入門 健康な心への道  -怒りのない人生へ-



4.取り組み1−自分を優しく育てる

4.5 閉ざされた恐怖


心に起きる問題

 私たち現代人がその中で生きてきた、心の健康にとってあまり望ましくない姿勢を見てきました。

 それは「こうでなければ」という怒りの中で、心に枠をはめることを基本とする生き方でした。
 そして私たちが幼児期からの長い来歴をその中で生きたことによって、どれだけ大きく深くその影響が心の底に染み込んだのか、私たち自身にさえ分からなくなっているという話をしました。つまり、「ありのままの自分では駄目だから」という自らへの怒りと、それによって私たちが自らの成長を閉ざしたことが、自分でも気づかないほど当たり前の、心の背景もしくは土台になっているという話です。

 次に、このような心の状態を通して、私たちの心にどんな問題が起きるのかを理解しておきたいと思います。
 これから説明する「健康な心への道」は、心理障害と呼ばれる特別な状態に取り組むことを強く意識しています。
 たとえ「心理障害」と「診断」されることはなくても、全ての現代人の心の底で、この同じ問題が横たわる範囲と強さに応じて、「ストレス」という身近な言葉で呼ばれるものが生み出されていると、考えています。


「健常性」の喪失

 そしてその「範囲と強さ」が何の範囲と強さの話なのかというと、「ありのままの自分では駄目だから」こうならなければならないのだという緊迫感の、裏打ちとなる恐怖感の範囲と強さであることを、見出しています。

 人が「こうでなければ」という、容赦のない拘束を自他に加えていること自体は、必ずしも心の健康が損なわれていることを示すものではありません。
 むしろ、「こうならねば」という姿になることを損なう事態を前にして、彼彼女が陥る恐怖や怒りの程度が、彼彼女が実際に置かれた現実の状況に比して不合理と思われてくる度合いに応じて、彼彼女は心の健康を損なった、「健常性を損なった」状態として観察されることになります。

 かくして、例えば対人恐怖症に悩まれる人の場合、隣人へのちょっとした挨拶に向かおうとするだけで、まるで絞首刑の台に向かおうとするかのような恐怖に駆れらることになるわけです。


閉ざされた恐怖

 このように、健常性を損なうような恐怖や怒り、そしてまた抑うつ感情や気分の変調など、現実状況に対して不合理な反応を起こすに至らしめたものは何なのか。
 これは別に謎ではありません。例外なく、幼少期に体験し、消化克服することなく閉ざされた恐怖や怒りが原因であることが知られています。

 心理障害の方の幼少期を多少とも詳しく見ると、彼彼女が自分や他人に向ける恐怖や怒り、嫌悪の感情の強烈さは、彼彼女がその不遇な幼少期にこうむったであろう恐怖の激しさを、まるでそのまま引き継いでいるかのように思われることが大抵です。
 それはまるで物理化学か何かの等式が成り立つかのようです。

 本人もその関係に漠然と気がついている場合も少なくありません。それで自分のこの症状は、幼少期に否定されて育ったことから来る、「心的外傷」なのだ、心の成長を阻害されたアダルトチルドレンなのだ、と考えたりします。
 そう「分かった」としても、彼彼女が今体験する怒りと恐怖が、現実に比して不合理なほどのものであることを、彼彼女自身がどうすることもできないのに変わりはありません。幼少期という来歴によってその症状を「解釈」できたとしても、今のこの場面だけで言うならば、その恐怖や怒りは彼彼女自身にもやはり説明がつかないのです。


心の病気..?

 場合によっては、幼少期の心的外傷という解釈さえもぼやけて、もはや何の説明もつかなくなっていることもあります。

 虐待といった明白なことならともかく、「こうでなきゃ駄目でしょ!」という怒りによる脅しが「正しい躾」とされる度合いに応じて、彼彼女は自分が今だに吸収克服していない恐怖の感情が自分の中にあることに気づきさえしなくなります。
 なぜなら、彼彼女にとって「ありのままの自分では駄目だからこうならねば」という姿勢こそ「正しい」のであり、彼彼女の心はもはやその結果としての、本当の自分とは別の人間になりきろうとすることにしか向かわないからです。

 彼彼女は常に、焦りの中で生きるようになります。こうでなきゃ。それじゃ駄目だ。
 それでうまく行っているうちは「自分みたいでなきゃ駄目だ」というちょっと硬くお高い態度が見られるだけで済むのですが、何かの不遇に出会ったりしてその気力が現実につながらなくなると、この感情のパズルが組み変わってしまいます。

 「駄目なのは自分だ」と、怒りの標的が自分自身に向かうわけです。
 彼彼女はわけもなく苛立ち、抑うつ状態になり、世界への憎しみに陥り、気力はそがれて行きます。
 彼彼女も、そして精神科医でさえも、この新たな局面を、彼彼女自身の心の動きとして説明することができません。
 それで、脳の分泌系に何か異常が起きたのだろう、「心の風邪」です、とか言って何かが分かったつもりになります。
 つまり、とにかく病気だということです。だから休んで薬を飲むことが大切です。
 そうして、彼彼女の心が本来成長できる場となる「生活」そのものから、自ら遠ざかり、心の成長に自ら背を向けて行きます。


恐怖が消化克服されるとは

 何が起きているのか、心理メカニズムを理解することは難しい話ではありません。
 彼彼女が幼少期にこうむった恐怖や怒りが、「消化克服」されていないことからスタートします。

 恐怖を「消化克服していない」とはどうゆうことか。
 逆に恐怖を消化克服するとは、自分に起きた出来事として受け入れ、それに怯え怒ることなく対処できる強さへと成長することです。それによって、かつては恐怖に震えたことも、もはや過去のこととして、恐怖を伴うことなく扱うことができるようになります。
 かくして、いじめっ子に怯えていた少年も、たくましく成長し、自分が対等もしくはそれ以上であることを自覚した時、もう怯えることはなくなります。

 従って、幼少期の否定的体験を引きずるような恐怖は、2面から理解することができます。
 その体験を受け入れていないことと、そして成長していないことです。

 体験を「受け入れる」とは、別の言い方をすれば、「引き受ける」ことです。
 そうである姿勢と、そうでない姿勢がある。これは言葉で表現することが難しいだけでなく、その違いを感じ取ることさえ容易でないことです。だが、その違いが、人の人生を決定づけるものとして、人間の中にある。
 起きてしまった出来事が、自分「に」ふりかかったことと捉えるか、それとも自分「が」立ち向かうことと捉えるか、とも表現できます。

 「消化克服されていない恐怖を心の底に隠す人の場合とは。
 彼彼女は、そんな体験など「するべきではなかった」のです。親は、彼彼女が健常な大人に成長できるような、人格の申し分ない親で「あるべきだった」のです。
 そして、「そうなるべきでなかった」ことが起きたこの現実に対して、そして似た不遇が別の形で起きるであろう将来に対して、実際のところ彼彼女は怒る以外に対応するすべを知らないのです。


心の中で切り離される恐怖

 この「消化克服されていない恐怖」は、大阪池田小事件のような痛ましい事件で心に傷を負うケースで、端的にそのメカニズムが現れます。

 実際、子供の心はまだ、この痛ましく強烈な恐怖が自分に向けられた現実なのだということを、心に収めるだけの強さを持っていません。
 一種の記憶喪失様不安定状態の中で、出来事を心の中から「切り離し」、極大のストレスを回避するメカニズムが働きます。事件のことを全く思い出さない子供もいたことが報じられていました。

 同じように、「ありのままの自分では駄目だから」という焦りの大元となった精神的体験の場面の、まさにその場面で感じた感情を、私たちはもうあまり思い出すことがありません。
 ただ「こうでなきゃ」というストレスを感じます。
 実際、子供にとって愛されることは生死を分けるほど必要なことなので、「こうでなければ駄目だ」という怒りによる脅しに出会う恐怖を、子供は、自分が愛されない恐怖というそのままの形では受け入れることができません。


必ず切り離される「ある恐怖の色彩」

 意識の上では、「自分が悪い子だ」という罪悪感とか、「良い子でいなきゃ」という焦りとか、それなりにこの出来事を受けての心の変化の流れがある。
 思考の上では「切り離し」が起きているわけではありません。ところが、その時の感情の中のある要素、痛々しく自分がまるで「異形の人間」、まるで人間以外の劣ったものを見るような冷たい目、冷たい言葉を向けられた、ぞっとするような「恐怖の色彩」の要素だけは、やはり切り離されるのです。

 この恐怖の「ある色彩」だけが、心の中で切り離され、決して意識には上ることのないよう、死に物狂いでその色彩の恐怖に出会うまいとする身構えの中で取り残されるようになります。
 こうして、この恐怖の色彩はもはや本人にさえそれがあることが分からないような形で、心の中で消えることなく、ひとり歩きする圧迫源として作用し続けるようになります。

 体験の記憶も、それについての思考も、切り離されていない。ただ「ある恐怖の色彩」だけが切り離される。そしてもう二度とその色彩に意識が出会うことのないようにと、心の土台そのものが自らを鞭打つ、ストレスの火種として、その人の人生を共に歩むことになる。

 この独特な心理学知識を、心理障害という特別な状態と治癒を正しく理解するためのキーポイントとして、ぜひ知っておいて頂きたいと思います。


心の中の「もうひとつの自分」

 切り離された恐怖はどこに行くのでしょうか。もう意識に上ることはなく、消えたのでしょうか。

 消えていません。異常な形で意識に「漏れ出す」ことになります。
 子供の場合は、夜驚(やきょう)とか、ちょっとした動揺でおきるパニックなどに、この現象を見ることができます。
 このように、意識においては直接その感情を感じることはもはやないが、漏れ出すように何かの症状として現れる。このような現象を感情の「抑圧」と呼びます。

 心理障害は、基本的にこの抑圧された恐怖や怒りによって生じます。

 これはあたかも、自分の中に、幼いままの恐怖に怯えるもうひとつの自分があるかのようです。
 本人はそれを知りません。
 まるで、心がつながった一心同体の双子の片割れが、どこかに離れて存在しているかのような話になります。彼彼女が、ごく普通の何でもない場面に出会ったとしても、もうひとつの片割れの自分は、幼な子のままで野蛮な暴者に刃物をつきつけられているのです。
 彼彼女は、この何でもない場面を前にして、自分が急に青ざめ、冷や汗をかいているのを感じます。自分はどうも変だ、と考えます。

 何も変なことはありません。彼彼女の心の中にいるもうひとつの自分にとって、それはあまりにそうなってしかるべきことなのです。
 それが心の現実なのです。


恐怖の克服方法とは

 こんな心のメカニズムを理解することはそれほど難しい話ではないと思います。
 しかしこれが分かったとしても解決できるほど生易しい問題ではありません。

 解決は、恐怖の消化克服の原則にやはりよるものです。抑圧された恐怖を自分のこととして「戻し」、恐れる必要のない強さへと成長することが必要になります。心理メカニズムを理解すること自体は、それではありません。
 この基本原則を実際に忠実着実に行う実践が、世の中には呆れ驚くほど知られていないんですね!

 それはどんな方法か。
 まず言っておくならば、何かの恐怖を克服したい時、それを何か別の問題にすりかえてごまかしていたり、問題の核心を避けたままでは、克服できるわけはないということです。この堅実な心の事実から目をそらしたところには、それはありません。



犬恐怖症の場合..

 例えば、幼少期に犬に噛まれて、跡が残るような傷を負ってしまった人を考えましょう。
 この人は成人後も犬を見ただけで恐怖感に襲われることが、まず間違いない話になりそうです。犬を見ただけで、たとえそれが可愛い子犬であっても、犬を見ると、考える間もなく全身の血が引いて心臓を締められるような感覚が湧いてきます。
 こうなると一種の恐怖症です。

 しかしもし彼彼女が何らかのきっかけで、この犬恐怖症を克服したいと考えたとします。
 きっと容易なことではないでしょう。

 これはある程度深刻な人格障害などの治癒解決を考える上での比喩として考えるのに役に立つ話です。
 これもはなはだ容易でないことが知られています。人格障害のクライアントさんを受け入れない精神科医も多いと聞きます。「もう治りませんよ」と言っているのと同じです。
 犬恐怖症の場合も、「もう治りませんよ」と言ってしまっても、それほどいぶかしい話ではありません。
 それで本人ももう諦めれば、それで話は終わりです。彼彼女は後はとにかく、犬を避けて生涯を終えるかも知れません。


犬恐怖症と人格障害

 人格障害などの心理障害の治癒を考える上で、この話は実は比喩以上のものです。
 それは、問題と治癒の構造の同一さと、問題の内容の相違による深刻さを明らかにします。

 まず先に相違について述べておきましょう。
 それは前者での恐怖の対象が犬というごく限定されたものであるのに対して、後者では「人間」という、私たちの生活そのものの舞台が対象であるということです。つまり彼彼女が恐れ怒る対象とは、他人であり、自分であり、そして人生なのです。
 これに対して「もう治りませんよ」と言うこととは、そして恐れるものを避けて生涯を送るとは、彼彼女が生涯、他人を避け、さらに自分を避け、そして人生を避けて生きることを意味します。これは一体何でしょうか。


抑圧された恐怖の克服過程

 彼彼女は、どのようにして犬恐怖症を克服することができるか。
 並大抵の努力で成し遂げられることではないでしょう。はっきり言えるのは、問題の正体を正しく知り、それに真正面から最善の努力を尽くして立ち向かうこと以外に、本来の正しい取り組みと言えるものはないということです。

 同じ動物だからと言って猫が恐くなければ大丈夫だろうと考えたり、ぬいぐるみの犬で「練習」してもう大丈夫だと思ったとしても、それではごまかし程度のものでしかありません。
 空想の中で犬を恐れない自分を想像できたとしても、実際の克服にはほど遠い可能性が高いでしょう。現実の場面で犬に出会ったら、そこに「現実の重み」が堰を切るように現れます。
 空想とは違う現実の重みを知覚する能力は、私たちの意識的制御を超えた、基本的な心の機能なのです。

 この恐怖を本当に克服するためには、彼彼女はまず、自分の恐怖の正体と、そしてその恐怖の現在の対象である犬というものを、詳しく正確に知る必要があるでしょう。
 親に尋ねることによって、彼彼女は事故が起きた時の状況を、何故その犬が自分を噛んだのかを、その時負った怪我の正確な状態を、知ることができるかもしれません。
 犬の種類や犬の行動、表情と感情について学び、どんな様子の時に実際に噛まれる危険があるのかを見分けることができるようになることが必要でしょう。
 そして何よりも、これらを犬から離れた観察の中だけの知識とするのではなく、犬と実際に触れ合う中において、つまり今度は自分の行動や感情がどう相手の犬に跳ね返るかという相互連鎖の中で、犬が自分にとってどう愛せる存在であり危険な存在であるかを身をもって知って行く必要があるでしょう。

 そうして、彼彼女なりの、もはや動揺することのない犬との適切な関係を持てるようになった時、初めて、彼彼女は自分の犬恐怖症が「消えている」ことに気づくはずです。


恐怖は取り組み対象ではない

 「消えていることに気づく」と書きましたが、これが、閉ざされていた恐怖の克服の、ある本質的な事柄を示しています。
 つまり、恐怖を消そうとすることがこの取り組みで行うことなのではない、ということです。


 「恐怖」について行うべきことは、「知る」ことまでです。
 それも、「恐怖」を知ることそのものでさえありません。知るべきことは、何故そのような恐怖に自分が出会うのかという由来であり、それが起きる状況であり、その舞台である人間であり、社会です。
 そして、取り組むこととは、恐怖することなく対処する方法がないのか、相手を知り、自分を知り、その攻略法とノウハウと知恵を知り、身を持って実践することです。
 つまり、恐怖は取り組みの対象ではないのです。

 この取り組み過程とは、人間としての成長に他なりません。
 自分自身によって幸福に近づく能力を阻んでいるものを知り、それを取り除き、その能力を最大限に伸ばすための取り組みです。
 心理障害の有無などにかかわらず、全ての人に恵みをもたらす取り組みでしょう。

 恐怖を取り除くことそのものにだけ意識が向いた時、その人はこの成長への道から自ら離れることを意味します。
 病気なのだから、薬が大切です。そうしてあれやこれやの薬を試し、ただじっと、自分の中の恐怖が消えたかと、世界や自分の生活に目を向けずに待ち続けます。
 「対人恐怖の行動療法」と称して、街頭でいきなり大声で歌を歌い出すとかいったことを本気で訓練しようとしている方の話を聞いて、絶句したことがあります。


問題の循環性

 犬恐怖症と心理障害との間には、その対象が人間という私たちの人生の舞台そのものであるという、内容の違いに加えて、もうひとつの重大な違いがあります。

 犬を恐れたとしても、そのこと自体が大きく咎められることはないでしょう。
 犬が好きな人から見れば、犬恐怖症の人は、「あんなに可愛いものに触れ合わないなんて..」と、もったいないことだと感じる程度のことです。

 しかし、心理障害にあっては、恐れるのは人間や人生であり、「決してそうなってはいけない」、咎められることだったのです。
 彼彼女は、人を人生を嫌いになどなるべきではないのです。なぜなら、人や人生を愛せる人間でなければ駄目だからです。
 そうして、彼彼女の人間や人生への恐怖の大元の由来が何であったにせよ、もはや問題は、彼彼女が人間や人生に恐怖を抱くようになった事そのものに向かって行きます。

 彼彼女は、自分が、人間としてあるまじき異形の心を持ってしまったと感じるようになります。また、社会にはまだまだ沢山、この人をそのような目で見る人がいます。
 彼彼女は、自分の心を激しく弾劾するようになります。こんな心なんて。何て駄目なんだ。

 彼彼女は、「そうであるべきではない」のです。「こうでなきゃ駄目!」なのです。
 そして実はそれは、彼彼女が人や人生を恐れるようになった、彼彼女が幼少の時に彼彼女の心を残酷に締め付けた、根本的な大元と全く同じものなのです。

 ここに、心理障害の、犬恐怖症とは異なる根本的な深刻さがあります。
 ちょっと難しい言葉を使うと、感情の循環性というものが起きています。結果が原因となり、原因が結果となっていく。ぐるぐる状態です。
 人はこの中で、自分自身の心の中に幾重にも縛られて、自分自身の心の中に幾重にも折りたたまれて行きます。

 「健康な心への道」へのスタートラインに着く前に、もうひとつこの心理学を学んでおきましょう。


2004.5.30


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