心理障害の感情メカニズム |
(4)最初の破綻
自己操縦心性が発動するまでのメカニズムを見てきました。
今度はこれを、成長する子供の内側の意識から見てみたいと思います。
心理障害に至る個人は、必ず、幼児期において極めて不満度の高い体験をします。
それを憶えているかどうかはまちまちです。
何か不満を持ったことを漠然と憶えている場合でも、そもそもの最初のきっかけは思い出すことはできません。
精神的傷害度の高い体験であった場合は、出来事そのものの記憶さえも葬り去られます。
なぜなら、そこで起きた感情は、ありのままに受け入れることは子供の自我では不可能であり、今の自分とは別事として切り離し抑圧する方法しかないからです。
この子供には、幼児期に決まった悪夢が見られるでしょう。
夜驚として外から観察されることもあります。
児童期まで、子供は漠然とした不満や不安に取り囲まれながらも、「何とか回りと」やり過ごして生活して行きます。
その中で、しばしば空想の世界にひたるようになります。
子供の空想力は驚きです。ただこの子供の場合、そこに入れ込む度合いが普通の子とはどうも違うのです。
空想に浸っている間、回りの音さえも聞こえなくなっていたりします。
時にはパニックが起きる体験もあるかも知れません。
でも本人は「そんなこともあった」程度にしか憶えていません。
やがて思春期になり、二次性徴期の体の変化と共に、気持ちの変化が起きてきます。
回りの中での自分の位置付けとか、異性が非常に気になるようになります。
それと共に、何か違和感が起きてきます。何かちょっと変だ。
空想のなかで自分のこととかあれこれ考える一方で、現実がずれている。「現実がついてこない」のです。
いつしか、「とたんに」という感じで、漠然とした不安が自分をとり囲んでいることに気付きます。
世界が崩壊するような気分がするような不安です。
同時に、回りの人々の、自分を見る目が異様に強烈に感じてきます。まるで電波が発生されているような強烈さです。
「あるべき自分」はこうなのに、全然違う自分。どうしよう。どうしたら良くなれるのだろう。
絶えることのない緊迫感が流れ初めています。
大体このような流れです。
このように、自己操縦心性の発動が起きた初期においては、急激に心理的ストレスが高くなります。
このため、この後の感情メカニズムがある程度定型的な循環パターンを形成する前に、一過性の障害症状が起きることが考えられます。
幾つか考えられるものを挙げましょう。
思春期の自殺
小学校高学年から中学1、2年までに起きるもので、エアポケットに入ったかのようにあっさり自殺してしまう例があります。
これは現実離断の心の動きが、自殺願望として直接表れたものと考えられます。
まだこの時期には自分の社会性に関する思考も未熟であり、この後の、成人段階の心理障害過程で起きる自殺願望とちょっと質が違うように思われます。
それは現実世界が辛いというよりも、自殺そのものが何か神秘的な輝きを持って映るのでしょう。
かつて私が中学校の頃、妹の持っていた少女マンガを読みふけっていましたが、自殺が絡むのが良くありました。
そこに流れる雰囲気は、「失ったもの」であり、それを守ろうとする自分たち子供たちだけの世界であり、失ったものを探そうとする神秘な旅でした。
そこでは、「失ったものがいる世界」が、自分の本当にいるべき世界であったような感覚が起きてくるのでしょう。
自殺はそこに行ける手段として、あまりにも魅力的なものに映ってしまうのでしょう。
このエアポケットに子供たちを落とさないためには、何よりも学校教育において、皮相な道徳ではない、人間の心の理解に基づいた新しい指導を取り入れることが必用であると感じています。
なお、感情メカニズム論的な話をしておきますと、この自殺願望の感情自体は、単純に自己操縦心性が作り出したものではありません。
この後でも多少このような話に触れることがあると思いますが、それは本当の感情、つまり「真の自己」の感情も含んでいます。
合成された結果が意識の上では単一の感情として表われます。
そこにある「出口のない押し込められた感覚」は自己操縦心性が真の自己を圧迫していることの表現でしょう。
しかし「失ったものへの思い」は必ずしも病的な要求のフラストレーションではありません。それは人間の真の感情です。
だからこそ、多くの人の心にそれが染み入るのでしょう。
「嘆き」ではない「悲しみ」は、多くの場合、真の自己から来る感情です。
対人恐怖症
さらに典型的な一過性症状は、対人恐怖症、中でも視線恐怖です。
これは彼彼女が「天国か地獄か」レースという、世界の目が向けられる場に立ったという緊迫感による直接症状とも言えます。
彼彼女の心の中では、他人はその一挙手一投足を、軽蔑に満ちた陰険な目で、もしくはハラハラとした慈愛の目で見る観客なのです。
良い意味でも、悪い意味でも、彼彼女はこの舞台の主人公なのです。
しかも体形も子供から大人に変わったばかりでぎこちなく、そもそも彼彼女にはこの舞台の主人公たる自信がないのです。
必然的に彼彼女は、他人から発せられる視線という電波に苦しみます。
現実覚醒の多少低下したこの心性は、しばしば、誰もいない家の外に出ただけで、この電波を捉えて恐怖反応を引き起こします。
これは健康な人間でも通る視線に敏感な時期と、自己操縦心性の発動初期の心理的ストレスの重なりにより、ほぼ必然ともいえる形で起きる症状です。
正確な調査などしていませんが、境界例など重めの心理障害の方は、例外なく思春期から青春期にかかる頃に視線恐怖症になった体験があると予測しています。
このような一過性の要因が結構大きな役割を果たすので、この時期の対人恐怖症が「治る」のは、心理障害の中でも最も容易な部類に入ります。
本人の人生観価値観の変化だけでも「快癒」することがあります。
結局それは、自己操縦心性のバランスの係争ポイントが、表面的な仕草とかではなく、仕事とか恋愛とか人生全体の方に移ったということで、この病んだ人格構造全体に変化があったわけではありません。
また、本人の生育環境などの理由から、振る舞い仕草、声の流暢さなどが重要問題になっている場合は、持続的な対人恐怖として本格的神経症の姿を示すことになります。
この他の初期症状としては、若年期の家庭内暴力や残虐性の大きい青少年犯罪が少し気になるところです。
最近(2003.7)の話題としては12才の男子中学生による長崎の児童殺害事件などがあります。
ただ、このような破壊性の重度な攻撃性は、ここまでのメカニズムでは考えられません。
思春期要請の帰結感情としての憎悪・復讐心ではまだ「現実の境界」を踏み越えるに達していないと考えます。
現実境界を越えさせてしまったのは、後の「自己嫌悪システム」による「積極的自己疎外(自己乖離)」によるものと考えています。