ケース・スタディ
感情分析過程の例
02 ハイブリッド療法の姿勢と感情分析過程が典型的に現れた数日間の体験

■4 自分の行動への不安感の自己分析(1) 問題が解消したかのように見える 2003.9.2

 その日、Aさんの援助行動に出ようとした私の衝動に、自己欺瞞や隠された自己嫌悪が潜んでいたことは、落ち着けない漠然とした不安感や、相手からの怒りの予期不安となって現れていました。
 それで私は、その落ち着けなさの正体が何であるのかを吟味しようと、自己分析を行っています。
 多少経過を説明しながら、その日の私の日記を紹介します。

2002.12.9(月)

 何とも気の疲れた午後だった。

 朝Aさんから「お願いです会って下さい。もうすがれる人はあなただけです。」とメール。
 僕はう〜ん困ったことになった、何ともうこの状況が来てしまった、と部屋の中を回る。雪のため遅れた週次会議の最中に、対応を考える。

 朝家を出る前に彼女に行ったのは、恐慌状態に陥った彼女を想定したものだった。再生が必要なのです、体を休めなさい、と。
 それから、今までの彼女の「勇気」が実は「無謀」でしかなかった、何も支えるものがない今、怒りを外でなく今までの自分の精神に向けなさい、と、そして自分を支えるのが本当の勇気です、というのを伝えることを考える。
 そこまでが会議中。

 僕の中には完全に、僕に「全てを頼ろうとする」彼女の姿がイメージされていた。そのような事態に対応できるためには、自分には協力者が必要だと考え、母やB子ちゃん(親戚の女性)のことを思い浮べたりする。
 午後自社ビルに着いて、結局、僕が彼女を導く、その取り組みの協力者として彼女自身を位置付けるような言葉で、彼女の自律心を促すという戦法を考える。


 ここで「全てを頼ろうとしてくる彼女の姿がイメージされた」のも、先の自己嫌悪を意識圏外に隠すミッシング・リンクの機能を持っています。自分の態度には無理があったのです。それを自分が無理をしているのではなく、相手が無理なことを期待しているとか、無理な外部状況があるという感覚が起きます。

 ここで、仕事の方で客から軽い怒りのメールが届くという出来事が起きます。
 そこで起きた自分の感情を分析しています。
 ここでもハイブリッド療法の姿勢が多少現れています。つまり行動として最善の建設的なものを考える一方、感情については、それが何の感情なのかをじっくりと吟味するだけで、感情の善悪は一切考えません。マイナス感情を正そうとも全くしていません。
 ただし、建設的な行動にそぐわない感情は、正そうとはしないが、それが無駄な感情であることを感じています。その上でその感情が一体何なのかと吟味しているわけです。

 そんな中、お客様の地方支社Mさんから、僕が先日出した提案説明会議の時間調整メモに怒りの言葉を添えたメールが来る。本社中心の案件のため、Mさんへは時間都合がよろしければ、と伝えたのを、客に向かって東京に来いとは何ごとか、と。またお客様組織名を古いまま書いた点も含め、お客に対する最低のマナーだ、失礼ではないか、と。
*この方は何でも文句をつけることが周知の人なので、我々はお客様組織名の連絡徹底がされていなかった点を反省し、あとは「またあの人か..」とにが笑い程度の話です。

 そのメールを見た時、ちょっと心臓がきゅっとなる感覚があった。緊迫状態を感じたということだ。
 それと同時に僕の中には、Mさんにプライドを傷つけられた怒りのようなものがあった。“何を自分が客だと言っているんだ”という反発。それは客としてではなく同僚として見る権利が僕にはあるという感覚。
 では権利がなければどうなるのか、と考えると、卑下してびくびくしている自分のイメージが浮かぶ。
 僕はMさんに誤りのメールを出し、同時に「ご指摘ありがとうございます」と添える。その文言を書いていて、「良くできた人間だ」という評価が自分に向けられるのを空想する。
 明らかにプライドの回復であり、緊迫感が解ける。


 この自己分析が前後の中で意味を持ったのは、「卑下してびくびくしている自分のイメージ」が明瞭になったことです。それは自分としてあまり受け入れたくない、無様なイメージでした。
 このイメージがどのような自己嫌悪感情の対象になっていたのかが、この後次第に明らかになって行きます。
 一方、「客としてではなく同僚として見る権利が僕にはあるという感覚」にも多少、何か隠されたものがあることが、この時点においても感じられています。ただしそれ以上の発展は今回はありません。これが意味あるものとして自己分析の俎上に上がったのは、大分後の全く別の状況です。

 上の出来事と平行して、Aさんに対しても少し似た状況が、その緊迫感を増加させた。
 Yahooメールから彼女に、まず状況確認を出す。彼女のサイトの掲示板を見ると、彼女自身の書き込みもあり意外に元気そう。“Happy”とかの言葉も含んだ書き込みを見て、少しつままれた感じ。Yahooメールから自宅PC用のメールも見れ、彼女から“ごめんなさい。仕事があります。土日にぜひ。”とかの文面。
 安心する。そして気が抜ける。恐慌状態の彼女のイメージが消え、いつもの元気な彼女のイメージ。その中で、彼女をとんでもない状態と思い込んだことへのバツの悪さのようなものを感じながら、その後に彼女に少し柔らげた文面を打つ。


 ここでAさんに出した私のメールも引用しておきましょう。自己欺瞞の匂いがぷんぷんとしています(^^;)。またそれを自分自身と相手にごまかそうと駆り立てられている様子も。
 yahooメールからいつものBoxも見れました。便利ですね!
 差し迫った状況ではないようで、安心しました。
 私はAさんのどんな話でも受け入れます。たとえそれが私自身への毒吐きのようなものであってもです。でも、私がAさんと一緒に行いたいのは、話を聞く以上の本格的な心の健康への調整作業です。そのために私はとても沢山の検討をしてから言葉を選んで、分身のようなものとしてメールを送り出している訳です。

 実際に会って話を聞くことはできても、私の方ですぐの言葉に詰まり、困った様子を見せてしまうでしょう。即時に応対できるようになるためには、私ももう少し修行を積む必要があります。さらに大切なことですが、私に対しては、人に聞いてもらいたい事だけでなく、それも含めてAさんが自分の内面で感じるものをそのまま何の修正も付けずに伝えて欲しいのです。

 私を(これらのメールを)、未来の、健康な世界に住むAさんからの分身だとも思って欲しいのですが、いかがでしょうか。サイト向けとかでなく、本当の本心を、Aさん自身がより清明に自覚するためにも、それを文にしてから、私に送ってみませんか。実際、それが今回の取り組みでは最適な形です。
 p.s 確かに、色々なことがありすぎるのを整理する方法がまず課題だと思います。戦略練ってます。


 このメールを出した後、私に怒りの予期不安反応が起きます。
 無意識の中では、自分自身が行っている行為への自己嫌悪が起きているのです。意識の上では、相手から嫌悪が向けられるというイメ−ジとなって現れます。

 すると今度は、彼女から猛烈な怒りが返って来るのが空想の中に現れる。「あなたには頼りません。何も言って頂かなくても結構です」と彼女が返してくるとか。空想の中で、僕は何か自分の弱点を突かれたような感覚の中で、それを受け、指導者としての自分の立場を何とか取り戻そうとするような空想が現れる。

 その後で、Aさんの返事にそんな怒りの要素はないのを見た時、僕の緊迫感は大分解けた。そして、彼女に会ってもいいという気持ちが起きたのだ。
 自分の今までのAさんへの用意周到な近づき方は、無意識にそのような緊迫感があって、擬装されたされたものだった。攻撃的な要求が起き僕がそれに答えられないと、猛烈な怒りが向けられてしまう、という緊迫感だ。これを自覚して、僕はその擬装を解除できる状態の方に動いたのだ。

 “自分はAさんを恐れていたのだ”と考えると、笑えた。
 だが、そのあと考えた疑問は、もし自分に全てを頼ろうとするような攻撃的要求が来た場合をイメージした時、何故自分は堂々とそれを断れなかったのか、ということだった。

 僕の中には攻撃的な要求や怒りに対応できず、おどおどしてしまう自分への自己嫌悪があったようだ。
 その自己嫌悪からの逃避を、「治療者としての距離」とかの身構えで擬装していた。
 自分をこう擬装した時、他人が得体の知れない恐ろしいものになったのだ。これは人との関係一般でも起きていた。それが自分を人から全般的に遠ざけていた。それが悲しみの理由だった。

 プライドが傷つく原因を無意識化すると、それを起こす外界状況は得体の知れない恐怖を起こす。


 この日の自己分析で明らかになったのは、漠然とした緊迫感の無意識的原因のひとつということになります。
 それは相手の怒りに出会うことで怖じけてびくびくした自分の姿を晒してしまうことへの不安でした。今まではそんな自分の姿はないものと考えようとした自己欺瞞があったわけです。
 それは私が何か自分の破綻の姿であるかのように、それが起きる可能性のある場面を避けようとする無意識的強迫性も生み出していたのです。

 私にはこの時、「怖じけてびくびくした自分の姿」を恐れることが現実にそぐわないという感覚も持ちました。Aさんは小柄で可愛い女性なので、自分の感情の中にあった、得体の知れない怪物に出会うかのような恐怖の色彩は馬鹿げたものに思えたのです。
 同時にこれが自己嫌悪の擬装というメカニズムで起きたのだと考えることは、実際自分の置かれた状況の緊迫感を大分減らしてもいました。
 これで私は、Aさんに面しようとする際の自分の不安の元が消えたように思い、これ自体をAさんに「こんな風に不安が消えるのですよ」とか説明しようかとか考えていたのを憶えています。

 私はAさんの援助行動に出ようとする自分の不安が解決したと考えました。
 でもそれは錯覚でした。次の日、私は内面的にもっと深刻で、本質的な落ち着けなさがあるのに気づいたのです。
 

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