ColunmとEssay
1 精神医療と心理療法
02 精神分析とは何か 2003/06/24

 このサイトで説明する「ハイブリッド心理療法」は、精神分析を大きな基盤として採用しています。
 精神分析と言っても、有名なジグムント・フロイトではなく、近代心理療法の礎を作ったと私が考える、カレン・ホーナイによるものを採用しています。

 精神分析と言うと、「洞察」というのが治癒過程で起きると言われていますが、その実体はあまり正しく知られていないように感じます。

 詳しい話は「「感情分析」技法による人格改善治療」、その中でも「3.感情分析による心理障害の治癒原理」あたりで洞察について書いています。

 それを洞察と言うかどうかは別として、精神分析の過程を知るために知っておくべき最も重要なことは、それは知的な自己理解ではなく、情動的な体験であるということです。
 知的に理解することではなく、情動的体験の中での実感の強さとそれが起きた量だけ、治癒過程が進むと言えます。

 解説は上記トピックスに譲り、ここでは実感的に分かりやすそうな描写をご紹介します。
 ちょっと長くなりますが、執筆中の小説から。
 主人公が本格的な精神分析に入った時を回想した下りで、精神分析とは何かを、主人公の口で語るものです。
 精神分析とは、かの有名なジグムント・フロイトの創始した心理学であり精神療法だ。
 これを定義するならば、「心を無意識も含む感情によって分析的に捉えて、治療についてもその分析を方法とするアプローチ方法」とか言えると思う。
 専門的な話は置いといて、要は、心を分析することで、心の病を直すということだ。

 問題は、それが実際にはどのように行われるものであるのかだ。
 インターネットとかで精神分析について調べると大体、「症状の意味と原因についての洞察が生じるによって治癒効果が生まれる」とかの表現がされていると思う。

 その「洞察」とはどんなものか。
 これまでの僕の自己分析のように、自分の感情をありのままに分析し、それが何で、なぜ起きたのかを考える。そうして潜んでいた病んだ心理を発見したとき、病んだ心理を捨て健康な方向へ直すことができる。
 もしそうであるのなら、僕のこれまでの自己分析の方向と大して違わないはずだ。

 しかし実際には僕は大分違う世界に踏み込んで行く。

 分かりやすく例えるとすると(実はこれは例えどころではなく実際に心がそのような構造になっているのではないかとも考えているのだけれど)、心の底には覆い隠された幾つかの「感情の膿」がある。それを赤・青・黄の感情の膿としよう。膿の表面はまだ皮が覆っているので直接は見えないが、薄い皮を通して多少それが見える。見えるのは赤・青・黄が合成された結果の様々な色だ。
 そのとき、表に見えているのがもしオレンジ色だとしたら、それは赤と黄の膿が合成されてできたものであることが分かるだろう。もう少し精緻に観察すると、表面にはあまり見えていない青の膿があることも判断できるかも知れない。
 そうやって、表面に色々な色が現れるのは、その原因として赤・青・黄の感情の膿があるのであり、表面の色はそれがどう配分された結果であるのかを知るとしよう。

 だが、そうやって自己を知っても何も変化はないのだ。
 膿は膿であり、多少痛みを伴うが、覆いを取り去って膿も除去しなければ治療にはならない。
 そのために使える魔法のメスはない。ただできることは、膿を自分で舐めてその苦味を味わいながら薄くしていくことだけなのだ。そうして薄くなってやがて消えた膿の下に、また別の色の膿が横たわっているかもしれない。
 僕がこのあと進むのはまさにそんな過程だ。

 これは頭の中で自分を理解するのとは全く違う。
 オレンジ色を理解するのではない。赤と黄の膿の苦さをそれぞれ味わうのである。

 これはもやは精神分析とは言えないかもしれない。
 だがとにかくそこには3つの段階がある。
 1つ目は膿に触れることなく外からそれを理解することだ。2つ目に、膿の覆いを取り去り、直接それに触れること。第3にそれを舐めて薄くしていき、やがて膿の下にある別のものを知ることだ。

 世の中の精神分析の説明が「洞察」という時、100ある中の98個までは1つ目の段階を指してそう言っているように思える。それは何の治癒効果もないものだ。
 残りの2つ程度は2番目の段階まで言及しているようだ。覆いを取って多少膿を出すことで、若干の治癒効果はあるかも知れない。少し痛みが和らいだり軽快感が出たりする。この効果は良くカタルシスと呼ばれる。
 だがそれで放っておいては、やがて膿を覆う皮膜が再び現れ、膿は再び外部に出ることなく成長を始める。膿を除去するためには、それを舐め続けなければならない。

 この3つの段階にはそれぞれ、進む上での壁があるように思える。

 1段階目は外から見て、膿のある位置を正しく知ることだ。この感情の膿というのは、最初はその覆いが厚いので外からは全く見えないのだ。だからまず膿がある部位の皮膚の特徴を正しく掴む必要がある。
 これは多少心理学の勉強が必要だ。僕の場合はそれがカレン・ホーナイの精神分析理論だったわけだ。

 ここで、どれだけ分かりやすく膿のある部位の特徴を説明しているかで、心理学の良し悪しというのが出てくる。
 フロイト流の精神分析理論は全く役に立たなかったよ。それは皮膚の中でちょっと色が変化しただけの染みを膿だと言ってたり、体の中で特殊な形をした場所に膿があると言ってたりする。そんな所を引っかいても何も出てきやしない。

 2段階目の、覆いを取り去って膿に直接触れることへの壁は、まさにそれがどうすればできるのかという壁だ。
 何しろこの膿も、それを覆う皮も、目で見えるものではない。そもそもその膿を見るのも触れるのも、直接できるのはその本人だけなのだ。しかも膿の存在自体、本人にも分からないし、どうれなれば膿に触れたことになるのかも事前には知らない。
 さらに例えて言うならば、こうして膿を取り去ろうとする努力そのものが、しばしば膿を隠す皮なのだ。自分を直そうとする意識的努力のみならず、無意識的努力までも捨てる必要があるだろう。

 この皮は、意識的な努力で取り去れるものではない。
 どうすればそれができるのか、それを研究することが今の心理学に一番必要なものの一つではないか。

 僕に、膿を覆う皮を取り去り、膿を直接味合わうよう仕向けたものは、何だったろうか。
 それはひとつの「絶望」であったように思う。「絶望」は、僕の心の旅の転換点においてしばしば重要な役割を果たすものだ。
 それは「破滅」と「再生」を紙一重の両脇に置いたものであったような気がする。それが何だったのか、それ以外に僕を心の真実へ近づけ得るものがなかったのかを、僕は僕の心の旅をたどり直しながら考えたいと思う。

 3段階目の、膿を舐めて薄くしていくための壁は、膿の苦さそのものだ。
 実際それはとても苦いものなので、少し体が軽くなったら、大抵はもう十分だと思って、膿を舐めるのをやめ、膿のある場所とは違う世界で生きて行くかもしれない。

 だが僕は最後まで膿を舐めるのをやめなかった。
 その理由は比較的単純なものだ。膿のある場所、その地だけを、膿があることなど知らない時から、自分の生きる地として目指していたからだ。むしろ僕は、いつでももうやめたつもりだった。だがその地に生きようとする限り、膿の方からやってきたのだ。それは僕がそうしようとしてそうなったのではなく、運命と言うのにも近い偶然であったような気がする。

 いずれにせよ、これからそんな3段階が進行していく。
 これを心の病から抜け出す道と考えるならば、僕のような偶然の産物に近いものとしてではなく、あらかじめ分かった上で無駄なくその道を通れる方法を考えるべきだろう。
 1段階目はカレン・ホーナイの精神分析学を薦めるとして、まず問題は次の段階にどう至るかだ。いずれにせよ最初は、膿に触れたつもりで実はその周りを外から眺めているだけに過ぎない期間があるだろう。またその期間は膿に近づく準備として必要でもあるだろう。

 実際僕の自己分析も、そんな皮相なものとして始まっていた。

inserted by FC2 system