しまのたかしハイブリッド人生心理学 島野隆ブログand掲示板
  
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怒りにつてい / green
No.1220 2016/10/06(Thu) 20:14:56

怒りについて質問があります。他人から不当な扱いを受けて苦しみを味わったと感じた時に、その相手に対し怒りを感じ、その相手が不幸になることを願う気持ちになることが時にあります。その状況を分析すると、自分は正当に扱われるべきであるという欲求があり、それが理想となって、その理想を守ろうとしているように思います。またその守られるべき理想に従わない他人は罰を受けるべきだという思いがあるように思います。この理想に対し、怒ったところで変わることのない不当な扱いを受けたという現実があります。自分がどんな理想を持とうとも、それとは関係なくお互いに傷つけ合ってしまう不完全な現実があります。現実というものが圧倒的な力で全てを包み込んでるように見えます。理想を手放し、その現実の流れに委ねることが、怒りを手放すことであり、神になることをやめることではないかと思いました。理想を持っていることを認識し、それを持つことの不合理さを理解し、現実を受け入れることで怒りを感じることによる苦しみから解放されるのではないかと思いました。このような考えはハイブリッド心理学的に正しいでしょうか?


 
まず具体的な思考法行動法への取り組みから^^ / しまの
No.1225 2016/10/13(Thu) 07:40:26

>理想を手放し、その現実の流れに委ねることが、怒りを手放すことであり、神になることをやめることではないかと思いました。理想を持っていることを認識し、それを持つことの不合理さを理解し、現実を受け入れることで怒りを感じることによる苦しみから解放されるのではないかと思いました。

う〜ん、ただ理想を手放すことで怒りを手放すというのは、神になろうとするのをやめるというより、積極的な前進全体捨ててしまうような・・^^;
「理想」持つこと自体不合理ではないと思いますヨ^^。「前進の方向性」なるものだと思います。

ハイブリッド心理学での「神になろうとするのをやめる」というテーマは、一言で、「未熟」「弱さ」基盤にして人間が抱く、深層意識レベルでの「神になろうとうする衝動」を、「真の強さ」の獲得足場にして、一種「悟り」のように、その深層衝動気づき捨て去るといった、結構難解な話であるのが実情です。

まず「未熟」「弱さ」脱する成長全版の歩みだというになりますね。深層衝動への悟り取り組み先立ち思考法行動法などの具体的な取り組み重要になります。


>他人から不当な扱いを受けて苦しみを味わったと感じた時に、その相手に対し怒りを感じ、その相手が不幸になることを願う気持ちになることが時にあります。
>自分がどんな理想を持とうとも、それとは関係なくお互いに傷つけ合ってしまう不完全な現実があります。

どんな悩みなのか、その具体的内容を言って頂ければ、まず思考法行動法レベルでの具体的アドバイス返せるかと思いますので^^。


 
Re: 怒りにつてい / green
No.1227 2016/10/16(Sun) 21:03:49

掲示板に書き込んだときは、怒りと憎しみの感情に心が覆われていて、その心の状況を見たときに、見えたものを書き込んだ次第です。今は怒りと憎しみの感情が落ち着いて来たので、思考法行動法は建設的なものを選ぶことができそうです。具体的な内容はなかなか書きづらい面もあり、内面の状況のみを書きました。感情的なものは結構、生理的な面があると思います。その生理的な面が落ち着いて来たのではないかと思います。
外面的な状況は、自分がまるで嘘をついたり他人を利用したりしてより良いものや立場を得ようとする人であると思われ、そのような内実の共わない見せかけだけの変わり者で価値のないようような人間として扱われるような状況です。誇張や推測が入っていますが、ざっとこんな感じで、見下されたり敵対的な態度で扱われるという状況です。恐らく多数の他人が自分について持っているイメージが全く身に覚えのないものであるという感覚です。それらの感覚が自分の内面の投影である面も多々あることはわかるのですがざっとこんな状況です。そんな状況下にかなりの長期間置かれている感じです。これまで怒りを感じたり自分に問題があると思ったりを繰り返しております。


 
「人の目」への惑いを超えた「現実において生み出す」という歩み^^ / しまの
No.1229 2016/10/27(Thu) 10:27:11

2つの話できるかと思います。

1.自己内面の「投影」「外化」を理解する

>恐らく多数の他人が自分について持っているイメージが全く身に覚えのないものであるという感覚です。それらの感覚が自分の内面の投影である面も多々あることはわかるのですがざっとこんな状況です。

確かに、「投影」である多々あると思います^^。
特に注目したいのは、「全く身に覚えのないものであるという感覚」という部分ですね。心理学的に、かなり奇妙なこと起きているらしいものとして。
つまり、「恐らく多数の他人が自分について持っているイメージ」とは、greenさん心の中で抱く空想であり、外部あるものではない。よって、それが「全く身に覚えのないもの」あることは、あり得ない。というになるかと。
この理屈よろしいですかな。つまり「恐らく多数の他人が自分について持っているイメージ」とは実は自分自身が自分について抱くイメージの中で、人に抱かれることを怖れるものだ、という。もし本当に身に覚えさえないものなら、そもそも他人がそんなイメージを自分に向けているという発想さえ、しようがない、という
まあそれが「身に覚えのないイメージを他人が自分に向けている」という空想なるとは、その自己イメージ否定しようとする「抑圧」それだけ強いのだろうと、心理学的には解釈されるものになるかと思います。

「空想」と「現実」を見分ける

ということで、アドバイスが大きく2つになってくる次第です。
まずは、今言っている「投影」「外化」であることの確認
これは作業としては、そうであることの確認というより、に、他人が自分にどんなイメージを向けているかを示す客観的事実どのようにあるのか確認です。
つまりまあ、実際に何か言われたのか、というですね。
そうしてまずは、何が空想であり何が客観的事実なのかの、区別をしっかりとすることですね。

そうして
>そんな状況下にかなりの長期間置かれている感じです。
というのがそう空想しているというであれば、「怒り」不合理なものとして、多少鎮まるのでは、という

2.新しい生き方姿勢と行動法への視野

もちろんそれであとは気にしないように、という消極安直ではなく、根本的克服は、対人姿勢対人行動法そして人生への姿勢といった全てにおおいて、現状のものとは違う、新たなものへの視野をいかに持ちそれに向かうかある、と言えると思います。
つまり単刀直入ぶっちゃけた表現をするならば、こんな話。
基本的に人の目目当ての生き方をしているからそうなる。それとはまったく異なる、「現実において生み出す」という対人姿勢、対人行動法そして人生の前身への視野を持ち向かうと良い。
といったもの。

まあそう聞い「人の目目当てに生きているつもりはない」お感じになるかも知れませんが、まさにそれ「抑圧」だとは言えるかもしれません。
そもそも我々人間は、人の目の中で生きる存在であり、自分の行動の仕方がどう正しいかを、最終的には人の目によって判断できる存在だと言えます。
しかしそこで、人の目に悩み惑い、自分を見失っていく者と、人の目に揺らぐことのない自己を築く成長へと向かう者がいる。この違いか。
その違いとは、自分向上させるための方法として、人の目に高く見られるであろう自己イメージを自分に当てはめ強いるという方法を取ろうとするものと、ありのままの自分を原点として受け入れ地道で着実な一歩一歩の向上に向かおうとするものとの違いだ、というのがハイブリッド心理学考えです。

惑い動揺を込みにした前進

前者は、「こんな自分に・・」という焦りとストレスさいなまれるのみではなく、「偽りの見せかけ」に向けられる他人からの白い眼の感覚苦しみ、やがて、こんな自己理想など持たないのがいいのかという疑念から、人生そのものへの不明へと陥っていく、というのがかなり典型的な流れになります。
後者まさにその正反対・・という安直なものではないのがまさに理解のポイントになります。つまり「ありのままの自分を原点として受け入れる」とは、前者の状況を原点として受け入れて一歩一歩の向上に歩む、ということなのですから。
つまり、自己理想を自分に押しつける焦りストレス、そして偽りの見せかけへの他人からの白い目への怖れといったものの存在を、認め、受け入れることを込みにして、一歩一歩の向上歩む、のが後者になるということです。そうしたものを、人それぞれの程度において免れないのが、我々人間「未熟」からのスタートなのですから。

そうした歩みとしてあるのが、「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみ行う」という「感情と行動の分離」に始まるハイブリッド心理学取り組み実践だということになります。

料理名人になるためには、「愛情を込めてつくる」なんていう精神論ではどうにもならず、何十という食材について学び何百というレシピ考え何千実際調理体験積む、ということになると思います。
それと同じように、「こんな自分」という焦りストレス人の目への怖れドツボにはまるのを踏みとどまりながら、「こんな自分」という自己理想捨てることなく、やがてはそれに近づくことも視野入れるような、生き方姿勢行動法学び実践は、こんな場面ではこれがベストでは?といった何十パターンもの学び模索、そして何百という生活と人生の体験積み重ねによって、というものになります。

「現実において生み出す」

ここまでハイブリッド心理学のご紹介段階であり、実際の取り組みは、より具体的な場面内容ごと詳しい話になってきます。
それでも、多少状況を想像して、大きな方向性として言えること書いてみましょう。

考えられるのは、

>外面的な状況は、自分がまるで嘘をついたり他人を利用したりしてより良いものや立場を得ようとする人であると思われ、そのような内実の共わない見せかけだけの変わり者で価値のないようような人間として扱われるような状況です。

との文章省かれているものとして、「フレンドリーさや親切さの人間を演じて」というような言葉当てはまるのでは、というものです。
そこに、「偽りの見せかけへの白い目」といった怖れ感覚生じ得る
「理想」書いておられるものも、そうした「人物像」「人物印象」の理想ではないかと思います。

ハイブリッド心理学取り組み実践では、まずそうした「人物像」としての「自己理想」「人の目イメージ」などは、「ただ流し理解する」という内面感情側位置づけます。
そして外面行動側では、新たな行動法として、「ハーバード流交渉術」などの「行動学」学び、実践の模索をすることを行います。
「行動学」ポイントは、まさに「人物を問わない」ことにあります。人物印象の良さによって得をするというのとは別世界の、行動法そのものの洗練によって最善の結果を現実において生み出すことに向かう、心の世界知るのです。

この、内面理解外面行動法両輪に、自分の人物像を意識することなく、やがては自分の人物像を可能な頂点にまで高めるであろう歩みへと向かう何年もの歳月をも通してです。
そこでは同時に、「嘘をついたり他人を利用したりしてより良いものや立場を得ようとする人」と見られるなんて懸念など微塵もなく消える、自分自身によって価値を生み出す形での、大きな人生目標定めるといった出てくるでしょう。

「神になろうとするのをやめる」というのは、そうして「現実において生み出す」という歩みで、「真の強さ」知り獲得することを足場に、「弱さ」基盤にして意識深層人間が抱く「神になろうとする衝動」をに気づき捨て去るという「悟り」のようなものになる、というのがハイブリッド心理学考えです。

ざっとそんな話になりますね^^。
「行動学」については、アドバイス良く出るテーマなので、最低限の情報へのリンクなど
『辞典』 - 行動学
載せていますので参照頂ければ。より豊富な説明情報へのリンクなど今後整備していきますp(^^)q

あとは前アドバイスの通り、具体的場面内容に応じた具体的アドバイスご希望であれば、また新規トピックなどで何なりとご相談頂ければ^^。


「問題の起き始め場面」 / 治男兄さん
No.1224 2016/10/12(Wed) 12:50:41

問題の起き始め場面は何であったか。
全ての始まりは、「私悪い事をしてる」というこの短い一通のメールからです。
当時は何を言っているか分からず、私の不倫がその理由と理解し、そんな事はない、
相手の女性も離婚暦があるから、理解してくれていると思い込んでいた。
その後も何度か夕食を共にしたが、あの忌まわしい発言があった。
聞こえない振りをして、一人になってからずいぶん考えた。
「私貴方の前から消える」と小声で言った事もある。これも聞き流してしまった。
全ての根源がここにあると考える。
1月1日の元旦に朝から近くの海の見える場所に行き、昼食を食べた。
愛していると言うと何故か顔を左右に振る。何の意味か聞く事を怠った。
彼女は夕方になるとそそくさと帰ってゆくのが通例だった。
それ以降、あの忌まわしい発言が頭から離れず、1週間くらいメール連絡はしなかった。
2週間後か1ヵ月の間少しのメールに対しても返事が来なくなった。
メールの着信拒否をしていると思った。相手が全く連絡してこない事も不愉快に思い、
「嫌いだ。カス」などというメールを送った。ごく一時的な感情だが、相手には応えたと
思われる。2月に入ってからと思うが、電話連絡をした。
メールの拒否はしていない事が分かった。また、嫌いだ、カスが私の本心だと勘違いして
いた。これも後で分かった事だが。なぜ嫌いだなどというメールを送ったかというと
ここでは書けない極めて不愉快な忌まわしい発言を私に投げかけて知らん顔していたから
という理由だが、その事を伝える事が出来なかった。これにも重大な問題があると思う。
それ以降は、私が好ましいと思う写真などをメールで送るなどして、割と普通のやり取り
があったが、「貴方ならすぐ彼女が出来る」「ずっと引き止めるような事してるね」
というメールが来るに至り、全く私に愛情を感じていないような、当たり障りのない
ことだけ返信してくるようになった。そして、「何度もメールで言ったように、家族を
大切にして」というメールがあった。何度もというが、これが初めてのことだった。
他の男とのやり取りを間違えて私に送ったと勘違いしていたらしい。
この半年程度の期間、全てメールだ。
あまりに気になったので、電話した。普通に会話して、大丈夫なんだね、元気なんだねと
確認した後電話を切ると、「もう電話しないでください」というメールが来た。
全く、何が何だか分からなかったから、それからもメールで何度もやり取りしたが、上手に逃げてゆくというかあしらっているのが分かった。ますます、不愉快と不安でいたが、結局「自分勝手で卑怯でインチキで人非人だが、そんな君を愛した」というメールを送った。
怒り心頭に発したのだろうと思われるが、さよなら、約束は破棄しますというメールが来た。
私は、分かっていればよろしい、約束は破棄しないというメールを送った。
その後半年位して、私の身近にいる方々と夕食をとっている事が分かり、私にもメールが
来た。「お久しぶりです。とりあえずメールが来たから。私メールはしません」という
メールが来た。頭にきたので、どうして奴らに会えるのに俺には会えないのか、私を
陵辱するにも程がある。奴に小さな小瓶の芳香剤を送ったのは何故か、恋人なのかとメールを送った。
その相手が二股の相手である。
それ以降、着信拒否・メール拒否となった。
それから長い間考え続ける事となった。今年に入って、二股を掛けられていた事を知った。
そして、様々な言動に全て辻褄が合った。そのころ、全てが分かった。責めたりしないから、会話しませんかと留守電に残した。
固定電話なら繋がったから数回連絡したが、連絡は全く来ない。電話番号も変えられた。
彼女が私を勝手に分かれた事にした時点が、私悪い事してるという時期と一致し、回りから少しの情報で二股が発覚し察しがついたという状態だった。
全てが分かって全てがとっくに終わっていた事が分かった。
ちゃんと会って話してくれという私の願いは最後まで実現できなかった。


 
「愛を育てるための心のルール」^^ / しまの
No.1228 2016/10/20(Thu) 11:10:11

より早い時点での対処行動

>全ての始まりは、「私悪い事をしてる」というこの短い一通のメールからです。
>「私貴方の前から消える」と小声で言った事もある。これも聞き流してしまった。

この辺確か問題始まり時点という感じはありますね。一方後の方は、もう始まりというより泥沼段階のような^^;
あとその始まり段階にしても、実はもっとさらに以前に、互いの関係がスムーズでないことに気づける時点あったのではと想像いたします。
いずれにせよ、より早い段階で、自分がもしこういう行動法をしていれば、より良い方向へと事態も動かせた、というものを自身で考え得るようになるのが、取り組みになると思います。

ごく単純な話、
『「問題の起き始め場面」に取り組む^^』 しまの No.1223 2016/10/11
での
1.連絡拒否などの仕打ちを回避する行動法・・・「相手を変える
一つの方法とは、相手に脈がない察知した時点で、先手を打ってこちらからは連絡しなくする、といった行動法を取れば、まず連絡拒否されることもない、といったがあります。まこっちから連絡しないのなら相手にとっても連絡拒否する手間不要というですね^^;
でもそれでは、可能性もあまり育てられない消極一辺倒ですので、よりバランスの取れた指針として、ハイブリッド心理学から言えるものをお伝えしようかと思います。
なおそうした消極策のようなものも、「行動法バリエーションの思考」というとしては、あらゆる候補を考えつけることが重要だというになると思います。


「愛を育てるための心のルール」

ということで、よりバランスの取れた指針を、「愛を育てるための心のルール」としてお伝えしようかと思います。

4つほどあります。関連資料へのリンクなど整理するのも読む方も大変(^^;)と思いますので、ここではごく簡潔ポイントを書いてみます。

1.相手への行動は肯定的なもののみで構成する
恋愛交際などに限らず、これがハイブリッド心理学からの対人行動法全て指針になります。「それは駄目だ」と言うのではなく「こうするといい」と言う行動法であり、誘われて断る際には「行きません」ではなく「(他のことを)これをします」という行動法です。生半可なものではなく、「ハーバード流交渉術」など高度な行動学学び重要になります。

2.愛と似て非なる感情を見分ける
愛ではない感情を愛だと思い込んで行動することが、まさに愛を破壊します。まずはそれを見分けることが重要になります。
ただ性愛欲魅力ある相手「所有」あるいは相手「所属」したいという生活上の世話お金など良くしてもらうことへの。そして「プライド」というのが絡んで破壊的役割演じます。相手に拒否されたことが、欲が満たされないフラストレーションと、プライドを傷つけられたという怒り結びつき憎悪へと膨張するというのが典型的流れです。
この克服のため、欲は欲自覚すること。そして「自尊心」相手にどう扱われるかではなく、自分がどう自らを幸福にする能力を持つかという、自律的なプライド姿勢変えていくことが重要です。

そもそも「愛」とは、「一体化」へと向かう感情全てであり、生命現象のレベルとしてあるものであり、人間の薄っぺらい「意識」納まるものでない、というのが一言ハイブリッド心理学「愛」へ思想です。
頭で「愛とは何か」と気難しい思考を繰り返すよりも、以下のような指針の下で向かうことによって、人生を通して「愛」何か分かっていき、心を惑わすものから心を豊かにするものへと変化していくであろう、と。

3.相手との関係は「相手を好きでいる感情」ではなく、「相手とどう生活を共にできるか」によって築いていく
を、外面行動としては「喜びと楽しみの共有」として向かうもの位置づけます。
これと対照になる非成長形は、「愛していればこうするべき」というものであり、プライド愛の名の下に膨張させ、やがてどちらかが耐えられず破壊的結果向かうというのが、やはり典型的です。
これは上記1.肯定的行動というのと手をつなぐものになります。相手への行動肯定的なもののみとし、相手が喜ばない、楽しめないのであれば、その行動相手に強いない

この指針結果相手との関係は、相手をどう好きかの感情によってよりも、現実的に相手とどのように「生活を共にできるか」によって築くものと位置づけます。どんなに好きな相手でも、現実生活上一緒にいるのが成り立たないものがあれば、その現実愛の名の下に目をつぶることはしないように、と。

一つテーマ加えておけば、「愛している」と相手に言うことは、上記指針からは良い悪いどっちとも言えないものです。文化的性格的に、そう言い合うのが嬉しいのであればそうする良しそうでない場合無理して言うものでもなし安易に「愛している」という言葉は、欲とプライドその言葉の下に隠すものだという批判を、免れないこともあるでしょう。
ちなみに・・とまあどうでもいい話ですが、「愛しているとは言わない派」です^^;

4.相手を好きでいる感情の中の最も純粋なものを、自分自身の心の中で守る
そうして「喜びと楽しみの共有」そして現実生活共有なり得ない場合は、無理に相手と共にいようとすることをやめるという選択肢提示するものになります。これは孤独を受け入れるということでもあります。
それでも、相手を好きでいる感情は、心の中で開放し、守ることです。どのように好きなのかに、とことん向き合うことです。
これが、愛の感情最も純粋なものにし、豊かな感情へと変化させていきます。そして心が豊かになると、行動の幅広がる。そして再び、相手に対して外面行動として何ができるか、新たな自分向き合いへ、という流れになります。


恋愛交際における「引き際」^^;

取り組み実践としては、
@基礎科目:上記「愛を育てるための心のルール」理解納得への向き合い
A実践科目:今回のケースで、どのようにより早い段階でどう対処できていたら良かったか検討
というものになると思います。

まあまずは、引き際のスマートさ、といった話にはなるかもしれませんね。
相手交際継続を望んでいないことを感じ取った時点で、どんな問題があるのか、ごまかさずに、誠実そして真摯に話し合い、良識的な結論を提案し、そして合意を得ることです。もちろん、相手への思いやりも大切です。
その内容は、「愛を育てるための心のルール」への理解納得得られるほど、よりスムーズなものになると思います。それは相手からこちらへ信頼にもつながり、一定の冷却期間を置いた後、再び交際へと結びつくといったこともあるかも知れない。

まずは「愛を育てるための心のルール」への理解納得が、結構大変な話なるかと思います。
ハイブリッド心理学から言えるのは、そうしたに、に言った、「愛の感情を最も純粋なものにし、豊かな感情へと変化させる」といった心の情景がある。あらゆる惑い凌駕する感情として。というところまでです。その道行くかどうかは、もう各自の選択だ、と。「愛」について、別の考え方、別の道もあるだろうが、それについては何も言えない、と。

ということで、上記@A実践として、検討してみて頂ければ^^。


囚われの心 / 治男兄さん
No.1216 2016/09/16(Fri) 11:18:03

どうしてこんなに長く心が囚われたのか考えた。
自分の良心・倫理観・考えは両刃の刃となり自分と他人を傷つける。
3年半苦しんで事実や相手の気持ちが分かると、それまでの熱病のような囚われの気持ち
が徐々に解放される。分かってみると、本当にちっぽけで無意味な時間を費やしたと
徐々に冷静にしてくれる。
これまでの相手の発言は、無意味で何の正統性も無い。
全部分かったと伝言を残してよかった。相手は全く私の事を気にしておらず、悪いと
思っていたけれど嘘をつき通せると思っていた。
嘘の上塗りになるから私と話がしたいなどと思うはずも無い。
残念ながら相手は良心があるとは思えないほどの嫌な事を私にした。
悪い事をしたと自覚しながら、平気で私に謝罪すらないし誠意ある態度は皆無だ。
仲たがいをしたままで連絡さえ取れないのは嫌だったが、今後一切連絡が無くても良い。
そう思うようになりたいし、徐々になっている。
考えたくも無いのに考えてしまうというこれまでの毎日の気持ちが解放される事を望んで
いる。考えて考え抜いて、その理由・原因・自分の心が分かれば徐々に割り切れる。
ようやく相手がどれくらい私を嫌っているかが分かったから、嫌ってくれて踏ん切りが
ついたと思う。良かったと思う。
汚らわしいという思いと決別したい。あと3年半でこの会社ともお別れできる。
自分を別の場所においてみる。下劣な連中とは付き合わない。
家族とも決別する。これで良いと思うことを自分優先で行う。必ず幸せになる。
残念ながら、好き・嫌い・信じる・信じないという事を考えてしまう事からは解放され
ない。
ここに問題があるのかどうか分からない状態です。早く楽になりたいのに。


 
外面行動法と内面向き合いへの取り組み実践^^ / しまの
No.1218 2016/09/26(Mon) 14:03:56

遅くなりまして^^ゞ


決別すべきもの・・

>汚らわしいという思いと決別したい。あと3年半でこの会社ともお別れできる。自分を別の場所においてみる。下劣な連中とは付き合わない。家族とも決別する。これで良いと思うことを自分優先で行う。
>ここに問題があるのかどうか分からない状態です。早く楽になりたいのに。

あるいは決別すべきは、「望ましからざる誰か」ではなく、「悪い面ばかりに意識を向ける自分の心」だ、という話になるかも知れませんね^^。

人間誰も不完全な存在ですので、良い面ではなく悪い面ばかりに目を向ける心ある限り全ての他人望ましからざる存在に見えてしまいます。そして一度そうした人々とおさらばできても、新たに出会う人悪い面ばかりに目を向ける心によって・・・。
繰り返しということですね。同時にそれは自分の悪い面ばかりに目を向けて攻撃する心でもあり、自然そこに、「苦しみ」湧くことになります。

もちろん、だからと言って「良い面だけを見ること」上の空に自分の心に押しつけたところで、実際社会を生きる上でのリスクうまく対処できなくなってしまいますので、我々はまずものごとの良い面と悪い面を公平に捉えて合理的に対応する外面行動法得た上で、自分自身の内部で悪感情ではなく良い感情を引き出し増大させる心の技術重要になる、ということですね。


ハイブリッド心理学の取り組み実践

それ向かうとは、ものごとの見方考え方思考法行動法について学びながら、
自分自身の心真摯に向き合い「選択」を成していくことで自分の心がどんな感情を返してくるのかを確かめていき、
そして再びそれを「選択」へとフィードバックしていく。
これを日常の全ての具体的体験積み重ねていくという、地道な道のりになる。
それがハイブリッド心理学の取り組みになります。

そのために僕からできる手助けは、そうした具体的場面内容についてできるだけ詳しく(個人情報につながるようなものは不要^^)お聞きした上で、それについての見方考え方思考法行動法、そしてそこからどのように内面感情への向き合いつなげていくのかと言った、ハイブリッド心理学取り組み具体的実践示唆するようなことになります。

上の話について言えば、数えれば何十にもおよぶような、相手との場面や、日常生活仕事人生課題場面などを総じて感じたこと書いておられると思いますが、取り組み実践はその一つ一つの場面ごとに、詳しくじっくり行うものになります。自分が何を感じたかに、まず心の外部どんな出来事起きたのかの、客観的把握から始めてです。

そうした数十もの実践をここで全てアドバイスするのは不可能ですので、これはというものを何か1つ、あるいは多くて2、3個程度詳しく書いて頂ければ、それに応じた詳しいアドバイスを書けるかと思います。すでに書いて頂いた件について取り上げたいようでしたら、その旨言って頂ければ僕の方見当つけてアドバイス返しますので^^。

まあ恐らくポイントは、相手の言い分なども認めた上で、自分を守ることのできる行動法といったもの、そしてそこに含まれ得るフラストレーション耐え得る心のあり方とはどんなものか、といったになるかと。それが得られれば、外面的には今のままでも何も問題ないという視野生まれるかも知れない。

いずれにせよ、そうしたじっくり「取り組み実践」検討なさるとよろしいかと思います^^。


 
Re: 囚われの心 / 治男兄さん
No.1219 2016/09/29(Thu) 17:18:26

早く全てを完全に忘れて楽になりたいという気持ちがありますが、これを一つ一つ具体的
に記載してゆく事により、記憶が更にアップデートされてしまうのではないかという恐怖
を省みず、まずは、直近にあった本当に不愉快な事を書きます。
電話を拒絶する、着信拒否に加えて番号を変えたか何かで、とにかく連絡不能にされた。
こんな事は、人としてやってはいけない事ではないかと思う。
そこまで私という人間を拒絶する理由は何か?
嫌だからという事以外無い。
相手は本来優しく、思いやりのある人と思うが、私の知らないところで私の最も嫌がる事
をしておいて、更にその行動を私に示唆し、理由も言わず面会を拒否し、メールのみで
私をあしらい、長い事迷路のような謎に取り組ませた。
そういう結果になっている事を十分に承知しておきながら、私の周りの人々とは連絡を
とり続け、私以外とは仲良くしている。最も私が嫌な事をされた男性とは繋がっている。
私の目の前にその不愉快な奴がいる。毎日会ってしまう事を余儀なくされる。
本来、ちゃんと説明したり、面会したり、喧嘩したりすべき相手である私を全く無視して
いる。こんな事を平気で出来る人間ではないはずと思い込んでいる私にとって、信じられ
ない程に非礼で愚劣で冷酷な、嫌な奴だと思う。1年ほど前にその事を伝えたが、理解
しているかどうかも分からない。生まれて初めてこんなに酷い仕打ちを受けたという
思いが自分を苦しめる。もうすでに長い月日が経過し、相手には記憶が無いはずだが、
くよくよ考えているのは、未だに好きだからという事だと思っている。
一方では、心底不快でおぞましいと思っている。早く完全に忘れたいと思っている。
あと一歩という気持ちで毎日嫌な奴のいる会社に来るあいだに考えた。
私は胸を張って生きてゆけるが、私に嫌な事をした女性は少なくとも私から逃げ、避けて
生きて行かなければならない。厚顔無恥という事が有るならば、平気でいると思うが
これだけ避けるところを見ると、嫌な事を避けているという事が明白だ。
従って、必ず暗い部分が残っている。
いづれにしても、出会えて幸せだったが、こうした愚劣な言動をした女性は私にとって
無意味で早く完全に忘れ乗り切りたい。もう2度と会いたくない。


 
Re: 囚われの心 / ハロー兄さん
No.1222 2016/10/11(Tue) 12:07:47

恐ろしい事に気がついた。
私に言ったおぞましい質問は、あの嫌な奴と私が何か裏で繋がっていて、弄んでいると
思ったらしい。
逆に言うと私はそんな風にしか見られていなかった。
何の繋がりも、連係も、全く無いのに疑ったらしい。
彼女の行動は両者を苦しめ傷つけた。
私がそんな酷い事をしていないと気が付いた時、取り返しも付かず逃げるしかなかった。
本当の心を確かめもせず、ただ闇雲に逃げていった。
私との繋がりを塵屑のように捨てていった。
残されたのは私一人、本当にナイーブな私の心だけだった。
3年9ヶ月、これが私の考えた結論という事になる。
結果として2人の男を弄んだ事になる。
それでも、今でも時々、会いたいと、話したいと思う事がある。
なんという事だ。
勝手で、卑怯で、インチキで、人非人で、卑怯と分かっていながら卑怯な事をした。
哀れな女性という事になる。


 
「問題の起き始め場面」に取り組む^^ / しまの
No.1223 2016/10/11(Tue) 13:37:25

「感情と行動の分離」の姿勢で始まる「取り組み実践」

アドバイスとしては、ハイブリッド心理学「取り組み実践」ご紹介になりますね^^。

>まずは、直近にあった本当に不愉快な事を書きます。電話を拒絶する、着信拒否に加えて番号を変えたか何かで、とにかく連絡不能にされた。こんな事は、人としてやってはいけない事ではないかと思う。

ハイブリッド心理学「取り組み実践」は、
『辞典』トップページ最初項目
実践-1 「感情と行動の分離」の基本姿勢および実践
まとめていますように、
・「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解することのみ行う」という「感情と行動の分離」の姿勢を車の両輪のように携え、自分の「望み」に向き合い、全てを尽くして「望み」に向かって生きていく
というものとして営むものになります。

その「感情と行動の分離」というのがどうピンとくるかは上記リンクからの説明を読んで頂いて検討頂くとして、話の最初に来る
・動揺する感情を克服したいのだから、まずは感情を鵜呑みに考えない
というのは、まずは合意されるのではないかと^^。


まず課題を捉える

そこから、『辞典』その後にまとめたような外面内面への実践検討が始まるわけですが、まず重要なのは、
・課題を捉える
ということからですね。
課題の捉え方から、ハイブリッド心理学としての方向性がある、というになります。それに沿って、「実践」検討進めるものとしてです。

それを自分で考えられるようになるのも、日常的「読書」「実践」積み重ねによるというになるのですが、それをすぐにというのも大変ですので、参考答案のようなものをまずご紹介するのがこの読者広場役割ということで、簡潔僕が考えたものなど書いてみましょう。
大きく3つ課題になる、と。ごく簡潔指針添えましょう。また、説明『辞典』から手早くリンクできるよう整備中ですが、まだまだ未整備でご不便おかけしますが、どんな項目該当するかを添えておきます。

1.連絡拒否などの仕打ちを回避する行動法・・・「相手を変える」
一言で、相手を否定したり攻撃したりすることは一切しない肯定的、建設的内容言動駆使して相手を動かす行動法です。
以下実践項目該当
実践2-1 「破壊から自衛と建設へ」の基本行動様式の転換
実践3-1 行動学

2.上記行動法を支える価値観の検討・・・「自分を変える」
「愛」についての価値観です。
「愛」を、どのように向かうべきものと考えるか。ハイブリッド心理学推奨するのは、「愛」を、約束事のように束縛し合うものではなく、「楽しみと喜びの共有」として向かうというものです。共有できるものがない時は、何もせず、孤独を受け入れ
また、そもそも「愛」とは何か深い理解への取り組みも出てきます。
以下実践項目該当
実践4-1 「価値観」への取り組み

3.その先にある最終的な克服への視野
これはまず上記2つが、その検討選択結構なのようにある大きな取り組みになる、と言えると思います。最終的な克服は、その現れる、と。
それは一言で、「愛」自分自身の中で、何の動揺も苦しみも伴うことのない、豊かで美しい感情へと変化していく。外面的な結果どうなろうともです。それが我々何よりも得難い心の幸福与えることになります。
これは「歩みの学び」全て関係しますが、
歩み-3 「魂の感情」
が最も直接的に関係するテーマになります。


「問題の起き始め場面」に取り組む

以上はまずは実習科目全体のオリエンテーションのようなものとして、実際の科目として、まずは上の
1.連絡拒否などの仕打ちを回避する行動法・・・「相手を変える」
からになりますね。

そこでハイブリッド心理学からの取り組みアプローチとしては、「連絡拒否にされた」といった「問題」「起き始め場面」材料になります。
つまり相手との関係どうもギクシャクし始めているような気が、初めてしたような時点
そこで、自分の行動をもしこうこうというものにしていたら、相手が連絡拒否になるようなこともなかったであろう。そうした行動法考えてみるのが、この場合実践になると思います。

多少具体的に、どんな出来事状況だったのかを書いて頂ければ、具体的検討アドバイスを返すことができるかと思います。恐らくそれはすぐには合意できないようなものになるかも知れませんが、そこから、「価値観」といったテーマへと自ずとつながっていきます。

一方、

>こんな事は、人としてやってはいけない事ではないかと思う。

以降書いて頂いたものは、問題起きた後に感じた内容として、「感情と行動の分離」における「内面感情はただ流す」という対処のものになります。まあこれも実践一部ですね。内面感じたことありままに開放し、つぶさに書いておくのも良し。ただそれは外面行動とはいったん切り離す。そして外面行動については、「行動法」「学び」始めることからです。

まあかなりもどかしい感じるかもですが、ハイブリッド心理学での取り組みは、そうした具体的場面ベースでじっくり進めるものになります。
ご検討頂き、取り組みご関心があれば、「問題の起き始め場面」など振り返ってみて頂ければと思います^^。


外化および孤独の受け入れ / こたろう
No.1185 2016/06/12(Sun) 18:16:33

外化および孤独を受け入れる事についてです。


人から向けられる軽蔑感情などは、差し引いて考える、という事ですが、
ある程度時間を過ごすとその人が、自分ではない他の人に対してしている
発言などから「この人はこう考えているだろう」という予測がつけられるように
なると思います。


この人は「こういう人間関係」でこそリラックスできるのだろうな、という事が
わかってくる(例えば、からかいあったり、常に談笑にもっていこうとするなど。)。
すると、自分の素のままのコミュニケーションの方法では相手が「つまらないな」と
思うだろうなという事がわかってしまう。
会話の内容に本当に面白さを感じているかどうかとはまた違います。
まったりと物事に対しての思索を共有するようなコミュニケーションが好きな
人もいれば、2言目には冗談を交えたいという人もいますよね。


すると、自分なりにとるコミュニケーションが途端に「ぎこちなく」なってしまいます。
そうなるのが嫌なので、もう話さない。
当初は「親しくなろう」という姿勢を見せてくれていた相手も、
敬語に戻ったり、よそよそしく接するようになる。まあ、当然ですね。

それでも、自分なりのコミュニケーションをとるしかないと思うんです。
つまらないなと思われているだろうけど、私は敵ではないという事を
みせる必要がある。


周りをみていると、そうしているように思います。


これに関しては「外化」とはいえないのではないか?
なぜなら、他の人に対してされていた発言のデータから成立している
予測だからです。


やはり仕事の話のみで、孤独を受け入れるというのは極端すぎるし、
休憩時間が気まずすぎて、仕事時間までギスギスしてしまいます。
しかしそうするしかありませんでした。

そしてそうして、こっちが避ける事によって相手もこちらを避けるようになり、
自分を嫌った相手へのイライラした気持ちがどんどん強くなってしまいます。


そして、和やかな飲み会の席でそういう関係の人たちと対峙する恐怖。
せっかく今後皆で頑張っていこうという、門出の飲み会なのに、
自分と同じ席になった人はきまずい思いをしなければいけない。


おとなしいだけで人畜無害な平和な人とは違い、
誘われても頑なに断り、壁を作っているという外面印象を与えてしまっている
自分。


そして、なんとか同じグループの人には「つまらない、雰囲気をぶち壊しにする人間ではない」という認知をあたえられていたと思うのですが、それが飲み会で「偽物」だった事が明るみに出る恐怖。

僕にとって、「接しづらい、空気を悪くする人間だ」と思われてしまうような
外面印象を出してしまうのは、そこから「相手への殺意、強烈な憎しみ」に連鎖して
しまうが故にここまでの恐怖になっているんだと思います。


建設的な行動は心がけていますし、破壊の行動は一切していません。
ただ、休憩時間や帰宅の時間に、全くコミュニケーションがとれない。
内心では相手への軽蔑感情や破壊衝動が渦巻いているので、どうしようもないのです。


このままだと飲み会を欠席しないと精神がおかしくなりそうです・・・。


感情の強制がないと適意がすぐに表情に出ます。
難しいです。


 
「外化」と「健康形」「成長形」^^ / しまの
No.1186 2016/06/20(Mon) 10:21:40

「外化」「投影」と「予測」「推測」

>これに関しては「外化」とはいえないのではないか?なぜなら、他の人に対してされていた発言のデータから成立している予測だからです。

その通り「外化」「予測」いちおう別の話ですね^^。

「外化」は、「本来自分の中にある感情が、自分の中ではなく他人の中にあるものとして知覚する現象」
初期原稿ですが以下など参照「自己建設型」の生き方へ - 6.対人関係を阻害する「外化」
その結果「外化」というのは、相手の内面感情「見える」かのよう感じ取るものであり、イメージとして意識浮かんだりまとわりついたりするのものになります。「投影」同じ意で使う言葉と言えます。

一方そうではなしに、これこれの状況相手はこう感じているのではという思考一般「予測」「推測」という言葉などで言えます。

言えるのは、「外化」「投影」誤りであり「予測」「推測」なら正しいとは言えないということ。
意識方法の違いであって、内容実際事実通りなのかはまたそれぞれケースバイケースです。これは詳しい説明省きますがよろしいでしょうか。

ですので、

>すると、自分の素のままのコミュニケーションの方法では相手が「つまらないな」と思うだろうなという事がわかってしまう。

というのが「外化」ではなく「予測」だとして、実際そうなのかどうか何とも・・という^^; まあそう感じるのであればそうなのかもしれませんね、というようなになるかと思います^^; まあ、婚活パーティで、相手こっちのことつまらない人思ってるんだろうなーと感じるのであれば、まあ大抵はその通り^^; というような。


「未熟形」「未熟形」と「健康形」「成長形」

まあまずそんな話として、重要なのは、そこに付随する細かいニュアンスの、「未熟形」「病み形」そして「健康形」「成長形」知ること、見分けること、ですね。
「外化」なのかどうか以前に、ということになると思います。その違い分からない方向定めようがありませんので。

ただの「つまらないな」「つまらないと思われるのは残念」程度であれば「健康形」
それが「許せないつまらなさ」という「怒り」であったり、「つまらないと思われる自分は破滅」とかの「恐怖」感情となると「病み形」です。
「成長形」は、まず「健康形」受けて、自分の前進方向を定める感情へと向かうものです。「もっと相手を楽しませられるよう、会話術やユーモアを学ぼう」とか、「ここで相手に面白いと思われることは重要ではない。もっと重要なことに目を向けよう」とか。

「未熟形」「病み形」はただ流し理解し、「健康形」「成長形」の中で自分の前進方向性を模索し見出す。
指針になります。

「つまらない、雰囲気をぶち壊しにする人間」「接しづらい、空気を悪くする人間」といった、「雰囲気」「空気」を重視するのは「未熟形」です。これはよろしいですかな。未熟ほど雰囲気とか依存し、成長成熟するごとに、そんなの関係なく自分の前進方向自分で定められるようになる。
雰囲気や空気を守ることを「善悪」考えるようになると、次第「病み形」帯びてしまいますね。まそれが昨今の文化でもありますが、あくまで健康病み見分け大切です。「つまらないと思われてしまう」のはまあ事実だとして、そうしたニュアンス部分「外化」ではないかという有用でしょう。

職場の飲み会とかのであれば、まあまずはそれでクビになることはないでしょうから、まずはただ流し以前にも言ったと思いますが、人生における自身の交友のあり方の模索という全体取り組むのが方法性になると思います^^。


 
Re: 外化および孤独の受け入れ / こたろう
No.1187 2016/06/25(Sat) 21:10:51

職場の飲み会であれば、クビにならずとも嫌われると思うのですが、嫌われるのは仕事に影響ありますよね?

孤独を受け入れるってなんですか?
業務上のやりとりも業務外で培った関係性で
円滑さが明らかに変わっていますよね?
全然嘘じゃないですか、、、。
雰囲気や空気を守るのが未熟形なんですか?

楽しみの共有、という事で会話をしていても、
結局休日まで過ごす事はできない。訪れる沈黙や落胆を
恐れているため。
こんなに普通に話しているのに、なぜいざ休日も遊ぶとなると避けるのか。そう感じられてから、今までよりもぎこちなく接されるようになる。



行動の後悔、、、

今まで、きまって全体の飲み会があるタイミングで体調を崩して早退や有休で欠席していて、どのようにこの状況を回収したらいいかわからないです。
今までは、体調悪化のタイミングがたまたま飲み会のある日だった、、という認識をされる事をなんとか保っていたと思います。
しかし、そろそろ、偶然でなくそのタイミングで体調が悪化しているのだという事のごまかしが効かなくなってきたと思っています。


またなぜか、社内向けのプレゼンテーションの決意表明で社会人としての決意表明として、雑談が苦手なので課題としたいとかいう発言をしてしまいました。
感情と行動の分離としては失敗でした。
同期とうまく馴染めなかったが、それは心を閉ざしているのではなく雑談が苦手だからそうなってしまったのだという認識を同期にしてもらう事で、嫌われるのを防ごうという意図がありました。無難な事を言うべきだったと後悔しています。


これは行動面でどうしたらいいのか、という部分ですね。


それから楽しみと喜びの共有の会話をしたいのですが、
わかりあい認め合う事を目的としたような質問をされた場合どうしたらいいのですか?


 
Re: 外化および孤独の受け入れ / こたろう
No.1188 2016/06/25(Sat) 21:56:06

それから
●謎が多い人
●闇がある人

などと言われる事にどう対処すればいいですか?

楽しみの共有が出来ないから孤独を受け入れていたら、こういわれるように
なりました。

常時暗くて、心を閉ざした様子であれば、
「寡黙で暗い人なんだなあ」ということになると思いますが、
話すときは感情の強制にならない範囲で相手に好意は持っているという外面印象は
作りますが、休憩や飲み会となるとその場から立ち去っている、といった状況が
「謎」と言わせてしまうんだと思います。

どう対処するのがいいのでしょうか。

今は「謎めいた風なだけで別にベール脱がしても何もないよ」
とかいってごまかしてます。

だけど、外面現実の事実が、もうごまかしようの無いものになってしまうと、
明らかに「ごまかしている」と思われる視線が強烈に感じられて、つい
正直に話したくなってしまうんです。


人事の方などにもそろそろ聞かれると思います。
何か身体的な病気などであれば、事前に相談してくれないと突然業務に
支障が出るのが困る、というニュアンスの話を少しされましたし・・・。


加えて今回は、飲み会のつい30分前までは、健康な外面印象を保って
業務で、プレゼンテーションの司会などをやっていたため、
「社交的な場における精神的不具」という認識が避けられないように
思います。まさに化けの皮がはがれる・・・といった感じで、もうその場に
いる事も恐ろしくてたまりません。


自分としては最悪のパターンは、人に対して憎しみや敵意を抱いていると
いうことがバレて、それが知れ渡る事です。
また社交の場全般に避けざるを得ないほどの恐怖を感じていると認識される事です。

それならいっそ「会食恐怖症」などで、ある場面でのみ精神的な緊張が高まる
などという認識をされた方がまだいいなぁと思ってしまいます。

誰に向けてどう説明すればいいのかも変える必要はあると思いますが、
ある程度話していた同期には、直前まで普通に話していた事の疑問を解消するために
「寝不足と業務で疲弊してたから、飲み会の途中で充電切れのような状態になって、完全に黙ってしまって醜態をさらしたくなかったんだよね〜」などと説明しようかなと
思ってます。


ただ問題の根本は、前回触れていただいたポイントにある事はわかっています。


やはり社交の場になると、1対1で話していた時には「ある程度の好意」を
感じていた相手が、他の人ともっと楽しそうに話している様子をみると
好意が消えうせ、敵意となり、その人と話そうと思うと「敵意を隠さないと」という
事に意識がほとんど集中して、結果会話どころではなくなり、相手から
「仲良くなれたと思ったのに急に距離を置かれている」と思われて、
以前よりもぎこちなく接されるようになる、という事です。


感情の論理としては、「自分を一番に思うべきなのになぜほかの人といるほうが
楽しそうなんだ」「自分といるときは気をつかっている。ほかの人といる時よりも
緊張していて、疲れる時間なんだ」

そして嫌われているようだ、という認知になると憎しみに転じる、というのは
前回触れていただいた通りです。


それに、今回も含め、休日のような長い時間や、飲み会などの時間では
「急に電池が切れたように話さない」状態になってしまうため、
それを避けているわけですが、それに気づかれてしまうと、
「わたしと話しているこの時間もただ無理をしているだけなのかもしれない」
と思われて、話がギクシャクしてしまいます。


方向性・・・という大きな話はわかるのですが、
今目の前のこれをどう乗り越えれば外面的に一番変な事にならないのかが
難しいです。


 
「自身の感情をどう感しるのか」への問いから価値観向き合いへ^^ / しまの
No.1189 2016/06/30(Thu) 13:56:27

「自身の感情をどう感しるのか」に向き合う

これはまず全体状況としてかなり苦境を感じておられるのは分かり、仔細網羅的説明とアドバイスを書こうとすれば1冊の本になってしまうようなになるでしょうが、それも実際的ではないので、逆に可能な限り簡潔単刀直入アドバイスしましょう。
まず大枠の基本指針として、外面内面それぞれについて、

・外面において特別に対処する問題はない。通常の行動法の一環の話になる。
・内面においては、自分の感情の動揺の流れを理解し、そのそれぞれの感情について、自分として合理的と感じるかそれとも不合理と感じるか、病んだ感情だと感じるか、脱したいと感じるか等、自らに問う必要がある。

とうことになると思います。

まずは内面側の向き合いになりますね。それに応じて外面の話どう見えてくるか決まる、と。
つまり、現在感情動揺流れは、
@誰よりも自分に優先的な好意が向けらることを求める感情
Aそれが満たされない時に湧く敵意と憎悪
B敵意と憎悪が相手に気取られ、嫌われることへの恐怖

というれにおおよそなっていると思います。

問題は、こうした流れの感情そのものについて、自身でどんな位置づけのものだと認識しているのか、です。
合理的な感情だと考えるのか。それとも未熟で病んだ部分のある感情であり、脱したい感じるのか。

それがどうもこれまでの話から察するに、こうした感情の流れそのものについては固定された前提のように、その上で外面を、まあ言ってしまえば取り繕う方法質問しておられるような。
そうなるともうハイブリッド心理学では役に立てるものはない、ということになるかと思います。

まず言えるのは、上記@→Aという流れの感情を、自身でどう感じるのか、ですね。それがまず問題の起点になっていますので。
まずは@を、社会人にもなった人生段階自分にとって、その上に立って他人全般と接することができる感情感じるのか
もし心底から、もうそれはできないのだと感じるのであれば、もうその時点で、A敵意と憎悪というのも、反応的に湧いてしまうのはあるとして、「流せるもの」「流すしかないもの」へと後退するのでは、と考えますが・・。Bしかり


「優先好意」要求感情と価値観への向き合い

そうして感情動揺の起点となる感情について、自身でどう感じるか明確化することを足場に、「価値観」への向き合い意味を成すものになってくると思います。
つまり、自分への優先的好意が得られないと敵意憎悪に流れるという動揺の起点感情脱したいと、心底から望むのであれば、「愛」を「楽しみ喜びの共有」として位置づけ、それが得られないのであれば孤独を受け入れる、という価値観一つの道としてあることを、心底から模索できるようになる。
ということです。
そうではなく、感情動揺の終点である「敵意と憎悪が相手に気取られ、嫌われることへの恐怖」脱したいから、その価値観考えてみようととしたところで、そうは問屋が卸さない、ということです。

なぜなら、後者では対等な選択肢模索に、なっていないんですね。
前者においては、「自分への優先的好意」「求めるvs求めない」の、問題の根本における選択模索になる。
しかし後者では、「自分への優先的好意を求める」という根本そのまま維持放置したまま、「嫌われる恐怖」への対策として「分かりあい認め合いvs楽しみ喜びの共有」選択検討・・?なんて変な話になってくる。これでは価値観選択思考として意味がないわけです。
これはよろしいですかな。それはまるで、酒を飲み過ぎて健康を損なう不快脱したいと、酒の翌日迎い酒をするのがいいかそれとも熱い風呂に入るのがいいのか選択検討するようなであるわけです。根本選択は、まず酒を飲む時自体どう抑えるかにある・・という例えがいいかどうか^^; まこれは長年の苦闘の末にようやっとゴールが見えてきた僕自身の課題^^ゞ

ですので、

>感情の論理としては、「自分を一番に思うべきなのになぜほかの人といるほうが楽しそうなんだ」・・(略)・・そして嫌われているようだ、という認知になると憎しみに転じる、というのは前回触れていただいた通りです。

とのことですが、根本問題は、「自分を一番に思うべき」というその最初の起点感情を、自身でどう思うのかです。単刀直入に、それは健康な感情だと思うのか?
ハイブリッド心理学から問えるのは、まずはその部分だけですね。それ以降の話は、もう自動連鎖なのであまり検討の余地がない。それこそ流すしかない。
その問いを、まず自身に投げて頂ければ。からまた何か言えるものあるかどうかは、それいかんですね。


「外見意識膨張」症状への向き合い

あともう一つ向き合って頂くテーマがあります。
一言で、「外見意識膨張」というようなもの起きている。これを自身で把握できるか。まあ一つ病みの症状のようなものとしてすね。だからこそ割り引いて考え流すべきものとして。

つまりがおおよそ、「こんな人間だと見られた。こんな疑問を持たれた。どう収拾したらいいか」というものに終始しておられます。
「どう見られるようにすればいいか」と。

引用列記すれば、
>なぜいざ休日も遊ぶとなると避けるのか。そう感じられてから、今までよりもぎこちなく接されるようになる。
>心を閉ざしているのではなく雑談が苦手だからそうなってしまったのだという認識を同期にしてもらう事で、嫌われるのを防ごうと
>謎が多い人 闇がある人 などと言われる事にどう対処すれば
>明らかに「ごまかしている」と思われる視線が強烈に感じられて、つい正直に話したくなって
>「社交的な場における精神的不具」という認識が避けられないように
>最悪のパターンは、人に対して憎しみや敵意を抱いているということがバレて、それが知れ渡る事  また社交の場全般に避けざるを得ないほどの恐怖を感じていると認識される事
などなど。

これはまあ僕自身経験(大学生頃)があり分かるのですが、TVに映る自分のように「人にこう見られる」という外見意識に、心がのっとられるような状態ですね。
これは「自己操縦心性」伴うものでもありますので、意識制御で消すようなことはできませんが、まずはそうした病みの症状心がのっとられる傾向自分に起きていると自覚し、それとは違う健康な意識世界にも立った行動を模索することができるか、ということになると思います。
それとは違う健康な意識世界とは、まあまあ基本的に、人の人物印象というものをあまり意識しない意識世界です。ごく即物的に、人の行動を見る世界というか。
まずは少しでもこうした目線を持てるか。まずはこの問い投げておきましょう。


「外見印象勝負」の価値観感情への向き合い

そしてそこに付加的に、これも加えねばならない視点「外見印象勝負」の価値観感情がある模様
「健康で豊かな心で人と親密になれる姿という勝利」とでもいうものを抱く観念、感情ですね。これ自体が、病みを帯びたパラドックス感情です。健康な姿に勝利を味わおうとすることにおいて、健康でない^^;
>飲み会の途中で充電切れのような状態になって、完全に黙ってしまって醜態
といった言葉に、それが見える
その言葉に言えば、盛り上げの中心になれることを勝利のように感じる感情ですね。
実は「敵意憎悪」といったものが湧く原因に、これがあります。「自分への優先好意要求」だけではそうはならないというですね。

つまりここで「自尊心への価値観」テーマなってきます。「打ち負かし自尊心」ではなく「生み出し自尊心」へ。その選択転換できていくごとに、そうした「外見印象勝負」の価値観感情強度を減じ敵意憎悪同時に強度を減じるものになっていきます。


外面現実問題への対処

そうして、自身の内面感情について自身でどう考えるか明確にすることによって、つまりそれらを健康なものではなく不合理だと思えるようになって、外面については冒頭結論
・外面において特別に対処する問題はない。通常の行動法の一環の話になる。
行けるわけです。

まあ一言で、「こう見られる、どう対処すれば」というのは、「対処しない」ハイブリッド心理学からの答えになるわけです。それはそもそも対処が必要な現実問題ではない
対処必要になるかどうかは、実害の客観的程度判断する必要があります。空想イメージに起こす動揺の程度ではなく
例えば「謎が多い人 闇がある人」といった言葉を、メ−ルで一日数十回も送りつけられたり、仕事のコミュニケーションの中にも実際現れるような場合、といったになるでしょう。それもまあごく雑談的○○くんは謎が多いからなあ、といったレベルではなく、だから彼を仕事から外しましょうといった話が実際出るようなレベルだと、対処が必要になるかも知れない。

あと、書いて頂いた幾つかの場面について書いておきましょう。

まずはっきり現実対処の答え求められるのは以下です。

>今まで、きまって全体の飲み会があるタイミングで体調を崩して早退や有休で欠席していて、どのようにこの状況を回収したらいいかわからないです。
これはちょっとNGですね。早退有休となると、仕事の客観的数字になってきますので。口実つけて、勤務時間終了時にそそくさと逃げるように退社、であればなんとかOK
今までの状況どう収拾すればいいか。単純です。飲み会を避けるために早退や休暇というのは、やめることです。一方今までのことについては、何も言わなくていい早退休暇なくなれば、人事から話が来ることはないでしょう。
飲み会出るかどうか次の話特に理由がなければ出るのが目標になるでしょう。上記内面向き合いかなり真剣に経て、ということになると思います。


>孤独を受け入れるってなんですか?業務上のやりとりも業務外で培った関係性で円滑さが明らかに変わっていますよね?全然嘘じゃないですか、、、。雰囲気や空気を守るのが未熟形なんですか?

業務外の個人的関係影響されずに、円滑に遂行できるようになるのが仕事のスキルというものです。個人的好意を得られなくても、まずそれを築く。それが、職場で個人的好意を得られない孤独受け入れるというスタートになります。
「雰囲気」「空気」というものを見るのは、未熟形です。雰囲気に負けて間違った選択をするのというのがありがち


>それから楽しみと喜びの共有の会話をしたいのですが、わかりあい認め合う事を目的としたような質問をされた場合どうしたらいいのですか?

自分として楽しめないのであれば、何も言わないことです。喜びと楽しみの共有なることだけ話す。内面のマイナスカミングアウトした方がいいですか、という質問時折受けますが、僕のアドバイス一貫して「ノー」です。言葉にしことは、マイナス事項ほど一人歩きしてしまいます。それが自分の前進妨げてしまいます。


ということで、自身の内面の感情への自分の考え明確化するとことから始めて頂ければ^^。
そして終わりの方に書いたアドバイスなども、理解納得できないのであれば、むしろはっきり自分はハイブリッド心理学の考えとは違うと、これまた明確化するのが通り道になると思います。

『実践詳説』
4章 「学び」への理解 - 「学び」への入り方Web版 PDF版P.76)
書いています。一読あれ^^。
一部抜粋しておきます。
=======
ですから、そのような心底からの納得この心理学の学びに問うということは、ここにもう一つの道が現れる可能性を含むことでもあります。
それは、この心理学に納得せず、この心理学に「ノー」を突きつけることです。
これがはっきりすれば、これもまた単純な話になります。この心理学を選ばないのですから、この心理学が言うような心の豊かさの境地ならないのは、不思議な話ではありませんね。これはもう人それぞれの自由です。
そうした段階から、自分の考えを問う必要がある、ということです。
=======


 
Re: 外化および孤独の受け入れ / こたろう
No.1197 2016/07/31(Sun) 14:43:22

なるほど確かに、おっしゃる通りで、
価値観向き合いになると途端に頭の中がぼんやりと、
うやむやになってしまうようです。


怒ることをやめないのも、
怒ることによって、自分は特別扱いを受ける権利のある人間だからこそこんなにささいな事でも相手に怒りを感じる権利があるのだ
という論理の感情があり、優先的好意を求めない、つまり
無下にされてもそれほど怒らないという事は、
自分が特別扱いを受ける権利、つまり生まれながらにして
他人にとって、特別である人間だという観念を手放す事になってしまうから、絶対にこれは手放したくないのだ、という激しい抵抗があります。

現実がそうではないとしても、
せめて空想の世界ではそうでありたい、
現実がどれほどその観念を裏切ろうとも、
怒り続ける事によって空想の世界では、
本当は特別なのだ、という論理を保ち続けたい。


あとは打ち負かし自尊心ですよね。
これも、こんなに手放したくないと内心で思っているとはと驚くくらい、手放す事に抵抗があります。
人との豊かな愛情関係で完結せず、それを
みせつけて、その相手に屈辱を与えるところまでが
理想として抱かれます。
だから、人間関係でも、全体調和ではなく、
誰か望ましい人物と良好な関係を築き、その姿をみた
うまく人間関係を作れない人間に屈辱を与える、
という、表立って打ち負かさないけど、水面下で打ち負かして人の屈辱感を感じ取って快感を得る、というイメージがどうしても出てくる。
何かを生み出すという方向に目を向けても、
人が生み出して喜んでいたものを凌ぐ価値のものを
生み出し、喜んでいたその人に劣等感を感じさせるところまでが理想に含まれています。


これを、手放したくない。
刺激的だからでしょうか。
それが含まれないような心を知らないから
でしょうか。
この論理を投影して、そもそも人が自分に
人間関係を作れない人間としての認定をして、
心の中で打ちまかしている、というイメージ
が起点になっているのか。



それを自分がどう思うのか、というのは
日常意識の自分として、ですよね、、、
不合理、、、と言うか、その論理を持ち続けて、
良好な人間関係が築けるとは思えないし、
大人同士の愛というものをその感情によって立ちながら
外面および自分の心の中で実現させることも
難しいですよね。


しかしそこで向き合いが終わる、、


 
価値観選択は「自己反省」ではなく「魅力追及」^^ / しまの
No.1200 2016/08/08(Mon) 10:25:51

「価値観感情」の自覚と向き合い

価値観選択問う場面とは、まさにそうした「価値観感情」自覚場面ですね。その価値観を、これからも自分の価値観とするのか、と。

ただしそこで、「この価値観は良くないのでこっちにしよう♪」などと、健康形成長形の価値観へと気安く選択変更などできないのが、僕の経験でもそうでしたし通例と言えると思います。まさにそうした意識表層だけでの薄っぺらい思考健康形成長形の価値観選んだつもりになっていた自分への建前思考崩れ、深い本心での価値観があらわになるのが、そうした「価値観感情の自覚」場面だからです。
にそれを、苦しみ自覚するようなものとしてです。あるいはその苦しみこそが、自覚した未熟形病み形の価値観を、心の底手放そうとしていることの表れのようなものとして。
『悲しみの彼方への旅』では、「4章 抑圧された感情の開放」「残された感情の開放」あたりのことでしたね。その後私の中で開放されたのは、もはや「対人関係の改善」を目指して自己分析を始めた人間像とは似ても似つかない内面でした。・・ 以降部分(P.58)苦しみ描写あまりしてないですが。

まいずれにせよ、

>これを、手放したくない。刺激的だからでしょうか。それが含まれないような心を知らないからでしょうか。

刺激の強いものの誘惑との対決というよりも未熟と病みからの抜け出しというになると思います。
「未熟」からの抜け出しは、その通り未熟未熟な心しか分からないので、成長形成熟形に向くのが難しくなる、という関門。これは、それでもがどの程度成長形成熟形についての情報取り入れているかが、抜け出し足場になると思います。
「病み」については、歪みがある不合理というのがそれであり(あと心の荒廃という要素)、病みが深刻であるほど、自分の病みを自覚できなっていくというちょっと怖い話がありますので、とにかくしっかりと自覚を保つことからになると思います。

具体的には、

>怒ることによって、自分は特別扱いを受ける権利のある人間だからこそこんなにささいな事でも相手に怒りを感じる権利があるのだという論理の感情があり、

これは理屈になっておらず、病み形。これがもし、自分には特別な能力や美貌があるのだから特別扱いを受けるべきだ、いったものになると、一応理屈にはなっており、未熟形。これよろしいですかな。

>だから、人間関係でも、全体調和ではなく、誰か望ましい人物と良好な関係を築き、その姿をみたうまく人間関係を作れない人間に屈辱を与える、という、表立って打ち負かさないけど、水面下で打ち負かして人の屈辱感を感じ取って快感を得る、というイメージがどうしても出てくる。

これは一応ギリギリ(?^^;)理屈にはなっている未熟形。一方そこで、ではどのよう「望ましい人物と良好な関係」築くのかといった価値観全体の整合性など考えると、それは怒ることで自分の特別扱い権利を主張することによって、となると理屈になっていない病み形。これもよろしいですかな。


価値観検討の意識作業

そこからどのよう健康形成長形価値観選択成され得るのかと言うと、これはもう、
取り組み実践の全体の中で向き合い続けるしかない。
というのがまあ最短文章で言う僕の考えです。

より詳しい流れとしては、たとえば『実践編上巻』どう書いていたかと再確認したところ、以下のようなことを書いていますね。
少々難しい部分もありますが、そういうことだと思います^^。
9章 価値観と行動学  −進み得る道はただ一つ−
「価値観」への取り組み・まず自己理解を深める

@自分がどんな価値観の中にいるのかの自己理解深める
Aハイブリッド心理学が採る価値観を基盤とした具体的な思考法を、日々の具体的な生活の中で考えてみて、その結果自分の心どのように動いていくのか確かめていく、地道な思考作業の積み重ね。
B新しい思考法がもはや自動的に新しい価値観を基盤として生まれてくるほどの、「自分はもうこの価値観で生きる!」という「確信」が心に生まれた時、それが「価値観の選択が成された」ということになる。

つまり意識作業としての模索があり、さらに意識を超え心の根底がどう向きを変えるか、という大きく2段階がある。後者については、年齢的人生年季までも影響するようなものとしてです。


価値観選択は「自己反省」ではなく「魅力追及」

以上、「価値観感情」への向き合い観点実践サマリーの、少々紋切り調アドバイスですが、結局のところは、価値観選択というのは「自己反省」というのではできず「魅力追及」上においてしか心底からのものは成し得ないと思います。
こんな価値観で・・と思っていたのは自分への建前だった。自分は本心ではこんな価値観に魅力を感じていたのだ・・。
という自覚として「価値観感情」あらわになるのですが、そこからさらに
はたしてこの魅力が、自分のこれからの人生におおいても意味を持ち続けるのか?
という問い投げておく。
結論すぐには出ないと思います。また何かの節目に、向き合うといいでしょう。これがアドバイスになりますね。
もちろん、「感情と行動の分離」の、外面は建設的行動のみというのはキープし続けて。これがある限りは、そうは道を踏み外すことはないと思います。もしこの基本原則を採らないとなると、もう完全ハイブリッド心理学とは別の道ですね。

そんな観点込みにして、

>現実がそうではないとしても、せめて空想の世界ではそうでありたい、現実がどれほどその観念を裏切ろうとも、怒り続ける事によって空想の世界では、本当は特別なのだ、という論理を保ち続けたい。
>これを、手放したくない。

という「魅力感」部分こそが、これから価値観選択焦点になっていくのだ、という持っておくといいと思います^^。


 
Re: 外化および孤独の受け入れ / こたろう
No.1212 2016/09/07(Wed) 21:12:14

外面においては対処すべき問題はとりあえずない・・・と
思っていましたが、今日上司と仕事についての打ち合わせの中で、
「もっと先輩とツーカーのやりとりが出来るようにはやくなるといいんだけど」
「先輩と親交を深めてくれ」
「なんかこう・・・コミュニケーションがもっとうまくとれるといいんだけど」
といった旨の話をされました。

それを受けて感情がかなり悪化しています。

仕事上の話も、まだまだ理解が出来ていない面が多くありますが、
現在はそれよりも上のような話をよくされています。

とにかく「馴染め」「和やかに、緊張感なくやりとりが出来るように」
と。


それを要求される事に本当に疲れを感じます。


自分よりも期が一つ上の先輩は、部署の幅広い方々と
和やかに談笑できる人です。一年間の仕事の成果を発表するプレゼンテーションの
ための準備に、部署の様々な方が補助してくれているのですが、その時間も
和気藹々と談笑しながら話を進めています。
来年こんな風に自分がなれるとは思えず、まあ比べるものでもないし・・・と
思いつつ、上司から「そうなってくれ」という圧力が日々かかっているので、
割り振られた仕事に集中できない事もしばしばです。


業務外の関係に影響されずに仕事が進められる事が仕事のスキルというのは
納得はしますが、そうではない姿勢を要求されています。
和やかな雰囲気を作れ、はやく緊張せずにやりとりが出来るようになれ、と
言われています。



自分としては、価値観向き合いもあるのですが、
「明るく元気で」は辛いです。それを常に準備しようと体が気張っているのが
わかります。どう自分が人と接していたいのか、相手に笑ってほしい、楽しませたい
というモチベーションで、出来る範囲で感情の強制をしていました。
体が楽かどうかという指標でみると、もっとゆっくり話したいし、
傍からみると大人しい印象になります。
おそらく今まで、冗談にどう反応して、どこで笑えば相手が困らないか、
という視点で行ってきたやりとりも、自分はそれを「冗談として笑いたくない」
という事がたくさんあるのだろうとおもいます。
それに向き合う事は恐怖を感じます。


どう対処すればいいのでしょうか・・・。


 
場面ごとの検討^^ / しまの
No.1213 2016/09/10(Sat) 09:22:41

まずはいつも言っているですが、取り組み検討場面ごと個別に行います。個別に、場面の課題を把握し、対処していきます。
これをまとめて、あるいは「通し」で解決しようとすると、安直で実にならない精神論を求める姿勢傾いてしまいがちな点が注意ですね。

まず、

>「もっと先輩とツーカーのやりとりが出来るようにはやくなるといいんだけど」「先輩と親交を深めてくれ」「なんかこう・・・コミュニケーションがもっとうまくとれるといいんだけど」といった旨の話をされました。

場面については、指摘されているのが具体的な問題ではなく抽象化した話なので、ここから具体的対処見えないですね。
ですので、
多少とも思い当たる面があるのであれば、「はい、分かりました。努力します」といった前向き返答をすれば、その場面よろしい、ということになるでしょう。
あるいは思い当たる面がなく何のことか分からないのであれば、「すみません、どんなことでしょうか」対話を深めるのもいいでしょう。

実際それはどんなことなのか、自身の認識確認一つテーマになりますね。

>業務外の関係に影響されずに仕事が進められる事が仕事のスキルというのは納得はしますが、そうではない姿勢を要求されています。

この「そうでない姿勢」とは何のこと認識しているか。
業務外で親しくすることを要求されているという?それとも、単純に言って業務場面うまくコミュニケーションできていないという話か。
「ジョークなどで相手を楽しませる」ことを求められているという?。

まあ僕の経験で言って、上司から先輩との業務外の親しさについて言われることはまずないと思うのですが・・。あくまで業務内だけの範囲においても、コミュニケーションの円滑さという考えられることあるかも知れない。ならば対処の知恵出てくるかも知れない。

言えるのはまずはここまでですね。検討頂ければ^^。
具体的検討材料あればぜひまた新規トピックで^^。


 
Re: 外化および孤独の受け入れ / こたろう
No.1214 2016/09/11(Sun) 17:04:20

思い当たる事といえば、
1.「いろいろ聞けるのは新人のうちだから、いろいろな人に質問をして親交を深めてくれ」
と言われたにも関わらず、基本的に隣にいる自分の指導担当の先輩にしか
質問をしていない点。
→これに関しては、他の方は他の方で仕事をしていて、質問をしていいのかわからないし、
この質問ならこの人!という得意分野が特に存在するわけではないので、
結局指導担当の先輩に聞いている、という状況があります。

2.周りの方は、仕事の話による談笑、その前後のアイスブレイク的な意味での雑談や
  冗談のやりとりを結構される方が多いです。
  例えば、ひとつ上の先輩だと、すぐに怒るキャラクターだと年配の方などにからかわれ、
  「変なキャラクターつけるのやめてくださいよ〜」などといって笑っています。
  この話をされた方が、部署で一番えらい方なのですが、
  自分との接し方に困惑されているようです。
  最初は呼び捨てや「お前」とか呼ばれていて、気のいい後輩に対して冗談で「からかい」を
  向けるような姿勢で接されていました。つきあいの長い方や、お気に入りの方とはそのように
  接しているので、そういう姿勢で関係を築きたい方だと思います。
  それで、僕としてはなるべくその姿勢で関わっていただけるように接していたつもりなのですが、
  自分の中の向き合いで、「こんな風な自分で接したくない」とか、ふいに「面倒くさいな。」と
  思ったりすると、感情の強制が弱まった姿勢が接する中で出ます。
  淡々と、仕事の話ができればいい、といった感覚です。
  そういう姿勢が時に出てくるせいか、よけいに「気を使った」感じの接され方をするようになっていま
  す。「お前」が「あなた」になったり。
  仕事の話をしていて、求められるレベルの知識に達していなかった事がありましたが、

  自分「すみません・・・予習が不足していました」とかしこまると、
  課長「いいんだっていいんだって!そんなに萎縮しなくても・・・ゴホン(咳払い)」
  沈黙・・・・
  自分「はい・・・。」(口をつむいでうつむきがちに)
  沈黙・・・・

  自分「・・・はい・・」
  課長「・・・じゃあ、そういうことで」

  →無言でミーティングスペースから自席に帰る。

といった具合です。

3.業務外の親交を深める会で。
  業務外でスポーツをして、親交を深める会がそこそこの頻度であるのですが、
  「後は好き好きでいいけど、最初は出てくれ」と言われたので、出ましたが、
  自分では、ほとんどうまく話せなかったです。

  スポーツ自体はそこまで楽しみの共有にできないわけではないですが、
  まああまり気は進まず・・・。
  先輩はいろいろと話を振ってくれるのですが、こっちからは、聞いても途中から
  興味がなくなったりして話が途切れるのが嫌で、あまり話を振る事に気が進まなくなり、
  あまり話せなかった。

  ただ、自分の興味がある話とか趣味の話を聞かれると、割と話したくてペラペラと
  話すのですが、先輩方は「興味はあまりないけど、親交を深めるために」聞いてくれている
  方も多いと思うんですね。だから、自分は「楽しみが共有できる話だけ」でいいと思っていても、
  先輩方がそういう姿勢だと、「自己中心的で気を使えないやつだ」と思われていると思います。

  部署全体にうまく馴染んでいる先輩の例だと、
  おじさんたちの家族の話とか、奥さんとどういう関係性だとか、お子さんがいらっしゃると
  休日出かけられなくてきついですよねとか、完全に相手が話したい分野の話に少しだけ
  自分の話を入れながら会話している感じです。

業務内容についての話をするための知識、それを引き出してうまくまとめて言葉にする能力、理解力なども
求められているものの一部だと思いますが、そうではなく和やかな雰囲気を作る事、相手の喜ぶような人間に
なる事、なども含めての話だと理解しています。
もちろん断言はされていませんが。「雑談をしろ」と。
周りの方が、仕事以外の話や、プライベートなどについての会話も大事にしている人ばかりなので、
そういうふうに受け取っています。
業務外でも遊べ、とか飲みに行け、という意味ではないと思いますが、
仕事に関係ない話も和気あいあいとやれよ、和やかな雰囲気でいい関係で仕めていけるために、
という感覚でしょうか。


 
「職場のコミュニケーション」テーマ・「新人」の考慮点^^ / しまの
No.1217 2016/09/18(Sun) 10:38:37

「職場におけるコミュニケーションと人間的関係」テーマ

まずテーマ整理ごく簡潔に、キーワードレベルで書きますとこんな感じになりますね。

まず大きく、「職場におけるコミュニケーション」
そこに「および人間的関係」付加することができます。

意識作業および姿勢として、3つ領域になってきます。
a)業務上のコミュニケーション(業務遂行そのもの)
b)業務外のコミュニケーション(雑談など)
c)個人的レベルでの親交関係(総合的な個人関係)


上記3つそれぞれについて、ハイブリッド心理学からの方向性考えはこうなります。
a)・・・必須事項(マストハブ)ハイブリッド心理学から、島野社会人経験も踏まえた具体的業務内容に応じたノウハウあり。
b)・・・必須ではなく職場ごとのその歓迎度に応じ、各自可能な範囲で前向きに参加すれば良い(ナイスツーハブ)。その内容についてハイブリッド心理学ではあまりノウハウはなく、基本各自の模索お任せ
c)・・・これはまず社会人として、そうしたものどのような役割持つかについて理解する良い職場組織流動的であり一時的でもあるため、最終的総合的な個人関係ものを言うことも理解すると良い。総合的個人関係築き方は、小手先のノウハウではなく、成長の歩み全体になる。

そこで悩みとして時に出てくるパターン一つに、「雑談が苦手」「まず雑談でなごむことが業務コミュニケーションを円滑にするため必要なのでは・・」といった惑いがある。
これへのハイブリッド心理学考えは、「業務の習得にまい進せよ。そこに雑談スキルは不要」というもの。そして業務コミュニケーション円滑にする最大の原動力は、その業務への熱意である、と。
これについては、
『仕事場での「世間話」への姿勢^^』 しまの No.1105 2015/09/03
『「プライベート談話場面恐怖症」の克服アプローチ^^』 しまの No.1110 2015/09/09
など既出です。


『新人』の場合の考慮事項

・・とまではもう耳にタコかも知れませんが、

>業務外の関係に影響されずに仕事が進められる事が仕事のスキルというのは納得はしますが、そうではない姿勢を要求されています。

についてあるいは、もう一個考慮事項加えておくのがいいかも知れない。あるいはこれ方向性考え混乱原因かも。

>もちろん断言はされていませんが。「雑談をしろ」と。

これは業務コミュニケーションがまだうまくできない場合に、せめて雑談などで先輩に馴染んでくれ、そうすれば以心伝心で業務コミュニケーションを伝授されるのを期待できるのだが・・上の人思っているのが考えられます。

これは「新人」の場合だけにあり得る限定事項です。
あまり依って立てる方向性ではない考えるのが正解だと思います。時代の流れから言って、業務コミュニケーション先輩から以心伝心で教えられるという、一種受け身姿勢通用するのか過去の時代となり、もう情報ネットなどでも揃っている分、最初から自分でスキル獲得に向かうことができることが求められる時代変化していると思います。

いずれにせよ、「もっと雑談せよ」的なこと言われるのは、僕の予測では、「新人」である場合だけです。新人で、かつ業務コミュニケーションがまだうまくできない場合
2年目からは、恐らく、ずばり直球業務コミュニケーションの出来不出来問われます。そしてどう積極的業務外コミュニケーション図っているかなど、上司から言われることなどあまりなくなる。

ということで、それを込みにして、
・とにかくまい進すべきはノウハウを学ぶことによる業務コミュニケーション(業務そのもの)のスキル獲得
・業務外コニュニケーションは、自分なりの可能なものを長い目で模索

というのが方向性結論になります。


取り組み実践・テーマ確認から

ということで、生活場面での取り組みとしては、
・どのテーマの問題か
・そのテーマについてのハイブリッド心理学の方向性考えに理解納得できるか

確認からになります。

そこで上記のようなハイブリッド心理学方向性考え納得できない、という場合は、ハイブリッド心理学からもうあまり言えることはなくなる^^;
理解納得できるようであれば、一歩踏み込んで具体的な詰め行けるかもしれない、という

ということで、まずテーマ確認からしますと、

>1.
>2.
については、業務知識および業務コミュニケーションまだ習得未満状況振る舞い方法問題になりますので、それだけを問題として取り上げること自体がやや、前進力なく後手後手への拘泥(言葉の意味はよろしいですかな^^)になりますので、問題課題としては、そこでテーマとなる業務知識および業務コミュニケーションの内容そのものに応じた習得方法焦点をあてるのがいいと思います。
さらなるアドバイスは、その業務知識および業務コミュニケーション内容そのものいかんになります。事例集No.002さん事例のようにですね。

>3.
については、上記
b)業務外のコミュニケーション(雑談など)
位置づけ説明、および「新人」場合考慮事項といった全体的な話アドバイスになります。雑談など実際どうできるかは、あくまで2番手問題として長い目で各自が模索するといい、というのが僕からのアドバイスです。

以上、アドバイスになりましたかどうか^^。


悲しみの克服について / 治男
No.1190 2016/07/14(Thu) 11:33:50

島野メモ:
異性関係および家族関係についてのご相談最初のご入力内容省略しました^^。


 
自己方向づけあってこその「心を解き放つ」・自己分析例など^^ / しまの
No.1192 2016/07/24(Sun) 11:41:42

自己方向づけあってこその「心を解き放つ」

>心を解き放てというキーワードで検索したら、このサイトに繋がりました。思い出すと苦しい、考えると苦しいという状況ですが、自分を受け入れる、全てを受け入れるという事で何とか対処しようと考えるものの、浮き沈みがあり、非常に苦しいのが実情です。何とか克服したいと考えています。お助け下さい。

これは一言で、こんなアドバイスになりますね。
行動法をわきまえ、未熟な感情を見分け、それでも自分自身の中で守るべき「愛への望みの感情」を見出した時、そこに答えが示されるであろう。
と。
それが「心を解き放つ」ことによる答えとしてです。闇雲心を解き放ったところで、答え出ず収集がつかない自己方向づけあってこそ「心を解き放つ」ことが意味を持つ、ということになります。

ハイブリッド心理学では、そうした「心を解き放つ」ための取り組みを、生涯にわたる「心の成長」歩みとして営むための実践説明しています。
まずはそうした「心の成長」というもの自体に、どのように関心を持てるか、になると思います。サイト眺めて、じっくり読んでみようか、という気持ちなれるようであれば、おそらく上述「そこに答えが示される」といのがどういうことなのか、おぼろげ見えてくるかも知れませんし、そうでなしに、ただその最後の答えだけ体感できるようなアドバイスいまここで、というのはちょっと難しいかも知れない。

といった話になるかも知れませんが、実際進めるとしたらどんな感じになりそうか、ごく要点書いてみましょう。・・とは言っても、書いて頂いた状況からじっくり考えてみると、ごく要点だけでもまあ以下のような結構な話の量になります。


悲しみ苦しみの克服までの歩み・自己分析例など

まずは話の繰り返しからになりますが、「心の成長」というものそれ自体に、関心を持てるか。「心の成長」とは「自らによって幸福になる能力の増大」であり、それが、依存的な恋愛感情と、それがうまくいかない悲しみ苦しみ抜け出す方向に、そもそも心が向くどうか分かれ目になると思います。

そうして「心の成長」という大上段から、自分人生採用する価値観行動法「選択」自らに問いていくのがになります。
ここに再び分かれ道があり、ハイブリッド心理学採用する価値観行動法を、自分自身本当に心底から選択するかです。そう思ったのは実は自分への演技のようなものだったと、意識の鎧脱ぐことに向き合う時間結構必要になるかも知れません。

ハイブリッド心理学採用する価値観行動法とは、
「愛」「楽しみと喜びの共有」として向かう、それが実現できない時孤独を受け入れる、という価値観であり、
「建設的対人行動法」として、共通目標共通利益のみに着目して行動する、それがないならば何もしない、という行動法です。
これを、自分成長するための価値観行動法として、これからの人生のためのものとして心底から選択するか
そこから多少「行動学」、まあ今回の話で言えば恋愛行動学のような知恵とノウハウ加えるいいでしょう。異性との交際であれば、一度交際を解消したのであれば、その後基本プライベートな接触はしないのが原則です。それがマナーでもあります。それができず
>3年半後の事実の判明に、何も出来ませんが、相手の女性に、全て分かったよ、責めたりしないから会話しませんかと留守番電話に残しました。
といった行動をするのは、ストーカーに発展する可能性ありとして、過剰な拒否反応を招くのも無理ない話です。
異性から振られた「理由」問うのも、言ってしまえば、こんな言葉でご容赦ですがちょっと愚かです。それはただ、こっちが相手にとってベストではなかっただけのです。それ以上特別な「理由」問えるのは、それなりに堅く結婚の約束をした場合などになるでしょう。
自分がこんなに思っているのだから、相手もそれに応える「べき」といった思考は、健全な思考ではありません。これはよろしいでしょうか。
また既婚段階相手との交際を開始したのであれば、それこそ振られる理由など問うべくもない^^; これはいいですよネ。

そうして心の成長向かうための価値観行動法選択への方向性しっかりと持つことが、内面感情ありのままに開放するでの安全弁になると同時に、開放する感情「自己分析」を通して解きほぐし整理するための、足場土台になります。
つまりそこから行うのは、自分の中感情一つ一つ切り分け心の健康と成長におけるその位置づけを理解すると同時に、それぞれ自分の感情に対する自分の姿勢を、明瞭にすることです。
3つの姿勢どの位置づけとして、自分はそれぞれの感情を扱うのかです。「全て受け入れる」なんていう建前抽象論(?)ではなく。
(1)建設的行動法への原動力として、積極的に手を組んで行動へとまい進すべき感情
(2)現実行動化はできない、未熟もしくは病んだ思考や感情として「ただ流す」だけにすべき感情
(3)現実行動化は問えないが、そこに真実のある、自分の中で守るべき感情


「自己分析」として重要なのは、感情連鎖流れどこに行き着くかを確認するようなものではなく(それは流されているだけ)、感情連鎖をより前の方へと遡り、まずどんな感情があり、そこにどんな感情もしくは観念が加わることで次の感情に変化したのだという、自分の感情の流れのメカニズムを分析することです。だから「自己分析」
そしてそこに入り混んだ不合理な要素見分けることが、何よりも、耐え難い悪感情消滅するのに助けになると思います。
たとえば愛情怒り憎しみ変化する流れであれば、上述の、「自分の思いに相手は応えるべき」といった観念や、相手が高慢な感情で自分を軽蔑したというイメージ入り込んだ可能性がある。
またそれが苦しみ変化するのであれば、相手は応えるべきだとする、自分の一途で気高いはず(?)思いに、実は自己欺瞞があり、心の中で自分の首を絞めるような自己攻撃感情起きているのかも知れない。あるいはもっと一般的に、気に入ったものは手に入れないと気に食わないという、人生での感情がそこで悶絶起こしているのかもしれない、などなど。

そうやって自己分析不合理要素感じ取ることが、耐え難い悪感情消滅させる最大の助けになるのですが、結局それも、最初に言った、心の成長への価値観と行動法心底から選択していてこそ、それら自分自身不合理だと感じ取れるのであり、その時悪感情消滅する、という効果なり得るわけです。

そこからさらに、自己分析進めることができるでしょう。相手を好きに感じた感情という、起点部分分析です。
それは何を好きだったということか。性格外見、あるいは性的魅力か。そこの辺あまり書いておられない文面全体雰囲気からまず僕が想像したのは、まあ総合的に言って(?^^;)女性としての魅力が今までで一番高かったような相手というかなと。であれば、もしさらに特別に女性としての魅力が高い人物手に届き得る形現れたら、自分はどう感じるだろうか、といった仮説的命題設定をしてみて、自分の心さぐりを入れてみるのも、「自己分析」としていいエクササイズになります。もしそうであれば、その相手もう用無しの(雑な表現ご容赦^^;)、つまり相手を取り替え可能な「愛」だったのではないか、とか自分に問うことができるかもしれない。
まあ僕の感想率直に言って、
>今でも大切で愛している事を自覚しています。
という言葉は、書いて頂いた状況では、どうも不釣り合いのように感じます。その言葉は、それなりに確実な絆を、それなりの人生の時期を通して持った相手使える言葉ではないかと。
「今でも特別に魅力を感じる」というのと、「今でも大切で愛している」というのとは、大分違う感情です。前者はとくかく利己的に相手を欲求しているだけ。それを後者感情であるかのように自己偽装しようとした時、相手からの拒否は、相手が高慢な感情で自分を軽蔑したというイメージに、「うじ虫」「ナメクジ」といった最大級の嫌悪を向けられるイメージ加わるというのがメカニズムです。あるいはこれが「苦しみ」原因かもしれない。

そうやって心の成長への価値観行動法持ち感情不合理要素見極める「自己分析」できるようになれば、さらに、まさに「心を解き放つ」ことが意味を持つ歩みへと向かうことができます。
不合理要素不純要素ない「望み」感情を、心の中で開放し、人生の歩みとして、それに向かうことです。それらはどう実現し満たされることが可能なのか。それを人生において追及することです。
「結婚」とかの固定観念を、心の中では取り外すことが重要です。もちろん外面行動の形として一つの選択にはなるものとして。単純女性の外見などの魅力惹かれる感情であれば、反道徳的ではない範囲行動たとえばお気に入り女優画像収集とかもいいでしょう。そうした個別的願望実現方法個別的に探究した時、「結婚」というのは、相手が好きだという感情だけではなく、相手と共ににどんな家庭を作りたいとかの、共同事業的感情重要になってくることも分かるでしょう。

そうした探究歩み最後に、「心の豊かさ」というものがどう生み出されるのかというテーマが、視野に入ってくる。
「心の豊かさ」とは、「自分から愛せる気持ちの増大」だ、と言えるでしょう。自分自身でそこに幸福を感じられる形で、と。
そしてそれは、実は上記感情の位置づけの中の、
(3)現実行動化は問えないが、そこに真実のある、自分の中で守るべき感情
心の中燃やす量応じて生まれていく。
というのがハイブリッド心理学からの結論です。この辺もうここで詳しい説明をするのはやめ、そんな歩みがあり得る、という言葉だけ終わらせておきましょう。

とまあ以上のような心の成長歩みがあるとして、「悲しみ」本当に完全に克服されるのは、つまり「悲しみ」「心の豊かさ」変化し尽くされる、まあそれを「救い」というのであれば救いは、その歩み最後になって訪れる、というものになります。
その途上では、まず価値観行動法への取り組み、そして「自己分析」習得習熟などの、格闘になるだろうと。
上に書いたものは、あくまで参考的ガイドであり、実際の歩みは、自分の足で、つまり自分が考え自分で自分に問う言葉を沢山持っていく歩みとして行って、初めて意味があります。
それに向かうか、ですね。

ということで、僕からのアドバイスは、「道はある」ということですね。それは上述のようなだ、と。まあそれは一つの人生の道そのものだ、ということになりますね。
実際にそれに向かうかどうか、読書日々の向き合いという地道「人生の学び」として、ハイブリッド心理学取り組み実践入ってみるか、と検討頂ければと思います^^。


 
Re: 悲しみの克服について / 治男
No.1194 2016/07/27(Wed) 11:05:30

愚かな事とご指摘の通り、相手は応えるべきと考えていたのは事実のようです。
幸福になりたいと考え、今の自分がいる家庭は本当に居たい場所ではないと思っています。前に進めたいと感じるようになりました。
すみませんが、この記事を削除して頂けないでしょうか?
スパムメールが急増しています。ここに登録してしまった為と推測しています。


 
Re: 悲しみの克服について / しまの
No.1195 2016/07/27(Wed) 12:51:42

とりあえずメールIDと内容を消しておきました。「治男」というのも消した方がいいですかな。
ご相談内容をごく一般形に再編集して、僕のアドバイス部分は残そうと思っています^^。


 
Re: 悲しみの克服について / 治男
No.1196 2016/07/27(Wed) 17:28:20

> とりあえずメールIDと内容を消しておきました。「治男」というのも消した方がいいですかな。
> ご相談内容をごく一般形に再編集して、僕のアドバイス部分は残そうと思っています^^。


迅速な対応有難う御座います。治男は大丈夫です。
愚かな質問をしてしまったのは、相手をそんな人ではない、信じているという感じから
抜け切れなかった為と思われます。どうしてあのようなとか、こんな事を問いただした
のかなど、過去に遡ると残念な気持ちになるばかりです。もっとより良い方法や繋がり
方法があったはずという後悔でしょうか。
面会できなくなってから長い期間繰り返しの自己問答を行った為に、愛していると錯覚
してしまったのかも知れないと思う様になってきています。想定問答の末に、もう一度
会えた場合、本当にこの感情が愛なのか確認したいという考えもありました。
今となっては完全に会う事も会話も不可能という状況になり、相当相手が私を嫌悪して
いると考えられるのに、そんなはずは無いという感情と、嫌ってもらって結構だという
思いが出ます。そんなはずは無いという状態の時は、凄まじく悲しくなり、嫌って
もらって結構だと思うときは楽な気持ちになる傾向が分かっています。
相手の二股は私に対する裏切りで、私自身も家族を裏切っていたため、自業自得となり
自分の悪行がすべて自分に帰ってきたと思うようになっています。そして相手は自爆し
てしまったと考えています。一番誠意を持って相手を大切に思っていたのは私自身以外
に無いと考えた時、苦しくなります。相手は一分一秒たりとも自分を思い出しても考え
てもいないと思うとき、楽になります。これまでの3年半の間に、少しずつ、一つずつ
諦めてきたと思っています。最後のこの一月ほどの間に分かった事実が強い悲しみを
もたらし、また同じように苦しくなりました。そして、もう一度嫌ってもらって結構だ
という言葉を繰り返す事で自分を楽にしています。


 
「心の成長」に向かう中で「愛」は見え方が変わる^^ / しまの
No.1198 2016/08/02(Tue) 11:44:35

心の成長の全体にまず取り組む

同じアドバイスになりますが、
心の成長へと向いた中で心を解き放った時、そこに動揺や悪感情を凌駕する、新たな感情が見出される。
ということになります。に、知性理性心の成長考えたもの遥かに超えた、自分自身でも予想だにしなかったような、輝きを帯びた感情としてです。

そこで多く場合、まず「心の成長に向く」という前段段階課題になってきます。それなしに、こうしたアドバイス場面で、最後の、輝きある感情が解き放たれるところだけおいしいとこ取りしようとしてもそうは問屋が卸さない、というものとしてです。
そしてこうしたアドバイス場面僕にできるのは、その前段段階である「心の成長に向く」というものに向けて、ご相談者そうさせてあげる、というのはできず、というのも、「心の成長」とは「自らによって幸福になる能力の増大」であり、まずそこにおける「自ら」といのが、究極人に言われてできるものではなく、自分で選択しなければならないものだからです。
で、こうしたアドバイスの場面で僕にできるのは、心の成長向くためのヒントとなるキーワードか、もしくはご相談者の方現状でどのように心の成長に向けていないか指摘することまでになる、という按配です。

そして心の成長に向かうとは、「生涯の学び」として当たる必要があります。これは身体の健康向かうのが「生涯の学び」であるのと同じです。食事運動その他生活習慣身体各所維持向上病気怪我予防対処知識などなど、これ一冊読めばそれで全て大丈夫ですヨ、なんて話は毛頭なく、日頃から新聞TVなどでそうした情報接するに、自分自身実践試行錯誤など積み重ね必要になります。

心の健康と成長のためには、価値観と行動法、感情のバリエーションやその変化の仕組みの理解、さらには生き方姿勢を形作る意識基盤などなど、理解すべきこと広範囲におよぶのですが・・その項目全体『辞典』整理しているように・・、問題は、そのための正しい情報日頃本や新聞TVなどで発信されるような状況ではなく(まこの辺の意見はさまざまでしょうが)としては、ハイブリッド心理学著書時間の折日頃読む習慣と、日常生活での実践を模索することとして、まずは心の成長に向かうということ全体取り組むのを、検討されると良いのではないのかなと提案するのがアドバイスになる次第です。


「心の成長」に向かう中で「愛」は見え方が変わる

具体的問題に際してアドバイスできるのは、ごく外面の行動法答え・・これは具体的に言え、今回の話については、行動法として前アドバイスで言った通り、あとは上記のように、心の成長の全体向かうにおいて、当面の話との関連においてヒントになるキーワード、もしくはご相談者どのように現状で心の成長に向けていない察せられるポイントを指摘するまでができること、という

・・とアドバイスの前置きアドバイスそのものより長い感(^^;)がありますが、前アドバイスへの補足的に言えるのは、どのように現状で心の成長に向けていないかの部分になると思います。

それはこの部分です・・と端的な文章引用しようかと思いましたが、どの文章というより、上の追加レスの全体になりますね。
「愛」を、「気持ち」の問題としてばかり問い、生み出す行動として問えていない、という状況察せられます。

互いが好きという気持ちが合うことをゴールのように抱いている雰囲気察せられるのですが、そんな相手世界ゴマンいてもいいわけ(まそんな好条件はなかなかないのが実情ですが^^;)です。問題は、そこから実際何ができるのかです。
互いが好きという気持ちだけでメシを食うことはできず、現実生活の設計と維持という、一大事業問われるのが人生そして結婚というものです。たとえば「信じている」という言葉出てきましたが、それはいったい何を信じているということか。相手が自分を好きという気持ち信じたところで、互いの現実生活前進しないわけです。
その前に、自分は相手との現実生活を築くためにどのような姿勢と行動を持つか問われます。それが明確であれば、、次の問題相手を信じるかという問いにはならず、そうした具体的行動レベル相手は合意するかどうかです。
互いが好きかどうかというのは前段的な話として、相手と実際何をしたいか、何ができるかが、問われます。念のため、性愛行為以外現実生活行動としてです。
実は、そうした「気持ちの問題だけではない行動への姿勢」持っていれば、相手の態度違っていたのでは、とも思えるのですが・・。

心理学的テーマで言えば、「心の成長」とは「自らによって幸福になる能力の増大」です。
そしてその姿勢欠如した時、「愛」が、互いが好きという気持ちの一致がゴールのように抱かれ、その後が意識されずに、そのゴールによって相手が自分を幸福にしてくれる、相手が自分に良くしてくれるというようなイメージで抱かれる傾向が出てきます。
どうもそうした姿勢ではないか、と。
「心の成長」向かうことでことで、「愛」が、大分違う角度からも見えてくる。その先に、前アドバイスで書いた、
(1)建設的行動法への原動力として、積極的に手を組んで行動へとまい進すべき感情
(2)現実行動化はできない、未熟もしくは病んだ思考や感情として「ただ流す」だけにすべき感情
(3)現実行動化は問えないが、そこに真実のある、自分の中で守るべき感情

といったものが見分けられるようになり、(3)答えとして見えてくることもある、というになります。

とりあえず今言えるのはこんなところですかねー。ということで、ハイブリッド心理学取り組み全体向かえそうかなど検討頂ければ^^。
「心の成長」の中で「愛」がどう変化するかといったテーマについて手早くは、以下のような原稿など読みつまんでみて頂くといいかもしれませんね。
メール相談事例集

・No.001 パートナー不信危機を乗り越え、生き方の全体に向き合う
・「魂の感情」への向き合い の説明および事例


 
Re: 悲しみの克服について / 治男
No.1199 2016/08/02(Tue) 20:57:30

(1)建設的行動法への原動力として、積極的に手を組んで行動へとまい進すべき感情
(2)現実行動化はできない、未熟もしくは病んだ思考や感情として「ただ流す」だけにすべき感情
(3)現実行動化は問えないが、そこに真実のある、自分の中で守るべき感情

これについてもう少し簡単にご説明頂けないでしょうか?
妄想や一定の考えに捕らわれた心を解放するには、心の成長が必要であり、自ら進んで
実践に移すという事だと思います。病んだ心と思いつつ、とらわれたままです。
納得が行かないと何時までも考えるという感じです。
負のスパイラルとでも言うのでしょうか?
死んだ者をいつまでも思い出し、悲しむという事と似ているような気もします。

昨日、釣りに行って仲良くなった同年輩の男性が魚を私にぶつけてきて元々汚い
ズボンに血がつき、ムッとしました。
何時もの自分なら、へらへら笑って、何も無かったような表情を維持するのですが、
通常怒りを表さないのが自分の弱さでもありますが、相手に怒りが伝わったらしく
無口になってしまいました。でも、自分を何時も抑えるような感じなので、これで
良いのだと自分を言い聞かせました。
何時もの通り、悲しく苦しい思い出を、楽しい釣りの時間にも考えていました。
今でも愛していると思い込んでいる女性の実家へ行ってみようと、この2ヶ月の間
何度か考えました。
昨日、実家へ行ったら、もっと嫌な気持ちになると思いました。
まだまだ隠されている嫌な事が有るのではないかと、これ以上嫌な思いはしたくないと
思いました。従って、恋心はあるけれど、好きだけれど、普通の女性として良心が
有ると考えられなくなってきました。
悪感情がまたまた出てきて、人を信頼するという事が出来ないという感じです。
人は性善説で見ており、小学校で塗り込められた良い人という考えや記憶から外れ
られないのです。従って、相手は、人は皆良い人という考えから抜けられません。
これは良い事だと思っていますが、私に嫌な思いをさせた人たちは、全く良い人では
ないのです。嫌いという事になりますが、それでも良心があるだろうと信じてしまう。
だから苦しむという事だと思いました。


 
「人の様子」よりも「自分の価値観と行動法」に取り組む^^ / しまの
No.1201 2016/08/09(Tue) 09:01:58

明日から北アルプス登山に出かけますので、迅速手短に^^。

>これについてもう少し簡単にご説明頂けないでしょうか?

「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみ行う」という「感情と行動の分離」原則に立った実践として検討していきます。

対人行動であれば、「建設的対人行動法」として、「共通目標共通利益のみに着目した行動」行います。「愛」を、「喜び楽しみの共有」として向かう価値観にも沿った行動法です。
ですので、相手も同じように楽しみ喜ぶであろうものであれば、何かの行動をしたいという気持ちを、実行に移せば良し(1)
そうでないもの、たとえば「怒り」は、行動化しない(2)
ただ相手に近づきたい。でも相手はそれを喜ばない。であれば行動化しない。それでも相手を思う気持ちに、自分にとって大切なものあると感じるのであれば、それを心の中で守る(3)
で言うとそんなことになります。

そのように、まず「行動法」「価値観」についての自分の考えを築くことによって、それを舟の碇のように水底におろし、荒波のような感情流されることなく解きほぐせるようになります。

上記追加レス材料も、まずはそうした取り組み方必要になりますね。それはまだ未着手のようですので、まずそれを検討頂くと良いかと思います、というのがアドバイスになると思いまず。

>相手は、人は皆良い人という考えから抜けられません。これは良い事だと思っていますが、私に嫌な思いをさせた人たちは、全く良い人ではないのです。嫌いという事になりますが、それでも良心があるだろうと信じてしまう。だから苦しむという事だと思いました。

これも、「善悪」の価値観テーマになります。ハイブリッド心理学ではについて「良い人」「悪い人」という分類しません行動については、法的、また人道的な観点からの善悪もちろん問います。「原理原則」という視点扱います。
そうした視点なし「良い人」「悪い人」というのを漠然と考えていると、自分の欲求に応える人が「良い人」で、そうでないのが「悪い人」といった、てんで方向性なしのイメージの話になってしまいますね。
この辺『入門編上巻』詳しく説明しています。

ということで、現状
・人の様子→感情動揺
という流れになっていると思いますが、そこから、
・→自分の価値観と行動法の検討(ハイブリッド心理学の学び取り組み)→感情動揺の解きほぐし
という進め方をするよう、検討してみて頂ければと思います^^。

まずは多少の読書からになると思います。じっくり「生涯の学び」として進めて頂ければ。そうした進め方をしようとして、これこれが不明といったなど明瞭化して頂ければ、さらに踏み込んだアドバイスもできるかと思います^^。


 
Re: 悲しみの克服について / 治男
No.1203 2016/08/16(Tue) 12:06:36

入門編第1巻を読み始めました。まだ、まえがきの部分からそれ程進んではいませんが、
重く沈んだ苦しい感覚が何度も打ち寄せてくる状況が少し変わっています。
あまりにも酷い仕打ちをされて、例えば、相手の女性が引越しをしたという事を周りの
人々は知っているが、自分だけは知らされていないという小さな事柄を知った時、
また、隣に座っている人と夕食をとったけれど、私とは面会さえしてくれなかった事、
そんな事ができる心根はいったい何かという事を考え続けた苦しい時間が本当に無駄
であった様な、忍耐力がついたから良いかといった感覚が出てきました。
どうしてそんな事が出来るのか信じられないという感覚から、あきれてものも言えない
という感覚です。いままで、早く忘れたいと思っていた事が、徐々にどうでもよくなって
来た感じです。ふと気がつくと、相手の立場になって何時も考えています。
自分が相手だったらという考え方だから自分本位かもしれませんね・・・
自分の事を優先させることにしたい。思い出したくない様なお付き合いは金輪際しない。
あまりにもくだらなく下劣な行動をしない。自分勝手で卑怯でインチキで人非人の様な
本当に酷い無茶苦茶なやりくちで他人を置き去りにしない。
私は、幸せになりたい。私にとって幸せとは何か。愛する女性を愛しぬく。一生をかけて
幸せにする。そのために、年金が出るまでに何とか出会う。自分を真正面から見てくれる
信頼でき、本当の意味で愛する事ができる女性と生きる。というものです。
しかし、これだけ囚われると本当に困ったものだと、どうしたら良いか分からなくなる。
これを乗り越えたら、きっと幸せに向かえる気がする。


 
読書と実践^^ / しまの
No.1205 2016/08/23(Tue) 09:47:51

まずはさまざまものの見方考え方価値観思考法行動法内面感情の理解の仕方、そして心への取り組みについて触れるという感じでいろいろ読み進んでみて頂ければと思います^^。

その先に、「価値観」「行動法」選択に応じて自分自身問題材料どう考えられるかという、選択テーマを明確にした思考取り組みをするのが、まずは道筋になると思います。
たとえば
・「愛」への向かい方価値観として、「楽しみ喜びの共有」それとも「分かり合い認め合い」として向かうという、価値観選択がある。自分内面感情そのどちらで動いているのか。別の価値観に立った時、どのように考えられるか、といった思考取り組み
それが「実践」になりますね。

そうしたテーマ選定的この部分はどうか、といった材料あれば、また新規トピックなどで入れて頂ければ懇切アドバイス返していきますので^^。


 
Re: 悲しみの克服について / 治男
No.1206 2016/08/25(Thu) 12:19:13

人を信じるという事はどういう事なのでしょうか?
今、かなり強く相手の女性がちっぽけで愚劣で汚らわしく思うようになりました。
以前は、その女性はマッサージ師をしていた為、指が割と太く、それも真剣にやっていた
から素晴らしいとか、とっても前向きで、尊敬すらしていたのに、これまでの私への
暴言や愚かな行動と拒絶を見ていると、人間としてかなり愚劣で劣っているし、誠実さや
問題に対し正面から向き合う、人を裏切らないという真摯さのかけらも見受けられない。
嫌な悲しい思いをさせたくないという愚かな思いやりが、益々強く私の心を傷つけると
いう事を考えもしていないと見られます。
同じ会社の2人と肉体関係におよび、夕食を同席する危険な事すら気にもしないという
態度と思いやりの無さがあまりにも悲しくちっぽけ過ぎる程に思うようになりました。
そんな人ではないという思いを深く裏切られたという残念な思いすらも、もったいないと
思うようになってきました。色々な悲しみ・苦しみ・悪感情を凌駕する、新しい気持ちが
芽生える事がひょっとしたらあるのではないかと、時と共に感じる様な、そして、希望が
持てるようになりました。こうした事ばかり考えていると読書が進まないという動揺と
いうか、集中できないという感覚なので、まだ少ししか進んでいません。


 
「人を信じる信じない」を卒業した思考法行動法へ^^ / しまの
No.1207 2016/08/30(Tue) 09:18:09

「人を信じる」とは

>人を信じるという事はどういう事なのでしょうか?

まず「信じる」とは「疑わないこと」だと辞書では出てきますね。
それが「人を信じる」というテーマとなれば、
@人の心の根が良いものであることを仮定した思考を選択する
A期待をかける

という、大きく2つになると思います。ま言葉の定義ですね。

ハイブリッド心理学では、「人を信じましょう」というしていません
人の心の根が良いものであるかどうかは、ケースバイケースです。疑うことが必要になる場面も、社会生活では出てきます。安易な儲け話持ちかけられた場合など^^;
一方心の根が良いか悪いかは、心の健康にも関係します。心の根悪いものに傾くのは、心を病んで生じる「心の荒廃」関係します。心が健康であるほど、「良心」にも傾くというのが、ハイブリッド心理学の考えです。
誰が誰にどう期待をかけるかどうかは、もう完全一般論のない、人それぞれ「望み」になりますね。

心の成長への取り組みとしては、そうしたものとして、
・人と社会を見る目を、人生を通して築いていく
・自分の望みに向き合う

という2面重視しています。


「人を信じる信じない」を卒業した思考法行動法へ

そこにさらにハイブリッド心理学採用する各種思考法行動法生き方姿勢加えて考えるならば、「人を信じる信じない」といった思考そのものを、卒業する方向向かうのが、ハイブリッド心理学取り組みだと言えると思います。

人の心成長によって変化します。もし自分心の成長を目指すのであれば、人の心決めつけず、変化の可能性も視野に入れたいところです。
一方でハイブリッド心理学採用する「原理原則行動法」は、人の心の内面執拗に問うことなく外面における客観的な事実に基づいた、厳然とした対処行う方向のものです。

そうして、人生を通して人と社会を見る目築きながら、実際の場面においては、人の心が変化するものであることへの視野も持ちながら、内面にあまり立ち入ることのない厳然とした行動法も行っていく。
そうした多面的な心の視野持ちながら、自分が何を望むのか真正面から向き合う。すると最後人をどう見て自分がどう行動するかは、人が信じられるか信じられないかに増して、自分自身をどう信じるかの方が重き持つものになっていきます。

「心を解き放つ」惑い煩い動揺凌駕する感情開放されるというのも、そのように揺らぎない自己築く方向性先にあるということになりますね。

今回の件に限らず、日常生活人生さまざまな場面において検討するものとして、そうした自己方向づけ参考としていろいろ読んでみて頂ければと思います^^。


 
Re: 悲しみの克服について / 治男
No.1208 2016/08/31(Wed) 12:17:42

ハイブリッド心理学入門編1巻の25ページ、悲しみの彼方への旅72ページまで進みました。
入門編1巻に怒りは自らを傷つけ、悲しみは治癒を促すという事が本日までの良い言葉
として私の心の中に残りました。
相手の女性はそんな事をするはずは無いという気持ちと、その酷い言動のせいで、不快な
男性の上司になり、定年前に関連会社へ出向して収入が減額される事を避けるという良い
話に乗ることが出来ないという流れの中で、怒りと悲しみが拮抗します。
「私悪い事してる」その他口には出せないほど惨く汚らわしい言葉の意味を3年半かけて
知ったという事で、記憶から消えない状態です。
悲しみが続いているのも事実で、他の対人関係も切れ切れになってしまいました。
愛の共有によって幸福になりたいという希望がありながら、前に進めなかった事の残念さ
がありますが、自分の気持ちが判然としたという事が唯一何か良かった事としています。
昨日、お前は自分のことばかりで他人の気持ちを分からない、ほんとに優しくないと
言われました。益々、弱りきっています。
今、このままでは自分がつぶれてしまうと感じています。今、気持ち・心を切り替え
なければ自滅する感じです。道を歩いていて他人が極めて不愉快に感じます。
いままであれほど会いたかったのに、今では恐ろしくて会いたくない。間違って会って
しまった時に備える為に、発言する内容を2通り考えていましたが、もちろん相手は
逃げ隠れするから心配ないと思いつつ、それすらも嫌になりました。自分の部下以外は
全員が敵で、我家族は別離したい対象でしかありません。今、心を入れ替えないと
本当に自滅すると感じます。
本日、お前は詐欺師なのだ。自己中心で全く相手の気持ちも考えない卑怯者だという
言葉が、恋愛相談の様なサイトにありました。これが完全に今の自分に当てはまった。
家族を大切に思わないという気持ちは消せないけれど、相手の女性をもうこれ以上、
というのも長すぎたけれど、これ以上は追わない考えないという事が正常な方法ですね。
自分は卑怯ではない、悪くないという立場で、相手を責めてばかりいた。
自分だったらそんな事はしないし、出来ないという論調です。現に、家族にやっている
のにも関わらずという事ですね。気がついてはいたけれど、悲しくてという言い訳です。
たしかに相手の女性は愚劣・極悪ですが、自分もそれに勝るとも劣らないという事です。
詐欺師と罵倒されるとは思わなかったから、良識ある人から私を見るとそうなると考え
られます。以前にも同様な事・浮気をした事があるので、その時は自分を許せず、兄に
助けてもらった記憶がよみがえりました。うつ病の薬を飲んでなんとなく治りました。
結局、自業自得という事ですね。自分に呆れる思いです。今回は、うつ病にはならない
感じがします。しかし、長かった。幸せになる為に本当に心の成長・転換をしなければ
なりませんね。自分の劣悪さに、今更ながら驚くと共に、ちゃんと離婚し前に進める
という気持ちが強く沸いてきました。


 
「現在の問題」への取り組み・個人的望みと善悪の切り分け^^ / しまの
No.1209 2016/09/06(Tue) 13:41:29

「感情と行動の分離」の原則に立った検討

ハイブリッド心理学からは、どんな問題についても、
「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみ行う」
という「感情と行動の分離」原則に立って検討します。

>益々、弱りきっています。今、このままでは自分がつぶれてしまうと感じています。今、気持ち・心を切り替えなければ自滅する感じです。

というで言えば、こんなアドバイスになるかと。
・まず、気分感情としてではなしに、外面の客観的現実問題を見分け、それに対処する建設的な行動学を学び、心の健康と成長のためのものの見方考え方に接し、馴染んでいく。
・それを皮切りに、内面感情の揺れを生み出した自分の考え方について幅広く見直しながら、内面感情にも深く向き合っていく。


つまりまず、「弱りきっている」「自分がつぶれてしまう」感じることにある、感情の問題と、客観的現実問題切り分けることからです。

もしそれが身体的病気怪我疲労、もしくは金銭的な、あるいは仕事上トラブルであれば、対処必要であり、また対処知恵が出てきます。
一方、「お前は自分のことばかりで他人の気持ちを分からない、ほんとに優しくない」言われたというのは、対処すべき問題ではありませんそう思われたのであれば残念なことでしょうが、反撃したところで何も生まれません。まず何もしないことです。それが心の優しさ包容力自らが培う方向性への、第一歩になるでしょう。

そのように、まずは「問題の切り分け」から。


「現在の問題」への取り組み・個人的望みと善悪の切り分け

まあ書いて頂いていること全体として、「過去への怒り悲しみ」というものになっていると思いますが、それをまず、「現在の問題の見方考え方への取り組み」というものに切り替えるのが、基本的心の切り替えになると思います。

そこで治男さんの場合重要になるのは、
・個人的な望みや意向に沿うか否かの問題と、「善悪」の問題の混同
というのを脱することだと思います。

自分他人個人的な望みや意向沿うか否かは、基本的人それぞれの勝手であり、まずは人の動きを受け入れるのがいい。それについて惑い悩み不要方向へと、心を持っていきたいものです。
一方、法的、人道的、さらには社会や集団の仕組みから言える「善悪」というものについて、客観的で原理原則的な考え方取るようにする。

まあちょっと抽象的かと思いますが、まずは「現在の客観的な問題」内容正確に把握することから始め単にものごとが自分の思い通りになっていないのを受け入れる、もしくはしっかり対処が必要な問題には対処する、という切り分け取り組んで頂くといいと思います。
対処が必要そうな問題については、ハイブリッド心理学からまた具体的アドバイス可能かと思います。レスがあまり長くなるのも見ずらいかと思いますので、適宜新規トピックにして入れて頂ければ^^。


 
Re: 悲しみの克服について / 治男
No.1210 2016/09/06(Tue) 14:12:06

本日、お前は詐欺師なのだ。自己中心で全く相手の気持ちも考えない卑怯者だという
言葉が、恋愛相談の様なサイトにありました。これが完全に今の自分に当てはまった。
家族を大切に思わないという気持ちは消せないけれど、相手の女性をもうこれ以上、
というのも長すぎたけれど、これ以上は追わない考えないという事が正常な方法ですね。
自分は卑怯ではない、悪くないという立場で、相手を責めてばかりいた。
自分だったらそんな事はしないし、出来ないという論調です。現に、家族にやっている
のにも関わらずという事ですね。気がついてはいたけれど、悲しくてという言い訳です。
たしかに相手の女性は愚劣・極悪ですが、自分もそれに勝るとも劣らないという事です。
詐欺師と罵倒されるとは思わなかったから、良識ある人から私を見るとそうなると考え
られます。以前にも同様な事・浮気をした事があるので、その時は自分を許せず、兄に
助けてもらった記憶がよみがえりました。うつ病の薬を飲んでなんとなく治りました。
結局、自業自得という事ですね。自分に呆れる思いです。今回は、うつ病にはならない
感じがします。しかし、長かった。幸せになる為に本当に心の成長・転換をしなければ
なりませんね。自分の劣悪さに、今更ながら驚くと共に、ちゃんと離婚し前に進める
という気持ちが沸いてきました。それが本当に自他共に正しいと思えます。


 
Re: 悲しみの克服について / しまの
No.1211 2016/09/06(Tue) 15:24:54

>幸せになる為に本当に心の成長・転換をしなければなりませんね。

「“今”を原点としたスタート」として向かって頂ければ^^。
また具体的取り上げたい場面課題材料等あれば、個別新規トピックなどで入れて頂くとよろしいかと^^。


ハイブリッド心理学においての具体的な実践についての質問です。 / Air
No.1202 2016/08/13(Sat) 00:27:38

島野さん、初めまして。
現在25歳の社会人の男です。

私の悩みに関してハイブリット心理学では
具体的にどういった取り組みをしていくのかについて質問させてください。

私の悩みは2段階あります。
純粋な悩みと、その悩みを解決できない悩みです。

まず純粋な悩みの方から説明させていただきます

この悩みは、
【人の目・人からの評価を過剰に気にする。】
が一大テーマになっているように感じます。

特に直面することが多く私自身悩んでいることを以下に列挙します。

1.自分の要望をなかなか人に伝えられません。その相手が家族だとしてもです。

相手の言動に対しての要望の場合と自分の純粋な要望な場合があります。

その要望が相手の言動に対しての改善の場合、
嫌だけど我慢できる範囲なら言わないでおこうと思っています。

でもどうしても我慢できず伝えずにいられないという時は
怒りがこもった伝え方をします。
(例:「なんで〜なんだよ!」など。)

そう伝えた後、相手のその言動が改善しようがしまいが
自分の感情は怒りのままです。

改善の場合→「改善できるんだったらもっと早くやれよ!」と思い、怒りの感情。
改善しない場合→「俺はこれだけ我慢してるんだから俺の気持ちを汲んでくれてもいいじゃないか!」と思い、怒りの感情。

その要望が純粋な自分の要望な場合、
「これを要望したら相手に嫌われるんじゃないか」「迷惑なんじゃないか」
「まだそんなことを要望できるような関係じゃないのにと思われるんじゃないか」などと思い
要望することに強く恐怖・不安を感じます。

そのため要望できない、もしくは要望したとしても相手の機嫌を伺うような物言いになります。
(例:嫌だったらいいんですけどもし嫌じゃなかったら〜、など。)

そして要望が受け入れられない時には
「嫌われてしまった」「やはり迷惑をかけてしまった」
「こんなことならやっぱり要望するんじゃなかった」と考え
自己嫌悪、自分を責めるような感情になります。


2.仕事で分からないことがあった時になかなか質問できません。

「こんなことも分からないのか」「バカなのかこいつは」
「なんで今更こんな質問するんだ」「今時間ないのに迷惑なやつだ」
と思われるんじゃないかと思い恐怖を感じます。

それを乗り越えて質問してもその回答に理解できないところがあった時に
そこを追求できず分かったふりをしてしまいます。

追及できないのは上記の質問できない際の思考と同じものが浮かぶからです。
「こんなことも分からないのか」「バカなのかこいつは」、、、。

追及できずに分かったふりをしたあとは
「何のために質問したのか」「結局状況が変わっていないじゃないか」
と自己嫌悪になります。

そして「これでまた同じ質問したらさらに無能なヤツと思われるだろう」と考え
もう同じ内容で質問することはできません。

でも状況は依然として分からないことが分からないままなので
「じゃあもうどうすればいいんだ・・・。」と焦り・追い詰められた感を感じます。

3.マンションに住んでいるのですが、
その帰り道で前を歩いている人も同じマンションに入って行った時に
怒りや自己嫌悪といった感情になりつつ、迂回して少し時間が経ってから帰ります。

その時の自分の内面をあえて言語化するならば、

「俺は同じマンションに住む人と同じエスカレーターに乗りたくない。
なぜなら窮屈感や同じマンション住民として挨拶をしなくちゃいけないといった義務感を感じ、
それらが不快だからだ。

だけどこのまま俺もマンションに入ったら同じエレベーターに乗るかもしれない。
それは避けたいから少し迂回してから帰ろう。

でもなんで俺はこんなことをしているんだ。前のヤツがいなければ普通に帰れたのに!(怒り)

家に帰るだけでこんな状態になっているのは俺だけなんじゃないのか。
俺がおかしいんじゃないか。なんで俺はこうなんだ。(自己嫌悪)」

となります。

4.他人と会話する時に自分の本心・本音を過剰に隠します。

具体的には、
・面白くもないことに笑う、
・相手の意見と自分の意見が違う場合には自分の意見を殺し相手に合わせる、
・頭の中でひとつひとつ自分の発言が相手を不快にさせやしないかとチェックし、
これなら大丈夫だろうと確信できたことだけ発言する。
→なので言葉がすぐでてこない。
→でもあまりにも返しが遅いと会話が成り立たなくなるので、焦る。
→とんちんかんなことを言ってしまう。
→自己嫌悪。

などです。

なので、人と会話するだけで異常に疲れを感じます。

この結果だけ見ていると、私にとって人との会話というものが
“私はあなたの敵ではないですよ、無害ですよ、だから攻撃しないでねと全力でアピールする場”
になっているみたいだと今感じました。

5.挨拶しても返ってこない、メールをしても返ってこないなど
自分からの働きかけに対して自分が望むような反応が返ってこない時
自分の存在というのは相手にとってはその程度なんだ、と思い自己嫌悪になります。

「こっちからわざわざ働きかけているのにその反応はなんだ!」と怒りの気持ちも湧いてきますね。


そして次に、これらの悩みを解決できない悩みです。

これらの悩みを解決するために本などを読むのですが
そこで次の段階の悩みに進みます。

大体の流れを書いてみます。

1.悩みに合致したテーマの本を読んでみる。

2.
(内容が理解できて行動できる場合)
→とりあえず行動してみる。
→うまくいかない。
→自分なりに今度はこうしようと考えまたやってみる。
→うまくいかないことが続く。
→嫌になる。
→解決への行動をやめる。

(内容が理解できて行動できない場合)
→行動しようと思う。
→「失敗したら恥ずかしい」「この行動をしたら人からこう思われんじゃないか」と考える。
→恐怖・不安を感じる。
→嫌になる。

(内容が理解できない場合)
→とりあえず先を読んでみる。
→やっぱり理解できない。
→嫌になる。
→理解しようとするのをやめる。

3.自分の望みは叶えられないんだ、一生このままなのかと思い、絶望のような感情になる。
4.その悩みを解決することから離れる。
5.生活する中でまたその悩みに直面する。
6.やはり解決したいと思う。
7.1に戻る。

この流れを中学生ぐらいの頃からずーっと繰り返しています。

実際、ハイブリット心理学の書籍を木曜日に1日かけて入門編の上巻、下巻を読んだのですが、
理解できないところが多く、結局自分の悩み・課題について
今ここから自分は具体的にどうしていけばいいのだろうと悩んでしまいました。

ちなみに理解できないというのは、納得ができない、というより
日本語として分からないといいますか、読んでもまったく頭に入らないといった感じです。


こういった状態から心の成長に向かうには
具体的に何をどうしていくのがハイブリット心理学の実践になるでしょうか。

こういった質問自体が他人への依存であり病んだ心なのだとは思うのですが
ご回答いただければ嬉しく思います。

よろしくお願いします。


 
「頭で理解」の真の姿・悩みの状態ではなく内容に取り組む^^ / しまの
No.1204 2016/08/22(Mon) 14:26:24

実践のステップ

これはまず、人生で役に立つ生き方思考法行動法実践というものが、どのようなステップを経て身になっていくのかの説明からするのが良いかと。
それに照らし現状での進め方どんな不足があるのか、というできるかと思います。

で、実践のステップには主に3つがあります。
@まず頭で理解する
Aそれを実際の場面で応用実践する
Bそれを積み重ねる


実はそこにさらにもう一ステップがあり、
C結構な積み重ねの先に、心が実際に成長変化する
成長変化するとは、もはや四苦八苦することなく、心が自動的に、自らを幸福にするように動くようになるのを、自分自身で実感できるといことです。
そこに至り@の「まず頭で理解」したことが、人生の真実であったことへの確信得られることになります。それにより、応用実践積み重ねは、もはや微塵の揺らぎもないものとなり、心の成長変化加速度的に進むことになる。
おおよそそんな流れを言うことができます。


「頭で理解」することの重要性

そうした心の成長への実践ステップの中で、どれが一番重要か僕の考えを言うならば、
@まず頭で理解する
というステップです。

なぜなら、それがないと何も始まらないという、単純順番的もありますが、それにも増して、人生で本当に役に立つ姿勢と思考法行動法とはどんなものなのかという、その真偽のふるい分け重要になるからです。
それだけ、に出される生き方や思考法行動法の指南は、最後まで本当に役に立つものが驚くほどまれな、一時しのぎの励まし慰めもっと悪ければごまかし大多数占めているからです。

そこでありがちなのが2パターン
一つは、「頭では分かっているつもり」という、自分自身への建前の、ごく浅く上辺だけの思考実際行動場面になると、分かっているつもりのものとは正反対の行動をしたりするケース

そしてもう一つ多少とも奥の深い話になりますが、今聞いて話として言葉として理解できるというのは、変わることのできない今の心の中ですぐ分かるという程度の話しかない、ということです。
つまり、今の心未知の心変化する道筋を述べたものを、実際そうした体験をまだ経ていない心で、理解できるはずもないわけです。
むしろに、今聞いても分からないような話としてこそ、今の未熟な心が豊かに成熟した心へと変化していく、道筋と鍵がある。そうした目線を持って、まず学ぶことから始めなければならない、ということです。
ただしそうして学ぼうとする、世に出される生き方指南大半は、一時しのぎ程度、さらにはごまかしでしかない。
それをどう見極め整理していくか。そうしたものとして、
@まず頭で理解する
というステップ重要になる、ということです。


「頭で理解する」の真の姿

そのため、「頭で理解する」こととして重要なこととして、
・「頭では分かっているつもり」という「理解の浅さ」への理解
・言葉として(実感として)分からないことの中にこそある次のステップを感じ取る理解

といったものを言えます。

たとえば、
>(内容が理解できて行動できる場合)→とりあえず行動してみる。→うまくいかない。
>(内容が理解できて行動できない場合)→行動しようと思う。・・・・→恐怖・不安を感じる。→嫌になる。
というのは、「理解できている」とのことですが、結局は分かっていないわけです。なぜうまくいかないのか、なぜ不安を感じてしまうのか。ではどうすればいいのか。

姿勢行動法について「理解する」言うのであれば、「こうできればいい」という基準あったとして、それができない場合なぜできないのか、できそうなものになぜ不安を感じるのか、ではそのギャップ克服どのようなものとしてあるのか、というさらに一歩踏み込んだものあってこそ、「理解する」言えるものになります。
またそうした一歩踏み込んだ知恵提供してこそ「心理学」なのですが、世に出ているもの9割がたは、そうできれば何の苦労もない、「こうできればいい」という絵に描いた餅のような基準言うだけのものが大半かと思います。

一方でハイブリッド心理学は、言葉としても容易に理解できないであろうことかなり言うと思います。たとえば、
・今の心が死んだ後に、新たな心が芽生える
・「魂の望みの感情」のの燃焼量に応じて「自発的幸福」が増大するのが、「心の豊かさ」への最終的な答え

といったなど。
ではこれにどう向かい得るか言うならば、結局やはり言葉として覚えないと、なかなか進みようがないわけです。言葉として覚えることで、それだけではそこに向かって進みはしないけれども、多少ともその方向を向く。そして生きる体験で、やがて「これがそのことなのか!」見える時訪れるわけです。力強い前進できるようになるのはそれからです。

ですので、「頭で理解する」という最初のステップで、まず問題課題解決ヒントになりそうな情報本などからを得るのはいいとして、そこに、
・そこに書いてあるのは、そうできれば苦労はないような、うまくいった基準の姿か、それともそれができない場合の原因究明や克服など、さらに踏み込んだ深い知恵か
・いずれにせよその内容について、自分は本当に心底から理解納得するか

という2面の、「自分の考え」明確にする作業加えることが重要になります。
まあ深い心理学ほど話が何段階にもわたり、納得理解を進めるのも難しく最初うまくいく姿だけを安易に謳ったもの惹かれると思います。いいでしょう。それを実践してみる体験の中で、うまく行かない原因が見え、より深い心理学言っていることが、言葉として分かってくる。ただ解決姿理解できない。そしてさらに人生の歳月で・・。
といった長い取り組みになると思います。


ハイブリッド心理学ではどう取り組むか

ということで、話が理解できてどうこう、あるいは理解できなくて、という「理解する」ということ自体どう理解するかという前段的な話すっかり長く(^^;)なりましたが、上述のようにまず自分が理解していると感じること自体について厳密に問いながらことに当たるのがお勧めですというのを主旨として、ハイブリッド心理学ではどうなるのか簡潔アドバイスしましょう。

このご質問への回答になりますが、
>こういった状態から心の成長に向かうには具体的に何をどうしていくのがハイブリット心理学の実践になるでしょうか。

多少とも読んで頂いていればこの言葉出てきているのがお分かりと思いますが、ハイブリッド心理学では、
「外面行動は建設的なもののみ、内面感情はただ流し理解することのみ行う」という「感情と行動の分離」基本原則に立った「実践」を、具体的場面課題ごとに実践することを行います。

で、それが書いて頂いた、

>1.自分の要望をなかなか人に伝えられません。その相手が家族だとしてもです。・・(略)・・自己嫌悪、自分を責めるような感情になります。
>2.仕事で分からないことがあった時になかなか質問できません。・・(略)・・「じゃあもうどうすればいいんだ・・・。」と焦り・追い詰められた感を感じます。
>3.マンションに住んでいるのですが、・・(略)・・俺がおかしいんじゃないか。なんで俺はこうなんだ。(自己嫌悪)」となります。
>4.他人と会話する時に自分の本心・本音を過剰に隠します。・・(略)・・なので、人と会話するだけで異常に疲れを感じます。
>5.挨拶しても返ってこない、メールをしても返ってこないなど・・(略)・・自分の存在というのは相手にとってはその程度なんだ、と思い自己嫌悪になります。
>そして次に、これらの悩みを解決できない悩みです。

といった「悩み」解決のためには、どうすればいいかですが、
まず言えることはこうなります。
それは解決はできない。それは悩みの「内容」のことではなく、「状態」のことだからだ。
悩み内容ごとに、解決向かって「実践」問うことができます。その積み重ねによって、「悩み」「状態」も、変わるかも知れない。

つまりまず、「自分の状態」悩み、それをどうこうしようとする姿勢から、「具体的場面課題」しっかり捉えて、その内容ごと知恵とノウハウを学び実践するのが、ハイブリッド心理学行うものになります。
まあもっと平たく言えば、悩んでいる場面の内容を、もっと具体的に検討せよ、ということですね^^。もっと具体的にした段階で、ハイブリッド心理学からいよいろ知恵とノウハウ、そしてより根本的生き方姿勢の選択肢提示が、出てきます。
それは『辞典』でいま整理していような項目わたります。
つまり、具体的問題ごとに、問題の内容を詳しく整理し、その克服のためのテーマを把握し、その内容を学んでいく、ということを地道行います。
それが、
>こういった状態から心の成長に向かうには具体的に何をどうしていくのがハイブリット心理学の実践になるでしょうか。
への回答です。

そうしたものとして、一つ一つ取り組んでみるか、ですね。
そこからはもうここで書けるほど手短にはできず、それこそ一つ一つ取り上げての検討になりますが、どんな視点出てくるかのごくキーワードだけ書いておくと、こんな感じかと。

>1.自分の要望をなかなか人に
要望の内容
応じ「建設的対人行動法」「原理原則行動法」「ウインウイン行動法」どれを用いるかといった「行動学」になります。

>2.仕事で分からないことがあった時に
「価値を生み出す質問」という仕事のスキル
読者広場以下トピックなど参考
『仕事における「質問の仕方」「モチベーション」「怖れの克服」^^』 しまの No.1150 2015/11/23

>3.マンションに住んでいるのですが
相手との知り合い度に応じた立居振舞い法検討

>4.他人と会話する時に
これも会話の内容に応じた行動学です。そこに本音と建前という区別問題ありません

>5.挨拶しても返ってこない
交友親愛への価値観および行動法全体にまず取り組みます。


もしハイブリッド心理学の取り組みとして進めたいようであれば、一つ一つまたトピックとして入れて頂ければ、それぞれまた時間頂くと思いますが、より具体的アドバイス可能です^^。


人が部屋に入ってくるのが嫌 / 卯衣
No.1191 2016/07/23(Sat) 13:22:37

私の部屋はお姉ちゃんと同じなのですが、お姉ちゃんが入ってくる途端イライラします。
どうすればいいでしょうか?


 
「自己分析」で原因ごとに対処^^ / しまの
No.1193 2016/07/25(Mon) 11:14:22

これは一個前のトピックでもテーマになりましたが、「自己分析」必要ですね^^。
自分は何を、なぜイライラするのか、と。
そうして見えてくる原因の問題ごと対策考える、ということになります^^。

たとえば姉にいつも何かイチャモンをつけられる、あるいは何かを干渉されるのにイライラする、ということであれば、さらに、イチャモンをつけられたり干渉されたりする内容それぞれに、どう対処するか取り組みます。具体的「学び」出てくるのはここからです。
あるいは姉の様子どうこうよりも、自分一人の部屋が欲しいのに、という気持ちからイライラが起きているのであれば、また別の話になりますね。まこの場合今どうこうできる話ではなく、将来計画をしっかり練ることが対処なるかも知れない。

そのように自己分析によってイライラ原因分析し、面倒かも知れませんが原因ごと個別に、地道対処積み重ねていく、ということになりますね。
その積み重ねで、対応能力の高い、落ち着いて行動力のある人間へと成長できます^^。


客観性を手に入れようとすると起こる矛盾 / 第三極
No.1183 2016/05/26(Thu) 19:48:32

客観性は非常に重要な概念であり他者に迷惑をかけないようにするという点で欠かせないものであると思っています

しかし今の私に客観性はあまりありません それを補うための応急処置として賢者を装い、他者と関わらない事で客観性がなくても生きられるようにしました しかし客観性はないのですから人と関わったとき他者に迷惑をかける自分があるという事は変わらないわけです

ですので完全な解決のためには客観性が必要である事は変わりません 客観性を手に入れられたとしても変わらないかもしれません ですが今の私は他者に迷惑をかけたくないと思っています よって客観性を手に入れるだけであらゆる惨事を防ごうとするはずなのです 防げるのです

ここまでいっても客観性を手に入れられないのは私の有謬性にあります 私は原罪を抱えて生きているのです 私が未熟であったが故に他人に迷惑をかけた ですが今の私は客観性を持たないが故に過去の事象について迷惑をかけたという事実しか把握していません

しかし客観性という認知能力を手に入れるとあらゆる過去の負の遺産に悩まされる事になるのです あらゆる迷惑をかけた者達の意識を知る事になるからです 地獄です 私にとって客観性は諸刃の剣なのです 少し前の事ですが客観性がなかった事で他者に迷惑をかけた事があります それについて客観性を一時的に手にした時は相当自分の精神が参りました

迷惑をかけられた者の意識が頭の中で囁くのです 貴方を殺したいと…。私はそれに耐えられません 今は客観性を放棄しているので精神は安定しています しかし私がちゃんと育てられていれば無謬でいられたはずなのです いや そもそもにおいて早期に客観性を獲得していれば私はきっと負の遺産を築き上げる事もなかったでしょう

今の私は過去の私を否定しています 違う人間なのだと。彼とは違うと。自己連続性の否定です 否定する事が価値ある事だと思い過去の自分を否定しているわけではありません 私はただ過去の自分が嫌いなだけなのです 私は私の過去を思い出したくありません 思い出してもいいのですが客観性の度合いが強くなるごとに鬱になっていきます

客観性を手に入れる事の矛盾です 私は客観性を手に入れたいです でも過去の自分が冒したことで悩みたくもありません 過去の自分を完全に切り離せない私が問題なのかもしれません ですが過去とつながっている以上過去を思い出させる人間と会う事は必ずあります ですがそのときに客観性を持っていれば持っているほどショックは大きくなるのです

この解決のためには過去を断ち切るために完全に引っ越すか記憶を消すくらいしかないでしょう しかしそれは現実的なことではない このような場合客観性を持ったまま精神を安定させる方法はあるのでしょうか?


 
「自分の過去の罪への苦しみ」への「客観性」取り組み^^ / しまの
No.1184 2016/05/31(Tue) 21:32:43

「主観」と「客観」

う〜んこれはちょっと話が逆のような気ちらほらしているのですが、明日昼出て金曜まで予定にて北アルプス登山に出かける予定のため、手短に^^。
まあ一つには言葉使い方問題があるとして、言葉定義から確認しておきますと、

まずは、
「主観」・・・自身の感情によってものごと解釈した内容
「客観」・・・現実の事実からものごと解釈した内容

であり、そこでさらに、
「主観性」往々にしてものごと不正確で歪めて解釈する方向性であるのに対して、それを正確で健全な解釈へと修正するよう働きかける方向性として「客観性」がある、という言葉使い方になると思います。
これはよろしいでしょうか。

それで言いますと、
>しかし客観性という認知能力を手に入れるとあらゆる過去の負の遺産に悩まされる事になるのです
あらゆる迷惑をかけた者達の意識を知る事になるからです 地獄です

>迷惑をかけられた者の意識が頭の中で囁くのです 貴方を殺したいと…。私はそれに耐えられません
>思い出してもいいのですが客観性の度合いが強くなるごとに鬱になっていきます
>過去とつながっている以上過去を思い出させる人間と会う事は必ずあります ですがそのときに客観性を持っていれば持っているほどショックは大きくなるのです

これは、上の定義で言う主観だとそう感じる、というかと^^。
一方書いて頂いた文面ですと、「客観」「仔細・克明」「主観」「曖昧・滅却」というような言葉の使い方書いておられるのではないかと。問題の件としては、自分過去「有謬」について克明仔細に思い出すことを「客観」表現し、そうすると上の引用のように感じる、という
まあ確かにその2項等式そのようになる傾向多いかも知れず、「客観」「曖昧・滅却」であることはないだろうが、「主観」「仔細・克明」描かれ虚構を作り上げる、ということもある。そうではないかがまずは要注意ですね。

つまり、文面では「客観性」得る悩みが出るという話のようですが、上記定義から言えば、ぶっちゃけて言ってしまってご了承ですが、そもそも「客観性」の視点がない、さらにはもしや、そもそも「客観性」が分かっていないというのが問題課題ではないかと言える、という話です。


「過去の罪への苦しみ」の克服取り組み

ということで、
>この解決のためには過去を断ち切るために完全に引っ越すか記憶を消すくらいしかないでしょう
しかしそれは現実的なことではない このような場合客観性を持ったまま精神を安定させる方法はあるのでしょうか?


という問いそのものからリセットさせて頂き、書いて頂いた範囲ハイブリッド心理学が捉える問題、そしてその克服への課題とアプローチなどざっと簡潔説明しますとの通り。

1.問題現象
「自分の過去の罪・有謬への苦しみ」

2.克服への課題とアプローチ
一言でこう言えます。
まず外面においては、その「罪」の重みとそれに応じた適切な補いの行動の選択肢を客観的に判断し実行することとして、適切な社会行動を果たす。
内面においては、「苦しみ」がどう克服されるかは、今問うことのできる問題ではなく、人生を通して心の成熟に向かう歩みによって、感じ方がどう変化するかの問題となる。

つまり課題としては3つとして構成されます。
 1)自分の過去の「罪」の重さを客観的に判断する。
 2)今現在において、それを補う行動として適切なものがあり得るかを、これもやはり客観的に判断する。
 3)心の成長成熟への歩みに向かう。これはこれから先数十年といったスパンの話となる。


1)2)で、「客観性」重要になります。ここにおいて、「引っ越すか記憶を消す」といった逃げナシです。
3)は、もうこの問題の件の話ではありません。これからの人生どう前向きに生きるかの全体問題です。
一言で、過去の罪とは、足につながれた重しです。それが完全に取り除かれければ前に進めないと、嘆きの中で生きるか。それとも、誰もが程度の差こそあれ、それを持つものと受け入れ、重しがつながれた足を踏ん張って前に歩くか。
そうして前に歩いていった長い歳月を経て、やがてその重しどんなもの見えるか。変わることなく身を潰すかかのような重みのままかも知れないし、実はもう何の重量も持たないものになっているかも知れない。どのどちらであろうとも、もはや揺らぎない心受けとめられるようになるのが、「成熟」だと言えるでしょう。

手短に、そんな話ですね。
まず1)2)については、たとえば人の金を盗んだ(^^;)となれば、相応の賠償を行うといったことが考えられるでしょう。
一方、
>迷惑をかけられた者の意識が頭の中で囁くのです 貴方を殺したいと…。
というのが客観的に相応するのは、殺人を犯してしまったというレベルの、重い罪場合でしょう。
そうではなく、単に何か理想的な振る舞いを損なった程度で、「殺したい」という目で見られるというのは、健全な話ではありませんね。「殺す」「死ね」といった言葉気軽に使うのが最近の若い人(^^;)風潮なのかも知れませんが、それはちょっと病んだ文化だという認識を持てることが重要になると思います。自身の攻撃衝動投影かという自己分析視点有用かも知れませんね。
そうして客観的な判断取り組む一方、だからと言って「殺したいという目で見られる感覚」などの「主観」を、どうこうしません。それは「ただ流す」ものにします。「感情と行動の分離」ですね。この基本原則についてはご理解頂いていますかどうか。


以上、ハイブリッド心理学からの考え方ごく手短に書いてみました。
まずは上記1)2)について、実際の具体的問題の件の内容に応じた「客観的判断」内容が、具体的に問題になりますね。
差し障りない範囲具体的お伝え頂ければ、が考える「客観的判断」考え方などをさらに具体的にアドバイスできるかと思います^^。



泣くことについて / しまの
No.1176 2016/05/04(Wed) 09:24:39

ブログ記事(4/27)触れたように、最近以下のような趣旨ご質問を入れて頂きました。ご質問自体その後取り下げられておりますが、今までまとまった考察整理をしていなかった興味深いテーマと思いますので、取り上げさせて頂きコメント掲載などしようかと思います^^。

ご質問内容
泣くのは体にいいという古い記事を読みましたがどうにも泣けません。というより、泣くのは究極的には無くすべきだとも思います。泣くというのは一時的にスッキリするだけ問題何も解決していない現実何も変わってないと思います。あんまり泣いてるとどうでもいいこと泣けてきますから生活にも影響が出ます。むしろ泣かない方いてスッキリしたにくる後味の悪い不快感を感じずに済みます。問題泣くかどうかではなく理性物事を見る、納得することだと思います。

記事ではテレビで見たものに泣いたそうですが、これはいわゆるお涙頂戴ものではないでしょうか?今の世の中お涙頂戴氾濫しすぎです。泣いて泣いてせがんできます。まるで泣かないことかのようにも思えてきます。
最たる例が、んで泣く大切な人んで泣くです。本当にそれが正しいのでしょうか。んでも泣きたくないです。本当強いなら泣かないはずです。わざわざ葬式など行くから泣けてくるんです。現実正しく見据えた人間ならば泣かないはずです。親離れできないから泣くんです。自立すれば泣きません。 納得すれば人の死受け入れたことにもなりますし感動ポルノを見ても理性当たり前の現実としか理解しませんので泣きません。一々泣いてらエネルギー使い果たしてしまいます。

泣くこと体にいいことと感動ポルノを見ても泣かない両立するには感動ポルノ見なければいいかもしれませんが、泣く要素至る所転がっています。見る泣いてしまうなら見なければいいで片付ける問題でもないと思います。泣かないならば感動ポルノ騙されることもなくなります。芸能人感動ポルノ泣いたりしてるもいますが聖人君子装っているようで気持ち悪いです。裏の顔持っているくせに自分善人仕立て上げようとしているのが見え見えです。

このように泣くという行為に対して良いイメージ抱けません 私の望みは最終的に泣かない。そして理想から自分を操縦しようとしない、です。泣かないという目的は既に達成済みだったのですが泣くと体にいいのかと思い最近泣いてしまいました。しかし後味の悪い不快感しか残らず後悔しております。

そこで泣くこと理想から自分を操縦することからの脱出役に立つのかどうか、また泣くという行為に対しての現在見解を教えてください。


 
「泣くこと」と心の成長 概説^^(前) / しまの
No.1177 2016/05/04(Wed) 10:08:57

>そこで泣く事が理想から自分を操縦する事からの脱出の役に立つのかどうか、また泣くという行為に対しての現在の見解を教えてください

「泣くこと」「心の成長」、というテーマとして考えられることなど「概説」として整理してみましょう。
まあ「泣けばいいという話ではない」とは言えるかと思いますが、涙の中で脳が変化していくというような特別な成長治癒現象あるようであり、まあ本が一冊書けるテーマでもありそうですが、超サマリーを書いてみましょう^^。


「泣くこと」の心身健康への効用・一般考察

まず、
>泣くのは体にいいという古い記事を読みましたが

というのは僕が書いたものなのか、それとも新聞やネットなのかやや定かでない(前者かな)ですが、いずれにせよしばしば言われる話でもあるでしょうし、今の僕の考えとしても基本的にはそのように考えます。
こう表現できるものとしてです。

・「泣くこと」は「笑うこと」と同じように、ストレス解除とリラックス状態の表れであり、心身の健康と成長に沿ったものである。
と。
この表現ミソは、健康と成長「沿ったもの」という言葉にあります。つまりそれが健康と成長「生み出すもの」では必ずしもない、ということですね。
たとえば北アルプス登山などでもバテない体を作るべく近所山登り(+その翌日の近所階段上り)トレーニング3日周期で行っており、かなり効果が出てきているのですが、それと同じように、「泣くこと」定期的に行うことで心の健康と成長効果が出る、というようなものでは恐らくない

そうした言葉言うのであれば、結局は、「思考法行動法」そして「価値観」「生き方姿勢」全体健康と成長に向かうものあること、そしてその先生きる体験の全ての積み重ねが、心の健康と成長生み出すのだ、というのがまずハイブリッド心理学考えだと言えます。
その中で、「泣く」という体験自ずあったりなかったりするであろう、と。
ですので、「泣くこと」だけを単独に取り上げて、それが心の健康と成長に役立つもののように扱うことは、ハイブリッド心理学ではしないですね。まあもしそう扱うのであれば、『ハイブリッド人生心理学辞典』「実践の学び」の中にも「泣くエクササイズ」のような項目出てくるという話。そうはしてないですね^^。


「泣くこと」の心身健康への効用・ハイブリッド心理学考察

それでも、「泣くこと」健康と成長どう「沿ったもの」か考えるならば、ハイブリッド心理学としての視点幾つか整理することができます。
その中には、「泣くこと」心の健康と成長「生み出す」特殊な面もあるのが見えてくるようなものとしてです。

まずハイブリッド心理学としての指針「泣くということ」についても、
・内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみ行う
という、一貫とした「感情と行動の分離」基本姿勢対処実践向き合います。

ですので、内面感情としてどうか、そして外面行動としてどうかという視点があり、そこにもう一つ涙が流れるという生理的現象側面どう考えるかという、大きく3つの視点出てくることになります。


「泣くこと」と内面感情

内面感情から見ていきますと、まず、泣く原因もしくはきっかけとなる内面感情種類とはどんなものか、というテーマが考えられます。それに応じて、泣くこと心身健康良いか悪いか違ってくるのでは、と。

すると言えるのは、泣く原因となる感情とは、実に多種多様であることです。たとえば「悔し涙」「嬉し涙」というように。
恐らくは、人間の感情全ての種類が、泣くこと原因きっかけなり得る喜怒哀楽という基本種類を考えてもそうだし、たとえば「不安」「安心」伴って流す涙といったものもある、というように。

すると、泣くこと心身健康良いか悪いかという問い自体があまり意味がない、というか二義的なことではないかというにもなってくる可能性出てくる。あるのはその感情が心身健康に良いか悪いかであり、そこに伴う泣くこと単独取り上げて健康に良い悪いないのでは、あるいは感情の違いによって、泣くこと健康への良し悪し違ってくるのではないか、と。
たとえば「怒り」ハイブリッド心理学が考える、心身の健康に害のある感情の代表であり、それに伴う涙、たとえば「悔し涙」流すことが心身健康に良いとは、とても思えない^^; 「嬉し涙」というのになると、心身健康に実に良さそうではあるが。


「泣くこと」の生理的学的効果

そこで、そもそも感情が極まって涙を流して泣くということの、医学的生理学的な機能とはどんなことなのか、という視点出てきます。涙が流れるということ自体ごく身体生理的な現象であるが、それが感情の極まりによって起きる意味とは。

それについてちょっとネットで見たところ、泣くというのは人間にのみあることで理由医学的科学的には今も解明されていないとかの記事もありましたが、一方見受けられたのは、泣くこと脳内ストレス物質の解消幸福物質の放出効果あることがかなり明確らしいこととして言っているものが結構あることです。
泣くこと大いに推奨しているものですね。

以下など。
涙の数だけストレス解消!(養命酒元気通信2013.3)
泣くことによるストレス解消や疲労回復効果/科学的に解明

そうした踏まえ考えるに、人間「泣く」というのは、薄っぺらい「心」「魂」と「命」につながる、一つの「貫通口」のような役割持っているのではないか、ととしては考えています。
つまりこういうことです。人間以外動物は、「心」基本的「命」のまま生きており、もとから備えるものである脳内ストレス物質解消幸福物質放出動きも、感情の揺れ動きに応じて連続的自動的に働く上流から下流への川の流れのように。
それが人間場合「自意識」出現により「心」「命」からはがれた薄っぺらいものとして働くようになる「心と魂の分離」起き日常的感情の揺れ動きが、本来備えるものである脳内ストレス物質解消幸福物質放出へと、つながりにくなる。仕切られ流れのようにです。

その結果感情の動き脳内ストレス物質解消幸福物質放出つながるのが、堰を開けるような非連続的切り替わりとして起きるようになったのではないか、と。
それが「涙を流して泣くという心身反応」なったというもの。
そこには、
・感情の極まり
・身体生理反応
・・・涙を流すという涙腺系反応しゃくり上げるという呼吸器系反応
結びつきあるわけですが、ストレス物質幸福物質「流す」「吐き出す」という脳の動作が、そうした身体生理反応のための自律神経機能を、いわば間借りするような機能するようになったのでは、というのが僕の想像です。

その結果脳内一度に大量ストレス物質解消幸福物質放出行われるというのは、どうしても「泣く」というのを伴わないと起きにくい、ということになっているのではないかと。
これが僕の考えであり、「泣くのは体に良い」よく言われることと、僕の考え大体同じだということになります。

つまりここまでの話総合すると、こう言えるかと。まず感情の種類に、心身健康への良し悪しがあり、それがまずは大きく方向決める
その上で、どの感情のケースにおいても、涙を流すことが、ストレス解消効果や幸福感増大の効果加えることにもなる、と。
まあ「怒り」心身健康害があるとして、そこで涙を流した時、多少その緩和する作用あるかも知れない、とも考えられますね。


「泣くこと」と心の成長成熟

そこにもう一つ考察加えることができます。本題にもなりますが、「泣くこと」「心の成長成熟」生み出すのか、もしくは何らかの関係があるのか。
上のネット記事でも触れられていますが、「泣く子は育つ」という言葉あったりする。これは本当か

これについては身近な人物事例2つあり、一人妹の子で、3、4歳物心ついた頃は、超人見知り慣れないことは何でも嫌がりすぐビービー泣くとしてもこんなに泣く子見たことがない程で、身内の間でも将来がちょっと心配・・という感じの子でしたが、それが育つにつれて明るい性格変化し、中学では何と生徒会長になり、身内の間でも驚いたというもの。

もう一人他ならぬ僕自身ですが、「よく泣いた時期」というのが僕の人生2つほどあります。
どちらも著作反映しており、一つ『悲しみの彼方への旅』大学4年頃、そしてもう一つが、ハイブリッド心理学の整理大きく前進した2004年から2007年頃43歳から46歳という時期でした。前者本のどの辺かはいいかとして、後者は、メール相談女性心の窮地思って泣いた(*1)とか、「自己操縦心性」起源「傷ついた自分自身への愛」であったのが分かった時、自分自身の心理学によって初めて涙を流した(*2)とか、「永遠の命の感性」獲得節目書いたものですが、「命」を看取った時、魂に魂が宿る。そこにおいて「愛」は永遠となる、と分かって泣いた(*3)とか。
それら涙の意味とは一言で、前者は、自分の病んだ心向き合いながら赤剥けの心就職もしくは大学院へという人生の進路向かおうとした苦しみでのであり、後者は、ハイブリッド心理学の執筆により「魂の機微」向き合う中でのだと言えるでしょう。
*1 理論編上巻 4章 「愛」と「真実」の混乱と喪失−1 「傷ついた者への愛」パラグラフ
*2 理論編下巻 5章 「未知」への大きな前進−2 「自己操縦心性の起源は「傷ついた自分への愛」だった!」パラグラフ
*3 入門編上巻 10 章 人間の真実「愛」と「命」 「「永遠の命の感性」へ」パラグラフ
(P.330)


いずれにせよそうした「よく泣く時期」というのは、心の成長成熟変遷対応したものだ、ととしては考えます。
心の成長成熟変遷とは、詳しくは省略しますが(*)一言で、
「依存の愛」から旅立ち、「自立の自尊心」を経て、「成熟の愛」に向かう。
というものです。
場合大学4年の頃「依存の愛からの旅立ち」であると同時心の病みからの抜け出し、そして40代中盤「成熟の愛」へと向かう人生特徴的な時期であった、と。
*詳しくは『概説』 4章 心の成長変化 ・心の成長変化のベクトル 4 「成熟」 など参照^^

この「依存の愛からの旅立ち」「心の病みからの抜け出し」そして「成熟の愛」といったテーマは、涙が似合うものだと言えます。
では場合はどうか。これはまだ「依存の愛」生きている中でののようだが・・。


良く泣けば泣くほど心が豊かになる?

・・と話が膨らむにつれ、話のテーマ自体良く分からないお感じの方出てくる気配ちらほらですが(^^;)、要は「泣くこと」上述のように脳内ストレス物質解消幸福物質放出加えて、心の成長ホルモン放出呼べるような効果があるのか、というテーマです。
つまり平たく言えば、良く泣けば泣くほど、心が豊かに成長成熟していくのか、ということです。より穏やかで安定した心で、自分から人を愛せるような、豊かな心へと・・。

上で「泣く子は育つ」という言葉引用しましたが、それは泣いたから育ったのか、ということです。泣かないと心は成長しない?
「寝る子は育つ」という言葉もあります。これについては、もう医学的にもそれが正解であるのが確かであるのはほぼ周知睡眠の中で身体成長ホルモン放出されるからです。
それと同じように、泣くこと心の成長ホルモンようなもの放出されるのか


「泣くこと」と「自己操縦心性の崩壊」

膨らませついでさらに話を膨らませると、病んだ心治癒としてハイブリッド心理学が考える「自己操縦心性の崩壊」も、泣くこと大いに関係があります。
・・とこれはついでの話というより、

>そこで泣く事が理想から自分を操縦する事からの脱出の役に立つのかどうか、

というご質問テーマそのもの関係してきますが、「自己操縦心性の崩壊」治癒大抵大泣きを伴います。恐らくその人にとって、人生で最大の大泣き一つに、まずはなるのが間違いないようなものとしてです。
その大泣き中で、あるいはその大泣きよって無意識の自分によって自分が操縦される、その病んだ心溶けて消えていくかのように・・。

これも詳しく省略しますが(*)「自己操縦心性」とは、最新整理としてはのように定義できるでしょう。
(*)まずは『概説』の 4章 心の成長変化 / (4)「心の死と再生」という特別形 -「自己操縦心性の崩壊」の治癒 などご参考

幼少期において意識破滅につながるような、破滅的自己否定感情を意識から切り離し葬り去る代わりに、思春期に発動する、半ば無意識化された自己理想化像を基準としたストレスに支配される心の状態、であると。
これが各種心身疾患土壌になるものと言えます。そして、
その情緒構造は「現実を見下し、自分を追い詰めることで自分を支える」という極めて理不尽なものであり、その治癒は、この心性が、ありのままの現実に立って生きようとする心の動きとの戦いに破れ、自らへの深い断念に至る、というものになる。
そうしたものとして、「自己操縦心性」は意識理性による修正はできず、その克服は、意識表面では一度「完全なる絶望」を通ることでまっさらで健康な心が生まれてくるという、「心の死と再生」の一形態になることへの理解がとても重要になる。

など言えるでしょう。ま最新最短定義文書いても、どうしてもこの程度の字数は必要になるもの。

そうして、「今までの生き方」への深い断念成されるのが、表面では「大泣き」として表われる、というわけです。


・・と大分長くなっていますが、ここまでが、「泣くこと」と心の成長とはどんなテーマかという、テーマそのもの理解のための視点洗い出しです。
これを踏まえテーマどう理解するか、そして島野の考え結論へと続けましょう。そしてご質問の文面垣間見られる、ご質問者本当の問題なのか、そしてそれへ取り組みどのようなものになるのか、へと続けます。3つくらい分けて入れが良いかと^^。


 
「泣くこと」と心の成長 概説^^(中) / しまの
No.1180 2016/05/16(Mon) 11:53:41

「泣くこと」と心の成長というテーマ

「泣くこと」と心の成長というテーマそのもの理解のための視点洗い出しから始めましたが、まとめるこんな話です。

まず基礎心理学からは、泣くという心身反応はおよそあらゆる種類の感情によって引き起こされ得るものであり、泣くこと単独に取り上げ心身健康への良し悪し言うのではなく、その時感情心身健康良いものであるかどうかずは問われるだろう。
それでも生理学的には、どんな感情場合であっても、泣くこと脳内ストレス物質解消および幸福物質放出つながるのが、かなり確かなことらしい。

そうした一時的ストレス解消および幸福感だけでなく、さらに人生通して心の成長成熟(「自らによって幸福になる能力の増大」)泣くこと寄与するのかどうかについては、島野の経験的印象2つ言える。
一つは、「よく泣く」ことが「似合う」とも言える、心の変遷段階というものがあること。「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という変遷における、「依存の愛からの旅立ち」「成熟の愛への向かい」です。
もう一つは、「自己操縦心性の崩壊の治癒」には、「大泣き」「つきもの」であること。まさにその大泣きで、自らの無意識によって操縦それる、その病んだ心溶けて消えていくかのように。

以上踏まえて、「泣くこと」と心の成長というテーマとは、ハイブリッド心理学からはこのようなことだと言えるでしょう。
それは、「泣くこと」が、心の成長変化5つのベクトル(方向性)である「成長」「治癒」「浄化」「成熟」「超越」(*)の、「成長」「治癒」そして「成熟」寄与するのか、というテーマである、と。
(*)『概説』 4章参照

それぞれ一言で、のような心の変化としてです。
「成長」・・・「現実」を生きる能力と内面の強さの増大
「治癒」・・・「病み」の傾向の克服解消
「成熟」・・・自分から愛せる感情、「自発的幸福」の増大

なお「浄化」「超越」はそれぞれ、荒廃しすさんだ心が清らかさを回復する変化、そして「自分」を超えたものを見出し「自分」という惑いを捨て去る変化という、特別情緒変化であり、今回「泣くこと」の寄与というテーマ考える上では、それぞれ「治癒」「成熟」一環としてまとめて考えるので良いでしょう。

つまりこういうテーマだということです。
ハイブリッド心理学では、心の成長を、あくまで生き方の全体が心の成長に向かった上での人生の体験の積み重ねにおいて生まれるものと考え、その中で「泣く」のもストレス解除リラックス状態の表れとして自然に起きるものと位置づけ、それ以上に「泣くこと」を単独に取り上げてエクササイズのように推奨することはしていないが、それでも、心の成長の歩みの中で、泣いた時に、泣かない時に比べて、単にストレス解除や一時的幸福感だけでなく、特別に「成長」「治癒」「成熟」の心の変化が促進されるような効果はあるか。脳内におけるストレス物質解除や幸福物質放出だけではなく、心の成長ホルモン放出が起きるようなものとして。
というテーマになる、と。


島野の考え結論

そうしたテーマとして「泣くことの効用」今回初めて僕自身の考えじっくり整理してみたのですが、その結果僕自身としてちょっと意外な結論になった次第です。
つまりまあ、泣くこと単独にエクササイズのように奨励するものではない、というのは考察整理しても変わるものではなく脳内においてストレス物質解除や幸福物質放出だけではない心の治癒成長ホルモン放出のようなものが起きるのかという問いについては、大方「ノー」という結論になるのではという感覚考え整理していたのですが、結論「イエス」に近いものへと至った次第です。

つまり泣いた時、泣かない時には起きないような、心の治癒成長変化が、脳で起きるようだ、と。単に一時的ストレス解消ではなく。
ではそれをエクササイズ化するのもアリかというにもなってくるのですが、これはやはり違う

どういうことかと言えば、まず一言で、単純な話ではないということですね。
考察視点を、を追って書いてみましょう。

まず単純視点として、寝ることで体の成長ホルモンが良く分泌されるのと同じ構図で、泣くことで心の成長ホルモンが放出されるようなことはあるのかという問い仕方をするならば、それは恐らくないだろうと。
理由は、もしそうであれば世の中が少し違って見えるだろうという、ごく主観的観察判断です。もしそうなら、良く泣く人だれもが、心が成長し豊かな人へと変化しているのがそれとなく見えるのではと。実際はそうではないですね。良く泣く人そうでない人も結局、結構な歳月でもあまり変わりばえなく生きている様子が、まずは私たちの目に映るものになります。
実際のところ我々自身「体が健康で丈夫に育つ人=良く寝る人」という図式問うなら、「うんそうだ」感じるでしょうが、「豊かな心へと成長する人=良く泣く人」という構図となると、まずは「そうかなあ・・?」という感じになるのではと。それがさらに言葉を足し「豊かで強い心へと成長する人=良く泣く人」という構図となると「えっ違うような・・」となるのではと。またそこで「良く泣く人」という言葉部分「あまり泣かない人」置き換えて考えてみても、「う〜んそれもどうかなぁ・・」という感じになるのではないかと思います。

つまりは、人生豊かで強い心成長することとに対して、良く泣くことというのは、やはりあまり一義的なことではない、ということになるのではないかと。やはりまず生き方と体験の全体ありきであって、そこで良く泣くかどうかは、人それぞれ個人差のようなものでしかない、と・・。


心の成長につながる泣き方とつながらない泣き方

それでもやはり泣くこと心の成長完全に無関係とは言い切れない側面問い方というのも、すぐ考えることができると思います。
たとえば、良く泣いて、豊かで強い心へと成長した人もいれば、泣くばかりであまり成長しない人もいる。この違いは何か。

ここでハイブリッド心理学視点が入ってきます。
一言でこれはつまり、泣く姿勢2種類がある、泣き方の2態がある、というだ、と。
一言で、「自分を支えられずに泣く」のと、「自分を受けとめて泣く」のと。前者心の成長につながらない泣き方であり、前者心の成長につながらる泣き方です。

これも説明を始めるとあまりに長くなる恐れがあり、まずはごく具体的例として分かりやすそうなものをあげると、前者典型「怖さ」泣くものです。たとえば注射が怖くて泣く子供様子
一方後者どんな感情で泣くものかというやや複雑で、それよりも実際人物例などあげると良いかと思いますが、今多くの人が知っているであろう例として僕にまず浮かんだのは、ソチ五輪フィギュアフリー演技を終えた瞬間浅田真央天を仰いだまま嗚咽した涙です。
平たい言葉を使えば、前者子供の涙であり、後者大人の涙とも言えますね。ただこの言葉使い始めると、全ての子供の涙が心の成長にはつながらず、大人の涙ならつながるのかといった、本質をはずした議論にもなってしまうかと思いますので、まずは「自分を支えられずに泣く」のと、「自分を受けとめて泣く」という表現にしておこうかと思います。

この両者違い、そしれ後者心の成長につながるというのは、ハイブリッド心理学大きな3つのテーマつながりになります。
ハイブリッド心理学著書の全てを通してこれを説明しているようなものになりますが、それぞれ一言書いておくと、
(1)「心の依存」から「心の自立」への転換(心の基盤テーマ)・・・「気持ちを人に受けとめてもらう」という心の基盤から、「気持ちを自分自身で受けとめる」という心の基盤へ。
(2)「魂の感情」への出会い・・・「心の自立」に立ち、失意超えて自分自身の「望み」を受けとめる先に、訪れるもの。
(3)「心の成熟」の最終メカニズム・・・「魂の感情」総合的燃焼量に応じて「自発的幸福」増大するという、シンプル法則による。これは我々自身「意識」超えて、「命」つかさどる
この十分な理解ハイブリッド心理学の全体学ぶというになりますが、簡潔にまとめたものとしては以下など参照
(1)『概説』 5章 歩みの道のり (2)真の前進へ / 「心の依存から自立への転換」(pdf版P.84)
(2)『概説』 4章 心の成長変化 (2)「心の業の捨て去り」と「魂の望みの感情」による心の成長の本格的前進
/ 「魂の望み」の感情の異質性(pdf版P.37)
(2)『概説』 4章 心の成長変化 (3)「浄化」「成熟」そして「超越」という心の成長の真髄
/ 取り組み実践による「心の成熟」への歩み - 3)「魂の望み」への向き合い (pdf版P.54)


そうして説明ならいくらでも膨らむような話として、心の成長つながらない泣き方つながる泣き方とあるけですが、ここでご質問へのアドバイス一つ差し挟めるのが、前者の世界だけで考えていないか、という見直し視点です。
そうだとどうしても「泣くという行為」が、不面目な弱さの露呈「善人ぶり」など、人目ありきになってくる。ま「心の依存」の世界ですね。
心の成長につながる涙の世界というものも、視野入れることを考えてみるか。すると質問全体変わってくると思います。この後者の世界では、もやは「泣くという行為」のは「行為」ではなく、あくまで「心身反応」になりますね。作為的ではなしの。

そうしたアドバイス的な話はまたこの後まとめてとして、泣くことの効用考察整理続けますと、ここでの「心の成長につながる涙」も、やはりあくまでその時その人行動や感情体験の全体心の成長つながっているのであり、泣くという心身反応だけ単独に考えれば、効用はあくまで一時的ストレス解消幸福感加えている、ということだけだと考えられます。
その心身反応は、心の成長ホルモンまで放出するようなものではない、と。

しかし、視点次に移すと、話が違ってきます。


体験を通して知る「泣くことで脳が変わる時」

そうして僕自身泣くことで心の成長ホルモン放出のような効果まではないだろうという感覚考察整理続けたのですが、最後のケースに至り、どうも話はそれでは済まない、というのが出てきた次第です。

『(前)』コメント触れた、「自己操縦心性の崩壊の治癒」の際の「大泣き」です。
その、間違いなく人生で最大の大泣きの一つになるであろう経ることで、に、「脳が変化した」という表現単なる比喩イメージではない事実であるように見えるような、すがすがしく軽快な心の状態現われるのですが、その際大泣きというのは、その治癒の体験に付随して起きたものというよりも、その大泣きが治癒を生み出している、少なくとも促進しているように見えるふしがあることです。

自らの、優に10回以上は超えるその体験通して、そのことを直感的感じ取りハイブリッド心理学整理の中で僕自身加速度的心の成長治癒向かう頃「今、泣く時だ」とばかりにどっと涙を出すようなことも何度かあるような感じでした。その尽きる頃自分自身とは別のものが自分の頭を持ち上がらせ、目線が上に向くような感じに。
そこで起きることとは、尽きた頃「自分が別の人間になっている」という言葉ぴったりのようなものとしてです。
また、メール相談開始(今は終業^^)ご相談者の「自己操縦心性の崩壊の治癒」立ち会うようなことも数度あったのですが、そこでご相談者大泣きしているらしい様子に、内心「しめしめ(^^;)、これでこの人も健康な心に回復するだろう」といった期待をし、また実際相談者その後に、本人自身で驚くような自分の心の安定変化体験していました。

*なお上記のような僕自身「自己操縦心性の崩壊」プチ体験記述しているものとして以下がありますのでご参考^^。
・初期原稿 『ケース・スタディ』
 02 ハイブリッド療法の姿勢と感情分析過程が典型的に現れた数日間の体験
  5■ 2002年12月10日(火)  自己分析(2) 埋もれていた自己欺瞞が明らかになる
執筆活動の中で唯一の、僕から相談援助を申し出た、深刻な人格障害女性との関わりの中で、僕自身自分の感情があったことに次第に気づき、「自己操縦心性の崩壊」プチ体験のようになったもの。
その時の日記紹介しています。以下が該当部分
--------
・・とまで考え、はっと気づいた。僕は確信を持って、吐き捨てるように、“克服しないんだよ!”と自分に言った。
 そして何と泣き出してしまった。まさに、これが答えなのだ。それ以外には何もない。最も分りやすい例題としてサイトにも紹介できる。その皮肉を思い浮かべ、笑いながら泣いた。--------


涙によって「ストレスから生えた心」が消える

そのように、泣くことで、一時的ストレス解消や幸福感超え「泣き終わった時、別の人間になっている」とでも表現できるような効果あることがある。
これをどう考えるか。
一考すると、面白い答えました。

まず泣くことで、脳内心の治癒剤心の成長ホルモンが放出されるという単純な図式のものではないという考えは、変える必要はないと思われます。もしそうなら、良く泣く人全て心が健康で強く豊かに変化するでしょうから。実際はそうではない。
つまり泣くこと直接的脳生理作用は、あくまでストレス解消だという考え変わらないわけです。
そしてその一環として、「泣き終わった時、別の人間になっている」いうようなこと起きることがある、というもののように思われるわけです。

どういうことか。つまり基本として起きているのはやはり「ストレスの解消」なのですが、そこで起きているのは、心の内部でのストレス解消いうよりも、心の外部土台におけるストレス解消考えると、実にしっくりとします。
つまり心の内部ストレスが消えるのを超えストレスから生えていた今までの心が、消えるわけです。


「命」の領分へのつながり

キモは、ハイブリッド心理学が考える心の成長変化が、「今の心」維持した中での調子の良し悪し変化ではなく、「今の心」「新たな心」へと意識土台から変化していくような変化言うことにあります。
するとそれ意識努力意識体験による心持ち変化というレベル超え生理構造的レベル起きることであり、人間の場合「心」「命」からはがれているものであることにおいて、ハイブリッド心理学が考える心の成長変化は、基本的「心」領分ではなく、「命」領分にある、ということになります。

そう考えるならば、「泣くことが似合う」という「成熟」、さらには「成長」一般においても、泣くことストレス解消ではなく、心の変化の促進になることも考えられるように思われます。
たとえば「成熟」については、「心の成熟」最終メカニズムについて触れ、それは「魂の感情」総合的燃焼量に応じて「自発的幸福」増大するというものだと述べましたが、実際どのよう「魂の感情」燃やし尽くされればどう成熟するのかは、結局「命」が支配する、というのがになります。
つまり、泣くこと直接的効果ストレス解消であったとしても、それが「命」につながる心身反応であることにおいて、「心の成熟」メカニズムも、より直接的に作用させるものになることが考えられる、ということです。

「成長」
という基礎的変化も、同じ話になります。それは上記のように「現実を生きる能力と内面の強さの増大」であり、「現実を生きる能力」そのものについては「泣くことの効果」ないでしょうが、「内面の強さの増大」という側面については、涙を流す体験によってより強く促進されるかも知れません。これは何か自らの手痛い失敗を通して生き方を学んだような、痛みを伴う成長体験について当てはまるでしょう。


泣くことの「成長」「治癒」「成熟」への効果結論

かくして結論こうです。
ハイブリッド心理学が考える「成長」「治癒」「成熟」という心の変化ベクトルへの、「泣くこと」効用とは以下の通り。

まずそれは「心の病みの傾向の解消」である「治癒」において、泣くことによるストレス解消効果がさらに、「ストレスから生えた心」解消効果へと拡大することで、「泣き終わった時、別の人間になっている」とでも言えるような劇的心の治癒効果生むことがある。

「成長」「成熟」ベクトルにおいては、「治癒」ベクトルにおいてほどの直接的作用ないが、それでも「泣く」という心身反応「命」への接点であることにおいて、心の変化がより促進されることが考えられる
ただしこれは「愛」主テーマとなる「成熟」比べて、「現実を生きる能力」「自尊心」主テーマとなる「成長」ベクトルでは、泣くこととは無縁な、力強い前進行動による成長促進より主体になる言えるであろう。

さらに、「ただし」として言えるのは、これら全てが、泣くことに効果があると聞いて泣く努力をするのは、全くの無駄であり効果がないのは火を見るより明らかです。
心の変化を生むとは、自意識超えた心身反応、「魂」の反応として起きたものであり、それを開放したときに、上述のように心を変化させる効果がある、ということです。

また、泣くこと単独に心の変化効果を生むのではなく、本人の生き方姿勢と、その時の体験そのものが「成長」に方向づけられているのが前提であるのは、言うまでもありません。『(前)』コメント述べたように、堰を開くことに相当するとして、堰の前後の水路が、稲の苗を植えられた田に豊かな水を正確に導くものなっていないと意味はない、ということですね。


以上今回テーマへの僕自身の考察整理として、ご質問文面拝見して感じたことなど、簡潔に書いておきましょう。


 
「泣くこと」と心の成長 概説^^(後) / しまの
No.1182 2016/05/21(Sat) 09:42:38

以上踏まえて、ご質問へのアドバイス簡潔にまとめておきますと、まあ一言で、
泣くことを単独に取り上げてその良し悪しを考えるのではなく、心の成長の全体に取り組む。
一言尽きますね^^。
それに向かうならば、ご質問全体が、もう違うものになるだろうと。

そうしてご質問文面一つ一つへのコメントここではもう省略してよろしいかと思いますが(おおまか^^;)一つだけ、

>私の望みは最終的に泣かない。そして理想から自分を操縦しようとしない、です。

は、それがまた「理想から自分を操縦する」ことになってしまうと思います。
考え方としては、「〜しない」という「消極形」理想望み考えると、「理想から自分を操縦する」ことになってしまう。
それを「〜する」「〜できる」という「積極形」理想望み考えるように取り組むそうするならば、その望み理想自分にとって真のものであるならば、それに向かって「自分を操縦する」ことは、何の惑い混乱持たないものになると思います。
望み理想自分にとっての嘘を含むものである時、「自分を操縦している」というそのストレス不毛感が、問題として表面化するわけですね。

いずれにせよ、ハイブリッド心理学の全体取り組むかどうか選択になりますね、ということで、ご質問への懇切なコメントというよりより僕自身の考え整理することを主旨としたトピックでした^^ゞ
アドバイスとしては正真正銘上記一言なんですけどね^^。

p.s
あっあとこれどーでもいい話ですが、最近全然泣かないですね。
その後確認したところ過去掲示板
『泣くのは体にいい』 しまの No.104 2003/10/31
で、「なんか2日に1度以上は涙を流しているような気が」なんてこと書いていますが、もう雲泥の差で、TV見ててもパネラーがボロボロ泣いていても「良かったじゃーん」口角上げて見ている程度グッとくるもの「こんな話あったんだー」関心しますが、もうここ数年も流してないかも知れないほど、感情の起伏少ない今日この頃です。
これは基本的に、『(前)』コメントで触れた、僕自身「永遠の命の感性の獲得」節目で、もうあまり涙を流さなくなった、という流れのように感じています。が、「心」から「命」につながる堰だとしたら、「心」がおおかた「命」つながった時、もうその堰も役目を持たなくなっている、ということかも知れない、などと考える今日この頃です^^。


被軽蔑感を流す / こたろう
No.1163 2016/03/09(Wed) 02:27:46

現在完全にパニック状態です。就職前なのですが、会社の全ての人間の首を絞めたい、刺したい、そんな衝動ばかりが出てきてきついです。わずかでも愛想よくする事が許せない、なのに営業という立場で、しかも技術的な提案などよりも、足繁く通って、接待などが大切だと言われていました。そんなことはとてもではないけど出来ないという感覚で、すべての社員を刺し殺したい、と。

もう一社はシステムズエンジニア職で、明るさを要求されなそうだから、という理由で選択肢に残していましたが、こちらも全て殺したい、というような暴力的な衝動が出てきて、そのような感情を持ったまま同期の中に入っていき、ガチガチの姿に困惑され、困惑された事に対しての怒りで相手をめちゃくちゃにしてやりたい、、、、という衝動。こんな精神状態で研修を受けて、周りの有名大卒の同期においていかれ、敵意、休憩中に心を閉ざす姿勢から同期に質問もできず そもそもこんな勉強したくない、なぜこんな事になったんだ、全員殺してやる こんな風な事ばかりが頭に浮かびます、、、。


流しても、口をつむいで無口でいる事しかできない、、、それを軽蔑されないとは考えられない。こんな衝動をかかえた人間が働いて良いとは思えない。
困惑する上司を、こんなことしたくないんだよと刺したい。


昨日はサバイバル世界観だから、プログラミングを、覚えて手に職を、、とか考えてそっちにしようと思うと、勉強する事への激しい抵抗と、強烈な敵意と、、、。



無理だからアルバイト、、、なんの夢もないフリーターなんてゴミクズ、、、はじめればそこにいる人間を殺したくなり、、、こんな事ばかりが頭をよぎり、もう身動きがとれません、、、、。


流しても、軽蔑を受けたという形で体は反応してしまうんですよね?
それに対して「自分なんか悪い事した?なんでそんなにびびってるの?」と思われる事は避けられないように感じ、相手を刺したい刺したいという衝動がむくむく、、、。
未熟をみる目なんてあるんでしょうか。弱さならばまだしも、こんな攻撃的で人を人としてみずに、まるでロボットを相手にしているような態度でも、、、
そうじゃないと、わずかな愛想でも絶望的に自己嫌悪が、、、ロボットを相手にするように話しても同じですが。

もうつかれました。暴力的衝動を持ったまま、勉強もしながら仕事をするというのはハードルが高すぎるように思います。絶望的です。
もはや対処の仕方がぜんぜんわかりません。
内面感情はうちにとどめる、、、留めても、もはや隠しきれなく思います。

本当の望みは、人を楽しませることで、楽しませるなんてことをお前が考えていいわけがないだろうとの言葉で、涙しました。しかし、こんな風な感情になると、人を楽しませる事なんてできるはずがない、望みに向かえないと絶望的です。

何回もおえっと嗚咽が出ています。
対処できることはあるでしょうか。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう
No.1164 2016/03/09(Wed) 16:37:32

対人恐怖であることがバレたら、裏切り行為だとみなされて、失望、強力な怒りを向けられるに違いない、
アットホームな職場環境で浮く事への憎しみと、それがみとられての困惑、怒り、殺したい、殺したい、こんな事ばかりが浮かんできます、、、。
いくら仕事内容に精通しても、愛のない姿に、なんだこいつは、変なやつを営業として採用してしまったな、どうなってるんだこれは?と思われて、一人浮いて、殺意を抱くイメージ、、、、。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう
No.1165 2016/03/09(Wed) 23:18:17

成長を見守る、という目線が本当にある事が信じられません、、、。最初からそういうつもりで雇われてたなら、わかるんですが、そうじゃないのに、客前でオドオドしたり、顔がひきつってたりしたら、最低の烙印を押されるとしか思えない。本当にあるんですか?震えたりするのを、そして他人に対して冷めた、ロボットのような声色の人間を、成長を見守るという目線が、、、、。

あったとしたら、挙動不審な人を殺したいくらい軽蔑してるのは自分自身なんですね、、、、。それがまた、自分に帰ってきます、、、。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう
No.1166 2016/03/11(Fri) 08:54:34

これらを流しても、生気のない焦点が定まらないぼーっとした状態になってしまい、 どうしたの?と言われてしまうんですよね、、、。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう
No.1167 2016/03/14(Mon) 12:42:45

申し訳ありません。全く建設的でない、ただパニックになっているだけの記述をつらつらと。

そして、これらの感情の葛藤が極限に達して親に当たって大号泣してしまい、強力に自己嫌悪しています。もう、死ぬ・・・と。

死ぬ・・・というのはポーズで、見せつけによる「甘い嘆き」だと思っていました。
しかし、自ら力を入れて前に進もうという感覚を全て捨てたとき、固まってしまいました。
静まったそこにあったのは、人生への悲しみ。
なんだ、全部嘘だったのかと。本当は、ずっと虚無で、死にたかったんだって。

しかし、それさえもポーズになってしまいました。
その状態で親の前にでて、爆発してしまいました。
自分がなにを考えているのかももうわかりません。


感情と行動の分離といいますが、この先、このような状態になると、
声がでなくなったり、非常にか細くなってしまったりします。
死んだように眠り・・・、次の日が仕事の場合、どうなってしまうのだろうと。


他人に対しての敵意と憎しみ、暴力衝動、アットホームな職場の全ての人間への
見下し感情、隠している自分への吐き気がするほどの嫌悪感、力を抜くと死んだ魚のような
目になってしまう・・・。

一巡目はいいんです。最初の憎しみを流せるなら。しかし、何日もいれば絶対にわかられてしまう。
見下し、敵意・・・。愛があるかないか、そんな事は一時間もすれば誰にでもわかると思います。
そして愛のない人間は、誰にでも見下し、嫌悪される。

出会い頭の「被軽蔑感」は錯覚かもしれませんが、しばらくした後の被軽蔑感は本物としか思えませんし、建設的に行動していても、それは隙間時間の会話などで絶対わかります。

これがぬぐえない限り、絶対働く事はできないとしか思えないです。

拭おうにも、どう言われてもそうとしか思えません。


愛のない人を受け入れられるのって、そうとう心が円熟した人ではないでしょうか。
苦しいです。優しくされると、それに応じて明るい反応をしなければならない拘束感に、吐き気がします。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう
No.1168 2016/03/14(Mon) 13:30:25

豊かな内面感情によって愛される事も、荒んだ感情によって嫌われる事も、
存在の善悪と地位の一つのコインの裏表・・・その不毛さを理解する事が大事、ってありますよね。

そこがわからないです。

豊かな内面感情によって人は愛されるとしか思えません。
荒んだ感情によって人は嫌われるとしか思えません。

荒んだ感情の人が建設的行動法をしているかどうか、それとも内面感情が豊かな人が
建設的行動法をしているかどうか、そのくらいの事はみればわかると思います。

そして前者は、悪だとしか思えません。その嘘こそが、強烈に嫌悪してきたものでした・・・。


 
「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」への対処^^(前) / しまの
No.1169 2016/03/15(Tue) 20:46:21

とりあえず頭3つ入れて頂いたところまで見てアドバイスまとめているところですが、外面行動法の考え方と、内面感情の向き合いかなり毛色の違う話になり、話を簡潔にするのが結構難しいので2つに分けます。
まず外面行動法の考え方について。


一貫した取り組み実践手順

「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」といったものへの対処は、まずは一言でこう言えるかと。
そうした悪感情をどう直接的短絡的に解消できるかではなく、それらはただ流しながら、それとは別の前進感情をどう見出すかの取り組みになる、と。

取り組み実践手順としては、一貫したものになります。
「外面・内面・外面」じっくり取り組む。まず外面行動建設形・健康形での選択肢を考え、内面向き合い最終行動決断する。
辞典「「取り組み実践」の進め方」

上記のような、就職向かおうとする状況というテーマで言うならば、
@自分の気がかり材料を込みにしての、職種による就職選択の考え方の適正化
Aそれを踏まえて、自分はどうできそうかの内面向き合い
B最終決断

という取り組み手順になりますね。
「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」どうこうしようとはするものでないことにご注意下さい。それらは何かの不合理な思考や姿勢から生まれたものかもしれないとして、まずはとにかくそれとは別に合理的な前進を見出すのが取り組みです。それができれば悪感情動揺自然と消えるかも知れないし、原因となった不合理思考姿勢分かるかも知れない。


「就職選択の考え方の適正化」

ということで、まずは最初「就職選択の考え方の適正化」ですが、「こう見られる・・」という受け身思考ではなく、これこれの職種はこれこれの能力資質などが重要となり、自分はこう行けるという、自分自身の考え方をしっかり築くことに取り組むのが重要ですね。
それで言いますと、

>営業という立場で、しかも技術的な提案などよりも、足繁く通って、接待などが大切だと言われて

は、確かそうだと僕も思いますし、それが自分には無理だと感じるのであれば、他の職種を選ぶしかない。

>システムズエンジニア職で、明るさを要求されなそうだから、という理由で選択肢に残して

は、「明るさを要求されなそうだから選択肢」にとできず設計やプログラミングなどの専門技術求められ、それが自分能力適性のあるものだと感じるのであれば、かなり向かい得る候補になる、というになりますね。

>本当の望みは、人を楽しませることで、楽しませるなんてことをお前が考えていいわけがないだろうとの言葉で、涙しました。しかし、こんな風な感情になると、人を楽しませる事なんてできるはずがない、望みに向かえないと絶望的です。

仕事はまずは、「人を楽しませる」ことを行うものではありませんね^^; 社会経済沢山役割歯車成り立っていますので、まずは自分がその中でできるものを行って、収入を得るというのが始まりになると思います。

>対人恐怖であることがバレたら、裏切り行為だとみなされて、失望、強力な怒りを向けられるに違いない、
>成長を見守る、という目線が本当にある事が信じられません、、、。

上述のように、対人恐怖があるかどうかではなく、その仕事が必要とする能力資質があるかどうか、ですね。もちろんそこに偽りがあれば、いずれやっていけなくなる。
成長を見守る目線以前としてですね。「今必要なことができるか」という目線まず基本になると思います。それをに、何が必要か、自分に何ができそうかという、自分の考え持つことが大切です。


というのがまずは「就職の選択可否」といったごく外面的限定テーマへの考え方になりますが、内面側にある「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」については、かなり大きな内面方向性選択のテーマになりますね。
それを後編また後で^^。


 
「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」への対処^^(後) / しまの
No.1170 2016/03/17(Thu) 20:48:18

「心の構造の問題」

上記アドバイスコメントがまずは「就職の選択可否」というごく外面テーマへの答えの考え方として、「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」という内面感情への向き合い視点を、まずは一言でこう言えるかと。
それは外面問題に対応した感情動揺の問題ではなく、心の構造の選択の問題なのだ、と。

心の構造の選択の問題であるとは、それは抜け出さない限り、どんな外面問題に際しても同じように現れてくる、ということです。
今回就職に向かう場面。それはに、その心の構想の問題引き出した外面課題であるに過ぎない。就職という特有の課題が起こした感情動揺ではない。
その心の構造の問題があるなら、その感情動揺別の場面では、家族においても現れるだろうし、学校でも現れるだろう。さらには、特に相手を特定せず社会全体を相手現れるかも知れないし、道ですれ違う全ての他人を相手に、現れるかも知れない。
金太郎飴のように。・・という喩えいいかどうか^^; というかちょっと言葉の遊びで言ってみたかった喩え^^ゞ

ともかくまずは、感情動揺がそうして外面問題そのものへの反応というより、心の構造の問題の表出なのだというのを、漠然と、あるいはうすうすとでも感じれば、外面課題と内面感情動揺をいったん切り離して、外面課題はごく外面的行動学的な答えによって淡々とこなすという可能性も、多少は見えてくるかも知れません。
それが今回就職選択という課題については、上記アドバイスコメントのようになる、という次第です。
まこれは応急措置的段階ですね。


「愛されることを求めて相手を破壊攻撃する」という心の構造

そうしてまずはその金太郎飴的感情動揺(結局使う喩え^^)と、就職とかの外面課題切り離し後者ごく外面行動学によって対処する一方余力内面感情動揺じっくり向き合う、というのがまずは取り組み方法になると思います。

じっくり内面向き合い視点は、その感情動揺は、「愛されることを求めて相手を破壊攻撃する」という心の構造だ、というものになります。
それは「絶望感」至るのが必至心の構造だと言えます。愛されることをめ、愛されない時怒りに転じ、愛されようとしたその相手破壊攻撃することで、まさに大元愛されたいという望み自ら完全に打ち砕くのだからです。
この心の構造基本形言えるものは、人間以前の高等動物の段階すでに芽生えている、かなり本能的なものではないかというのが僕の考えです。これは『理論編上巻』
5章 「愛」と「真実」の混乱と喪失−2  −心の真実への断片−

心の真実への断片−1:怒りに変わる愛
詳しく解説していますので一読あれ。

その原稿に話したような姿「愛されることを求めて相手を破壊攻撃する」という心の構造の、まあ「本能形」呼べるとして、人間場合は多少分析的捉えることができます。変化へのとなる、意識姿勢要素などの視点でです。
・人からの愛情への欲求願望の強さ。これは未熟から始まる心の成長において健康なものです。
・怒り破壊に価値を置く攻撃性。これも未熟帯びやすいものですが、意識思考として「破壊から建設への選択」どう向かうかが、この人その後心の成長人生大きく影響します。
・「自尊心」を「愛されること」「打ち負かすこと」に置く姿勢。これも未熟帯びやすいのですが、ここにターニングポイント的心の歯車連結発生することになります。
つまり、愛情への願望から始まる心の動きが、うまく愛されない時、ただ愛されない不幸ではなく、自尊心を損なわされた、つまり「軽蔑された」「バカにされた」という屈辱反応に転じるという歯車連結です。
これが、切羽詰った状態であるほど、3つの歯車強力に回り、互いにバッティングを起こしながら連結して、自分は愛されないという屈辱憎悪収束する、というメカニズムだと言えます。

ということで、愛されない悲しみ怒り変わるのがこの心の構造「本能形」
それがさらに屈辱憎悪発展するのが「人間形」と言えます。
そしてもう一つ、そうした屈辱憎悪が、本人相手との本来の関係性とは不合理な不釣合いさ他人に向けられる姿です。無差別的な「全ての他人」向けられたり、あるいは最近の事件で言えば、告白して断られたという理由相手をめった刺しにして殺害した、予備校生の事例
詳しい考察記述省略しますが、ここには「宇宙の愛」こそが真実であり自分に向けられるべきという幻想意識、それに満たないもの「ニセへの憎悪」を、「空想と現実の逆転」の中で生み出すという、「自己操縦心性の嘘」絡むといった話になるかと。『理論編』の世界ですね。
これがこの心の構造「人間の業(ごう)形」になるかと。


抜け出し

とうことで、まず最も大きく俯瞰した時の指針は、書いて頂いたような、
「就職選択」という課題と、「被軽蔑感と暴力衝動と絶望感」という内面感情動揺は、全く別の問題なのだ、という一言につきます。
両者を、別の問題として向き合い対処する必要がある、ということです。

就職選択課題については、ごく外面的行動学的な答え添って対処する。
内面感情動揺は、自分心の構造への向き合いになる。

まず必要なのは、その2つの問題を分離する、ということになります。
そのために、
就職選択課題については、客観的に見た自身の能力・資質・適性によって選択判断する・・・前アドバイス内容への理解納得向き合う
内面感情動揺については、上記個々の歯車ごとに、別のものへの転換を見据える、というものになります。
感情動揺が強くなり辛くなったからといって、別のものを選ぼうなとしても無理でしょう。まずは、今までの自分の姿勢が、今の感情動揺の母体であることを、自覚することからになると思います。
そして今すぐに「選ぶ」ことなどできないとして、別の方向性があることを、自分の心の目の前にしっかりと据えることからです。
破壊攻撃ではなく、「生み出す」ことに価値を置き、愛されるために何かを演じるのではなく、ありのままの自分の現実を原点として、できることから行っていく
それを、客観的現実空想しっかり分けて、外面行動は客観的現実を相手に行うこととして始める。
じっくり書く一冊の本になるようなですが、手短に書くとそんなことになるでしょう。


ということで、残りの部分については、

>豊かな内面感情によって愛される事も、荒んだ感情によって嫌われる事も、存在の善悪と地位の一つのコインの裏表・・・その不毛さを理解する事が大事、ってありますよね。そこがわからないです。

そういう話は書いてないと思います^^; 書いているのは、絶対的な理想基準からの自己賞賛と自己嫌悪が一つの不毛なコインの表裏であり、「成長」という豊かなコインは別のものだといった^^。

>豊かな内面感情によって人は愛されるとしか思えません。荒んだ感情によって人は嫌われるとしか思えません。荒んだ感情の人が建設的行動法をしているかどうか、それとも内面感情が豊かな人が建設的行動法をしているかどうか、そのくらいの事はみればわかると思います。そして前者は、悪だとしか思えません。その嘘こそが、強烈に嫌悪してきたものでした・・・。

そういうこともあるでしょうが、「就職」「仕事」そういうテーマの場ではあまりないですね^^。「善悪」よりも、「役割」「能力・資質・適性」とかのテーマの場
先のwさん質問へのアドバイスコメント
『「焦りなく作業する技術」 本格解説^^』 しまの No.1162 2016/02/25
のようなテーマ思考法行動法扱うのが、就職仕事です。
内面の豊かさによって愛される云々といったテーマは、内面の問題として分けて、またじっくり向き合っていけばいい。それがまずはアドバイスです^^。

>客前でオドオドしたり、顔がひきつってたりしたら、最低の烙印を押されるとしか思えない。本当にあるんですか?震えたりするのを、そして他人に対して冷めた、ロボットのような声色の人間を、成長を見守るという目線が、、、、。

仕事の内容いかんだということですね。もし今そうなってしまうとすれば、まずはそれでも可能な仕事から探す、ということになると思います。そうしたどん底からのスタートという成長への目を、まず自分自身に対して持つことが人生の第一歩になります。

前アドバイス内容からじっくり検討してみて頂ければ^^。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう
No.1171 2016/04/10(Sun) 17:52:07

就職、仕事はそういうテーマの場ではない、という事ですが、現在新入社員で研修をしている期間で、浮いてしまっています。当初は、「被軽蔑感」を空想として流しながら、建設的な行動を心がけていましたが、豊かな、というか当然であるともいえる、一般的な愛を持って交友関係を培ってきた同期の皆への強烈な敵意から、会話がなかなかできず、支離滅裂な発言をすでにしてしまっています。話せば話すほど、言葉につまります。目標としては、オドオドしてもいいので、敵意ではなく人に向かっていこうという態度を出そうと思っていましたが、屈辱感が強すぎて、お前の愛など必要としていないという風に装うという衝動にどうしても抗えず、誰ともあまり口を聞かずに、ピリピリした空気を出す、という態度になってしまいました。会話もどうしても受動的になってしまいます。また、そのような自分が一度人の目の中でさらされてしまったという絶望感から、研修の中で行われるグループワークなどでも萎縮した自己を出す以外の選択肢がなく・・・全員に壁をつくっているのに、作業の時だけ突然饒舌にしゃべりだすという気持ち悪さに耐えかねてですが・・・。結果的に、傍観者のような立場になってしまい、チームワークに支障が出ています。フィードバックの共有をチームで行いましたが、「もっと参加したほうがよかった」とか「ほとんど発言がなかった」という風に言われます。自分の態度が問題であると思います。なぜか、発言をしていないのに、おもいついた事を突然言って、あとは君たちが考えてくれ、とでもいうかのような傲慢な態度になってしまっています。また、どうせ嫌悪されるから、と人と目を合わす事も避けてしまい、一人一人自己紹介をして少し話す、という課題では、途中で話す事がとぎれ、イライラした面持ちで目をそらしたりしています。私はあなたとは知り合いになりたくありません、必要な情報以外の話を私にしないでください、そのくせ、自分が話したいと思った時には友好的な感じで会話をしてくれ、とでもいうかのような態度を、すでに外面印象において与えてしまったと思います。周囲は、「〜さん」という呼び方をすでに卒業し、あだ名や君付けで、業務外でも飲み会などが開催されています。「楽しみの共有」を、自分の興味がない事には一切触れない、という風に勘違いしたわけではないですが、むっとした態度で参加するのも気が引けて、このような状況になりました。学生の延長のような、ワイワイガヤガヤしたやりとりも、遠い記憶を掘り出せば、できない事はないですが、もう心がそう動いてくれません。


一度そうした形になると、そのことばかりが気がかりになってしまい、
必要な準備とかもできず、また日直などで必要な行動(鍵を開ける、朝のスピーチ)なども
上の空になってしまい、自分が何をしているのかを把握するのも難しく、それがさらに非軽蔑感のイメージになり・・・という有様です。


分かり合い認め合う事が愛だとは思っていないですが、自分自身は宇宙の愛が与えられるべきであり、理解されるべきであるという論理の感情はありますね。

困るのは、周囲の話を聞いているとやはり、「分かり合い認め合う」ことによって関係を築いてから、「喜び楽しみの共有」をしているように思えることです。
なんというか、「喜び楽しみの共有」というと、相手と自分との間にある対象物でのみのつながりに終わるという感じがします。僕自身、その方が気が楽です。初対面、その場限りの関係ならそれで全然楽ですね。しかし、実際には、それを通して相手自身に興味を持つ、そして相手の個性「〜さんは〜なところがあるからなぁ」といったやりとりによって交友を作っているパターンが多いです。

「分かり合い認め合う」事について、健康な人は、そこまで闇を抱えていなければ、
あるある〜という形で、深刻でないレベルの辛さや苦労などの「認め合い」で仲を深めているように思えます。


●それは外面問題に対応した感情動揺の問題ではなく、心の構造の選択の問題なのだ、と。

については承知しています。選択・・・難しいですね。


 
具体的場面ごとの行動課題・「人の内面感情の健康形」への理解^^ / しまの
No.1173 2016/04/17(Sun) 10:27:45

具体的場面ごとの行動課題で考える

>就職、仕事はそういうテーマの場ではない、という事ですが、現在新入社員で研修をしている期間で、浮いてしまっています。

そうですね、取り組み実践としては、
・具体的場面ごとの行動課題を正確に把握する
・外面行動法の答えを知るだけではなく、そこでの人の内面感情の「健康形」についても理解する

というのが重要になります。
それによって、「自分は浮いてしまっている」といった感情動揺場面において、外面行動の答え見出す同時に、そうした内面動揺単に押さえつけるのではない向き合い生まれてくると思います。

まず「具体的場面ごとの行動課題」について言えば、研修中グループ演習課題の時間と、それ以外親睦のための時間とは、行動課題違ってきます。
前者の場合は、それこそ完全「親愛」「浮く、浮かない」切り離して、演習課題の内容そのものをテーマにする必要があります。それをしっかり押さえることでグループ活動をこなし後者親睦時間では行動がうまく取れず浮いてしまうというのを、何とか補えるというのが、僕自身の経験を踏まえても、向かうことができる路線になると思います。
まあ前者(演習課題)については答えがすぐ出せるが、後者(親睦行動)生涯の歩みを通して自分なりのものを模索するしかない、というようなものになるというですね。だからこそ、後者巻き込まれず前者取り組みまずこなし後者取り組みへの足場にもしたい。
このアプローチ全体感よろしいでしょうか。


「投影」「外化」への注意

「人の内面感情の健康形」については、ずばり、「人の内面感情」として自分が感じ取ったもの信じ込まないこと、そして人の内面感情というものを画一的に考えないことが重要です。
ぜひ注意したいのは、「人の内面感情」として感じ取ったものが「ありありと見える」かのように感じるものほど、「妄想」という性質を帯びている可能性があることです。

これは「投影」「外化」などと呼ぶ心のメカニズムで、自分の心の内部の感情を他人に映し出して感じ取るというもの。
解説としては以下などがありますね。初期の原稿の方が扱っていますが、
『「自己建設型」の生き方へ』収録6.対人関係を阻害する「外化」
理論編上巻 6章 「自尊心」の混乱と喪失−1「「荒廃化」と「外化」の中で進む心を病む過程」パラグラフ
など、時間の折一度じっくり読んで頂ければ。


「人の内面感情の健康形」への理解

そうした心のメカニズム留意しながら、さらにより大きな視点から、「人の内面感情の健康形」を理解するためのポイントは、次の3つの観点からして、人の内面感情を外見様子などからそう簡単に推し量れると考えない方が良い、そして感じ取れたと感じたものを信じ込まないのが良い、というものになります。
つまりまあ、「人の内面感情の健康形」を理解するとは、人の内面感情は自分にはそうは分からないものであることを理解するのがポイント、ということになりますね。

3つの観点とは、人の内面感情を人が感じ取ることについて、一般に言えること「未熟」の影響「病み」の影響です。
それぞれごく手短に書きますと、

一般に言えること・・・人の内面感情本来「見えない」ものであり、それを感じ取るというのは「空想」に過ぎない。まあ完全にそうは言えない面あるかも知れないが、人の内面感情比較的正確に感じ取るのが可能なのは「痛い」「心地良い」「暑い」「寒い」「旨い」「不味い」といった生理的感情であり、複雑な社会行動場面での感情といったものになるにつれて、人の内面感情正確に感じ取るのは難しくなる。

「未熟」の影響・・・人の内面感情感じ取ることが可能なのは、自身が体験して「知っている感情」の範囲だけにおいてであり、この点で、「未熟」段階の心は、より成長成熟した段階の心の感情を「感じ取る」ことはできない

「病み」の影響・・・心の病みの程度比例して、「空想」を「現実」と思い込む程度、つまり上記「投影」「外化」によって「感じ取った他人の内面感情」「事実」「現実」だと信じ込む度合い強くなる。

ということで、

>豊かな、というか当然であるともいえる、一般的な愛を持って交友関係を培ってきた同期の皆

や、

>出会い頭の「被軽蔑感」は錯覚かもしれませんが、しばらくした後の被軽蔑感は本物としか思えませんし、建設的に行動していても、それは隙間時間の会話などで絶対わかります。
>荒んだ感情の人が建設的行動法をしているかどうか、それとも内面感情が豊かな人が建設的行動法をしているかどうか、そのくらいの事はみればわかると思います。

については、人の内面感情についてあまり画一的考えず、結局人がどう感じているか分からない面がある、と割り引いて考えるのがお勧めになります。


「無感情」「淡白」が健康形

そしてこれも僕自身の経験を踏まえて、「内面感情の健康形」とはこんなものもある、という知識出すならば、結構、相手人物については特に意識していない、何かを感じていない(別のことにもっと興味がある)というのが、かなり言えると思います。「荒んだ感情」でもなく「豊かな感情」でもない、「無感情」「淡白」(^^;)基本だったりもする。でないとすぐ疲れてしまいますね。
仕事のような不特定相手場面では落ち着くごとに感情は揺れなくなり、濃い感情家族恋人など重要な相手との関係で持つ、というのが「健康形」一つ参考基準になると思います。
つまりまあ、今の僕もし新しい仕事場研修などに置かれたら、回りの人荒んだ感情か豊かな感情かなんてものは意識しない、というようなとして参考にして頂ければ。

ただしそうした「健康形」考えることで動揺をなだめる、というアプローチではありません。あくまで、人がどう感じるだろうからではなく、自分としてどんな問題にどんな向かい方をするかという、課題解決への揺らぎない思考法行動法築くことが取り組みになります。人がどう感じるかについても、それを映す形で、より落ち着いた感じ方ができるようになると思います。

そんなものとして、上述のように、まずグループ演習課題の時間については、演習課題の内容そのものをテーマにするというのが、僕から提案アプローチです。
演習課題の内容を書いて頂ければ、成果物考え方など、より具体的なアドバイスもできるかも知れませんね^^。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう
No.1174 2016/04/17(Sun) 20:15:59

グループワークそのものの課題については、そこまで困っていません。むしろ、グループワークがはじまるまで、全く相手との関係を築いていないのに、グループワークになると饒舌にはなしている事への違和感を持たれる事に困っています。
繰り返しますが、これがインターンシップや、一時の集まりなどであれば別ですが、今後も研修は長く続き、その後も情報交換が出来る事が望ましいです。

僕としては 会話が苦手なら苦手なりに、共通点を見いだす事、相手に、どういう人間なのかの一貫としたイメージをもってもらう事は、その場限りではなく、今後も付き合いのある同期として最低限必要だと思います。

トイレですれ違ったり、休憩時間に、目を反らして口をつむぐ態度は、明らかに問題ありますよね。


個々によって、コミュニケーションのスタイルが違うという事は、今更だけどよくわかります。
淡々と共通の興味について話しているようなコミュニケーションが好きな人もいれば、二言目には冗談をいうようなコミュニケーションが当たり前の人もいます。その人たちがお互いにプライベートでずっと過ごす事は考えづらく、そのような中でも最低限コミュニケーションをとって円滑な関係を築くものだと。



ところで、嘘のない自分、を考えると、
幼稚園児のようにコミュニケーションをしたいというのが出てきますが、これはどう捉えたらいいのでしょうか?

具体的にいうと、意味不明な言葉を連呼したり、
牛乳のみまちゅ!とか、おいちいね!とか。
相手にもそんな自分を笑って欲しいとかではなく、
当然のようにそれに応じて欲しいと。


もちろん頭には、そういう言葉を発する事を冗談と捉えて「何言ってんだよ笑」「馬鹿じゃないの笑」という思考が浮かびますけど、それは周りの人と円滑にコミュニケーションをとるために用意された思考です。

その下には、やっぱりそういうやりとりが一番自然体だ という感覚が控えているんです。


えー!すっごおい!やったあ!うれしいい!



とか、感情強制をやめようとすると、
すごく稚拙な自分が出て来るんです。
口をつむいで、まわりの様子を伺いながら、はにかんだ笑いを浮かべるような。


同時に、その感覚の中にいると、周りの同じくらいの年齢の人を、すごく年上に感じるんですよね。
お姉ちゃん、お兄ちゃん、遊んでよ!みたいな感じです。
当然、同い年で大人同士の遊びなわけですから、
そのような態度ではいられません。


その自分への強烈な否定感、絶対外に出してはいけないという拘束感があります。年齢相応のコミュニケーションをとるためには、年齢相応の笑いのツボを把握して、そこで笑ったりしないと、話になりません。けど、それが嘘だとしたら?
僕はどうコミュニケーションを取ればいいのかさっぱりわからなくなってしまいました。
そしてそんな自分に一番困惑するのは周囲でしょう。


 
「応用思考」の実践^^ / しまの
No.1175 2016/04/26(Tue) 10:34:50

ちょっと遅くなりました^^ゞ

>ところで、嘘のない自分、を考えると、幼稚園児のようにコミュニケーションをしたいというのが出てきますが、これはどう捉えたらいいのでしょうか?
>年齢相応のコミュニケーションをとるためには、年齢相応の笑いのツボを把握して、そこで笑ったりしないと、話になりません。けど、それが嘘だとしたら?僕はどうコミュニケーションを取ればいいのかさっぱりわからなくなってしまいました。

これについてはまさにアドバイスした通りです^^。
具体的行動場面課題ごと考えます。そこで自分として本心からこれが行動法として適切だと思える答え出せたら、それは「嘘」というものでもないでしょうし問題ないと思います。
問題そこで考えた行動法が、ハイブリッド心理学が考えるもの方向を共にするか。たとえば仕事場面であれば原理原則的なもの望ましいし、交友場面であれば、「喜び楽しみの共有として向かい、それが見出せないのであれば孤独を受け入れる」、です。

ただし内面においては、望み思いっきり開放する。これについては、
『実践詳説』
10章 「自らによる心の成長」と「人生の前進」の歩みへ

人生の前進と「望み」への向き合い
パラグラフ後半
===========
一般「欲求」「衝動」「願望」「望み」といった心のエネルギーの感情は、「これは感じていい」「こんなものを感じてはいけない」という風に、それが湧き出ようとするところ「検閲」し場合によって「抑圧」するというのではなく、まずは湧き出るままに、心の中で思いっきり開放することが、心の健康と成長にとって良いことであるのは言うまでもありません。・・(略)・・
===========

以降部分(P.175-176)読んで頂くと良いでしょう。

まあ指針的なものとしてアドバイスできるのは、上もそうですが恐らく既出紋切り型アドバイスになると思います^^; それで考えるとどうなるか、という「応用思考」実践して頂くと、前進つながると思います^^。これは
『メール相談事例集』
はじめに・「取り組み実践」とメール相談 / 自己独力での「学びの応用思考」へ
などご参考^^

いずれにせよ具体的場面ベースご質問頂けれれば、また懇切具体的アドイバイス返せるかと思いますので^^。


 
Re: 被軽蔑感を流す / こたろう
No.1178 2016/05/05(Thu) 22:02:51

場面ごと・・・ですか。
個人的には、「内面が成熟していない」事によってそういう風になるのだろうな、と思っていたので、それは外に出す感情(感情というか表現?)ではなく、内面にとどめておくものかと思ったのですが、、、。


それから↓

同時に、その感覚の中にいると、周りの同じくらいの年齢の人を、すごく年上に感じるんですよね。
お姉ちゃん、お兄ちゃん、遊んでよ!みたいな感じです。
当然、同い年で大人同士の遊びなわけですから、
そのような態度ではいられません。


の部分についてハイブリッド心理学から何か解釈はないでしょうか?


2chのスレッドでも、「心が大人にならない病気」だかなんだかのスレタイで、
ひたすら小さな子どものような発言を羅列しているスレッドがあり、
ああ、こういう人も多いのだなと、非常に共感しました。


 
「幼児返りした愛情欲求」への向き合い^^ / しまの
No.1181 2016/05/19(Thu) 06:55:43

>お姉ちゃん、お兄ちゃん、遊んでよ!みたいな感じです。当然、同い年で大人同士の遊びなわけですから、そのような態度ではいられません。の部分についてハイブリッド心理学から何か解釈はないでしょうか?

「幼児返りした愛情欲求」とでも呼べるものになるかと。

やはり「感情と行動の分離」で、「内面感情はただ流し理解する」ですが、そこから自分対人行動なり人生の生き方なりの前進への決断つなげることが重要になります。

>2chのスレッドでも、「心が大人にならない病気」だかなんだかのスレタイで、ひたすら小さな子どものような発言を羅列しているスレッドがあり、ああ、こういう人も多いのだなと、非常に共感しました。

まずありのまま「ただ流す」。それで似た人共感するのはいいとして、「で、どうするか」ですね。そうした人達コミュニティ作って一緒に遊ぶのをこれから交友活動とするか。そうした決断つなげていく。
そうした前進決断際して、心の健康と成長向かうために理(利)にかなったものか否か考えるものとして、「ただ流す」の次の「理解する」来るわけですね。

「健全性」「有用性」2つの視点になると思います。
「健全性」・・その願望欲求衝動は、健全なものか。それとも歪みや病みを含むものか。
「有用性」
・・その願望欲求衝動は、自分の生活と人生前進のための行動に、役に立つものか行動化して良いものか
まあまずは、最初の視点「歪みや病みを含むもの」は、次の視点大方は「ノー」になると思います。
一方、最初の視点「健全なもの」あっても次の視点「ノー」になることもある。たとえば血気盛んな若い男満員電車薄着うら若き女性密着した時、ムラムラっとするのは健全(^^;)だろうが、行動化してはマズい

「幼児返りした愛情欲求」については、
まず「健全性」は、幼少期の純粋なその感情心の中で蘇るようなものは、健全な範囲でしょうし、それが「魂の愛への望みの感情」であれば向き合うことにとても意義がある感情だと言えるでしょう。
一方、歪みを帯びてくるものとしてまず考えられるのは、同年代対象との対等な友愛築くことへの深刻な障害がある場合に、穴埋めのようにそうした衝動への執着とそれによる膨張起きてくる、というものです。そうした「障害」「執着」「膨張」といったものの度合いが、「病み」度合い言えるものとしてです。
一方「有用性」は、歪みを帯びたものはもとより、健全な範囲のものであっても、もちろん持ちえませんね。少なくとも成人望ましい行動としては。
ただまあ同じようなメカニズムで、性欲対象が異性人物ではなく異性が身に着ける物品などに執着する「フェティシズム」などに比べ犯罪行為につながる危険度少ないと感じますね。まドン引きされる程度^^; 相手健康な成人である限り。

ということで、

>場面ごと・・・ですか。個人的には、「内面が成熟していない」事によってそういう風になるのだろうな、と思っていたので、それは外に出す感情(感情というか表現?)ではなく、内面にとどめておくものかと思ったのですが、、、。

は、そうした幼児的感情はもちろん、内面にとどめるものになります。
重要なのは、その上で、自らが行動化し得る別の感情なり意志なりを、どう見出すかです。
それが場面ごとの、細かい学び向き合い模索試行錯誤の、積み重ねになります。
まあ一言で、
内面の問題感情の解釈は人(島野など)に聞けば一定の答えが出るが、前進への感情は自分自身で見出すしかない、一定の答えなどないものになる。その答えは問題感情の理解の中にはなく、問題感情を流し理解しながら建設的な行動を自分自身で模索する向き合いに立つ、足元の強さから生まれる。
などとアドバイスできますね^^。


(No Subject) / w
No.1161 2016/02/19(Fri) 18:34:05

 結果を意識せずに作業に集中する具体的な方法について解説いただけませんか。
 「焦りの解除」の記事で、出来た結果に意識が集中すると、目の前の作業がおろそかになる旨書かれていたと思います。自身、まさしくその状態であり、作業が少し進むたびに、「まだこんなにも残っている」、「もうあと少しだ」と、自分を鼓舞しながら作業を進め、へとへとになって作業を終えます。
 そのように焦って作業をした場合、一つ一つの作業内容がおろそかになり、いつのまにか作業目的がただ「早く終えること」になってしまっているのを感じます。その結果、再度やり直しが必要になったり。
 一つ一つの作業を丁寧にやるほうが結果的には効率的かもしれないですが、とりあえず早く終えて安心したい、という気持ちのほうが勝り、気づいたら作業に集中出来なくなって、「あーまだこんなにある・・・」とやる気がなくなってしまいます。
 自分としては、全体の作業の半分をとりあえずの目標にしてやるようにしています。半分を終えたら後は気分的に楽で、ゴールが射程に入るからか、作業がゴールというご褒美に向かって加速するからです。100やることがあれば、とりあえず50を目指す。50を目指すに当たって、25を目指す。25を目指すに当たって、13を目指す。13なら2時間程度でできそうである。その時点で着手する。ただ、13を終わった時点で、100を意識してしまって、「あーまだこんなにある・・・」と思い、不安が大きくなり、作業が手につかなくなってしまう。
 ただ、「全体を見て、今の位置づけを確認することも大事」とも思うので、作業に集中するだけなのもいかがなものかなとも思います。
 具体的な方法論を提案していただけるとありがたいです。


 
「焦りなく作業する技術」 本格解説^^ / しまの
No.1162 2016/02/25(Thu) 10:43:57

「焦りを解除して落ち着いて作業できる技術」といったテーマになりますね。
僕自身仕事経験なども踏まえて、本格解説など^^。


「焦らず集中して作業できる技術」の3段階要件

まず書いて頂いた状況考慮して、まず理屈まとめますと、3段階要件になる、ということになるかと。
1.一つの作業ごとの、自分なりの高品質な作業手順と必要時間の積もりを確立する
2.適宜の進捗管理による調整
3.その作業そのものに面白みや価値などの魅力を感じられること


1つ目「高品質な作業手順と時間積もり」よろしいかと。「これじゃーやり直し!」ならないよう、不具合なく高品質にその作業をやるための、自分なりの作業手順の工夫を、自己点検なども含めて確立し、一つの作業でおおよそどのくらいの時間必要かの目安持つ
ノウハウ的なポイントとしては、全速力でそれをやった場合の最短所要時間と、余裕を入れてそれができる通常所要時間という、2つの数字把握するというのが、「進捗管理」重要になってきます。

2つ目「進捗管理」は、ある程度大きなくくり作業の進み具合計画実績比較チェックして、があればそれに応じた調整行うものです。
例えば遅れが出ていたらスピードアップ、それでも挽回が難しいようなら、最終成果の目標「下方修正」したり「延期」したりする。予定より進んでいたら、後ろの作業余裕を多めにいれる、あるいは最終成果の目標「上方修正」したり「前倒し」したりする。
ここでのポイント2つ
まず「計画」上記「時間見積り」の、「通常所要時間」を使って計算します。これをカッコつけて(^^;)「最短所要時間」を使って目標を立てるのが、最終的な失敗が火を見るより明らかな、経験不測の人やりがちなものです。
そしてもう一つがまさに「焦らず集中して作業できる技術」になるものですが、こうした進捗管理調整作業は、そもそもの作りこみ作業とは完全に切り離して別に行わなければならない、ということです。
これをまさに、作りこみ作業が進捗管理調整作業を伴うものであるかのように行うのが、作業に落ち着いて集中できず、焦りによってミスを頻発しやすい作業姿勢です。最終結果目標間に合うかどうかが気になり、作業そのものに集中できなくなる。その結果ミスも起きやすくなり、間に合わない結果を招く。
書いて頂いた状況が、まさにこのやり方やってしまっているものかと^^。それを、適宜「進捗管理タイム」本来の作業とは別途で入れるようにすることで、「あとこれこれの間はこれこれのペースでやればいい♪」という安全線見極めることで、その「あとこれこれの間の時間」は、もうほとんど進み具合結果については心配することなく、本来の作業そのもの、つまり上記1で確立した自分なりの作業手順に専念した作業が、可能になるわけです。

ですので、

>結果を意識せずに作業に集中する具体的な方法について解説いただけませんか。

というご質問言葉尻(^^;)を取り上げて正確に言うなら、「結果を意識せずに作業に集中する方法」なんてものはない、というのが僕からのアドバイスです。
あるのは、「これで行けばよい結果になる」という意識に守られて、作業に集中できる、ということです。そのための技術として、「進捗管理」というものがある、と。
それは本来の作りこみ作業とは完全に切り離して行う必要があるというのが発展して、大規模なITシステム構築などにおいては、「進捗管理担当者」というのが開発技術者とは別に設けられるようにもなったりする次第です。

まずは以上2つのポイント「自分なりの作業手順と所要時間見積もり」「進捗管理」が、「結果をいったん気にせず落ち着いて作業に集中」できるための技術になりますね。
あとは、その作業多少とも面白み感じられるか。でないと、意識が結局、作業そのものよりも、いつ終わらせられるか・・という結果の方ばかりに向かってしまう。まこれはもう問題作業集中の意識技術ではなく、その仕事への適性あるかどうかというですね。今回のご質問テーマとはもう別のものですが、一応検討事項としてはそれがある頭に入れておけば良いかと思います。


具体例

具体例として、僕ならこんな仕事の進め方をする、というのを考えてみましたので書いてみましょう。
たとえば玩具のぬいぐるみ作成バイトパーツはできており最終縫製を行う。月から金9時から5時まで、昼休み1時間1日50個ノルマにて、最初の1週間見習い時給1,000円で、残業代はないが、1日50個よりも多く作れるようになれば自給アップも。ただし検品担当者不具合見つけたものはマイナスカウント、といった条件想定しましょう。

まず最初の1週間で、ミスなく1日50個作れるかトライです。一通りの作り込みをして、出来上がった不具合が出やすい部分について自己点検までして終了最初パーツをあべこべに付けてしまってやり直しとか繰り返しながら、やがて何とかミスがない形で作れるところまで習熟する。
ここでタイム計測8分かかる。余裕を含めて1個10分とすると、1時間6個、7時間作業42個
これではノルマ達成できないことになります。作業手順手先の動かし方工夫重ね6分でできるようになった。では1個8分計算してみると、1時間7.5個、7時間作業で52個これで行けそう、と。
これが3日目として、4日目には一日の作業配分検討、としたいところです。午前3時間午後4時間として、とりあえず午前20個(7.5*3=22.5)午後30個(7.5*4=30)とするか。チェックポイントを10個ごとに置くことにすると、午前10時半昼休みに入る12時午後2時半4時と・・あれっ終わりがうまく合わない。これは午前に余裕多目の20個を基準に計算したせいですね。
仕切り直して、午後3時ティーブレイク10分ほど取る習慣のようなので、午前22個(7.5*3=22.5)午後ティーブレイクまで2時間15個(7.5*2=15)残り2時間弱13個、をまずは指標にすると良いだろう。うん、これで決着、と。
あとは「進捗管理」どんなタイミングでやるか。まあなら、こうなればもう何個単位でというより、エクセルとかで1個目から50個目(さらにプラスもあり)ごとに、予定時刻あらかじめ埋めておき、実績時刻ブランクにした印刷して、一つ作ったごとに時刻を実績記入、というやり方を考えますね。予定時刻8分刻みで、まずは落ち着いて作業して7分くらいでできるペース基準にして、予定時刻との差異に応じて、次の一個もう少し早いペースで、あるいはかなりゆっくりでも大丈夫意識の上取り掛かる
これで作業していって5日目にはもうかなり落ち着いたペースで午後5時少しまえに50個作れるようになってれば、「おっ島野くん十分行けそうだね♪」とも言われる状況になるという算段
計画の立て直し発生部分なども含め、僕ならという思考過程例そのまま書いてみました^^。

ということで、上記例でも次の一個このくらいのペースでやればいい「意識の上」、と強調したように、「結果を意識せずに作業に集中」なんてことは全然ないんですね。「これでやればいい結果になる」という意識によってこそ、あとは結果を心配することなく、作業に集中できるということです。
ということで、「自分なりの作業手順と所要時間見積もり」「進捗管理」確立が、方法論です。
そこにおける「数字の確度」「チェックのタイミングの最適化」こそだと言えます。

なおそれこそ本当「結果を意識しない集中法」、たとえば時限爆弾解除作業恐れずできる強靭な精神鍛え方、なんてテーマハイブリッド心理学範囲外になりますのでご了承あれ。ま僕自身軟弱でひ弱な神経の持ち主自負しており(自慢できる話ではない^^;)、それでも焦り怖れ根本克服できる、というのを探求した結果ハイブリッド心理学になりますので^^。

検討頂ければ。もし上記例とは大分異なる種類作業についてということであれば、どんな作業かなど書いて頂ければ、それについても僕ならこうするという例をあげてアドバイスできると思いますので^^。


「仕事の普遍的スキル」

付け加えれば、上記の話「仕事の普遍的スキル」一つですね。作業への習熟過程と進捗管理を自分で構成できること。
こうした「仕事の普遍的スキル」身につくと、社会にある大抵の仕事こなせるようになってきます。このやり方で、一日の大半の時間を使ってもしまう「仕事」というものを、どうせやるならよりやりがいのあるものへと向かうのが、人生一つの大きな側面になりますね^^。


(No Subject) / こたろう
No.1159 2016/02/09(Tue) 22:43:53

最近は、 「望みを抑圧し、立派である事を目指す事によって何か立派な人物に愛され、すべての苦しみが帳消しになる」という価値観に気づきました。
これは、父や祖父を想定している部分が大きかったです。

父や祖父は、否定価値を持ち、自分を否定して、立派である事をしたときに評価くれるように見えました。

同時に、二人が両方とも、優秀でありながら人と解け合えない苦しみを感じているように見えました。
人に対して強がっているのは、弱さであり、望みを抑圧しているからであるようにみえました。


立派な人物に愛される事で、そのために被ったすべての苦しみが帳消しになる魔法を求めていたのだ、と思いました。
父も祖父も、自分の人生に精一杯でありながら、自分も幸せに出来ていない、弱い人間でした。
愛というベクトルでは、未熟だったんです。
彼らに愛されて、そのために被った苦しみを帳消しにしてもらう事は不可能でした。


そして、彼らを超えるより立派な誰かにも、それは出来ないのだろうなと思いました。
それがあると思いたい、というのは、宇宙の愛を世界に求めた世界観の結果だと思います。
宇宙の愛を望む自己に入り込み、その中から世界を見つめてみました。電車では個々人が個々人の人生を生きていました。その部分に入ると、それが衝撃的な事実に感じられました。全ての他人が自分のために生きているはずなのに、だれも自分の事を見ていない。
日常意識では当然だと思っているのに、その部分に入ると、軽くパニックになります。

それを完全に受け入れたわけではないですが、
それをきっかけに、他人が自分の高貴な苦しみを評価して、それを帳消しにする事なんてありえないんだ、と感じるようになりました。

それは、内面の苦しみを帳消しに出来ないのと同時に、外面においての物理的な援助も、否定価値によって自分をむち打っている事を評価して僕に与えてくれる人はこの世界にはいないのだと。

今まで騙されつづけていた。立派であれば、自己否定していれば、幸せにしてやる、と言われていると思っていた。
しかし、それができる物は存在せず、ただの虚構だったんですね。


見渡せば、自分を否定して別人を演じる事を全く求めておらず、ありのままの自分でいる事を子供に対しての一番の望みとしている人もたくさん存在すると、今は思います。
否定するどころか、否定せずにいる事を求めている人もいるのだ、と考えると、そんな中で生きられたら、どんな自分でいられただろうと。
そんな自分は、腹の底に生きていて、これからこの押し込められた自分を、表舞台に引き上げられるなら、何て素晴らしいことだろうと。

僕は、否定する事自体が立派であるという空気の中にいて、それを自分の生き方として受け入れた。それによって、自分自身が押し込められる事を正しいこととし、押し込めた側の作られた自己で人間関係を作ってきてしまった。非常に悲しいです。


過度に自己否定を誇張したり、普通という基準に従って自分を攻撃するのは、少し和らぎました。
それによって評価してくれる何かがもはや虚構に思えるからです。

自分が汚れてしまっていても、自己否定や、人の中に入って望みに向かう事を、望む資格によって断ち切る事で、自分を幸せにしてくれる誰かがいないなら、
多少他人の迷惑になっても、望みに向かうのだと。



ここまでが最近の内面向き合いの進捗です。


ここから、行動の質問に入ります。


僕の中で、困っているのが、

1.人の世話になるのが怖い。
2.謝罪の時には罪悪感や自己否定がどうしても必要に思えてしまう。


という二点です。

1については、一定以上人の世話になるのが怖いです。
一定とは、感情をこめた感謝をしなければならないくらい、です。
例えば、1日で終わるような集まりで世話になったり、お金を払う形式的なセミナーなどでは、あまり恐怖は感じません。ありがとうございまーす。と軽く言えばいいし、そのくらいの感情は持っていると思えるためだと思います。

しかし、何日も世話になったり、お金を払わずに色々な世話を受けたりするのは、健康な心を持った人物であれば、ありがとうございますに感情が強くこもるのがわかるので、それが自分にないことにまず苦しくなり、かつそれを感謝する相手に見取られて人でなしだという目を向けられ、嫌われる、、、そしてそれに対して反発しようとする自分の心、、、といった状況です。
特に、世話になった側が複数で、その中で自分以外の人間が非常に感謝の気持ちを感じていて、表明している時に、その中に自分がいると、もうどうしていいのかわからなくなります。


感謝の気持ちが沸かないのは、やはり根底に宇宙の愛を求めている気持ちがあるからだと思います。
どれだけやってもらっても、やってもらって当然なのです。それどころか、たくさんやってもらうほど、実際には感謝を要求されているようで、感謝しなければならないという事がむしろ相手への敵意としてより強くなるようです。


行動法としては、自分が嫌にならない程度に、相応の感情を作り出して、それをこめて感謝を表します。
それが現状です。


2については、先日車をぶつけるという事件があった事からテーマにあがりました。すぐに、罪悪感を作り出して、表現しようと言う風に心が動きました。
罪悪感は作り出すものであり、実際には、ないんだと思います。めんどくさいな、何をしても許されるはずなのに、とこちらも宇宙の愛を求める気持ちが根底にあります。
ハイブリッド心理学では、罪悪感については、リカバーする行動が大切であり、自己否定は重要ではない。という事だったと思います。

罪悪感については、相手が自己否定感情を反省ととらえていて、それを見ることによって気が晴れるという人物だった場合には、有効だと思いました。

それなしに、リカバーの行動をするのは、
これやっときゃいいんでしょ?といった風にとられるとしか今は思えず、結局行動と共に自己否定感情を強く強制する形になってしまっています。


これについてはどうでしょうか。


 
「気後れ」「罪悪感」などへの取り組み実践^^ / しまの
No.1160 2016/02/17(Wed) 18:14:20

>他人が自分の高貴な苦しみを評価して、それを帳消しにする事なんてありえないんだ、と感じるようになりました。
>今まで騙されつづけていた。立派であれば、自己否定していれば、幸せにしてやる、と言われていると思っていた。
しかし、それができる物は存在せず、ただの虚構だったんですね。

>自分が汚れてしまっていても、自己否定や、人の中に入って望みに向かう事を、望む資格によって断ち切る事で、自分を幸せにしてくれる誰かがいないなら、多少他人の迷惑になっても、望みに向かうのだと。

「成長」、とくに「心の自立」向かう中で、感じ方変化出てくる一こまですね^^。

さらこんな目線も加えるいいかも、というのを言っておくなら、それそのように「騙された」のですらない、ということかも知れませんね。人が騙して押しつけたのではなく、自分自身でそうした虚構の世界観を解釈して、自分自身に押しつけていたのでは、と。
まこれは「言われていると思っていた」という言葉多少とも含まれているかと^^。
いずれにせよ、人にどう言われていると思うこと、さらには実際人に言われる可能性もあることを超えて、自分自身の生き方思考確立することが重要になる、と。
で、

> ここから、行動の質問に入ります。僕の中で、困っているのが、
1.人の世話になるのが怖い。
2.謝罪の時には罪悪感や自己否定がどうしても必要に思えてしまう。
という二点です。


それは行動の質問ではなく、感情の質問になってますね^^;・・というのはいいとして、それはまさにかなり細かい「行動法」問題になってきますね。
「行動学」です。

ハイブリッド心理学取り組み実践としては、具体的場面内容の、かなり詳細レベルでの検討になります。
「人の世話になる」「謝罪の時」といった大きなくくりではなく。
上の
>多少他人の迷惑になっても、望みに向かうのだと
というくくりにも関係してきますね。実際何をどう行動できるか。

「気後れ」「罪悪感」などへの取り組み手順としては、以下の通り。
1.行動法検討・・・社会行動として、また自己の成長のために、妥当な行動法はどうなるかの検討。
2.感情の健全形の想定・・・その場面で、健康な心であればどんな感情の揺れの範囲になるかを想定してみる。
3.自分の内面感情の分析解きほぐし・・・健全形を超えた感情動揺があれば、その原因を自己分析する。


まず最初1.行動法検討としては、
「人の世話になる」というであれば、どん間柄においてどんな世話になる範囲であれば、社会的に問題ないものであるか。また自分人生設計においてそれがどう必要かといった視点から、具体的場面内容についてじっくり検討します。
「謝罪の時」というであれば、相手にかけた迷惑や害というのものが、実際社会的に言ってどのように重い害なのかそれとも実はそうではなく各自の自由な権利の行使のことなのか、といった「害そのものの把握」、そしてそれに基づいて、「適切な謝罪および補いの行動法」どうあるべきかといったことへの、まず自分自身の考えをしっかり持つこと、そして実際社会においてそれが信頼されるものになるよう、洗練させていくことが人生の取り組み課題になります。

いずれにしても、「社会行動の原理原則」思考が、極めて重要になります。
その「原理原則」が、いかにこの社会において正しく、信頼されるものなるかです。でないと、自分は正しい意識の表面では考えながら、独りよがりで、社会行動としてうまくいかず心の底自分は社会でうまく行動できないという不安抱えたままで生きてしまいます。

ということで、まずは一にも二にも具体的行動場面内容に応じた社会行動法の検討取り組み入り口になります。
それが方向性ほぼ決する
2.感情の健全形の想定についても、どんな社会行動法健全で合理的考えるかで、おおよそ方向性出てきます。
そしてそれが自然と、3.自分の内面感情の分析解きほぐしにつながっていく。

ということで、「人の世話になる」についても「謝罪の時」についても、より具体的内容場面に応じて、上記検討手順にて何か取り上げたいものがあれば、さらに具体的アドバイス可能かと思います^^。

まあ完全にそうだったのですが、難解な心理を問うまでもなく、若く未熟とは概して人の世話にならざるを得ず迷惑もかけがちながら素直に感謝や謝罪ができないものなので、自分の未熟に腹をくくって上述の地道な取り組みに向かうが勝ちお勧めできますね^^。


社会を生きるスキルが大きく変わるのでは? / こたろう
No.1133 2015/11/05(Thu) 17:05:06

ハイブリッド心理学では、存在する(ように思える)レールでまずは仕事をする事により、この現実社会というジャングルを知る事、
まずその中で生きていく自信をつける事がスタートであるという論調があり、
それぞれの唯一無二の生き方というのは望ましいが、そうやって枠組みを作り終えた先に、心が現在の仕事に全く
向かわなくなる事を皮切りに、始めざるを得ない事である、とあります。

これは、仕事というものが何か平準化できるスキルによって、おおよそ同程度の教育を受けた人物ならば
代替できるものが多数を占めているという事が前提であるように思います。

最近、人工知能についてさかんに取り上げられています。何冊か本を読みました。
日本は比較的遅れているようですが、米国ではすでに自動化の波がホワイトカラーにも押し寄せているようです。
人工知能が、価値を生み出す過程で発生する、大量のデータをもとにしたリサーチ、情報を加工する事、伝える事、
理知的に相手の言っている事をくみ取る事、相手のニーズを把握する事、などの面で、平均的な人間の能力を上回るように
なってきているという事です。

ざっくりいってしまうと、「理知的な能力が必要とされる課題に対して、より早く正確でミスのない思考、分析、対処をする」事においては、
すでに人工知能に席を奪われている仕事が発生していますし、こうした性質の仕事はこれからどんどん奪われていく事は
間違いないと思います。

さらに、ロボットのハードの部分も進化しています。
3Dプリンターや、ロボットアームなどは、センサー技術の進化と共に、どんどんミクロな物を扱えるように進化しています。
これによって、空間認識力と肉体の動きを組み合わせた能力が必要とされていた、物理的な課題に対処する能力もどんどんアップしているといえます。


そんな中で、僕が考える今後も人工知能に代替されない仕事は以下のようなものです。


第一に、生み出される価値そのものに人間である事の意味が存在しているものです。消費者としては、対象となる人間そのものが商品であり、それが
コンピュータおよび機械になった場合、多くの人が「価値を感じる気持ち」を抱かなくなるであろう、と推測できます。
アスリート、ミュージシャン、ドラマや映画や舞台の俳優、お笑い芸人、ダンサー、大道芸人、マジシャン、マッサージ師、アイドル、風俗嬢やホスト、
レンタル彼女、カウンセラーなんかもそうですね。


第二に、生み出される価値自体には、人間は直接存在しないけれども、それを人間が「作った」事が商品の大きな付加価値になるものです。
舞台演出家、作家、映画監督、音楽家、何か人を感動させるような思いやストーリーを持った職人、料理人(この場合は、精巧で上質なものを作り出せるだけでは勝負できないと思います。空間認識技術と加工技術の向上で、精巧で正確であるという軸では近いうちに必ず人間は逆転されるはずです。)
このグループは、生み出される価値が「人間の感情の動きへの共感」を含んでいる事において、それを生み出した人自身の心情などに思いを馳せる事が
商品そのものの価値として付与される性質があるために、たとえ人工知能が発達する事によって、人間の感情のパターンがアルゴリズム化されて同じような成果物が作れるようになったとしても、この付加価値の差によって残り続けるであろう仕事だと思います。音楽家、料理人などを含む職人という括りでは、成果物そのものは単純な意味で「味覚」「視覚」「嗅覚」「触覚」「聴覚」を満足させる意味では人工知能には勝てなくなっていくでしょう。音楽も、人間の生理反応をモニターしてビッグデータ化すれば、人工知能にも「聴覚」を満足させるものが作れるようになるはずですし、料理に至っては正確な調理時間などを調整出来るようになれば、常に高いレベルの味を出せるようになります。この人が作ってくれたから」というストーリーとしての嬉しさを付与価値としてもてなければ、同程度の質を維持できたとしても淘汰されるでしょう。ストーリーとは、その人の思いや、哲学や、歴史における感情への共感です。
「ウマイもの」「上質なもの」ではなくて、そのストーリーを買いにいくといってもいいでしょう。


上記の性質がもはや前提として要求される仕事の他に、
上記の性質が付加価値になる仕事もあります。すぐに思いつく所でいうと、セールスマンや販売士です。
これらの仕事は、様々な能力が結果に影響します。今まででいうと、「より正確で細かい情報を常に把握していて、メリットデメリットをしっかり話してくれる事」が
大事な要素の一つだったと思います。しかし、これはビッグデータを扱える人工知能が得意とする所です。人間では限界のある膨大な他社製品との比較も、
コンピューターにとっては大した負荷ではないでしょう。さらに、嘘をつかれる可能性も非常に低いです。
自らが問題だと感じた課題を解決するためにニーズが生まれますが、問題解決にとって適切なものをニーズとして設定する事は、解決策になるものの分野に
詳しくないとなかなか出来ません。そのため、その分野に明るい人と話をする事によって、その方により適切な解決策を示してもらえるという事があります。
このようにニーズを掘り起こす、再設定する事が出来るのはセールスマンや販売士の能力として強いものの一つだと思います。そのためのコミュニケーションは、
相手の方の理解度などを図った上で言葉を選んだり、難しい内容を相手の方にあった形に加工して説明する技術など、「理知的に課題を解決するため」のものですが、まだ少し人間に優位性がある気がします。ただこれも、徐々に人工知能が出来るようになっていく事でしょう。例えば、その人の学歴やスマートホンの閲覧履歴などのデータから、その人にあった難度の言葉に文章を加工したり、その人にとってひっかかりとなる言葉を文章に上手くちりばめたり、といった能力は、
現在のamazonのあなたへのおすすめ、googleのネット広告などの技術の延長線上にあります。


ではその先に残る人間の優位性は何なのか?というと、
「より満足のいく、信頼におけるベストな提案ができる」事ではなく、
「その人といる時間、その人から買った事実が付加価値になる」事なんじゃないかと思うんです。

法人同士の契約においては、これに流される事は、特に質の軸が「正確さや精工さ」にある分野ではよろしくない事だと
思います。ハイブリッドの言葉でいえば、原理原則や科学的思考よりも、感情に流された判断をしてしまった、という事になると
思いますが、いうなれば、感情に流された判断を起こさせる事が出来る人材が、あえて人間にセールスをさせる上での
必須価値になるのではないでしょうか。何だかあの人は好きだから、一緒にいて気持ちがいいお客さんだから契約を続けている。
営業マンは商品の前に「自分を売れ」という、ある種古臭くも思える価値観が、価値としてより強まるのではないでしょうか?
それも、「より間違いのない良い提案が出来る」事は武器にならない中で、です。


個人が販売士から買う場合、その責任は自分に帰ってくるだけですので、
「その人といる時間、その人から買った事実が付加価値になる」事に流されてしまう可能性はぐっと上がると思います。
これも同じで、意識的、無意識的に最終的な成果物ではなくてその人といる時間やその時の感情、「ストーリー」を買いに行っているといえます。


看護師や介護福祉士や教員をはじめとして、対人的な仕事全般が同じような競争にさらされると思います。
特に看護師や介護士は「いたわり」といった気持ちを暗黙裡に求められやすい職種であるからなおさらですが。
教員は、すでにネットで大学の授業が全て受講できるようになっていたりしますね。理解度を図るためにはスマートホンで日々テストを行って、
自動的にレベルにあった問題が出るようなプログラムの方が、教員が一人一人を見るよりも、はるかに勉強の無駄を省けます。
逆に教員に求められるのは、その人と一緒にいる事によって人間的に成長できるような、直接的なコミュニケーションが出来る事であったり、
「思考力」ではない人間の能力を伸ばしてあげられる事でしょう。

つまり、こうした仕事において今まで一義的に必要だとされていた「理知的な思考、分析」「わかりやすい説明や相手の意図を理解するコミュニケーション力」、「肉体を使った作業」のみが出来る人間は、
人工知能やロボットにとって代わられるのは時間の問題であり、今まではあくまで二義的だった「一緒にいて楽しい、気持ちいい、リラックスできる、嬉しい」
など、ポジティブな感情を、生み出した成果物によってではなく、自分自身の身体表現、コミュニケーションによって人に喚起する事が出来る人間が、
職業人として生き残っていくという事です。
それが必須事項ではなかった職種も、徐々にそうなっていくのではないかと思います。


これが何を意味するのかというと、「社会に需要があるスキル」が全く変わってしまうという事です。
こうして、もともと重宝された能力が陳腐化するというのは、歴史においてずっと続いてきた事ですが、
僕としてはこんな事を思ったりします。
自分自身の身体表現や直接的なコミュニケーションによって人とポジティブな感情を共有する事につまづきを抱えた人間が、
社会で何とか自信を持つための足掛かりとして選べる仕事が、まもなくほとんど、なくなってしまうんじゃないだろうか、と。


最終的な価値に、人間が物理的に存在しないもの。正確さや精工さや効率が質の尺度になるもの。
それを生み出す事において、おそらく今まで多くの心につまづきをかかえた人が、なんとか生み出す自尊心を培い、それを支えに生きてきたと思います。
農家、工場労働、職人、エンジニア職、裏方と呼ばれる仕事、などなど・・・。プロセスや、誰が作ったか、その人の人格、
そんなものよりも、最終的にできたものの価値が重要だったわけです。

しかし、上記のように、僕が考えた限りでは、表現として、あるいはストーリーとしてのプロセスそのもの、誰が作ったか、その人の人格、これこそが
仕事として、今後社会における「人間」の需要になっていくという事はどうしようもない事実に思います。


それが、近い将来の「大自然としての社会」なのではないでしょうか?


そうなると、必要とされる仕事のスキルというのは、
今ある面白さをさらに発展させたものを生み出す技術、人を目の前で楽しませる技術、人にしかしてもらえない事を、この人にしてもらいたいと
思ってもらえるような技術、自分の体で、声で、言葉で、直接人を癒す事が出来る技術、遊びを発想する技術、遊び方を楽しく教えられる技術、こういったものになっていくのではないでしょうか。
二義的にこういったものが求められるとされた職種でも、です。
そして、一にも二にもこうしたものが求められない職種は人工知能と機械にとってかわられるでしょう。
理知的な思考力などが特別に優れている人は、人工知能の上に立つ立場として生き残りますが、
今後必要とされるレベルが上がるばかりですし、ごく一部の人に限られると思われます。


これは、大筋でいうと、自分自身が直接「愛される事」がスキルになるという事が多分に含まれる事になると思われます。
愛せるようになるための自尊心を築くために、社会において価値を生み出す事が必要になるならば、
それに愛される事が足掛かりとして、今まで以上に必要になる。

社会において有能であるという事は、自分から離れた成果物の価値によってではなく、
自分自身という人間が、プライベートで愛される事とほとんど同義になっていく。


つまりプライベートでは欠損をかかえながら、社会人としては自信を持って行動できるようになる、
という段階を経る事ができなくなるという事です。
これはいわば、顔の見える関係の中で生きてきた「村」の時代に回帰するようなものでもあるように思います。


こうなると、ハイブリッド心理学の「社会を生きるスキル」における、属人性を弱めた「開かれた世界」の行動法の前提が
揺らぐのではないでしょうか。もちろん分かり合い認め合う事を求めるという事ではないですが、「この人と」や「この人だから」が
重要なポイントになる事において、だれが、が重要になるという点。
仕事において、直接生み出そうとしている価値を価値言葉で話すだけでなく、
それ以外の話で、そして身体表現で、相手の感情を喚起できる事が必要になる点。
原理原則の判断を超えた、感情のレベルで相手を動かす事が出来る能力が価値として求められる点。

ここにおいては、最初から感情が豊かな人は勝ち組です。
対人的な仕事において、人を自分自身の身体表現やコミュニケーションによって喜ばす事が
出来る可能性が高いです。

さらに、世間的に求められる「立派」や「正しさ」を追い求めてきた人よりも、
自分自身の唯一無二の望み、嗜好をひたすら追い続けてきた人が、仕事にありつけるようになります。
なぜなら、その嗜好に対しての「思い」そのものが、その人の豊かな感情を引き出し、それ自体が価値であり商品であるからです。
本当に好きな人が好きなものを指導してくれる事、語ってくれる事は、その時間自体がそうでない人から伝達される単なる情報よりも
高い価値を持つからです。


これ自体は、ハイブリッド心理学がゴールとする生き方と親和性の高い社会の需要だと思います。
特に後者は。実際に今まで遊びだとされていたものが、どんどん仕事になっている流れがありますね。
もちろん唯一無二の生き方が、そういったものばかりではないですが、今まで「安定」と考えられていた仕事から「不安定」である
リスクを抱える仕事に、とされていた多くの事が、逆転するような事態も想定できると思います。


逆に言うと、「安定」を自尊心の足掛かりとして、そこから自分自身の唯一無二の望みを解放していく、という
プロセスが難しくなるのではないか、と思います。
最初から、その人が本当に望むものに、没頭している人が一番求められるようになるからです。


そして、感情そのものが豊かでない段階から、身体的で直接的なコミュニケーションにおけるプラス感情を喚起する能力が求められる事において、
人によっては容易に「自分を偽る事」につながってしまうような、
「面白さ」や「人を喜ばす」事の技術的な習得が、非常に重要になってくるという事。
感情強制につながりやすい、感情表現そのものが、仕事のスキルとして非常に重要になってくる事。


社会における仕事の需要が変化することで、
ハイブリッド心理学の色々な部分が前提として崩れてしまう感じがしています。


未熟でまだ論点がまとまりきってない部分もありますが・・・
考察をお願いします。


 
Re: 社会を生きるスキルが大きく変わるのでは? / tom
No.1134 2015/11/06(Fri) 09:32:10

突然横レスしてすみません。人工知能は未来の「提案」はできるのでしょうか。


 
Re: 社会を生きるスキルが大きく変わるのでは? / tom
No.1135 2015/11/06(Fri) 09:48:58

>社会における仕事の需要が変化することで、
ハイブリッド心理学の色々な部分が前提として崩れてしまう感じがしています。

うちの上司に聞いてなるほどそうかと思ったのは、生活が(先に)あって、仕事があるのだ、ということです。育児による休暇や休職に文句言わない人でした。
また人間は人工知能に従っても、地球は従わない。


 
Re: 社会を生きるスキルが大きく変わるのでは? / tom
No.1139 2015/11/06(Fri) 11:14:22

すみません、論点がずれてるかと思いますのでスルーしてください。邪魔して申しわけありませんでした。島野さん申しわけありません。


 
Re: tomさん / しまの
No.1140 2015/11/06(Fri) 11:28:59

了解です。もし関係するポイントがあれば手短には書くかもということで^^。
スレ違いの方は削除しておきます^^。


 
「ロボット優位社会」・「匿名性」^^ / しまの
No.1144 2015/11/09(Mon) 09:58:10

では引き続きこのご質問
テーマとしてはにこの2つかなあと読みましたが、

・「ロボット優位社会」とでも言えるものが到来した時、ハイブリッド心理学が言う「社会を生きるスキル」も話が違ってくるのではないか
・ハイブリッド心理学では「匿名性において生み出す」ということを言っているが、社会では「匿名性」ではなく「誰が」という「人物性」が重視されるのではないか

それぞれ手短に^^。


1.「ロボット優位社会は来ない」が島野の思想

まず、技術の進歩に応じて、社会で必要とされるスキル変化があるのはもちろんですね。たとえばかつてそろばん習字だったものが、今はパソコンインターネット、というように。
そうした、技術進歩に乗り遅れないことも重要。これはハイブリッド心理学以前常識になると思います。

僕の考えでは、起きるのは全てその範囲のことだ、というものです。ロボット人工知能いかに進化しようとも。
つまり、その範囲を超えた変化とは、人間ロボット(人工知能)関係が、のように変化する世界訪れることだ、ということになる。

【現在までの世界】
    上司(人間)
      |
 自分(人間)−同僚(人間)
      |
  道具(ロボット)


【新世界】
    上司(ロボット)
      |
 自分(人間)−同僚(ロボット)


こうした構図における「新世界」は、永久に来ない、というのが僕の考えです。
まあ少なくとも今そうだし、来年そうでしょう^^; なら、まず今の人間社会構造において生きていくスキル模索することだ、と。

こうしたテーマでの考え方のキモになるのは、
・「人工知能」が「意識」に目覚め独自の「感情」や「意志」を持つようになるなんてことがあるか
という命題かと思います。まSFの世界ですね。
僕の考えは、「No」です。人工知能「意識」を持つなんてことは未来永劫なく、それはあくまで電気回路の一つでしかない。
一応これについては、心理学コンピュータをどちらも多少専門的学んだ立場として、僕なりの哲学として整理しています。かなり過去原稿ですが、関心あれば以下一読頂ければ。
過去原稿 - 島野の心理構造理論
収録の、
「付 感情の科学論 - (4)意識はどこにあるのか−島野の仮説−」

いずれにせよ、人工知能膨大データ処理いかに進化しようとも、それらは「道具」過ぎないのだ、と。
使いこなせることが重要使いこなせないとは、道具逆に振り回されたり、道具過信妄信するといった姿です。そうならないように、と。
この点ハイブリッド心理学の思想本質は、かなりレガシーだと言えます。人間と社会の本質は、太古の昔から変わらないという、底流思想を持つ心理学です。
思想ですので、かなり違う人間観社会観を持つ別の思想や心理学もあると思います。どれを取るか選択ですね^^。


2.「高い人物性」への方法論としての「匿名性において生み出す」

に、社会では「匿名性」ではなく「誰が」という「人物性」重視されるのではないか、については、
・社会の目は匿名性から人物性へと向かう
とでも言えると思います。

たとえば村上春樹ほどになると、書いたもの小説であろうとエッセーであろうと長編であろうと短編であろうと、中身を見ずとも売れる
それが「人物性」の頂点姿として、最初「匿名性」つまり誰ともつかない者として、まずその行いの中身見るところから始まる

それが「社会の目」だとして、ハイブリッド心理学「匿名性において生み出す」は、そうした社会の中で、いかに自らの人物性を高めていくかの、一つの方法論だと言えます。
自分人物性高めたければ自分の人物性を追うのではなく、自分生み出す価値を追求することだ、と。自分という人物がどう見られるかという邪念超えてそれが逆に、自分の人物性を高めていくのだ、と。
ですのでこれは、「個人の姿勢」です。そこにおけるノウハウです。

個人の姿勢として、この「匿名性」「自己顕示性」「自己アピール性」というものになり、一般の仕事場ではちょっと敬遠されるもの、というになってくる。
ただ最初からタレント業目指すのであれば、「自己アピール性」についてのそれなりのノウハウ出てくると思います。からも多少は何か言えるかも知れない。
課題場面内容いかんですね。


いずれにせよ、ハイブリッド心理学としては、というか僕の執筆活動としては、社会文化論議論にはあまり手を出すものではなく、生活人生具体的場面課題ごとに、僕自身の社会人体験、人生経験見出したノウハウアドバイスするものになります。それを取るかどうかお任せということで^^。
ということで、より詳しく具体的場面課題材料ごとご質問ご相談をして頂ければ、より具体的アドバイスができるかと思います^^。


 
Re: 社会を生きるスキルが大きく変わるのでは? / こたろう
No.1152 2015/11/27(Fri) 12:54:38

ロボットが意志を持つかどうか、という話はしてないです。それも議論のある論点ですが、挙げた例は、別にそうならなくても実現可能性があると言われているものです。おそらくマネジメントやロボットを使う立場の仕事はなくならないですが、産業革命の時と違って、代替された作業の失業者に与えられる新しい仕事は、席としては圧倒的に少ないという予測が主流になってます。

問題設定は人間が基本的にはする事になりますが、その問題を解決するための、パターンから共通項や傾向を抽出する原因究明は人工知能が担う事になると思います。そこから新しい問いを生み出し、またそれをビッグデータを参考に検証し、という所までもが視野に入っているのが怖いな、と感じますが。


匿名性において生み出すのは、人物性を高めるための、、、またよくわからなくなってしまいました。その人に付随する能力は全て匿名性においての能力ととらえるという事でしょうか?僕の場合は、属人的でない、唯一無二性のない能力=匿名性において生み出すもの、と今まではとらえていたようです。

上のスレッドで言ったように、「価値そのものに人間が存在するもの」で生み出される価値は、僕は匿名性において生み出す物ととらえていませんでした。確かに、声楽家も村上春樹さんの例と同じで、最初はその「声そのもの」に惹かれたために、その人に惹きつけられるわけです。モデルさんも同じで、その人の「顔」に惹かれて、「たたずまいの美しさ」に惹かれて、その人に惹きつけられるわけです。好きなカフェの店員の、「距離の取り方のうまさ」「対応の物腰の柔らかさ」に惹かれて、通ったりするわけです。これも全て「匿名性において生み出す価値」と捉えていいでしょうか?


>自分の人物性を高めたければ、自分の人物性を追うのではなく、自分が生み出す価値を追求することだ、と。自分という人物がどう見られるかという邪念を超えて。それが逆に、自分の人物性を高めていくのだ、と。

→例えば上のカフェ店員の「対応の物腰の柔らかさ」も、生み出す価値の追求といえます。
  そのための身体作法、相手をリラックスさせるような声の出し方、そのための体の脱力技術、言葉の選び方、
  これも全て「匿名性において生み出す価値の追求」と位置付けていいでしょうか?
  全て「相手の方の安らぎという感情」をゴールにした価値の生み出しといえます。
  そしてこれは人間がインターフェースでなければいけない価値の生み出しです。

  で、提供される豆の選定、抽出時間、こういったものは、味覚がデータ化されれば人工知能の方が上手く出来る
  分野になります。こっちのほうの追求は当然「匿名性において生み出す価値の追求」として位置づけられるものですよね


 
「社会を生きるスキル」・「価値」と「匿名性」 再^^ / しまの
No.1155 2015/12/10(Thu) 10:06:42

遅くなりました^^。

「社会を生きるスキル」の定義

まず前半ビッグデータうんぬんについては、申し訳ないご質問テーマ何なのか僕の方でちょっと読み取れなかったです^^ゞ

まず一つ確認して頂いておくと良い点は、ハイブリッド心理学「社会を生きるスキル」という言葉言っているもの何かです。
これは、
・実際にその人が生きる社会を相手に、その人が「自分はこの社会を生きることができる」という自信を感じさせるような、さまざまなスキルの総合体
だ、と定義できます。

それは行動学であり、仕事のスキルであり、より広範囲対人的、生活的、人生的な場面の対処スキル総合体です。
自分はそれを獲得した、という自信持てるようになる、またそれが目標になる、人生の段階があるというをしています。僕の経験も踏まえると、まずは30代後半からの段階になる、と。


「スキルの構造」

つまり、「総合的スキル」と、それを構成する「素材スキル」「材料スキル」という、「スキルの構造」がある、というになりますね。
正確には、まずは以下のような3段階構造理解すると良いかと。

          (人生を生きるスキル)
              /  \(「命」につながるスキル)
   社会を生きるスキル
         /|\ ・スキルを舵取るスキル
生活のスキル 対人スキル 仕事のスキル
                     /|\ 
                  個別素材スキル
          (読み書き、身体技能、専門技術、etc)

より大きくは、「社会を生きるスキル」の上にさらに総合的「人生を生きるスキル」生まれる、という4段階があると言えますが、とりあえず今回の話の範囲ではないということでよろしいかと。

で、今回書いて頂いた話題は、個別素材スキルについてのものということになるかと。
これはもちろん、時代の流れに応じて大きく変化する、ということになります。
一方、総合的なスキルほど、その本質時代の流れ超えて不変だ、という考え「社会を生きるスキル」とは、そうして時代によって変化する素材スキルどう自分が持つべきかという、「スキルを舵取るスキル」重要な要素になると言えるでしょう。

ロボット技術などの進化に応じて変化するのは「個別素材スキル」レベルであり、それだけではまだ「社会を生きるスキル」にはなりません。そうした技術スキルどう舵取るか、から「社会を生きるスキル」関係してきます。
技術進歩によって、そうした総合的「社会を生きるスキル」にも大きな変化があるとすればロボット感情持つようになるといった事態起きた時だろうが、それは未来永劫ないだろうというのが僕の考えだというのを述べた次第です。

「個別素材スキル」個々の内容については、「ハイブリッド心理学」としてはあまり踏みこむものではありませんが、僕自身の社会経験を踏まえたアドバイスであれば、多少可能です。
ですので、

>そこから新しい問いを生み出し、またそれをビッグデータを参考に検証し、という所までもが視野に入っているのが怖いな、と感じますが。

これは実際どんな課題場面で、何に困っているというなのか、を絞ってもう少し具体的に書いて頂くと、僕としての意見アドバイスできるかも知れません^^。


「価値」と「匿名性」

>匿名性において生み出すのは、人物性を高めるための、、、またよくわからなくなってしまいました。その人に付随する能力は全て匿名性においての能力ととらえるという事でしょうか?

これもやはり、何の話をしているのかという、テーマ整理しておくのがいいですね。互いが別のものの話をしているのに気づかないまま、かみ合わない議論をしないよう。

「価値」「匿名性」については、今回のような話題範囲としては、3つテーマ事項分けることができます。

1.「価値」そのものの内容種類
「価値」そのものの内容タイプ
「容姿」「声・仕草」「文章」「曲」「デザイン」「レシピ」「製造技術」「社会行為」「品物」「制度」「手続き」エトセトラ、エトセトラ
これら全てが、「価値」あるものです。魅力価値経済価値効率性価値、などなど。

2.「価値」そのものの「人物性」と「匿名性」
上記のような「価値」社会供される時に、それが誰のものか、誰によるものかという情報同時に伴うかどうか。これを「価値の人物性」と呼べるでしょう。
逆に、誰のものか、誰によるものかという情報見えなくなる度合いを、「価値の匿名性」いう言葉呼んでいいと思います。

すると、「価値」内容種類によって、自ずとその傾向が出てきます。
上記内容種類書いたようなに、「価値の人物性」大きいと言えます。「容姿」となると、もうその人そのものですね。あとは名前出るかどうかだけ。
逆に、後ろのものほど「価値の匿名性」大きいと言えるでしょう。誰のものか、誰によるものかというのはあまり表に出なくなる。それでも場合によっては、例えば「アベノミクス」のように、誰が発案したかを冠する、「人物性」の高い「制度」があったりする。まその「価値」どう評価するかはまたによりさまざまとして。

ここまで2つ「価値」そのもの内容性質についてのであるのに対して、3つ目全く違うものになります。
それは内面の姿勢です。

3.「社会を生きる姿勢」としての「匿名性において生み出す」
ハイブリッド心理学「匿名性において生み出す」呼んでいるのは、個人内面の姿勢であり、「価値」そのもの内容性質話ではなく「価値」を生み出すことに生きようとする「社会を生きる姿勢」さらには「生きる姿勢」の、一つのあり方指しています。

前の方takaさん向けアドバイスとして書いた、
『「自己イメージ法」をはるかに超える成長へ^^』 しまの No.1147 2015/11/13
でも触れた、
『理論編下巻』
7章 人生の答え−2  −「魂の望み」への歩み−

「匿名性において生み出す」・「揺らぎない自尊心」への第一歩
での解説ベース理解頂くといいでしょう。
引用しますと、その定義とはまず、
------------
 より純粋な望みへと向かい、「生み出す価値」への目を育てることです。価値を生み出すのが「自分」だということにこだわらずに、生み出す価値そのものを、ただ高めることに意識を注ぎます。
 これを「匿名性において生み出す」と呼んでいます。
------------

とあります。つまり「価値を生み出すのが「自分」だということにこだわらずに、生み出す価値そのものを、ただ高めることに意識を注ぐ姿勢」です。これが「匿名性において生み出す姿勢」定義ということで良いでしょう。

そのきとして、以下のようにあります。重要な言葉太字にしました。
------------
 「匿名」であるとは、誰ともつかないということです。「未熟」から始まるこの道のりの常として、私たちはどうしても「自己顕示欲」の中で、「自分」がどう見られるか、一方で「誰が」どう人に見られているかという、結果イメージばかりに意識が向かいがちです。それがひいては、「こう見られなければ」「こんな風に見られてしまっては」と自分にストレスを加えるという結果を生み出すわけです。
 その視線を、価値を生み出すのが「自分」であろうと「誰」であろうと構わずに、生み出される「価値」そのものに目を向けることです。これが「人物を問わない」魂の感情に実によく馴染みます。
 これがひいては、足手まといの「自己顕示欲」によって動揺する自分を抱えながらも、それに惑わされずに安心して人と接することのできる、しっかりとした方向性を私たちに与えてくれるのです。
------------


ということで、ここで「魂の感情」という新たな視点が出てきています。
これについてはここではあまり話を膨らませずポイントは、「生み出す価値そのものをただ高めることに意識を注ぐ」という姿勢によって、「自己顕示欲による動揺を脱した、安定した対人方向性」向かうという、内面姿勢言っているものだということです。

内面姿勢ですので、そうした姿勢持つかどうかは、人それぞれです。「価値」そのもの人物性匿名性大小関わりなく
容姿声の出し方といった、人物性の高い価値を、ここで言う「匿名性において生み出す」という姿勢追求している人もいれば、「品物」という匿名性の大きめなものを、バリバリの自己顕示欲で追求している人もいるかも知れない。
ハイブリッド心理学の取り組みとは、もちろん、「匿名性において生み出す」という姿勢知り、その選択を自分に問う、というものです。
それが「自らの人物性を高めていくかの一つの方法論」だと言うのは、「自らの人格性」という言葉の方が分かりやすいかも知れませんね。それが「価値の人物性」として人の目出るかどうかさまざまとして。これはよろしいですかな。

ということで後段のご質問についても、まずは以上どう疑問等が残る再整理して、あればまた書いて頂ければ^^。


 
Re: 社会を生きるスキルが大きく変わるのでは? / こたろう
No.1157 2016/01/08(Fri) 17:46:19

前半の人工知能についてのお話、まずはありがとうございます。
納得できました。僕の疑問(というか不安?)としては、コンピュータの能力が人間の能力を現状以上に浸食することで、仕事のスキルの中の個別具体的スキルが、非常に高度な知的能力が必要とされるものと、対人の仕事における豊かな感情表現や、非マニュアル的な対人能力(内面の感情の豊かさが大きなアドバンテージになる。)に二極化する事によって、どちらもそこそこである所をスタートラインにするような仕事が減り、仕事のスキルにおける自信を培う事が出来なくなる人が非常に増えるのではないか、という事でした。
そして自らも、そこに残っていれるのだろうか・・・と。

また仮に、機械の生産能力や人工知能の能力が飛躍的に高まった時に、仕事をしなくていい人が多数派になる時代が来るかもしれませんが、その時に残っている「生み出せる価値」は、やはり自らの肉体を使って人間の感情に直接訴えかけられる事(人物性の高い価値の生み出し)が「生み出す価値」の主たるものになる、と。


「価値そのもの」と「価値を生み出そうとする姿勢」の区別については参考になりました。一応例を考えてみて確認したいのですが、人物性の高い価値を「匿名性において生み出す」というのは、例えばモデルさんや、ダンスなどのパフォーマンスをする人が、
「自分が素晴らしいと思われる」というよりは、純粋に「美しさやパフォーマンスのインパクト、相手に起こす事が出来る感嘆の感情をより膨らませるには?もっとエキサイトして楽しんでもらうためにはどういう風に表現する?」といった視線を持つ、という感じでしょうか。

そこを混同していたので、人物性の高い価値を追求している=自己顕示欲が強い、という構図がなんとなく出来てしまっていました。それが人物性の高い価値について追求する事のブレーキにもなっていたかなと。

ただやはり、人物性の高い価値の中で、自らの身体表現(声、動き、仕草、顔)が実際、価値を受け取る人の五感で感じられる「商品の一部」になる場合、感情の豊かさの土台は
非常に重大な事に思えます。
身体のパフォーマンスは、精神面と非常に関連していますよね。ある程度までは形になっても、どうしても「ふさぎこんだ」感情があると、体に固さが生まれます。
ダンスなどではその差は如実にわかります。ふさぎこんだ感情が、物理構造的に体を縮こまらせてしまいます。解放された身体から生み出されるパフォーマンスは、ただ歩いている姿を見ているだけでもうっとりしてしまいますし、見ているだけで自らの体も緩んでいきます。

有名な整体師の片山洋二郎さんという方が、書籍で、
人間の体は無意識レベルで共鳴しているという事を書かれてました。
直接触れる事がなくても、対面している状態で起こっているという事です。
怪しげなスピリチュアルの書籍であれば信頼できませんが、
長年の他者の肉体観察から導き出された答えだという事で、
なるほどなぁ、確かにそういう部分もあるだろうなぁ、と。


また、直接触れる場合は、さらにそれが顕著になります。
これは自分自身が受けたロルフィングというボディワークで起こって観察した事です。
非常に高いレベルで緩んだ体の方に触れられると、揉んだりしなくても、触れられた部分の筋肉が同期するように緩んでいくんです。施術者の技術というよりは、施術者の身体水準(脱力)が高度であればあるほど、施術効果が高まるという事です。
逆に、緊張した体を持った人に触れられると、それに対して反射的に筋肉に力が入り、
いくらマッサージされても一向に筋肉が緩まない、それどころか受ける前よりも疲れる、という事が往々にしてあるようです。


僕自身が、できることなら仕事としても追求したいなぁと思うのは、こういった「人物性の高い価値」・・・
人物性というよりは、「肉体」を伴う価値の生み出しといった方が適切かもしれないですが、そこでは「柔軟で脱力した肉体」がパフォーマンスを発揮する上での礎であるというのが現在持っている感想です。

そしてあるレベルまでは、物理構造的に適切な体の使い方を工夫したり、
脱力を体に覚えこませるようなワーク、あるいは施術を定期的に受けるなどで
身体の水準を高めていくことが可能なのですが、あるレベルを超えようとすると
やはり「精神的な緊張」が体の脱力、パフォーマンスを向上を阻みます。対人場面での自己操縦心性による圧迫、反射的に嘘の自分を演じるスイッチが入る事で、体が不自然な形に固まってしまう事。


そこに突き当たる事がわかっているので、やっぱり自分には望めないんだ・・・
という絶望感があります。ただ、これが本当に追求したい望みであるならば、
実現する上でのネックが自己操縦心性である事がはっきり見えて、そこで「崩壊」が
起きるのかもわかりませんが。


しかし、先んじて「外面的スキル」を向上させる事が必要という事なので、
やはり難しいのかな・・・と感じてしまいます。


なので、「人物性の低い価値」、「身体の緊張度などがあまりパフォーマンスに影響しない仕事」を選び、そこにおいて「仕事のスキル」の自信を身につける事によって、精神の緊張度由来の肉体の緊張を軽減させて、それからやれるなら、そっちのもっと純粋な望みとして感じられる分野を・・・という風に自分を納得させようとしています。


まとめますと、このように、

「人物性の高い価値」は、「匿名性において追求」する事はできますし望ましいですが、
需要があるのはやはり「あるレベルの精神の健康、開放度があるからこその、脱力した肉体」を身につけられた人物。
「人物性の高い価値」を「匿名性において追求」する場合は、ある時点から物理的に肉体の脱力を維持する技術だけではなく、精神面が必須になってしまう。
であればやはり、精神的不具を抱えた人物が、人物性の高い価値を仕事として
追求するのは困難である事が多いのではないか。

という質問になります。


 
「障害」による「困難」の克服探求が人生^^ / しまの
No.1158 2016/01/15(Fri) 10:16:05

>精神的不具を抱えた人物が、人物性の高い価値を仕事として追求するのは困難である事が多いのではないか。という質問になります。

それはもちろん、「障害」があればそこに「困難」発生する、と言えますね。「困難」生み出すもの「障害」言うという、言葉の定義そのものでもあるでしょう。
それは人物性の高い価値仕事としようとする場合限らずにです。人物性の低い価値仕事としようとする場合でも、たとえば高度な身体障害があれば、それに見合った困難生まれる、ということになると思います。
ですのでこれは「障害」具体的かつで客観的かつ詳細な内容ごとに、検討しなければならないものになると思います。

一方、「精神的不具」というのは多少偏った自己否定イメージになると思います。『悲しみの彼方への旅』でもそうしたものとしてその言葉が出てきたります(P.332)
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私に残り続けた問題とは、自分には、自分を人と結びつけるための感情や意欲や性格が根本的に欠損している、自分は人と親密になったり愛情を交わしたりすることのできない、精神的不具者なのだという感情でした。
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ということで、「精神的不具」という漠然とした否定イメージではなく、具体的かつで客観的かつ詳細な内容ごとに、検討していきましょー、というのがまずは意見
そしてそうするならば、「障害」を克服するものとしてこそ、「知恵」と「ノウハウ」と「技術」があり、その探求こそが人生になる、というのがハイブリッド心理学からの意見です。
それは克服できるものなのか。克服不可能で終わるものなのか。それは自分にとって大きな喪失か。それとも結局大したものでもない話だったと、人生が大きく転換するか。

これはもう人それぞれ内容ぞれぞれのケースバイケースですね。たとえば人前で喋ることに緊張とどもりの傾向を抱えて社会に出ようとしたが、それを克服したい一念取り組み、やがてTVの人気司会者になってしまうケースもあるかも知れない。あるいはそうした弱点短所を抱えたまま、人と接する仕事よりも手先の技術を生かした仕事を選んで第一人者になったもいるかも知れない。
ちなみに僕の上記の言葉について言えば、結局、一人でマイペースな生活をするのがこの上なく好きな性分であり、浅く広く人と親しく接することができるような「能力」は、もうどうでもいいというお気楽能天気ほぼ完結した今日この頃です・・とこれはどーでもいい話^^;

重要なのは、結果ではなく、いかに可能性と全力を尽くしたか、になります。可能性と全力を尽くすごとに、「命」が答えを出す、ということで。
まあとにかく、お若い状況と思いますので、視野を広く持った上で、具体的かつで客観的かつ詳細なレベルで、自分の得手不得手、克服への知恵ノウハウ技術、そして望む仕事、などの分析検討をするのがお勧めになりますね。

あとはまあ、何か「人物価値」「持つ人」「持たない人」あまり単純に分けない目培うのがお勧めになりますね。でも何らかの障害ハンディを持つのがスタートです。また「持つ人」見えるのは、あくまでそうした断面があり、見る人主観からそう見えるに過ぎません。「脱力できる人」なんてのも、別の人から見れば単なる不注意人間見えるかも知れない^^;

まとにかく、視野を広く持ち、自身の問題については具体的かつで客観的かつ詳細な内容ごとに、細かく検討していくのがお勧めです^^。





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