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■「感情と行動の分離」の基本へ
まず、
>こうして「怖がることに価値がある」という思考に気づくと、今度は「怖がることに価値なんてない」と自分を納得させようとしてしまうのですが、これは「感情の操縦」ということになってしまうのでしょうか?
ここで、「感情と行動の分離」という基本に戻ることになります。また、それが重要です。
内面は知るだけです。外面は、それとは全く別の話として考えます。
ですから、ご質問への答えとしてはまず、「何もしません」。これが答えです。
「自分を納得させようとしてしまうのですが、感情の操縦ということになってしまうのでしょうか?」
は、そうだと思います。
実践として行うのは、自分が「恐怖心が出たら逃げる」という基本前提の中にいる。それを知るだけです。それについて、どうこうすることは、ありません。それはただそのようにあることだからです。
バイト先でどんな意識姿勢で臨むのかは、それとはいったん、完全に切り離して考えてみます。
具体的にです。どれだけ稼ぐ必要があって、ということはどれだけの時間働けば幾らもらえるか。
そのためにこの不安恐怖症は・・という問題は、いったん別の話とします。ただ自分の外面目標を、淡々と外面行動要件として設計してみることです。
最後までそれに徹することが重要なのではありません。
とにかく、外面問題は外面問題として考えるという、脳を使う時間を一定時間はしっかり取ることです。
それが「感情と行動の分離」。
■「どうしたいか」の望みを問う
そうしてまず内面と外面をいったん全然別の話として脳を使う時間をしっかり持ち、最後はまあ、同じ舞台に登場する2問題として臨むしかないですね。
そこではもう「感情と行動の分離」ではありません。できようもない^^;
するべきは、「自分はどうしたいのか?」と自分の望みを問うことです。
ここでもう杓子定規の「こうでなきゃ駄目!」はなしにするのがお勧めですね。弱った草木を育てるという、入門編で書いた姿勢です。
あまりにも恐怖が強ければ、逃げたっていいんです。そうして自分を受け入れることで、心が自分への安心感を抱き、恐怖の度合いが減少に向かうかも知れません。そもそも恐怖の原因は、不安恐怖症になっては駄目だ!という自己処罰感情こそが、最大原因かも知れないんですね。
不安恐怖症になっては駄目だ!という感情こそが不安恐怖症を作る、というパラドックスがあります。
で今度はそれを、「恐怖症でもいいと思うようにしよう」とかになると、また感情操縦になってくる。
内面は「知るだけ」です。
それだけに徹することができずに、ちょっとは感情監視操縦の圧力を自分に加えてしまうことも起きます。それもそのまま、知るだけ。
■「感情を良くすることを放棄する」のは「強い意思」よりも「ただ知る」
その点、
>それとも、こういう場合は、「感情を良くすることを放棄する」という、強い意思が必要なのでしょうか?
これもちょっと、その質問の外側にまた、「感情を良くするためには」というループがある気配をちょっと感じますね^^;
まあそれも、知るだけです。
「感情を良くすることを放棄する」というのは、意識実践面としては、「強い意思」じゃーちょっとないですね。
あくまでも「ただ知る」が、結果的にそうなると思います。
意識の最後の外側に、常に傍観者を立てる感じですかね。
もちろんこれは、「感情と行動の分離」の内面向け姿勢の段階です。
■「感情と行動の分離」後の「総合決断」の中で全てが変化していく
実際の行動に出るときは、もう傍観者でいることはできない。自分がどうしたいのかを、自分の感情も尊重しつつ、外面思考の結果も踏まえて、「総合判断」して、「自分としては自分のためにこうしたい」という「決断」を出すしかない。
今は恐怖からまた逃げ出すことを、自分に許すことが答えになるかも知れません。僕もそうした決断を何度もして今に至っています。
その時は、敗北感と失意におおわれるかもしれません。しかし、それが「現実」なのであれば、それを受け入れるしかありません。
ここでまた、全てがスパイラルのスタート地点に戻ることになります。
自分の恐怖症がこうであるのなら、自分にできる仕事はこの程度であることを、腹をくくるしかない。その場合、生活はどうなるのか。
具体的に考えることです。
これは恐怖症が好転しないケースを想定して書いているのですが(最初はまずそれを覚悟する必要があるでしょう)、これは一見今までと同じことに見えて、内面過程が全然違うんですね。
この恐怖症さえ消えれば・・とただ空想の中で考えていた今まで。
自分を知り、つまり恐怖症の根源を知り、一方で現実を具体的に設計し、最後には現実に向い決断する。
こうしたスパイラルの中で、外面は一見同じまま、全体のベクトルに変化が起きます。微妙に、心を構成する部品の全てが変化し始めている。
この積み重ねです。その先は、「未知」です。一回の変化では目に見えない差にしかならないと思いますが、この実践というのは、人生を通して行なうと、その僅かな変化が後戻りないこととして、数千回というレベルで蓄積するものになるので、最後には別人になるような感じになります。
■取り組みスパイラルの拡大
以上が取り組み実践の、一サイクルという感じになります。
まとめますと、
1)内面については、症状そのものよりも、それが生まれる背景要因の自己把握をする。やはり「価値観」が重要になってきますね。意識思考のものと、体に染みついた幻想的なもの。
2)外面は、症状はもう腹をくくって、「自分はどうしたいのか」の望みに向きあっていく。最後に総合決断する。
ということになります。
「この症状が治りさえすれば・・」という空想は、もうなし^^。
そんな感じで、「症状が生まれる背景要因」について、引き続き自己理解を進めるのが良いと思います。
それが自然に、「感情分析」になっています。
■「落ち着き」をめぐる来歴の感情
そうした背景として、僕の方でちょっと感じるものをお伝えしておきましょう。
まずNo.005さんの心の状況として、「落ち着き」を求める心の表面の思考と、「感情の監視操縦」をしようとする意識の少し厚い板のようなものの下に、それとは全く違う、いわばNo.005さんの少女時代の感情が眠っている気配を感じます。
それは、そんな「落ち着き」を自分に強いた辛さを投げ出し、ありのままに、怯えた自分を受けとめて欲しかった・・そんな一人の少女の存在です。
この辺、もうちょっとNo.005さん自身の方で、自分の心の来歴を尋ねてみるのがいいかも知れませんね。
とりあえず今回はこんなところで。ハイブリッド心理学の取り組み実践のひとまとまりが、ちょうどこの1か月で分ってきたかと思います^^。
メールの終わりの方のご質問へも、大体答えが出たのではと。
>過去を振り返って感情分析を試みようとすると、その当時の状況や自分の考えていたことなどは、何となく思い出せるのですが、その時の感情までは思い出せないことが多いです。単に記憶力がないのか、そこまで強い感情ではなかったのか、よくわかりませんが。(それともバイアスがかかっているということなのでしょうか???)
その質問で僕が感じたのは、「それが思い出している最初のものだ」というものでしたね。つまり、自分の感情を自分で飲み込んで見えなくした、来歴の中でのNo.005さんです。10代初期頃のことではないかと。
その下に、多分別の感情があると思います。
>ただ、『感情のメカニズム論』などを読んでいると、自分に該当する事柄については、それに似た経験が思い出され、その時の考えや感情はそんな流れで起きていたのかと納得することはできます。そういうことでも、「抑圧」を解くということになるのでしょうか?
感情分析は、今回No.005さんの方でもう始まっています。
感情分析は何も見えない地面を自分から掘り進んでいく作業というのとは、ちょっと違います。「感情の監視操縦」の姿勢を減らしていくのと(これが上述)、あとは、「感情のメカ論などを読んでいると」というように、何かを引き金にして、「向こうからやってくる」形になります。あとはそれをしっかりとつかまえることです。これは僕もホーナイから教えられたものです。
僕がこうしたメール相談でやっているのも、そうした引き金の最もダイレクトなナビゲーションですね。まあ当たる時と外れる時がありますが^^; |