入門 健康な心への道  -怒りのない人生へ-



4.取り組み1−自分を優しく育てる

4.8 自己による幸福の追求


 
自己による幸福の追求

 心理学的幸福主義の最大の軸が、「自己による幸福の追求」です。

 これは2つの要素から成り立ちます。幸福とは何かについての心理学的な理解、そして自分自身でその幸福を追求する姿勢です。


幸福とは何か

 このサイトでは、幸福を、「欲求全体の調和ある充足状態」と定義しています。

 つまりこれは、食欲や快適さへの欲求とか性欲などの生理的欲求、そして愛情や承認、自由や勝利への欲求などの社会的欲求、そしてこれが自分の生き方だという感覚の中で生きがいを感じられるような活動を行うことへの欲求、つまり自己実現への欲求など、私たち人間が持つあらゆる欲求を含みます。
 それらの全体が、一人の人間としてバランスが取れた形で、ほど良く満たされている状態である時、それが幸福の状態であろう、という考え方をしています。
 これは実直に現実科学的な世界観、および体験的直感から導かれます。

 「幸福とはどうあるべきか」などと難しく考えず、実際のところ最も幸福なのはどんな人か想像するといいでしょう。
 暮らしがいいに越したことはないでしょう。仕事や趣味を楽しみ、活躍していて、愛する家族に囲まれて、良い人間関係の中で、充実した人生を送っている人。。
 まあそんな感じだと思います。

 科学的世界観では、人間の行動や感情は全て欲求の結果と考えます。
 善悪は相対的なものであり、欲求にも絶対的な善悪はありません。別にどの欲求が重要だという「ひいき」はありません。
 結局のところ全体的に程よく満たされるのが最も幸福だという話になります。


人間は対立した欲求を抱える存在..?

 欲求全体の満足など絵空事である。人間は欲望と社会の板ばさみにある。内面に対立を抱え続ける存在なのだ。全体の満足など一部の恵まれた人間の話だ。

 それは正しいかどうかという話ではなく、そう考えると実際にそうなります。
 なぜなら、「それが当たりまえ」と考えた時点で、それを解決しようとする努力もその達成の可能性も生まれようがないからです。
 それは別に人間について何かを言っているものなどではありません。その人の生きる態度を表しているだけです。

 実際のところ、今までの情緒道徳からは、人間はこのような姿で描かれます。
 人間の欲望には際限がありません。欲望を追うものは不満を味わい続けるだけです。欲望を捨てることです。そしてあるべき人の道を歩むことです。
 言葉はここで終わっていますが、言外に、「幸福になるためには」、となります。
 人間は結局幸福を求める存在です。

 その結果、情緒道徳の思考の中では、人はどうすれば幸福になれるのか、とても曖昧で混沌としています。
 挙句のはてに、「人間は幸福を求めてはいけない」なんていう思考がしばしば起きたりします。
 やはり言外に、「幸福になるためには」、です。
 完全に混乱しています。


本能の開放

 果たして本当に、人間の欲望には際限がないのか。人間は対立を内面に抱え続ける存在なのか。

 この答えは、未知の中にのみあります。
 なぜなら、既知の「あるべき姿」を求めたことが、まさに内面の対立を生み出したからです。基本的に人間の本質を損なったからです。

 基本的本質を損なったところからスタートしているので、幸福への確実な答えがありません。
 その本質とは、「心の自由」です。

 今までの情緒道徳の思考体系は、基本的に人間の本質を損なったものでした。
 欲求が全体的に調和した満足などあり得ない世界だったのです。
 心の自由を求めるのは人間の本能であり、「心を解き放つ」ことはまさにこの本能に依存します。
 従って、幸福をはっきりと目標にする心理学的幸福主義の歩みは、本能の開放を志向します
 心の自由を求める人間の本能を開放し、その結果生まれる「心を解き放つ」ということによって起きる、人間の根底からの変化を志向します。

 これは一体どのような人間観と、その結果としての人間の変化を意味するのでしょうか。
 それは全く新しい人間観であり、それに支えられた未知への変化です。

 「取り組み1」の最後となる次のトピックで、それについて説明したいと思います。

 ここでは、現代人の心、とくに心理障害と言われる状態において、何が起きているのかさらに幾つか説明を追加します。
 それによって、この取り組みにおける変化が何を目指しているのか、より明確になります。
心の問題とはストレスだけではない

 現代人の心の健康を損なうようになった、怒りと恐怖のストレスについて説明してきました。

 しかし「心を病む」とは、ストレスの強さだけを言うのではありません。
 ある特有の問題が加わることによって、「心のストレス」がある境界線を越えて「心理障害」という独特の現象が起きます。


 ここで加わる問題についても、やはり情緒道徳の思考が、それを引き起こす背景となっています。
 そして「自己による幸福の追求」を中心とした心理学的幸福主義の姿勢は、真っ向からそれに対抗し、その問題の克服のための足場を提供します。

 追加される問題とは、2つあります。つごう、心理障害の原因となる問題には3つがあるということになります。
 少し難しい医学用語で言うと、心理障害の「病理の本質」として、この3つがあるという話です。

 第1問題が、今まで説明した怒りと恐怖のストレスでした。


自己の重心の喪失

 心理障害の第2問題とは、「自分自身を失う」ことです。心理学の言葉では、「自己の重心の喪失」と言います。

 人は生きていくうえで、自分自身があり、世界へと向かっていく。
 これは当然の話というか、言葉の正しさとして「自分」があって「相手」がある。
 それが、「自分がない」とは一体何のことでしょうか。

 「あの人には自分というものがない」、と日常の会話でも言うことがあります。
 相手によって言うことが違う。性格に裏表がある。それも本人が確信の上で使い分けているというより、自動的で、何か余裕がなくて、何かから逃げるかのように、一貫した感情や行動が見られない。相手に合せていい顔をしようとするだけみたいで、中身がない。。
 これが外から見た場合の話です。

 そうした状態が「良くない」という善悪思考で考えるのでなくとも、それはやはり心の健康として望ましい状態ではないと言えます。
 なぜなら、本人にとって幸福とは思えないからです。

 本人自身の意識では、「自分の心が自分のものでない」ように感じる状態です。
 どんな状態か、程度が強くなる段階を追って見ていきます。


日常思考に現れる自己の重心の喪失

 自己の重心の喪失の軽い段階は、「〜のせいで自分がこうなった」という感じ方考え方の中に表れます。
 「自分が怒った」のではなく「あいつのせいで苛々させられた」。誰々のせいで一日じゅう気分が悪くなった。
 あの人が私を元気にしてくれる。あの人がいると明るくなれる。。
 これはしばしば、非科学的思考と結びつきます。あんなことをしたせいで、ばちが当たった。これも神のおかげ。。こんなおまじないをすれば。。

 こうした思考法そのものは心理障害として扱われるものではありません。
 しかしそんな日常のふとした思考に、この「自己の重心の喪失」という、心の病に通じる問題が隠されているかも知れません。

 直感的にお分かりになると思いますが、これは「人生への態度」としてよく言われるテーマに関係します。
 人生が自ら切り開くものと感じるのか、それとも運命のように与えられる、もしくは降りかかってくるもの、あるいは人に頼って切り開いてもらうものと感じるか。この感覚に近いものがあります。
 ただし本人が意識的に人生をどう考えているかと、この問題は必ずしもぴったりとは一致しません。これは意識的な思考よりもずっと深い感覚のことを言っています。
 表の意識では人生を自ら切り開くものと一生懸命考えていても、心の底は運命論で、自己の重心が失われているかもしれません。

 自己の重心の喪失がより強くなると、感情面にある特有な状態が現れてきます。
 それによってこの問題の存在が、「心理障害」として表面化することになります。


「自己疎外」「離人感」「現実の緩み」..

 自己の重心の喪失が、はっきりと心の健康を損なっていると言える段階は、神経症と呼ばれるレベルの心理障害で現れます。

 「自分の本当の感情が何なのか分からない」状態。
 自分の本当のものではない感情を持っていると思い込もうとする状態。本人はストレスの中で、自分は望ましい感情を持っていると思おうとしたり、そうでない感情を自覚すると不安に陥ったりします。自分の心は安定していて、人が好きで、明るい性格のはずだ。そうでなくちゃ。。
 人に対面すると、親しみの感情を持つように体の方が強制的に反応する。もしくは逆に、反抗的で見下すような生理的感覚が起きる。感情の「強迫性」とか言います。
 こうしたことと同時に、空虚感が良く起きます。自己の重心が失われていることを直接感じ取った感情とも言えます。
 このように、自分の本当の感情から遠ざかる症状を、「自己疎外」と呼んだりします。

 さらに程度が強くなると、「現実感」が薄れてくるという現象が起きます。
 現実と空想の違いがぼやけてくるような現象です。
 自分や他人が人間であるという実感が薄れる。まるで人形やロボットを見ているような気がする。現実世界が、まるでもやがかかったもののように、ぼんやりとして感じられる。
 このような感覚を「離人感」と呼びます。

 いずれにせよ、人間は自分の感情を「自分自身のもの」として感じることによって、健常な心の視野というものを持つ。
 それが損なわれる世界があるということになります。それが、心理障害が単なるストレスと異なるところです。


 一見健康な軽い段階で見られる、自己の重心を喪失した思考。
 神経症の段階で見られる、自己の重心を喪失した感情。
 これがさらに進んだ段階になると、この両者の特徴が合わさってきます。つまり、自分の思考と感情が同時に、自分以外のものに操られるかのように体験されるようになります。

 これが精神病と言われるレベルになります。
 本人の意識の中で、現実と非現実の境界が崩壊をはじめます。自分の感情や思考が、他人からの電波で操られる。自分の思考や感情が漏れ出て行く。
 これを「現実認知の緩み」などと言うことがあります。


自己の喪失とストレス

 自己の重心の喪失という、心の病理の第2問題は、どんな悪影響を持つものとして位置付けられるか。
 ここでは専門的な話は省略して、直感的にもはっきり言えることをお伝えしたいと思います。
 それは、ストレスに打ち克つ源泉となる自己が失なわれている、ということにまさにつきます。

 あたかもこれは、基礎体力と免疫抵抗力が失われた状態です。
 健康な心身であれば容易に跳ね返せるようなストレスや外部の悪影響に対してさえ、その人の心は容易に侵され、バランスが崩れてしまう。
 彼彼女自身の自己が湧き出ないために、枯れた源泉のように回りの水に侵されて行きます。

 外部の現実的困苦に対する単純なストレスと心理障害の違いの本質のひとつが、ここにあります。
 それは健常な心を基準にどうすればいいのかを考えられるようなものでは、もはやなくなります。

 前のトピックで説明した、ストレスが3乗と言えるほどに増大していく過程とは、同時に、ストレス克服の源泉となる「自己」を失っていく過程だったのです。


感情の自発性

 「自己の重心の喪失」がどのように現れるかを説明しました。
 それはあくまで、「自己の重心の喪失」の結果の「症状」を説明したものです。

 では、その本質は何でしょうか。
 つまるところ、「自己の重心」とは何なのか。

 心理学から明瞭にそれを定義するならば、「感情の自発性」です。

 文字通り、感情が自分自身から外に向かって湧き出ることを言います。
 反対に、自己の重心の喪失とは、感情の自発性が損なわれることを言います。
 感情の自発性が損なわれるとは、感情が自分自身から湧き出るのではなく、外界から受けた刺激への反応としてしか出てこない状態を言います。
 外界とは多くの場合、他人です。つまり、他人から何かを受けての反応としてしか感情が出てこない状態です。

 なぜ感情の自発性が閉ざされるのか。単純明快で決定的な原因があります。
 心が安全でないからです。不安が控えているからです。


 そして安全ではないから、反応として出てくる感情は、恐れと怒りを中心にしたものになります。


心の安全と幸福

 心が安全になると、楽しみや喜び、愛といった感情が多くなってきます。
 これらは幸福感の主な源泉です。
 したがって、心が安全であることは幸福のための重要な条件になります。

 心が安全でなく、感情の自発性が損なわれている場合でも、他人への反応として楽しみや喜びや愛は起き得ます。
 ただしそれは力強さに欠け、ちょっと不安定で、自発的な楽しみや愛と少し質が異なります。
 それでも同じ言葉で、愛や喜びや恐れや怒りが語られます。
 そのため、その人の心の中で、心の安全や感情の自発性がどうなっているのか、心に関する世の中の議論から視点がすっかり抜け落ちてしまっています。
 それどころか、「感情とは外界からの刺激に対する反応である」と考えるのが「科学的」で正しいというとんでもない勘違いが見受けられます。それが最も悲惨な状況で流布されているのが、大学や学会の心理学でしょう。


 それは既に心の安全を失い、幸福感を失った人間の世界です。
 現代社会の人にとって、それが人間なのです。
 感情の自発性を喪失した状態が当り前であるかのように考える、不透明な心のもやが、我々人類が生み出したよどんだ空気のように、世界をおおっています。

 健康な心での自発的な感情は、他人に依存することなく、自分自身から湧いてきます。
 それは何か条件があって湧いてくるものではありません。なぜならば、生きているからです。

 これは、実直に現実科学的な世界でもあります。命は説明されるものではありません。始まりです。(これも詳しい説明が必要な話ですが、心の健康というテーマからは離れてきますのでここでは省略します。説明としては、前トピック、さらに科学論に関心あればこのサイトの「付 感情の科学論 (4)意識はどこにあるのか−島野の仮説−」など参照下さい)


心理障害治癒の際に体験される「内面の力」の増大

 感情の自発性は、感情の内容に勝る、心の健康のバロメーターです。

 このため、心理障害が根本的に治癒した場合、しばしば、「楽しみ」でも「喜び」でも「愛」でもない幸福感が体験されます。
 それは心の開放感であり、「内面の力」の感覚です。
 文字通り、自分の内面に力が湧いてくる、と実感として感じるのです。
 トレーニングして体を鍛えて、体調もいいと、何もしない時でも体の中から力がみなぎってくる感覚が起きます(若い時の話ですが^^;)。同じように、心に力がみなぎってくるという感覚があるのです。

 はじめから心が健康な人はこれをあまり意識していません。それは空気のように自然な状態です。
 それを失ってから回復した人間だけが体験する、特殊な幸福感であり、大きな感動があります。


道徳思考によって閉ざされた感情の自発性

 さて、これほど重大な「感情の自発性」ですが、それが情緒道徳的思考によって閉ざされるものであることは、もはや議論にはおよばないでしょう。
 「人はこうあるべき」とは心を縛ることであり、湧き出ようとする感情に枠をはめ、ふたをするものです。

 それが怒りによる脅しであった場合、そこにはストレスが加わる。
 ところが、たとえ脅しのストレスが伴わなかったとしてさえ、心に枠をはめることを善しとしたことによって、人の心の健康を破壊する方向へ歩んだ第一歩だったわけです。

 もうひとつ、自己の重心が失われた原因があります。これは主に思考面に関係します。上のは感情面に関係した話です。

 それは「善悪」という観念自体が、基本的に自己の重心を放棄する思考であることです。

 「2.怒りのない人生へ」で触れたように、善悪は群れや社会を前提に生まれます。
 それは「個」対「個」では対処できないことを、集団の力によって処理しようとすることであると言えます。もちろん、それによって、自分自身を含めてより多くの人がより幸福であることを目的として、です。
 これを個人の主体性という観点から見ると、善悪とは、自分自身ではそれに対処する能力がないので、他者の目を意識するという、一種の自己放棄、個の主体性の放棄とも言える、ひとつの行動様式を意味しています。

 「ものごとの善悪を考えなさい」「善悪が分る子に」と良くいう声を聞きます。
 心の健康にとって何という誤ちをしていることか、と感じます。それは「おまえは自分など持たないのがいいのだよ」と言っているのと同じです。
 ストレスよりもむしろ、この「感情の自発性」を閉ざしたことこそが、「道徳の大罪」と言えるように私は感じます。


自発的な感情と人格の成長

 「善悪」がない世界とは、個人と個人の感情のぶつかり合いの世界です。
 攻撃されれば反撃する。被害に遭って「それは悪だ」と怒り嘆くよりも、悪に出会わないための自衛能力を磨くことに注力する。愛するものに近づくために全力を尽くす。拒まれれば悲しむ。失敗を繰り返して、よりうまく行動することを体得する。
 「それが善いことだから」というのはありません。ただ、自分の幸福を目指して、自発的な感情の中で生きる過程です。

 そして、自発的な感情の中で、人間の人格に「成長」という変化が起きます。
 これは心を解き放つことについて話したことと同じです。心がこうでなければと、心を縛っても成長は起きない。人工的に成長を起こすことはできないのです。できることは、自然成長力を開放することです。
 感情の自発性とは、感情が流動しているということです。感情が流動するとき、人格に変化が起きます。
 一方、自発的な感情にふたをしたとき、感情は流動性を失い、代わりに人格として固定化されます。人はそれを「性格」と呼んで、変えられないものだと勘違いします。
 心が解き放たれたとき、つまり自発的な感情が開放されたとき、成長が始まります。


自己の重心の回復へ

 心理学的幸福主義において、「善悪の解体」と「自己による幸福の追求」が手をたずさえて、自己の重心の回復への方角を示します。
 この姿勢によってできることは、自己の向く方角を変えることです。動かす力はまだありません。
 次に、その方角へと歩んでいく実践は、「取り組み2−揺らぐことのない人生観と価値観の確立」で説明します。

 そして、方角を変えるだけであっても、根本的に思考体系を変えることが必要です。。
 「善悪」という考え方を徹底的にやめる。日常生活の中から「善悪」という言葉が一切消えるほどまでに。
 自分の幸福について、本当に真剣に考え直す。
 具体的にどのようなことへと向かうのが幸福に近づくことなのか。それについてはもう少し勉強をして頂く必要があります。このエッセンスも「取り組み2−揺らぐことのない人生観と価値観の確立」で説明します。

 まず最初にできることは何か。
 それは、幸福が自分自身によって目指すものだと考えることです。

 人間の心と幸福について学び、自分を知り、自分の幸福を追求する姿勢に立って、自分の目に捉えられる選択肢から、自分がより幸福に近づくものを、自分の意志と責任によって選択する。
 それを生き方の基本と位置付けることです。


 そして、その姿勢の上で実際に幸福に近づくための具体的実践方法を、このサイトでは提供します。

 これはすでに何度もお話しているように、選択です。
 人生に対する他の考え方が「間違い」だから、この考え方にしなさい、という言い方はしません。
 こう考えるという選択肢があり、それを選ぶかどうかは、あなたの自由です。

 幸福を自分によって目指すものと考えた時、すでに幸福に近づく第1歩がなされるように思われます。
 なぜなら、幸福が自分の努力では目指せないとした時、私たちは心の底に無力感を抱えざるを得ないからです。
 それは誤りです。幸福が自分の努力で目指せるものである時、少なくともその無力感は捨てることができます。

 これは、「どうすれば幸福が自分で目指せると考えられるか」という「条件」の問題ではありません。
 心底から、自分で目指すものと考えるかどうか。ただ選択があります。


心の中の対立へ

 心の底から幸福を自分で目指したいと思った時、内面に何か小さな光が見えてくると思います。
 しかし、恐らくそこまです。前に進むものを阻んでいる、大きなものがあります。

 幸福なんてない。その理由となる、「人は内面に対立を抱えた存在」への答えはまだ何もないからです。
 愛情への欲求と敵意。満たされないまま暴走する欲望と理性。人への憧憬と閉ざされた自己。救いへの願いと憎悪。。

 これが、心理障害の第3問題、そして心の健康にとって最も破壊的な阻害要因に関係します。
 それが「人格内部の分離」です。
 「分裂」という言葉を使っても間違いではないでしょう。ただこれは現代人の誰にでも存在する問題として隠されているものであり、その穏やかな形態をさす「分離」という言葉を使いたいと思います。

 人が自己の重心を失っていく。これは心の健康から遠ざかって行く、大切なものを「失う」という消極的側面です。
 それだけではない。人が心の健康から積極的に遠ざかろうとするものがある。
 それは、自己の重心を失った結果、この人物を支配する、本当の自分とは別の存在になろうとする圧力です。

 その結果、自己の重心を失った現代人の心の中に、置き去りにされた本当の自己と、あるべき自分になり切ろうとする自己、その拘束に反発して悪くなろうとする自己、それら様々な自己が解決されないまま、心の中で分離を始める。
 一体何が起きているのか、次のトピックで説明します。

 この状態が克服されない限り、「欲求が全体的に調和した満足」は望めません。


命をかけた取り組み

 このサイトでは、この問題に対して、生涯続く向上の過程となる、ある取り組みへの道を提供します。
 それはすぐには達成されない、決して容易ではない過程でしょう。
 しかしそれは確実に進むことができる道です。なぜならば、それが人間の本能であり、今までの誤った生き方がそれを閉ざしていたからです。

 この入門となる説明を、「取り組み2」と「取り組み3」でします。
 心理学的幸福主義の、「善悪の解体」「自己による幸福の追求」「現実科学的世界観」の3つが手をたずさえ、この道を歩むための足場を提供します。

 そのためには、ここで説明していることが、「こう考えると良くなる」というような、何か手軽な「ものは考えよう」ということではない、ということをお知らせしたいと思います。

 これは、人生をかけた取り組みであり、命をかけた取り組みであるということです。
 心の根底から、自分の生き方を見直す決意が生まれた時、初めてこの足場が、立って歩むための堅牢さを獲得します。

 そのために、私たちは一度、私たちが何故生まれたのかの由来にまで目を向ける必要があるでしょう。
 今まで教えられた、矛盾だらけの人間観人生観から離れ、そしてこの地球をも眼下にした宇宙の一点へと自らの魂を向かわせる。

 そこから、私たちの生きる歩みを、完全なゼロから再構築する取り組みとして、この歩みが始まります。


2004.7.11


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