4.6 未知への選択 |
3つの心の問題 さて、私たち現代人の心に何が起きているのか、ようやく締めくくるところまで来ました。 これが、「病んだ心から健康な心への道」のスタートラインになります。 心の健康を損なうような問題が、3つ起きていることになります。 1つ目が、今まで述べたことの全てです。つまり、「あるべき姿」を描き「そうでなきゃ駄目」と心を圧迫する姿勢です。 |
「こうでなければ」という態度が「怒りによる脅し」の色彩を強めるにつれて、怒る者および脅される者に、怒りと恐怖のストレスが起きます。
怒りや恐怖のストレスは心身の機能を抑制します。その持続は心身の健康を損ないます。
「善は悪を怒る」という勘違いによって、「怒ることは正しい」と考えます。その結果、「自分は正しい」と思うことが、「自分は不幸だ」と思うことと等しくなって来ます。そして幸せになれないことを怒ります。
怒りによってものごとを処理する基本的な思考の中で生きています。
人は善を成すべきです。悪を許してはいけません。この怒りを、ものごとへの対処に使う生き方です。
怒りは「追い詰められた」時に使う感情であるため、この感情に頼る人はいつまでも自分が強くなったと感じることがありません。人は、怒ること以外の方法で対処することに習熟するにつれて、強さを獲得します。
愛は強さの現れであり、弱い人は愛することができません。正しければ愛されるはずだと怒り、この怒りによって愛を破壊し、愛を得ることができません。
このように、まず、私たち現代人が幼ない頃から教えられ、その中で生きてきた思考法は、不幸になるための思考法です。
基本的姿勢が、心の健康に望ましくない、心を圧迫する姿勢です。
これだけでも大変なことだとお感じの方もいるかと思いますが、一般の人の話です。
さらに2つの問題が起きて、心理障害と呼ばれる状態が出現します。
ストレス以上の深刻な事態
第2番目の問題とは、怒りによる脅しによって「こうあるべき姿」になろうとすることが、心のストレスを越えた深刻な事態を引き起こすことです。
まず起きる可能性のある深刻な事態とは、あるべき姿になるよう怒りの圧力を加えたところで、実際にそうはなれないことです。
こうあるべき姿とは、大抵、「元気があって言うことも良く聞く素直な子」というような感じでしょう。
しかし、「そうでなきゃ駄目でしょ!」と激しく子供を叱ったところで、子供がそうなれるわけではありません。
この結果、怒りによって脅しても望む結果にならないものへの怒りが起きるという、悪循環が起きます。この悪循環が怒りのストレスをさらに増大させます。
ストレスをかけることで「あるべき姿」になれるのならともかく、その結果さえも得られないという話です。これはまあ上とそれほど違う話ではありません。
次の、より本格的な深刻な事態とは、人が幼少からこのような怒りのストレスの中で生きた結果起きる、望ましくない新たな心の状態の発生です。
「そうでなきゃ駄目でしょ!」と激しく子供を叱ったところで、子供が元気で素直になるわけではないことは、恐らくどの親も感じているでしょう。でも、「そうでないものは許さない」ことが、彼彼女らの自らの善悪観の確認手段なのです。だから、やはり子供を叱らざるを得ません。
叱るとは処罰です。コーチングではありません。
子供はどうすればいいのか分からず、ただ処罰の感情の中を生きるようになります。
「刷り込み」や「三つ子の魂百まで」のように、幼少期からその中で生きた処罰の感情が、その人間の心の底に土台のように蓄積して行きます。
「人生への嫉妬」 その結果この人間にまず起きるのは、覇気の喪失でしょう。生き生きとした感情が少なくなり、回りをうかがうような姿勢が増えてきます。彼彼女にとって世界は安全なものではないからです。彼彼女の心には概して、沈んで押さえつけられたような感情が流れがちになります。 ここまでもまだ深刻さの度合いは大きくありません。あるべき姿になれていないだけです。 より深刻なのは、この状況において、彼彼女が人間なら本来誰でも望むような幸福から、遠ざけられることです。 彼彼女は「飼育を受けて育つ」だけの受身的な存在では本来ありません。生を受け、唯一無二の存在として人生をまっとうしようとする一つの能動的な人間です。能動的な願望が阻まれた時、それ自身の心のメカニズムによって、それ自身の独自の感情が生まれます。 |
こうして彼彼女の心の中に起きる新たな、深刻な感情とは、自らの人生への怒りであり、他人への敵意であり、そして嫉妬です。
人々は愛し合い、楽しみの場を持っている。自分にはそれがない。良いものは自分をす通りしていく。人生が自分をす通りしていく。
ホーナイはこの感情を、ニーチェの言葉をそのまま使って「人生への嫉妬」と呼びました。
もう直せない感情
この感情の中で、人は他人への自然な共感を失って行きます。
この危険に満ちた世界を生きるために、人を踏みつけにしてでも自分のものにして行かなければならない。人を傷つけるとしても、自分はそれに勝る苦しみをすでにこうむっているのである。
本人がこの感情をはっきり自覚するか否かにかかわらず、この感情の中で、彼彼女の中に芽生えた敵意と嫉妬が育って行きます。
ある時、回りの人間が、もしくは彼彼女本人が、変化に気がつきます。
どうやらこの子は、どうやら自分は、心がひねくれていて、性格が悪いようだ。嫌われ者だ。
どうせ自分は嫌われるのだ。そうした感情の中で行動するので、彼彼女は実際、良い対人関係を育てることがなかなかできません。
そう考えるから人間関係が悪くなるのか、人間関係が悪いからそう感じるのか、もう見分けがつきません。
「ひねくれは直そう」という言葉でさえも、彼彼女にとっては自分は駄目なのだという感情を再度鳴らすものになってしまいます。
こうして、人は「もう直せない」悪しき感情があるのに気づきます。
これは、もう彼彼女が「あるべき人間」ではないことが確実になったことを意味します。これに対して、「そうでないものは許せない」という、この「直せない感情」を生み出した大元と同じ怒りが向けられます。
これが第3番目の問題です。
なぜ「もう直せない」感情になるのか。
これは先のトピックで説明した「切り離された恐怖の色彩」が大きな役割を持っていることを指摘しておきましょう。
この埋もれた感情が根本的に解消されない限り、彼彼女は心の底で実際において安全ではありません。
本人でさえも意識できない形で、その範囲と強度において人生から閉ざされ、人生への嫉妬と他者への敵意が生み出され続けるのです。
一般的な心理学は表に現われる感情や行動だけに注目しているので、この問題に手も足も出ません。というかそれを見る目さえありません。このサイトではこの問題の根本的解決に取り組みます。
自己への怒り・死の本能
3番目の問題である、自分の中に生まれた「もう直せない感情」への怒り。
これはこの人物のストレスを一挙に、これまでとは質的に異なる強度へと変えて行きます。
彼彼女は「自分である」ことができなくなります。
「こんな自分じゃ駄目だ!」と怒りのストレスによって自分を別の人間に作り変えようと焦ります。しかしそれは今まで起きていたストレスの膨張の悪循環を、さらにもう一回、さらに深みへと回すことになってしまいます。
自分を「許されざるもの」にしたものに怒りを向けます。しかしこれも、彼彼女があるべき姿でなかったことを、まさに彼彼女自身に押しつけるかのように確認することに他なりません。加えて怒りのストレスのさらなる追加です。
やがて、こうしたストレスを最終的に、かつ根本的に解決する方法が、彼彼女にとってただ一つあるかのように姿を現します。
「あるべき姿とは違う自分」という問題をなくすためには、自己の存在そのものを消せばいいのです。
こうして、人間の心のDNAに組み込まれた「死の本能」が駆動を開始します。
「3乗」のストレスへの帰結 これが、「あるべき姿」をかかげて怒りで対処するという、同じひとつの姿勢、同じひとつの生き方の帰結なのです。 ここで起きる問題の強度は、大元の怒りや恐怖のストレスの強度に比例するといった生易しいものではありません。 まず、心を圧迫する基本的姿勢の強度は、大元のストレスの強度に比例するでしょう。 次に、その結果がうまく行かないことで起きる怒りや、それによって生み出される恐怖、その悪循環によって倍増されるストレス。そして、人生から締め出されることへの怒りが生み出す新たな緊張が、これらのストレスに破壊的色彩を加え、さらに悪循環をめぐって行きます。 この結果はもう元のストレスの「2乗」とも言える深刻さでしょう。 そして最後に、これに大元の「こうなるべきではない」という心を圧迫する姿勢のストレスが自己循環的に向けられます。 結果として起きるのは、大元の緊張状態を「3乗」したといえるようなものになります。 |
元が2倍になれば、結果は8倍、元が10倍になれば、結果は1000倍という世界です。
幼少期から人を圧迫したストレスの強度がある程度を越えると、その帰結はもはや健常な精神を維持することの不可能な、破壊的なものになることが容易に想像できます。
実際のところ、このような心のメカニズムを理解すれば、統合失調症のような最も重度な精神病でさえ、起きて不思議はないものと考えることさえできます。
心理障害が起きる原因は、解明されていない脳の病気などでは全くなく、心のもともとのメカニズムです。
それを理解するのに全く難しい話はありません。
難しいのはどう治るかの方です。
「臨床」を越えて
このサイトの考えをお伝えしたいと思います。
心理障害は病気ではありません。健康な脳による心のメカニズムの一形態です。
ですから、その解決は「病気の治療」ではありません。
かつて、私がネットで自分の考えに基づいた活動を始めた頃、私に敵意を向けた方がいました。
その方もそれなりの心理障害への知識と、悩まれる方への援助の経験をお持ちの方です。
心理学で言うと、「傾聴」つまり優しく耳を傾け、「非指示」つまり、こうしなさいああしなさいという話は一切せず、ジョークとかで、心がなごやかになるように、この病をうまくごまかしてしまえ、というモットーの方です。
唯一私自身からメールで援助を申し出た、あるボーダーの女性との関わりの中で、私の言動はその方の目にも触れ、猛烈な批判を受けることになりました。
この方との顛末をお伝えするのが目的ではありません。
この方が私を批判した言葉に、実に意味深い言葉があってご紹介する次第です。
それは、私が「臨床医学の素養に全く欠けている」ということでした。あんな状態の人に向かってあれやこれやと長文の説教をするとはなにごとか、と。
この言葉は実は、その通りなのです。
「臨床」とは床に臨む、つまり病気で臥せっている人を前に、施しを行うことです。
病人はまな板の上の鯉よろしく(たとえが悪いですが^^;)、医者の言うがまま、口をさしはさむこともできず、任せるだけです。
ですから「臨床医学」は単なる医学ではなく、「倫理」を含む学問です。
それを扱うために、厳密な資格が必要です。
心理障害は病気ではない。心のメカニズムである。解決は病気の治療ではない。
これはつまり、「臨床」ではないということです。「臨床心理学」ではありません。
その人自身が、自分の足で立って、自分で考えていくための心理学です。
臨床を越えて、人生の心理学です。
ですから、私が治してあげるからどうこうしなさいという話では全くありません。
どう生きるのか、その選択をお知らせするのが内容になります。
選ぶのは、もちろん、あなたの自由になります。
未知への選択 心の問題、そして心理障害について、世の中の人が当たろうとする姿勢は、大抵、それを生み出したものと同じ姿勢です。 これは「あるべきでない」状態です。だから何とかしましょう。 こんなにひどいです。だから病気です。薬を飲んで、休みましょう。 こうすれば、心がなごみますよ。 良くなったようだ。いややはり駄目だ。どうせ自分は治らないんだ。親のせいで心が駄目にされてしまったんだ。自分が嫌いだ。だから死ぬんだ。 もうここで、それら全ての態度が、「こうであるべき」という、この問題を生み出したものと同じ姿勢の繰り返しであることは、詳しく説明する必要はないでしょう。 それは、「既知」の中にとどまろうとする姿勢です。 |
それとは全く違う生き方がある。
これは、選択です。
このサイトでは心理障害を理解し取り組むための実に詳細な心理学を提供しています。
その中には、「こうやって問題を解きほぐせる」とか「こう考えるとこんな風に良くなる」とかの方法、つまりテクニックとか技法とかの知識があります。
しかし、それらは実はあまり重大なものではありません。
重大なものが他にあり、それが欠けていると、どんなに思考法を変えたり感情の分析をしたりしても、何も変化が起きないんです。
それが、片手で数えられるほどのごく小数の、ある「選択」にかかっていることを、見出しています。
何故これが重大か。それは、この選択が、人間が置かれたどのような外的条件にもかかわらず、人間の心の内側の選択肢として、用意されているということです。
人はよく、「もし〜であったら、自分もそうできただろう」と言います。
そうじゃないんです。どんな条件にも関わらず、選択肢が人の心の中に現れる、あるポイントがある。
なぜなら、その選択肢は内面のメカニズムだからです。
外面はそのメカニズムの上にどう映されているかの違いでしかありません。
「もし〜であったら、自分もそうできた」というのは、単にその人がある選択肢を選び、他を放棄したことの表れでしかありません。
つまり選択肢がないことでは、全くないのです。
これが、どのような重度な心理障害であっても、根本的に治癒するものであることを示唆しているものと、私は考えています。
人間としての究極にある「選択」とは 例えば、「怒りを捨てる」という選択という時、それが望ましいこととは分っても、実際のところそんな簡単に行く話ではありません。 怒りは様々は要因から起きるので、その一つ一つの要因をはっきり見極め、見極められた要因を具体的に知る中で、怒ることなく対処する可能性を少なくとも知的に理解し、その上で真剣に自分に問いた時、そこに初めて、「怒りを捨てる選択のポイント」が見えたことになります。 決して、「許しの気持ちが大切」と考えて「怒りを捨てよう」と考えるというようなことでは、全くないのです。 |
そのような「選択」が、自分の心のどこにあるのかを、探っていって頂きたいと思います。
また、その選択肢のポイントを説明するのが、この入門編になります。
もしあなたの怒りが10個の色彩の混ざったものであった時、どの色彩の部分が今その選択の焦点に上ることができるのかは、その人の心の状況と外的状況によるので、何とも言えません。2番目のかも知れないし、9番目のかも知れない。
それ以外のものは、今変えようとしても無理でしょう。なぜなら、選択肢のポイントから外れた他の要因によって、怒りのエネルギーが供給され続けているからです。とにかく、今変えられることは何なのかを探ることが大切です。
それがどこにあるのか分ることができるのは、結局あなた自身ということになります。
新しい生き方へ
条件の問題ではない。ただ、選択がある。
それをあなたが取るかどうかです。
「これを選べばこうなれますよ」とも言いません。私がそう言ったからとか、誰かがどう言ったからではなく、結局のところ自分がどうしたいのかの選択として選んで頂きたいと思います。
まあすくなくとも「真実」に至る選択肢であることは、私としては保証できるつもりですが。。
あと戻りもできないでしょう。映画「マトリックス」で、モーフィアスがネロに差し出した、赤のカプセルです。
..と興に乗って言葉を並べましたが、興に乗りついで、「マトリックス」に例えれば、今までの生き方は何かおかしいと人々が思っていたかもしれません。その疑問を解き晴らす、真実の生き方と感じて頂ければ嬉しいです。
別れを告げたい、心を縛る生き方の話は以上にして、次のトピックからいよいよこの新しい生き方の説明に入りたいと思います。
「選択」の最初のものについて簡単に触れておきたいと思います。
第1の選択とは、「未知への選択」です。
これが全体を貫く話になります。この取り組みは「心を解き放つ」ことによる心の自然成長力と自然治癒力を開放する取り組みです。
「知って」考えることの中にはない、未知の自分への変化がある。
それを「信じる」ことでさえもありません。信じるとは、知ってからそれをどう感じるかという話です。
解き放たれた心とは、「知る」対象ではなく、未知への選択とは、「それを知って」信じることではありません。今知っていることとは全く違う未知があることを、認めることです。
私たちが「未知」についてできることは、ただ、否定しないことです。
心理障害は「問題」ではない
もうひとつ全体的な話。
それは先のトピックで、「恐怖は取り組み対象ではない」と説明したことが当てはまります。
心理障害は問題ではありません。問題は「生き方」の方です。
それは生き方のひずみが生み出した正常な心の反応に過ぎません。それを「障害」というレッテルを貼って「普通の人」とは隔てようとしたこと自体が、その生き方の問題のひとつの表れです。
一部の人は、自分の心から逃れる理由づけとして、「病気なのだ」と考えてほっとしたかも知れません。
多くの人は、自分が心理障害であるという「診断」を、絶望感を一段階深めるだけのために受け取っていたでしょう。
そしてこの「障害」を消そうと、自分の生き方は脇において、この自分の心の表面にだけじっと見入って、人生と生活そのものから遠ざかっていたでしょう。
もうそれは不要です。心理障害はひとまず置いて、生き方に取り組むことです。
新しい生き方では、最初から「きちんと」幸福を目指し、そのための合理的な方法を考え、それを生活の中で実践し、あとそこにちょっと深い心理学を加えます。
これを実践すれば、心がやがて晴れ晴れと開放されて、自由になって、人間としての強さを得ることができて、人生の喜びを感じて、充実した生活を送れるようになれる。
その過程で、心理障害はいつの間にか消えている。
私自身がこの道にたどり着いたのは、大量の勉強と人生の曲折を経てからでした。
自分が長い道のりを経て変化できた体験を振り返った時、はっきりとこの道の姿が見えたわけです。
このサイトでは、その中で本当に大切なものだけを整理してお伝えしたいと思います。
そして私自身、このサイトに考えをまとめ、取るべき姿勢をはっきりと意識するようになってからの変化は、以前にも増してあまりにも大きいものでした。
私はこれに確信を持っています。
2004.6.13