ColunmとEssay
4 現代と社会・症例考察その他
04 マナー違反を注意したい? 2003/08/20

 きのう日本人の哲学思想の欠如という話を掲載しましたが、今日の新聞の人生相談コーナーに、この典型的なものが載ってましたのでちょっとお話したいと思います。

 相談は「子供にマナーをどう教える」か
 30代女性会社員の方で、6歳と2歳の子供がおられ、どうマナーを教えるか悩んでおられるようです。
 日頃から、「小さい子には優しく」とか「口うるさく言い聞かせて」いるようです。一方、人の度を過ぎるマナー違反を注意したところ、相手の怒りを買い、殴る蹴るの暴行を受け、注意の声をかけるのが恐くなったと。旦那さんは「下手すると殺されるぞ」とこの方をたしなめているようです。子供が、ルールを守らない人を見て「だめなのになあ」とつぶやくのを見て、「理想と現実のギャップ」に悩んでいると。

 これに対する回答、これは著名映画監督の方です。
 路上に座り込んでいる若者を注意した人が逆に袋叩きにあい殺された例を出し、やり切れない時代ではある。「詭弁になってしまうかもしれないが、不正だからと言って誰彼かまわず注意すれば良いというものではない。義を見てせざるは勇なきなりという言う一方で、君子危うきに近寄らずということわざもある。」等。
 回答としての良し悪しは別として、これは行動法の説明であって、そもそもマナーとは何か、正しい姿勢は何かという問いへの答えにはなっていませんね。

 相談者の思考は、典型的な「ひとり善がり思想」に当たります。
 善悪でものごとを考えていますが、どのような前提で善悪があるのかという基準と制約に関する認識がぽっかり抜けて、善悪が一人歩きしています。

 ものごとの考え方には、この他に「宗教思想」と「契約思想」があります。ここでは契約思想から考えるとどうなるかを説明しましょう。
 マナーつまり作法とは、特定の権威者もしくは多数派が良いと思うものを善として、権威なき者もしくは少数派の独自性を切り捨てるためのルールです。自分自身に良かれと思うことを、権威もしくは多数派を傘にして、善として押し付けるものです。
 このため、マナーというのも時と場合によっては非人道的になりがちです。

 路上に座り込んでいる若者達を見て「何馬鹿なことをしてるんだ!」と叱責したとします。
 これは「路上に座り込んではいけない」というルールから見れば、叱責した人が正しいわけです。たとえ何故彼らが座り込んでいたとしても、です。
 しかしもし彼らがそこで病人を介護していたのだとすると、叱責した人間の方が非人間的です。

 契約思想からは、全ての善悪は相対的であり、当事者間の約束事の話です。
 約束事がないところでは、善悪はなく、互いの願いをどう満たすかの行動方法の問題です。
 路上で座っている、電車の中でものを食べる。そうしたことが直接自分に何か悪影響を及ぼさないのであれば、つべこべ言うこともないという考えも十分成り立ちます。

 私は契約思想を推奨します。
 契約思想には矛盾がありません。現実を柔軟に見る姿勢と、人間そのものを見る目を培うものだと思っています。あとはどれだけ物事を調和ある形で対応できるようになるか。それは善悪の問題ではなく心の成長の問題になります。そこにどうすれば正しいかという杓子定規の基準はありません。

 ひとり善がり型の善悪思想は、もともと論理的に矛盾しています。前提と制約を無視し、人間そのものを見る目をにぶらせます。
 それはしばしば心理障害の芽になるもの、人間の心の成長への視野を閉ざすものです。
 上の相談者の例で言えば、「小さい子には優しく」と「口うるさく言い聞かせて」いるというのが気になります。「口うるさく」言っていることにおいて、この人は子供への素直な優しさを失っているかもしれません。
 そうだとすると、次第に「酒鬼薔薇聖斗」事件の親の姿に重なって行きます。


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