11章 人生への実践−2 −心の罠への懐の石−
「A子さん」の実践の続き。行動学と価値観の取り組みにおける、「人間の心の罠」への理解と対処の側面を主に取り上げまず。 ■実践項目■ 「心の罠」の主なパターンを知り、対処のための心理学の知恵を学ぶ ・「自己受容の罠」・・・ 「自分を受け入れなければ」とじっと自分に見入るだけで現実向上を見失う。客観的な「現実向上課題」と、別人を演じようとした内面への向き合いを、全く別のこととして取り組む。 ・「愛の罠」・・・「自分をなくした」形で「思いやり」「共感」を考えると、愛と自尊心の双方を見失う結果になりがち。行動において「愛を条件に」することなく、互いが別人格であることを認める「心の自立」の中で愛を考える方向性が大切。 ・「愛と自尊心の分離」・・・心の罠に巻き込まれない姿勢。内面で愛の問題と自尊心の問題を分けてから人に接する。 ・「性格への悩み」への視点分析・・・土台・これからの向上・価値観・自己意識 「感覚」の歪みへの補正・・・ 「感情と行動の分離」の基本の感覚イメージ編。イメージから連鎖的に起きた懸念は全て「現実問題」ではない。 ■実例■ A子さん ・・・ 外面への建設的行動法の方向性が見えたことで、残された内面の問題への向き合いへ進む。 |
A子さんの取り組みを引き続き紹介しましょう。
「怒り」の根本的無駄を素直に納得し、はっきりと穂先をプラス行動へと定め、「誉める」ことを題材として「愛」と「自尊心」のための行動学を試みる中で、「少し目線がまっすぐになった」と感じるような「心の自立視界」への気づきも訪れます。
あくまでごく断片的な題材を取り上げての最初の一巡ではありますが、これでハイブリッド心理学の歩みの前進のための車輪が、思考法行動法から行動学と価値観さらに土台意識まで揃ったことになります。
A子さんの前進がどう強く変化するだろうかと、私は次のメールを待ちました。
しかしそれは少しトーンが異なり、静かに自分の内面へ、そして来歴の記憶へと向き合おうとするものでした。
いくら心の障害傾向としては軽いケースだとは言っても、ただ前進を説くだけでは活力が回復し得ないのが、人間の心というものなのでしょう。A子さん自身が取り組み開始にあたり関心を抱いていた、幼少期の問題も実はまだほとんど手をつけていません。前進への方向性が明瞭になればなるほど、妨げているものが良く見えてくるという面もあります。
そこには、「人間の心の罠」とでもいうべきものがあります。どんなに健康な心の持ち主でも、現代社会に生まれて、その罠に全く落ちないままでいることは極めて至難の技と言えるでしょう。
そうした、現代人誰もが知恵として懐に携えたい、「人間の心の罠」への理解と対処についてこの章で説明します。
これもやはり「価値観」の取り組み領域になります。ハイブリッド心理学による人間の心の罠への理解とは、「心理学的人間観」に他なりません。またそれに基づいて、行動学の応用編が出てくることになります。
A子さんはもちろんまだその心の罠に気づいていません。その理解を深め、この人間の業とも言える落とし穴から抜け出た時、A子さんは同時に、ハイブリッド心理学のひとまずの習得ゴールと位置づけられる、「否定価値の放棄」の扉を開くことになります。
土曜に届いたメールは、「自分についた嘘」という、この頃掲示板で解説した心理メカニズムについての質問です。A子さんにとってそれは、自分を受け入れることができなかった自分の記憶でもありました。
そこに、人間の心の最初の罠が潜んでいます。
== A子さんから 2004.4.7(土)「自らについた嘘」について ==
「自らについた嘘」ということについてちょっと質問したいのですが、
例えば、私の場合、小学校の時通知表に「消極的なのでもっと積極的になってください」「分かっているのに手をあげていません、もっと意欲的に」と書かれ、一人傷ついていました。
「積極的でないと先生に受け入れてもらえない」と。
「そうできる子がうらやましい。器用でもないし、運動神経のよくないしな〜」
なんて落ち込んでいました。「人気者の子はいいなあ、先生にもほめてもらえるし友達といっぱいいる」友達からもおとなしいとか言われ「暗いと思われたらいやだ」と自分なりに明るく振舞ったり嫌われないようになるべく友達の意見を尊重しようと思っていました。
もし友達が「暑いね〜」といえば「そうだね〜暑いね〜」なんて例え寒いと思っていてもいいませんでした。
私のプライドの中で「暗いとか消極的とか言われると恥しい」というコンプレックスがあり、いまでも社交的な人を羨ましく思いそうできない自分をせめたりしています。
こういう中で「自分についた嘘」というのはどういうことになりますか?
消極的な自分を受け入れられないということが問題だと思うのですが。
「自分自身についた嘘」とは、8章で説明した「自己操縦」の中で起きることです。
「自己操縦」とは、自己否定を塗り消すために描いた「こんな自分」に成り切るための「感情の演技強制」を、感情の演技強制をしていること自体を否定する圧力の中で行うという、病んだ心の原型となる複雑な心理メカニズムです。
この、「感情の演技強制をしていること自体を否定する」ために、自分自身に嘘をつくということが起きるのです。この錯綜した感情の歯車を自己把握することが、それを解いていく治癒につながります。
それは例えばこんな風に起きます。
「普通の人間」を演じるために、この自分を見失うようなオドオドした感情は抹殺し、平静な自分を演じなければならない。そうして自分に「平静な感情」を強制するのですが、「感情の強制がうまくできた」と感じても駄目なのです。それでは「普通の人間」に成り切れていない。
自分が感情の演技強制をしていること自体を否認するための、「自分への嘘」が、演技すべき感情を先取りするかのように成されます。自分は他人のことなんて何にも気にしていない。自己操縦を完成させるために「イメージ」と「自己暗示」が使われるのです。
他人なんていない一人の部屋にいるだけのような自分。それが現実だ。自分は人に関心など持っていない。これでいいんだ。
そうして、「平静な感情」への「自己操縦」が成功すると同時に、この人は心を病んでいきます。
克服への道は、「自己操縦」が始まった時の心の原点に還ることにあります。
自分を偽って別人を演じざるを得なかった苦境を認め、そこで自分が願ったものを見据えると同時に、自分に嘘をついてそれを得ることはできない事実を、ありのままに味わうことです。その時、「自分についた嘘」は痛みの中で消えていくと同時に、人の心に大きな成長が成されます。
別人を演じざるを得なかった苦境とは、「生から受けた拒絶」です。願ったものとは、「愛」であり、ありのままの自分で伸び伸びと生きていくことです。
それが「あるべきもの」だったのです。しかし、自分の生において、何かがそれを損なった。そんなことはあるべきではなかったのに。
そうして「あるべきではなかった現実」を否定し、「本当はこれがあるべき姿なのだ」という想念を掲げ、あるべき姿に向う自分が愛されるべきだと考えた時、全てが崩壊していく道への歩みが始まります。
なぜならそれがまさに「ありのままの自分」を自ら否定した者という、誰よりもこの人自身にとって許されざる姿だからです。そして事実人間は嘘を含むものを愛せないからです。
結末はこうです。「あるべき姿」に向う愛されるべき自分とは、ありのままの自分を自ら否定した愛されざるべき存在なのです!
パラドックスです。病んだ心とは、根本的にパラドックスによって構成されています。だから、治癒解決もパラドックス的な過程を経るのです。
2つの道があります。
ひとつの道は、全てをありのままに受け入れ、否定糾弾することを放棄し、ただ見据えることです。そして心の自然治癒力に委ねることです。するとパラドックスがはじけ、「無の空間」のようなものが心に現れます。そこに「未知」が芽を出し、心に治癒と成長が起きます。
もうひとつの道は、「自分についた嘘」を悪しきものとして否定糾弾し、「これをなんとかしなければ」と意識努力で画策してかき消そうとすることです。そうやって「あるべきでないもの」を否定する、愛されるべき自分とは、自分に嘘をついた、愛されざるべき存在だというパラドックスのメビウスの輪に再び戻って行きます。心を病む度合いがまた一つ深まります。
あるのはこの2つの道だけです。
これは病んだ心の根本治癒メカニズムの原型を直感的に描写したものです。より理論的な解説を、このあとさまざまな場所で行なっていきましょう。
A子さんの質問に戻るならば、
消極的な自分を受け入れられないということが問題だと思うのですが。
これは違います。「自分を受け入れらないことが問題だと思う」ことが、問題なのです。
これは心の罠です。確かにそれは何かの問題の認識にはなっているのですが、何の解決をもたらすものでもなく、逆に問題の繰り返しへと向う意識になってしまっています。
考えるべきことは2つあります。他人との関係、そして自分自身との関係においてという、全く別の視点が必要になります。
他人との関係においては、そこに何かの向上課題があるのであれば、向上への方法を学び、実践への努力をすることです。
ここで「向上課題」をどう捉えるかが重要です。「自分なりに明るく振舞う」こと自体は大いに結構です。それを、人に無用な心配をかけないために明るく振舞うという行動法課題と、「明るい性格の人」に見られたいという内面衝動を、しっかりと切り分けることです。前者が「他人との関係」という外面の現実向上課題であり、後者は「感情と行動の分離」のふるいにかけ、内面取り組みの方に回すのが正解です。他人との関係の問題ではなく、自分自身との関係の問題になってきます。
「感情と行動の分離」によって、外面の現実向上課題を捉えることが大切です。それについては多少の演技が含まれてきてしまうことを受け入れ、あくまで外面問題として向上できることが大切です。
「暗いと思われたら嫌だ」と感じたことにおける、「自分を受け入れられなかった自分」という自分自身との関係の問題については、「それがいけなかった」という否定を向けた瞬間、これも振り出しに戻り、全てが同じことの繰り返しになります。自分に嘘をつかざるを得なかった心の原点に還り、そこで自分が願ったものと、それ得られなかった苦境を、自分自身で受けとめることが、心の治癒と成長への道です。
こうした心の罠にしっかりと注意を払う、のが必ずしも実践ではありません。パラドックスです。
人間の心の罠について、人間の心自身によってできるのは、それをただ知ることだけなのです。心の罠を「どうにかしなければ」と意識努力を始めた瞬間に、まんまと意識の全体が心の罠にはまる。そんなものであるから、「心の罠」と呼んでいます。
積極的に実践すべきものとはあくまで、心の罠に惑うことなく働き続ける、心の自然治癒力と自然成長力を支えるための、建設的な生き方への前進力を促し育てることなのです。
ですから、私はこの土曜のA子さんからのメールについては、「う〜ん・・」と少し考え込みました。何を言ってあげられるか。「心の罠」について指摘することが得てして、「これがいけない」と自分の内面にじっと見入る、「心の罠」にはまる結果になりがちです。
心理学をちょっとかじった人に、これが実にありがちです。「自分を受け入れなければ」とじっと自分の心に見入って、自分を受け入れることができなくなってしまうのです。
「心の罠」について考えるのであれば、同時に何か前進への題材を持った中でが望ましい。
一方、月曜に届いたメールの方は、再び外面行動に焦点が戻っていました。
うまく行っていないようです。明らかに心の罠に落ちているのが原因です。
今度の心の罠は、「自己受容の心の罠」に比べて、心理メカニズムが複雑になる一方、解法としてはかなり明確な前進指針が出てきます。
「愛の罠」です。
前回のメールでテニスやスキーを教える例がとても参考になりました。
子供をこれ以上苦しめたくない。「早くなんとかしなければ。」という焦りがあるのですが、なかなか上手くいきません。まず、基礎から入ってゆっくり学ぶということが大切ですよね。
週末も土曜日は「破壊」に走っていました。カゼと母の引越し手伝いで体が疲れていました。
息子が「さちこが〜をどろぼうした」といってきておもわず「うちにどろぼうなんているの?」
いろいろ言い合いになり「いつも俺ばかりせめるんだから!!」その夜、深く反省しました。
=明日は1つでも多くプラス言葉や誉めることをがんばろうっと!=
日曜日、私も一緒にボールなげをしていると、また相手が悪いと言い合いになってきました。またマイナス語がでそうなところちょっとおさえ「ね〜どうすれば楽しくできるなな〜」「ど〜したらいいと思う」とすこし余裕もでてきました。
A子さんが「愛の罠」に落ちていたことを示す、最も典型的な言葉が、「子供をこれ以上苦しめたくない」でした。
これは明らかに「思いやり」のある優しい姿なのですが、こうした「優しさ」が示される構図の全体が、実は破壊的な姿になるケースがあります。相手を積極的に低い位置に落とした上で、思いやりを示すという構図。
これがあからさまな幼児虐待の中で行なわれたものが、「代理ミュンヒハウゼン症候群」として心理学の歴史で有名です。難病に苦しむ子供への、気高い献身的看護の姿を見せていた母親が、実は子供に毒を盛っていたという事件から、この異常心理の名前がつけられました。「良い母親の鏡」という賞賛を得たいという願望が、この異常な行動の動機だったのです。
もちろんA子さんの場合、子供に対する攻撃性などというものは、外面的にも内面的にも全く認めるにはおよびません。しかし、相手が別個の人格を持ち、自ら成長する能力のある存在であることを否定した意識の中で、「思いやり」を価値あるものと感じる感情とは、根底にある人間心理の歯車は全く同じものになってくるのです。
この人間心理を背景にして、罪のない親と子の間に、爆発的とも言える怒りのやり取りが成されるのをしばしば目にします。自らの成長力を具現化させたい子の心にとって、あまりにも子を低い位置へと置いた上で親が向ける「暖かい思いやり」が、事実子の魂の圧殺とも言えるものになります。殺されることを望まない魂は、同じ攻撃を相手に向ける「殺意」へと転じる可能性さえあります。
これが親の側では、ただ健気に良かれと思うことを行なう一心で、実際にするのは「とにかくお前は駄目なんだよ」と相手の心を追い詰めるだけの行動とくるのですから、実に悲劇と言える人間の心の罠です。
まずはともかく、「思いやり」行動が、「相手への悲観的な感情を押しつける行動」というものになってはいけないという心がけから始めることを、緊急措置としてはアドバイスすることができます。相手に悟らせるべき悲観的状況がもし実際にあるのであれば、客観的可能性の一つとして淡々に伝えるのがまずいい方法です。それをどう悲観的に感じるか、それとも本人自身が突破する意欲によりあえて楽観的に感じるかは、本人に任せればいいのです。十分に回復可能な失敗の中で学ぶことも大切です。
これはあくまで人間心理についての一般教養講座です。心の治癒と成長への取り組み実践においては、「自分は代理ミュンヒハウゼン症候群ではないか?」などと自分の心に見入ることは全く無用です。
大切なのは、私たちが陥りやすい心の罠を正しく知り、それに惑わされることのない明確な行動原則によって自分を築くことです。それが「自己確立」いうものです。
ハイブリッド心理学が採用する2種類の行動学は、あらゆる人間の心の罠と無縁です。
「愛」のためには、「共通目標共通利益のみに着目」する「建設的対人行動法」を。
「自尊心」のためには、相手の評価は取り上げずに「原理原則」のみを取り上げる「原理原則立脚型行動法」を。この姿勢を自分自身に対しても向けることが、まず「自己受容の罠」を抜け出すための強力な推進力になるでしょう。
「建設的対人行動法」において「共通目標共通利益のみに着目する」という時、それは「分かり合える」こと、「心が重なる」ことを、「愛」のゴールとしては追わない、ということを意味します。
もちろん分かり合えることの価値を否定したり、背を向けることを言っているのではありません。だから共通するもの共有できるものには積極的に目を向けましょうと言っています。
問題は、共通するもの共有できるものが見出せなかった場合、さらに対立するものを互いの間に見た場合です。「建設的対人行動法」では、その時は、何もしません。不一致を問題視ししたり、一方が犠牲になるような形で他方に合わせたりする必要はない。それでも一貫として守られ、育まれるものとして、「愛」を考えています。
そして事実人間とは多様な存在であり、人間の心のDNAにおいては、互いの違いを認めることの中にも「愛」は働くものと考えています。
「分かり合える」「心が重なる」ことを「愛」のゴール目標だと考えた時、互いの相違に出会った時、「怒り」が起きてきます。自分が目標としたものを妨げられたと感じるからです。
そしてまさにその「怒り」が、「愛」を壊すのです!
これが「愛の罠」です。
心理学的には、「愛の罠」には2層の構造があることを言うことができます。
一つの層は、心の表面に見えます。それは「怒りに変わる愛」です。
「愛がこうあるべきだ」という理想が、高潔な精神として掲げられるほどに、それは「楽しみと喜びの共有」という天真爛漫で素朴な愛から離れ、まるで怒りを伴う感情であるかのような変形を帯びてきます。事実それはもう愛とはもう別の何かであるかのようです。
これは「愛」として心に抱いた事柄が、外側に出る瞬間に「自尊心」の問題に化けるという心理メカニズムとして、『理論編上巻』7章「自尊心」の混乱と喪失−2でも解説しました。「愛されること」を自尊心の材料と位置づけた心において必然となるメカニズムです。
この深層には、「利己的な愛」という、愛の罠の根深い構造があります。
「愛」に「あるべき姿」があり、それを理解する者、それに向う努力をする者、それを実現した者ほど、「愛される資格」があるという善悪感覚の中で愛が抱かれるほどに、この意識の根元に見えるのは、自分こそが誰よりも愛されるべきだという、「愛」とはおよそ正反対とも言える、利己的で傲慢な自己中心性の衝動です。
本人はそれに気づきません。否、心の底で気づいたからこそ、それを塗り消すような完全完璧な愛のイメージを描き、意識の表面をそれに向けて駆り立て始めた来歴があるでしょう。
そうして「自己操縦」に向った時、問題の全体、そして意識の全体が変形しています。
この人の性格は確かにもう利己的でも自己中心的でもなくなっているのですが、それはまるで、この世に浮遊する「利己性」「自己中心性」への容赦ない怒りを抱くことによってであるかのような姿です。
「利己性」「自己中心性」そして「傲慢」の切れ端のようなものを世界の片隅に見るや、彼彼女は激しい糾弾を向けます。一方で、自分に向けられる可能性のある同じ非難へは、すかさす反撃するための身構えの中で生きているかのようです。
それでもやはり彼彼女の内部の問題が全く未解決のままでいることは、絶え間なく流れる、自分の人間性に関する、もはや理由のはっきりしないコンプレックス感に漏れ出ます。そこから逃れようと、彼彼女はさらに「愛のあるべき姿」への「理解」と「習得」へと自分を駆り立て、完全完璧な愛のイメージに満たない自分を責め、苦しみ続けるのです。
心の罠の歯車は、そこで終わりません。そうして感じるようになった「苦しみ」が、この人間の高貴さの証であるように、逆手に取られます。
「苦しみを分かり合える」ことが、「愛」になります。苦しみを理解しない他人へ怒りを抱き、同時にそんな自分に対して、もはや理由の分らなくなった罪悪感を抱きます。「思いやり」のために、相手が苦しんでいるという想像にすぐ走る傾向が生まれてきます。まるで「ぜひ一緒に苦しみましょう」さらには「苦しみ方が足りない!」とでも言うように。
こうして、遠くつながる連綿とした歯車によって、延々と続く、出口のないメビウスの輪が完成します。
これはあくまで心を病むメカニズムの描写であり、それを理解することと、解決することとは全く別の話であることを、ここでも指摘することができます。
心理メカニズムを理解することは、それはそれで「自己不明の解消」という治癒の一側面につながるものであり、特に深刻な心の障害傾向への取り組みにおいて有効です。ただしそれはあくまで「問題の軽減」段階です。
解決への答えは全く別の話であり、そして極めて単純明瞭です。建設的な生き方を学んで実践することです。それが心の底に定着するごとに、人間性をめぐる全ての問題は解決に向います。
他者の苦難への思いやりや真の心の交流を望むのであれば、まず自らが自分の苦難の克服を目指し、生きることの楽しみと喜びを見出すことが、他者への最善の行動を自ずと教えてくれます。「まず隗より始めよ」ですね。
問題は、これらを良しとはしない「価値観」が心の根深くにまで残り続けるケースになるでしょう。
事実、ハイブリッド心理学の取り組み実践においては、こうした「愛の罠」そして「自己受容の罠」を、主に建設的思考法行動法と価値観といった比較的外面向けの取り組みを主体にして抜け出すことができるのが、心の障害傾向としては軽いケースだと一般的に言えます。
一方、心の障害傾向として深刻なケースは、まさにこうした心の罠に強固に固執した心を解きほぐし、この人間の心の業とも言えるもの、そして人間存在の本質に向き合い、未知なる「愛の成長」へ向う、新たな人生の歩みの再出発を果す姿になります。
では、行動法によって操縦するものではないとして、内面側におさめられた「愛」とは、どのように豊かなものへと向上させることができるのか。
「未知なる愛の成長」とは何か。
ハイブリッド心理学における行動学が「感情の操縦法」ではないことについて説明した前章の話を思い返して頂くのがいいでしょう。
こう行動すると愛や自尊心の気分を感じられるという、小手先の「気持ちの持ちよう」ではなく、建設的に生きる過程が導く「心の成長」が、湧き出る感情をより良く豊かで力強いものにしていきます。
「愛」がどうあるべきか、そして行動をどうすればいいのかという膨大な議論の根元が、実は「愛」の感情をどう操縦できるかの議論になっているのを確認できるでしょう。
根本的に違います。ハイブリッド心理学では、そうした「感情の操縦」をまずやめていく方向、内面感情はいったん問わずに外面で心の成長へつながる行動法、内面感情そのものについては、心の成長に任せ、「心を解き放つ」ことだけに委ねる方向を言っています。
そして、心の根本的な成長変化を目指すのであれば、「今の心」が感じる気分や感情で考えてしまっては、元も子もありません。だから「感情と行動の分離」という大原則から始めています。「未知」への成長を前提に考えることが大切です。
この点を踏まえない限り、「愛」について、日常生活の中で人々の間で交わされるもの、研究組織や学会などで論じられるもの、ネット上で飛び交う膨大な議論など、その全てが、そして生涯にわたって延々と繰り返す思考のことごとくが、不毛になるように思われます。
「愛の感情の操縦法」を超えて「愛」をより豊かなものにするものとは、『理論編下巻』の終章で「人生の答えへの鍵」として説明した、「望み続ける」ことによる「望みの成熟」です。
つまり、「愛への願い」を追い続けることです。そして「愛への望み」に向い続けることです。「未知なる愛の成長」がその先に現れます。
外面においては「共通目標共通利益のみに着目する」という行動法によって、「愛」の感情が心の罠によって破壊されることから守り、内面においては「望み」に向い続ける。これが8章で「心を解き放った後の積極的方向づけ」として話したものです。
間違いなく全ての方において、そのための前提課題となるのが、そのように「望みに向う」ことを来歴の中で「停止」するに至らしめた、「価値観」の根本変革です。それが9章で概説したものです。
その先にあるのは、外面における共通目標共通利益としての「愛」と、内面において望み続けるものとしての「愛」が、「現実世界」と「魂の世界」という全く異なる様相の中で、交わることのないままに深さを増していく、「ハイブリッドの世界」です。
ここに「愛」の真の豊かさの目標ゴールがあります。これは間違いなく、私たち人間の「素の思考」でどう考えても想像もつかないものであり、実際に至って初めて知るものになります。この詳しい描写説明を4部で行ないます。
A子さんに対しては、子育てに向う姿勢について、引き続き「愛」と「自尊心」への行動学の説明を、心の罠への配慮を加えた形で送りました。
「自ら成長する別個の人格」として子供に接すること。「ど〜したらいいと思う」というA子さんの言葉が、「子供自身に考えさせる」ものとして、実は「誉める」のよりもさらに良い方法になっていますと。
つまりここでは、もはや「成長する喜びの共有」としての「愛」さえも手放して、子供が別個の人格である事実を優先させると言える行動法です。
これが最も子供を成長に向わせます。そこに「愛」があります。パラドックスです。
これは別の表現をするならば、「愛」を条件にしない行動法です。「愛があれば」という考え方で行動しない。
行動において、「愛」をちらつかせない。「愛」を守るためにです。人間の心の罠から。
・・(略)・・
>明日は1つでも多くプラス言葉や誉めることをがんばろうっと!
ぜひ^^。それはA子さん自身の心の成長への実践になると思います。
一方、子供さんに対しては、実は「誉める」よりも上述の「ど〜したらいいと思う」の方がさらに優れた対応方法かも知れません。「子供自身に考えさせる」ことが、何よりも子供自身の心の成長につながるからです。
・・(略)・・
ハイブリッドでは、子供の心の成長課題は子供自身の「自尊心」だと考えています。子供への愛情は、それを支援する材料の一つに過ぎないと。
弱い存在であり、親の庇護と愛情を必要とする一方で、3、4歳頃の初歩的な自我が芽生えた頃からすでに、子供は自分自身で考えて行動していくことを、自尊心の成長のための言わば心の宿題として持ち始めるのだと思います。
「自らによる心の成長」を、ハイブリッドでは心の幸福への方法と位置付けているのですが、自分のためにそれを選択すると同時に、人においてもそれが起きるであろうことを尊重するという姿勢ですね。
それは相手が子供であっても、同じです。
キーポイントを簡潔にお伝えしておきますと、子供への大人の姿勢として2つのことを言えると思います。
一つは、ハイブリッドでは「対人行動法」として一種類だけを推奨しています。「建設的対人行動法」で、「共通目標共通利益のみに着目する」です。
これは相手が仕事での相手であろうと、家族であろうと恋人であろうと、そして子供であろうと、やはりそうです。
「分かり合える」「心が通じ合う」「心が重なる」ことを重視するのではなく、です。
相手が唯一無二の存在として、「自ら成長する別個の人格」であることを尊重するからです。
自分の感情を相手に押し付けないと同時に、相手の気持ちに合わせるために自分を殺すこともしません。行動においては、あくまで互いに別の個人であることをわきまえる。
これは「分かり合える」「心が重なる」ことを「愛」と考える考え方からすると、何か少し物足りない感じのする話かも知れません。
しかし、そうではない、もう一つの視点をハイブリッドでは持っています。
上述のような「建設的対人行動法」は、「愛があれば」という考え方をしない行動法です。互いが別の人間であることを認めることの上に成り立つ思考法行動法です。
一方、「愛があれば」という考え方をすると、何かうまく行かないのを「愛が足りないからだ」と考えたり、「愛があるのならこうしてくれるはずだ」と要求がましくなったり、自分が相手を愛すれば相手が変わるはずだと考えたりします。
そしてそうではない様子を相手が見せると、怒りが起きます。思い通りに事を運べない自分への怒りもそうでしょう。
これが愛を壊すんですね。
「愛があれば」という考え方をしないとは、「愛を条件にしない」ということです。
これが「無条件の愛」という、人生で最も深い感情への感性の扉を開くと考えています。
ちょっと抽象的な話で、詳しい心理メカニズムの考察はこれからになりますが、多分「愛を条件」と考えると、本来愛とは違うあまりにも多くのものを、愛と勘違いして求めてしまうということが起きるのでしょう。
>子供をこれ以上苦しめたくない。「早くなんとかしなければ。」という焦りがあるのですが、なかなか上手くいきません。
については、まずは、子供さんが「自ら成長する存在」だという視点をまずお勧めしたいですね。
何か問題があるのであれば、子供自身がそれを感じているでしょうし、それを自分自身で考えることが子供自身の何よりの成長になります。
親が子にできるのは、子供が「自らを助ける」のを助ける、ということになると思います。子供が自分自身で解決する糸口作りでもあるでしょう。
かなり長い説明メールになり、続きを2日後に送りました。
「愛があれば」という考え方で行動しないのと同様に、「愛を得たければ」という考え方で行動しない、という心の知恵になります。
「愛」を条件としない行動法によって、心が成長します。心の成長が、条件を問わない愛つまり「無条件の愛」への感情を私たちに芽生えさせてくれます。
■「こうなれなきゃ」という自分を掲げても「破壊モード」の繰り返し
>私のプライドの中で「暗いとか消極的とか言われると恥しい」というコンプレックスがあり、いまでも社交的な人を羨ましく思いそうできない自分をせめたりしています。
ということで、「そうできない自分をせめたり」することは、今までテーマにした「怒りによる対処」でしかないということです。
それは解決法ではありません。自分は暗いと小言を言っても、心は明るくなってはくれないのです。
ではどうすれば心が明るく、積極的になれるのか。
この具体的な答えを見出し、実践することが大切です。
第1の答えは、「建設的であること」です。これは既に学び始めて頂いている通り。
それだけでは足りない、さらに深い話も出てきます。それを簡潔に説明しましょう。「自分についた嘘」が気になっておられるということで。
・・(略)・・
愛情を求める気持ちの中で、「相手に気持ちを合わせる」ことが愛だと感じる感覚が、人間にはあります。まあこれ自体は自然な心の働きです。「共感」ですね。相手が自分と一緒にいて楽しそうにすると、気分が弾みます。痛み苦しむ相手を前にすると、心が痛みます。
これが「愛」の最も基本的な機能だとも言えるでしょう。
問題は、自分が本当にはそう思っていない時にも相手に合わせる。それが愛だという感覚まで、人間は持ちがちなことです。「それは愛ではない」とは言いません。それも「愛」かも知れません。
しかし言えるのは、それは自尊心を損なうということです。自分としての考えをしっかりと持ち、自分の考えで積極的に行動できるというのが、自尊心の基本的な基礎だからです。
そして言えるのは、「自尊心」は人間の心にとり極めて重要なので、それが傷つけられた時、どうしても「怒り」が起きるということです。
これが「愛」を破壊してしまいます。
上の例で言いますと、自尊心とは、「消極的であること」の良し悪しについて自分自身の考えを確立することです。それが本当に悪いことなのか。自分としては暑いか寒いか。自分で判断できることです。
*補足:ここで「消極的であること」を頭越しに責めるのではない思考ができるのが、心の障害傾向の軽いケースです。少なくとも、どのような場面で、なぜ望ましくないかの論理を組み立てられること。深刻なケースでは、「人間は消極的であってはならない」といった頭越し論理になりがちです。
相手に合わせることで愛を求めると、そうした「自己の確立」を失ってしまいます。これが心の底で、自尊心を失わされていることへの苛立ちを生みます。その結果、愛情のために自分を合わせようとした当の相手に対して、心底から愛情一本とはいえない、反発感を同時に感じてしまいます。
愛を求めて自尊心を失うのですが、それが愛を壊すんですね。皮肉な話です。
さらにそこには「心の罠」のもう一面があります。
そうして自分を失って相手に合わせても、相手にとってもこの人に愛は感じられなくなってしまう傾向があります。なぜなら、相手に自分がないのですから。ただの空気を相手にしているようで、心の手ごたえがないわけです。
「愛を求めて自分をなくす」ことをした時、自分自身の愛の感情が損なわれると同時に、相手からの愛も損なってしまう。全くの、求めるものと逆の結果になるわけです。
(続く)
「共感」の罠について、ここで私たちが実に陥りやすい典型的間違い姿勢の説明を追加しておきましょう。それは「本音を分かり合えることが大切」といった思考です。
それはしばしば、この高度に機械化された現代社会の中で、人々が孤独感に悩み、「本音を隠した人間関係」「気持ちが通じることのない対人関係」を嘆く、「心の触れあい」への高い意識の表れのように語られるかも知れません。
しかしそれが何かの否定感の中で語られる時、その根底の底には必ず、その人自身が自らの感情を無視する「感情の切り捨て」が、来歴のどこかで成された事実が横たわっていることを、ハイブリッド心理学では見出します。
その結果、そもそもの問題として、「分かり合えるべき自分の感情」というものそのものが、自分でも良く分っていないということが起きがちです。「分り合える信頼感」「親密感」の結果イメージばかりが先走りしている心。
そうしてまず自分の感情を自分で受けとめるということをしないままに、「分かり合える」「気持ちが重なる」ことを「愛」として求めるのは、まるで自分では絶対に食べない料理を人に作って食べさせようとするのと全く同じ話になってしまいます。
その時、まず回復しなければならないのは、自分自身の気持ちを、自分で受けとめられるようになることなのです。その先に、人と気持ちが通じ合うということがどういうことなのか、人生を生きる過程そのものが教えてくれます。特別な訓練などによってではなく。
心の悩みを抱える方の多くが、時にそうした「気持ちを分かり合える」「本音を言い合える」ための「特訓の場」のようなものを求める発想を抱くようです。
参考まで、私自身が自分の心理障害を克服した前半生において、そうした「異様な空間」に入ることが役に立ったことは一度もありません。
逆に、まさにそうした「気持ちを分かり合おうという身構え」を捨てることが、ありのまま自分の知り、対人関係を築く最初の一歩になる。私は大学時代、一度それに近い特別な場に参加する体験の中で学びました。これは『悲しみの彼方への旅』の4章「抑圧された感情の開放」で描写したエピソードです。
私自身、健康な心になって今感じるのは、「心の触れ合い」はあらゆる場面で可能だということです。否、それはもう「可能」という言葉をことさら使うようなものではなく、あらゆる場面にそれはあります。心が元からそうしたものだということです。
そのための取り組みは、まず今の感情を鵜呑みにして考えてしまわないという「感情と行動の分離」原則に始まる、1章からの実践に他なりません。
私はA子さんへのメールで引き続き、これら「自己受容の罠」そして「愛の罠」から同時に抜け出るための、うってつけの心の姿勢について説明しました。「愛と自尊心の分離」です。
「愛」と「自尊心」を内面で分離させて、相手との問題を考えます。これが「感情と行動の分離」に始まる外面向けの建設的思考法行動法の最後に位置づけられるものと言えるでしょう。
そうして心の罠に巻き込まれない対処法をして、後に残るものが、来歴からの由来を持つ「心の膿」とも言える感情になります。それはもうただ「看取る」ことです。
「看取り」の中で、心は「自分についた嘘」が生まれた原点へと還ります。そこに心をありのままに晒すことが、心の自然治癒力を発動させ、未知なる心の成長変化が訪れます。
つまり、そこにあるのは、「愛」と「自尊心」という、心理メカニズムとしては本来別々のものです。それが、互いを損ね合うような、人間の心の罠、勘違いがある。
それを本来の別々のものにする思考法が、「愛と自尊心の分離」です。
「切り分け」の重要性を話しましたが、その一バージョンですね。「問題の切り分け」「感情と現実の切り分け」そして「愛と自尊心の切り分け」。最後のが最も人間の深層感情に関わってきます。
ごく実践的な話について言いますと、相手の愛情を得たいという気持ちと、相手の意見などについて自分の考えでは本当にはどう考えるのかを、分離することです。後者は、前者とは無関係に、相手の意見だけではなく、世界全体を見る目と知性で考えることです。
・・(略)・・
>こういう中で「自分についた嘘」というのはどういうことになりますか?
この主題質問に答えないまま、話が一応一巡しましたね^^;
実際まあ、この「自分についた嘘」というのは重要な取り組みテーマなのですが、どうしても「自分の中の何が悪いのか」という破壊モードの思考で検討する轍につながりやすいので、実はこの話はあまり前面に出さないのがいいかなと最近感じています。
やはり建設的思考ありきなんですね。建設的思考があって、それと矛盾する自動思考自動感情がなぜ起きるのかと探った時、「自分についた嘘」が見えてくる、という感じになります。それに備える知識は有用ですね。
今回のA子さんのメール内容ですと、「自分についた嘘」はどれに該当するかというと、
>消極的な自分を受け入れらないということが問題だと思うのですが。
これなんですね。
「消極的な自分を受け入れらないということが問題」だと考えることが、問題です。
そう考えた時、「消極的な自分を受け入れればいい」という考えにもなると思いますが、話はそんな安直なものではないわけです。
消極的な自分に、実際何か不満を感じるのであれば、それを正しく捉え、原因を知り、正しい克服法を学び実践するのがいいことです。実際それで変えられるものと、変えられないものも出てきます。しかし実際に足を踏み出さずにそれを知ることはできません。
・・(略)・・
では自分の中の消極性をどう克服できるか。
まずはそれが、建設的思考法であり行動法ですね。それを実践すれば、必ずより積極的になります。
しかしそれでは終わらないものが心の底に残るのも事実でしょう。
それがA子さんも関心を感じている、幼少期の来歴から抱えた感情です。さまざまな感情がありますが、ひっくるめて「心の膿」と呼んでいます。それは自分で生きる基盤を作るという「建設」への感情ではなく、与えられることを求めながら与えられなかったものへの、嘆きであり怒りであり、与えられるに値しなかった自分という、自己否定感情でもありでしょう。
「自分についた嘘」は、そうした「心の膿」から目をそむけようとする姿勢の中で生まれます。
>「そうできる子がうらやましい。器用でもないし、運動神経のよくないしな〜」
こうした「外から眺めた姿」が「こうなりたい自分」としてイメージされてくるのも、実はその結果なんですね。今掲示板で解説しようとしていますが、「イメージの嘘」です。
なぜそれが「嘘」なのか。
「外から眺めた姿」だけしか見ておらず、内面において何を生み出すことがその「姿」になるのかを、無視していることです。自分が心底からそれを生み出すことを望んでいるかどうかを、無視しているからです。
そうして、「こんな自分になれなきゃ駄目」と、破壊モードにしかなれないわけです。
(続く)
ここで心の罠のもう一つのカテゴリーが追加されていますね。「理想イメージの嘘」という罠。
自分の向上目標として描かれ抱かれているようでありながら、心の底ではありのままの自分の進み先という意義を全くもっておらず、ありのままの自分を否定するための、張りぼてのような理想イメージ。
これは、より深い内面取り組みを取り上げる次章以降の全てを貫くテーマになってきます。
それに対してどう向き合えばいいか。嘘を責め、嘘をなくそうとするのは、再び破壊モードの繰り返しです。
「外から眺めた姿」でも、いいでしょう。それを願う気持ちがあるのであれば、その建設的要素に向かって努力することです。もちろん建設的思考の中でです。「こうなれなきゃ」ではなく「どうすれば」。
その過程で、「内側において生み出すもの」は何が必要か。それは自分に本当にあるのか、といったことが見えてきます。
それはやがて、「心の膿」が見えてくることにつながるかも知れません。それは愛を願いながら愛が与えられなかった嘆きであり、憎しみであるかも知れません。
それに対して、再び建設的姿勢で向き合うわけです。
ハイブリッドではそれを、「心の膿を看取る」と表現しています。
願ったものが与えられなかった怒りに意識を向けるのではなく、願った思いと、得られない悲しみに、意識を向けることです。そしてそれがある限り、見つめ続けることです。
ただ見つめ続ける。他には何もせずに。だから「看取る」です。
実際そうして悲しみが看取られた時、それは必ず癒えます。少なくとも建設的に生きる姿勢が心の基盤となれば。これが「魂の成長」なんですね。
この世に生まれ、人の心は「神の国」のような世界を願いながら、それが得られない悲しみを抱きながら、人は生まれ出るように感じます。しかし同時に、この現実世界をサバイバル世界として生きる強さも、心のDNAに刻まれている。
この2つの世界を、同時に生かすことです。
(続く)
最後に、月曜のメールでの「カゼと母の引越し手伝いで体が疲れていました」という短い言葉で伝えられたA子さんの心労状態に対する、具体的対処姿勢の説明をしました。
この短い言葉へのアドバイスとして、ここまでの長い説明をしたわけです。一度に説明する内容としてはやや長すぎた嫌いがありますが、最初の習得が難しい一方、その後の人生での全ての対人場面に応用できる、効果絶大の行動学姿勢になります。それが「愛と自尊心の分離」です。
(続き)
ということで、「愛と自尊心の分離」といった実践的思考法から、「魂の成長」といった深遠難解な話までざっと話ましたが、実際人間の心は複雑で、全て押さえますとそんな感じになります。
実際その成長過程で学ぶことは沢山あり、難しいものも出てくるのが実際です。
しかし、方向性は実に単純です。「建設的であること」です。それが全てを導きます。
「やはり心の膿というものはあるかもしれない」程度に心の片隅に入れておき、まずは日々の生活で建設的思考法行動法の実践を積み重ねるという姿勢で行って頂ければと思います。
たとえば、
>週末も土曜日は「破壊」に走っていました。カゼと母の引越し手伝いで体が疲れていました。
これもそうですね。心労になる程までするのは、愛を求めるからだと思います。しかし、家族の引越しをどこまで手伝うのが妥当でしょうか。自分なりの考えを確立することです。
まあ僕なら、そこまですることはないと思いますね。
一方相手は求めてくるかも知れません。そこで相手の気分を害することなく、うまく調整する行動学が出てきます。「原理原則立脚型行動法」であり「建設的行動法」です。
「自分についた嘘」があっても、それを自分から探して解く必要はありません。「建設的であること」が、自然にそれを解いて行きます。
A子さんからはすぐ返信がきましたが、少しづつ理解を進める風情です。同時に、まだ残る問題も浮き彫りになってきます。
次月も引き続き宜しくお願いします。一人歩きできるまでには、しばらくかかりそうです。
「子供は別の人格として自尊心を高める助けとして親は見守る」ということがちょっとわかり気が軽くなってきました。
なんか自分がこういう性格になったのは親のせいだ(もちろん破壊モードで考えちゃいます)というのがあり自分も子供に対して同じようにしてはいけないという縛りがあるのです。
親との関係についても相談していきたいので今後とも宜しくお願いします。
これは「性格形成」への理解というテーマであり、「心の罠」以前の入門問題です。
私としてはあまり混乱する問題ではないという感覚があったので取り上げていませんでしたが、こうした基本的理解の段階で無駄な勘違いを持つ方が多いのが実情でしょう。
これについては、私が説明を送る前に、A子さん自身で多少誤りに気がついたようです。
== A子さんから 2007.4.16(月)「考えるとややっこしい」==
親との関係について何日も考えていました。
父は肺がんで去年亡くなりました。
父は戦争孤児でいろいろな人の所で育てていただいたようですが、苦労して生きてきた人でした。
「人を信用しない」「頑固」という言葉がぴったりの性格で知り合いの人とよく衝突していました。
母は何事にも不安がる人で、ニュースを見ていても「こわい、こわい」の連続。
父に対しても「そんな言い方したらお客さんこなくなっちゃう。」といつも心配していました。
そんな二人のやりとりをみていて子供の頃の私は「母を助けたい」「不安」を感じていました。
今、こんなに不安を感じるのは親のせいと思っていましたが
ここ何日かは「別々の人格なんだ〜」と少し思えるようになってきました。
人のせいしても今の自分が変わるわけではないんですね。「どうしてそうなったか」をず〜と考えていたわけですが、そんな後付けの理由は正しいかどうかもわかりませんよね。
たとえ両親が絵に描いたようにりっぱであり(そんな人いない)、いっさい否定語をつかわなかったとしても「あるべき姿」を求めないとは限りません。
ちょっと相談にはなっていませんね?!
ここに「怒りの無駄」「プライドや嫉妬は自分にはね返ってくる」という自覚納得に続く、短期向上変化への第3の分かれ道が現れているのを感じます。「人のせいしても今の自分が変わるわけではない」。
心の中に自ら変化しようとする芽が十分に準備されていた時、これを素直に自覚できます。それは直感的に「自立心」と呼ばれる姿勢でもあるでしょう。
深刻な心の障害ケースではこうはなりません。その言葉を、「そう感じられなければいけない」という強制に感じるという心の動きがまず起きます。そして、人のせいにしないで自ら向上できる前向き姿勢でないのは、自分をそう育てなかった親のせいです。
人のせいにばかりする思考になったのも、人のせいなのです。
病んだ論理はいわば完全無敵です。脳の上で働く論理に働きかけるのではなく、脳の根底そのものに切り込む視点が必要になってきます。
A子さんの様子としては、心の底の方はもう答えを感じ取っているものの、「考えるとややっこしい」というメール表題がまさに示す通り、頭で考え始めると紛糾してしまうという感じのご様子。
実は人間の心というのは、あらゆる局面でこうした構図で働いています。心の底で実は分っていることと、それを塗り消すかのような表面の意識思考。
それで得てして人は「考えすぎだ」と思考を停止することで気持ちを収めようとするのですが、やはり表面の思考を整理した上で、その先は無駄な思考をやめ、心自身に委ねるというのが、正しい心理学姿勢です。
そこで私は、表面の思考を丁寧に、丁寧すぎるとも言えるほどに整理してみせました。
まずは「自分の性格」というポピュラーなお悩みテーマにおける、「土台作り」と「これからの向上」という視点の切り分けです。悩んでもどうしようもない部分はいったん分けて検討してみる。
・・(略)・・
あまりにも一度に考え過ぎていると思います^^; それで、一体何のことを自分が考えているのかが、分からなくなってしまう。
僕がざっと考えますと、4つほどの問題が考えられます。4つもあるんですねー。
まず次の2つの課題テーマがあることは、入門心理学としてすぐ分かると思います。
1)不安を感じやすい性格であること
2)今何に不安を感じるかとそれへの対処
要は「今までの土台作り」の問題と、「これからの向上」の問題です。
「今までの土台作り」については、人間の性格についてはやはり幼少期からの親の影響が大きいのが事実です。「親のせい」と考えて、まあ実際かなり正しいのが事実だと思います。
一方「これからの向上」は、親の問題ではなく本人の学びと努力の問題です。もう親は全く関係なし。
ですから、
>人のせいしても今の自分が変わるわけではないんですね。「どうしてそうなったか」をず〜とかんがえていたわけですがそんな後付けの理由は正しいかどうかもわかりませんよね。
これはどっちも正しいんですね。ただ一緒に考えても、「では何をどうすれば」は全く見えなくなってしまいます。
心における「土台作り」と「これからの向上」も、スポーツや芸術の世界と全く同じです。
例えばスポーツや音楽の道に進もうとする高校生くらいの人がいたとして、もし親が幼少期からそのスポーツや音楽に馴染ませていれば、土台がかなり違います。世界で一流になるには、もうそれがないと難しい時代かも知れません。
だが高校あたりから始めてプロになる人間も星の数ほどいるわけです。中には社会人になって始めてからプロに転向できるほどの向上をする人もいます。僕のスキーも今だにというか、今が最も向上している^^)v
親のことに思考がはまっている状況とは、子供の頃に親が習わせてくれなかったからと言って、全てやめてしまっている状況ということになります。
心の問題としては、
2)今何に不安を感じるかとそれへの対処
について幾らでもノウハウと実践がありますので、まずそれをすることですね。これは日常で気づいたこと何でも具体的に相談頂けるとアドバイスできます。
不安が減少するメカニズムというのがばっちりとありますので、それを自分に活用することです。
また心の土台作りにおける親の役割についても、一応考えるのはいいことですね。前に紹介した掲示板説明などはその一つです。
親の役割を過大視したり、歪んだ形で(例えば「愛情があれば全て良くなっていたはず」成長というのはそんな安直なものではなし)考えるのを解除したり、また自分自身が親として子供に接する姿勢を考えたりするのはいいことです。
(続く)
次に、そもそもこうした「性格への悩み」というテーマが生まれた背景、それを思考する足元とも言える意識前提に、実は検討すべきものが多々あります。「価値観」です。
あと2つの問題は、ちょっと上級心理学になってきます。
3)自己像と自己嫌悪感情・価値観の問題
上述のように「不安を感じやすい」という問題への2つの考え方をできるわけですが、「不安を感じやすい」をさらに「不安を感じ過ぎる」となるとまた別の話が加わってきます。
つまり「不安を感じる」ことについては、例えば風邪をひいた時の対処のように、それが自分の人間評価には関係ない問題として、淡々と医学的な思考をすることができます。まずは睡眠休養。必要に応じて薬と。「不安を感じ過ぎる」という思考は、「風邪をひき過ぎる」というような思考に似てきます。それが人間として劣ったことだと考える思考ですね。
A子さんの「ややこしい」思考も、元はと言えばそこから始っているような気がします。「不安を感じ過ぎる」。だからそれが親のせいかどうかと、あれこれ考える。
まず言えるのは、「不安を感じ過ぎる」ことがどう人間評価できようとも、
2)今何に不安を感じるかとそれへの対処
には何にも変わりはないということです。ですからまずそれを学び実践するのがいいことで、それ以外を考えても、考えるだけ時間の無駄になる可能性が高い。
時間の無駄にならないとしたら、「不安を感じる」ことを何か人間として劣ったことだと考える「価値観」を検討することです。
それが本当に人間としての良し悪しを左右することなのかしら、と。ちょっと考えてみて頂くといいテーマですね。ただそれだけをあまり長く考え続けても、あまり実になる話ではないかも知れません。
なぜなら、心の土台から、実は変えられるからです。
確かにいつでもどこでもビクビクオドオドしている自分となると、どう考えてもあまり誇れるものではないと思います。「こんな自分に満足しよう」と考えようとしても、限界があると思います。
しかし、ビクビクしながらでもするべきことはする。そこに価値を見出すこともできます。「自分の姿」ではなく「生み出すもの」に価値を見出す視点です。そしてそうした視点に立って生きることの積み重ねで、自尊心の基盤ができ、やがてビクビクしなくなるんですね。
不安を克服したければ、不安を感じるかどうかに関わらない価値の視点を持つことが、極めて重要になってきます。これは上で言及した「不安克服のノウハウ」の一番の基本になります。こうした基本を踏まえてのより具体的な話は、今後ぜひ相談頂きたいですね。
(続く)
ここでは項目立てには入れませんでしたが、「性格の土台そのものが変わる」という、もう一つのテーマがあることになります。前章の冒頭で紹介した私自身の「怒りのない人生への経緯」が、そのことを少し考察したものです。
性格の土台からの根本変化への取り組みは、より深い内面取り組みの実践として、次章から説明します。
「土台作り」「これからの向上」「価値観」に続く最後の課題テーマに至り、人間における「自分」という意識の成り立ちにかかわる深い問題に踏み込みます。これも、このあとの本格的内面取り組みを一貫として貫くテーマになってきます。
人間の心の根源とも言える領域への、端緒の視点になります。
最後に、一番深層心理に関わる話ですが、
4)親の自分への態度を「自分」と考える思考
という問題が潜んでいるかも知れません。
親が自分にこんな風に接していた。だから自分はこうなんだ。そう考えていると、親が自分に接しているイメージそのものが「自分」であるかのような感覚になるというメカニズムがあります。
これは先に「自尊心と愛の分離」という話をしましたが、愛が根底にあると、相手が自分に向けた態度言葉に共感一体化しようとする心の動きが起きます。
しかしそれは自己評価を相手に依存して放棄してしまうことであって、もはや自尊心ではないんでね。
「自尊心」とは、自分で自分を尊重するから、自尊心と言います。
だから、「自尊心と愛の分離」が必要になります。
親がA子さんにある接し方をしてたのは、親の問題であって、A子さんがそれによって自己像を決める必要はないわけです。
そして、親が望ましい接し方をできなかったのは、親自身が弱かったからということになるでしょう。A子さんが今理想的な子供への接し方が分かるからと言って、必ずしもそうできないのを自覚していると思います。それは良い悪いの問題ではなく、まだ成長の途上だからです。
親が、弱かったんですね。
それを、超えればいいわけです。そのための取り組みがてんこ盛りにありますので、不安克服の具体的取り組みなど、日常の何でも材料に進めて頂ければ。
A子さんからはこのメールと入れ違いに、さらに心の底の方が先導した気づきを伝えてきました。
== A子さんから 2007.4.18(水)「無力だった自分への怒り」==
幼い頃、母が不安がっている様子や父とケンカしている様子をみて、
私はいつも心配していました。「助けてあげたい」でも「助けられない」と。
このことを建設的思考法で考えてみたいと思います。
私の娘も今同じような気持ちで育っているのではないかと思います。
私がカゼで咳き込んでいるだけで「お母さん大丈夫!?死なないで〜」と。
子供って親が思っている以上に心配してくれるのですね。
大人の目でみれば「ありがとう、心配しないで大丈夫だよ。」って声をかけれますね。
私の母も同じだったと思います。「大丈夫なんだよ。」と。
考えてみれば、実際には「不安にさせない」なんて無理の話。本人の問題なのですね。
「助けられなかった自分に対しての怒り」をひきずってきました。
「怒り」が「悲しみ」へ変わるのはどのような過程ですすんでいきますか?
ここでは、「今の自分は親のせいではない」という、「自らによる成長」への気づきに加えて、それを見守る親の愛という、全てを包み込む視点へと深まっていることを指摘することができます。
私たち人間の心は、弱い「依存」の世界から始まり、望ましい自分というものを「与えられる」必要があるのだという思考の世界で生き始めます。同時に、自分が相手から与えられることを期待するものを、同じように自分も相手に与えるのが正しいのだという思考を持つようになります。
心は成長し、変化するものです。成長によって、人の心は強くなります。成長し、強くなった心は、もう「与えられる」ものをあまり必要とはしません。
弱い心と、強い心の間には、ギャップがあります。それを全て、ありのままに見据えることです。
心は全てを知っています。心が自ら導きます。それは弱いものへのいたわりであるかも知れませんし、強さに導くためにただ何もしないで見守ることであるかも知れません。その受け取り方についても、両者の間にはギャップがあるかも知れません。それでいいのです。心が全てを自ら導きます。
私たちが成すべきことは、そこにある「命」の声に耳をすませることです。それに身を委ねることです。
一面だけを取り上げる表面の思考に拘泥し始めた時に、それら全てが見えなくなってしまいます。
翌日、性格の問題への説明を読んだA子さんから、改めてメールが届きました。
島野先生、おはようございます。
先生はやっぱりすごい人だと思います。
掲示板はけっこう難しい言葉が並んでいますが、わたしみたいな初心者に対しては、わかりやすい説明できっちりとコメントしてくださる。
(のみこみが悪くて何度も同じ説明いただいてるとしたらごめんなさい)
「今、不安に思うこと」についてまたメールしたいと思います。今後ともよろしくお願いします。
おほめにあずかれて光栄です。なおサイト掲示板などの原稿は、読者に読んで頂く以前の、私自身の整理の途中記録ですので、ハイブリッド心理学の読書をさらに増やしたいからと読んで頂くには必ずしもおよぶものではないことを、この場を借りてお伝えしておきます。
「怒りはどう悲しみに変わりますか?」というA子さんの質問は、「悲しみが治癒になる」というハイブリッド心理学からの教えへの質問と言えるでしょう。
「悲しみ」が治癒になるには、条件があります。「心の自立」です。
「心の自立」とは、自分の感情が人に受けとめられることによって良くしてもらうという意識世界を卒業し、自分の感情を自分が受けとめる意識世界へと旅立つことです。その時初めて、「悲しみ」は治癒の感情へと変化します。
「依存」した弱い心には、「怒り」が強さに見えます。基本的に「人が見てくれる」という意識世界にあり、「怒り」の方が人を動かせるように見えるからです。「悲しみ」が人に見られのは、弱さであるように感じます。
「心の自立」の世界では、「悲しみ」が治癒への力を持ちます。自分の感情を自分で受けとめるから、自分の中にある治癒への力も得ることができるのです。自分の感情を人に受けとめてもらう必要がある「心の依存」の世界では、自分の中にある治癒への力も自分で受けとめることができません。
「心の自立」という「強さ」が、「怒り」を「悲しみ」という治癒に変えるのです。
この時はまだ私自身「心の自立」というテーマが未整理だったこともあり、ここでは「生み出す強さ」として説明しています。「生み出す」ことに生きることが「心の自立」に向うこととイコールです。
A子さんの心の旅立ちも、近づいてきたようです。
>「助けられなかった自分に対しての怒り」をひきずってきました。「怒り」が「悲しみ」へ変わるのはどのような過程ですすんでいきますか?
根本変化成長は全て、「生み出す強さ」が導くと言えます。
「実践メニュー」で、「思考法行動法」「根本的な生きる姿勢」「深層感情への取り組み」という3つの実践を整理していますが、結局のところ行うのはたった一つの方向への実践なんですね。
「建設的である」ことによって「生み出す強さ」を獲得していくことです。「生み出す強さ」とは、ものごとを向上させる方法を知り、それを実践できるということです。これが全ての領域にまたがるわけです。内面外面、仕事や健康や美容、趣味の領域、そして心と人生。
そうやって「向上させる方法を知り実践する」ことを積み重ねると、「生み出すもの」が増えていきます。「自分自身の姿」ではなく「生み出すもの」に価値を置く価値観を取ると、「自分の姿」には限界があるとしても、自分が生み出す価値は増え続け、それによって「自尊心」という内面の強さの基盤も増え続けるんですね。
怒りは、「生み出す強さ」によって、「乗り越えられる悲しみ」に変化します。怒りは、向上させることができない弱さだからです。
どうすれば向上させることができるか分からないので、「それでは駄目」と否定するしかできません。これが「破壊」モードであり、怒りはこの中で生まれる感情です。
向上させる方法が分かってくると、それを実行できるかどうかは、善悪の問題ではなく、強さと弱さの問題になります。怒りはもはやこの手段ではなく、「恐れ」が妨げとして課題になります。しかし弱く、恐れが強い時、それを実行できないのは仕方のないことです。人間は基本的に不完全な存在であり、弱い存在ですから。
強さが増し、悲しみを乗り越えることができた時、不思議なことに、悲しみの先で失われたはずのものが、自分自身の一部になります。
これが「魂の成長」なんだろうと考えています。自分の魂の中に、他の魂が宿ってきて、どんどん増えていく。そんな実感を持っています。
これが「人間の心の罠」を抜け出し、「生み出す」ことに生きる「心の自立」への旅立ちに向けた言葉であるとして、同時に、自立へと旅立とうとする心に初めて見えてくる、否、その見え方が真の克服に向けて変貌する、新たなる課題をここで出しています。
「恐れ」です。守られることによって免れるものという意識世界における恐怖から、自らを守ることによって真の強さへと歩むための、それは伴侶とも言える感情になってきます。なぜなら人間は弱い存在だからです。これは心の自立に立つ強さによって、初めて自ら認めることのできる弱さです。
そこに、「弱さを知る強さ」という、真の強さへの道が始まります。「不完全性の受容」という、「否定価値の放棄」と一体を成す道標が、その先にあります。
これで、新たなる心の旅立ちへの準備もほぼ全てが揃いました。しかしA子さんにはまだ残されたものがありました。
「思考法」や「行動法」による修正がおよばない、「イメージ」そして「感覚」の歪みです。
ここに来て、事実A子さんが短期変化に向った、第4の、そして最後の分かれ道が訪れるのを見ることができます。
心に現として湧いてしまう「イメージ」や「感覚」は、もう思考法で修正を図ることはできません。そもそもの思考を回すこと自体が、その後に始まるのですから。
「イメージ」や「感覚」に建設的思考を妨げるものが湧いた時、私たちにまず問われるのは、いかにそれに左右されずに思考と行動ができるかという、「感情と行動の分離」のごく基本範囲になります。
実際にそれが可能になるのは、心の土台として健康な領域がかなり優勢になってきた場合です。
心の障害傾向が深刻な場合、心の全てがそうした「イメージ」や「感覚」を丸飲みにした反応として、別の言い方をすれば心が「イメージ」と「感覚」に操縦されて動くので、思考法による調整はもう不可能となり、A子さんのような歩みとは異なる、別の長い道のりが始まることになります。
まずは、「イメージ」と「感覚」が元から多少狂いを伴っていることを含め入れて、そこに補正を入れた上で思考法行動法を考えてみる。それで建設的な思考法行動法ができれば、それに越したことはありません。さらに、そのように「感覚の歪み補正」込みでの建設的行動を実際にしてみることで、「感覚の間違い」を身をもって知り、感覚の根底からの健康化が促されるという治癒メカニズムになります。
A子さんの場合も、イメージと感覚の歪みはそれほど深いものではなく、ごくありがちな「気にしすぎ」の範囲内のようなものでもありました。
それを、「気にしなければいい」という安直な素人心理学ではなく、気にするべきと放置するべきをしっかりと分けて事に当たる、「感情と行動の分離」の「感覚イメージ編」とも言えるものに取り組んでもらいます。
A子さんの場合は、まずはそれらを一緒くたに「取り上げて」しまうことに問題がありました。
== A子さん 2007.4.25(水)「誰かを悪者にしてしまう感覚」==
自分の近くにいる人を「悪者扱いしてしまう感覚」に悩んでいます。
「建設的に考えよう」と続けていて「自分の偏った見方」というものも実感しているのですが、なかなか破滅モードからは抜け出せません。少しずつ変化していくしかないとも思いますし、ひとつでも今までより建設的に考えられることに喜びも感じています。
自営業をしていますが、従業員がひとりいます。その従業員の態度を気にしすぎてしまうのです。
(もし、その人がいなくてもターゲットは他のひとに移ります)
真面目に働いてくれるし、長くいるので知識もあり頼りになります。
気になるところは、「物にやつあたりしているようにみえる」「気が利かない」「表現が下手」というところ。
私は「うちで働いていて嫌な気持ちで続けていないだろうか?」「もっと気が利くように動いてほしいな〜」「やめられるのは困る」(なかなか続く人がいない)「感謝の気持ちもあるのに悪いところしかみえなくなる。」「家族の中にとけこめなくてかわいそう。でも仕事としては別」「悪者にしてしまう自分をせめてしまう」
*「事実」と「感情」をわける
(感情)1、物にやつあたりするなという怒り
2、嫌われているのではないかという不安
3、やめてしまうのではないかという不安
(事実)1、「誰かを悪者にするのはいけないことか?」
「こう思うのはいけない」と思わなくていい。
でも破滅的になってしまう
2、やめられるとこまるのか?
無理に働いてもらっても困る。なんとかなる。
3、私にできることはあるか?
どうしたらいいか?
サポートできることは、やっているし、やっていきたい
4、自分に対しての評価ではない。
自分のところから離れるのを「自分のせい」
「助けられなかった」と思う必要ない
5、やつあたりしてるようにみえるが本当にそうなのか?
違うかもしれない。
事実に対する分析がまだまだだと思います。アドバイスお願いします。
「誰かを悪者にしてしまう感覚」とは確かに何とも本格的心理分析向きの話のようでもあり、A子さんも詳しい整理の上、「感情と行動の分離」を頑張ってみてはいるのですが、分離するポイントが後にずれてしまっています。
A子さんは、その従業員さんに感じたイメージによって浮かべた諸々の連鎖的な可能性問題を取り上げ、それについて「感情と行動の分離」で対処しようとしています。
しかしそもそものそのイメージを鵜呑みにしなければ、その後の、つまりA子さんが整理した連鎖的な懸念が全て無用だという話になります。
それをまず「現実」として捉える必要があります。つまり外面問題としては、この範囲においては「特に対処すべき問題はない」が正解です。
こうした誤りは、ハイブリッド心理学に取り組み始めた多くの方がまずしてしまうものです。感情で問題を捉えた後に、その問題について「感情と行動の分離」で考え始めようとする。そもそもの「問題把握」時点から「感情と行動の分離」を使うのが正しい方法です。
外面はそのように問題把握した上で、もし必要がありそうであれば、イメージと感情を純粋に内面だけの問題として取り組むことも考えられます。ただしこうして切り分ければ、もう内面取り組みなどしなくても、自然と全てが波間に消えていくのが心の健康度が高まってきた段階です。
私はこのごく単純なアプローチをまず伝えました。「歯列矯正」など分りやすそうな例えを入れます。
>自分の近くにいる人を「悪者扱いしてしまう感覚」に悩んでいます。
これですが、前は「現実の問題」と「感情の問題」を分け、とにかく「現実の問題」に建設的に、という方向性がメインでした。
「感情の問題」については、その中にも心の土台の問題と、これからの向上の問題があるという話をしたまでの段階です。これはまあかなり長い取り組みになってくる話です。
で今回は、「感覚の問題」になってきます。
「感情の問題」でもありますが、その中でもかなり心の土台に関連する話になってきます。「感覚」というのは、「感情」よりもさらに思考法だけでは修正しにくい、心に深く根ざしたものの表れですので。
そして前に「土台作りはやはり親の影響が大きい」と話ましたが、そうした修正が難しい「感覚」のレベルでマイナス感情が染み付いてしまったことをどう改善するかが分からず、結局また親への怒りという振り出しに戻るということになりがちです。
それは土台レベルについては改善できないという決め付けの表現とも言えます。
でも実はそうではないんですね。そうした深いレベルでの心のあり方がより良いものに改善されるというメカニズムもちゃんとありますので、それを理解して実践するという領域についても、これから考え始めるのがいいと思います。
まあ例えれば、僕も40代になってやったことですが、歯列矯正と話が似ています。これもやはり親がそこまで配慮する知識も余裕もなく、僕の歯並びはガタガタでしたが、今はとても綺麗に矯正が終わっています。
深層の感情、感覚の問題に取り組むのは、なんか手間や時間大変さという点では、かなり歯列矯正に近いというのがおおまかな僕の実感ですね。
一つ大きな違いがあるのは、「心の矯正」の方は、金がかからないということですね。アハハ。この点でも親を恨む必要はなし。まあそんな感じでじっくり進めましょー。
まず最初は、「現実の問題」と「感覚の問題」の切り分けです。
これは前に「現実の問題」と「感情」を分けると言った話よりも、多少厄介です。なぜなら「現実の問題」を考えるためにも「感覚」を使うからです。それが歪んでいる。
これを踏まえて、「現実の問題」と「感覚の問題」を分けなければならないんですね。
これを例えで一番分かりよく説明するならば、耳の平衡器官の障害などで、地面が傾いて感じられるような症状が起きた場合の対処です。
「現実の問題」と「感覚の問題」を正確に切り分けないまま対処しようとすると、とんでもないことになるのが分かると思います。
例えばそれは、床が傾いて感じられるという状況です。それを短絡に「現実の問題」とすると、リフォーム業者を呼んで、「この床の傾きを10度変えて下さい」なんて話になる。
これがとんでもない無駄な損害を逆に増やす話であるのは、この例えなら一目瞭然だと思いますが、実は人間関係ではこれが実に良く起きているんですね。
それだけ、「人のこれが気に障る」が、「現実の相手の問題」なのか、それとも「本人の感覚の問題」なのかが、見分けがつきにくい。
これを見分ける「心理学思考」が重要になってくる、ということです。
そして自分の感覚の問題として切り分けたことに対しては、「現実の問題」とは全く異なる対処が必要だということです。これも上の「床の傾き」の例えで分かると思います。すべきことは、耳鼻科の領域の診断と対処ですね。これはもう「現実の相手」とは全く無関係に、自分だけで行います。
それと同じように、「感覚の問題」の問題として捉えたことに対しては、相手の人物には一切関わりのないこととして、自分の心の中で向き合う必要があります。
逆に言えば、それが相手に対して悪いことだとも、考える必要はないということです。文字通り、それは自分の内部だけの話なのです。
まずはそんな原則で、今回の問題を考えるとどうなるか、ちょっと考えてみて頂ければ。
そのために補助として使って頂きたいのが、前にも一度お話した「原理原則立脚型行動法」です。
これはとにかく、感情や気分で揺らぐことのない、ものごとの道理や成功法則などを知り、それに則って思考行動するというものです。
・・(略)・・
本人が気分で自分が正しいもしくは悪いと「感じる」かどうかによってではなく、客観的な事実と、「法律」という客観的な基準で、ものごとを決めようということです。
・・(略)・・
一方、「愛」の中ではこれは不要です。愛に原理原則はないということになります。まそれが「無条件の愛」という深遠な話につながっていきますが、まこれはまた別のテーマということで。
>自分の近くにいる人を「悪者扱いしてしまう感覚」に悩んでいます。
これは「感覚の問題」。現実に人を悪者扱いする行動をすると厄介な問題を招きますが、別にそうではないということです。
>気になるところは、「物にやつあたりしているようにみえる」「気が利かない」「表現が下手」
これが「その人の現実の問題」なのか、それとも「A子さんの感覚の問題」なのか。実際こうして具体的に見るとすぐ、かなり判断が微妙になる問題が出てきます。
そうした微妙な判断で拠って立てる「原理原則」を、常日頃から考えていくという姿勢が、極めて重要になってきます。
それによって、日常のさまざまな問題で、感情で動揺することが減ってきます。それが生きる自信につながる。生きる自信が増えると、感情の基調がより良いものになる。ということで結構遠回りながら着実な「気分の改善」になります。実はこれがさっき言った「心の土台からの向上」の領域に、入ってきています。
「実際に物にやつあたりしている」と「物にやつあたりしているようにみえる」は、大分話が違います。前者は客観的な事実で捉える必要があります。
「気が利かない」「表現が下手」について原理原則思考だとどうなるか。
もし「気の利き方」「表現の上手さ」がその従業員の仕事役割として重要なことであれば、それを問題視することができます。そのためには、それが仕事役割の一部であることを、事前に互いに合意していることも必要です。つまり契約段階で盛り込むべきことです。これはサービス業接客業において言えることになるでしょう。そうゆう話なのか。
それとも、もっぱらA子さんの仕事場の望ましい雰囲気に対して、そう感じるということなのか。
これは原理原則の問題ではなく、ちょっと言葉がオーバーになりますが、「愛」の問題になってくるということですね。A子さんが欲しい雰囲気に較べて気になるということか。
その際に一つだけ明瞭に考えなければならない原則は、やはり仕事と愛は別ということになると思います。
仕事場で愛情溢れる雰囲気を望むのは一向に悪いことではありませんが、それを求めて仕事をするかどうかは、もう人それぞれの話で、それぞれの人が自分の内面の問題として考えればいい話になると思います。
その点で、
>「うちで働いていて嫌な気持ちで続けていないだろうか?」
>「家族の中にとけこめなくてかわいそう。でも仕事としては別」
これはちょっと検討項目から外していい気がしますね。
あとの問題は、一度「客観的事実」として何か問題があるかという原理原則からの問題と、A子さんの内面感覚の問題とで、再度切り分けを試みて頂ければと思います。
内面感覚の問題として切り分けた先の話をちょっとだけお伝えしておきますと、やはりまず「価値観」の問題になってきます。
「姿を見る価値観」と「生み出すものを見る価値観」で、人の様子をどう感じるかがかなり違ってきます。この軌道修正が一つのテーマになると思います。
あとは、「こんな人間関係」という「あるべき姿」イメージの底に、やはり幼少期からの深層感情の問題が絡んできます。これへの取り組みの話はまだ一切してないですが、いずれ取り組む問題になるのは確かだと思います。
それにいずれ取り組むためにも、まず現実の問題は現実の問題として片付けられることが重要になりますので、まず「現実の問題」と「感覚の問題」の切り分けのおさらいをして、ちょっと報告頂ければと思います。
こうして、引き続き「なかなか破滅モードから抜け出せません」というA子さんの取り組みは、怒りの無駄、プラス行動法、愛と自尊心のための行動学と価値観、そして心の罠と感覚の歪みからの抜け出しと、およそ表面の意識思考で取り組めるものをほぼ出し尽くし、この先に「幼少期からの深層感情が取り組む問題になるのは確か」だと、私は考えたのです。ここから先は月単位さらに年単位での取り組みになってきます。
それとは違う経過が、意外な方向から訪れました。