4.4 閉ざされた重大なもの |
道徳論から.. さて、情緒道徳の誤りを見てきましたが、次に私たちが求めるものは、これに批判を向けることではありません。 それは同じことです。これはお分かりだと思います。 「そんなもん駄目だ!」と怒りを抱くことは、相変わらず私たちが幸福感を手に入れていないことを示しています。 そして怒りを抱いたところで、何かが変わるわけでもなく、何が正しいのか、代わりにより所とする真実を手に入れるわけでもありません。 社会規範に怒りを向けることは、時として私たちに「自分は自由だ」という感覚を与えます。 しかしそれは事実ではありません。 怒りの麻痺作用によって、内面のストレスに対して一時的な無感覚が起きているだけです。 そして、社会規範からは自由な、より直接的な人間同士の触れ合いを得ようとするごとに、自分が今だに何かに縛られ、根強いストレスを引きずっているのに気づくことになります。 |
心理学へ
人は情緒道徳的な思考の中で、他人が縛られている情緒道徳を批判することはできます。
何が善で何が悪か、その人がその人の感情で決めている。
だから、それが現実的でなく独善的に人と彼彼女自身を縛りつけている道徳であることを、他人の道徳なら認識することができます。
同じように、「社会道徳」も批判できます。
しかし自分が縛られている絶対道徳を、人は認識しません。
だいいちそれはもう「道徳」には見えません。「道徳」は学校や親が言っていた嘘だらけの教えを指す言葉であって、自分がその中で縛られ、駆り立てられているストレスを指す言葉ではないからです。
そして、「自分はこうでなきゃ」というストレスの中で生きて行きます。
なぜなら、「そうすべきだから」です。
それが現実的な理由付けを欠いた、情緒道徳と同じ論理を備えた感情であることは、何の変わりもないのです。
社会の問題、人の問題として考えている間は、実は何も変わっていないわけです。
問題は、私たちの心の中にあります。
心理学の話になります。
心理学から見た「こうならねば」というストレスの持続理由
「こうならねば」というストレスが、なぜ現代人をこれほど縛り続けるのか。
その理由を、こんどは心理学の目で考えて行きたいと思います。
3つの大きなテーマがあります。
1つめのテーマは、今まで説明したような話で、善悪道徳観や価値観、人生観や世界観といった、ものの見方考え方です。心理学ではこれを「思考体系」と呼びます。
今まで説明したように、現代人の思考体系は、宗教がゆるく型崩れしたような情緒道徳的なものが一般的です。
人間の行動や感情のある一面を取り出して、それを「善」と決めて、他を「悪」とします。そして人は善を成すべきであり、悪を行ってはいけないという思考法です。
この思考法では、何が善で何が悪か、そしてなぜ人は善をなすべきなのかを、私たち人間自身が決めることではなく、人間を超えたものによって既に決まっている、という思考法をすることが特徴です。
その「人間を超えたもの」には主に、崩れ方が大きくなっていく感じに並べると「神」「創造主」「至高存在」「宇宙の意志」「天の恵み」「霊」「運勢」「常識」「世間」「皆」などがあります。このどれを強調するかによって、宗教宗派や道徳の種類というものが様々に出てきます。
いずれにせよそのどれもが、「人はこうあるべきである」と、心に枠をはめる基本姿勢を持つ思考体系です。
幸福と道徳 人の思考体系を決める他の題材として「幸福」があります。 幸福とは何か、どうすれば幸福になれるか。これについても様々な思考体系があります。 上の宗教型あるいは道徳型の思考体系の特徴は、「人はこうあるべき」が先にあり、次に「そうすれば人は幸福になれる」という思考法です。 このサイトが採用する思考体系は、極めて実直な現実主義的科学思考です。 とりあえず「実直現実科学主義」とでも呼んでおきましょう。 善悪は相対的なものと考えます。「神の存在」については何も言いません。神の存在を否定するのではなく、それは文字通り人間が扱う問題ではないと考えます。「神はいるか」という問いは、この思考体系の中にはありません。それだけです。 この「実直現実科学主義」も、単に科学重視ということではなく、科学を超えたテーマについても独自の考え方を持っています。なぜ「神はいるかという問いはない」のかもです。 この思考体系については、「取り組み2−揺らぐことのない人生観と価値観の確立」でさらに詳しく説明します。 |
また、この「実直現実科学主義」では、幸福については、最初から「幸福とは何か。人はどうすれば幸福になれるか。」と考え、この現実的科学思考の中で追求します。
先に「心理学的幸福主義」と言ったものが、その結果です。この入門編で説明することの全体です。
心の転機に立つ現代人
人は結局、幸福を求めるものだ、と考えています。本当は「人はこうあるべき」よりも、です。
宗教的思考や道徳的思考が、心に枠をはめ、多少のストレスを伴うものであったとしても、それによって実際のところある程度の幸福や、困難な環境の中での「救い」に近づけるのであれば、人はその中に安住するでしょう。
それが良いか悪いかという話ではなく、そうゆう状況ではそうゆうものだ、ということとしてです。
物質的な満足が困難な、天災や飢饉、伝染病の猛威に怯えていた時代、そして戦争の時代とは、そんな時代のひとつであったと思います。
しかし、道徳思考の中にいる人も、実際にそれを信じてもあまり幸福に近づけないと感じた時、転機が訪れます。
「良い人」であろうとした自分が、結局のところ自分だけ損している。。
「何を信じていいのか分らなく」なるわけです。
現代はまさにこの転機なのでしょう。
この時、「それによってうまくいっていた」時には感じられなかった、この思考体系がもたらしたストレスが、彼彼女の目の前に純粋な形で姿を現わしてきます。
温厚な愛情の言葉のようだった「良いことをしましょう」「それは悪い人のすることです」とかがやがて、次第に怒りの表現に変わっていきます。
「お前はなんて駄目なやつなんだ」。「自分は何て駄目な人間だ」。「悪いのはお前のほうだ」。「自分はこうするべきだった」。「お前はこうするべきだ」。
ストレスは、もともとその思考体系が内包していたのです。
結果がまずくてストレスが表面化したときだけ、そのストレスだけ取り除こうとしても無理な話です。
私たち現代人の幸福のために、最初から矛盾なくストレスのない、もっと揺るぎない思考体系があると思います。
そこへの根本的な思考体系の変革が必要です。
未知の選択
現代人が「こうならねば」に縛り続けられる理由。この2つめのテーマ。
それは、善悪思考の中で怒ること以外によってものごとに対処する、「心の成長」に向かう別の感情の世界を、単純に知らないということです。
これは知識として知らないということではありません。体験として知らないということです。
本人が知らない感情を、外から与えることもできません。
前に言ったように、「こうでなければ」「こうすれば」と、「知って自分をそれに当てはめる」基本的な姿勢が、骨の芯まで定着しているのです。
それがないと自分が何か無統制で節操のない、「ただの動物と同じ」の、「人としてあるべきでない」姿になってしまうと感じるのでしょう。
このサイトが説明する「心の成長」は、それと全く対極のところにあります。
「知ることの中にはない」、心を解き放つ過程です。
心を解き放って、ただ現実世界の中を生きる。
それを支える思考体系を用意しています。
そして、今までの、「知って枠をはめる」生き方が骨の芯まで蓄積した私たちの心が、この新しい世界に変化していくまでの道筋を用意しています。
その中で一歩前に前進することは、常に、「未知を選択すること」として現れます。
これについては次のトピックの時にも、もう一度触れます。
この「未知」とは、ある大きな壁の先にあります。その壁を越えるという課題があります。
それが次のテーマに関連します。
人格の底に固定された自己への怒り 現代人が「こうならねば」に縛り続けられる理由の3つめのテーマ。 これが最も心理学らしい話になります。 怒りによってものごとに対処する世界で生きる人が、心の成長の世界の感情を体験することのない理由でもあります。 それは、自己への怒りのストレスが、もはや「感情」ではなく、人格の底の型のように、固定化されてしまっていることです。 これは、私たちが幼少期からの来歴を、「こうならねば」という、怒りによってものごとに対処する生き方の世界で主に過ごしたことの、深刻な結果であると言えます。 どんな深刻なことが起きてしまったのか、少し理解しておきましょう。 すぐに解決できる話ではありません。でも理解しておくことにとても重要な意味があります。 なぜなら、問題は外部ではなく、私たちの心の中にあるからです。 そして、その解決の方向があることを、見出しています。 |
三つ子の魂百まで
「三つ子の魂百まで」という言葉があります。
人は三歳頃までの成育環境での、記憶や体験、感情や気分が、百歳までも引き継がれるという話です。
「刷り込み」という動物行動学上の現象があります。
これは特に鳥類に典型的に見られます。卵から孵って、最初に見た動くものを、親だと思い込む現象です。この鳥の雛は、その後、成長した後もそれを親として慕う行動を続けます。
「刷り込み」ではなくとも、動物が人に馴れるようになるためには、生まれて間もない頃から人の手で育てるのが一番の方法です。
いずれにしてもこれは、幼少期の経験というものが、心の成長過程の中で一種の土台のように取り込まれるという、人間も含む高等動物一般の発達学上の事実を説明したものです。
刷り込み現象と「記憶」
さて、これ自体は聞き馴れた話として、心理学的に見ると、ちょっと興味深いメカニズムが考えられます。
幼児期の影響が心の土台のように取り込まれるという過程ではなく、その後の話です。
それは、生育過程から取り込まれた後、その生体は、あくまで結果としての感情を感じるのであって、「取り込まれた影響」そのものを感じ取ることはない、ということです。
これは人間に育てられ、人間になついている動物を考えると分りやすいでしょう。
この動物は、人間を見ると、「好きだ」「嬉しい」という感情が湧き出るようになっています。この時この動物の意識に現れるのは、今現在のこの場面で、人間を見たときの「好き」という感情です。
この時、この動物は、幼児期に人間に育てられた事を思い出すことによって、人間が好きという感情が湧き出るのではありません。人間を見た瞬間、考える間もなく、好きという感情が湧くわけです。
感じるのはあくまで「今の感情」であって、「過去の影響を感じている」のではないのです。
心理障害の世界を考えてみましょう。
よく、「自分は人が好きになれない」と嘆く方が、大抵、子どもの頃に親から酷い躾を受けた記憶などをいつまでも思い出します。そして、「自分が人を好きになれないのは、親から愛されなかったせいだ。酷い仕打ちをうけたせいだ。」と考え、怒りや憎しみを抱きます。
このケースでは、「記憶」というもうひとつのテーマが出てきます。
彼彼女が人を好きになれないのは、この「記憶」のせいでしょうか。あるいはこの記憶に残っているような、過去の具体的な事件の悪影響のせいでしょうか。
大抵の心理学は、この事件のせいだと考えます。事件による、「精神的外傷」だと考えるわけです。
だからなかなか治らないのです、などと言って分かったつもりになります。
このサイトでは、ちょっと違った考え方をします。
ひとことで言えば、この出来事はきっかけのひとつではあるかもしれない。しかし、それは事件の時の恐怖が固定されただけの話ではなく、そのあとの本人の生き方の中でかなり変形したものであるらしい、と考えています。
記憶と思考体系
彼彼女は、確かに親にあまり良い愛され方をしなかったかもしれない。
だがそれ以外にはなかったのか。
その事件が起きる時だけでなく、彼彼女が幼児期からその中で生きていた、怒りでものごとに対処する生き方の影響は何だったのか。そして彼彼女が今だにその中で生きている、怒りでものごとに対処する生き方はこの感情の中にどう現れているのか。
彼彼女が「人が好きになれない」のは、彼彼女が「自分は人を好きにならなくてはならない」という怒りのこもったストレスを、今、自分自身に加え続けているためではないのか。
幼少期に取り込まれた感情は、その結果として起きる感情が体験されるだけであって、影響過程を再体験しているのではない。
この原則を踏まえると、「自分が人を好きになれないのは親から愛されなかったせいだ」は「解釈」と言います。
今の自分の感情の原因が何なのかを、今の自分の思考体系の中で理屈づけ、今の自分の思考体系の中で評価していることです。
すると記憶は、今の思考体系によって評価づけられた結果の感情を伴って、変形するのです。
彼彼女の今の思考体系において、「親は子どもを愛するべき」なのです。だから実際のその記憶においても、彼彼女の親は「そうするべきではなかった」のです。
彼彼女の今の思考体系において、「あるべき姿でないものは許せない」という怒りを抱いているのです。だからその記憶において、彼彼女の親は「人としてあるまじき」姿となり、彼彼女は憎悪に燃えます。
そしてこの怒りと憎悪は、彼彼女が自らを追い詰められた存在と認識することを意味します。
怒りは、心身の損傷を前提として反撃するための感情です。
彼彼女の心身機能は停止に向い、成長は保留されます。
だから、彼彼女は強くなることができません。時間が経つほどに、彼彼女の不幸感も強くなってきます。
一体何が、本当に先にあった問題なのでしょうか。
刷り込みと精神分析 精神分析とは、心に閉ざされていたような感情を体験し直す過程を通して、心をより健康な状態に変化させていく取り組みです。 自分の感情や記憶についての誤った「解釈」を修正して、変形の少ない形での記憶や感情想起を行います。 つまり闇雲に過去を思い出してもあまり役に立つものではなく、その前に思考体系をより健全なものに直す必要があるのです。 これによって、「影響過程を体験し直す」という本当の実践が生まれます。 自分は、そして誰々はこうすべきであった、自分はこう感じるべきだだったという偏りをなくした上で、自分はその時どんな感情の中で本当はどんなことを感じたのか、今の成長した自分の現実の中でたどり直します。 |
「刷り込み」が典型的に見られるのは鳥類であり、より高等な動物になるほど、幼少期の影響と生育後の変化がゆるやかに混合するようになってきます。
これは学習能力の高度化と、変化する柔軟性の高度化の結果と言えるでしょう。
固定されたかのような感情傾向が、その影響過程の再体験を通してどこまで変われるか。
人間の場合、これは多少とも未知数です。まあ大抵の心理障害は、「狼に育てられた少女」の話ほど極端な異常環境ではありません。あくまで同じ人間に育てられた中での話です。
その結果、かなり劇的根本的と言える変化が起こりえる。これが事実であるようです。
ハイブリッド療法も、精神分析の効果を療法の本質のひとつと位置付けています。
「取り組み3−人は根本的に変わることができる」では、この、「現在の自己の変革」と「来歴からの感情の再体験」の2つが交じり合って初めて起きる、根本的な人格変化の道のりを簡潔に説明したいと思います。
自分の心を見失った現代人
さて、私たちは幼少期に感情が取り込まれた後の、今の感情を感じるだけであって、その影響内容そのものはもう体験されることはない。
では実際のところ、この影響過程とはどんなものだったのでしょうか。
私たち現代人に閉ざされてしまった、最も重大なものとは、一体何だったのでしょうか。
再び、「人間が好き」と感じる動物の場合を想像してみましょう。
もう思い出すこともない、そうなるまでの影響過程とは。
それは自分が小さくて無力な時、人間が大きく優しく自分を包む安心感の中で、人に近づくという行動を自分にとって最も自然なものと感じていった過程でしょう。
成獣はもう、自分が幼獣であった時の感情、その中で人間に優しく育てられた時の幸福感を、思い出すことはないかもしれません。
それでも、年老いても、ただ人間を見ると「好き」「嬉しい」という感情が湧いてきます。
私たち現代人の場合はどうか。「こうならねば」と、ストレスによって幸福感を損ないながら、その生き方を続ける理由は。
再体験されることなく私たちの心の底に固定されたもの、その最も重大なものとは、一体何だったのでしょうか。
今までの心理学は、「十分に愛されなかった」ことが、その後の人格形成に良くない影響を与えると考えていました。
私もごく最近まで、そう考えていました。このサイトにかなりの理論を載せてからも、まだ漠然とそれが問題の始まりであるかのような感覚を持っていました。
しかしメール相談なども始め、自分以外の様々な方にも一から分るような説明を考え、この入門編を整理しながら、この考えは全く変わりました。私自身の体験についても、その後のもっと派生的な細かい感情メカニズムの整理に焦点を当てていたので、このことがあまりはっきりしていなかったのです。
「良い子でいなさい」。子どもを育てるためであるかのようなこの言葉が、「そうでないと酷い目にあうぞ」という怒りによる脅しである色彩を強めるにつれて、それは実際には子どもを愛していないことの表現になってきます。 子供はこの中で、愛されるために従おうとするものは実は自分を愛さないものであるという矛盾を抱えていきます。 子供はこのことを十分に体験しません。なぜなら体験したら生きていけないからです。 子供はただ、「良い子でなくちゃ」と思います。そして、それが自分自らを愛さない行為であることを意識できないまま、自分を愛することのない世界に自分をあてはめようとして生き始めるのです。 これが、愛されなかった不安と怒りへの恐怖の強さの程に、自分自身を容赦なく責めたてるストレスの中でです。 |
子どもは、そして成育後の私たちは、この過程を良く思い出すことができません。
いや、思い出せない範囲において、私たちの心のストレスは、明瞭に気づきもしないほどの、「既に与えられた」、心の背景にあるストレスになっているのです。
私たちが今、自分で体験することができずに心の底に固定されたものとは、この、矛盾に満ちた自分自身へのストレスです。
「ありのままの自分じゃ駄目だから」という自分自身への怒りです。
同時に、私たちの心の底に固定された決定的なものがあるように思われます。
それは、自分自身の心に枠をはめて縛るという態度です。
「ありのままの自分では駄目だから」。これをもう疑うことも、意識することさえもない、自明の与件ででもあるかのように、その後の、「こうならなければ」だけが私たちが心を動かすためのエネルギーになっているかのようです。
ただ意識に上るのは、「どうすれば」そうなれるか、です。
これが幼少期に始まっています。それから10年20年という歳月を通してです。
この結果、私たち現代人が一般的に、いやいやながら生きる、幸福感の少ない生き方をしています。
世界へと投影された内面
そして人は、幼少の時から自分自身に向けた、「ありのままの自分じゃ駄目だから」という怒りを、もはや意識することもなく生き始めます。
その結果、彼彼女の思考体系に、実に奇妙で深刻な偏りが起きます。
本当は自分自身が自らに加えているストレスを、世界が自分に加えているものと感じ始めるわけです。
本当は自分の心の内面にあった問題が、自分の心の外にある問題のように感じ始めるわけです。
「自分が」自分の心を圧迫しているのではなく、「人生が」辛いものなのだと考えます。
自分の心に矛盾があるのではなく、「人間が」矛盾した存在だと考えます。
怒りの中で愛を求めても愛が得られないのを、「本当の愛なんてない」と考えます。
「人はこうあるべき」が現実にはそぐわないのを、「本当に正しいことなんてない」と考えます。
彼彼女は、自分の心の底を無視したまま、難解な哲学的疑問をころがすようになります。
なぜ生きるのか。自分とはなにか。幸福とは何か。愛とはなにか。人間とは、人生とは何か。
この結果生まれる、人が陥りがちな代表的な思考パターンについて、後に幾つか出して説明していきます。
閉ざされた本当の重大なもの 来歴の中で自分自身に加え、もはや意識するまでもないようになってしまった心のストレス。 実は、これさえもやはり結果でしかないでしょう。 どんな望ましくない結果でも、それを変える要因が残っているのならば、まだ大きな問題ではありません。 つまり、私たちの心の中で閉ざされた最大のものとは、「変化」だったのです。 つまり私たちは幼少期において、自分の心に枠をはめることをあまりに自然と感じるようになり、その結果、心が成長するものだということを知らないまま、いや、それどころか自らそれを否定することが正しいことであるかのような生き方を、心の土台に植え付けたのです。 閉ざされたものの最大のものとは、正にこれでしょう。 |
決して閉ざされたものは「愛」などではありません。私たちは失われた愛を克服する能力を持っていたのです。
私たちは、まさにその成長を自ら閉ざしたのです。つまり「心を解き放つ」ことです。
失われた情動の世界
これによって、私たち現代人はいかに沢山の濃い情動の世界を失っていることか、と感じます。
私自身を省みても、そう感じます。
もう心理障害はもとより、ストレス感や不安、緊張感を感じることさえまれになりました。でもまだまだ沢山の濃い情動が、自分の中で失われているのだろうなあと感じます。
まあ不満という話でもなく、どちらかというと現代人よりも別の「幸福な時代」の人を想像しての話ですが。。
その全てをこの人生の中で取り戻すことができるだろうか。。
恐らくできないでしょう。それだけ根は深い問題です。
でも結構な部分は取り戻せるような気もしています。どの部分までできればいいという話でもありません。方向を知り、そこを歩むということです。生涯続く向上があるということです。
その「方向」を、次に説明します。
一方で、現代人が濃い情動を失う代わりに得たものもある。これも事実です。
それは何か。もうここで議論する話でもないでしょう。むしろ、これからの心の取り組み全てが、他の世代の人々が得られることなく終わった、現代人が得たものを、最大限、それに気づき、幸福のために役立てられるようになる過程だと言えると思います。
2004.4.30