4.2 道徳への別れ |
心を解き放つ成長の過程 心を解き放って現実の中を生きる時、私たちの心は、この現実世界をより「うまく生きる」ことができるように、内面の底から熟成変化が起きるような自然成長力を持っています。 このサイトが考える心理障害の治癒の本質は、自己が唯一の存在であることを許し、この心の自然成長力を開放することです。それが自然治癒力として作用します。 そして、これはさらに健康な心へとつながって行きます。 この過程は、「心を解き放つ成長の過程」と言うことができます。 心の成長とは、自分自身によって幸福になる能力が増大することです。 |
心理学的幸福主義
従って、この「心を解き放つ成長の過程」は、幸福を指向します。
幸福を目指すことによって、この過程が導かれ、幸福感によって、その達成度合いが示されます。
このサイトは「生き方」として、このような、幸福を目指す生き方を採用しています。人は誰もが幸福になる権利があり、幸福になるよう生きる努力をすることをお勧めしています。
人の生き方として、このように幸福を指標とする考え方は、「幸福主義」と呼ばれることがあります。
人類の歴史に登場した「生き方思想」には、これ以外の代表的なものとして、宗教や禁欲主義などがあります。
このサイトは幸福主義です。
そして幸福を心理学から捉え、その方法を考えます。
従って、このサイトの立場は、心理学的幸福主義です。
心を解き放つ成長を自分に許す
このサイトでは、心を解き放って生きることで得られる幸福を追求します。
心に枠をはめ、いやいやながら生きることを求めません。心に枠をはめた別の「幸福」があるとしても、それを求めません。
この考えを受け入れ、「心を解き放つ成長の過程」に進むかどうか。これは「選択」です。
人には思想の自由があります。
心を解き放つことではなく、宗教によって幸福が得られると考えることも自由です。また幸福を目指す自由があるのと同じように、幸福を目指さない生き方を採る自由もあります。
これからお話するのは、この「心を解き放つ成長」を選択した場合の話となります。
「心を解き放つ成長」を選択するのなら、「心を解き放つ成長」をまず自分に許す必要があります。
これは同じ言葉の繰り返しのような、当たり前のことに聞こえるかも知れません。でも違います。
私たちは、この日本文化の中で、基本的に「心を解き放つ成長」を自分に許していないのです。
また、人間の基本的心理メカニズムが、心を解き放つことを許さず、「こうであれ、さもなくば..」という怒りによる脅しの下で、心に枠をはめ心を閉ざすことに向かう性質を持っています。
従って、「心を解き放つ成長」を自分に許すこと、これが「選択」の後の、最初の「取り組み」です。
心を解き放つ成長を自分に許すことは、2つの側面から推し進めることができます。
それを阻む要因を取り除くという消極面と、積極的に推し進めるための方向を向くという積極面です。もちろん両方必要です。
まず、明らかに心を解き放つことを許さず、心く枠をはめるような誤った考え方を捨てます。
そして次に、それに代わる新しい、正しい考え方に変えて行きます。
3種類の「道徳」 心を開放した成長を許さない考え方とは、人が定められた姿になることを善しとする考え方です。 人のあるべき道を説く「道徳」は、概して、これに該当します。 道徳には3種類のものがあります。 情緒道徳 「情緒道徳」は、人の感情や行動のあるものを善しとして、それを行う人を「善い人」として扱う思考法です。 今の日本の学校における道徳教育で大抵採用されています。 今の日本では、単に「道徳」という場合はこの情緒道徳を指します。 善しとされるものは、勇気や正義や優しさ、向上心や責任感、挨拶や礼儀などさまざまです。 人に優しくしなさい。勉強しなさい。挨拶しなさい。善い人間になるために。 |
情緒道徳の問題点
人の感情や行動は非常に多様であり、また状況によってその適切さが変わりますので、どれが本当に正しい感情や行いなのかは、はっきり決められるものではありません。
文字通り、それを説く人間の感情によって、それが善いことか悪いことかを判断することになります。
多少、「言った者勝ち」の世界であり、しばしばその内容は独善的で傲慢です。
もちろん言っている本人は、それが「正しい」ことだと信じていますので、自分が独善的で傲慢だとは思っていません。
道徳が説かれる時、実のところ、「今のお前は駄目だ。こうしろ。さもなくばお前は嫌われるぞ。」と言っていることになります。
これは怒りによって相手を動かすことです。従って言う人間と言われる人間の双方にストレスが生まれます。
敵意や反発が生まれやすく、さらにこのストレスを怒りによって押さえつけるという傾向になります。
道徳が強度になるほど、怒りのストレスによって、心が不幸になっていく傾向があります。
でも道徳が強度なほど、「人はそうすべき」なのです。そうしてさらにストレスを自分や他人に加えます。
これはもう心理障害が生まれる世界そのものです。
情緒道徳は、心の健康にとって害があります。これからの社会にふさわしいものではありません。
最も害が大きいのは、人間のありのままの姿を受け入れていないことです。自分や他人を否定することから始まる思考法です。
これを捨て、その代わりに、ありのままを受け入れた上でより建設的なものを目指す、愛によって人を動かす思考法に変えることが必要です。
これからの新しい「道徳」は、「こうしなさい」という強制ではなく、「こうするとこんなことがある」という嘘のない事実を子供に教え、自由な心の中で選ばせるという形が望ましいものです。
自分自身の心を育てる姿勢もまさにそうです。
宗教道徳
「宗教道徳」は、その宗教が定めた「善い」ことをするよう説くものです。
それをするとどんな報酬がもたらされ、行わないとどんな罰が下るかは、その宗教が定めた通りです。従って、その内容ははっきりしています。
そのため、心の混乱が起きることも少なく、害はあまりありません。どこまで「信じる」かです。
このサイトは、宗教を否定せず、むしろ尊重する立場をとっています。非科学的な概念を使っていることを除けば、人の心を育てるための叡智によって作られている思考法です。
非科学的な度合いが強まると、現実からの乖離が大きくなり、有害になってきます。新興宗教は大抵この類です。
このサイトは、現実の事実に立脚する科学の立場を取ります。
従って宗教は採用しません。
法律
法律道徳は、法律に従うことを説くものです。
現代の法治国家は、基本的に法律道徳を採用しています。
その内容は、法律として明文化されており、最も内容が明確です。
また、日本も含めた自由主義社会では、法律を犯さない範囲での、人のあらゆる行動が基本的に自由を認められています。
現代の日本では、学校教育では情緒道徳が行われている一方で、社会の現実は法律道徳であるという食い違いがあります。
これはすぐお気づきになると思います。
「道徳の分類」として、3番目にこの「法律道徳」を挙げましたが、実のところはこれはあまり「道徳」ではありません。
「法律に従う人間になれ」という思考法をするなら「法律道徳」ですが、こうした思考法をする人はあまりいません。法律は良く変わるからです。
法律は、人間の善悪を判定する思考法というより、社会におけるルールと罰則を、感情を超えて淡々と定義したものです。スポーツにおけるルールと罰則と同じです。
法律に従うことは、道徳というより、損をしないための処世術とも言えます。
実際、法律を犯して処罰を受けると、生活基盤が損なわれて、幸福から遠ざかりますので、このサイトでは法律に従うことをお勧めしています。まあ当たり前の話ですね。
このように「道徳」を概観すると、心を解き放つ成長は、道徳に別れを告げる方向に向かいます。
人には「あるべき道」などない。「唯一無二の自己」そのものが絶対的な基準になってくる。
もちろん道徳という「たが」によって、何とかバラバラになるのを防いでいた心の混乱や、欲求が暴走する危険を整理するための、新しい価値観が必要になります。
それが、このサイトの心理学的幸福主義に他なりません。
「道徳」という、ちょっと抽象的な言葉で概観しました。
より具体的に見ていきたいと思います。
いまどきの道徳教育..?
学校ではどんな道徳教育が行われているのかと、少しネットで調べてみました。
小学生を対象にした、こんなのがありました。「命の大切さを教える」。
何か動物とかを題材にした、クイズのようなものがあり、生徒がどう感じ考えるかを答えさせる。その過程で、生きるものへの思いやりの心に気づかせることを狙っています。
そんな様子が見られた生徒にかける言葉も用意されています。
「先生、皆のこと見直しちゃった。」だそうです。
「世のため人のため」というのもありました。
生まれてから「世のため人のため」になることをしたことのある人いますか?というテーマで、発表をさせたり、行った「世のため人のため」をカードに書かせて、教室の壁に沢山貼ります。
カードの下の方には、先生や他の生徒が感想を書く欄があります。「これはスゴイ!」「エライ!」。
この教育法をしておられる先生は、「子供は皆いい人間になりたいと思っている。自分が行った世のため人のためを自己申告させることで、自分をいい人間だと思い自信がついてくる」と述べておられます。
モラル・ジレンマ..? 心の健康という観点からは、このような道徳教育は大きな問題を4つほど抱えていると考えられます。 1つめの明白な問題は、言っていることが社会の現実とは違うということです。子供に嘘を教えていることになります。 道徳では「命の大切さ」と言いますが、現実に私たちは大量の他の命を奪いながら生きています。「どんな命も大切に」などしてません。 動物であれ植物であれ、私たちが食べるものはほとんどが生き物です。また私たちの生活が快適になる過程で、直接的にも間接的にも他の大量の生命を殺戮しています。 「命は大切です」と口で言っている人間が、行動では大量の命を日々奪っている。矛盾しています。 「人のため」が社会にとって本当に良いこととは限りません。犯罪を企てている人間が相手の場合、「人のため」「思いやり」は共犯者になるということです。 |
2つめの問題点は、何故そうす「べき」なのかの理由が説明されないことです。
「べき」という「義務」は、本来、「〜のためには」という理由、つまり得られる権利や報酬とセットで発生します。
「〜だから〜しなければならない」と、きちんと理由を説明できなければ、人への指示は本来できません。
なぜ命を大切にしなければいけないのか。実際他の命を殺して生きているのに。
なぜ挨拶しないといけないのか。なぜ髪を染めてはいけないのか。なぜセックスしてはいけないのか。なぜ麻薬を吸ってはいけないのか。
情緒道徳はうまくこれに答えられません。
情緒道徳を言う大人は、子供に「なんで?」「なんで?」としつこく聞かれると、「どうしてもそうなの!」と切れてしまいます。
このような、道徳と現実との矛盾はモラル・ジレンマとか呼ばれることがあります。
大人の側も、どこかおかしいと感じているのです。「これが正しいことだとは思うが現実の社会は..」と。
話は単純です。「正しいこと」と考えた方が間違っているだけです。
矛盾や嘘を心の中に抱えることは、それ自体がストレスです。この時点で、心を病む因子がひとつ生まれたことになります。
心を病む道徳教育
3つめの、そして最大の問題点は、「ありのままの自分では駄目だ」というストレスを与えていることです。
上にも述べたように、これは「こうしなさい。さもなくばお前は嫌われる。」という脅しにより行われます。
「いい人間」になるとは、社会や皆から愛されるということを意味します。
子供の心の中に起きているのは、「ありのままの自分じゃ駄目なんだ。愛されないんだ。」という自己否定感情です。
でも「自分に自信を持ちなさい」と言われる。子供は自分に起きた感情をありのままに感じることさえできなくなります。
4つめの問題点は、他者に見られ評価されることを行動の動機にしていることです。
先生や皆に誉められた時、安心感や、ちょっとした快感が得られる。その行いをしたいという自発的感情からでなく、誉められる快感を求めてそうする。
子供はこのことをはっきり自覚しません。ただ「良いことをすればいい」とだけ感じます。
これによって、内面の自発的な感情が閉ざされる決定打が打たれます。
「ありのままの自分では愛されない」と感じた時点において、子供の心には不安が流れています。
ありのままの自分ではない、別の姿になりきり、人がそれを見て誉めたとき安心感を得る。
不安から逃れるために、ありのままの自己ではない姿を自分に強いる、それが人に見られることで何かを求める、という基本的な生き方の出来上がりです。
これはもう、心理障害の心のメカニズムそのものです。
道徳に忠実な「良い子」は心を病み、道徳を適当にあしらった「いい加減な子」が健康な心でいるという、逆説的事態がよく起きています。
世の親や教師は、今行っている道徳教育がこのようなものであることを自覚すべきでしょう。
道徳という一般的な観点から話をしました。
まずここでお伝えしたいのは、情緒道徳を捨てましょうというのは、何も「幸福になるために」という以前のことだということです。
幸福になるための別の思考法はもう少し後で説明します。
情緒道徳を捨てるのは、幸福を求めるかどうか以前に、人間の思考として間違っており、心を病ませる思考だからです。
より具体的に、こうした情緒道徳の中でも、自分を見失わせる最も大きな誤った「美徳」についてお話したいと思います。
2004.1.1