入門 健康な心への道  -怒りのない人生へ-



4.取り組み1−自分を優しく育てる

4.9 幸福を阻む最大の壁


 
人格の分離

 現代人の心に何が起きているのか。その最後の説明に入りたいと思います。

 心の病を決定づけている要因、つまり心理障害の「病理の本質」とは、ひとつめが「ストレス」、ふたつめが「自己の重心の喪失」でした。
 そして最後の、そしてもっとも破壊的な要因が、「人格の分離」です。
 それによって、人が心の健康を失うだけではなく、心の健康から積極的に遠ざかっていく。

 「人格」とは、心理学からは、「感情や思考の土台」として定義できます。
 人はその人格において、ものを考え、感情を体験し、そして行動する。人格とは「心」そのものでもあります。
 人の心、つまり人格は、一人の人間に一つある。これが本来の話です。
 それが「分離」するとは、一体何のことでしょうか。
 コップの中の透明な水と油の間に、不連続な断面があるように。凍りはじめた氷の中にできた断層のように。。


葛藤

 人格の分離と関連が深い心理現象に、「葛藤」というものがあります。
 それは、一人の人間が、複数の選択肢のあいだで引き裂かれるような苦しみを感じることを言います。

 葛藤とは、単に複数の選択肢のどれを選ぶかに悩む状態を言うのではありません。
 今夜の食事をカレーにしようか中華にしようか迷うことを、葛藤とはあまり言いません。

 葛藤とは、単に迷う現象ではなく、選択肢のどちらもその人にとって捨てることができず、必要不可欠と感じられながら、選択肢が互いにまったく相容れず、両立しない。その結果その人が選択不能の状態に陥ることを言います。
 そして、どちらかを選択しないと、彼彼女の存在基盤そのものが危うくなる状況にあることを言います。選択不可能であるのに、選択しないままでいることもできない。
 この結果、葛藤は精神的な強烈な苦しみとして体験されることになります。

 つまり葛藤とは、選択肢の間で起きることではなく、人間としての相容れない存在の仕方の間でおきることだと言えます。

 かくして、カレーと中華に迷う時は、半人前のを両方食べればそれで万事解決ですが、不倫の恋に陥ると家庭との共存は困難であり、そこで人はしばしば葛藤を体験します。


人格の「分裂」

 人格に「分離」という現象が起きた時、それは必然的に、葛藤を生み出す構造的背景になります。
 構造的背景であるとは、その人の外部状況がどんなあるかに関わらず、内面において葛藤するということです。
 彼彼女は、葛藤を、外面のあれとこれとの葛藤だと考えます。でも実はそれは内面の葛藤が外面に映し出されたものに過ぎないかも知れません。

 人格が「分離」していて、人の心の焦点が分離した2つの人格にまたがった時、「心が切り裂かれる」という現象が起きます。
 この破壊性は容易には知り尽くせません。最も重度な心理障害は、かつて「精神分裂病」と呼ばれていました。心の分裂は、「狂気」への入口でもあるようです。


葛藤の破壊性と「転位行動」

 葛藤の破壊性を示唆する、動物行動学上の言葉に、「転位行動」というのがあります。

 これは、全く相容れない2つの行動のどちらかを取ろうという選択において、どっちつかずの全く中間にバランスが取れてしまった時、動物が突然全く関係のない行動を取ることです。
 例えば、同等の相手と出くわして攻撃するか逃げるかの全く中間でどっちつかずの時などに良く見られます。
 その時急に体を掻いたりあくびをしたりといった行動をするというものです。

 これは、2つの行動の選択のちょうど中間点どっちつかずの葛藤において、ストレスの緊張が極大になってしまうということでしょう。
 全くの中間点で緊張が極大化することを避けるために、全く関係のない行動をして、いったん緊張を緩めるということでしょう。

 そうして、心身の緊張をいったん戻してから、再び逃げるか戦うか、行動の再開をするわけです。


人間の心に始まる葛藤の芽と転位行動

 「こうでなければ」と心を縛り、怒りによって対処する生き方をする現代人において、葛藤の芽はどのように生まれているでしょうか。
 それは、幼少期に体験する、「ありのままの自分では駄目なんだ」という自己否定感情と、それを体験したままでは生きてはいけないような「怒りに出会う恐怖の色彩」を背景にして起きます。

 つまり、ありのままの自分自身でいようとする願望と、「こうならなければ」という別の自分にならなければというストレスの間での葛藤です。
 ありのままの自分でいたいという願望は、人間の本能です。
 一方で、それを体験したままでは生きていけないような、ありのままの自己を否定する方向へと力づくで働く恐怖。
 子供の心に、この、全く相容れない、しかもどちらを放棄することも選ぶこともできない、葛藤の芽が生まれます。

 この緊張の極大化を回避するために、子供の心にも転位行動が起きるようです。
 人間の心に起きる転位行動とは何か。
 ありのままの自分を選ぶことでも、生きて行けないような恐怖に直面することでもない、全く関係のない行動とは。。

 人間の心に起きる転位行動、それは「嘘」であると考えています
 それは自分自身に対してついた嘘です。

 自分はもともと「こうあるべき」人間だったのです。ありのままの自分だと思ったのは気のせいだ。自分はこんな人間なんだ。それでいいんだ。


自分自身についた嘘

 自分自身につく嘘。これによって、人間の「生」を他の動物に比較した場合の悲劇性というものが起きているように思われます。
 人間の不幸のひとつは、身体的攻撃だけでなく精神的攻撃というものによって、「追い詰められた」という怒りの中に置かれやすいことがありました。

 そしてこの転位行動においても、他の動物の場合とは違う問題が人間に起きるようになったと思われます。
 つまり、転位行動とは、すぐ解除して、しかるべき選択をしなければならないものなのです。
 しかし人間の転位行動である「嘘」は、一度使うと解除ができない性質があります。

 ここに、全ての問題が固定化される決定打が打たれます。
 それはありのままの自分でいたい願望と、別の自分でいることで逃れる恐怖を、根本的に解決するものではない。その解決を先延ばしして、固定化するものです。
 さらに、「嘘」はそれ自体が人間の心にとってストレスなのです。


思春期まで持続される「切り離し」と「人格の分離」

 このように生まれ、持続するようになった心の問題は、思春期に至るまで、「切り離し」という心のメカニズムによって、限界を超えたストレスになることを免れます。
 これは単純なメカニズムです。緊張の限界を超えた恐怖や葛藤を体験しないよう、何とかストレスの少ない感情へと分断したまま心に置き去りにする仕組です。

 その結果、この子供には、心の中に幾つかの、つながりのない世界が育つようになります。
 なにごともないような「普通の子」。時々示される情緒の不安定。キレて追い詰められた獣のように暴れる時間。別人のようにおとなしい時間。。
 同様に、子供の内面においても、幾つかのつながりのない世界が展開するようになります。
 あんな自分の時もあればこんな自分の時もあった。でも別にそれで大したことはないかのように生きていきます。
 現実と空想が次第に乖離して行きます。

 この状態が維持されるのは思春期までです。
 心の発達が、単純な「分離」ですますことをもう許さなくなるからです。
 ひとりの人間としてまとまっているべき、心の「統合」への要請が、彼彼女の心に働き始めます。
 彼彼女は漠然としたストレスを感じるようになり、自分が何者であるのか、現実とは何であるのかが曖昧になり、世界が終わりになるかのように不安を感じるようになります。
 そして、自分の心が変だと感じるようになります。

 心理障害が、このようにして始まります。

 こうなるまでの過程において、「切り離し」によって、心の中に不連続な、「人格の分離」ができています。
 「こうあるべき」通りになれているような自分。そうなれなくて、駄目な自分。。
 人に合うと自動的にあいそ笑いをしてしまう自分。別の人間には見下し気分の中で生活する自分。押し付けられた拘束に反発するように人に背を向ける自分。。
 その大元には、自分自身についた嘘というストレスが固定されている。
 この人物の心の中には、「真実の瓦解」とも呼ぶべき世界が展開されるようになります。何が本当で、何が真実なのか、そして何が現実なのかが、分らなくなってくるのです。


幸福でない生を固定化した社会

 心理障害という特別な状態が起きる由来を説明してきました。
 しかしこれは「こうであるべき」という怒りの世界で育った現代人のほぼ全てに、当てはまることなのです。
 ちょっとした性格の問題に見えるだけか、それとも心理障害として表面化して「病気」と扱われるか。それは程度の差でしかありません。


 そして現代社会は、このような心の状態を「普通」として、人間の心とはそうゆうものだという前提で、道徳や幸福についてあれこれと議論を繰り返している社会です。
 そうして、多くの人々が、もはや疑問を持つこともあまりないまま、「人生」そのものが押し付けられた重荷であるかのような感覚の中で生きている。。

 まあ実際のところ、今目にするあの人やこの人は、今の生活に自分の人生というものを見出して、それを楽しんでいるのかも知れません。その内面は外から見ただけでは分りません。
 それでも、TVや新聞、雑誌や本の見出しを見た時、本来の人間の「生」を失った社会というものを感じずにはいられないことが多いものです。


人生を取り戻すための取り組み

 さて、このサイトでは、このような心の問題からの、健康な心への回復への、ひとつの取り組み方法を提供しています。
 既に何度かお伝えしましたが、それはかなり趣の異なる、3つの取り組みから成り立ちます。

 ひとつ目が、今まで説明したことであり、心理学的幸福主義の姿勢を持つことです。
 「善は悪を怒る」という考え方の根本的な誤りを理解する。愛は善により与えられるものではなく、強さによって自然に生まれるものであることを理解する。幸福のためには、心の安全というものが重要であること、自己への重心が重要であることを理解する。そしてそれらを阻んでいた、情緒道徳的なものの見方考え方の誤りを理解する。

 まずは、心の問題を生み出してきた間違った姿勢をとり続けるのを止めることです。
 善悪という観念を完全に解体する。
 現実的な科学的世界観によって、自分の心も、外での出来事も考えるようにする。

 ここまでは特に障壁のある話ではありません。これを理解し、そのまま実践する努力をするだけです。
 しかし、このトピックで触れた問題に至り、極めて大きな障壁が生まれています。
 実際、その障壁こそが、心理障害の治癒をこれほどまでに困難にするものであり、人の性格や人格というものが改善できないように見える原因です。
 そしてその障壁を乗り越えてないうちは、まだ人生を取り戻す歩みを踏み出してはいなかったのです。


人生観へ

 この障壁とは、自分の幸福というものが何なのか、実際のところ分らなくなっていることです。
 否、それはもう、幸福というものはあり得ないとも言える状態です。
 幾つかに分離された自己。自分自身への嘘によって固定化されたストレス。何が現実であり、何が真実であるのかが混沌とした世界。。

 幸福とは、「欲求全体の調和ある満足」だと定義しました。
 そうであれば、この状態とは、そこにとどまっていては、もはや幸福に近づくことはあり得ない世界です。心の土台そのものが分離しているからです。

 ここをスタートラインに置き、自分の人生を取り戻す歩みへと進むために、このサイトではもうひとつ、私たちの人生とはそもそも何なのか、幸福とは何なのかというテーマへの、独特の考え方を採用しています。
 このサイトの人生観です。

 その人生観を採用した上で、自己の幸福を追求した時初めて、今までの、心の問題を生み出した方向とは逆への歩みが動きだすと考えています。
 心底からそう考えるか。それが分岐点となるように、私には思えます。


 なぜなら、それ以外の人生観においては、どうしても「自分はこうでなければ」と心を縛る、この問題を生み出したものと同じ部分が残ってしまうからです。
 その人生観に徹することが、どれだけ「健康な心への道」を歩むための必要条件になるのか、私自身、あまり断定しずらい部分があります。
 それだけ、その人生観は、今まで私たちが教えられた人生観とは異なるものです。


 この「自分を優しく育てる姿勢」の最後のトピックとして、その人生観を説明したいと思います。
 それは、私自身が「病んだ心から健康な心への道」へと人生の歩みを変えた、最大の力となったものは、「自己分析」でも、「思考の修正」でもなく、その人生観だったからと思うからです。


2004.8.10


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