ColunmとEssay
3 感情とは何か
03 与える愛と与えられる愛? 2003/06/14

 夜長に心理定番サイト「こころの散歩道」を眺めていて、ちょっと感じたことです。
 ちなみに、このサイトそのものはとても素晴らしいものだと思います。
 冒頭に書かれたあなたが人生の主役になるためにとか是非ご一読を。

 そこで紹介された「三浦綾子から学ぶ罪と赦しの心理学」を読んでの感想。
 三浦綾子さんの宗教心には口をはさむ気は毛頭ないのですが、「愛」についての解釈はやっぱり私の考えと違います。
 私は心底現実主義者で、宗教心はない人間のようです。

 三浦さんの言う「受くるよりは与うる幸いなり」。
 つまり「与えられる愛」より「与える愛」の方がいい、ということだと思います。

 これを読んで、何かが違う、と感じました。
 「与えるか」それとも「与えられるか」という、一方通行は、愛ではないと思います。

 愛を言葉で議論するのは好きではないのですが、一応私の考えを言葉で言いますと、
 それは「人(人以外でもいいのですが)に近づくような感情で、それ自体を目的にしたもの全て」です。
 (参考:「自己建設型」の生き方へ8.真の愛と偽の愛

 で、それは何かを与えたり与えられたりするという要素に分解できるものではない。もしくは分解したものはもはや愛ではないと感じます。
 一種のハーモニー、和音、共鳴のような現象で、個々の要素の音を単独に取り上げて、どれが和音なのか、と問うような、意味のないことのように思えるのです。

 さて、宗教的な解釈は別として、心理学からは、このようなハーモニーのような愛は、精神的安全が満たされた自由な状態で、ごく自然に生まれる本能で、特に意識的努力によって生まれるものではないと考えています。
 意識的努力によってそれを作ったとしたら、それは模造品であり別物だと。

 そして人は精神的安全を損なうと、その象徴である愛をまるで何かの「所有品」であるかのように欲しがるという現象があります。
 それを生み出したのは精神的不安、つまり外界は皆敵で自分は脅かされているという感情です。
 愛が不安を打ち消すような輝きを持つ一方で、心の底には全く逆の感情が潜むことになります。
 こうなると間違いなく、その人は「本当の愛って何?」といった疑問に駆られたり、難解な哲学を考え始めたりします。

 「ハイブリッド心理療法とは」のおわりにで触れた文芸雑誌ですが、そう言えば三浦綾子さんだったかなと思ってネットで検索して見直したら曽野綾子さんでしたね。三浦さんの方は99年にお亡くなりになっているらしいので、「???」と思い見直したわけですが(^^;)。
 抜粋が載ってたので読んだところ、やはりとても気難しい感じの文書を書いてらっしゃって、ターザンや子供は劣った存在と言っているようで、やはりあまり共感できないのを感じました。

 「あなたはちゃんとエゴを人のために役立てていますか!?」。
 そんなこと考えられない、幼い子供達のたわむれや、子犬達のじゃれあいにも、そんなこと考えなくても愛の輝きや生きるもの同士の調和というものを、見ることができると思うのですが。

 「本当の愛って何?」。
 その答は、他者の愛を見上げた時ではなく、自分の足元を、地面を見た時に、得られるはずです。


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