4.7 心理学的幸福主義 |
心理学的幸福主義 心理学的幸福主義とは、このサイトの心への取り組み全体を支える、人生への姿勢です。 人生において何を目指すのか。 それを達成するために、人や社会、価値や善悪といった事柄について、どのような見方考え方をするのか。 そういった人生への姿勢をはっきりと意識し、それに従って、日々の生活を実践する。それ通して、人生で目指すものへ向かって、より全力を尽くせるようになる。 そのような成長を目指す姿勢です。 情緒道徳を一般とする現代日本人の人生への姿勢は、とても曖昧で混乱に満ちています。 良い人間になりましょう。欲求を我慢できる人間が良い人間です。 どうすれば幸福になれるのか?物質的満足と精神的満足のどっちが大切? 感謝が大切です。幸福とは、小さな幸せの積み重ねです。 何のために生きる?幸福なんて分からない。 |
つまり、それは「善悪」について何か断片的なことを言っている程度で、人生への姿勢や幸福になる方法については人任せにしていたようなものだったと思います。
そして人それぞれが一生懸命に、もしくは適当に、人生について考えて、その人なりの人生観を持って、あるいは人生観など持たずに、生活を送っていたかも知れません。
これに対して、心理学的幸福主義では、人生への姿勢についてとてもはっきりした方向性を決めています。
言葉通り、それは人生において幸福を目指す考え方であり、幸福を心理学から考えて目指すという姿勢です。
あるいはこのサイト以外にも、心理学的幸福主義の考え方はあるかもしれません。
特にこれ以上名前は分けませんが、このサイトの特徴は、心の自然成長力と自然治癒力を原動力と考え、心を解き放って現実を生きることで得られる幸福を目指していることです。
「健康な心への道」の基盤
このサイトの「健康な心への道」は、大きく3つの取り組みから成ります。
最初の取り組みが、この心理学的幸福主義の姿勢を持つことです。これが「自分を優しく育てる姿勢」です。
あとの2つの取り組みでは、より健康な心になるためのより詳細で具体的な実践を行います。
心が実際により健康な状態へと変化して行くのは、あとの2つの取り組みの中においてでしょう。
しかし、それが成されるためにも、まずこの心理学的幸福主義の姿勢を持つことが必要です。
この姿勢を持つことなく、あとの2つの取り組みを幾ら実践しても、何も変わらないか、もしくはごく不十分な変化しか得られないと考えています。
その理由も一緒に説明して行きましょう。
3つの車軸
このサイトの心理学的幸福主義は、3つの事柄から構成されます。
この姿勢を支える3つの軸です。
第1の軸は、「善悪の解体」です。
これは、善悪の考え方をゼロから見直し、「善悪とは何か」について揺ぎない基本的な考え方を持つことです。
人が心理障害になるのは、今まで説明したように、「こうでなきゃ駄目!」という怒りのストレスが大きな由来になっています。また怒りのストレスが、原因と結果の悪循環によって問題を悪化させます。
そのため、「こうでなきゃ駄目!」という怒りの基準となる善悪観を根本的に見直します。
やがてこれは、「善悪」という観念そのものの完全な破棄まで進めることができます。
第2の軸は、「自己による幸福の追求」です。 これは、幸福を「良い人になれば与えられるもの」と考えるのではなく、自らの努力によって近づくものと考えることです。 また、幸福とは何か、どう努力することで近づけるのかという、心理学的な理解を含みます。 これは幸福になるための正しい方法を、医学のような確実な知識として知るということです。 第3の軸は、「実直な現実科学的世界観」です。 これは、身の回りの生活場面から、自然現象に至るまで、現実の事実に根ざした科学的知識だけを使って判断することです。 自分の内面の感情の理由も、外で起きる出来事の原因も、現実的な科学に基づいて考えます。出来事は「神」が望んだからそう起きたのではなく、偶然もしくは科学的な因果関係があって起きることです。 |
これは「神」の存在を否定することではありません。この世界観は科学を超えたものの存在を肯定した上で、人はそれに影響されず自由であるという考え方をしています。
このトピックの最後の方でそれを説明します。
密接に関連する3つの軸
この3の軸は互いに密接な関係にあります。
偏った善悪観を解体し捨て去ることで、私たちは自分を不合理に責め立てたり、現実において何も生み出さない「べき」にとらわれることなく、心おきなく自らの幸福を追求できる可能性が開かれます。
善悪観念を一切破棄するとは、「これは悪だ」と感じるものが一切なくなる事へさえ、行き着きます。これによって私たちは怒りという有害な感情を一切持たずに生きる可能性が開かれます。
私たちは今まで、善悪判断によって自分の行動を舵取りしていたところがあります。善悪を解体することは、これが失われることも意味します。
その代わりに、医学のような指針としての幸福の理解が、私たちの新しい舵になります。これによって私たちは、自分にブレーキをかけるような今までの方法ではなく、逆に心を解き放った形で人や社会と調和することさえ、可能性が開かれます。
実直な現実的科学観に立つことで、このような人生への姿勢の考え方が導き出されます。宗教的道徳的世界観からは、やはり「人はこうあるべき」という話になってしまうからです。
また、実直に現実的な科学によってこの世界の物事を理解し行動した方が、現実世界で成功する可能性も高まるというものです。これによってより直実に幸福に近づくことができます。
このトピックから次のトピックにかけて、この3つの軸のエッセンスを説明します。
善悪の解体
「善」とは、良いことであり、称賛の対象になることです。
「悪」とは、悪いことであり、処罰の対象になることです。
子供の躾について、良く、「良いことと悪いことの区別がつく子に」と言います。
では何が良いことで、何が悪いことなのか。
今までの道徳的な善悪思考の特徴は、人間の感情や行動のあるものを取り出して、それが善なのか悪なのかを絶対的に決め付けようとするものでした。
勇気や優しさ、感謝、調和、世のため人のためは善。私欲や攻撃、不平、反抗や不和は悪。等々。
それはしばしば5W1Hを抜きにした、思考のミスになる場合があることを前に説明しました。
心理学的幸福主義では、善悪は相対的なものであると考えます。
相対的であるとは、「誰にとっては」「何については」という前提が必ずあるということです。
「人の和が善」であるのは、多くの人にとって「和」が気分のいいものだからです。ある時、ある理由から、皆と一緒に楽しく過ごすのではなく、一人でいたい人がいたとする。
この時、「和を乱すのは悪だ」と誰かが言ったとします。
これは、「和を乱す行動」は、「多くの人」の「気分にとって」は「悪」だという話です。
この時、一人でいる人が「自分の勝手だ」と考えたとします。
これは、「和を乱す行動」は、「この人」の「気分にとって」は「善」だという話になります。
では、「和を乱す行動」を「悪」と考えた多くの人と、「善」と考えた一人は、どちらが善でどちらが悪でしょうか。
もしこの人が「利己的」な理由で和を乱したのなら、この人が悪でしょうか。もし、回りの人が悪人集団だったのなら、その和を壊したこの人が「善」でしょうか。
心理学から見た善悪 今までの情緒道徳では、こう突きつめて行って、最後に重要な「この人の考えたこと感じたこと」を取り上げて、善悪を決しようとします。まあそこまで話が終わったとしましょう。 心理学の目はそこでは終わりません。まだ、「それは誰の何にとって善なのか悪なのか」という話になります。 「真の優しさ」が「善」であるとします。あなたがそう感じたとします。まあ私もそう感じます。 それは、あなたの、私の、優しさを願う「欲求」にとって善であるということになります。これが心理学から見た善悪です。 |
心理学では、人間や動物の全ての行動は「欲求」の結果であると解釈します。この話は既に4.3「人のためは善」の誤りでも説明しました。
「人間は動物と違って欲求を我慢できる」という話もあります。心理学からは、それは、「ある欲求を我慢しようとする別の欲求がある」と解釈されます。
人の持っているものを自分のものにしたい我欲という「欲求」。そんなことをして攻撃されたら嫌だし、自分勝手では皆に嫌われるからやめようという「欲求」。そして、善人でいたいという「意志」という名の「欲求」。ただ心から相手に良くあって欲しいと感じる「欲求」。
いや、それは「欲求」ではない。「良心」である。
そう言うのはちょっと現実的科学的世界観ではないんですね。人間は動物の一種だというのがこの世界観です。人間の良心も欲求の内容の違いに過ぎません。
いや、そうではない。「良心」と「欲求」は違う。
そうかどうかは、どっちが正しいという話ではありません。どのような思考方法を選ぶかという話です。
私たちがこの人生を生きる上で、頭の中のどのCPU(コンピュータの演算回路)を使うかという話です。分かりやすい例えじゃないかもしれませんが..^^;
「本当の優しさが善である」。これが従来型思考法。
「本当の優しさは、それを求める私の欲求にとっては善である。」これが心理学的思考法。
「私の」という言葉を強調しておきます。心の健康にとって何故これが重要なのか、これがポイントになります。
絶対的な善悪は存在しない
この思考法では、「善」とは、ある人間にとって「都合の良いこと」に過ぎません。それをその人が善と感じるということです。
「悪」とは、その人にとって都合の悪いことです。それを悪と感じるということです。
「人間は自分の都合だけで行動する動物ではない。それが良心である。」
同じ話です。「自分だけでなく世の中の都合を考えたいという欲求」にとって都合がいいから、善であるわけです。
こう考えていくと、「絶対的な善悪」というものは、この世に存在しなくなります。
よく「人間は自分達の欲求だけで他の生き物を根こそぎ殺戮したりする。一番悪いのは人間だ。」という意見を聞きます。
これもちょっとした思考のミスでありがちです。
なぜ他の生き物を根こそぎにして、地球環境を駄目にすることが悪なのか。人間に都合が悪いからです。人間が地球上で長く繁栄して欲しいと願う、人間の欲求にとって都合が悪いから、悪なのです。
「人間は自分の欲求だけを追求する。だから悪だ。」と、人間がその欲求に基づいて言っています。
何か変ですね。
「悪を怒る」パラドックス
このようなパラドックスは、人間を越えて善悪を判断するものがあるという思考のミスによって生まれます。
地球環境の保存を願うのは、人間に都合の良い形の保存を願うだけの話です。
人間を超えた何ものかがそれを願っているわけではありません。人間にとって良い地球環境が生まれる前に、地球を支配していた古代微生物にとって、今の地球環境は「悪」かも知れませんね。
では人間と古代微生物のどっちが「善の存在」か。
もちろん「神は人間を動物界の至高の存在と定められた」とかいう思考になると、そんな話も「あり」ですね。
心理学的幸福主義が採用する実直現実科学主義では、人間を超えて善悪を評価する存在は「なし」です。ちょっと後にこれを説明します。
「悪を怒る」ことは、しばしば自己撞着のようなパラドックス状態です。 「お前は悪の象徴だ!絶対に許せない!どんなことをしてでも罰を下してやる!」と攻撃し、叩き、破壊しようとする人の姿は、外から見ると大抵そっちの方が悪に見えます。児童虐待などはまさにそんな姿でしょう。 でも、その人の心の中は「駄目なものは許せない」という感情に占められています。そして「許さない」から「正しい」わけです。 では「悪を怒る方が悪」なのか。同じ話の繰り返しになります。 「怒るお前の方が悪だ!絶対に許せ..」。続ける必要はないでしょう。 このようなパラドックスは、「悪を怒るのは正しい」という根本的勘違いと、「怒りを感じること」は「どうにかしなければならないこと」と考える、怒りでものごとに対処する姿勢から生まれます。 対処を考えることが望ましいのは、むしろ怒る自分です。 もちろん自分自身の幸福のためにです。 |
善悪の解体の意義
このように善悪を解体することの最初の、最も単純明快な意義とは、頭ごなしに否定すべきことなど何もないということです。
これは怒りの放棄につながります。理由なしに、とにかくそれは駄目なのだと怒るべきことなど、何もないのです。自分に対してもそうだし、人に対してもそうです。
もちろん、この説明だけで怒りを捨てることはできないでしょう。より具体的な怒りの要因、そして怒らずにどうすればいいかはまだ説明していないからです。それは「取り組み2−揺らぐことのない人生観と価値観の確立」で説明します。
まずは、「怒り」に接した時、何が何にとって悪いということなのかを、とことん自分自身に対して説明することです。それがやがて不合理な怒りの発見につながって行きます。
実直な現実科学的世界観
善悪が相対的なものだという考え方は、実直な現実科学的世界観から導き出されています。
これは、現実において科学的に確かめられたことだけを使って、現実に起きる出来事を考えることです。
逆に言えば、現実において科学的には確かめられていないことは、物事を考えるときに頼らないということです。
たとえば、「神」というのはあまり現実において科学で確かめられたものではありません。だから「神が望んだから」とか「神が怒ったから」といった考え方はしません。
「運勢」とか「占い」、「ばちが当たる」とかはなしです。
「幽霊」「心霊現象」などはありません。科学で現実的に実証されているのは、電磁波を感知することでそのような現象がしばしば起きることです。「霊感」の実体は、人間の電磁波覚のようです。
「思いが通じる」とか「信じればそうなる」というような精神論もお勧めではありません。
心理テストもお勧めではありません。「デートの時、あなたは次のどのネクタイを着けますか。その場合あなたの彼女への本心は..」とかの類。自分の本心は、現実に自分自身の感情を体験する範囲内において判断して下さい。
「いや、神秘現象が科学で証明されたとする説もある」。
そこに「実直」というのを、ここで加えています。人による解釈の違いなどありようもないほど単純明快に、現実的に確かめられた科学的事実だけを採用します。
心への取り組みのために
いくつか説明を加える前に、なぜこのような実直な現実科学的なものの考え方が必要なのかをお伝えしておきます。
それは、自分自身の本当の感情やその原因を、正しくつきとめることなく他に転化してしまうことがあまりに多いからです。
その場合、それらの感情やその原因は温存されます。
それは、心の問題に対して真正面から取り組む、このサイトの方法にとっては非常に不利な状況です。
4.5 閉ざされた恐怖で説明した「切り離された恐怖の色彩」はその最たるものになります。
もはや自分の内面のこととしては感じることができないまま、人の心の底に取り残され、「人生に危険が潜む」「人生が自分に悪意を持っている」という漠然とした背景感覚になります。
これが「天罰」とか「運の悪さ」などの非科学的世界観によって解釈されると、内面のこととして取り組むことがないまま、温存されることの言い訳になってしまうのです。
もうひとつ一言つけ加えておけば、世の中の出来事を現実科学の目で理解することは、この現実世界で「うまく生きる」ためにも基本的に有利というものです。
現実科学とは違う世界観は、しばしば間違ったルールを思い込んだままスポーツをするようなものになりがちです。本人はそれが正しいと思い込みながら、ルールが求めていない無駄な行動をするようなものです。
「健康な心への道」とは単に病んだ心が減っていく過程ではありません。この現実世界をよりうまく生きる能力を増やしていく過程です。
そのためにも現実科学の目というものをお勧めしています。
神は存在する..
人それぞれの人生観や世界観において、「神」とか「科学を超えたもの」についてどう考えるかは大きなテーマです。
これについて、この実直現実科学的世界観がどう考えているかを説明します。
この世界観では、「神」や「科学を超えたもの」の存在を否定せず、むしろ肯定しています。
人知を超えたものが存在することを、はっきりとこの世界観の中に取り入れています。そして、それは人知を超えたものであるからこそ、私たちはそれに制約されることなく自由だという考え方をしています。
これはけっこう単純明快な話です。
科学は、私たちの視覚などの「意識によって映し出された世界」についての知識です。意識そのものが何故あるのかを説明するものではありません。
意識とそれによって映し出された世界。その全てを作り出したものがあるとすれば、それが「神」とか言えます。「創造主」とも言います。これは科学のおよぶ話ではありません。
現代科学に現れる「科学を超えたもの」 科学的世界観というと、「全て科学で分ると考えること」と思い浮べるかも知れませんが、決してそうではありません。 現代科学には、その理論そのものの中に「科学を超えたもの」が組み入れられています。 「全てを科学で解明できる」と考える科学信奉者というのは、実は最近の科学を知らない人かも知れません。 心理の話からは遠ざかってしまいますが、私たちの世界観にとって結構重要な話ですので、2つご紹介したいと思います。 |
量子力学
ひとつは量子力学です。これは「もの」を構成しているものを分解していく、最もミクロな世界を扱うものです。
「もの」は分子から構成され、分子は原子から構成される。
原子は原子核と電子から構成される。
そこでさらに電子の正体を突きとめようとすると、奇妙なことが分かってきます。
よく見るとそれは「もの」ではなく、複雑な数式で表される「何か」である。電子というからには、「つぶ」のようにイメージしますが、実際はそうじゃない。では何かより根本的な別の「つぶ」の「振動」が電子なのか。そうでもない。でも、そのどっちでもあるようにも見える。
要領を得ない奇妙な話ですが、つまり結論から言うと、人間が見る行為によって、「つぶ」もしくは「振動」のどちらかとして捉えることができる。でもどちらか片方としてであって、同時には分からない。
これがハイゼンベルグの「不確定性原理」という、世の哲学的議論によく引き合いに出される物理法則です。
「もの」は人間の意識があって現れる。そのことが物理法則の中に表現されています。
「量子」とは、意識によって「もの」になる前の「何ものか」を指す言葉だと言えます。
そして、人間の意識がないとき、それは「不確定」である。
「もの」を越えたものがこの世界を支配している。そんなイメージを感じさせる話です。
量子宇宙論
もうひとつは量子宇宙論です。
宇宙がビッグバンから始まったことを突き詰めていくと、それは素粒子よりも小さな「何か」から始まったことになります。その「何か」に、再び「量子」がかかわってきます。
宇宙は量子レベルの何ものかから膨張してできたものである。
これも実に奇妙な話です。
膨張してできているということは、「宇宙のはし」は、もとは小さな粒のようなものだったということです。
そして私たちが宇宙の、より遠くを見るとは、もとの小さな粒だった時の姿を見るということです。
この広大な宇宙の全体とは、実は量子ほどの極小でもある。「意識の素」とも言えるほどの極小である。
何とも不思議な話です。
いずれにせよ、これが、人間の意識で捉えることのできる宇宙ですが、結局のところ究極までは分からないということになります。
宇宙をこんな姿で見る人間と、人間の意識ではそう映るという宇宙。
人間の意識が勝手に作り上げたものでもない。つまり、人間の意識を超えた「実在」が必ずあるということになります。
それを作り、それを知るのは「神」だけだと言うこともできます。
神からの自由
このように、この科学的世界観では、科学を越えたものの存在を肯定しています。
そして、このように肯定するからこそ、私たちはその制約を受けずに自由であるという考えをしています。
神は、私たちの意識をも作り出したものであり、私たちの意識を超える存在です。
従って、神を人間の姿のようにイメージすることは言うまでもなく、「神の怒り」「神が守ってくれる」とか、私たちの意識で捉えられるような形で考えるのは、基本的に間違いだと考えています。
これはつまり、私たち人間は神ではないということです。
神がいたとしても、それがどんなものか知るほど、人間は大それた存在ではないということです。
神が人間世界をどう「見る」とか、どうあることを「望んでいる」とか考えた時点で、実はそれは私たち人間の内面を勝手に当てはめて考えているに過ぎません。
たとえ神に何か意志のようなものがあったとしても、私たちがそれを知るような形であることは一切ないと考えます。
これは、私たちが完全に自由であるという考えを導きます。
「神の支配下にある」と言うのも間違いではないのです。でもその「支配」は、私たちの内面にせよ外面の出来事にせよ、「神の意志でこうなった」というような、人間の意識で捉えられることではあり得ないはずです。
であれば、私たちが完全に自由であると考えるかどうかは、思考法の選択の問題になってきます。
心理学的幸福主義では、私たちは完全に自由であるという考えを採用します。
善悪は相対的なものであり、絶対的な善悪は存在しない。
科学的な世界観と、それが導く、私たちが完全に自由であるという考え。
この2つの軸に支えられ、心理学的幸福主義の最大の軸である「自己による幸福の追求」が有効にその歩みを開始します。
そこに、私たちが内面のとらわれを脱し、幸福に向かって最大限の力を尽くせるような成長への、そして心理障害を完全に克服し、はるかに健康な心を取り戻すための、エッセンスがあります。
2004.6.27