべき」通りになるために、自分に嘘を再びつくという轍に戻ることになります。

ハイブリッドは、そうではなく、「神」は「自立」を指図した、と考えるわけです。すると話が全て変わってきます。
何よりも変わるのは「罪と罰」です。「一体化の愛」が何かによって壊され、また自らが壊したことは、今まで「罪」として捉えられていた。
しかしそれは「罪」ではなかった。「罪」ではなく、一つの旅立ちだった。
それが「神」の指図したものだったと、ハイブリッドは考えるわけです。「神の国」から出て、「放たれた野」へ向かえ、と。



■「一体化の愛」から「包含の愛」へ

上記で描写した過程は、「後期」段階のものになります。つまり、「人の目感性土台」のもやもやした世界から、魂の「一体化の愛」への望みが浮かび上がり、何らかの「現実性刺激」においてそれに向かう過程です。
この「現実性刺激」というのは、たとえば僕のように初恋女性とのかかわりをめぐっての現実行動というもののようなケースもあるでしょうし、上巻最後での女性の言葉のように、純粋な内面想起のようなものでもあるでしょう。

いずれにせよ、そこに答えがあったことは、全てがほぼ終わった頃に分かってきます。自分の心の大きな変化としてです。
上巻で書いた、「望み続ける」ことによる「望みの成熟」として、もはや「叶えられることを必要とせずに満たされている」愛の感情が、やがて自分の心に満ちてきているのを自覚することになります。

この変化は、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg
に一度書いたものです。
そこで「共鳴の愛」と書いたものが、「一体化の愛」ですね。これは自意識のない、一体化の愛の感情です。

全てが終わって自分の中に見出す愛の感情は、自意識を前提にした愛の感情になります。
自分は宇宙になるのです。これからの命のための。それが自分なのだという、「意志」という名のはっきりした自意識が、むしろそこでは前提になります。これは自意識が邪魔になるという一体化の愛とは、もう異なるものです。

それが、「神」が人間に「自意識」を与えると同時に脳のDNAに設計したことだったのだと、思うわけです。


■人間の「心」と「神」との対話へ

さて、ここで治癒メカニズムの答えをまず書きました。
ただし「否定価値の放棄」の話は除いています。やはり、話がつながらないんですね。

ここに書いた流れが、「魂の挫折」に端を発する「病んだ心」からの治癒と成長として、つながりのある流れです。
人の目感性土台」から、「価値の生み出し」による自尊心が分離していくことによって、魂の「一体化の愛」への望みの感情が浮き上がってくる。そこに向かう所に、「看取り」や「膿の放出」といった治癒の発現が起きる。

しかしそうした変化を可能にする背景となる、意識変化のテーマが一方であります。
「あるべき」という感覚完全なる放棄。そして「怒り」「否定できる価値」というものの、完全なる放棄

そして僕の体験においても、この「不完全性の受容」「否定価値の放棄」は、ここで説明した治癒と成長の流れとはやはりちょっと切り離された、知的な探求の先にあったものという感を感じます。
つまり「心を病む」という問題を超えて、健康な心においても問われる、人間の意識世界のテーマが、そこにあるということになるのでしょう。

ハイブリッド取り組み上は、「価値の生み出し」の延長にそれがあることだけは確実と思われます。
それが残りの、
3)「神の威光」への依存性の減少
4)「否定価値の放棄」の選択

の実践になります。


心理学本下巻に向けての考察-213:「未知」への意志と信仰-105 / しまの
No.1472 2008/02/19(Tue) 14:52:27

■「根源的自己否定感情」の意識化

ということで、「人の目感性土台」から「魂感性土台」へと、比重が移ってくる。
この辺の意識遷移こそ、具体例を出して詳しく説明したいところですが、まあ具体例は今まで結構出している一方、理論的結論が今ようやっとということで、とにかくここでは理論結論の説明を完結させたいと思います。

心に映る、今までその中で心を惑わした感情は、まだほぼそのままに映ります。変わってくるのは重みです。「心の自立」という感覚感性が増えてくる。
その中で、「人の目」を基点とした感情に匹敵して、自分自身が基点の感情が見えてきます。

そこにあるのは、心の問題の深さに応じて、同じ深さの、「根源的自己否定感情」が見えてきたものです。外面においてそれをどう塗り消せるような行動法、という問題はあろうけれども、自分にはさらに、それでは拭い去れない、「信頼」「人間性」「愛」「自尊心」「人生」という根源の深みで失ったものがあるという感情..。


■「価値の生み出し」による自尊心の獲得へ

こうして人の目感性土台の重みが減り、自分視点での感情が見えてくる中で、「価値の生み出し」を学び習得を積み重ねることは、ある独特な姿勢を生み出します。
それは、「たとえ自分は否定される存在であろうとも価値の生み出しはできる」という自覚姿勢です。
その先で「価値の生み出し」行動に習熟し積み重ねをする中で、やがて「価値の生み出し」を基盤にした自尊心が得られてきます。

これは一言で、「生み出すこと」を知り、それができることへの自尊心と言えるでしょう。

ここでもはやり、「まず人に肯定されることが先。それがあって生み出す行動ができるはず」という意識状態の方がおられることが想定され^^;
それをスタート地点にして、「自己の重心」から「心の自立」へと取り組むのが、ハイブリッドなわけで..。

まあそうした意識変遷の流れは、あとはもう下巻原稿整理の中での工夫に譲ります。
とにかく、ハイブリッドでは、問題の根本が「魂の世界」にあることが、「魂感性土台の体験」から連綿とした流れの中で、人の心の中ではっきり見えてくるということです。


こうして、「心の底で何かを失った自分」でありながらも、「価値の生み出し」に向かうことができる。
これが2/14「未知」への意志と信仰-101「中期」実践として言った、
1)「価値の生み出し」の実践と体得
2)「自分が損なったもの」の明瞭化
3)「神の威光」への依存性の減少
4)「否定価値の放棄」の選択

前2つの話になります。

取り組み途上におられる方からはもうイメージしにくい話になってくるかとは思いますが、実際のところこれが、『悲しみの彼方への旅』で描写した、大学4年の巨大な峠を越えた後に僕が向かった境地であることは、読んで頂ければ分かる話だと思います。

ここまでの話があまりに長い感がある一方、治癒への答えあまりにも多くの事柄が、この後に一度に現われます。
全てが、その準備に過ぎなかったという形かと。


心理学本下巻に向けての考察-212:「未知」への意志と信仰-104 / しまの
No.1471 2008/02/19(Tue) 12:51:33

■治癒への答え:メカニズム

さて「中期」取り組みにおける「外面はほぼ解決だが内面はそのまま」と言ったような段階からの話の続きをしようと思いますが、この段階の状況説明としてはちょっとそれでは不正確なので、ハイブリッド入り口から考えてどんな段階かの、より正確な説明から始めたいと思います。

実はこれが、ハイブリッドが考える「人間の心の惑い」治癒メカニズムの最終的な答えの話にもなります。

つまりこの段階とは、「気持ちが大切」と考えて内面だけにじっと見入る、一種の意識狭窄のような状態から大抵始めるとして、内面と外面について視野を広げ、科学と医学の姿勢に立った、心の健康と幸福についての心理学的な理解と取り組みを進める先に、やがて自分の中に「人の目感性土台」「魂感性土台」という、全く異なる脳の領域があることを実感として理解するのが、まずここに来る過程です。
その先において、「価値の生み出し」という視点によって、外面において自分が進むべき方向性が、心の中でほぼ解決してくるような段階だということになります。

つまりこの段階とは、もはや「内面と外面」と言うような単純な話ではなく、何よりも「2種類の感性土台」という視点を足場にして、この人の心に3つの世界が見えてくる段階だということになります。

一つは、「人の目感性土台」という、今まで自分がその中で惑い動揺していた心の世界です。
そして新たに見えてきたのが、「魂感性土台」の側で見える、「魂の感情」の世界と、「現実」の世界です。ここに、「魂の世界」と「現実の世界」という2つの別世界を歩み続けるという、「ハイブリッドの世界」への入り口が見えてきたことになります。


■2種類の感性土台の違いを足場にした「感情と行動の分離」

そのように「人の目感性土台」と「魂の感情」と「現実世界」という3つが別々のものとして見えてきた段階において、「外面において進むべき方向性がほぼ解決する」とはどうゆう状況かの要点を説明しましょう。

これは大きく2つがあります。
1)人の目感性土台の世界を「向かう先」とは思わなくなる
2)「価値の生み出し」の「匿名性」に徹する

これは本人の意識としては、この2つを同時に見据える心の姿勢になります。人の目感性で見える世界がある。しかしそれは自分が向かうことのできる世界ではない。ただ「匿名性」に徹した「価値の生み出し」へと向かう。

これを生み出すのが何かは、やはり一言でいうのは結構難しい話です。
それは「自己の重心」に始まるハイブリッド取り組みの結果なのですが、結局こうした方向性を生み出す原動力そのものは、もはや意識努力の人為的側面ではなく、「心の自立」へのを本人の心がどのように持っているか、そして深刻な心の障害がそれを妨げることをどう免れ残っている部分があるかに依存するというのが、ハイブリッドの考えです。

そうした「心の自立」へのがあり、それに向かう本人の動機意志がある部分において、ハイブリッドの取り組みがあります。それが失われた範囲については、ハイブリッドはもう手を出す方法論を用意していません。ただひたすら、「心の自立」への芽に目を向け向かう先に、心の問題の根本的解決があるという話をお伝えするのみです。

そして深刻なケースにおいても、首の皮一枚残ったような、「では自分では?」という「自己の重心」による自分の感情理解が、深刻なケースにおいてはほぼ不可避に「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿の放出」といった独特な治癒現象を経て、やがて「魂感性の体験」という一つの峠へたどり着くわけです。

その直後から、「人の目世界はではなく価値の生み出しの匿名性が進む先」と自覚できるまでには、まだやはり多少の距離があるのが実情になるでしょう。ここに、2つの感性土台を視界に入れるという新たな状況における、「前期」同様の「感情と行動の分離」に立った実践が介在することになるでしょう。


■感情における「自己の重心」視点:「感情を与えてくれるもの」

それでも2つの感性土台を視界に入れるからこそ見えてくることもあるでしょう。
ここで一つのポイントを言っておきますと、人の目感性土台の世界が動く大前提に、「自分に感情を与えてくれるもの」という構図があるということです。

それは多くの場合、情緒的な賑わいを見せる人の輪が最も典型的なものです。その中に入り、その中の一員となることが、自分に「感情」というものを与えてくれる。そこには誰か明るい中心的人物がいて、その人がいるといないではまた大分違うという状況になります。その人が抜けると、その集団は何となく味気なくなる。

そこには、「感情」というものが自分からは湧き出ず、相手によって湧き出るという状態があり、そこで湧き出る感情の重要性に応じて、相手への依存が決まってくるという構図があります。

魂感性土台も視界に入るにつれて、この大きな構図も見えてきます。
まず「感情を自分に与えてくれるもの」がある。それがないと、自分の内面は空洞になるという窮地があるわけです。
だから、その相手がいて、その相手に自分がどう見られるかという世界に向かおうとする。そこに、「人の目感性土台の世界」が始まるわけです。

実は「自分の感情」がそこでは目当てになります。一方で体験するようになる、魂の感情の世界..。それらを見通した時、そこで目当てにした「自分の感情」とは一体何なのかという、単に「思考」面における「自己の重心」を超えた、感情感性面までに到達する「自己の重心」が見えてくる、ということになるのでしょう。

そのように、魂感性の違いをまたがった自己理解や感情分析を通して、「人の目感性土台」の全体が、自分の向かう先とは感じられなくなり、代わりに、「価値の生み出し」におけるその「匿名性における価値」が進むことにできるものとして見えてくる。
この「意識の移行」の部分こそが、結構重要な話になってくるのでしょうが、今はまずその根底にあるのは、「心の自立への芽」がどうあるかを根源とした上でのものだというのが今は言えるまでで、より分かりやすい流れの詳細については再度下巻原稿で検討するとして、この「意識の移行」の先にある治癒メカニズムの答えの説明に進みます。


心理学本下巻に向けての考察-211:「未知」への意志と信仰-103 / しまの
No.1470 2008/02/15(Fri) 16:33:49

お知らせ通りの2/17(日)までスキーで不在に出かける前に、先に言った「外面問題はほぼ解決・深い自己否定感情はそのまま」という「中期」の中間的段階までの過程について、考慮点など書ける範囲で書いておきます。


■「外面ではなく内面が大切」から「内面ではなく外面が重要」へ?

先のカキコのように、魂感性土台に立って「価値の生み出し」を進める「中期」の前半的な取り組みは、やがて「外面問題についてはほぼ解決」と言えるような、自分の行動能力についてのかなり安定した自信の獲得を、一つの指標に考えています。
しかしそれが内面感情の不安定さについては、残念ながら(?)ほぼそのままです、というのは、多くの方にとって「心の障害の治癒」について漠然と抱く期待イメージとは、まるで正反対のものになるかも知れません。

外面をうまく処理できることが重要じゃない。大切なのは内面だ。気持ちが大切だ。そう考えるかも知れません。もちろんこれはハイブリッド的には、まだ何も取り組みがスタートされていない段階ということになります。
その「気持ち」に狂いが生じているので取り組むのが目的なわけで。
不合理に動揺する感情を克服したいので、まず感情を鵜呑みにしないことから始める。それが「感情と行動の分離」


■「行動原則」という「内面」の積み重ね

でそれに基づく、内面開放と理解や、外面建設的思考法行動法が、問題の深刻さに応じて、小手先の思考法ではなくかなり深く、何らかの期間をかけた取り組みの先に、「魂感性土台の体験」という、脳の構造レベルで変化が起きたかのような節目をもって、「前期」取り組みひとつの結果に結実するという、極めて大掛かりなものをハイブリッドでは考えているわけです。

で言いたいのは、「中期」の「価値の生み出し」取り組み実践も、それに匹敵するボリュームのあるものになる、ということです。直感的に言えば、これはもう「思考法の勉強」というレベルではない、「一つの人生の時期」になるというのが僕の体験的実感です。
それが文字通りの期間として、数か月の話か数年の話かは、人それぞれの置かれた状況によって違うと思いますが、いずれにせよそれは必ず実際の「人生の体験」の中で学び実践するものが、それに該当するものになります。

そうした期間において習得したい「価値の生み出し」とは、上述のような「内面vs外面」という構図で言うなら、もうそもそもそうゆう単純な構図でものごとを考える段階から、一歩先に進んで、内面から外面へと、部品から製品を組み立てるような、一貫した思考過程を確立することです。
まあこれは抽象的な表現ですね。心理学本下巻の方ではもっと具体的な説明を主にします。


■「心」が先に自立を果たし「魂」の自立を迎い入れる

でここで考察ポイントとしてそんな話を書いたのは、「魂感性土台の体験」というような、脳の構造レベルの変化において、「価値の生み出し」思考実践は何をどう変化させるものか、という話。

これは一言でいうと、「心」と「魂」という構図において、まず「心」の側でほぼ「自立」を果たす過程だと考えています。脳の構造レベルで。
「依存から自立へ」という大転換命のレベルの転換であることに匹敵する、脳の思考機能の変化ということですかね。

まあ何のことやらということですが、それだけ全般的な「思考過程」の変化を成したいということで、思考法として考慮したいものの本質は、3つがあげられます。
1)「破壊から建設へ」
2)「根本」と「本質」を見る目。つまり似かよった表面の違いの下にある違いを見る目ですね。
3)「成長」の思考。「成長」というのが、「姿の当てはめ」とは違う過程であることを見る目です。

思考法としての詳しい一般的説明はここでは省略しますが、これが結局「否定価値の放棄」に根本的につながり、問うものになります。
「人間性」についてのそれが、「不完全性の受容」である「否定価値の放棄」を決定することになるわけです。このそれぞれの側面については、その話の際に説明します。

「後期」まで見通すと、「心」が先に自立を果たし「魂」の自立を迎い入れる、という構図になります。


心理学本下巻に向けての考察-210:「未知」への意志と信仰-102 / しまの
No.1469 2008/02/14(Thu) 15:52:42

■中期実践-2:「自分が損なったもの」の明瞭化

話は一気に、外面問題についてはほぼ解決ができてきた段階の話になります。

まあほぼ解決とは言っても、それはごく「事務的」な感覚における「解決」という段階です。社会行動はそつなくできるようになり、それなりの社会的な位置を得ることもできてはくるでしょう。
しかしやはり社会における自分のあり方に、そして人間関係に、「信頼」「人間性」そして「」と「自尊心」と「人生」という深いところでの不明感損失感が残り続けている限り、それは外面においても何らかの制限や、何かを失った側面が、自らの内面による枷(かせ)として残り続けていることになります。

この段階での取り組み実践は、そうして自分が「失ったもの」「損なったもの」の根本的な正体を、見定めていく取り組みです。
「自己の重心」思考によってです。

つまり、人にどう見られるどう扱われるという外面を超えて、もうそれには依存することもなく、自分が自分のことをどう感じ考えているのかのありのままの姿を、視界に捉えることです。


■「こう見られる!」意識が強度な段階の課題

逆に言えば、感情動揺「こう見られた!」「こう言われた!」という自己の重心を一方的に損なった形で動くのは、まだ2面において課題を持っている、ハイブリッド入り口段階ということになります。

一面においては、そこで動揺する「自分がこう」というのが、実は心底において自分自身でそうだと感じている自己否定感情でありながら、それに真正面に向き合うことができず、ひたすら目をそらせようとする逃避の中にある、ということです。根底の自己否定を塗り消せるような「こんな自分」を空想の中で描き、人にそう見られることをもって、それが現実の自分であると思いこもうとする心の歯車の罠に入ります。

すると、心底の自己否定を塗り消すための自己理想を掲げ人の評価を待ち受けるという構図において、それは必然的に「軽蔑されるための自己理想」という歯車の出来上がりなんですね!自分が人の目の前に晒された場面という「現実性刺激」が、このメカニズムがショートカットとして生み出した、「自分は軽蔑される!」というありありとした感覚を、その瞬間に引き起こすというメカニズムになります。

実はその「ありありとした感覚」のリアルさこそが、それが心の障害の「症状」であることを示しています。人が自分をどう感じているかという他人の内面感情は本来見えないので、他人の行動をかなり観察してようやっと「どうも自分はこう見られているかも..」と感じる鈍感さの方が、実はかなり健康形になってきます。
もちろんそのあからさまな表現を見落とすほどの鈍感さになると、これまた「空気を読めない」いわゆる「KY」(あっはっはー)として、別の「症状」形でもあり得ます。まあ何かのイメージの中に強迫的にいるようなものですね。

いすれにせよ、それほど「ありありとした感覚」ではないがきちんと観察できるのが健康形と考えてまず正解です。これは同時に、これ自体が感情動揺を起こすものではなくなってくる、ということです。
「自分がこう見られた」という状況の、相手とその内容の、現実的影響度の方によって、動揺するかどうかの問題になってきます。空威張りする同僚に見下されるのは受け流せるが、上司に悪く見られるとなると、ちょっと現実的な問題に関わってきます。そうした、「外面での現実問題」判断が間に入ってくるのが健康形

「症状」の場合は、「自分をこう見る」という「他人の内面」ありありと見えるかのように感じ取られます。実際それはもう「外面にある問題」ではなく、その人の内部に起きていることなんですね。

時にこれを本人が、「自分が敏感」だとか、さらには自分が人の感情を見抜く特別な感覚や能力があると勘違いするケースも往々にして出てきます。いやはや^^; これを信じ込んで反応する思考と感情がどんどん積み重なると、空想と現実の境界がしだいになくなって行く、あっちの世界(^^;)に行ってしまうことになります。

まとにかく、ハイブリッドとして言えるのは、そうしたメカニズム知識によっていかに自分の空想と思考の暴走を防ぎ、次に「自己の重心」思考に切り替えるかの実践をしてもらうのみです。
そうして先のカキコで書いたような、「こう見られる」に依存した自尊心と愛の脆さに向き合ってもらう。魂感性土台を徐々に育て、それに立った生活思考を取り入れることが、「こう見られる」に依存しない、自分が自分をどう感じているのかの根底を自分で見れるようになることにつながっていきます。


■「人物品評合戦」には反応しない行動哲学

もう一つの課題は、「こう見られる!」「こう言われる!」を、他人による「存在の善悪攻撃」つまり自己評価や人の評価を落としめようとする悪意だとして、怒りで反応するという外面行動の問題です。まあこれが、上述の空想と現実の境が分からない先に起きるのが、深刻なケースの典型になります。
それでどんどん破壊的行動に流れる深刻なケースではなくても、「こう見られる」というイメージには常に、その視線を悪意的なものと感じる感覚と、連鎖する敵意感覚関係を損なう自己嫌悪感や抑うつ感がほぼ自動的に伴うのが、もうメカニズムだと言えます。ごく希薄なものでも、そこまでが自動的に、同じパターンで起きると理解しておくのがいいでしょう。

そうした感情連鎖について、まず上述の「リアルさ自体は内面症状」だという理解に立った上で、空想のものであろうと現実のものであろうと、そうした「人物品評合戦」には反応しないで無視するという行動哲学を確立することが重要です。
これは主に3つの視点があるでしょう。

一つは「自己の重心」『悲しみの彼方への旅』「考察」でも書いた、極めて基本的な話ですが、人に言われたことであろうと自分で感じたことであろうと、問題点が事実としてあるのであれば、改善向上すればいいし、事実無根であれば、何の気にする必要もないのです。またそこにおける不完全性という限界を、認めることです。完璧な人間はいない。

次に、「価値の生み出し」という実践そのものの視点です。
自分の自尊心を高める方法として、他人の欠点を攻撃するというのが確かにあります。しかしこれは当然自分自身の価値を高めることには実際にはつながらない、不毛なことです。
社会には確かに競争の側面もあり、はりぼてのような表面の自尊心を競い合うような場が時に起きます。しかし「価値の生み出し」によって自ら自分の価値を高めることを習得するようになってくると、そうした表面の自尊心の競い合いというのは、実に低級で取るに足りない重みしかないんですね。

成長途上においては、そうした自尊心攻撃合戦に惹かれる衝動も起きるでしょうが、参戦するが最後、互いがずるずると自らを落としていく流れがあるだけです。これをしっかりとわきまえ、まず意識して一線を保つことからです。「価値の生み出し」が習得できたころには、もう意識努力する必要もなく、何の影響もない路傍の石ころのようなものに見えるだけになります。


■「感情依存」から「魂への立脚」へ

最後に、より深いものとして、「感情依存」からの脱却という視点があります。上述のように「攻撃」という中でそれが使われるものも、一見して「善い」ことと見られる「思いやり」などにしても、我々は基本的に「感情」というものに頼り過ぎる面があります。
それを脱却するとは、それがまさに、「感情」を超えて一貫する「魂」や「命」の「望み」に基盤を置くという、この先の「後期」段階へとつながるものになります。

これは、外面行動ににおいては上述のように一線を保つことができても、内面感情においては人間の「自立の不完全性」によってどうしても影響を受ける面が残るということです。
これは「自分幻想」のメカニズムでもあります。

我々の「感情」は、「お前は弱虫だ」といわれると、「弱虫の感情」が多少は流れるように、できています。「お前は泣く」と言われると、泣くような感情が流れる。これは一種の、言葉に反応した単純なシミュレーションが脳で起きるようなメカニズムが考えられます。

しかしそうして流れた感情をもって「自分」というものを認識するかの話が、この先の「魂の成長」といった話の中で、全然変わってくるわけです。
一言でいえば、魂に立脚した時、「感情」は「かりもの」になります。それはもう「自分」ではありません。だから、感情はもう流れるままに任せ、それとは一貫して揺るぎのない、自分の進む方向性を得ることになるわけです。

一方「魂」にまだ距離がある普通の(?^^;)人の場合、「感情」が「自分」になります。それを利用して、「お前は弱虫だ」と言って、ヘコむ感情によって自ら屈辱感に飛んで火に入る夏の虫の人をバカにするという、攻撃が成立するわけです。
これがさらに、多くの人が抱える根源的自己否定感情の刺激し合いになるものがあります。人のそれを攻撃することによって、勝ち誇る優越感と、自分はその欠点を免れているという錯覚を、得るわけなのですね。
まあ具体的には、「キモい」という類の言葉のぶつけ合いです。

一見して「善い」ことと見られがちな「思いやり」にも、この弊害が入りこんでいます。「分かり合う」ことが価値あることと考え、「あなたはこんな気持ちなのですね」という「思いやり」を示す。
しかしこれが、絶望的な愛情要求にとっては一時的な気休めにはなる一方で、「魂」にとっては心に土足で入り込む、深い行為であることに人に気づきません。今だ自己の「罪と罰」への答えを見出せない魂にとって、それは首をまわたで締め付けるような圧迫となり得ます。しばしば身内間の殺人事件が、そうした「思いやり」の言葉を引き金に起きた意味不明の爆発的な怒りの結果起きることが出てくるということになるわけです。


■「こう見られる」感情動揺は放置し自己対自己の感情へ

浮かぶままに書きましたが、「こう見られる!」という感情動揺については、「自己の重心」という前期取り組み、「価値の生み出し」という中期取り組みによってまず対処して行くとして、さらに深い上記のような根底の問題を解くのは、「否定価値の放棄」を扉として開かれる道の先にあります。
そこに、「感情」というものと「人間の存在」というもののの関係の根本が問われる何かが、あるということです。

ここではとにかく、「自己の重心」と「価値の生み出し」によって、外面においては人物品評合戦から一歩身を引くこと、そして基本的に人の内面を詮索するということが、アラ探し的な姿においてはもちろん、「思いやり」的な一見善いものに見えるものにおいても、心の健康を損なう面があることを理解しておくのがいいでしょう。
感情は流れ変わるものです。それを静的に切り取って「こんな感情の人間」というレッテルを作るのを、まずやめる。自分の中においても他人の中においても、これまで説明した思考法の原則において、感情は見えても放置無視するという姿勢が、結構根本的なものとしてお勧めになります。

放置無視せずに見据えるのは、人にどう見られ言われたの中で動揺する感情ではなく、一貫して自分の心の底に流れる、自分が自分をどう感じているかの感情です。
この具体的な状況について、もう少し詳しく説明します。


心理学本下巻に向けての考察-209:「未知」への意志と信仰-101 / しまの
No.1468 2008/02/14(Thu) 12:11:56

■「否定価値の放棄」への実践:意識実践編

では「魂感性土台の体験」から「否定価値の放棄」までの道のりを、より本人の意識面から説明しましょう。「中期」の取り組み実践内容ということになります。
かなりおおざっぱな内容ですが、これが最終的な枠組みとして、心理学本の話の流れのベースになると思います。詳しくは理論的解説よりも、できるだけ実例ベースの話にしたいと思います。この段階から先は僕自身のが中心になると思いますが。

大きく4つの段階を考えます。3つの準備的過程と、否定価値放棄を問う実践です。
「前期」における「自己の重心」「感情と行動の分離」という大枠にも匹敵する、大きなレベルでの話になります。それが以下のような項目ということで、「魂と心の分離」にまつわる問題の根核に近づいていくという、ハイブリッド魂論の独特な側面が次第に強くなってくる話になります。

1)「価値の生み出し」の実践と体得
2)「自分が損なったもの」の明瞭化
3)「神の威光」への依存性の減少
4)「否定価値の放棄」の選択



■中期実践-1:「価値の生み出し」の実践と体得

まず「中期」の基本的な取り組み実践として、「魂感性土台」に立っての「価値の生み出し」の学習習得を行います。
つまり、「人の目」イメージが消えた感覚に立って、自分が生活場面や社会生活や対人行動において、「生み出す価値」とは何かを、知的に考え、その実践へと向かう取り組みです。

そんなの自分にはできない。自分は人の目土台で動揺するだけだ。
心配することはありません。それは単に、ハイブリッド取り組みの入り口に立っているということです。まず「自己の重心」から始めることです。「人が」でがなく、「自分で」、どう考えられるのかを問うことです。
多分それも難しいことが判明するかも知れません。それはそれだけ、絶望的な愛情要求の中で、自分を放棄することが起きているということです。それだけ困難なハンディがあったのが事実なのです。それをこれからの成長への原点として受け入れ、安易な「せめて普通に」などという思考法を、もうやめることです。そして正しい医学的姿勢で、心理学の思考をしていくことです。

そうして「前期」取り組みを進め、破壊の非行動化と、「自己不明」の解消を進めることで、それだけでかなりの変化自然に起きてきます。まあ心の障害の深刻化は主にこの「現実破壊」「自己不明」により起きていますので、それを解消していくだけでも、「魂感性土台の体験」という、自己の心の健康状態のベース土台に戻るということですね。

こうした「自己の重心という振り出し」には、この後の「後期」段階も含めて、いつでも繰り返すものと考えて頂くのが正解です。
自分の内面理解のポイントは、人に「こう見られる」ことに「愛」と「自尊心」がかかって来ることで、まさにその自分を失った状態が自尊心を損ない、連鎖的に愛をも壊していくというのが起きていることになるでしょう。
深刻な状態から始めたケースでは、こうした内面の罠を見据えることは、「絶対にどうにかしなければならない事態」に対して、どうすることもできないという、「破綻の感覚」の洪水のような状態を引き起こします。でもその洪水に全てを洗い流してもらうのが正解なのです。その嵐をやり過ごしたあと、まっさらな未知の感覚が現われるようになっていきます。

もうすこし心の基盤がしっかりした状態からスタートするケースでは、上記のような内面感情の流れに、明らかに自分を陥れる心の罠があることを、感じ取るかも知れません。より積極的に、「人の目」イメージの消えた魂感性土台で考えるとどうなるかを問うのが、推進力のある実践になります。

そんな感じで、人の目土台での感情動揺は「破壊の非行動化」と「内面理解」で取り組み、魂感性土台を徐々に強化する歩みを続けます。


■魂感性土台による生活設計

「人の目イメージの消えた魂感性土台で考えるとどうなるか」を考えるとは、漠然とした精神論ではなく、現実的で具体的な生活設計を考えるということです。つまり、「生活」というものの大枠を、「人の目」から独立した魂の感情をベースに築いていくことの始まりです。
これが、「人の目」からは真に独立性自律性をもった、心の基盤が築かれていくことにつながっていくわけです。

実際のところ、これはかなり味気ない内容の話になります。ただ生きるために必要な収入を計算し、そのための仕事を覚えていく、というような。他者の収入の下で暮らす身である場合は、これもやはりかなり淡々とした話として、そうした生活枠が社会的にどう維持できるかを、きちんと社会知識として考えることです。まあつまり、結婚生活が維持され、老後はどう年金がもらえるかとか、現実的なことを考えるということです。


■「価値の生み出し」は知性で考える

そうしたごく淡々とした現実的側面にこそ、実は「価値の生み出し」が見えてきます。

「価値の生み出し」とは、「生み出される価値と何か」を、ごく知性で捉えることが基本です。
それを生み出す人間の人物評価を離れて、生み出された価値そのものを単独に捉えるという思考なのです。これは結構抽象的で高度な頭の使い方になります。

たとえば、部屋の掃除をすれば、「清潔」や「美しさ」や「住み心地の良さ」という「価値」が生み出されます。仕事のスキルにおいては、「効率」や「品質」という「価値」が生み出されます。お客相手のサービスであれば、「お客様満足」という「価値」が生み出されます。
そのように、「価値の生み出し」とは、それをした人がどんなにスゴイ人かという人物品評に向く視線から、人そのものを離れ、いわばもう人はそこでは匿名的存在として、生み出され人から離れて一人歩きを始める「価値」に向く視線へという、思考の方向の逆方向転換が本質です。

「価値の生み出し」が、人からの賞賛や愛情を得るための方法論のように勘違いする方もおられるかも知れませんが、それは完全な間違いで、そうした「人の評価に向かう思考」を、「人の評価から離れていく思考」へと思考方向の逆転換をするのが根本なのです。それをまた「それによって人に喜ばれる」という再び「人に自分がどう見られるか」という思考方向で考えると、完全に本末転倒です。

まあ実際のところ、「価値の生み出し」思考は、人からの賞賛や愛情の増大大抵はつながると思います。ごく単純な戦術として、「より高い評価を得る」ための、具体的内実のある方法論と考えるのもいいでしょう。
しかしそこで、「人からの賞賛や愛情」というイメージに思考が向き、自分が何を生み出すかの手元が視界から消えた時、自分を見失うという、最初の内面理解課題に戻るわけです。
「価値の生み出し」とは、この思考方向の切り替えの仕組みを体得することでもあると言えます。

さらに参考として、「価値の生み出し」思考の対極となる姿を言いますと、典型的なのは「親バカ」^^; 自分のための人物評価の自慢ばかりが一人歩きして、内容が全く伴っていないというものです。さらに一般的に、「自慢」という人間態度は大抵そうですし、「馴れ合い」「些細なケンカ」「威勢」といった、人物評価やり取りの中で、「生み出される価値」の内実を見る目がいいかげんになってきます。

そうしたものと反対にある「価値の生み出し」とは、かなり知的で高度な作業であるのが実情と言えます。


■外面のほぼ解決・内面問題の根核へ

こうした「価値の生み出し」思考ができるようになってくると、実際のところ社会で生きるスキルも、実際に生み出す結果も、どんどん向上します。生み出す価値を見定め、その中で自分がより興味を持てるものに向かうことで、生み出す量も多くなるでしょうし、それはひいては社会や人間関係における自己の評価を高め、収入の増加生活の向上につながるでしょう。

実際のところ、「価値の生み出し」ハイブリッドとして提示する「人生のノウハウ」です。内面問題をそれほど抱えず、単にこうした人生のノウハウを知らない思考の中にいたという問題があっただけであれば、これだけでもう人生の成功へと向かうことのできる方も少なくないかも知れません。

もちろんハイブリッドが主眼とするのは、「魂と心の分離」にまつわる、人間の心の業への解決の道を示すことです。「価値の生み出し」を知ることだけでその人なりの人生の達成へと向かえるケースは幸運な例として、現代人にもはやほぼ避けることのできない、出生の来歴において魂が抱いた挫折が、この先の取り組み課題になります。

つまり心の問題の深刻度のバリエーションを超えて、この「価値の生み出しの体得」は、外面問題がほぼ解決できた状態を意味します。
一方、心の問題の深刻度のバリエーションに応じて、人生の不明感と、根底に流れる自己否定感情は、そのままです。
ここから、その真の正体を見定め、克服する道への歩みが始まるのです。


この順番を逆に考えている方が多いかも知れませんね。自己否定感情が解決することによって、外面が成功するようになる、と。
そうして内面にじっと見入って外面への建設的思考ができないのが、ハイブリッド入り口という話に戻ります^^; 上述の通り、「自己の重心」から始めてここまで来ます。その通りにすれば(そうした気分になるだけでなく実際に実践すれば^^;)、必ずここまで来ます。振り出しに戻るのを躊躇せずに、積極的に「自己の重心」から自分の内面外面をたどるのが、急がば回れの最も近道です。

ですから、この先の問題はかなりターゲットを明瞭にすることになると考えています。

「否定価値の放棄」「善悪の放棄」といったハイブリッド根幹は、世の悪事をどう許すかといった外面問題を、もともと題材にしているのではありません。本当に善悪の区別が良く分からない人向けには(^^;)、他に法律論なり道徳論なり別のものも世に沢山あると思います。そうしたもので何が言われているかも、ざっと押さえられるという別の勉強領域も、人生での重要な一つですので。

ハイブリッドがタ−ゲットにするのは、そうした外面的な善悪問題は済ませてさらに残る、我々人間の、我々自身と相互における「信頼」「人間性」、そして「愛」「自尊心」そして「人生」の根本を、ターゲットにしています。
出生における魂の挫折の度合いに応じて、自分がそれらを損なったという感情が、まだ残っていると思います。それがここからの取り組み課題です。

「魂」と「心」という成り立ちにおいて、それへの答えを探す歩みが、ここから始まります。


心理学本下巻に向けての考察-208:「未知」への意志と信仰-100 / しまの
No.1467 2008/02/13(Wed) 13:43:42

■終章-13:否定価値放棄の転換とは何か

さて、そろそろ結論を述べる時が来たと感じます。
ここまで長いことかけて、「否定価値の放棄」というハイブリッド最大目標へと、僕自身として納得感のあるつながりによって導けるような治癒メカニズム整理を続けてきたのですが、実際のところメカニズム整理として納得感ある終着点を感じると同時に、言えるであろう結論として浮かび上がってくるのは、ハイブリッドの答えがしばしばパラドックス的どんでん返しであったのと同じように、やはりどんでん返し的結論になります。

つながらない、ということです。
最大の「転換」は、もはや何のつながりもない、全く異なる別の「存在」間のせめぎあいになってくる、ということです。


事実、最大摂理である「自立」とは、そううゆものなのです。依存の中にある存在と、自立していく存在と、その変り目において全くつながらない別の存在へと変化する自分を、受け入れることなのです。

僕はそれを、数日前に見た夢によって自覚しました。詳しい内容は省略しますが、それは人間の心の出生に何かの業があり、それが自分の生まれ育った世界であることを見据え、それを否定するのではなくいわば包含するように、未知へと決別するというような、人間の心の営みのようです。その夢のメモの最後に、僕はこう記しておきました。
-------------------------------------
 ・・(略)・・この感覚の底には、人間の心をただ破壊へと向かわせる塊とでも言うべきものへの、嫌悪と対決の感覚があるということなのかも知れない。
 「否定価値の放棄」へと至らせる「自立」というのも、そうゆうものなのかも知れない。それは自分を生み出し、愛し、壊そうとしたものという、人間の出生の業との、闘いなのだ、という言葉が浮かぶ。

-------------------------------------
先週土曜に出かける前に書いたお知らせの中で、「自己との闘い」という言葉を出したのも、そんな訳でです。

これをもう少し分析的に説明しましょう。


■自己循環に閉ざされた「心を病むメカニズム」

まず、「心を病むメカニズム」の整理については、先のカキコのように、「自立」という最大摂理における置き去りという人間の心の業があり、それが生み出した「存在の善悪」「存在への罰」という情緒論理が、愛情要求と結びついているというのが結論になります。

ただし、それが「否定できることに価値を感じる」という「否定価値感覚」にどう問題ある姿でつながっていくのかは、望みが妨げられたことによる復讐衝動と、感情の膿を背景にした破壊衝動が、どうこの心理過程にエネルギーをくべているかに関連してきます。
しかしこれはもう意識の表面からは、見えなくなります。見えなくするのが、このメカニズムなのです。本人の意識においては、ただ「存在が善」になることを望み、それを損なったものを怒るという感情が見えるだけです。自ら明瞭に望むものがなく、漠然とした「抽象化された望み」が浮かぶものになります。具体的には「人の目」「お金」そして財産や友人といった「人生の象徴物」への願望です。

しかしその裏で、どのように真の望みがあり、それはどのように復讐への荒廃性を帯びているのか、そしてさらにその大元にあった純粋な望みがどのような感情としてあったのかは、見えません。
これを表現したをきのうUpしました。またちょっと修正してあります。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro19.jpg

隘路「現実」そのものです。「現実」は、「存在が善」になることで幸福が舞い降りてくるようなものではありません。
そしてまた「現実」はかなり不完全なものです。「べき」「はず」通りでないものにいつでも出会うことになります。それに対して怒りが起きます。
その怒りがどのように「問題」のある「否定価値感覚」なのかは、その意識の視野においては、分かりません。なぜなら、直接望むのは「利己的」だと、「望まない」のを善しとすることにおいて、自分の真の望みがどんな復讐性を帯びているのかも、その大元の純粋な望みも、見えないからです。

現実には、「望まないことにおいて望む」その部分において、この人は「利己的」で「傲慢」で「自己中心的」で「身の程知らず」であるのが現実です。しかしまさにそれを悪いものとして否定し責めることにおいて、この人はこの人なりの「自分の人間性」のバランスを保っていることになります。

さらに精緻に感情を分析すれば、「利己的」であることを責めることにおいて、自分が高い存在となり、それにおいて望むことができるという先に、まさに傲慢な利己性が潜んでいるというパラドックスを見ることができるかも知れません。しかしそうして見えた利己性を責めることで、「人間性」のバランスを保つのです。
ここにあるのは、ただ永久にループするメカニズムです。


■「転換」を超えた先に見出される「否定価値感覚」の抽出と放棄

ですから、ハイブリッドとして言えるのは、この見えないものを見る潜在力を持つ新たなる自己の成長を、まず促すということです。
それが「魂感性土台」です。

そのための方法論は、かなり明確になってきます。
「前期」段階取り組みである、「自己の重心」という根本、そして「感情と行動の分離」による建設的思考法行動法と、内面感情の開放と理解が、この全く異なる意識土台を育てます。

「否定価値感覚」を自覚し、問うのは、この全く新しい意識土台に委ねられます。「転換」としてまずできるのは、思考法を変えることです。その先に、意識土台の変化という、「転換」を超えた別存在への変化があります。
「否定価値感覚」を問うのは、その変化がさらに問うことがらとして成されます。ですから「否定価値の放棄」単純な「転換」としてあるのではなく、「転換」を超えたものとしてあるということになります。

図式的には、以下のようにまとめられます。

「転換」つまり意識努力で変えるものは、「思考」にあります。「自己の重心」を根本とする転換です。
「成長」は、それが促すものとして、「依存から自立へ」という意識土台の根本変化として現われます。
「治癒」は、感情の膿の放出によります。これは「看取る」という意識姿勢とつながります。これは「自立」していく意識土台を前提と考えるのがいいでしょう。

そうして「自立」していく意識土台が、この変化の道のりが何であるのかを見据えた時、それを妨げ続けていた「否定価値感覚」が何なのかという、合理思考および信仰思考を総合した自覚ができ、「否定価値の放棄」が成される、という流れになります。

まあぶっちゃけた表現をすれば、とにかくまず「自己の重心」ありきで思考の方向転換ですね。それすれば、早晩「魂感性土台」が芽生えます。さらにひたすら「自己の重心」。「魂感性土台」を成長させていきます。

そこから見えるものにおいても、今までと話がいったんつながらなくなる世界が出てくるということですね。一言でいえば、依存性と愛情要求を根底に持った「存在の善悪」論理に、距離を持った感覚が育ってきます。これはその前の意識土台の中で、いかに「何がいけないのか」という思考を繰り返しても、見えてはきません。
とにかく「自己の重心の選択」ありきになります。

そうして「何がいけないのか」という思考が減少する先に、この歩みの根底を見据える視点と実践が出てきます。
それを次に。


心理学本下巻に向けての考察-207:「未知」への意志と信仰-99 / しまの
No.1466 2008/02/13(Wed) 00:25:43

■「存在への罰」と「依存性」と「愛情要求」

「信仰」の話から、「自立の置き去り」そして「愛と自尊心」へと一気につながる話になります。

「存在への罰」においては、「罰」の対象となるもの、さらにはどんな「罰」が下されるべきかという基準が曖昧だという話までしました。
それは、自分が何を望むかが不明瞭だからです。

自分が人生において何を望むかを明瞭に持つ時、人はそれを基準にして、自分に向けらる他人の行動や態度の好悪直感的に感じ取り、歓迎拒絶を明瞭に切り分けることができます。だから、人の態度や行動のどれそれが、どのような理由によって、嫌だから止めて欲しいのです、という主張と、そこにおける害の度合いを、明瞭に言うことができます。

自分の望みを明瞭に持たない時、話が全く違うものになってくるわけなのですね。何か「存在が善」であるための基準のようなものがあり、それを損なったものを怒る、という形になってくる。
これは自分でははっきり望みを持てず、「存在が善」と見られることの先に、何か幸福が自分に舞い降りてくることを漠然と望んでいるという、とても未熟で「依存性」が強い人間状態だと言えます。

そして話が一気に、「上巻」レベルの話につながるわけです。それらの過程の全体が、「与えられる」という形における愛情要求の中にあることです。
つまり、「存在の善悪」というものの全体が、依存の中での愛情要求とともにあるわけです。

はっきり言って、これは幼児の心理そのものです。それでも人がこの事実を感じないまま「存在の善悪」の中で生きているのは、存在の善悪の「基準内容」が単に大人の世界の話になっているだけのことと、そしてさらにその「基準」を損なったものを怒る時のいかめしい顔と、自尊心の錯覚を、大人のものだと大勘違いしているからです。


■「愛と自尊心」の混乱への決定打

もちろんそうした「依存性」や「愛情要求」そのものが「問題」なのではありません。そもそも「自立」において根本的な不完全性を抱えるのが人間であり、まずそうした未熟性から始まるのが、「人間の成長」なのです。
ただしそこに、一度はまると抜け出すのが容易ではない、幾つかの轍の罠があります。まずはそれを理解するのがいいでしょう。
これもまだ「問題」そのものというレベルではなく、人間の心理メカニズムをありのままに知るというレベルにおいてです。

まず大きな轍としてあるのは、心の発達過程の中で、上巻で説明したような「愛と自尊心」の混乱が、「存在の善悪」という背景の中に置かれることによって、その混乱への完全なる決定打とも言うべきものが打たれることです。

「愛」は、自分が「存在が善」だと見てくれる「目」への、すがるような願望という色彩を帯びます。
そしてそれが得られるかどうかの行動場面は、「愛」が満たされるかどうかというよりも、奇妙にスイッチが切り替わるように、何らかの皮相化荒廃化を帯びた「自尊心」の問題になってきます。

この「愛」と「自尊心」の錯綜に、「存在の善悪」がその混乱の決定打を打ちます。根源的な自己否定感情を抱える度合いに応じて、「存在が善」となるために、別人を演じる必要が出てくるということです。すると今度は、そこに含まれる「嘘」がばれて「罰」を受けることへの恐怖が生まれてきます。

これは「存在の善悪」の下に「愛」と「自尊心」があるという構図において、「愛」と「自尊心」はもうとにかく混迷の度を深め袋小路に向かうしかない様相を示すものになるということです。
「愛」「自尊心」意識の前面テーマとなる、心の発達過程への「存在の善悪」の影響メカニズムだと言えます。


■「存在が善」となることで「望む」と「存在が悪」になる

もう一つの大きな轍が、「善悪」「望み」の関係において生まれてきます。

「存在が善」となることで何かの幸福が与えられるという構図の中では、「存在が善になること」がまず「望み」となるのですが、そうなることで与えられるものを直接望むことは、「利己性」「自己中心性」「傲慢」といった、人間性が低いものへのレッテルが貼られるような性質を感じさせるものになる、ということです。
「存在が善」になることで何かを望むのですが、それを直接望むと、今度は「存在が悪」になってしまうという事態が起きてくるわけです。
だから、「望まない」のが良いという話になってくるわけです。

これは完全なるパラドックスですが、まず庇護幻想の中で「望み」が基本的に「与えられる」ありきという皮相化荒廃化を既に帯びていることを理解に入れる必要があります。「与えられる」という前提があるから、「自ら望む」ことは「強欲」という公式が成立するわけです。

かくして、「存在が善」になることをまず望みとする世界においては、「身のほど」「わきまえ」といったことが極めて重要視されるようになってきます。
根底にあるのは、「存在が善」となることで、自分の望み全てが喜ばれ、全てが叶えられるという「存在の善悪」幻想があり、次にその「存在の善悪」を決める「条件」が問題になってきます。そこにおいて自分が神のように完璧だと感じ、全てが叶えられるはずだと言うことは「傲慢」だと、人はそこでは「自ら神になる傲慢」というものを感じ取ります。


ここまでも、まだ「問題」でさえありません。こうした心の世界を抱えるのが、人間の不完全性でありなのです。
なおここで書いたことをちょっとにしてありますので参照あれ。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro19.jpg

そので書いていますが、何が「問題」なのかは、これとは全く異なる心の世界を視野に入れて、初めて考えることができるようになります。


心理学本下巻に向けての考察-206:「未知」への意志と信仰-98 / しまの
No.1465 2008/02/12(Tue) 16:08:57

■心理学本「上巻」レベルの話のサマリー

さて昨年初から魂論の視点を入れて大幅に刷新を始めたハイブリッド理論ですが、ようやっとこの刷新における完結への結論が出せそうな感じです。

例により僕自身の整理のための(まあこの掲示板解説自体が基本的にそうなんですけど^^;)、大局的なサマリーをしておきますと、心理学本「上巻」では、魂論の細部にはまだ踏み込まないレベルでの話が中心になります。

メカニズム的には、「愛」「自尊心」が人間の心の成長と幸福基本内容軸になります。「与えられる」ものとしての「愛」から「自尊心」という課題へ。そしてそこから再び、今度は「与える」ものとしての「愛」へと還っていく。この大きな摂理の中に起きた狂いが、人間の心を病むメカニズムだと考えられる。

その狂いとは、一言でいえば、「与えられる」ものとしての「愛」を得ることに賭けようとする皮相化荒廃化した自尊心への衝動によって、心の根底では自尊心を、そしてさらに求めた「愛」そのものを、自ら崩壊させていくという流れです。
この流れの根本を貫くのが、「自己の重心」の喪失という問題でした。


■ハイブリッド取り組み実践から魂論の核心へ

「下巻」では、「感情と行動の分離」に始まる取り組み実践から、魂論の核心部分へと踏む込み内容になります。

取り組み実践の「前期」としては、「感情と行動の分離」によって、外面建設的な思考法行動法内面については開放と理解が内容です。

自己理解のためのガイドとなる心理メカニズム視点としては、上述の上巻レベル相当がまずその内容です。自分が愛と自尊心をどのように求めているかにおいて、どのような混乱が起きているかを理解し、破壊的行動に出口を求めることをやめることです。

こうした取り組みの始まりから、根本において重要な指針が、「自己の重心」です。人にどう見られる、人にどう扱われるという思考の方向を、「では自分ではどう考えるのか」という方向に転換することです。
これが可能である場合は、その先の「価値の生み出し」といった課題にすぐ進むことができるでしょう。

一方それができず、「人にどう見られるか」という思考しかできない場合は、その状態の自己理解が重要になります。これは表面は「自己の重心の喪失」という問題として、その根底では、それだけ愛情要求が絶望的に強く、自分の足で立って歩けない状態にあるということです。
問いは、その状態を自分にごまかし、人の思考を借りて生きるという姿勢を根本的にやめて、自分で自分を助けることを目指すか、ということになるでしょう。それが自分の置かれた現実であることを真正面から見据えることが、内面の開放と理解という過程を促し、やがて「魂感性土台の体験」にまで早晩導かれます。


■「中期」の骨子は「価値の生み出し」と「否定価値の放棄」

そうして「人の目感性土台」と「魂感性土台」という、2種類の感性土台の違いが分かることを足場として、取り組み実践においても、自己理解におけるガイドの心理メカニズム論においても、一段階踏み込んだ話にするのが、「下巻」の主な内容になります。

で、そこで出てくる新しい話とは、去年からの掲示板解説を印刷した、A4で500枚をゆうに超えるプリントをさっきもパラパラとめくり続けて確認したのですが、まずは「愛」と「自尊心」「魂」と「心」という構造を視点にするとどうなるかという話があり、次に2種類の感性土台の違いを手がかりにした、「健康な心の世界」への「心の自立」という話が出てくる。

でもこれは実はまだ「前期」取り組みのための話です。自己理解において、魂と心の視点も追加する。建設的思考法行動法においてもそう。
「感情と行動の分離」で外面における建設的思考法行動法、内面における開放と理解という「前期」取り組み実践は、「中期」以降においてもやはり基本です。これは最後までそうであり、「中期」「後期」の骨子項目も、その上で行います。

「中期」の骨子とは、まず外面においては「価値の生み出し」
これが「前期」の「ただの建設的」と違ってくるココロは、「価値の生み出し」が「人の目」からの独立が完全に果たされるようになってくることです。これは2/3「未知」への意志と信仰-90で書いた「価値の生み出しの匿名性」というのが鍵になってきます。これについては意識実践上のポイントを後でまた書きます。

そして次に、「価値の生み出し」を足場にして、「否定価値の放棄」を問うという内面向け実践になります。

メカニズム論視点では、「自立の置き去り幻想」が、この2つの骨子を支える自己理解視点になります。「庇護幻想」「破壊幻想」「自分幻想」がまずあり、やはり決定的なものとして「存在の善悪幻想」がある。
「価値の生み出し」は、これらの幻想全てにおいて、対極にあるものへと向かう方向性になります。庇護から自立へ。破壊から建設へ。「こうあれる自分」という空想に生きることから、現実において生み出すことに生きることへ。


■「信仰のミス」による「非受容」の根核へ

そうした方向性を見出していく過程において、妨げているものの根核が自覚され、捨て去られるのが「否定価値の放棄」だという位置づけになります。
これはより細かくは、存在の善悪」幻想における「信仰」の部分がターゲットになります。

信仰思考の話を始めました。「存在の善悪」は実は「魂」が起源であり、無条件に「存在が善」として「全てが喜ばれる存在」でありたかった願いがあった。しかし出生したこの現実世界には、「存在への罰」があった。
それをどう受け止めればいいのか、「魂」「神」の声を待ったまま、それを伝えるのは「心」に委ねられ、「心」はむしろ「存在への罰」をこの世界の法則だと取り込み始めた。何かの「人間の価値」をその「存在の善悪」の「条件」として振りかざす形においてです。

「存在への罰」が、「行動への罰」どう違うのかまで説明しました。
一言でいって、「存在への罰」は、罰の対象となるものや、罰の基準が曖昧です。それは単独に切り分けられる「行動」を問題にするのではなく、「関係性への阻害」とでも言うような、漠然とした何かを損なったものに向けられるもののようだと。

そこから話を、ハイブリッド理論の大枠へとつなげる話へと続けます。

問題は、「何が問題なのか」になります。結局、心を病むメカニズムのこれまで話した全ての側面が、「不完全性の中の成長」に収められるものになるのです。望みに向かう中で、その不完全性にありのままに心を晒した時、心には必ず成長が起きます。それが生み出す成熟が、心の幸福を支えます。
それを妨げるものが、結局、唯一の「問題」になります。意識して捨て去るべきものとしての「問題」として。つまり「不完全性をありのままに受け入れる」という「受容」へのアンチテーゼになっているものですね。

まあそれが「否定できることに価値を感じる」という「否定価値感覚」なのですが、話としてはこの「存在の善悪」「自立の置き去り」という話の次元から「愛と自尊心」という話の次元へと、全てを貫いて起きているメカニズムの話をまずします。
それがメカニズム面での最後の話のような感じで、この最終結論の始まりになります。
「人間性のメカニズム」とでも言えるものになりますね。


週末不在(今週と来週) / しまの
No.1464 2008/02/09(Sat) 11:50:10

今週はこれから出かけ2/11(月)まで、来週は2/15(夕方)出かけ2/17(日)まで不在になりますです^^。
スキーや帰省にて。

なお解説の続きは、先のカキコでおおよその心理ベクトル材料は出尽くし、次は最後の結論的なもので、かなりすっきりした整理にできるかと思います。なども書いており。

治癒成長が今までよりさらに大枠から、3つのベクトルにまとめられる。
思考法は、根核は「信仰」に。
「成長」は、「依存」から「自立」という根核に。
「治癒」は、「根源的自己否定感情」つまり感情の膿に。

人間の心の惑いは、「自立の置き去り」という成長軸における問題と、「信仰のミス」という思考法の問題が組み合わさって起きています。それが感情の膿の量に応じて、病む姿を深めるという構図になります。

答えは、「信仰」を核とする思考法取り組みに促され、感性土台をまたがった「依存から自立」への、「自己との闘い」という舞台において出されるという感じ。


心理学本下巻に向けての考察-205:「未知」への意志と信仰-97 / しまの
No.1463 2008/02/07(Thu) 22:06:48

■空想の中に始まる「存在への罰」

「行動への罰」としての怒りと、「存在への罰」としての怒りの違いを、簡潔に説明します。
それは相手の、自分にとり「望ましくない行動」を対象にして、まず起きることから始まります。
実はここで既に違いが出てきています。

「行動への罰」は、文字通り、自分にとってり望ましくない相手の「行動」に対して向けるものとして始まります。

「存在への罰」は、「望ましくない行動」そのものというよりも、むしろ「行動」に表れるものとして存在しているかのようにイメージされた、「望ましくない感情」に対して向けられるものという様相を帯び始めていることです。この「望ましくない感情」そのものは、「行動」のようにはっきり現実において目に見えるものではなく、それはかなり「空想」の中で始まっているということです、

この話を、計画的犯罪過失犯罪への罰の違い、といった話で考えると、ハイブリッドが目的にしている心の話ではなく、社会学法律論の議論にそれてしまう恐れがありますので、むしろ日常の人間関係での些細な出来事での怒りを材料にして考えて頂くのがいいでしょう。
それは大抵、相手が何か、自分が重要と感じる「思いやり」や「人間性」を欠いた行動をしたと感じた場面です。

話を「否定価値の放棄」へと先走る前に、そうした他者の問題行動や問題態度を前にして、合理的な原理原則による建設的な対処ができるのが望ましいことを、まず基本的取り組み課題として認識して頂くのが良いかと思います。なぜそうした行動態度は良くないのか、どんな害があり、やめるとどんな良いことがあるのかを、論理的に明確に考えることができのが大切です。
まずそうした論理思考に慣れ、頭を回し、的確な言葉を出すという、基本的な訓練みたいのも重要な話です。これも積み重ねで、次第に上達していくものです。

でそうした基本的な習熟の不足という問題もあるとして、「存在への罰」という命題が入り込む度合いに応じて、我々の心を病んだ方向に向かわせる、特有の特徴がそこに現れ始めます。


■「相手を嫌いになる」という「存在への罰」

「行動への罰」においては、どの「行動」が罰の対象となるか、そしてどんな基準でどんな罰を与えるかは、かなり明瞭です。

一方「存在への罰」では、そうしたことが次第に不明瞭になります。確かにそれは何か特定の行動や出来事などで始まったのでしょうが、その行動そのものが果たしてどのように悪いのか、はっきりしないまま、その行動そのものというよりも、相手の存在そのものが怒りに値する存在という感じの事態になってくる。

そして与えられる「罰」も、範囲や基準といった論理が不明瞭なものになってきます。
最も直感的な表現をするなら、「相手を嫌いになる」のがこの「罰」になってくるでしょう。それを表現するものとしての怒りが現れてくるわけです。
ここに、未分離意識の中で魂が体験した、「全てが喜ばれる」「全てが嫌われる」という「存在の善悪」論理の片鱗がうかがえます。

まあ実際、子供への躾として親が安易に使う、その後の子供の心を病ませる可能性へとつながる、最も悪い方法の言葉を時に耳にするものです。
「そんな子は嫌いになりますよ!」と。
そうして大人になった人も、「嫌いになってやる!」と思考する。いやはや..^^;

ですから、「存在への罰」が双方の心理として成立した時、許しを乞う側は、「どうか嫌いにならないで」という話になる。「愛」が、まるで罪と罰の「科料」であるかのように操作されることになります。これは心理的な隷従関係にもつながります。互いが独立した別個の人格であることを認めるのとは別の世界です。
これはやはり「病んだ心の世界」になりますね。


■「愛」の喪失と「罰」

「行動への罰」においては、「愛」が罰の科料であるかのように利用されることはありません。望ましくない行動が、ごくありがちな思慮不足幼稚な未熟性によるものであれば、それを怒ることでやめさせる中でも、相手への愛情感は一貫して保たれるような姿になります。

まあこれは、「人間性」のレベルにおいて愛情が成立している場合の話だと言えます。「人間性」とは何かと聞かれるとまた話が長くなりますが(^^;)、要は容姿や財産や性格の良さといった表面的条件よりもさらに深いところで、相手が自分にとって愛する相手かどうかというものが、はっきりとある世界ですね。基本的には「魂による絆」というようなものになるでしょう。

一方、「望ましくない行動」が人間性を損なったようなものである場合、原理原則的な「行動への罰」軽い一方、愛を大きく失うという結果にやはりなります。ただしこれはもう「罰」とはちょっと異なるものになってきます。

最近の話題だと、某若手女性歌手「30何歳を過ぎると羊水が腐る」とかの発言をしたとかしないとかで、CMを降板になったとか。
これは、少し前に某大臣「女性は子供を産む機械」というような発言をして辞任するはめになったのに比べれば、原理原則な罰はあまり与えられるような話ではありません。某大臣の場合は、もはや社会的職務と責任に完全に反した言動となっていますが、某女性歌手の直接の役割は「」であり、一応はその本業の外の話です。某大臣が完全に職務を汚す発言であったのに較べれば、こっちは「ただの傲慢なバカ」です^^; 医学的知識という点で。

そんな風に、「罰」は特に与えない。でも、もう愛せない。そうゆう事態があります。
それを、「許して。嫌いにならないで」と言っても、無理なんですね。許せても、もう愛せない。それを、「嫌いにならないでやる代わりにこれこれをしろ」というような話になると、こっちも人間性を損なった姿になります。

ここで書いた話は、実は「行動への罰」と「存在への罰」の違いの話を超えて、もっと深い話に近づいています。
「罪と罰」と「愛の喪失」の違い、というような。「存在への罰」では、これが操作的に重なります。

どうゆうことかの答えは、かなり最後に出てくる答えそのものになってきます。
まあ一言でいえば、「罰」は「心」が受けるものであり、「愛の喪失」は「魂」が受けるものです。そこで、「魂」がそれを「罪と罰」において受け取ることを「心」が救い、つまりそこで「心」が「魂」を「罪と罰」においては許す形で、「愛の喪失」を受け入れてありのままに痛む時、「魂」に浄化と成長が起きます。この者が愛を取り戻すとしたら、これを経た時です。
う〜ん深い^^; 詳しい説明は最後の答えの場所で、これはそうゆうことだったのですと説明しますので。


■変形していく「自分と相手」の「存在の関係」イメージ

とにかくそうした特徴がに現れるものとして、話は次第にの方に視点を移します。
まあ具体例なども出しながら説明したいところですが、時間短縮のため(^^;)省き、イメージの輪郭だけ説明していきます。まあ人間関係に悩む時、まずこれが起きていると考えて良いかと。

「存在への罰」の怒りが起きている時とは、単に望ましくない行動がありそれを止めさせたいという次元にとどまらず、互いの「存在の関係イメージ」とでも言うものに、変形が起き始めるのが特徴と思われます。

実際、相手の望ましくない行動とは、行動の良し悪しよりも、そこに、自分に対する相手の目に不穏な変化があるのをキャッチしたことをもって、それに対して怒るというようなものになってくると思われます。
相手が自分を見るイメージが、自分のことをないがしろにし、さらには何か違和感や軽蔑を抱きているかも知れない、というようなものです。
それは、「自分と相手がこうあれている」というイメージを壊します。実は「罰」の対象とは、「行動」そのものではなく、それなのかも知れません。

つまり、それは相手が望ましくない態度行動をしたという、論理的に単独に相手の問題として切り分けられることというより、自分と相手との関係、そしてその中で「こうあれている自分」をそれが壊した、というようなイメージにおける「罰」の問題になってくる。
これが「存在への罰」で起きている心理を、僕としてシミュレーションした時にまず浮かび上がってくる流れです。

つまり、相手の行動そのものの単独の善悪を問題にしているのではない。それはこっちの自分を変えてしまったことに問題、「罪」があるというわけです。特にそれは、「あるべき調和」「あるべき一体化」を壊してしまったもの、というような色彩を帯びるかも知れません。
そしてそれは、「相手が悪」であるのみではなく、「自分も悪」であるかのような事態です。ですから怒ると同時に、怒る自分を責める感情によって抑うつ気分に向かうのが、ほぼ確定的な流れとも言えるメカニズムになるわけです。

これもやはり、「魂」が体験した根源的な「存在の善悪」の残影が見える部分になります。


■まず「存在の善悪」はただ流し「行動の善悪」論理思考を

ここまでが、まず「行動への罰」と「存在への罰」の違いとして、大体表面から見える部分の話になります。

取り組み実践上は、「感情と行動の分離」の大枠において、この2つが全く別世界であることを理解し、それに照らし合わせて自己理解を図ることです。
「存在への善悪」で動く自分の心を責めるのは無用です。それを責めるのも、やはり「存在の善悪」心理が働いてという、ループが大抵起きます。
そのループはもう放置し、外面思考として、「行動の善悪」論理だとどうなるかと、精神論ではなしに、具体的な思考エクササイズをしてみることです。これはもうパズルを解くような、「気持ちの問題」でなしの純粋知性でokです。

大体表面に見えることに対応したその取り組みが、大体ハイブリッドの「前期」に該当する実践です。

次に、魂感性土台人の目感性土台の違いが分かるのを足場にして、より裏に潜むメカニズムの話へと進みます。「中期」段階の話ですね。
別の大きな問題が、そこでつながってきます。


心理学本下巻に向けての考察-204:「未知」への意志と信仰-96 / しまの
No.1462 2008/02/07(Thu) 12:25:32

■人間の心を病ませるものの根核へ

先のカキコでの序論的な説明をサマリーしますと、まず「否定価値の放棄」とは、「心の成長と幸福」、「人間性」と「人間の存在」、「心」と「魂」と「命」といったものを見る目を体得する、ハイブリッド取り組みの習得完成という位置づけになります。
ただしそれは頭で考える思考法として作り出すものではなく、我々の本性を我々自身が見る目を生み出す、成長力の開放であり、意識実践として行うのは、それを妨げていた、人間の心を病ませるメカニズムの根本といえるものを捨て去ることです。

そしてその「人間の心を病ませるメカニズムの根本」が、「魂」が出生において体験した「存在の善悪」を、「心」が世界の法則として取り込むという過程と、「信仰」のレベルにおける「自立」という摂理命題、そして表は「罪と罰」、裏は「復讐」という名の心の命題が結びついた核のようなポイントであることを浮き彫りにしました。

これをさらに、感情分析による自己理解のガイドとなるよう、話を詳細地図のレベルに進めます。


■神は指図しなかった「存在への罰」

まず、問題が起きたものとしてはっきり言えるポイントがあります。
「罪と罰」についてです。

ハイブリッドの信仰思想としては、先に述べたように、「罪と罰」については「神がそれぞれの動物に委任した」というような考え方を取ります。
まあ誤解なきよう書いておけば、このような表現をする時の「神」とは、ハイブリッドとしてはもちろん偶像化した「いきもの」的な「神」がそんなことを考え言ったというイメージよりも、脳のDNAに刻まれた、それに従うことが最も合理的な設計図のようなものとしてイメージしています。それに従うかどうかは勝手として。

それで言うならば、「罪と罰」について、神は明らかに「存在への罰」というものは指図しなかったと思えるわけです。それはもう「自らを守るため」という領分を越えています。

もし「存在への罰」神が認めていたら、動物は本能的に、天敵を根絶やしにする積極的な行動に駆り立てられることになります。天敵に出会い襲われた時の反撃ではなく、自ら積極的に天敵の所在を余すところなくつきとめ、殺戮に向かうという行動です。こうした行動が動物界で起きたのを見たことも聞いたこともありません。あくまで現実に自分がこうむる危害への防御反撃として行われます。

こうした範囲で、相手を殺すケ−スもあります。特定の天敵個体が執拗に自分を食べようとして日夜攻撃してくるようなら、もうそうするしかない場合もあるでしょう。でもこれもはやり「存在への罰」ではないと言うことができます。もしその相手がふと別の方向に行けば、もうそれで済むわけですから。

仲間内で行われる「罰」は、相手の望ましくない行動を阻止するための、合理的な限度において行われます。「ポチたま」を毎週見ていますが、いまは亡き気の良いラブラドール犬「まさおくん」が大好きなメスの黒ラブに抱きつこうとして、いつも歯を向いた攻撃に出会い、シュンとするけなげな様子が良く流れていました。怒られちゃったわけです。これも「罰」を受けたと言えますね。
こうした「罰」は、あくまで「望ましくない行動」という「罪」に向けられます。その行動をやめさせるものとして、機能するわけです。

あるいは、現実に自分がこうむった危害への復讐的な攻撃「罰」として行われることもあります。だから強い草食獣肉食獣を襲うことが良く出てくる。
これは身内を殺された場合に、もっとも攻撃の内容が大きくなります。この「上限」は、脳の発達によってより大きくなり、仲間を殺された象が人間を襲って殺すようなことも起きてきます。しかし「上限」やはり自分が受けた危害と同等の危害を相手に与えるのが最大限であり、「行動への罰」としては論理的合理性があります。

こうした解釈で考えるならば、人間における「罪と罰」として合理的な範囲にあるのは、法律による処罰や、スポーツにおけるルールと罰則です。死刑制度については是非の議論がありますが、その理念は上述のような範囲だと考えます。


■「行動への罰」としての怒りと「存在への罰」としての怒り

そうした「行動への罰」とは異質な、「存在への罰」を、人間だけが持つようになりました。
それが人間の抱く「怒り」です。


もちろん人間の怒りの全てが「存在への罰」として機能しているのではなく、合理的な「行動への罰」として怒りが起きるものも当然あります。

この「行動への罰」としての怒りと「存在への罰」としての怒りの現れ方は、それぞれの人においてその2種類があるというよりも、「存在の善悪」という論理が心に忍び込む程度において、怒りは「存在への罰」としての性質がより前面をおおうようになり、「行動への罰」としての合理的論理が見えなくなると考えるのが正解になるでしょう。

つまり、それぞれの人においてその2種類があるのではなく、それぞれの人において、「存在への罰」という命題に心を支配される度合いが異なってくるということです。これは同時に、「行動の善悪」ではなく「存在の善悪」命題に心を支配される度合いでもあるでしょう。
そしてその度合いが強まるほど、やはり心を病む姿がより鮮明に表面化していくると言えそうです。

この2種類の怒りの違いを、まずは表に見えることから、次第にその裏に潜んでいるものへと説明します。
その違いの根底にあるものを明確にすることで、次第にこの「人間の心を病ませるものの根核」正体と、その克服への道も浮かび上がってくるという段取りです。


心理学本下巻に向けての考察-203:「未知」への意志と信仰-95 / しまの
No.1461 2008/02/06(Wed) 13:47:44

■「否定価値の放棄」の本質は「本質を見る目の体得」

さて、ハイブリッド取り組みの基本目標となる「否定価値の放棄」の、まずは理論的本質を説明します。それは次のような大枠レベルにおけるものです。
1)前期:「感情と行動の分離」に始まる内面および外面への取り組み
2)中期:「魂感性土台の体験」を足場にした「価値の生み出し」への歩みを経て「否定価値の放棄」
3)後期:「魂の望みへの歩み」


このような大枠に置いた時、「否定価値の放棄」とは、「許しの心」のことかと誤解されがちな陳腐で小手先の思考法のことではなく、ハイブリッドの歩む道が何であるのかの根本本質の体得だと言えます。
つまり一言でいえば、「否定価値の放棄」とは、ハイブリッド心理学の習得の達成です。そして習得達成によって、実際にその道への歩みが始まるわけです。

習得においてはひとまずのゴールだと言えます。しかし、根本変化はここで完了するのではなく、ここがスタートになるわけです。
もちろんこの時点で、開始時点に比べれば別人的な変化は得ているでしょうが。まあ脳の構造が変わったと感じる変化ですね。
その変化が、まさにここからどんどん積み重ねられる歩みが、生涯続くことになるわけです。その先に、人間がどれだけの根本変換へと至ることができるのかは、まさに「未知」の先にあります。

ですから、「否定価値の放棄」とは、ハイブリッドで取り上げる数々の視点の「本質」を見る目の獲得です。
「心の成長と幸福」の本質を見る目。
「人間性」というもののあり方と、そこにおける「自己の存在」の本質を見る目。
「心」「魂」というもの、そして「命」というものの本質を見る目。
「人間」とは、こうした多面から成る、一つの本質として存在します。その本質を見る目を獲得することです。これはより抽象的には、「中庸の目」と言っています。

実はこうした視点は、ハイブリッド取り組みの説明の最初から言うものでもあります。ハイブリッドでは、そうしたものに目を向けるんですヨと。で何とかそれを理解検討して頂き、上記の「前期」から「中期」への取り組み実践をして頂く。
しかし、そこまでは実は、そうしたものが実際のところどう見えるかが、ご本人にはおぼろげにしか分からない形で進めて頂いているんですね。

実際それらは頭で考えただけで分かるものでないわけです。だからまず、それぞれのおぼろげな視界の中で進めて頂く。それにより、断片的な変化が始まると共に、各種の視点への視力が除々についてきます。
そしていよいよそうした準備が整った段階で、この歩みが一体何に目を向け、それがどう見え、その先をどこに進むのかを、はっきりとした姿で捉える。
それが「否定価値の放棄」という「実践」になるわけです。


■「心を病むメカニズム」の根本を捨て去る

一方、上述の「心の成長と幸福」にせよ「人間性」「自己の存在」そして「」と「」、「」、さらに「人間」そのものにせよ、その本質を見る目を獲得するのが「否定価値の放棄」だとは言っても、「否定価値の放棄」そのものはあくまで、「否定できることに価値を感じる」という「否定価値感覚」を捨て去ることであり、そうした「本質」について、実践上もここで新たに学んで頂くことは特にありません。

「本質を見る目の獲得」という積極的プラス側面は、「否定価値の放棄」の「実践」そのものではない
これはどうゆうことか。

それがまあ、「目に見えない力」である成長力の開放を、そこで行うということですね。この「成長力」そのものは、もはや人工的に作り出すものではありません。
全てが、小手先の思考で作り出すものでは、ないということです。全てが、我々が本性として持っていたものなのです。それを、開放する。
まず、それを見る目を開放するのです。それが「否定価値の放棄」です。


ですから逆にいえば、「否定価値の放棄」とは、我々人間が我々人間自身の本質を見る目を失わせていた根本を、捨て去ることです。だから「実践」面においては「放棄」という消極面での言葉で言っているだけです。
これが、人間の本性の開放であり、その力自体は人工的に生み出すものではなく、我々が意識努力してできるのは妨げているものを除去することまでだ、とハイブリッドの最初の説明で言っていることの、まさに達成になるわけです。

では「妨げているものの根本」とは何か。
心の障害の「症状」の病根「感情の膿」だと言えますが、それが「妨げの根本」でしょうか。それを取り除くということか。
違います。人間が不完全な存在であることにおいて、「感情の膿」の存在さえも、もはや「不完全性の中の成長」という健全形の中に許容されるものになってくるのです。それが本当に根底から消え去る根本変化が、この後の「魂の望みへの歩み」で起きてきます。

「否定価値の放棄」で捨て去るのは、そうした「不完全性の中の成長」を見えなくし、妨げていたものです。
実はそれこそが、人間の心を病ませるものの根本であり、「心を病むメカニズム」の本質なんですね。


■「心を病むメカニズム」の本質は「感情の善悪価値」を問う「存在の善悪」

人工的に作り出すものではない、成長力の本質を開放する。
そのための意識実践としては、それを妨げていた、「心を病むメカニズム」の本質を捨て去る
何を捨てるか。次第に話はターゲットを明瞭にすることができます。

まずこれもハイブリッド取り組み説明の最初から言っていたことの達成形であることを言うことができます。
「無駄な怒り」を捨て去ることです。これはまさにハイブリッド理解の入り口ですね。

もう一つ、大抵の方の取り組みにおいて指摘していたことがあります。
「感情依存」です。これもハイブリッドの根本理念において説明してきました。感情が良くならないかとじっと心に見入っても、成長は起きませんと。悪感情が「障害」なのではなく、それを理由に前向きに人生を生きることができなくなっていることが、「障害」なのですと。
そうして、「感情と行動の分離」というハイブリッド最大の基本枠が始まるわけです。
これも、その真の達成は、「否定価値の放棄」によってです。

「無駄な怒り」や「感情依存」の真の克服「否定価値の放棄」による。これはどうゆうことか。
怒りストレスを生み出す姿勢や、心の成長を妨げている姿勢の根本を、「否定価値の放棄」では捨て去るということです。「否定できることに価値がある」という感覚を。
何を、どんな論理において否定できることに価値があると感じていることの話か。

ずばり結論を言うと、「心」が「存在の善悪」を取り込んだ中で、「条件」として強引に振りかざすことになったものであり、それは「感情の善悪」です。
「心」は、この世界は何かの人間価値によって存在の善悪が分かれるのだと解釈し、「存在が悪」であるものへの攻撃衝動を獲得しました。「心」が「存在の善悪」の「条件」として振りかざすようになった材料には、外面についてのものも結構あります。しかしそれは突き詰めると、「感情」に帰します。どんな良い感情を与えるためのものか。

「存在の善悪」は、かなり「傲慢で利己的な善」を生み出すと指摘しました。それが「感情の善悪」を問う姿勢の中に結びついたポイントに、人間の心が病む根本があります。

「感情の良し悪し」というものは確かにあり、また心の成長と幸福の指標は結局まず「感情」という話もしています。この表面だけでも、やはり問題の根本は見えてきません。
そこに、「信仰」のレベルおける「自立」と、「罪と罰」そして「魂」が抱いた根源的な「存在の善悪」とつながった核のようなポイントが見出された時、初めて問題の根本が明らかになります。

序論としてそんな感じ。さらに内部に踏み込んだ説明をこのあと。


■「感情」を越えて「魂」と「命」へ

同じ序論レベルで、今度は「否定価値の放棄」の先の話も書いておきますと、「魂の望み」「命の望み」が、「感情」とは多少異なるものとして、見えてくるということになります。それを見る目を獲得するということなんですね。
そして我々の「人間性」と「人間としての存在」というものが、そこにあることが見えてくる。

そこに向かうことを知った時、ハイブリッドが示す生き方が完成します。
それがもはや「幸福の指標としての感情」の「後戻りのない向上」を超えたものになった時、実際我々は「恐れるもののない心」を得ます。
「感情」は結局、さまざまな色で移り流れていくものです。それは身体に根付いたものでもあり、避けられない病気怪我や、さらに老いに向かう時、必ず悪いものが流れるようにできています。その中でも、自分が「魂の望み」「命の望み」に向かう存在であることを知っている時、同時に安らかな、別の「感情」の中に生き続ける魂と共に、生き続けることができるということになります。

まあかなりスピリチュアルですね。ただしその後がまたちょー具体的になってくるのがハイブリッド。心理学本の方では、僕自身の「その後」の変化体験など手短に紹介する形になります。

あと一つ、実践方法論上、位置づけをあまりはっきりできていないものがあったのですが、「愛と自尊心の分離」です。
これも「否定価値の放棄」後の、「魂の望みへの歩み」で可能となる、かなり重要な姿勢になると言えそうです。

こうした心の変遷が、どのような内部メカニズムによるかのさらに詳細を次に。


心理学本下巻に向けての考察-202:「未知」への意志と信仰-94 / しまの
No.1460 2008/02/05(Tue) 16:21:32

■「否定価値の放棄」の実践:理論編

「神」を基本的に「未知」と位置づけ、それは全ての命に「自立」を指図し、そして「罪と罰」については「自らを守るために使え」と指図したと考える。
これがごく信仰思考的な表現として、ハイブリッド心理学はあくまで「心の成長と幸福」のための、精神論ではない極めて実践行動学的な心の科学をその旨とするわけで。

つまり、「心の成長と幸福」のための、「後戻りのない向上」が、結局のところ我々人間の「幸福」の指標である「感情」においてどのように築くことができるかの、具体的な思考法行動法を問題にしているわけです。
そしてその具体的内容は、まず「自己の重心」を基本指針に始まり、「感情と行動の分離」において、内面においては感情の解放と理解外面においては建設的な思考法行動法が、今まで5年に近い歳月をかけて整理してきた内容であったわけです。

で、その過程においてまず「魂感性土台の体験」というのが、この取り組みが小手先での「気持ちの持ちよう」というレベルの話ではなく、脳の構造レベルでの根本変化の道のりであることの、最初の足がかりのようなものとして現れるあたりまで、実際の相談事例の方々の体験も含めて、言えるようになってきた。
これが今の段階です。

でその取り組みを実際に見ると、ハイブリッドの特有さとして言える特徴があります。感情を直接改善しようする取り組みを、ここまでは一切していないことです。あるのは「感情と行動の分離」によって感情についての意識過剰を防止するのが旨の、「ただ流す」などの「悪感情への耐性」といった「悪感情の基本的軽減」があっただけです。
なお「感情分析」はもう「開放と理解」の位置づけとして、精神分析につきまとう魔法のような治癒効果への誤解を排し、自己分析を受けてどんな思考法行動法を取るかの方を重視した説明にします。


■ハイブリッド心理学とは病根除去として「否定価値の放棄」をする自己治療

でそうした、まずは感情を直接良くしようと躍起になって小手先の思考を弄するのではない、感情が湧き出る心の基盤の方に、いわば感情は放置したまま、取り組んでもらう。
それがついに、そうした基盤を足場にして、悪感情の原因を直接除去する決定的な一歩を成して頂くのが、「否定価値の放棄」です。

「否定価値の放棄」については、とにかく僕自身が劇的に感情基調の方向が変化した境目が、「魂感性土台の体験」のように受身の変化ではなく、自分自身で行った思考転換の中で起きた記憶から、その位置づけを重視していたのですが、こうして取り組み全体を見ると、その位置づけの決定的な意味が、「悪感情原因の直接除去」と言える、まあ要はこの取り組みを「治療」とするなら病根の除去という、結局これが行うことだと言えるものになるわけです。

ハイブリッドの理屈上は(^^;)、「否定価値の放棄」を成すことで、自己嫌悪感情や憂うつ気分やストレスたっぷりの怒りなどの悪感情が、劇的に減少します。
ですからともかくハイブリッドを学んでもらう方には、これをとにかくやってもらえるよう実践的なつながりのある説明が完結できるまで、僕としても出版本に踏み切れなかったわけで、その決定的な位置づけも内容も大体決まってきたという次第です。

とまあ全体枠の整理はいいとして、肝心の具体的内容説明を。


心理学本下巻に向けての考察-201:「未知」への意志と信仰-93 / しまの
No.1459 2008/02/05(Tue) 14:16:05

■「存在の善悪」への「魂」と「心」のギャップ

先のカキコでは、「魂」が起源「存在の善悪」と、その後の人生においてそれが克服解消される姿と、逆に「心」がそれを取り込んで自らの生きる世界の法則のように信奉するようになる姿を、簡潔に説明しました。

その印象を一言でいうならば、「魂」が抱く「存在の善悪」は、深く、純粋な印象を感じさせます。自らが望むことを無条件に喜ばれる存在でありたかった出生において、何かあるべきものが損なわれた世界があった。悪いのは自分だったのか。それとも世界が間違っていたのか..。
そこには深い混迷と絶望がありました。「神」は何も答えを語ってくれません。

一方、後に「心」が「存在の善悪」を取り込んだ時、それはもはや純粋なものではなく、何か荒廃した色彩を帯び始めているような印象を受けます。

決定的な違いがあります。「魂」が抱く「存在の善悪」は、「無条件」であったことです。
それに対し、「心」が抱くようになった「存在の善悪」は、「条件つき」です。しかもその「条件」を強引に振りかざす形でです。
ここに、「魂と心の分離」において生じた、言わば「魂」と「心」のコミュニケーション・ミスのようなものが起きたという印象を感じます。その中で、「魂」はより深い「原罪感情」を抱えるようになった。そんな印象を感じます。

「魂」は「神」が示す答えを望んだ。「心」がそれを解釈した。


■答えは「神」が示す..

こうして、答えはやはり「神」に委ねられるようになったと思うんですね。

これが人間の心の惑い構造であり、不完全な存在である人間が「神」という観念をどうしても本能的に持って生まれる存在である時、答えは「神」が示すものになると思うわけです。人間自身がそれをどう解釈するかという、「神」において。
そうして、人間の歴史で、人間の心の惑いを解決しようとして、神の物語が語られ、宗教が起き、精神世界論が論じられてきました。

「神」を考える姿勢に基本的に3つの類型があることを説明しました。「偶像化」「べきはず」「未知」という3つです。
これは「神」を考える姿勢単独に取り上げて、まず言える話です。

人間の心の科学となることを基本スタンスとするハイブリッド心理学からは、そうした単独での視点では不足すると考えます。
それは、より大きく、「命」と「心」のメカニズムにおいて考えることです。
ですから「神」をどう考えるかに加えるべき、あまりにも根本的な命題が、そこに2つ加わるのを、ハイブリッドは見るわけです。

一つは「自立」です。全ての「命」の摂理です。ハイブリッドでは、「神」は基本的に「自立」を指図した、と考える信仰の思想を取ります。

もう一つは、人間の心の惑いに入り込んでいる、「心」の根源課題です。
それは「復讐」です。「心」が「存在の善悪」を取り込んだ過程には、見返し報復の要素があるように思われます。
自分の魂がこうむった「存在が悪」とされる苦しみを、それに値する同じ者どもへ与えてやるのです。「心」の抱く「存在の善悪」がどんなに惨い破壊性を帯びたとしても、その魂は既にその苦しみを味わっているのが事実です。
「魂」が本当に復讐を望んでいるのかは、「魂」自身も惑いの中にあります。「魂」は「神」に従うことを望んでいます。しかし神は何も語りません。

人間の思想は、この「魂の復讐を心が果たす」という構図の存在をあまり認識しないまま論じられてきました。
しかし別の言葉で、この問題が人間の心の歴史の中で大きく姿を示し続けていました。
それは「罪と罰」です。「罪」があるところに、「罰」が与えられるべし。しかしその「罰」の「あるべき」形を、神はあまり語りませんでした。

これについてハイブリッドでは、「神に委任された」とでも言うような思想スタンスを取ります。それぞれの動物において、自らを守るために、それぞれの形において使いなさい、と。これは大きく「自立」の摂理の中にあることだとも言えるでしょう。
破壊のためではなく、自らを守るための技術として使うということになります。怒りにおいて使うのではなく、愛において使うことだという、入門編で書いた話になります。


これがごく「信仰思想」的な表現として、もっと具体的に、心理学的にどうゆう姿勢を取ることかを言うことができます。
それが「否定価値の放棄」の、まずは理論的な話になります。それを次に。


心理学本下巻に向けての考察-200:「未知」への意志と信仰-92 / しまの
No.1458 2008/02/04(Mon) 15:20:36

う〜んついに200も突破 -_-;; しかしゴールは近いp(^^)q

■「存在の善悪」の克服vs拡大

「存在の善悪」という感覚が実は「魂」にこそ起源があることを知った時、我々はその後の人間の人生において、「存在の善悪」というジレンマ克服される健全な姿と、逆に拡大し人間の心を破壊し始める姿を、対比として理解することができます。

健全な心の成長においては、この世に生まれた魂が無条件にその存在を喜ばれ自分は「存在が善」であると信じ、何でも望むことができるという幼い全能感の中で生き始めます。

一方、そうして「望み」に向かい、「現実」に向かうことで、幼い空想のまま全能で完璧な人間になることはできない「不完全な現実」を、身をもって体得していくわけです。望むのは自由です。しかしそう容易に叶えられるほど現実は甘いものではありません。喪失に出会うこともあるでしょう。
それでも「望み続ける」ことで、やがて「望むこと」そのものに心を満たす価値があることを感じるようになります。するとそれは「叶えられることを必要とせずに満たされる」ものへと成熟していくのです。ここに「愛と自尊心における自立」という、心の成長と幸福の姿があります。

ここには実は「存在の善悪」はあまり出てきません。この魂は、「存在の悪」というものが自らを脅かすほど身近なものとしては体験せずに成長できた、「幸運な魂」と言えるでしょう。

「存在の善悪」はない代わりに、社会の技術としての善悪はしっかりと学ぶ必要があります。そうでないと自分を危うくするだけです。それでも望むのは自由であり、誰もがそれぞれの望みに向かい、それぞれの全てを尽くせばいい。衝突もあるでしょう。それが良い悪いではなく、現実世界というものがそうゆうものなのです。それでも、誰もが望みに向かい全てを尽くすことで、満たされた人生を得ることができます。「生き方」に問題はありません。


■「存在の善悪」「望む資格」という命題の根付き

人間の社会は、もちろんそうした天真爛漫さを失う方向に傾いている歴史があります。人の心が、自分が守られる環境の外にいる獣のような外敵への恐怖とはちょっと異質な、本来自分を守るはずの世界自身の中に潜む、「存在の善悪」という、冷たい異形の目の脅威を感じながら出生するようになったのです。

そして「心」が、「存在の善悪」を自らの「生き方」へと取り込むのです。
その結果の姿を、およそ3つのカテゴリーで言うことができます。
どのカテゴリーにおいても、「望み」はその純粋な形においては何らかの形で妨げられ始めています。あるものはさらに大きく変形していきます。

1)硬直した善悪姿勢

1つ目のカテゴリーは、硬直した善悪姿勢です。「悪いこと」と感じるものを容赦なく怒り叩く姿が前面に現れます。

これが心理的問題を含んだものであることは、印象としては「この人は人間ではなく善悪を愛している」とでも感じさせる様子になるでしょう。子供に対する親であれば、子供ではなく善悪を愛しているように見えます。
もちろん子供の腕白が過ぎれば、道徳の技術として鬼のような形相で怒って見せる演技をするのも、僕個人としては認めるのにやぶさかではありませんが(^^;)、そうした演技技術ではなく、感情に流され、つまりいつの間にか「キレて」鬼のような形相になっている自分に気づくといったケースにおいては、心理的問題を含んだものと考えるのが正解になるでしょう。

「悪いことを叱る」といった基本的道徳技術については、心理的問題の有無以前に、まず最初にそれが子供の心を育てる方法として極めて下手なものであることの認識が必要であると、ハイブリッドでは考えています。
まだ自分の子供を持った経験のない僕としてはあまり偉そうなことは言えませんが、最も良いのは、感情を使うのではなく、子供自身の頭で納得できるような理屈を教え、具体的な向上へと導き、そして実際の向上を確認してあげることです。
「叱る」というのは、一面においては、親がそうした子供を育てる技術が不足しており、実際のところ子供を矯正する必要がある事態において追い詰められている窮地の現れと言えます。これは「弱さ」であり多少いたし方ない部分もある。

そうした背に腹はかえられない事態「怒り」という最終手段を取るのではなく、「まず怒る必要がある」的な積極的なものになると、「存在の善悪の冷たい目」を相手に向ける攻撃、という性質のものになってきます。
そこで求めているのはもう完全に、「向上」ではなく、まず相手がいかに深刻な感情へと沈んだかを確かめるという話にあるでしょう。だから説教の最中に相手が笑顔を見せることは、不謹慎としてさらなる怒りをくべます。
表面的な演技であろうと、神妙な表情をするとokになります。もともとこれは、「望みの破壊」「喜びの破壊」を目的にしているからです。

相手はそれに値することをしたのですから、それが必要なのです。それを知らしめてあげる必要があります。「存在の善悪」というものがあり、悪を行った者は、一度存在の全てが嫌われることを、教えてあげる必要があるのです。
自分が「善」であるためには。

このカテゴリーでは、「善悪」が単独に前面に現れているだけで、「望みの変形」はあまり表面化していません。心の障害という面ではそれほど問題はないケースになるでしょう。
そうした「善悪」を守る硬さの中で、それなりに人生の望みに向かうことができるケースもあるでしょう。魂が根底で恐れる、「存在が悪」という目の恐怖に触れないよう、「忠誠」を守る範囲で、そして社会のレールを守る範囲で、望むことができているのかも知れません。その一方でどれだけのものが失われているのかは、もはや推して計るのも難しくなります。

2)「存在が善」が「望み」

一方、残りの2つのカテゴリーでは、「望み」が大きく妨げられ、かつ大きく変形しているのが顕著になります。これは表面の意識がどんな一時的上昇下降を取ろうと、根底において根深い自己否定感情が横たわるケースになります。

なお上記最初のカテゴリーでは、基本的には自己肯定があり、心の障害としては問題が少なく、普段の心理状況も、ハイブリッド取り組みをした場合の経緯も、かなり異なる比較的軽いものになるでしょうが、根本問題の構造、そして「否定価値の放棄」この心理学の取り組み目標になるのは、全く同じものになります。

2つ目のカテゴリーは、根深い自己否定感情において、まず「存在が善」となることへの渇望が前面に現れるというケースになります。

「存在が善」になるために必要なものを得ようとする衝動の虜になります。それは美貌才能などの外面でもあるし、愛情表現の豊かさ落ち着き包容力などの性格特徴といった内面でもあるかも知れません。
ここで特徴なのは、そうしたごく健全ともいえる「望み」が、実はそれ自体が望みというよりも、内面の自己否定感情を塗り消し「存在が善」となることによって、その先において自分が幸せになるという「望み」が叶えられるという、屈折した構造になっていることです。

つまり「望み」は真の自らの望みではありません。「存在が善」になるための手段なのです。そして「存在が善」になることでどうなれるかについては、具体的に「自ら望む」ものは見えなくなり、抽象化された「幸せ」が「与えられる」という依存幻想の中に描かれる、という形になります。

これは心の障害傾向の中でも、「2極性」つまり「躁うつ」のタイプの基本構造になります。
人生において、一時的に成功を手にしているケースも少なくありません。しかしその底には、全てが失われる絶望の膿が控えています。
取り組み道のりとしては、しばしば、外面は同じまま、内面において一度ゼロというかマイナスから、まずはほぼ同じ外面の中で「望み」を見出し直す、というのが堅実な方向性になってきます。

3)「存在が悪」への軽蔑攻撃が「望み」

3つ目のカテゴリーでは、もはや自分が積極的に「存在が善」になることへの願望さえ見えなくなり、「存在が悪」であるものを叩き軽蔑できる餌食を見出すことへの衝動が前面に現れます。
この攻撃軽蔑衝動は当然本人にも向かうことになりますので、否定的感情が心をおおいつくす、心の障害傾向の中でも深刻な様相のものとなり、心理医療の場に触れることも多くなってきます。

これが本当に100パーセント近くになってくると、もはやハイブリッド心理学のような自己改善取り組みには目も向けられない状態になってくると思いますので、「自分は完全にこれ」と深刻に考えるのはまず無用です。
根底の問題同じ構造のまま、その上にここで説明した3つの構造が組み合わさるということであり、自分の中で動く感情や思考がまずどのパターンかを自己理解すればいい話です。


取り組む思考や感情のパターンに違いはあっても、根底問題は同じです。
そしてその根本克服の実践も、同じです。
感情と行動の分離」から始まり、「魂感性土台の体験」からは「価値の生み出し」が実践です。そして「否定価値の放棄」が、全ての方において、ハイブリッド心理学の目標です。

ここで述べた問題構造が、どのように「否定価値の放棄」へと転換し得るのか、その理論的側面をまず説明します。そしてそれを踏まえ、より実践意識面での話をということで。


心理学本下巻に向けての考察-199:「未知」への意志と信仰-91 / しまの
No.1457 2008/02/04(Mon) 09:44:29

■実は「魂」が起源の「存在の善悪」

さすがに今度は「否定価値の放棄」への完結が分かってきた感がありますね。
は、僕自身が先のカキコを読み返していて気づいたことです。「存在の善悪」は、実は「魂」が本来抱いたものであることです。
「存在が善」とされた者は、その生み出すもの全てが喜ばれる存在になる..。
それは本来、「魂」の望みであったはずです。

魂は、それを願ってこの世に生まれてきます。そうして自らの存在が善とされ、自分の生み出すもの全てが喜ばれるものである時、それは自分が「望む」ことも喜ばれる、ということです。だから、自らの人生で望みへと向かっていけるわけです。
ところが、そうではない事態が起きた。自らの存在が喜ばれていない。自分が「望む」ことが、喜ばれない。
そうして魂は出生における挫折を抱えました。

重要な鍵があります。この魂が望んだ「存在が善」であることは、どんな条件においてかと言うと、「無条件」であったことです。
それが「魂」の望んだことなのです。無条件において、自らの存在が善とされ、自らが生み出すものを喜ばれる存在でありたかった。そして他の存在も同様に、無条件に喜ばれる存在として生まれ、喜びを分かち合いたかった。
それが自他未分離意識の中に生まれた「魂」の望んだことだったはずです。決して自分だけが良い思いをして他を蹴落とそうとして生まれてきたのではないはずです。
まあこれがハイブリッド「未知への信仰」の考え方だということになります。


■魂における「存在の善悪」への「条件」

一方、そうではなかった挫折の中で、自らの存在を悪だとされたような事態を、魂がその理由として解釈したことがあったようです。
それは「愛の忠誠への阻害」とでも言うものです。具体的に何が悪かったのかとはっきり分かるわけではありません。ただ、この世に生まれ、あるべき「一体化の愛」に反する何かを、自分がしてしまったのです。あるいは、持っていたのです。
そうして一度「一体化の愛」に反する何かを持った自分が、以後、存在が嫌われる存在となった..。
事実これが、「自意識」というものへの「原罪感情」の起源とも言えるものになります。

上記の論理は、以後の「存在の善悪」の底流に流れるものとして観察できます。一度調和を汚した者は、完全な排斥の攻撃対象になるというものです。やがてその論理において、「存在が悪」だったのは親の方だという怒りの論理も生まれる可能性がかなり大きいでしょう。僕自身も一度通った轍^^;

一方、無条件において「存在が善」となり全てを喜ばれる存在でありたかったという願いを「魂の望み」としてはっきり認識することは、「心」が駆り立てられていた「存在の善悪バトル」の感覚に、不思議な変化を与え始めるかも知れません。
「無条件において存在が善」が「魂の望み」であったことを自覚することにおいて、「心」における「存在の善悪衝動」が消え始めるという変化です。これはなぜかと言うと、「心」の側の「存在の善悪衝動」は、無条件ではなく条件を問うものだからです。しかも極めてシビアにです。
まあ実際これが、「魂感性土台の体験」内部メカニズムとでも言える話になるわけです。「無条件の愛への願い」という「魂の感情」が前面に現れ、「人の目イメージ」が消えます。

では「人の目」とは何なのか。実はそれはむしろ「原罪」に関連するものになってくるかも知れません。
これはかなり難解なメカニズム問題です。このあともう少し見えてくるかと。

「無条件に喜ばれる」ことが「魂の望み」であったことを自覚するにつれ、「心」は逆に、それに対して、それは現実ではないことを諭すという方向性も生まれ得ます。
ここに答えへの芽があります。「無条件の愛への願い」が真の願いであったことを認めると同時に、それが現実世界において今求め得るものではないことを、同時に認めることになります。ここに、「魂の世界」「現実の世界」という2つの世界を同時に生き続けるという、ハイブリッドの世界への入り口があります。


■「魂」に「神」は語らない..

一方「神」は、「魂」にとって「心」が「神」を思考するような明瞭イメージではなく、漠然とした、「自らの生の枠」のようなものとしてイメージします。未分離意識を基本とする「魂」は基本的に明瞭イメージは持たず、漠然としたイメージだけを持ちます。またそれに結びついた根源的な感情を持ちます。
「魂」にとって「神」は、自分の生きる方向を指し示すものであり、自らの宇宙であり、自らの主です。

しかし「神」は「魂」に何も語りません。
「神」が何を語るのかを「魂」に伝えるのは、「心」の役目になるのです。

こうして、人間の人生がなぜ幾つかの方向へと分かれるのかの答えが見えてきます。


心理学本下巻に向けての考察-198:「未知」への意志と信仰-90 / しまの
No.1456 2008/02/03(Sun) 15:11:29

■ハイブリッドの「未知への信仰」思想

ハイブリッドの「未知への信仰」は、現代人の心の惑いに対して一つの答えを示そうとする、人間の心についての思想だと言えます。
そこにおける「信仰」の部分は、他の宗教思想精神世界論における信仰が最初から現実論理とは異なる世界を描くのとは好対照に、ハイブリッドにおいてはごく現実科学的な心理学や行動学の思想から始まる中で、連綿とした中に「信仰」の核の部分が姿を現すことに、特徴があると言えるでしょう。

実際話の始まりは、他の動物をも含んだ、「心の成長と幸福」への最も基本的な原理の考え方から始まります。
それは「望み」に向かい全てを尽くし、「現実」へと向かうことの中にあります。そこで「望み」がどう叶うか否かに関わらず、「望みに向かい現実に向かう」過程に心を晒すことが、この個体に「現実を生きる」という強さと豊かさの感覚を与えるよう、心が成長するのです。

この過程はまた、「自立」という全ての生きるものの摂理の中で進められます。庇護を通して望むのではなく、自ら望む過程を通して、「現実を生きる」強さと豊かさの感覚を獲得することが、この個体に「自立した愛と自尊心」の感情を湧き出させるようになり、それが「心の幸福」への堅実な基盤となるのです。

それに対し人間の心の惑いとは、「自ら望む」ことを見失い、「人の目」を通して望むようになる中で、生きることの重みを見失うことにあります。やがて命に匹敵する重みさえ帯びた「人の目」の中で、進む先のない自己へと追い詰められ、最後に残るのはこの「あるべきでない」自分もしくは他人を破壊することへと向かってしまうのです。

これは人間が基本的に人と社会との関係の中で生きる動物である一方で、「空想力」と「自意識」という、人間の脳の高度な発達による諸刃の剣が生み出した、「人間の不完全性」が生み出したでもあります。そこにおいて人間は根本的に「自立」が不完全な動物になったわけです。
その結果人間は、「自らの望み」を知ることが不得手な動物にもなりました。「嫉妬」「貪欲」も、「自らの望み」を知らないまま「人が望むもの」を自分が望むと錯覚したことで生み出されます。

しかしそこにはもう一つ、「魂と心の分離」という、より深い問題が控えています。人間の心は、その出生において、自他未分離の渾然一体の意識の中で望んだ「一体化の愛」が、現代人における愛の喪失および「自意識」によって引き裂かれ、自己の存在が「生からの拒絶」を受けたという、「魂の挫折」を抱えて生き始める。この宿命が、この思想の考え方です。
そこにおいて「心」は、「魂の望み」そして「命の望み」を見失い、逆に、「魂の挫折」への見返し復讐を「人の目の中の生」で果たそうとする、混乱に満ちた人生を歩み始めるのです。


■「心の自立」から「信仰における自立」へ

そうした人間の心の惑いに対して、ハイブリッドが示す答えは、「自立」という摂理の回復の中にあります。

しかし人間において自立が基本的に不完全な存在であることにおいて、それはまず現実社会を生きる上での、ごく合理的思考法行動法における「心の自立」に向かうこととして始められる先に、「弱さを知る強さ」を獲得する中で、「人間の不完全性」を知ることを通して、「信仰における自立」を問うこととして成される、という大きな2段階によるものと考えています。

つまり、まず「心の自立」に向かうことです。「価値の生み出し」がそのための方法論になります。それが、「人の目」に縛られた「望み」から、自らによって自己の「存在の価値」を高める「望み」へと、人生の推進力のギヤを変えてくれます。それが「自ら望む」ことがどうゆうことかを、次第に教えてくれるでしょう。この実践的部分があとでもう少し詳しく説明したいテーマになります。

一方それは不完全です。「価値の生み出し」を知ることで「自ら望む」ことが次第に可能になるとしても、それはやはり「人の目が価値とするもの」という大枠の中にあります。人間と現実の不完全性を前に、「なるべき自分」には完璧に至れない自分や、そうならせてくれない他人や社会への、そして場合によってはそこに含まれる何かの人生の損失への、怒り嘆きに再び心はおおわれるかも知れません。


■「価値の生み出し」の「匿名性」vs「存在の善悪」

そうした状況において大きな心の転換を問う鍵は、「価値の生み出し」の「匿名性」というものにその一つがあります。

「価値の生み出し」は、「誰が価値を生み出すのか」を問わずに、「生み出された価値」を尊び評価するという姿勢を旨とします。そこにおいては、次第に「誰がそれをしたか」の重みが薄れ、「価値を生み出す者」を等しく尊ぶ姿勢への方向性が生まれます。
それはいわば、「匿名性」と言えるものです。もはや「生み出された価値」を尊ぶことにおいて、その出元がAさんであろうとB君であろうと、人間の存在の違いを問いません。つまり、存在の善悪は問わなくなるのです。

「存在の善悪」とはそれとは対照的です。「存在の価値」審判され、「存在が善」とされた者が、その生み出すもの全てが喜ばれる存在になる。「存在が悪」とされた者は、その生み出すもの全てが嫌われる存在になる。

人間が「自ら望む」ことが不得手であり、さらに根底において「魂の望み」「命の望み」を見失ったのは、この「存在の善悪」の「掟」を信奉しているからのように思われる節もあります。もし自分の「存在の価値」がある一定以上に高ければ、自分の生み出すものは喜ばれるだろうから、望むことができるのだと。もしそうでなく、自分の「存在の価値」がある一定以下であれば、「身のほど知らず」と容赦なく叩かれるだろうから、自ら望んだりなどせず、おとなしくしているのが良いのだ、と。
そうして「望める」他人を嫉妬し、やがて世界への憎しみを抱くようになるかも知れません。


■「存在への断罪」への復讐としての「存在への断罪」..

これが2つのレベルで起きているのが、人間の心の業であると、ハイブリッドでは考えるわけです。

一つは「心」のレベルで。まず知性的思考においても、上述のような「存在の善悪」思考に捉われている姿があります。何とか知性思考ではその理不尽さを脱し、分け隔てなく人を見ようとする思考を努力しても、やはり「お前など!」という感情が流れるのを否定できない姿があります。
実際のところ、「あるべき価値」を損なったものがそこにあるのであれば、まずそれを否定することが、とても大切なことのように感じるのです。まず怒りを向けてあげることが、その相手のためでもある。そして、破壊してあげることが、大切なのです。それこそ分け隔てなく。

これと同じ構図が、さらに深い「魂」のレベルで起きています。なぜなら魂はその出生において「生から受けた拒絶」によって、自らの存在が「悪」と審判されたという思いを抱えているからです。そうして、「魂」は命の重みにおいて自ら望むのをやめた沈黙の中へと置き去りにされ、その一方で「心」が「人の目を通した望み」に捉われる中で、再び「存在の善悪」を問う論理が回り始めた。
今度は、魂の深い挫折への復讐を果たそうとするかのように、まず「存在が悪」であるものを叩くことに目を向ける、破壊性を帯びた形でです。


■「未知への信仰」の核へ

まあここでの整理の大半は、今までも何度もした話の繰り返しのようなものでもあります。その都度、「否定価値の放棄」までの話のつながりに僕として満足できる終結感がない内は、抜けていた視点を加え、再び十分に実践性のある精緻さで話のつながりを追ううちに、また迷路に入り問題の全体が見えなくなるという繰り返しで、また「否定価値の放棄」を問う直前までが、ここで考察した内容になります。
まこんな風に理論が熟するのには時間がかかるわけですな。

ここから「否定価値の放棄」までに、まだある間隙を埋めるつながりを考察しましょう。これが果たして最後になるか。そろそろそうでないと僕も困る^^;
「価値の生み出し」においては、「存在の善悪」を問わなくなる。
ただし「価値の生み出し」において目指すことができのは、「自己の存在の価値」を高めることです。そこで再び「存在の善悪」に向き合わされることになる。

そこに「信仰思考」がどう関与するのかですね。


心理学本下巻に向けての考察-197:「未知」への意志と信仰-89 / しまの
No.1455 2008/02/02(Sat) 18:38:29

■信仰思考の第3類型「未知への信仰」

「境界不明瞭な恐怖」という、論理では解決不可能な恐怖を抱える人間の不完全性において、何か絶対的なものに思考を委ね任せることで思い惑いを終結させる人間の思考。
「偶像化信仰」「べきはず信仰」(←「自分の絶対化信仰」よりこっちの方がいいかな^^;)に引き続き最後の、そして第3の、そのような絶対思考の類型を説明します。

それが「未知への信仰」です。

これは2つの側面を持ちます。
一つは、世における「科学と信仰」というテーマにおける「神」を「未知」とする考え方という、一般的な話です。
もう一つは、ハイブリッド独特の、人間の「未知への変化」への志向です。

どちらも、人間の「素の思考」では決して至り得ない、特別な探求の先にあるものです。
同時に、「現実の受容」へと強く結びつくと共に、「神」について極めて明瞭な考え方を取るようになるものです。
この点で、先の2つの類型との対比として、「未知への信仰」は「信仰における自立」のあり方だと、ハイブリッドが考えるものになります。

ハイブリッドの取り組み道のりも、まずは合理的思考における「自立」の探求として始まります。
そして「中期」に入りこれを「価値の生み出し」として現実化すると共に、人間の不完全性を身を持って知ることになります。そこに合理的思考における「自立」の限界が現れ、我々は非論理思考である「信仰」の領域を問う心の下地を得るのです。
そして、「信仰」においても、ハイブリッドは「自立」を志向します。それは神からの独立ではなく、むしろ神がそれを指図したのだと考える姿勢を選択します。これはもちろんもはや現実論理ではなく情緒のみにおいて成立するものです。

これが目指す志向をしっかりと心に描いた時、僕は常にじんと来てしまいます^^;
それは神からの独立ではなく、むしろその中で、「神の国」に還ることなのだと。そう描いてじんと来てしまうのも、やはり人間と現実の不完全性の中で、癒しと救いを求める魂が、僕の、そして人間の心の中に存在し続けるからなのだという気がする次第です。

いずれにせよ、「科学と信仰」の側面と、「人間の未知への変化」の側面を説明していきます。


■「神」を「未知」とする科学思考

まず「未知への信仰」を、ハイブリッド独自の話ではなく、「神」についての一定の思想として位置づけることができます。
それは「神」というものを科学的思考の先で考え、科学では決して解明できないことがあり、それを「神の領域」とする思考を持つ人々の姿勢だと言えます。

科学では解明できない領域「神の領域」とするのですから、もちろん「神」を科学的に表現できる「もの」や「いきもの」のように表現することは、もうここではありません。
「神」を「いきもの」のように描くのは「偶像化信仰」であり、逆に「神は存在しない」と考え、全ての事柄を物質科学の延長で理解できると考えるのは、「神」の積極的否定論と言えるでしょう。
「未知への信仰」では、「神」を否定することなく、そしてもはやそれを何か「知る」ことのできる形として描いたり説明したりしようとすることを放棄し、ただそうした「未知なるもの」への自らの情緒を、解き放つのです。

そうした「神」の「未知への信仰」の態度は、むしろ科学者にしばしば見ることができます。全てが科学で解明できると考える積極的な神の否定論者は、たいていただの「科学かぶれ」でしかないんですね。

最近掲示板でも紹介した、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』に書かれたのも、こうした「未知への信仰」の情緒のように感じます。また引用しますと、以下のような結語。
「結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。」
「私たちは、自然の流れの前にひざまずく以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ。」

この「自然の流れの前にひざまずく」という言葉に、単に「生命は科学では解明できないようです」という認識を述べているのみではなく、そこにある「未知」へと、もはやあれこれと詮索するのではない絶対思考のような形で、心を委ねる感動の情緒が、そこには記述されているわけです。

同じような姿勢を、僕はかつて読んだ、米国アポロ計画の中で月面探査をした科学者の中に認めます。それを読んだ本はもう手元にはありませんが、彼らが宇宙を前にして感じ取ったのは、あまりにも大きな「神々しさ」の感覚であり、「そこには何かが存在する」という感覚のようでした。彼らの多くが、その体験を境に、それまでの唯物論者から敬虔なるクリスチャンに変化したようでした。
そして彼らも、その後の信仰がキリスト教という偶像化信仰ではあったとしても、月面に立った時彼らを打ったのは、目の前のいかなる「物質の形」にも帰するものではなく、それを超えた「未知」のものがあるという、あまりにもありありとした感覚だったわけです。


■余談:「人工生命」は不可能?

科学について興味深く、その限界領域を良く知るごとに、科学を超えたものの存在が明瞭に心に染みてくる。そんな感じがします。

最近では新聞で、米国だったか研究者グループが、細菌レベルの全遺伝子配列人工的合成に成功したと出ていました。「人工生命」が誕生するのは時間の問題かと。電子的シミュレーションではなく、リアル世界において自らの「意志」で自己複製を始める物質というわけです。

僕は個人的には、「人工生命」は不可能だと考えています。どのように遺伝子配列を実際の生命と微細に同じに作れても、同じ条件下に置いても、「人工生命」はなぜか増殖を始めないで、ただの「物質」にとどまるだろうと。
なぜならそこに、「命」の本質である何かが、決定的に欠けているからですね。人間のような高度な動物になれば「意識」「意志」として捉えれる何かが、です。

ただし「人工生命」らしきものが誕生する可能性の全てを否定するものではありません。ある日ある時、人工合成された遺伝子が勝手に自己増殖を開始し、もはやこれは生命だと認定されるかも知れない。
しかし、そうなるものとならないものの違いを、人間は解明できないでしょう。いわば何かの偶然がそこに関与したようなものとしてしか、科学では分からない。
そして一つの情緒的表現だけが、この事態を描写する言葉として形を取ることになります。「神の手が加わった」のだ、と。

まあこの研究の行き先が僕の生きている間にどうなるか、関心を持っていたい次第です。


■まずは非合理な「神だのみ」と「選民感覚」のチェックから

ただしまあ、ハイブリッドにおける「否定価値の放棄」のための「未知への信仰」のために、そうした生命科学や量子力学について勉強して下さいとは、僕としてもよー言えんわけで^^;

ハイブリッドの「未知への信仰」として重要なのは、まずは非合理的な、「神にお願いする」的な思考をまず脱することです。現実において何か課題や願い事があるのであれば、その解決のための現実的で合理的思考に徹し、まずその面での向上を生涯続けるという姿勢を、問うて頂ければ。
そうでなしの偶像化信仰では、「人間の不完全性」以前の「可能性」の中においても、向上を放棄してしまうことと、さらには現実を受け入れないこととで、ハイブリッドとは2重の方向違いになります。

そしてもう一つは、「選民感覚」的な、隠された傲慢な形での「神の次元の思考」が、知性思考レベルまで浸潤していないかを確認していくことです。こんな人間に愛される資格生きていく資格なんてない、的な思考ですね。
そうした感情が流れることについては、「正す」のではなく、「感情と行動の分離」によって、外面においては健康な原理原則的思考を築いていくことです。

そうしてまず「現実問題」については、「偶像化信仰」や「べきはず信仰」に頼らない、合理的な見識やスキルを向上させていく。それは必ず、「人間の不完全性」「科学の限界」といったことを考える下地にもなると思います。

そして、そうした思考法の側面に加えて、思考法を変えて生きる過程が、人を変えていきます。可能性の中で合理的な向上への努力をすることと、可能性を超えた限界に際し何に目を向けるかという深い思考が可能になってくる。
そこに「神」というものをどう考えるかということが出てくるでしょうし、何に目を向けることで何が生まれるかというものも見えてくる。

この辺は「中期」段階のスタートから、またそれなりの積み重ね期間が必要になってくるところでもあると思います。話は次第に、今「選択」を問えることから、将来「選択」が見える時が訪れるであろうことを先回りして説明する感じになってくるかも知れません。

「未知への信仰」のもう一つの側面である、ハイブリッド特有の「未知への変化」の志向という側面は、そうした「不完全性」の先にあるもの極めて大きな価値として、「変化」の内容についても、「神」の位置づけについても、明確な思想となるものです。
その側面を次に説明します。


心理学本下巻に向けての考察-196:「未知」への意志と信仰-88 / しまの
No.1454 2008/02/02(Sat) 13:57:29

■「自分の絶対化信仰」である「べき」「はず」の絶対思考

そろそろラストスパートせねばということで、「信仰思考」の類型の話を手短に済ませましょう。

まずハイブリッドにおいて「信仰思考」とは、「境界不明瞭な恐怖」という、論理では解決不可能な恐怖を抱える人間の不完全性において、何か絶対的なものに思考を委ね任せることで、それ以上の思い惑いを終結させようとする人間の姿勢として定義します。

これが各種おまじない祈祷といった、自分の外部に非論理的何か絶対的なものを描いてそれにすがるというのが、ハイブリッドで言う「信仰思考」第1類型である「偶像化信仰」になります。
まあ世に言う「信仰」とは、これを指すものと言えるでしょう。

次に、「べき」「はず」という絶対思考が、ハイブリッドで言う「信仰思考」第2類型である「自分の絶対化信仰」になります。

先に述べたように、合理的知性において論理的に考える「べき」「はず」思考はそこからは除きます。実際のところ、合理的知性で考える「べき」「はず」は、絶対論理ではなく相対論理になります。もし年金という「権利」が欲しいのならば年金保険という「義務」を払う「べき」である。もし人と車が完璧に交通ルールを守れば、事故には遭わない「はず」である。
それが絶対思考では、自分が交通ルールを守っていれば、事故には遭わない「はず」だ、というような思考法になってきます。どんなに自分が完璧に交通ルールを守っても、相手が悪ければ事故に遭うんですけど^^; するとそんなことは「あるべきではない」と言うことになる。現実にはそれがあるわけで^^;

人間関係社会行動で、この絶対的な「べき」「はず」を抱えながら、その通りではない「現実」を前に怒り、神経を消耗していくのが、現代人の心の惑いと言ってほぼ間違いない話になるでしょう。
自分がこうしたのだから、人はこうする「べき」だ。自分はこう扱われる「はず」だ。自分が思いやりをしたのだから、相手は自分に暖かい好意を返す「はず」であり、またそうである「べき」だ。


■「信仰思考」で問われる「現実の受容」と「神の観念」

上述の最後に載せた思考例も、「自分がこうしたのだから」という風に、一応は相対的条件付の論理ではあります。
しかしさらにその中に、どのような絶対思考が含まれているか、そして「現実」は必ずしもそうではないことを認識し、それに対して自分はどのように考え対処すればいいかと考えていくのが、合理的知性の役割になるわけです。

自分で良いと思える仕事の仕方をしたとしても、それが自分の役割に求められるものと違っていれば、「自分はこう扱われるはずだ」と描いた高い処遇を受けることは、できません。自分が思いやりを示したとしても、それが相手にとって本当に役に立つことなのかどうかは、別の問題になります。
そうして自分や相手や社会のことをより正確に理解し、より細かい論理において合理的に通用する「べき」「はず」の知識を増やしていく。これが「見識」と呼ばれるスキルになります。
そうした合理的「べき」「はず」の「見識」を携えて、対人行動や社会行動をよりうまくできるようになっていくのが、社会行動スキルになります。

しかし絶対的な「べき」「はず」「自分の絶対化信仰」に位置づけられる本質は、そのような合理的思考の洗練から残された「残りの部分」を問うているのではありません。
本質は、期待した空想通りではない「現実」をどう受け入れるかの姿勢、そしてそこにどうしても関与してくる「神のような存在」という観念が関わってくる部分において、絶対的な「べき」「はず」を「自分の絶対化信仰」と位置づけるのです。


「自分の絶対化信仰」における絶対的「べき」「はず」思考とは、その通りにはならない「現実」を受け入れることができないという思考であり、受け入れることができないという心の状態のことを、ここでは問題にしています。
「現実」を受け入れるができないとは、「べき」「はず」通りではない「現実」を前にして、心が怒り嘆きに向かうしかないということです。

この「現実の非受容」が、「偶像化信仰」同じ次元の「信仰思考」であることの、一つの側面になります。


■「神の否定」信仰思考

「神の観念」はどう関連するのか。
人が絶対的な「べき」「はず」の思考の中で現実を受け入れることができないことと、「神」の話は、一見すると関係がないように見えます。

しかしハイブリッドは、そこに2つの、「神の観念」との関係を見ます。

一つは、ハイブリッドが「神の観念」を、不完全な存在である人間にとって本能の観念であると認識することにおいて、「神」について自分なりの何らかの結論を出せないまま、「神」を否定する思考をした時、人は実は自らの本能的な「神の観念」に、不遜とも言える敵対的姿勢を取っていることになる、と考えています。 その中で現実を受け入れることのない「べき」「はず」とは、自分が神だという感覚なのだと。
これは信仰思考の第3類型である「未知への信仰」を説明すると、よりはっきりしてくると思います。
また1/25カキコで一度第2類型「神の否定信仰」と言ったのは、このためです。

そして事実、そうした現実を受け入れることのできない「べき」「はず」思考が強く現れる所には、表面的にはつながりのないまま、不思議と同じような強さで、「神の次元」に関連する概念が出てきます。これが2つめの側面です。

それは「選民感覚」とでも言うべきものです。人が「存在」においてふるいにかけられるという観念です。「生まれながらにしての勝者」といった観念もあります。
これは本来「神」の次元にあります。それを、「神」を肯定する人否定する人も、現実を受け入れることのできない「べき」「はず」思考を強く持つ人ほど、この「人が存在においてふるいにかけられる」という観念の持ち主であるというのが、僕が今まで生きて人間を観察した中で感じる印象です。

ですから、実はこの「偶像化信仰」「自分の絶対化信仰」は、同じ一人の人間において、良く入れ替わります。
自分の弱さと恐れの感覚が強調された時、「偶像化信仰」になるでしょう。
しかし思い通りにならない現実へのフラストレーションの攻撃感情に流れた時、「べき」「はず」という怒りにおおわれるわけです。その時、同じ人間の心の中で「神」は消えています。その直前まで敬虔な神の信者であった人においても、です。

奇妙な形で、「神」の観念の下にあること。「現実」を受け入れることができないこと。人が「存在」において善悪や価値のふるいにかけられるという観念。
これは「偶像化信仰」「自分の絶対化信仰」が、「存在の善悪」においてこの世界の中で何ものかであれるという、同じ「依存性」の次元にあることを示しています。

しかしそれがやがて、人の心を破壊していくのです。
このメカニズムとそこからの抜け出し解放への道のりを詳しく見る前に、「信仰思考」第3類型「未知への信仰」を説明します。


inserted by FC2 system