入門 健康な心への道  -怒りのない人生へ-



4.取り組み1−自分を優しく育てる

4.10 全てが許された世界へ


 
人生観へ

 心理学的幸福主義による、自分を優しく育てる姿勢。

 その最大の骨格となるものは、私は、その独特な人生観にあると考えています。
 私がこの「病んだ心から健康な心への道」において、はっきりと、光がさす明るい世界へと力強い歩みを進めたのは、この人生観をはっきりと意識してからだったと感じます。

 幸福とは何か。欲求の調和ある充足とは何か。

 このサイトでの考え方を説明する前に、まず、人が「分離した人格」によって不幸な生を固定された姿勢のまま考える結果陥る、幸福についての誤った考え方を指摘しておきたいと思います。

 これが3つあります。

「どれが」幸福にとって重要なのかという思考法

 幸福を見えなくする考え方のひとつ目は、人間が持つ様々な欲求の中の、「どれが」一番重要なものであるか、という考え方です。

 食欲や性欲といった生理的欲求。
 愛情や承認、自由や勝利への欲求などの社会的欲求。
 さらに、精神的平安や創造的活動の中での自己実現といった精神的欲求。
 それらの欲求の中でどれが一番幸福にとって重要か。沢山の人々があれこれと議論をしています。
 このサイトの考えは違います。「どれが」という択一の目を持った時点で、幸福は見えなくなっていると考えます。

 上にあげた欲求について言えば、幸福とはそのほとんど全体をそれなりに満たすことのできる状態と考えるのが、最もシンプルな話でしょう。
 問題はそれを阻んでいるものは何かです。経済的問題か。地域環境的な問題か。それとも本人の内面の問題か。。

 「どれが重要か」という考え方は、「人間の欲求というものは対立する」という考え方から生み出されます。
 これは人格の分離を前提にしています。

 ある欲求、たとえば性欲を満たそうとする時の自分と、別の欲求、たとえば社会的地位を得ようとする時の自分が、共存のできない別の人間のような姿になる。
 その結果、どちらかを選んで他方を我慢する、「抑圧」するということになります。抑圧された方の欲求はそのままくずぶることになるので、フラストレーション状態が続きます。
 人間とはそうゆうものだ。

 別にそれは「間違い」ではありません。単に「既知」の中で考えているだけです。
 心底から、全ての欲求を自分自身の中の対等な欲求と考え、その全ての充足を目指して、心を解き放ち全力を尽くした結果生まれる、内面の根底からの未知の変化を知らずに考えているだけです。

 この思考法の壁を破るためには、「全ての欲求を自分自身の中の対等な欲求と考える」ことが重要なポイントになります。
 幸福を見えなくする次の思考法も、これに関連してきます。


「欲望と社会道徳の対立」という思考法

 幸福を見えなくする思考の2つめは、「欲望と社会との対立」という構図で自分自身を見る思考法です。
 欲求を満たすとはエゴイスティックなことだ。社会秩序とは対立する。欲求を満たせないのは社会のためだ。人間は欲望と社会道徳との対立を抱える存在だ。
 この思考法によって、多少、欲求不満の苦い気分が和らぐかも知れません。

 この思考法には2つの問題点があります。

 ひとつは、社会倫理に従うことを自分の欲求ではなく、押し付けられる拘束だと考えていることです。
 押し付けているのは自分自身なのです。より正確に言えば、「人は社会でこうあるべきだ」という、自分自身の中に取り込んだ、心を縛る怒りのストレスが、自らにそれを押し付けているのです。

 欲望と社会が対立するという思考法によって、彼彼女はこのストレスを温存することができます。なぜならそれは「自分のことではない」からです。
 社会に守られる恩恵を選択する時、ストレスとしては感じず、個人的欲求を選択する時だけ、押し付けられたストレスとして感じる。
 ストレスは自分ではなく社会が加えているという思考によって、社会に守られる権利を主張する自分と、社会の義務に反発する自分という、2つの顔の自分が、矛盾を感じることなく切り離されています。

 欲望と社会の対立という思考法の、もうひとつの問題点は、「自己の重心」を欠いた思考であることです。
 自分の内面ではなく、外で起きていることだと考えることで、彼彼女は概して他力本願な思考の中で、不平不満を感じやすい生活をするようになります。社会が悪い。こんな社会だから。。
 そうして、幸福になれないことを怒りながら、生涯を終えていく。。

 社会に守られるという恩恵と、社会という制約に制止される利己的な欲望。
 この2つを自己と社会の対立と考えるのではなく、同等な2つの自己の欲求として捉え、その選択を心底から自らに問いた時、欲求そのものに変化が生まれてきます。


幸福に「基準」はない

 幸福を見えなくする思考の3つめは、「どうなっていれば」幸福か、という「基準」で考える思考法です。
 一流大学を出て一流企業に就職している。金持ちである。美男美女で性格が良くモテる。頭が良く仕事ができる。健康である。結婚している。生きがいがある。etc。

 こうして、幸福を外から見た姿としてとらえ、それを追い求めた時、人はまさに幸福に近づけなくなります。
 なぜなら、それは「なるべき自分」を自分に押し付けることであり、心に枠をはめることになるからです。
 そして「こうなれば」という姿にとらわれることによって、絵画の中に吸い込まれるかのように、「今」を生きる感情のエネルギーを失っていく。年月が流れて、「こんなはずではなかった」と気づく。

 今まで説明した全ての心の問題を起こしたのと同じ姿勢の中で、人は「もし〜だったら」と考えます。
 まず「こうなるべき」姿を掲げることからスタートする思考法。
 
 その思考法の中で、親は子に「ちゃんと勉強して良い大学に入りなさい」「いい人と結婚して子どもを産みなさい」と、その子にとって人生そのものが既に定められたものであるかのように言う。
 子どもは何度かそれに反発を感じながらも、やがて大きな時のうねりに流されるように、適当に就職したり結婚したりしなかったり..そして自分は「勝ち組」なのか「負け組」なのかと、他人を品評するような目で自分を眺めながら、何となく人生を過ごしていく。「もう少し〜だったら..」と考えながら。
 それが現代人のマジョリティであるように感じます。


人生を見出した人々

 どんなに才能や美貌に恵まれた人であっても、それで幸福だとは限らない。
 私たちは実際に、それを著名人や芸能人の自殺のニュースなどで知ることがあります。

 では一体私たちは何によって、自分の人生を見出し、幸福を手に入れることができるのか。

 逆境の中から人生の幸福を見出した人々の話は、それについて何かを示唆してくれているように思います。


“It”と呼ばれた子

 そのひとつの例は、世界中でベストセラーになっている、「“It”と呼ばれた子」のデイブ・ペルザーです。
 彼は幼少期に、カルフォルニア州史上最悪と言われた児童虐待の中を過ごし、やがて警察に保護され、里親の下で過ごしてから、空軍への入隊などを経て自らの人生を獲得しました。
 今では児童虐待防止のための公演活動などに精力的な活動をする一方、「アメリカを代表する若者」の表彰も受けるなど社会的な成功、そしてその活動を通して愛する伴侶とも出会えることができました。
 それは現代社会における人生の大きな成功のひとつの姿でありながら、それを生み出したのは、あの地獄とも言える虐待だったのです。

 それは、「もし〜だったら」という思考の中で人が幸福を思い浮かべるのとは、対極の姿であったと思います。

 彼はなぜそうなることができたのか。
 それについて彼が、カレン・ホーナイが幸福の条件として重視していたのと同じことを言っているのが印象的でした。

 それは「自分への責任を持つこと」です。


自分の顔を失った人

 「もうこれでは生きていけない」という悲惨な状況に置かれて、逆に人生の喜びを見出した人の話も、示唆に富むものがあります。

 その具体的な話としてまず思い浮べたのは、交通事故の際の火傷によって「自分の顔を失った」人の話です。これは日本の男性の方の話で、TVで見かけたものでした。
 病院で、生きる希望を失った失意のある日、そこで親しくなった女性と話をしていたというのです。自分のかつての写真を見せ、前はこんな格好よかったんだと。するとその女性、「全然カッコ良くない。目が死んでるじゃない。今の方がステキだよ。」と。
 その瞬間、その男性は何かを見出したのです。その後彼は、ボランティア活動などで充実した活動の日々を送り、人生の幸福を感じているという話です。

 先日私は、書店で似たようなドラマを経た韓国人女性の話の本を目にして、今読み始めているところです。
 その女性は、もし事故に遭わない自分に戻れるとしたら、戻りたいと思いますかという質問に対して、「馬鹿だと思われるだろうけど、“戻りたくない”が答えです」とのことでした。

 火傷で自分の顔を失った方が、普通の人々さえ知らない人生の喜びを見出す。
 これは実は心理学から見ても示唆のある話だと思っています。


 なぜなら、彼らは、「人に見られる」ことで生きる道を断たれたと思われるからです。
 人に見られることで自分の中の何かを引き出せる。それが断たれ、純粋に自らの内面から湧き出るものだけが彼らを生かすものになった。
 自分自身に重心を置く以外には、生きる道がなくなった。しかしそこには人生の喜びがあったわけです。


人生とは何か

 さて、逆境の中で人生を見出した人々の話もしましたが、結論は何か。

 それは、「もし〜であれば」幸福になれるという話など、何もないということです。
 幸福とは、与えられる条件の話ではなく、それをどのように受け止め、どこへ向いて歩むかという話です。

 「病んだ心から健康な心への道」において、この話はどんな意味を持つのか。

 それは、心を病む過程において、彼彼女に「もう直せない感情」を生み出したものは、彼彼女に加えられたストレスそのものではなく、「人生への欲求」が閉ざされたことだったことです。
 そしてその欲求に、まさにこの状況を生み出したストレスによって、歪みが加えられていたのです。


 人はこうあるべきだ。人はその通り、愛し合い、楽しみの場を持っている。自分だけにそれがない。
 この「人生への嫉妬」こそが、彼彼女に憎悪や敵意や絶望など、「自分はあるべきでない姿の人間だ」という決定打を生み出したのです。


 人生に何を求めるのか。それは子どもが親から教えられて知ることではありません。
 それは人間の本能であり、誰もが自分を唯一無二の存在として自らの人生を見出そうとする欲求を持っています。
 私たちの社会文化はその欲求を否定し、あるべき人生の姿を定め、しかもその通りになれない苦しみを「病気」として弾劾する人生観を採用するようになりました。

 善悪という思考を見直すと共に、人生というものへの見方を変えることが必要です。


人生はゲーム

 このサイトの人生観をお伝えしたいと思います。

 あなたが生まれたのと同じ日に、何10万人という人間がこの地球上に生まれました。
 ひとつの命がどこに落とされるのかに、何の必然性もありません。
 ある者は、愛情の溢れる家庭に、美貌と才能を併せもって生まれ、やがてアイドルに育ったりします。
 ある者は、無法地帯に生まれ、臓器を取られて売られる子供になります。

 そこには何の必然性もありません。全てが偶然です。
 そんな中で、自分の願いを満たす。

 ゲームです。

 このゲームで目指すものは「幸福」です。
 そしてこのゲームの特徴は、命がどこに落ちるかという、あまりに不平等な違いは、このゲームにおける勝利である幸福には、どうやらあまり関係がないらしいことです。
 むしろ、命が産み落とされたその場所から、いかに唯一無二の存在として前進するかで、ゲームの勝敗が決まってくるようです。

 そのことを認識していない人々が、ただ回りを見回して、自分が産み落とされた場所についての不平不満を言っています。そして動こうとせず、立ち止まっています。
 そうしているうちに、産み落とされた回りのおびただしい命が、自分の足で歩き出している。

 その中で各自がどれだけ幸福になれるかは、全ての要因の総合結果です。
 生まれ持った才能、美貌、運、環境、家柄、回りの人々、社会情勢、エトセトラ。
 本人の努力と、生きるための戦略の有無もとても大きな要因になります。
 皆の頂点に立つも、ばかばかしく潰されるも、能天気に一生を送るも、死んだらそれで終わりのゲームです。
 それは何の前提もない、何の基準もない、ひとつの命に1回限りの、ゲームなのです。


内なる病んだ心を否定せず

 この人生観は、多分に、冷酷です。「努力は報われる」とも、「誰もが幸せになれる」とも、考えてはいません。

 健康な心の回復のために、どれだけこの人生観に徹することが必要なのか、何とも言えません。
 ただ、少なくとも私は、この人生観の中で、自らの内なる心理障害をもひとつの制約と考えて、前に歩むことを選びました。その結果、病んだ心から健康な心へつながる、神秘の道を歩むことになりました。
 私自身は、この人生観以外にはあり得なかったと考えています。

 これは、これから健康な心への道を歩もうとされる方へ何よりも今お伝えしたことに関係します。

 既に多くの方が、このサイトを参考にして、自己取り組みの歩みを始めておられます。
 そこで最初に陥りやすい、今までと変わりのない同じ轍の中で思考する罠。

 それは、この歩みは、自分の中の誤ったものを見つけて、それを否定して直すことではない、ということです。
 自分の性格を何とか直したい。そのために自己分析して、こんな感情やあんな態度が見つかった。このせいだ。これが悪いんだ。


 違います。それは元の態度そのままです。
 このサイトの心理学は、「なるべき」別の自分になるための、最後の方法を提供するものではありません。

 なぜそのような感情や姿勢を持つようになったのか。
 それは、それを持たざるを得ない環境があったからです。むしろそれは、その環境においては、生きるためには必要なことであったはずです。
 このサイトでは、それを理解するための心理学を提供しています。これは病気の話ではありません。生き方の心理学です。
 そして、それが生きるためには必要なことであったことを理解した時、なぜ今の自分があるかという由来の真実が分るはずです。

 同時に、それが不可避であったことも。
 なぜなら人間は不完全な存在であり、神ではないからです。


 「自分のために努力する感情さえ損なったんだ。だから駄目なんだ。だから自分が嫌いだ。」そう嘆く方もおられると思います。
 同じです。それも自分が生み落とされた場所のひとつの制約として、受け入れて、前を向くかです。
 そして、そこから歩む道のりが困難であれば困難であるだけ、前進が成された時、いや前進する過程での苦しみそのものさえもが、大きな輝きになるでしょう。
 条件の問題ではない。あるのはただ、選択なのです。


善悪が解体された世界へ

 自分がどこに生まれるかは、偶然が支配する。
 幸福とは、欲求全体の調和ある充足である。どの欲求が幸福に重要だという前提もない。自分を最も幸福に導くと思われる欲求をみつけ、それに向かって全力を尽くす。

 この人生観によって、「善悪の解体」が、その真の意味を現わします。

 絶対的な善悪などというものはありません。それは欲求同士の利害関係のことか、もしくは法律として定められたルールのことです。
 そこには弱肉強食という側面もあります。この世界観はそれも受け入れています。

 しかしそれだけではありません。
 なぜこの世界観人生観を採用しているのか、3つの理由をお伝えしたいと思います。

 第1に、唯一この世界観だけが、今までの全ての話とつじつまが合うことです。他の世界観では矛盾が起きます。
 善悪は相対的なものである。愛は善により権利が得られるものではなく、強さによって自然に生まれるものです。絶対的な「あるべき姿」など、何もない。
 科学的世界観を採用します。人間は動物の一種です。この心理学は動物学を非常に重要な基盤にしています。弱肉強食という大自然の原理は、人間においても一部当てはまると考えています。


怒りの完全なる放棄へ

 第2に、無駄な怒りの完全なる放棄のためにです。
 怒りは本来、身体的な攻撃への反撃においてのみ役にたつ感情です。その場合でも、怒りは基本的に自らの心身の損傷を前提として、低機能化するための、毒の一種です。

 精神的な怒りは、どこかで必ず自分自身に返ってきます。
 なぜなら、人間は不完全な存在だからです。

 人は「これだけは許せない」という怒りを抱くことで、しばしば、自分の清廉性や正義性、誠実性を確認しようとします。
 しかし、神ではなく不完全な人間である自分に、「これだけは許せない」として怒っていた同じものが見出された場合、この人はどうすればいいのでしょうか。
 善悪観念の中で生きる限り、「自分を決して許さない」ことが「正しい」ことになります。
 「自分を決して許さない」結果、何をするのでしょうか。それにどんな意味があるのでしょうか。

 私自身の話をすれば、私はこの「善悪の解体」を徹底することによって、人に向ける怒りも、自分に向ける怒りも捨てました。

 たとえば、臓器を取って売られる子どもという言葉を出しました。これは現実に起きていることです。
 私はそれを「悪」とはあまり感じません。というか「悪」という観念は、もう私にはないのです。
 それは無法地帯で起きていることであり、その子を守る法の力がなかったということです。もちろん、可哀相な子だとは感じるし、もし自分がその子に近いところにいたら、その子を守るために力を尽くすでしょう。それが「善」だからではありません。そうしたい自分の欲求を本当のものとして感じるから。それだけです。
 そしてもし私が実際そんな環境に置かれたら、「それは悪だ」と非難することの前に、まず戦う技術を身につけるでしょう。
 今日本にいる私からは、何もできないのが現実です。まあ何か間接的な方法で、このような恵まれない子を救うための活動に参加できることはあるかも知れませんね。

 「そんな悪は絶対に許してはいけない。同じように怒るべきだ。それに怒らないとは、人間の隅にも置けない人でなしだ。」
 怒って、何が生み出されるのでしょうか。

 怒ることで得ることができるのは、その人自身が「自分は正しい」と思える感覚です。
 そして、「お前も怒れ」と言うことで、仲間や共感を得ることはできるでしょう。
 そして、その怒りの中で、自らの心身に毒を回すことはできるでしょう。
 しかしそれで、臓器を取って売られる子どもはどう救われるのでしょうか。

 単純です。臓器を取って売られる子どもがどう救われるかと、その怒りとは、全く関係がないのです。
 自分を正しいと思いたいのなら、そして仲間や共感が欲しいのなら、その欲求に素直に向き合えばいいのです。

性善説と性悪説

 最後に、この世界観人生観は、人間の本性についての基本的な見解を含んでいます。
 人間の本性とは結局、善つまり調和を志向しているのか。悪つまり破壊を志向しているのか。

 このサイトのような、内面の解放による治癒や成長という考え方は、性善説的な考え方の人には比較的受け入れやすい話です。
 一方、性悪説的な考えの人は、しばしばこれに異論を唱えます。


 私は心理学を専攻していた学生時代から、ごく最近、心理学への関心の高い方と会話した際まで、「開放」への異論に良く出会いました。
 私は最初から、抑圧された感情を解放して行けば真の愛が生まれると考えていました。それが自分の問題を解決するための、最後の賭けのような希望でもあったのです。さまざまな哲学や心理学の中で、最後に選んだのは精神分析でした。
 性悪説的な考えの人は、そうは行かない、と悲観的な考えを私に伝えました。人間はもともと攻撃的で破壊的な欲求を抱えているのだ。うまく抑圧するのが適応というものだ。
 そこに根本的な問題の解決はあるのか。彼ら自身、考えあぐねているようでした。

 私がこのサイトで自分の考えをはっきりと形にしてからも、それはどこか恵まれた人には役立つ話だ。だが、ただ否定されて育った自分のような人間には当てはめることは考えられない。そんな意見に出会ったことが何度かあります。

 性悪説的な考え方について、幾つか私の考えを記しておきます。


性悪説のパラドックス

 まず第1に、性悪説はもともと矛盾した思考のように思われます。
 なぜなら、「人間の本性は攻撃的であり悪だ」というのは、その人がある道徳的な高い規準を持っているからです。それは善を志向しているということではないでしょうか。
 一方、このサイトの性善説は、そもそもの善の基準を大幅に下げた考え方とも言えます。
 全てが許されているのです。
 どっちが善かと問うことは、なにか皮肉な話のようです。

 もし、人が自らの内面を開放することによって残虐性に至ったらどうすのか。
 それだけの話です。法律で対処すればいい。法律以外では、あとは自由と、当事者間の感情のぶつけ合いという世界観を選択しています。

 「破壊性が開放されてしまう」という懸念を言うなら、それは開放の仕方が間違っているのです。


本能は道徳よりも良識的である

 心理学からは、人間の本能は道徳よりもはるかに良識的だと考えています。

 怒りによって押しつけるストレスを伴うことを、人は決して自発的欲求として感じ取ることはできません。
 このストレスが自分自身に取り込まれた結果、人は自然状態で本来持つ、建設的な意欲や他者へのいたわりの心に対して、自ら麻痺が起きるのです。

 かくして、「勉強しなさい!」と叱られて育った子どもは、やがて勉強嫌いになること請け合いです。
 また「頑張り」をモットーに生きてきた人間は、現実は必ずしも「努力が報われる」のではないことに出会った時、抑うつ状態や無気力無関心に陥ります。

 「善」というものが得てして「押しつけられる」ものである結果、人はしばしばそれへの反抗として起きる「悪くなる願望」だけを、「自分の欲求」だと考えます。そして社会の制約との対立という構図で捉える。
 もし、彼彼女が心底から自由を得た時、彼彼女は何を選択するでしょうか。
 心底から自由を得た時とは、「善を押しつける者」が自分自身以外にはないことを、心底から自覚した時です。


健康な性と抑圧された性

 関連する心理学的な話題として、性衝動を取り上げてみましょう。

 人はしばしば、性の衝動をあらがい難いものと考え、その獰猛さが本能だと考えます。
 その認識を心理学理論の中心にした考え方も登場しました。フロイトの精神分析学などです。それをうまく抑圧し、建設的な活動へと「昇華」することが心の健康だと。

 しかしこのサイトの心理学では、性衝動が心理障害の中で麻薬のような役割を帯びることを見出しています。
 自己の重心を損なった空虚や、愛情の欠乏への代用品として、意識よりも深いところでエネルギーが性衝動にバイパスするような現象が起きるのです。
 現代人は程度の差はあれ心理障害を抱えているのがマジョリティであり、暴走する性衝動をどうコントロールするか、しばしば道徳倫理の問題として取り上げられます。

 しかし、自己の重心と愛の欠乏が減少した時、性衝動もより健康な姿を示すようになります。
 まず、欠乏を埋めるための代用品という、麻薬のような誘因がなくなっていく。
 同時に、望まない性行為が破壊行動であることへの感受性が回復します。これを自ら停止する本能は、高等動物一般のDNAに組み込まれているのです。

 まあ心の健康化だけで性犯罪が全て防げるというわけにも行かないでしょうが。。
 これは開放された人間の本能には道徳よりもはるかに良識的な要素があるという、一例です。


ハイブリッド心理療法

 実際のところ、そうした健康な心にまで至る「開放」は容易なものではありません。
 それは決して我流の努力でできるものではありません。専門的な心理学の知識が必要です。

 このサイトでは、そのための取り組みを「ハイブリッド心理療法」として提供しています。
 なぜ「ハイブリッド」と呼んでいるのか。それは2つの理由からですが、本質的には同じことです。

 まず、心理療法理論としては、カレン・ホーナイ精神分析認知療法という、現代を代表する2つの心理療法理論を基盤にしていること。
 そして実践面において、常に「2面を同時に見る」ことを非常に重視していることです。
 つまりこれは、単に精神分析と認知療法を足して、両方を行うことではありません。

 精神分析は、主に過去向きの心理療法です。過去を知った後でどうすればいいのかは、あまり言うものではありませんでした。
 認知療法は、主に未来向きの心理療法です。今の思考をより合理的なものにすることを重視しますが、既に心の中に蓄積された「もう直せない感情」については何も言ってくれません。

 ハイブリッド心理療法では、幼少期から蓄積された悪感情を解きほぐす過程そのものにおいて、未来志向の前向きな姿勢への変換を促すという、この2つの心理療法を有機的に組合わせた、新しい「心への取り組み」の実践を作りました。

 この「取り組み1−自分を優しく育てる」では、ハイブリッド心理療法の基盤となる、人間理解を説明しました。
 つまり、まだ実践ではありません。実践はこれからです。

全てが許された世界へ

 まず、全ての心の問題が、同じ思考、同じ姿勢の中から生み出されていたことを理解することです。
 それは情緒に善悪を当てはめる思考体系です。その中で「正しい」と思っていたことを、これからも「正しい」と思い続けて生きるのか。
 それとも、全ての問題が、「善悪」ではなく、自己の幸福を目指すこのゲームの持ち駒の問題と考えるか。
 それは選択です。
 そこには全く別の思考、全く別の世界観人間観があることをお伝えしました。
 そしてそれが全く矛盾のない、真実であると、添えておきたいと思います。

 つまり、全てが許されているのです。
 どんな悪感情を抱くことも、性格の歪みも、敵意や、憎悪も。少なくとも、私たちが今住む自由主義社会には、感情を取り締まる法律はありません。
 それは置かれた来歴の中で、人間の心理メカニズムが正常に示したひとつの現象でしかありません。
 それを抱えて、いやその克服に向かって、どこへどれだけ動くのか。

 逆境の中で逆に人生を見出した人達の話をしました。
 同じことのように思われます。それを一つの制約として、人間が本質的に不完全な存在であることを受け入れて、前を向くか。それとも完全な存在として人生がスタートしなかったことを嘆いて、動こうとせず回りを見て怒りの中で生き続けるのか。

 事実、この歩みに踏み出した時、それはもはや「制約」であることさえなくしています。
 何故ならば、それは輝きだからです。
 あなた自身にはまだその輝きが何なのかを見ることはできないかもしれません。しかしこれは人間に課せられた課題なのです。何故人は幸福を願いながら、自らそこから遠ざかるのか。なぜ人は真実と愛から遠ざかったのか。そしてどのようにして、再びそこに回帰するのか。

 そしてその回帰が成されることに、私は確信を持っています。
 「真実」という、人間の最大の本能によって。


2004.8.21


inserted by FC2 system