2 私はどのように健康な心を得たか

 ここでは私の症歴の概要をご紹介します。
 「病歴」とは言わずに「症歴」と言いたいと思います。病気とは考えていないからです。

 高校時代に視線恐怖症を始めとして、各種の神経症となりました。しかし私の場合、外面的には活発に行動する方でしたので、「個人の独立」というような人生哲学の中で、それを「自由奔放な行動」で振り切りました。
 しかし大学に入学し、所属したサークル内で起きた感情的対立の中で、ある上級生の女性の側に立つべく、その女性と強いつながりを持とうと行動に出たとき、自分の中の何かが外れ、恐慌的な内面の混乱に陥りました。

 私はこの自分の内面の混乱に打ちのめされ、もはや「自由奔放な行動」を取ることはできず、できることは自分の心に向き合うことだけになりました。同時に精神病理学、精神分析学、心理学をむさぼるように勉強し始め、大学院まで心理学を専攻することになりました。

 その後の経過ですが、私の場合は心の病を外面的症状として顕在化することは何とか踏みとどまれたため、全てが「障害」というよりも日常の中で体験する歪んだ感情として、自分の内面に向き合うことになりました。その感情内容そのものは、外面に現われる自傷他傷や行動障害がない点を除けば、自己嫌悪、絶望感、悲哀、不安、パニック、恐怖、敵対感情、離人症様感覚、依存的恋愛感情、生理的離反感情、見捨てられ感、抑うつと異常な高揚感、ナルシズム、無気力、破壊的怒り、そして狂気不安などなど、心理障害における感情のオンパレードです。

 *ちなみに、ひとりの心理障害者がこのように様々な「症状」をしばしば持つということは、心理障害というものが別々の「病気」などではなく、人間心理の特定の現われに過ぎないのではないかという推測が、当然すぐできると思います。

 それで大学時代から自己分析的な取り組みを続けることになりましたが、同時に治癒に向かう動きも伴っていたと思います。
 最大の山場が大学4年の時にあり、その頃深い恋愛感情の中で、自分の内面で切り離されていた感情を遡るような大きな動揺の中で、完全な絶望に至り、自殺を決意しました。しかし直後に外的な偶然が重なり、「決行」が引き伸ばされる間に、絶望の焼け野原の中から誰も知らずに草が芽生えるように「ただ生きる」無垢な感情が生まれていた。そんなことが2回ほど続きました。

 *これは解説で述べている「自己操縦心性」が、かなりまとまって除去される過程に当たると考えています。ただし私自身はそのような事前知識がなかったため、その際の絶望感に実質飲み込まれてしまったわけです。幾つかの偶然が時間稼ぎをしてくれたため、救われたという危ない状況でした。

 大学4年の山場を過ぎて、私の内面の混乱は次第に落ち着きに向かい、大学院へ進学し、引き続き精神分析学や臨床心理学を学ぶ中で、論理療法や認知療法との出会いもあり、より積極的に自分の心を建設的な方向へ向ける取り組みも、多少は効果があったと思います。
 それで、修士を卒業する頃には、自分の心の中の問題が全て解決した訳ではないけども、もう社会へ出る不安から研究者の道を選ぶという誘因はない、純粋に自分の将来設計と考えた時、やはり研究者として生計を立てる困難というのも現実的でしたので、社会人の道を選びました。

 社会人生活の始まりは、何か生活環境全てがリセットされたような感もあり、私は自分の内面に向き合うよりも、外面での生活に専念する方向に向かったと思います。仕事はコンピュータのシステム開発関係で、自分の資質や性にも合ったものであり、仕事の面ではかなりの成果も発揮できたと思います。また趣味のテニスやスキーにも熱中し、外見からはまさに今時の若いビジネスマンとして充実した生活を送りました。
 それでも、友人関係はあまり満足できるものではなく、屈折しがちな感情、そして女性に対してはさらに複雑に屈折した感情の中で近づくこともあまりできず、心の中では孤独感が続いていたと思います。

 ある時期には、気分の開放感も大きく、自分が孤独を抜け出られるよう気がして、勇気を出して女性とのデートに奔走したこともあります。こうした社会人生活が20台後半から30台前半まで続き、かつての心理学を勉強した自分も遠い昔の他人のように思えたこともあります。心理学の本もほとんど全て古本屋に売り払い、もう心理学の世界に戻ることなどないと思っていました。

 30台後半に入り、女性とのデートへの努力への気力が薄れてきました。結局何も続くものはなかったのです。自分の中の何かがそれを阻んでいました。私は再び外面行動よりは自分の内面に向き合う生活をするようになりました。
 社会人として自分にある程度自信がもてるようになっていた背景もあるのでしょう。全ての問題が自分の内面の問題として見ることができるようになっており、自己分析的に向き合う取り組みの中で、再び自分の心の中の感情のもつれを少しづつ解きほぐしていく過程が、静かに進みました。そして、隠れていた感情に出会う動揺を経て、自分の心の感情の基調も、少しづつ上の方へ、静かに上昇していくような時間が過ぎていきました。

 私が最後まで自分の心の中で持ちつづけていた問題とは、自分には、自分を人と結びつけるための感情とか意欲とか性格とか、そうしたものが根本的に欠損している、自分は人と親密になったり愛情を交わしたりすることのできない、精神的不具者なのだという感情でした。ある時は、その抑うつ感情の中で、やってきた地下鉄にとび込んでしまえ、といった感情が今だに自分の中にあるのを自覚したりもしました。ただ、もはや「生きる」ことへの確信に対しては、微塵の影響も与えるものではありませんでしたが。
 自分に向き合う取り組みの中で、その回りに付随していた様々な悪感情が取り払われて行っても、それは決して消え去ることのない、原点とも言える感情だったのです。この感情にどんな出口があるのか分らず、また出口があるとも思えませんでした。

 最後まで残り続けていたのは、漠然とした、生理的な悲しみの感情でした。1週間の中で仕事にも熱が入り、そのあと休日をのんびり過ごした後、休日明けに会社の自分の席に座った時、私は自分でも全く理由の分からない、目頭が熱くなるような生理的な悲しみがしばしば沸き起こりました。その時には何か全てが無意味なような気分で、仕事の手も進まず、人に明るく接する気にもなれない、そんな自分の感情に向き合うようになりました。
 それでも、埋もれていた感情に出会う自己探求の中で、私の感情は清明さを増し、感情の基調もより肯定的なものへと上昇していました。そして、悲しみの理由が、自分の来歴の全てに、幼少期からの運命とも言える、人とのつながりを得ることなく生きることになってしまった自分の来歴に向けられたものであることを、次第にはっきりと感じるようになってきました。その悲しみはもはや私の日々の生活の中の、仕事や人への感情を阻害することはなく、外面では人に明るく接することができる、でも悲しみがそこにある、そんな状態になっていました。

 この辺から先の過程を少し詳しくお伝えしようと思います。
 それが、今までどんな心理療法理論なども、そんな事が起きるとは教えてくれなかったようなものだったからです。

 私は、自分が抱え続けてきた悲しみの正体をはっきりと実感しました。そして、それを乗り越える時がやってきました。
 しかしそれは精神分析が言うような、「自分を洞察して変わる」などという感じのものでは全くありませんでした。それまでの感情の解きほぐしもそうです。自分に向き合う取り組みを続け、埋もれていた感情に出会い、それを克服した時というのは、それを自分が乗り越えるなどという感情はなく、ただその感情をじかに味わう辛い時間があるだけです。その感情を味わったあと、その感情が消え去り新しい感情が生まれるのか、それとも抑圧されていた悪感情が一時的に表面化するだけなのかは、それまでの過程とか、その人の内的外的状況といった全ての結果として方向付けられると思われます。
 それでも一つだけ言えるのは、自分の心の感情に直面し、それを乗り越えていく時というのは、直接感じるのはその感情の辛さを味わうことだけですが、同時にそこに、その感情が自分の本当の感情なのだという、安心感を含んだ確認を伴うことです。一方、単に抑圧のバランスが崩れて表面化した感情といのには、何か“まずいものが現れた”という感覚が伴うものです。

 そんな感じで、心の病から抜けだす過程というのは、「自分を理解して変える」などという人為操作的なものでは全くありません。
 この点で、私は精神分析が言う「洞察」というのを断固否定します。

 感情の清明感が増し、感情の基調がマイナスからプラスの方へと上昇していくと、完全な停滞に陥らない限り、ゼロ線を通過する時が訪れるはずです。実際それは私に訪れ、その時はそれがゼロ線の通過などとは考えようもありませんでしたが、極めて特殊な印象深い体験となりました。
 今年(2002年)の4月頃に入り、自分の悲しみの理由が、他に何の動揺も伴うことなく意識できるようになっていました。悲しみは自分の来歴に向けられたものでした。その4月中旬、私は独りで白馬八方にスキーに行きました。いつも会社のスキー仲間と行く宿で、私はそれまで宿の親父さんに何となく性格的な気後れがあってひとりで行くというのはあまり考えられませんでしたが、もう、そうした気後れもなく、お世話になりますと連絡をして、金曜の夜、中央高速を走っていました。

 何となく、今までの自分の感情の全てが、心の中で整理されたような感覚がありました。
 自分は独りでした。他には何もありませんでした。これが自分の感情の基調だったのです。でも同時に、私には深く大きな感慨が沸き起こっていました。それは「自分には何もない」という感覚の強烈さでした。外見ではどうであれ、独りで生きてきた自分、他には何もない、それが自分なのだ。本当のからっぽだ。そんな感覚でした。同時に、不思議な、哀愁の気分が私を覆いました。何もない。「悲しむ理由」それさえももうないのだ、と。。
 自分がこれまでの人生を通じて感じ続けてきた悲しみ、それを自分は失おうとしているという、何か寂しさを含んだ感慨でした。悲しみを失う悲しみ、そんな不思議な感覚でした。静かで大きな感動がありました。このあと自分がどこに向かうのか、ただ自分は「まっさら」になって行く。そんな感覚でした。私はこの夜のことを一生忘れないと思います。

 この後、私の心の変化が、私自身にかなり明瞭になってきました。感情の基調がマイナスからゼロ線を通過し、プラスになったことは、外界全体の色調がブルー系から薄いピンク系に変わったような、少し別世界のような変化がありました。5月のGW、実家に帰り、兄夫婦の小さな子供を前にして自分の変化を感じました。それまで私は小さな子供が苦手でした。何か自分の心の欠損を敏感に察知して、怖がるのではないかという不安から、子供に接することを避けていたのです。しかしその時その不安はなく、子供は可愛いもの、自分が育て得るもの、という感覚があるのを感じ、ようやく甥と仲良くなり始めました。

 私は、何の前提もなく、自然に人を好きになれる感情が自分の中にあるのを、生まれて始めて感じました。
 “恐れることなく人を愛せる!”そんな高揚感に満たされ、愛する女性を見つけ、家族を作りたいという気分になり、また女性相手探しに熱中しはじめました。ただそこには一種の反動のようなナルシズムも含まれており、多少の感情の混乱と自己分析取り組みの中で、高揚が幻滅に変わるような動揺を経た後、自分の内面に確信を伴う安定状態に至りました。

 大体このような過程を経て現在へ至っていますが、その安定状態へ至る最後の感情体験を、これも大きな意味があると思いますので紹介しておきます。
 それは私が人と積極的に交際しようという気分の中で、旧友相手に飲み会を持ちかけたりしている日々の事でした。
 自分が今までとは別人のように、行動的になれているのを感じていました。一方で私は既に40台に入り、青春の若さは通りすぎた後です。今行動力が生まれたとしても、私の悲しみの来歴は塗り替えられるものではなかったのです。ある日私はその事実をまざまざと実感し、悲嘆に包まれました。20年前に今の自分があったら、どんなに素晴らしい人生を歩めていただろう!回りの友人たちは、そうして青春時代を過ぎて今がある。自分にはそれがない。
 この20年間が「失われた20年間」であったという喪失感をまざまざと感じました。青春時代の20年間を失ったまま、時間だけが今にワープして来た人間であるかのように、自分を感じました。自分の住む村に帰ってきた子供が、回りを見回しても誰もいない、何もない、そんな気分に陥っている自分を感じました。心の中で、“何もないよう〜。誰もいないよう〜。”と泣き崩れる自分のイメージ。“もう死んでしまいたい”という自分のイメージ。

 私はこの時、浦島太郎の物語を思い出していました。玉手箱を開けたとき、浦島太郎は一気に3百年の時を老化して死んだのです。それは、失われた時への悲しみから逃れるためのことであったように思えました。
 自分の人生は一体何だったのだろう、その懐疑に私は覆われました。仕事も手につかず、この感情は何なのだろうと、インターネットで、「自分の人生は何だったのか」と入力して検索すると、沢山の人々の自叙伝が出てきました。望まない結婚と不幸な家庭生活の後、ようやく自分の時間を見出したとき、自分が何も得ていなかったことに気づいた女性、戦時の貧窮から疎開して生活を支えるためだけに身を減らす苦労の末にようやく生まれた平和の中で、失われた青春を振り返る老年の男性..そして原爆被害者の悲痛としか言えない人生..
 そこには、容赦ない現実がありました。何億何万という地球上の命と、何億という年月の中で、幸せな一生を送るか、あまりにばかげた損な一生を送るか、そこには何の必然性もないのです。自分の人生が特別のものだという、幼い頃から抱いていた感覚は、完全に間違いだったのです。そこにあるのは、ただ、“ちっぽけな人生”でした。
 “自分の人生は一体何だったのだろう”、その答えは明白でした。それは、“ちっぽけな人生”だ!それが答えでした。私はこの後、目の前のことに何でも全力を尽くそうという意欲を感じました。大体このあと、私の生活は全般において、無気力や空虚とは縁なく、いつも充実した状態でいるようになったと感じています。

 大きな感情の動きというのは大体ここまでです。
 このあとはあまり心理的に大した話はありません。つまり自分の人生をまっとうする「ただの人間」になったわけです。
 だた、そんな後の日々の生活感情がどんなものかというものも興味ある話と思いますので、「治るとどんな気分?」でご紹介します。また、心理療法という観点でこの過程を振り返ったとき、どう考えられるか、つまりうまく行った話なのか、もっと良くできた話なのかの感想を、「治癒過程を振り返って」でご紹介します。

2002.12.7


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