4.3 「人のためは善」の誤り |
我慢して人に良くするのは「善」ではない 日本の道徳の中でも、最も代表的な誤りは、「自分は我慢して人に良くするのが善だ」という勘違いだと考えています。 これは実際のところ、現代社会、特に日本においては「美徳」として扱われています。 「一日一善」。「世のため人のため」。人に良くなることをしたら「善いことをした」と思う。 これが大きな誤りであるのは、「人に良く」が本当に社会にとって善だとは限らないということです。 「善」というからには、社会全体で役立つという基準が、本来は必要です。特定の個人にとって気分の良いことが、社会にとって良いこととは限りません。 |
たとえば、急いでいる人に道を譲る、という単純な行いを考えた時、これは一般には善と考えて良いでしょう。
余裕のある人は、困っている人に協力する、ということであり、社会においては協力し合うことが大切だからです。
社会に親切心が増えることは良いことでもあります。
しかし、もしこの急いでいる人が犯罪者で逃げている途中であれば、この人に協力することは言うまでもなく、社会にとって「善」ではありません。
もしこの犯罪者が、これから大量殺人を企てているとしたら、この人に対して「人に良くするのは善」などという話はとんでもないことになります。
つまりこの美徳には、具体的に何をどうすることで人に良くするのが善なのかが、ぽっかりと抜け落ちているのです。
だからこれを、「いつでも必ず」などと考えて、この多様な出来事に満ちている社会で行動したら、とんでもないことになってしまいます。
善とは、本来、社会全体に、将来に渡って役立つことを指します。
体の健康に良いことが必ずしも快いことだけではないように、善とは必ずしも特定の個人にとって快いこととは限りません。
感情を越えて、何が本当にこの社会にとって善いことなのかを、考えることの方が重要です。
我慢して人に良くするのは「優しさ」ではない
我慢して人に良くすることが善だという勘違いと同時に起きがちなのが、我慢して人に良くすることが「優しさ」や「愛」だという勘違いです。
本来、優しさや愛は、相手のことを心から大切に思う気持ちのことを言います。
心の底ではそう感じていない時に、「我慢」が起きます。
我慢するのは心の底では相手のことを思っていないからであって、これは優しさや愛ではありません。
本当に優しい気持ちや愛の中では、相手のために何かをすることは、その行動そのものは本人にとって喜びです。
決して「我慢して」その行動をしているのではありません。
たとえば、自分の空腹を我慢して食べものを子供に与える親の行動を考えてみましょう。
人間だけでなく野生の動物とかも想像した方が分かりやすいと思います。
このとき、この親が本当に優しいのかどうかは、空腹を我慢しているかどうかの話ではなく、とにかく食べものを子供に与えたいという欲求を感じているかどうかの話です。
つまりこの親にとって、食欲も子供への行動も同じく親自身の欲求であって、子供に食べさせたいという欲求が自分で食べたいという欲求を凌駕しているということです。
心理学から見れば全てが「欲求」 心理学から見れば、この親は結局自分の欲求に従っていることになります。 つまり「子供のため」は同時に、心の底から「自分のため」でもあることです。 一方、子供に与えたいという欲求はない。つまり本当は子供に与えず自分のものにしたい。 でもそれを我慢して子供に与える。 これはもう優しさではありません。 何か別の目的のための「優しく見える行動」ということになってきます。 この別の目的とは、「好かれたい」とか「自分をいい親と思いたい」ということであったりするでしょう。 これもひとつの「欲求」です。 つまり、自分の欲求を我慢するかどうかが「優しさ」ではなく、心の底から相手のためにしたいという「欲求」が優しさ、ということです。 心理学から見れば、人の行動は、「欲求を我慢する」ことも含めて、全て何かの欲求の結果であると理解できます。 |
従って、心理学からは、「欲求を我慢することは善」というのはちょっと無意味な言葉です。
「欲求を我慢する」ことも別の欲求の結果ですから、全体としてみれば、本当に欲求を我慢している状態などはあり得ません。
文字通り受け取ると、死ぬことが一番善であるような話になってしまいます。
「自分なんか死ねばいい」というのは、実はこのことかも知れませんね。
我慢は誰のため?
私たちが生きているこの現実の社会は複雑なので、「我慢は善」という美徳は、必ずしも社会に役立つものではありません。
それは誰が喜ぶことでしょうか。
本当に優しい人は、「我慢してあなたのため」とされることをあまり快く思わないでしょう。
自分で頼んでもいないことを苦しい思いの中で「あなたのため」と言われてされたら、かえって困ってしまいます。
優しい人が多い社会では、このような「美徳」は無用です。
他方、人を踏みにじってでも自分の利益を得ようとする人ほど、「私は我慢して貴方のために」として差し出されたものを喜ぶことになります。
実際この「美徳」は、現代社会では悪徳商法でよく利用されてしまいます。
「こんなに時間をかけて説明したのに、どうしてくれるんだ!誠意を見せろ!」と脅すわけです。
「我慢が善」という感覚が身にしみついている人は、「しかたないか」と必要もないものに契約してしまうわけです。
これでは、本人に損であるだけでなく、悪徳商法をはびこらせるのを助けているようなもので、とても「善」ではありません。
まるで、「人に良くするのは善」は、エゴイスティックな人のためにある美徳であるかのようですね。
「善である」ことは「愛されること」ではない
実際には社会に役に立たないことが「善」であるかのように言われる。
どうしてこのようなおかしな話が、「道徳」や「美徳」では起きてしまうのでしょうか。
それは、「人に良くするのが善」という勘違いに、もうひとつの大きな勘違いが結びついているからでしょう。
「善であること」ことは「愛されること」という勘違いです。
これは私たちの善悪感における最も根本的な勘違いに関係します。
「2.怒りのない人生へ」で説明した通り、「善は悪を怒る」という大きな勘違いです。
悪は「怒るべき対象」などではありません。怒りでしかそれを処理できない弱い人間と、愛によってそれを処理できる強い人間がいるだけです。
同じように、善は「愛される資格」などではありません。愛に資格はありません。何も与えられることなく愛せる、強い人間と、何かが与えられないと愛せない、弱い人間がいるだけです。
弱い人間は、与えられることなく愛する感情を知りません。だから、自分が愛されるためには、価値を相手に与えなければと考えます。愛されるには資格が必要と考えます。
良いことをすることが、愛される資格であるように感じます。
そして弱いが故に、心が安全ではなく追い詰められたと感じやすいため、怒りが起きやすいです。
良いことをしたのに愛されないと、追い詰められた怒りが起きてきます。
自分はこれだけ良いことをした。自分は愛されるはずだ。私を愛さないお前は間違っている。お前は悪だ。
この怒りによって、まさに、愛されなくなります。
この勘違い思考は、明らかに自滅につながる思考です。
確かに、相手のことを思いやったり、優しい振る舞いをすることは、相手に気に入られ、愛されることに近づけるかも知れません。
でもそれは社会から見た善悪には関係ありません。当事者間の問題です。
「善と悪」と、「愛と怒り」は対応するものではありません。「愛と怒り」はむしろ「強さと弱さ」に対応します。
このように見ると、私たち日本人がその中で育った情緒道徳とは、相手に気に入られるような感情や行動を善と考え、さらに善を愛される資格のように考えるという、勘違いの結晶のような思考方法と言えます。
この勘違いの底には、愛されることによって安全になりたいという弱さが控えています。
そしてこの道徳的思考は、弱さを固定し、強さへ向かう人間としての成長を阻んでしまいます。
まずこうした勘違いを脱することが大切です。
そして強くなるための方向について、このあと徐々に説明して行きます。
人類が犯した思考ミスとしての情緒道徳 もうひとつ、情緒道徳の問題点を付け足しておきましょう。 情緒道徳的な思考は、実は人類の思考として、言葉そのものが文法的に間違っています。 「命は尊いもの」「感謝の気持ちが大切」というように、道徳の言葉では「どこで誰が何をどのように何故」という状況説明が見事に消えています。 「5W1H」というのを聞いた方も多いと思います。どこで(Where)誰が(Who)何を(What)どのように(How)何故(Why)ということで、そうした状況説明なしに、ものごとを安易に判断してはいけないという話です。 |
「命が尊い」のは、現実においてあり得るのは、「自分の命は自分にとって尊い」でしょう。
「愛する家族の命は私にとって尊い」。これも意味はあります。
「私を刺そうとする蚊の命」は、どう考えても尊くありません。少なくとも私は全然尊く感じません。
「感謝の気持ち」とは、誰がどこでいつどのような状況で、なぜ感謝したという話なのでしょうか。
だいいち、人が人に感謝するのは、その人同士の間の話であって、それを関係ない第三者が「尊い」というのは何の話でしょうか。
日本道徳は「儒教」の型崩れ
詳しくは省略しますが、現代日本の情緒道徳のルーツは「儒教」という、れっきとした宗教です。
儒教では、宗教として、非科学的な概念を使ってはいても、話の筋が通っています。
「〜のためには〜しなさい」という筋です。
儒教における「〜のためには」とは、「天の恵み」でした。そうしないと下される罰が「天罰」です。
これは特に稲作中心の農耕文化であった日本では、生死に関わる重大なことのように感じられたでしょう。
儒教信者つまり日本の農民大衆は、自分に得にならない「世のため人のため」でも、豊作などの「天の恵み」があるように、そして干ばつ飢饉などの「天罰」がないように、一生懸命善人であろうとしたわけです。
「天の恵み」「天罰」という思考は、現在の日本人の日常生活の中にもまだ少し残っているのに気づかれる方も多いと思います。
歴史学のちょっと醒めた目で見れば、儒教は、このような農民大衆の心理をうまく利用して、社会秩序をうまくコントロールしようとした支配層により採用されたものと考えられます。
それが日本の現代教育に引き継がれた背景には、当然、軍国主義という暗い時代の影響がちらほらと見え隠れします。
現代日本の道徳教育ができた具体的な経緯はあまり知りませんが、この儒教から、宗教的色彩を取り除くために、「天の恵みや天罰のため」という部分を安易に削り取ってしまったもののようです。
その結果、状況説明を抜きにした、実に押しつけがましい思考体系ができあがったわけです。
矛盾だらけの現代日本の情緒道徳は、人類が犯した思考ミスの代表選手としてやがて殿堂入りするでしょう。
人は矛盾というものにストレスを感じるようにできています。つまり無理があります。
子供への教育としてこれを採用するなら、「天の恵みのためには」とか「天罰が下らないためには」と、ちゃんと言えばいいのです。
それを信じて従うかどうか子供自身に考えさせればいいのです。
「愛情の強制」としての日本道徳 真摯な宗教としての姿を失った日本道徳は、実はその実体は「愛情の強制」と言えるものになっているように思われます。 そしてその「強制」において、実は人を愛していません。 ここに大いなる矛盾が内包されることになります。 「〜のためには〜しなさい」という話の筋を失った情緒道徳は、実は、「私に気に入られたければ」「皆に嫌われたくなければ」と暗黙の中で脅していることになります。 子供は、親に愛されたいから、皆に愛されたいから、「良い子でいよう」と思うのです。 子供にとって、愛されることは生死にかかわるような重大なことなので、愛されるために親の言うことを何とか自分自身に取り込もうとするのです。 |
ところが、この「道徳的しつけ」が「〜しなきゃ駄目でしょ!」という怒りを伴うにつれて、実際には子供を愛していないことの表現になってきます。
怒りは、相手を破壊するための感情です。
大人は「それも愛情だ」と言うかもしれません。それは大人の言葉の世界では通用するかも知れませんが、子供には通用しません。そして人間の心のメカニズムには通用しません。
怒りは、どんな言葉で飾られようとも、破壊なのです。
子供は、親に愛されようと、必死になって親の言うことを聞こうとします。
しかしその親の言うことが、子供を愛していないということです。そして親の言う通りにしても、愛されません。そもそも愛が欠けているからです。
「良いこと」をすれば愛されるということは、現実ではありません。愛と善はあまり関係なく、強さと関係します。
現実は、道徳が言う世界とは違うのです。
子供の心は大きく混乱を始めます。
人間主体の喪失
情緒道徳が言葉の文法的意味を失った中で、最も心の健康に害を与えるのは、「主語の喪失」でしょう。
「誰が」という、感情や行動の主体の喪失です。
「暴力はいけません」「挨拶しなさい」。何故なら良いことだから。
誰が??
子供のしつけや道徳教育をめぐって出てくる言葉は、しばしば心理障害の世界と実に良く似た不自然さを感じさせます。
どんな叱り方がいいのでしょうか。どうすれば登校拒否にならないでしょうか。どうすればいじめに会わないでしょうか。
こうゆう場合はこんな風に誉めてあげましょう。云々。
まるで、子供と親本人は、主体的人間としてどう生きたいかという感情を持っていないかのようです。第三者から眺めるかのように、「こうであれれば」「こうなるためにはどうすれば良いか」という思考法。
そこにはまず、「明るく学校に通って熱心に勉強している子」というイメージがあります。
「定められた姿になる」ことを目標とする、基本的姿勢です。
「定められた姿」という、時間の流れを止めたものへの比重が重くなるにつれて、人は「今を生きる心」と、現実をありのままに見る目を失っていきます。
心を解き放つことがなくなり、自己の主体者ではなく、自己の傍観者へと後退していく。
生き生きとした感情が湧き出る力がやがて失われて行きます。
この結果、「こうなろうとした」自己そのものが、次第に貧弱な姿にならざるを得ません。
「こんな姿に」なろうとした姿勢によってまさに、そうなれなくなるわけです。
やがて、「こんなはずでは」と気づくことになります。うまく行かない。何か変だ。どうしよう。
これがまさに、心理障害の底流にある、基本的な人間心理のメカニズムなのです。
情緒道徳から人間主体へ 道徳を捨てるとしたら、私たちはどのような善悪観に立てばいいのか。 これからの方向性に話を移しましょう。 このサイトの基本的立場は、法律に基づく自由主義です。この社会の現実にあった価値観人生観を採用しています。 暴力は、状況により法律で罰せられるでしょう。挨拶しないで罰せられることは、まあ恐らくないでしょう。 「では法律に触れなければ何でもしていいというのか。」という声が出るでしょう。 そうです。法律に触れないことは基本的に自由が認められています。それが私たちが勝ち取った自由主義社会の原則です。 法律に触れない場面で、互いの行動をどう律するかは、当事者間の問題です。つまり「定められたものではない」人間主体の問題になります。 |
法律では罪にならないような暴力でも、私は受けるのは嫌です。受けるなら反撃するし、その相手を嫌いになります。好きな人には決して暴力などしません。それでいいのではないでしょうか。
挨拶されると気分がいいです。だから挨拶してよ。それでいいのではないでしょうか。
善悪は人間が社会のために決めたことです。善悪が人間を決めるのではありません。
善悪には関係なしに、人間には感情があります。善悪には関係ない、感情と感情の触れ合いやぶつかり合いがあります。
人間の感情は、本来こっちの世界です。
定められていない人間主体と言っても、何でも感情のままに行動すればいいというわけではありません。
「善悪」のためではなく、「自分自身の幸福のために」です。
どのような感情を捨て、どのような感情に力押しをするのがいいかという、「幸福になるためのノウハウ」があります。
それを追求するのが、このサイトの基本的立場である「心理学的幸福主義」に他なりません。
怒りから愛は生まれない 子供があなたを好きなら、子供は挨拶するでしょうし、そうでないならしないでしょう。 子供があなたを嫌いということは、子供が悪だということではなく、あなたに嫌われる理由があったということになります。 「挨拶しなさい」と怒りを込めて命令するのではなく、自分が何故嫌われるのかを見つけて、それを改善する努力をすればいいのではないでしょうか。それでも駄目なら諦めればいいのではないでしょうか。 挨拶しなかった子供が悪でないのと同じように、結局何かの理由で嫌われちゃったあなたも悪ではないということです。 |
これを「自分が正しければ人は自分に敬意を持つはずだ」とかいう思考になってると、「悪いのはどっちだ」という思考に流れます。
「これは駄目だ!」という怒りがまずある。
「なんて悪い子なの!」と叱りつけるか、「なんて自分は駄目なんだ」と自分を責めるかのどっちかという、ご存知の世界です。
児童虐待や教師の暴力も、この世界の産物です。
「自分に敬意が払われなかったことへの怒り」を、相手の悪さとして責める形になります。
「子供がなつかないので叩いた」。叩くからなつかないのです。
授業中に生徒がちょっとよそ見していたら、「テメエ、プリント見ないでプリクラ見るのが授業か!」と、生徒が怯えるほど凄んだ教師がいます。これは生徒への指導でしょうか。それとも自分が生徒に好かれなかった悔しさでしょうか。
私たち日本人は、実に多くが、この世界だけで思考しています。
その底に流れているのは、怒りによってものごとに対処しようとする基本的姿勢です。人を強く成長させることのない、つまり幸福に近づくことのない姿勢です。
そして、何で幸福になれないんだと怒ります。
怒りから愛は生まれません。怒りを込めて「愛しなさい!」と言ったところで、愛は生まれてきません。
愛は愛から生まれます。
「人を愛せるように」「自分を愛せるように」と良くいいます。
愛情が湧き出ないかと、今か今かと待ち構えて、愛情が湧き出ないとがっかりしたり、怒ったりする人の姿があります。
そうじゃないです。愛が湧き出なくてもいいんです。それが最初の愛です。
思考の矛盾から人格の矛盾へ 「善は悪を怒る」そして「善は愛される資格」。 これは日本道徳に限らない、人類が犯した巨大な勘違いのトップにランクされるものでしょう。 そしてもともと人間は弱い存在です。精神的な怒りという、他の動物にはあまりないものを持つことになりました。 怒る感情の中で自分を正しいと思い、正しければ愛されるはずだと怒り、他人と、そして自分を破壊していきます。 これは間違いなく、人間の心のメカニズムの一面にある、自滅という悲劇です。 |
この悲劇の中で、弱さと怒りが、親から子へ、子から孫へと引き継がれていきます。
なぜなら、愛の欠如が一度このメカニズムを駆動し始めると、自己循環によって、つまりこのメカニズムがこのメカニズム自身によって強化されるからです。
それは、人の性格というものが遺伝によって伝わり、後天的にはあまり変えられないという認識をする心理学者が沢山出たほどです。
愛されようとして従おうとしたものが、実は自分を愛さないものである。
この矛盾は、まず子供の心に、とんでもない形で吸収されます。
人格の矛盾として吸収されるということです。
人格内部に矛盾や亀裂が生じ、従順でいる時と切れる時、表の温厚さと裏の苛立ちなど、性格が多重化してきます。
性格が分離することにおいて、思考や感情の矛盾が本人には盲点のように見えなくなるのです。
そしてやがて、矛盾した思考と感情を、今度は自分の子供に押し付けるようになります。
人間の人格や自我は本来ひとつにまとまっていてこそ健康なものです。
矛盾が一定限度を越えると、心の健康にとって甚大な問題が発生し始めます。「心理障害」の発生です。
この矛盾の結果生まれる、基本的な「心の構造」を、次に概観しましょう。
そこから脱するためにも、それを理解することが重要だからです。
2003.1.19