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ハイブリッド心理学辞典
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実践の学び
 実践-4 「愛」「自尊心」「人生」のための価値観と行動法
  実践4-1 「価値観」の理解

「愛」への理解と価値観と取り組み
基本説明  「愛」への理解「愛」の基本的理解と理解への姿勢  「愛」の種類  「愛」の変化の軸  変化軸1 「未熟」から「成熟」へ  「心の豊かさ」の変化と愛  愛における「心の豊かさ」とは  「自発的幸福」と愛  「命の生涯」と「望みの燃焼の法則」  「人生の徒労」「過度の動揺」「憎しみ」  変化軸2 「真」と「偽」  「偽の愛」と「罪  愛への内なる阻害と逃避  「愛」と「自尊心」の衝突  「根源的自己否定感情」の壁  愛への「見えない罪」  「愛」と「自由」と「自己の真実」のターニングポイント  「存在」が「根源的自己否定感情」を乗り越える時  「意識」には見えない成長  変化軸3 「健康」と「病み」  「心の病み」と「愛の真実」  性衝動の心理医学  「愛」と「自意識」と「魂の感情」  「人生」と「愛」への取り組み  「愛に一度別れを告げ再び向かう」「依存の愛」から「成熟の愛」そして「超越的幸福」へ  「心の豊かさ」への答え  「成長」の支えによる「魂の望み」を受けとめる歩み  心の豊かさへの「受動型」と「探求型」の歩み  「4つの通過道標」と「2つの世界における豊かさ」  「心の豊かさ」のゴールと「愛」  島野の歩みの例  「老い」「一つの道の歩み」  「愛の獲得」とは何か
「愛」への価値観
愛の純粋な感情を守る  「心の自立」に立つ  健康な愛に向かう  「魂の感情」に向き合う参考資料
「愛」への取り組み


最終更新:2021.3.3
基本説明 
ハイブリッド心理学では「愛」「自尊心」を、人生における2大感情テーマと位置づけています。
私たちのにおけるこの2つ感情基本的なあり方が、人生という旅路において向かい至る地幸福度特徴づける、気候風土にあたるようなものとしてです。また日々出来事に際し、その都度その都度感じるその感情は、人生旅路歩むための羅針盤の、針の動きのようなものだと言えるでしょう。それが指すのは、自分が向かうべき豊かな地への方角なのか、それとも向かってはならない、罠方角指すものなのか。私たちはまず、その羅針盤精度高めると共に、その細かい目盛見る目培うと良いでしょう。

「愛」への取り組みを、次の3段階で考えることができます。

1.「愛」への理解・・・ハイブリッド心理学では「愛」を、「一体化」に向かう感情全て指すものとして考えます。相手位置づけに応じてきわめて広いバリエーションがあると同時に、「愛」重なる別の欲求、さらにはがそれを「愛」と思いながら実体はその逆であるような、愛と似て非なる「欲」の感情見分け、といったことを理解すると良いでしょう。

2.「愛」への価値観
・・・「愛」をどのような姿勢行動法によって向かうべきものと考えるか。「楽しみと喜びの共有」として向かい、それができない時孤独受け入れる、というのがハイブリッド心理学が採る「愛への価値観」です。これとの対照として、「分かり合い認め合う」という愛への価値観があり、これがにしばしば見えなくし、場合により心の成長への妨げにもなることへの理解が重要になります。

3.「愛」に向かう取り組み
上記を踏まえ、「愛」向かう取り組みへと向かいます。
言えるのは、「愛」に取り組むとは、「人生」取り組むのとほぼイコールだということです。
一言でこう言えます。外面においては「現実生活の共有」最優先基準相手への行動模索し、内面においては「魂の感情」を向けの中で受けとめ尽くす。この2面姿勢を携えて人生生き続けることで、私たち自身の薄っぺらい「意識」を超えた「命」が、 私たちのに、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」歩ませるのです。この気づきに、「望みに向かい続ける」ことが生み出す「心の成熟」という人生の答えと、「魂と心の分離」という人間の真実、そして「自分」というものは大きな「命のつながり」の中のほんの仮りの姿に過ぎない、という「永遠の命の感性」、さらには、もはや外部から特別良いもの与えられることなく多幸感満たされ「超越的幸福」というゴールを、見出すのだ、と。

それぞれについて以下で詳しく説明します。

「愛」への理解 
・「愛」の基本的理解と理解への姿勢
ハイブリッド心理学では「愛」を、広く「一体化への感情」指すものと定義します。
互い同じ感情を感じ、同じところにいて、ひとつになること。これは身体的なものから精神的なものまでへと至ります。スキンシップ、セックス、たわいないお喋り、スポーツにおける一致団結、難しい課題への共同作業、エトセトラ。その全てが、一体化することそのものを志向する感情において、です。(*1)

より詳しい理解にあたり、「理解への姿勢」について2つのものを指摘しておきましょう。
まず、「愛とは何か」という問いに対して言われがちな、「愛とは〜すること」と、「姿勢」「行為」として理解しようとする姿勢は、ハイブリッド心理学取りません。たとえばとは「相手を思いやること」とか、「惜しみなく与えること」などというようには。
特定「姿勢」「行為」として理解しようとする姿勢は、内面において真に豊かな愛の感情を見出せないまま、形ばかりの愛情表現へと、人を向かわせようとする嫌いがあるように感じられます。ストレス、さらにはその「愛」への不信感疑問伴いながらです。
主な心理過程要素との関連で見るならば、基本的な生き方思考が「道徳主義的」である場合に、「愛とは〜すること」と、頭の中だけ観念論を、現実行動本人が望む精神的成長つながらないまま回す傾向というのがよく見られると言えそうです。
特筆すべきは、思春期発動する心が病むまでの心理メカニズム、ひいては広く思春期からの情緒の動揺で抱かれるその思考と、その結末としての他人への憎悪膨張の、典型的メカニズムです。それは、劣等感から他人への破壊攻撃衝動生まれた場合に、それでも何とか人との良い関係を持つ必要性から考える「愛とは〜することか」という観念が、自身破壊攻撃衝動塗り隠すための、本人にとり屈辱的な滅私的利他サービスのようなものとして描かれる一方で、実際のところ現実場面でその観念はうまく役に立たず「軽蔑された」と(もちろん自身攻撃性他人投影させて)感じる状況至ることで、他人への憎悪爆発的起きるというものです。
そうした深刻感情動揺に、その人自身にさえ見えなくなった、「愛」への深い願いと悲しみ、そしてそれを乗り越える「命」の力があるのを、ハイブリッド心理学見出します。以下にてそれを紐解いていきましょう。

ハイブリッド心理学「愛」理解する姿勢とは、それを「命の現象」として理解するものです。
つまりこの地球「生命」というものが生まれ、やがて雌雄による繁殖による産み育て、さらに群れの中で助け合って生きることで繁栄していくという特質を持つものへと進化していった。そうした「命の現象」として、幅広く「一体化」向かおうとする感情として「愛」がある、という理解をします。
もちろんその理解から以下のような詳しい考察展開できるというよりも、に、「愛」をめぐってに起きる変化変遷つぶさ整理し尽くせた時、それが背後において「命の現象」として支配されていることが、はっきり見えてくる。そうしたものとしてです。
いや、「愛」をめぐっての変化変遷であることを超えて、「心の成長と治癒と豊かさの道」という、この心理学主題全体変化変遷が、そのようなものとしてあるのです。そこには、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という、「命の生涯」摂理があります。「命の生涯」変化変遷は、「愛」向かう歩みとして成されます。
つまり「命の生涯」は、「愛」によって営まれる、と言えます。そのように、「愛」「命の現象」として支配されているのだ、と。私たち人間薄っぺらい「意識」超えてです。

・「愛」の種類
ハイブリッド心理学ではまず、「真の愛」といえるものにいくつか種類があると考えます。
ここで「真の愛」とは、相手その相手であることにおいて無条件それに向かうことだけ目的にし、他の目的ないものを、そう言えるというものです。
以下の4種類があると考えます。(*2)

「子供への愛」(「宇宙の愛」)・・・から子供に向けられる。このにおいて子供包み守る宇宙子供はその宇宙中心となる形で、には「自分」はなくなる。このにより、子供宇宙に愛されている、自分生まれたこの「生」から祝福されているという、素朴安心感自己肯定感を持って生き始めることができる。にこの得られない子供は、自分宇宙から見放されている、「生」から拒絶されているという「基本的不安」根源的自己否定感情抱えて生き始めるという問題起きることが考えられる。
「一人の異性への愛」・・・主に思春期前後から抱かれ始める「恋」感情代表される、特定の異性パートナーとなり共に生き、「家族」を営むことを望む感情
「普遍の愛」・・・「仲間」感じるものへの「子供への愛」「一人の異性への愛」のように強い一体化を求めるのではなく日常的には相手との距離が置かれた上での「時折」一体化行動という形になる。前2者「愛」では多少とも「自由」妨げられるのが一つターニングポイントになるのに対し、この「愛」では「自由」保たれる
「傷ついた者への愛」・・・自分の足立つことができなくなった窮地にある者救うことを望む窮地相手救うためには、場合により自らの命を危険にさらす可能性があること、また救われ自分の足立てるようになった時は、その心地良さ引き続きそれがあることを望んでも、基本的にはこの消えるというところに、このにおけるターニングポイントがあると言えます。

「愛の種類」がこの4つだと言うのは、この4つが、相手との関係性感情の動き明瞭定型的なものであり、他の関係性での「愛」も、この4つ種類を、関係性多少薄めながら合成したようなものと考えることができる、というものになります。まあ少し雑なたとえで言えば、味覚では「甘み」「塩味」「酸味」「旨味」「苦味」5つ基本になるというのと似たものとして、はその4種類から成ると言えるのではないかと考えます。
たとえば上記出されなかった関係性として、まず強いものとして「親への愛」を言うならば、相手であるがゆえに特定性質感情定型的に湧くというよりも、親から「子供への愛」受けが湧く、つまり「“子供への愛”への愛」というものになるのではないかと考えます。
「兄弟姉妹」へのは、そうした「親子間の愛」少し薄いものと「普遍の愛」合成特別「親友」「普遍の愛」に、「一人の異性への愛」異性愛要素ないものが薄く加味されたものと考えられる。などなど。

・「愛」の変化の軸
次に、「愛」がどのようなにおいてどのように変遷変化する、あるいは歪んでいくのかを理解することが、私たち人間複雑「愛」姿バリエーションをおおよそ視界捉えるためのになるでしょう。
主な軸として以下の3つがあります。

・変化軸1 「未熟」から「成熟」へ
まず、「愛」感情最も基本的大きな変化としてあるのがこれであり、私たち人間心そのものから用意された、「未熟」から「成熟」へという変遷変化です。

もちろんこの「未熟から成熟へ」変遷は、人間にというよりも全て「子育て」をする動物用意されたものであり、中でも大草原に生きる肉食獣姿に、その明瞭様子見ることができるでしょう。「愛の種類」が切り替わっていくという変化としてです。
まず親の愛守られ育ち、ある時、「突き放される」ようなひとり立ちし、自分生きる能力と、それを足場に異性獲得し、やがて今度は自分子供育てる側へと回る。そこで「愛」は、自分守ってくれる大きな存在恋い慕う愛から、異性得よう駆られる愛、そして子供のために自らの命さえ捧げる「宇宙の愛」へと変化するのです。
人間の場合に、この変遷変化不明瞭です。これは「社会」というものを高度発達させ、基本的にその中で「守られて生きる」という生活様式をするようになったこと、そして何より高度進化結果「自意識」持つようになリ、それにより「心」本来「命」からはがれた薄っぺらいものとして機能するようになったことによるものだとハイブリッド心理学では考えます。
それでもやはりこの「未熟から成熟へ」という変遷変化が、私たちの心の問題そして人生への答えなのだと、ハイブリッド心理学では考えます。この変遷変化から遠ざかる惑い、さらには病み、この変遷変化への回帰として、惑いからの抜け出し病みからの治癒、さらに心の豊かさ人生の幸福への前進があるのだ、と。
この変遷変化から遠ざかるとは、「未熟」閉じこもったまま、さらにはしがみついたまま考えるということです。それが私たちの心の悩み惑いを、出口のないものにしてしまうのです。
ではそこから抜け出し「成熟へ」心の変遷向かうとはどういうことか。それは今大草原肉食獣姿で言ったものが、かなり示唆するものになると言えるでしょう。つまり私たちはやはり、「突き放される」形で、それに向かうのです。突き放されることでというよりも、私たち自身の心突き放されることで、と言えるようなものとしてです。

その理解のため、まず私たち人間場合の、「未熟から成熟へ」変遷による「愛」感情変化内容から見ていきましょう。
それは一言で、「愛の種類」明瞭切り替わりというよりも、さまざまな種類の愛が生涯にわたって混ざりながら、心におよぼす重みと、「心の豊かさ」としての性質が緩やかに変化していく変遷だと言えるでしょう。
「愛の種類」ごとの、におよぼす重み変遷としては、肉食獣を例に述べた「親への愛」「異性への愛」「子供への愛」という流れが、人間場合もやはりその通りに、人それぞれでその重み変遷するものになるでしょう。この細かいバリエーションについてはここで追う必要はないでしょう。

・「心の豊かさ」の変化と愛
一方重要なのは、「心の豊かさ」としての「愛」感情性質変化になるでしょう。
これはまず直感的描写するならば、「弱さ」足場にして湧く感情から、「強さ」足場にして湧く感情の、性質変化です。
前者において「愛」は、「愛される愛」として「必要とするもの」であり、対し後者では「必ずしも必要とはしないもの」として「自ら愛する愛」になります。その分前者求める感情「強く」そして「激しい」感情となり、対し後者「穏やか」感情になっていきます。あるいはこの方向性に、「薄く」なっていくという終着点示唆されるかも知れません。
「愛の種類」違い超えて、この変化があります。全て種類「愛」で、この「成熟」変化があるということです。
たとえば「親への愛」で言えば、それはもちろんまず全く無力という「弱さ」足場湧くものであることにおいて、「愛される」ことが絶対的に必要なものとして激しく求められ、それが得られないことは「心の傷」ともなりへの「怒り」さらに「憎しみ」抱かせるようなものとして始まるとしても、この者成長「強さ」得た時、それを足場にした「普遍の愛」さらには「傷ついた者への愛」に対しても持てるようになると共に、子供の頃親の愛を求めた自分気持ちを、もう怒り憎しみ感じることなく自分心の中受けとめることができるようになる、といった変化が考えられます。
私たちの「人生の活動」を大きく彩るものと言える「普遍の愛」「一人の異性への愛」において、感情性質違いがさらに分かりやすいでしょう。つまり交友恋愛において、弱く未熟な心「愛されることが必要」という感情相手対するものと、成長し強さを得た心「自ら愛することができる」という感情相手向かうことができるものと。
そこで前者においてしばしば起きることとは、「愛されることが必要」感じ、それがやがて「愛されなかったら・・」「愛されなければ」という「不安」「怖れ」「焦り」さらに「怒り」といったマイナス感情へとつながっていった時、まさにそうして心がマイナス感情に満たされた状態相手との関係阻害し、「必要とする愛」壊していくという事態です。つまりそこにあるのは激しく望めば望むほど、激しく必要とすればするほど、その愛は得られなくなるというジレンマと、それに面した苦しみです。(*3)
まさにここに、「未熟」「弱さ」から人生歩み始める私たちのにおける、「愛」をめぐる一つターニングポイント現れると言えます。

そのジレンマ抜け出し「強さ」に立った愛向かうとは、「心の持ちよう」「気持ちの持ちよう」といった安易なものでないのは言うまでもありません。それでは結局、「今の心」中だけ考え「未熟」「弱さ」しがみつくかのような思考で、ジレンマから抜け出す出口には背を向けたままでいがちです。「今の心」からは分からない「未知の心」へと変化することが出口になるのですから、それは無理のないことではあります。
向かうための取り組みはやはり、「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみ行う」という「感情と行動の分離」基本姿勢実践を携え、「望み」に向かって全てを尽くして生きるという「取り組み実践」枠組みにあります。
そこで意識的努力として成すべきことと、意識的努力超えて、「命」作用によってに起きる変化、この2面十分理解することが大切になります。

・愛における「心の豊かさ」とは
「成熟」による「心の豊かさ」としての「愛」感情性質変化について、直感的には「愛」「弱さ」それとも「強さ」どちら足場にしたものかの違いだと述べたものについて、さらに精緻に見ておきましょう。
そもそも愛の感情どのような性質が、「心の豊かさ」なのかです。それが、「心の成長成熟」を通して自分「愛」感情どのように変化し得るのかという、大まか青写真もしくは遠望地図のようなものを心の懐に入れておくものとして役に立つでしょう。
考察前提として、「心の豊かさ」とは、「喜び」「楽しみ」「感動」そして「愛」などの、「幸福感」をもたらす感情がより多く、そしてより自発的に湧き出るような心の状態のことです。

改めてさらに定義を書いておくならば、「心の成長」とは「自ら幸福になる能力の増大」のことであり、「心の成熟」はまずは「生涯を生きることが生み出す心の変遷変化」のことです。
「自ら幸福になる能力の増大」については、外面的なものから内面的なものまでという視点整理していくことができます。ハイブリッド心理学からは実践の学びがそのための具体的実践アドバイスだということになります。
「心の変遷変化」は、上で「愛の種類」重み変遷として述べたものをその一面として幅広く「1)意識内容の変化」というものがあり、また性質変化として積極的側面である「2)心の豊かさの増大」、そして消極的側面も含まれるものとしての「3)安定と落ち着き」、この3側面「成熟」による変遷変化内容として把握整理できるのではと考えます。詳しくは「歩み-4 心の成長変化のベクトル」で整理しましょう。
そのように、「心の豊かさ」「成熟」によって増大し得るものとしてあるということに関して、「愛」はどのような位置づけになるのか。

すると3つ視点から考えることができます。「愛情の豊かさ」「安定性」そして「自発的幸福」です。
まず愛情そのもの量的豊かさというものを考えることができます。つまりより多くの相手により多くの愛情を抱くことができるという心の様子「愛情の豊かさ」と言えるでしょう。
この「愛情の豊かさ」「心の豊かさ」なるのか。これについてのハイブリッド心理学考えは、多少意外なものも含むかと思いますが、このように言えます。「愛情の豊かさ」は「心の豊かさ」の一要素ではあり得るが主要素とまではならない。また、「愛情の豊かさ」が「心の成熟」による「心の豊かさの増大」と共に増大するかどうかは、一律に言えることはなく、この2つに直接の関係はない。
まず、への愛情ことさら豊かではなくても・・と言うことは人との関係がそれほど豊かではなくても、さまざまものごと「喜び」「楽しみ」「感動」感じることができ、それが「幸福感」つながるものであれば、それはそれで十分「心が豊か」だと言えるものです。一方愛情が豊かでもそれが報われず幸福感つながらないものだと、心が豊かだとはあまり言えないというにもなってくる、ということです。

「安定性」という2つ目視点を加えると分かりやすいでしょう。内面外面、つまり「愛の感情の安定性」「愛への行動の安定性」という2面があり、安定性「心の豊かさ」一つになります。この点であまり豊かでない姿とは、愛情とそれをめぐる行動不安定で、とはの、あるいは壊すような、否定的な感情や行動転じやすい姿です。
「安定した愛が豊か」であればあるほど、それはもう文句なく「心が豊か」姿一つだということになります。
ではどうすれば、安定した愛豊かになるのか。
基本的視点で述べた通りです。「強さ」を足場にした愛向かうことです。
ハイブリッド心理学において「強さ」とは「成長」のことです。不安定な愛足場になっている自分の弱さと未熟な姿勢見据え今自分が向かうべき「成長」を学び、そこから再び相手と自分の立ち位置を見据え、自分が向かい得る愛の感情と行動のあり方を、改めて問うのです。この具体的内容は下の「「愛」への取り組み」で整理しましょう。
それによってより安定した愛見出されるかもしれないし、あるいは、その愛に近づき得ない自分ただ自覚するかも知れません。その絶望超えて前進するための視点とはなのか、また「愛情の豊かさ」がどう増し得るのかも含めて、「心の豊かさ」についての最後視点を踏まえることが重要になります。

・「自発的幸福」と愛
における「心の豊かさ」として、「愛情の豊かさ」「安定性」に引き続き最後視点となるのは、「自発的幸福」です。
「自発的幸福」「自発的不幸」との対比で考えることができる、心のあり方特徴です。後者から考えるのが分かりやすいでしょう。つまり「自発的不幸」は、「幸福」「外部から与えられるもの」と感じ、それが与えられない状態自分から湧き出るのは、「自分は不幸だ」という感情になるものです。それに対し「自発的幸福」は、外部から特別に良いものを与えられることを必要としないものとしての「幸福感」湧き出る心の状態です。
おぎゃあと泣いて産まれ出る赤子様子に、がまず「自発的不幸」生き始めるのが見て取れると言えるでしょう。そこからどのように「自発的幸福」というものが発生しそして増大するのかは、人の目には見えない形起きることのように思われます。それでも最近注目されるようになった、「100歳を超えた頃に多幸感に満たされるようになった」という「老年的超越」という心理現象が、「自発的幸福」究極的増大という、「心の豊かさ」一つゴール姿を示している、とハイブリッド心理学は考えます。
つまり「心の豊かさ」とは、「喜び」「楽しみ」「感動」「愛」など「幸福感」をもたらす感情より多く、そしてより自発的湧き出る状態というに加えて、心そのもの帯びる「自発的幸福」度合いというがある、ということです。そして「自発的幸福」「心の成熟」によって増大し得ることが、まさに「老年的超越」によって示唆されると言えるでしょう。
感情「自発的幸福」性質帯びるほど、それは「心の豊かさ」です。つまり「愛」が、それを望む感情だけで、つまりそれが現実においてどう「叶えられる」かを問わずに、心を幸福感で満たすようなものになってくる。これが、豊かであり成熟した姿です。一方、「自発的不幸」帯びるのが、まだ豊かではない、未熟姿です。つまりその望み叶えられないと自分は不幸だという感情として、愛の感情湧くものです。
上で「愛の安定性」について、「成長」という「強さ」足場にすることだ、と述べましたが、それを超えてこの「自発的幸福」という性質が、安定性もたらすように思われます。「成長」に、自分動揺する感情への対処克服能力向上と考えるならば、それに対し「自発的幸福」伴って湧く感情は、もう最初から幸福感を伴い、根元から動揺する要素持たないものになっていくからです。だから「強さ」というではもうあまり増大変化ないであろう「老年」以降においても、この「自発的幸福の増大」よるものであれば愛における心の豊かささらなる増大続く可能性があることになります。それを生み出す仕組みは、人の目には見えないまま・・。

こうして最終的には、「自発的幸福」における心の豊かさ決定づけるものになりそうです。
いや、これは正確ではないかも知れないのです。「自発的幸福」「外部に依存しない幸福感」であることにおいて、その究極的増大超越的な幸福感で、他者との関係という「愛」というテーマ自体薄れていくことさえ考えられるからです。はこれは島野自身経験として見えてきたことであり、どのような仕組みの下に起きることなのかを述べていきましょう。
ですので「愛における心の豊かさ」言うのであれば、それはやはり「愛情の豊かさ」「安定性」「自発的幸福」総合的度合いだということになるでしょう。そして「心の豊かさ」とは、謳われるであろう「イコール愛の豊かさ」ではなく伴うものであろうとなかろうと、「自発的幸福」あり方決定要素になるであろうと。これが「愛における心の豊かさ」という少しくどい言葉回しを使った理由です。
それでもなおこれは、「愛」「心の豊かさ」に対して部分的役割のみ果たすすぎないということではありません最後「愛」テーマとして薄れさえするようなであっても、「自発的幸福」の増大は「愛」という単一軸の下において起きるというのがハイブリッド心理学考えです。その流れ最後に、「愛」というテーマは薄れ、代わりにそこに、「命」というテーマが、その完全なる大きさを示すのだ、と言えるようなものとしてです。
「自発的幸福」増大はどのように「愛」という単一軸下起きるのか。それは一言で、「愛を得ること」によってでも、「真の愛を知ること」によってでもなく、「自らの愛の真実へと向かう歩み」によってだと言えるでしょう。生涯をかけての歩みとしてです。

・「命の生涯」と「望みの燃焼の法則」
この「自発的幸福」増大仕組みついて、ハイブリッド心理学明確単純な考えを持っています。
それは、「命の生涯」における「望みの燃焼の法則」とでも呼べるものです。
つまり、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」変遷の中で、ごく単純に、「愛への望み」心の中で燃やすというその量ごとに、この個体は、「自発的不幸の度合いの強い愛への望み」卒業して、「より自発的幸福の度合いを増加させた愛への望み」移るという仕組みが、「命」備わっているのだ、ということです。
「個体」という表現をしましたが、子育てをする全て動物においてこれが働くということです。まず大草原に生きる肉食獣姿イメージするといいでしょう。まずは順調に育ってやがて子育てをするようになった個体としてです。その生涯において、「変化軸1 「未熟」から「成熟」へ」で述べたように「親への愛」「異性への愛」そして「子供への愛」愛の種類切り替わる中で、をかけてその「愛」に向かう感情に、「自発的不幸」性質が次第に弱まっているのを多少想像できるのではないかと思います。
一方そこで「自発的幸福」「超越的な多幸感」にまで究極的増大する姿というのは、厳しい大自然下では少しイメージしにくい話かもしれません。そうしたものがあるとすれば、やはりより高度発達したによる豊かな感受性と、安定した生活下での老年そして長寿といった、人間ならではのもののにおいてではないかと。それでも飼育下など恵まれた環境であれば、穏やかな幸福感の中で晩年をすごす動物姿というのであれば多少イメージできるように感じられます。

こうした「自発的幸福の増大」単純「望みの燃焼の法則」によって起きるというハイブリッド心理学考えは、もちろん動物姿考察からでも、また「老年的超越」についての調査ヒントにしてでもなく、島野自身経験からです。
私自身「超越的な幸福感」出現し始め、そしてそれがより安定持続するものになっていく一つ一つ体験過程を見た時、この「望みの燃焼の法則」極めて単純な仕組みとして人生一貫して働いていることが、明瞭に見えたのです。私がこの心理学のおおかたの整理を成し遂げ『入門編』出版した2009年からさらに6年を経た2015年、私自身の「老年」視野に入ってくる54歳になってのことでした。そのためこれについて記すようになったのは、まとまったとして現時点最後『概説』(2014年、「成熟」特徴としての「自発的幸福」についてのみ言及(*4))よりホームページ原稿で、というになった次第です。
島野自身のこの歩み最初から最後までにおいて、そこにあったのはかという流れ念頭に、変化と、それに対する取り組みについて引き続きまとめていきましょう。

・「人生の徒労」「過度の動揺」「憎しみ」
私たち人間心の問題は、「変化軸1 「未熟」から「成熟」へ」で述べたように「未熟」に閉じこもって考え行動してしまうことのにあり、「愛」関係することがらにおいてそれは、「自発的不幸」に閉じこもって考え行動してしまうということだと言えます。
それは「自発的不幸」にある未熟な心からは、「自発的幸福」というものが見えないことに発すると言えます。しかしもちろんこれは人間以外動物においても同じことであり、これ自体人間特有「惑い」直結するのではないでしょう。私たち人間心の惑いは、高度発達したによって生まれた「自意識」「空想」作り上げた、「自発的幸福」向かいようもない檻の中自ら閉じ込めることから始まるのです。
これはは、幸せになるためには愛されることが必要だ、と考える、信じ込むということです。実際これがもはや社会文化的信条にさえ格上げされているのが現代だと言えるでしょう。愛し合い支え合うことが何よりも大切です、大切な人への思いを伝えましょうといった言葉さまざまメディア優雅喧伝され、「承認欲求」生きているのですと識者が分かったような顔で語り、多くの人SNSでの「いいね!」励みにしている様子の昨今です。

社会文化的信条というのはともかくとして、人の心においては、「愛される必要がある」という意識の中で映し出されるもの不実を・・このを作り出す「自意識の空想」というのはあくまで「真実」ではないし、「現実」でさえもないのですから・・、それを見定めること、そして疑うことができない時に、「惑い」生まれると言えるでしょう。
それが生み出す主な問題を、3つほど指摘しておきましょう。「人生の徒労」「過度の動揺」そして「憎しみ」です。
「人生の徒労」は、「人に愛されるためにはこんな自分に」という自己理想意識人生原動力になるように思えても、それに到達できないのを感じた時、人生というものの全体が徒労のように感じてしまうというものです。多くがこれに陥りがちなのが現代と言えそうですが、問題核心は、「愛されるためにはこんな自分に」という意識がありのままの自分の本心を置き去りに、さらには押し殺して抱かれた時、この人は自らの本心を失ったことにおいて、たとえそこで抱いた自己理想像に多少は近づいたとしてさえ幸福にはなれない可能性が高いにも関わらず、意識の表面では自分が幸福になれない原因は理想像に完璧には到達できない自分の不遇だとしか考えることができなくなることです。

これがまさに、私たちの人生主題なのだと感じます。つまり私たちは「愛」望みどう叶えられるかという願望で、未熟な心生き始め、確かにそれが叶えらることで得られ「幸せ」というものも幸運であればあるであろう一方で、まだそれが得られていない時、自分幸せになるためにはこの望み叶えられることが必要だ、それが得られないと自分は不幸だというものとして「叶えられた姿」空想し、それに駆られるのですが、未熟で浅はかな心空想したそれは、現実における幸不幸とは別のものを映し出す蜃気楼のようなものであるということが、人間にはしばしば起きるのです。実はそれ追い求めたところで必ずしも自分幸福にすることのないものであったり、叶えられた幸福叶えられない不幸とのあまりの両極端イメージによって心を惑わすものであったりするものとしてです。
つまりそこには、「自発的不幸」に閉じこもって考えるという問題と、自己と人生の本質、そして真実を見失うという2つ問題があるわけですが、そのどちらがより「惑い」生み出しているのかと言うならばもちろん後者つまり生き方姿勢や思考法行動法において何か誤った方向を向いていることであり、「自発的不幸」の中だけで考えることがその「惑い」輪をかける、そして抜け出す方向全く見えないものさせている、というものだということができます。

あと2つ問題にもこの構図が当てはまります。「過度の動揺」は、何か出来事の中で人の好意や愛情を損なった、失った感じ取る同時激しい動揺起きるというものですが、これ自体「惑い」というよりも、「幸せ」「愛されること」全面的依存する、自発的不幸未熟な心の、当然の反応ではあります。またそれが「精神のバランスを崩す」表現されるような激しい動揺である場合明らかにそこに、幼少期否定的体験を発する心の病みの傾向関係するケースもあるでしょう。
「惑い」は、そうした否定的感情反応そのものというよりも、それを越えて前に進むということができない姿として現れます。やはり自分を見失った形「どうすれば愛されるのか・・」思い悩んだり、悲嘆押しつぶされてしまうようなものとして。
そうして前に進むことができず、やがて対極の方向向いてしまうのが、「憎しみ」です。相手が自分を愛さないということが、自分が望むもの得られない不運という消極的なこととどまらずに、相手が何かの悪意や攻撃的感情の下に、自分を不幸に貶めているということだという認識へと向かうのです。そして「自分に苦しみと不幸を押しつけ続ける相手への破壊衝動」である憎しみに、おおわれる
ここに、本来「調和」志向していたはずの「愛」が、「破壊」志向するものへと変貌する、ターニングポイント現れることになります。その根底に、世界が自分のために回るべきだとする傲慢の罪と病みを、私たちの心理学捉えることになるのです。

そうした状況において前進どのようなものとしてあり得るのか。
冒頭「愛」取り組むとは「人生」取り組むのとイコールだと述べた通りであり、「「心の豊かさ」の変化と愛」でその向かい方「取り組み実践」全体枠組みとしてあると指摘した通りです。
それは「価値観」羅針盤となり、「思考法行動法」運転技術となって、自分というを進める人生歩み一歩です。
一言でいえば、相手自分共有できない部分持ちながら、同じ方向を向いて前に進み得る別個の人格であることを見据え内面において自分感情客観的理解するとに、その中真実の感情についてはしっかり自分自身受けとめ外面においてその場面建設的に対処することです。これが、「愛における「心の豊かさ」とは」で、「強さを足場にした愛」について「自分の弱さと未熟な姿勢を見据え、今自分が向かうべき「成長」を学び、そこから再び相手と自分の立ち位置を見据え、自分が向かい得る愛の感情と行動のあり方を、改めて問う」表現したものでもあります。

そしてそうした一歩支えるのが、まずはただ受け身に愛されるのではなく自ら前に進むことにある成長幸福視野に入れた「人間観」「人生観」という大域地図になるでしょう。そこにおいて、ここで説明している「自発的幸福」中核にした「心の豊かさ」への変遷変化が、豊かな地方向を示す方位になるというわけです。
「価値観」羅針盤が、その方位正確指すものであるのかが問われることになります。
ここで取り上げ望む愛が得られない動揺と惑いが、どのよう心の豊かさへの方位転じ得るのか。詳しい説明は以下として、直感的表現を「「自発的幸福」と愛」に記しました。それは「愛を得ること」によってでも、「真の愛を知ること」によってでもなく、「自らの愛の真実へと向かう歩み」によってだ、と。
つまり私たちの心の窮地は、人に愛されないことで生まれるのでも、本当の愛が分からないことで生まれるのでもなく自分自身の真実を見失うことで生まれるのです。まあこの点で現代社会文化問題点を言うならば、大切さばかりを喧伝することにそれほど問題があるのではなく、それよりもっと前に・・学校というものに通い始める時期に、ということになるでしょう、人それぞれがそれぞれ自分自身の真実を持つことを否定するような何かがあるなら、それこそ問題なのだと言えるでしょう。
そうした意識の檻打ち破り自分自身の真実取り戻した時、前進一歩生まれる
「愛」というテーマにおいてそれは、「動揺」さらには「憎しみ」流されることをとどまり自分が誰を、そして何を、どのように、どれだけ、本当に愛していていたのか真実へと立ち返ることです。そこに、「惑い」「病み」「成長」「治癒」さらには「成熟」へと転じる一歩が、生まれ得るのです。

そうした前進への足場になるものとしても、「真と偽」という変化軸への理解重要になるでしょう。

・変化軸2 「真」と「偽」
記したように、心の成長と成熟は、自らの愛の真実へと向かうことのある、と言えます。対し、偽りの愛で、あるいは、自らの愛を偽ったで、心の成長と成熟から閉ざされたまま人生歩むのだ、と。
「真実の愛」に向かうことの中に・・ではないでしょう島野自身感覚で言えば、そんなものは分かりません。「真実の愛」というのは、人間浅はかな「意識」超えたものとしてあるのです。それを分かった上で、自らの愛の真実へと向かうことのに、心の成長と成熟があるのです。全力尽くし向かうことのに、です。人生生涯わたって、です。

「愛」の種類」で述べたように、「真の愛」とはまずは、それ自体だけを目的とし他に目的を持たない愛の感情のことを言います。
それがどのような感情なのかについては、愛の種類をそれぞれ述べたものに加え、さらにこんな感情あんな感情と、つまびらか描写理解に励もうとすることは、あまり重要ではないように思われます。なぜなら感情頭で理解して向かおうとする姿勢が、実際人を真の愛へと向かわせることには、あまりつながらないと思われるからです。さらに言えば、それはむしろ人「偽の愛」方向へと向かわせる土台にさえなるものだ、と。

どういうことか、視点「偽の愛」へと進めましょう。それは「真の愛」についての上の説明にすれば、まずは他の目的を持ちながら愛だと偽ろうとする感情のことだと言えます。
少し詳しく整理するならば、「積極形」「消極形」という2つ方向性があると言えそうです。前者他の感情を愛だとしようとするものであり、後者自分、そしてへの望みを、否定しようとするというものです。
「積極形」においてだと思い込もうとされる、あるいは称される似て非なる感情2系統になると言えそうです。
一つは「欲」です。単なる性欲性愛欲魅力ある相手「自分のもの」にしたいという所有欲、あるいは相手「所属」する、相手パートナーとすることで得るさまざまな満足への羨まれるような自己像への、などなど。それを、相手へのだと思い込む
これを生み出すのは、まずはごく単純人格未熟さだと言っていいように思われます。ものごと自己中心的に、自分都合だけで考え、相手になって考えれば自分感情行動がとてもなどとは言えるものでないことに、思い至らないのです。
もう一つ系統は多少複雑心理メカニズムのもので、「自意識の誤り」です。たとえ「欲」あまり含まないものであっても、自意識働かせた中相手人物を愛する自分空想した時の相手愛する感情本物なのかどうかは、心理学的には、多少とも、というかかなり割り引いて考えるのが正解だというものです。なぜならそれは、自分が相手を愛せれば相手も自分を愛するという都合の良いシナリオの上で、得られると仮定した相手からの愛への喜びや興奮を上乗せした形で、自分相手どう愛せるか描くというものになるからです。この上乗せ自覚されないままです。
その結果自意識「相手を愛する自分」とは、実は「相手から愛されるはずの自分」であり、そこで感じる「相手への愛」とは多分に、「相手を愛する自分への愛」なのです。ここに、相手を愛する感情だと本人感じるもののにおける、本人自身が気づかない、「嘘」素地生まれることになるのです。
そうして相手を愛する感情だと本人感じるものがどれだけ相手へ「本物」感情なのかは、「空想」を抜け出て「現実」ぶつかることで試されます。もちろん、自意識空想のシナリオのように都合良くはいかない現実にです。同時に、本人どれだけ、そこにあった「偽の愛」自覚し、自分の真実向かう姿勢へと転じる・・つまり「成長」向かう姿勢へと転じることができるかも、試されるものとしてです。

成長向くことができない姿典型は、「怒り」転じるものです。
この意味内容まず2つになるでしょう。一つは、望むもの得られないことへの、比較的単純未熟フラストレーション反応
そしてもう一つは、相手から返ってこないことが、自分が見下げられた、軽視されたことであり、プライドが傷つけられたという怒り起きるものです。これは心理学「プライド損傷反応」と呼ばれます。
これを生み出すのは、人に愛されることに自尊心感じるという、「自尊心」への未熟な価値観姿勢です(愛され自尊心)。
ここで、冒頭「人生における2大感情テーマ」指摘した「愛」「自尊心」交錯することになります。始まり互い「愛」問題であったはずのものが、やがて互い「プライド」問題へと切り替わる。この未熟人間ありがち流れで、未熟な心において大抵同時抱かれ「打ち負かし自尊心」働き、やがて相手に愛されるかどうか「勝ち負け勝負」のようなものへと変貌し、フラれたら負け、今よりずっと魅力的な人間になって見返してやる、といった典型的心の動き若者達の間で展開されることになるわけです。(*5)

それだけであれば単に未熟我がままとも言えますが、他の要素加わるにつれて様相異なってきます。
一つ上述「自意識の誤り」です。自意識空想で、相手への自分愛情上乗せされて描かれるのと同様に、から見えるであろうと期待する自分姿愛情深さも、やはり誇大化されて描かれる。そして空想の中で描いた愛情深げな自分の姿通りに、人にも見られる思い込むわけです。
「現実」必ずしもそうではなく、むしろ逆とも言えるようなものになり得るという心理メカニズムがあることを理解しておくのが人生知恵と言えるでしょう。
なぜなら、そうして自意識愛情深い自分描いている瞬間、そしてその空想耽る瞬間この人他人に対して何の積極的な働きかけもしていないからです。そして空想抜け出し、たとえ完璧にその自己像演じることができたとしても、は当然、この人空想自己像姿に対して反応するのではなく、この人「現実」で示した姿全体に対して反応します。それはこの人自意識空想描いた姿よりも、人に対して概して淡白そうな、場合により冷淡そうな姿になるでしょう。なぜならこの人はまさにそうした「現実の自分」変えよう、改善しようという意気込みにこそ、自意識空想でそうした愛情深い自己理想像描くのだからです。
かくして結末こうです。自分は精一杯の親しみと愛情を込めて接したのに、人はそれに相応しいものを返してこない。自分だけ遠巻きにするかのように。他人は理不尽だ、という怒り湧いてくる。
これは自意識空想の中で、自分愛情誇大視するという誤りに、「空想と現実の差し替え」という誤り起きているものと理解できます。自分空想与えたものへのお返しを、相手現実返せ、という論理になってしまっているのです(*6)。まるで、酷い仕打ち受けたと、現実相手怒るというようなです。
何か「病み」重なってくる・・と気づいた方もおられると思います。その通りであり、誰も人生一度体験する対人関係悩みから、統合失調症のような深刻心の病み傾向における「妄想」至るまでを一貫として貫く、私たち人間(ひだ)が、そこにあると言えるでしょう。
この「自意識の誤り」メカニズムは、もちろん恋愛関係だけではなく幅広い対人関係作用します。よく聞く「職場の人間関係に悩んで・・」といった言葉指すものも、やはりこの心理メカニズム働いて起きているのではないかという目線持つこととが、問題解決方向性探るのにも役立つでしょう。

・「偽の愛」と「罪」
こうして見てきた流れに、もう一つ大きな要素がすでに入りこんでいます。
「善悪」観念感覚です。こうあれるのは「善い」こと。こうなってしまうのは「悪い」こと。それを、自分個人欲することだというのを超えて、社会がそれに沿うべきだと考える「道徳」、さらには世界がそのようにあるべきなのであり、それが「神」という究極的、絶対的な存在意思にあることなのだと感じ考える「信仰」領域が、人間発達の結果生まれました。数100万年人類歴史を経ての私たちホモ・サピエンス地球覇者になったのも、この「信仰」絶対的社会集団力獲得した結果だと聞きます。
この「善悪」観念「怒り」結びつくことに、私たち人間心の問題の根源があることを、『入門編上巻』詳しく説明しました。「善は悪を怒る」という誤った観念で、自ら心身ダメージを与える感情である「怒り」積極的他人そして自分自身に向ける、「自ら不幸になる」という姿勢持つようになった、と。頭ごなしの善悪観念「怒り」捨て自己内面開放し、唯一無二自己の真実へと向かうことに「成長」へのがある。この視点の下に、この心理学が始まります。

「愛」にこの「善悪」「怒り」絡むことで、私たちのは、愛への迷路放り込まれる。そんな印象を感じます。
自分は精一杯の親しみと愛情を・・それを死に物狂いの苦しさの中で努力したのに・・それが踏みにじられたのだ・・。そうして怒り憎しみへと落ちていくこの人はあるいは、人生駆け出し時期に、人に好かれたければまず自分から相手を好きになることといった人生訓感銘受けたことがあったかも知れません。さらにさかのぼった思春期どう見られるかという自意識過剰になる漠然とした不安で、「意識の高さ」についての優越感を、他人に対して抱いたことがあったかも知れません。その「愛」は、「楽しみと喜びの共有」という素朴なものから、「こうあるべき」という道徳授業指図される儀礼のようなものへと変貌し、そので、遠い昔幼い頃子犬じゃれあうような素朴な愛への望みと、それが失われた悲しみがあったことを、意識表面からは葬り去られたまま・・。
またこの人は、その「高潔な意識」で、「ニセの愛」「あるべき愛を損なった姿」への激しい怒り憎しみ抱くようになっていたかも知れません。なぜならそれこそが、この人来歴「苦しみ」満ちたものにしていたから。愛の名に、頭ごなしの支配押しつけてきた人達・・。孤独あえいでいた自分悲しみに、何の暖かい視線向けることなく通り過ぎていった人達・・。それは「罪」ある姿です。自分だけは決してそうはなるまい。その怒り憎しみ守り通すことこそが、自分「愛」向かうための要塞なのだ、と信じるかのように。
そうしてこの人は、「ニセの愛」「あるべき愛を損なった姿」溢れこの世界で、自分こそ誰よりも、「本当の愛」へと近づく資格と能力持つ存在だと感じ始めるのです。自分遠巻きにして賑やか親しみ合う人々に、彼らニセの愛つながり合っているのだと、敵意向けながら。彼ら羨むような勝ち取る「勝利」によって、見返してやる、と・・。

再びここに、ターニングポイント現れます。そうして「復讐のための愛」駆られるようになったこの人姿とは、まさに、写真ネガのように、この人来歴憎んだはずの、愛の名の下に欲を振りかざす、傲慢な人間の姿なっているのです。こうしてこの人自身が、「罪」背負う人間になるのです。
この人は、うすうすとそのことを感じ取っている可能性があります。それがこの人不安定にします。接することは、まるで重罪裁判判決臨むかのような怖れ伴うものになり、「人に好かれたければまず自分から」という、空しくに残した人生訓看板での行動は、この人にとって、敵意向けたはず人々乞食物乞いするような卑屈ささえ帯びたものに。そしてこれも、「自意識の誤り」も働いてあまり奏するものにはなりにくく、冷めた目で人々に見下げられた感じるような出来事味わうにつれ、この人屈辱絶望地べたへと落ちるのです。

そうして「愛」「善悪」迷路地べたへと落ちた人に、分岐路現れるように思われます。
一つは、「憎しみ」支配されるものです。この人人生前向き模索失われます。「自発的不幸」閉じこもって考え行動してしまうことで生み出されるものと説明した憎しみに、こうした「善悪」をめぐる混乱含まれるものがある、ということになります。
もう一つは、そこまで否定的ではないものの、この迷路とどまるものです。「嘆きの陶酔」とでも呼べるでしょう。愛とはこうあるべきもの、なのに自分の心は・・という思いをたとえば日記つづることで多少鎮まる、さらにはブログなどにつづって公開することで、共感得ることが多少慰めになるかも知れません。心の闇側面を向ける自分感受性繊細さ・・といった、「意識の高さ」の優越感へと、再び戻しながら。「嘆く」ということが何か高貴なことだと感じる、単純自己陶酔感覚もそこにはあるでしょう(*7)。もちろんこれは「未熟」による感覚であり、その先何の答えが見えるものでもありません。
答え最後の道の先に示されます。ただしそこにまずあるのは茨の道です。憎しみ支配されるのを踏みとどまり嘆きの陶酔逃げることもせずに、自ら来歴憎んだはずの姿になっていた事実を、見据えるのです。
その時この人は、自らによって糾弾され、剥奪されるべき存在へと落ちるのです。自分自身に対して、「罪」抱える存在へと。 この人は再び「愛」から遠ざけられます。今度は、自分自身深い迷宮へと追いやられる形で・・。
このこの人人生初めて真の形において、「神との対話」生まれるように感じます。この人はただ崩れ落ち「神」救いを求めます。「神」が示す答えは、こうなるでしょう。「怒りを捨て、真の望みに還りなさい」、と。

ここで「この人」と書いたのは、もちろんかつて島野自身であり、自伝小説『悲しみの彼方への旅』で詳しく描写した大学3年から4年時期該当します。高校時代対人恐怖症振り払ったつもりであったものの未解決であることを自覚した自分心の問題取り組むため、心理学科のある大学3年次編入学カレン・ホーナイ精神分析助けを得て始めた自己内面への向き合いは、予想だにしなかった歩みへと導くことになりました。劣等感憎しみ感情をなんとかこらえながら(*8)、出会った一人女性への、次第に強くなる思い向き合う中で、自意識空想自分理想化して描いた純粋穏やか人間にはなれず、孤独嫉妬にあえぐ無様自分でしかない絶望(*9)。そんなに、「失わされた怒りを捨て、本当に求めていたものへと還るのだ」という夢の声が現れ、遠く葬り去ったはずの、小学校初恋の時の自分感情記憶蘇ります(*10)。そしてで、ひとり人間死に新しい人間再生される、人生での最大危機でもあり前進ともなる心の転換が、訪れるのです。
答えどこにあるのか。まず言えるのは、「怒り」によって真実から遠ざかり「悲しみ」によって真実近づく、そんな存在だということです。まず「怒り」捨てる、そして「悲しみ」受け入れる、という「選択」問われることになります。
そもそもなぜ私たちは「自意識の誤り」陥るのか。自分が相手を愛せば、相手も自分に愛を向ける・・。それが「あるべき姿」だという硬い「善悪」観念超え紐解くならば、見えてくるのは、自意識空想描いた相手への自分愛情の深さ「嘘」あったとしても、それを生み出したのは、愛の名の下に抱いた「欲」全てだったのではなく最後あるのは、ただ「愛」を望んだから愛を演じた、というものです。つまり、「愛の嘘」生み出す要因とは、「欲」だけではなく最後に、「愛への望み」そのものが「偽の愛」を生み出すという歯車があると思われます。
もはやそこに「嘘」なく自分が相手を愛せば、相手も自分に愛を向ける。それが自分の望んだ、あまりにもあるはずの世界だったのであり、それを損なったのはむしろ「現実」だ、という思いさえ、ほとばしるのが見えるのです。悲しみに・・。この悲しみが、恐らくそこに一片真実があることを示すのでしょう。

ただしそうして「真実」近づいていくとしても、それだけでは「答え」見えません「歩む」必要がある、ということです。自らの愛の真実へと向かう歩みをです。「変化軸2 「真」と「偽」」で述べた通り、「真実の愛」に向かう歩み、ではなく。そんなものは人間薄っぺらい「意識」からそう分かるものではない。これも私たち愛の真実一つだということになります。
「偽の愛」「積極形」について説明してきましたが、これを自分自覚して「これでは駄目だ」怒り向けるのは、再び真実から遠ざかることでしかありません。そうではなく、自分にあった「偽の愛」悲しみただ見つめた時、私たちは真実一歩近づくのです。「答え」見えないまま。
変化全てへの視野を持った時、「答え」何なのか見え始めるでしょう。

・愛への内なる阻害と逃避
「偽の愛」についてはもう一つ「消極形」があることを指摘しておきましたので見ておきましょう。自分感情、そしてへの望み感情否定しようとするというものです。
これについてはまず、自分「偽の愛」背を向けるというのは問題としてあまり成すものではなく、背を向けることが問題である時そのなのだ、といった言葉が浮かびもしますが、それよりもまずは、自分感情全体うまく向き合うことができず、その結果自分見分けることもできないというのが、問題として起きる理解するのがより正確かと思われます。
ですのでここでは視点を広げ、都合よくは行かない現実といった外部からのものではない、その人内部で生まれる愛への阻害、そして愛からの逃避といったことがどのよう起こり得るのか、心理学的整理をしておきましょう。まあ何か軽いものぐさのようなものから、何か深い心の闇を隠した封じ込めのようなものまでを広く見渡してです。

・「愛」と「自尊心」の衝突
すると大きく3つほどの心理的テーマとの関連性が考えられそうです。
まずは「変化軸2 「真」と「偽」」で述べた「愛」「自尊心」衝突です。
まず単純なものから見ると、に言う「プライドが邪魔をする」ささいな喧嘩の中で意地を張って、売り言葉買い言葉もあって相手への破壊的言動を取ってしまい、本来愛しているはず相手との関係壊してしまう。まあ家族ドラマ基本(?)とも言えるようなでもあります。これはやはり上述自尊心錯綜舞台上起きるわけですが、問題プライド問題切り替わるというよりも、「愛され自尊心」「打ち負かし自尊心」といった未熟な自尊心姿勢あぐらをかいて、豊かに育てることにも、そして心の成長全般にも向き合えないという、成長未然姿問題と言えます。まずはそうした未熟な自尊心姿勢転換向き合うことが、心の成長への入り口です。
一方それとはと言える感情流れとして、向かおうとするとプライド挫かれ向かえなくなるという動きが、多くの人人生体験するものにもなります。自分相手相応しくないというごく現実的理性的判断である場合もあれば、何か自分のある側面についてのコンプレックス劣等感からの、むしろ現実状況とは不釣合いしりごみである場合もあるでしょう。
未熟なプライドにとって、不用意陥ることは、に打たれる砂の城のように足下をすくわれ自信感失ってしまう危険のあることです(*11)カレン・ホーナイプライド妨げあう様子を、「神経症的なプライドは愛の敵なのだ」印象的言葉指摘していましたが、言い方をするならば、「プライドにとって愛は脅威」なのだということになるでしょう。それが深い真の愛あるほどに、と言える形でです。

・「根源的自己否定感情」の壁
なぜ未熟なプライドにとって陥ることが脅威なのか。それは「根源的自己否定感情」への「再面」問われるからだ、とハイブリッド心理学は考えます。
「心を病むメカニズム」始まりハイブリッド心理学が考える根源的自己否定感情は、自分がこの世に生まれ出るにあたって否定拒絶された存在だという、漠然とした不安怖れ不信怒りそして失意悲しみなどを伴う深い自己否定感情であり、「自分は何かにおいて劣り愛され得ない人間だ」という漠然とした感情として、自尊心深い影落とし向かうことを妨げる感情でもあります。
重要なのは、この「根源的自己否定感情」が、「乳児期」から「幼児期」にかけての、「意識」がまだ未発達な、「自分」「他人」区別もあまりつかない、「自他未分離」渾然意識段階起源があることだとハイブリッド心理学は考えます(*12)。その結果、自分がなぜどのように拒絶されたのかという理由づけ問わない体に染みこんだ、生理的な否定感情になるのだ、と。
物心ついていくで、いわば後づけで、この身体的自己否定感情とも言えるものへの意味づけ考えるようになります。こうでなければ駄目なんだ、人の言うようにできなければ駄目なんだ、と。
そして自分にストレスをかけて生きる人生を、生き始めるわけです。こうなれなければ、と。そして自分うまくいけていない感じたことについて、コンプレックス抱いたりします。

理解しておくと良いのは、私たちの「意識」は、この「根源的自己否定感情」乗り越えることはできない克服することはできない、ということです。
なぜなら、「意識の構造」異なるからです。「根源的自己否定感情」生まれた時渾然意識世界と、私たちがその中で生きる、「自意識」芽生えた後明晰意識世界とは。そのため、悪感情解きほぐしその起源自己分析する試みは、記憶力限界ともあいまって、幼少期前後つきあたります。自分染みついたこの怒り悲しみが、いつなぜ始まったのか記憶が、そこで途切れるのです。薄いもや世界見えなくなるかのように。
だから私たちの「意識」によって、「根源的自己否定感情」克服することはできません「根源的自己否定感情」よりの、私たち自身意識思考心の姿勢誤りであれば、思考法行動法価値観「選択」「転換」として修正することはできます。しかしその誤った思考や姿勢・・たとえば「こうなれなければ」という自分への頭ごなしのストレス抜け出したとしても、その人ストレスから開放されプラス感情転じる・・のではなく、むしろ、もはや「意識的転換」では乗り越えようもない「根源的自己否定感情」が表面化するという事態起き得ることを、これは示唆するものでもあります。そうした一場面を例えば『悲しみの彼方への旅』の、自己分析取り組み突然「血を吐き出すような涙」溢れてくる姿として、読むことができるでしょう(*13)
これは、それで良いのだということです。そこに、向き合うべき「根源的自己否定感情」あるのである限り。
「根源的自己否定感情」は、意識的「自尊心」としてはもう十分達成達した心の成長成熟歩みかなり終盤至ってさえも、「愛」向かうにあたっての残影のようなものを投げかけることもあります。命の重みにおいて愛する対象をめぐって、「神」のような高みにある存在に、自分が何か、地べたをはいずりまわる小動物のようなみすぼらしい存在であるかのような感覚・・。「愛への劣等感」とでも呼べる、漠然としたマイナス感情です(*14)「根源的自己否定感情」というのは、程度こそあれ人間にとって宿命的この心理学が考えるものであり、実は「神」という観念生まれたのもこの宿命的心理上になのかも知れません。
では「根源的自己否定感情」どう克服され得るのか。私たちの「意識」によって克服することはできないというそれは。
一言でいえば、私たちの「意識」克服するのではなく、私たち自身「存在」がそれをどう克服するか、私たちの「人生」どうそれを克服するか、というテーマになるということです。どういうことなのかを述べていきます。

・愛への「見えない罪」
への内なる阻害を生み出す2つ目テーマもすでに「「偽の愛」と「罪」」で触れているもので、「罪」です。
これも自尊心との衝突によるへの阻害同様に、表面意識思考レベルにおける妨げと、「根源的自己否定感情」レベルにおける妨げという、二重構造妨げになります。
意識思考レベルにおいては、「愛がこうあるべき」「こうあれれば自分は愛されるべき」そして「正しければ愛されるべき」というように、「愛」善悪思考絡むごとに、「あるべき姿でないもの」に対して「愛されるべきではない」「愛されることを望む資格はない」といった糾弾思考持つようになり、やがてその糾弾怒り自分自身向けられることで向かうことが妨げられるものです。
これは「「偽の愛」と「罪」」で見てきたように、「あるべき愛を損なった世界」への怒りの中で人生生き始め自分は決してそうはなるまいという「意識の高さ」へのプライドで、まさに自ら愛を損なった傲慢な姿へと陥っていくというのが、まるで人間用意された一つの道であるかのような流れとして起き得ます。
そうして他人向けられていた怒り自分向かってくるというターニング・ポイントが、この人人生自分向き合い直す転機になることもあるでしょう。もちろんただ自分批判したところで「成長」へと転じることはできず何より「価値観の転換」取り組むことが重要になります。島野場合も、大学4年でなんとか心の危機脱したものの、価値観転換力強く成長へと舵取りをするようになるのは社会人になるのを待つこととなり、大学院ではゼミ室談笑の輪に、対人動揺に悩む自分がそこに入るのは迷惑をかけることではないか気をもんでいた場面などが記憶にあります。
島野のこの大学院時でも言えることですが、意識表面上ではただ過度の繊細さへの過剰な思いやりだけが、本人意識においても見えることがあります。しかし「愛」「善悪」「怒り」結びついた心の世界で、同時に、愛を得ることが他人への攻撃を帯びるという心の分子生まれることが、そうした「罪」感情背景にあることを理解しておくことが、克服へのになるでしょう。

「根源的自己否定感情」は、自尊心落とす影としてで触れた「愛への劣等感」似た深さで、漠然とした「罪」感覚によって向かうことを妨げる影投げかけるように思われます。
「善悪」結びつける未熟な価値観も、をめぐる攻撃性も、とうの昔克服し、歳月重ね「自発的幸福」さえも芽生え心の成熟至ってさえ、自分にとって最も重要「愛」向かおうとする行動考えた時、何か漠然と、そこに何か間違っているものが含まれているのでは・・という、かすか不安を伴う感覚が湧く・・。
これは恐らくは、最も深い「偽の愛」対応した、「見えない罪」への不安とも言えるものと島野としては考えます。
つまりそこで「罪」への不安になるものとは、自分はね返ってくる「意識の高さ」でもなければ、自分「愛」「欲」ではないかという内省(この場合への「内なる妨げ」というものではないでしょう)でもなく、「偽の愛」と「罪」」の最後で述べた、愛を望んだから愛を演じたという心の動き含まれた、もはや「嘘」とは言えない嘘要素にあるのではないかと。これがやはり、「根源的自己否定感情」同時に、生まれたのだと考えます。
それが、自分にとって最も大切な「愛」何か壊してしまう・・。そんな、「見えない罪」にして、向かう一歩を、躊躇する。そしてさらに「愛」向かおうとする望み何かしらに、をしてしまう。そんなことが、起きているのではないかと、島野としては考えています。
広く社会にわたって、そしてそのことをもはや意識することさえあまりない「意識」始まりにおいてです。この点で、本来あるはず「愛」とその願望否定され見えなくなるという「偽の愛」「消極形」成すのは、実はこの「愛への見えない罪」への不安だと言えるのではないかと感じます。
その結果、私たちは日常で、との「純粋な愛の発露」とでも言えるものを、あまり目にすることがなくなっているように感じられます。それはむしろなことであり、わざわざドラマとして描かれたりします。
またこの「愛への見えない罪」不安が、私たち人類社会文化形作ってさえいると、島野は考えます。つまり、「こんな愛情表現行動なら良い、許される」という「形」が、人々風習儀式として成り立っていくのです。日常挨拶結婚までの段取りなど、多岐にわたって。時代地域によってかなり異なってくるようなものとしてです。

以上、への「内なる妨げ」として「自尊心との衝突」「罪への不安」という2つ大きなテーマを見てきましたが、私たちの心の成長歩みとして概観するならば、まずは自尊心への姿勢善悪思考における未熟さを、私たち自身意識的実践として克服卒業することです。それによってへの、自己内部におけるあらかさま妨げ大きく克服されるでしょう。一方で、「根源的自己否定感情」影を投げることによる深く漠然とした内なる妨げは、意識努力によって克服できるものではなく、私たちの「存在」が、そして「人生」が、それをどう克服するか問われる。まさにそこに、心の成長と成熟後半そして終盤と言える局面がある、というものになります。
イメージとして言うならば、「根源的自己否定感情」自尊心投げる「愛への劣等感」は、目の前に流れる暗雲のように現れることがあります。「愛」良く見えなくなります。その一時的視界不良惑わされない姿勢確立重要になるでしょう。
一方「根源的自己否定感情」投げる「愛への見えない罪」不安は、「愛」向かおうとして現れる谷間のようです。「愛」見えなくなるのではありませんが、足下見えない崖への不安が私たちを躊躇させます。ただこの暗雲大きさ深さほどではありません。「罪」というテーマについては、私たちの社会行動としてどんなものあるのかないのか、かなり客観的答えがあります。外面行動についてはそれを安全弁として、自ら進み得る道模索すればいい。
そのに、「愛への劣等感」「愛への見えない罪」取り去った純粋「根源的自己否定感情」そのもの現れ「意識」では乗り越えることのできないそのを、その人「存在」そのもの、もしくは「人生」が、乗り越える訪れ得る、ということになります。

・「愛」と「自由」と「自己の真実」のターニングポイント
への「内なる妨げ」3つ大きなテーマがあると述べておきました。
その最後のものは、イメージで言えば、向かう先に、「愛」とは少し別の方角別の目標現れるというものです。そのどちらを取るか、選らばなければならない、というものとしてです。2つ同時得ることはできない、というものとして。
ここまで、自尊心姿勢善悪思考など、偽の軸にもつながったものとして述べてきましたが、この最後のものはもう偽の要素には関係しません。むしろ、真の要素として「愛」への「内なる妨げ」なり得るものです。そしてこれも、「愛」同じように、守るべきものとしてあります。
それは「自由」です。「心の自由」でもあるでしょう。
「愛」どのよう「自由」妨げ合うのかを、『入門編下巻』のこの一文端的に述べています。「「愛」は基本的に、「自由」を損なうのです。健康な心においてさえ。そして愛のために自由を犠牲にした時、愛も損なわれるのです。」と。(*15)
ここまでに、「未熟」の中で「愛」を求めて出会うターニングポイントというのをいくつか述べてきました。愛を激しく望めば望むほど得にくくなるというターニングポイント「愛」が「憎しみ」に変化するというターニングポイント。そして、傲慢な「意識の高さ」の刃がやがて自分に向かってくるというターニングポイント
それらが、「未熟」で、人生の道見失う方向へと向かわせターニングポイントであるのに対して、それとは一線を画する、「未熟」から「成長」そして「成熟」へと向かうよう転じさせ得る、ターニングポイントがここに現れるのを、ハイブリッド心理学は見るのです。

それは、見失った「自己の真実」取り戻すというターニングポイントです。
つまり、を求めて自分を見失う、ということが起こるわけです。なら「愛」を捨てて「自由」を選べば良い、などと安直に言えるような話ではなく、重要なのは、自分に嘘をついて人を愛することはできない、という心の真実見据えることです。
私たちは未熟で、愛されることを望みそのためにはこんな自分にという自己像演じようとするのですが、それが自ら真実損なったものであった、私たちはまさに「腹背(ふくはい)に敵を受ける」かのような心の状態へと陥るのです。「嘘」というのは誰も本能的嫌悪感じるものであり、「こんな自分になることで人に愛されれば・・」という心の動き自分への嘘含まれ心の底は、意識表面自覚するよりもに、この心の動き全体背き始めるからです。「こんな自分」に向かって走ろうとする重くなり、「こんな自分なら・・」という空想賞賛が向けられると浮かべたは、や、嘘をついた人間向けられ「嫌悪」「怒り」そして「軽蔑」視線イメージへと。意識表面はまだ、「愛される必要がある」としか動かないまま・・。袋小路追い詰められます。(*16)
これがやはり、「根源的自己否定感情」によって置き去りにされた心通る道として、私たち人間用意されているのだと感じます。その先に、「愛」と、「自由」そしてこの後者手を組んだ「自己の真実」の、取るのかの選択成される、そんながです。まさにそこに、私たちの「存在」そのものが、「根源的自己否定感情」乗り越えるポイントがある、ということになります。

・「存在」が「根源的自己否定感情」を乗り越える時
もちろん「愛」「自由」時に両立し得ないことは、私たちが健康な心状態において本来十分に感じ取れることであるはずであり、それをうまく調整できるようになることが「行動法」習熟でもあり「成長」一要素でもあるでしょう。
一方心の病み傾向・・つまり「根源的自己否定感情」に始まり分断された心抱えて生きる個人においても、「愛」硬く背を向ける人格要素十分発達していたならば、「愛」「心の自由」どちらを取るか意識的選択自覚するかもしれません。例えば『悲しみの彼方への旅』では、「「偽の愛」と「罪」」で触れた、島野自身新たな人間再生される激動時期への、まさに船出を告げるような出来事として、「愛」「心の自由」選択という課題直視する場面があります(*17)
しかしそれはあくまで「意識」の中で問う選択でしかありません。しばしば自分への建前思考なってしまうようなものとして。
一方真の選択として、「根源的自己否定感情」によって置き去りにされた「愛」という課題乗り越える動きは、もはや「意識」によってではなく、私たちの「存在」そのものによって成されます。
つまりその時、私たちの「意識」は、つまり「心」は、その選択を成すことはできず、死ぬのです。
ここに再び「意識の高さ」の刃自分に向かったターニングポイント分岐路現れたものに引き続いて、「神との対話」現れるように感じます。
いや、との対話というより「悪魔」「神」駆け引きのようなものがイメージされます。「悪魔」この人に、こう囁きます。自分の死を見せつけて、自分を愛さなかった人間を苦しめてやれ、と。
「神」はあまり饒舌何か語ろうとはしません。それでも懸命「神」言葉求めるならば、「神」はただこう言うでしょう。「ただ生き続けなさい」と。

そうしてこの人「意識」消滅し、少し時間を置いて、そこに「新しい世界」現れるのです。(*18)
占めていた、自分見る人々白い目イメージ消え「こんな自分であればこう見られて・・」という自意識の惑い含まない「まっさらな現実」に向かって進もうとする心の力回復しています。とても健康な心の状態であり、しばしば、「今まで生きてきて一番良い心の状態」本人自身感じるものになります。
良い心の状態であるとはもちろん、今までこの人苦しめてきた「愛」というものについての、この人心のあり方変化でもあります。まるで「こんな自分だとこう見られて・・」という空想騒がしい脳の皮一枚はがれたかのような、平安さ一段向上したで、人に向かうことのできる自分感じます。
ただそこに少しパラドックス的なことも起き始めています。それは「こんな自分であれば」空想したの、まさに理想方向に向かう変化でもあるのですが、これを足場に、今まで渇望したそんな自分になって人に近づきたいという願望実現へとこれから向かうのかと言うと、どうもその願望自体同時消えているのです。その願望はもう過去のもの、となってはどうでもいいような・・。実はこのパラドックスにこそ、「答え」あるというものになります。
もちろんこの改善感永続的なものではなくほどなくして以前同じような、惑い多き心の状態戻るでしょう。「こんな自分」になって愛されれば・・という衝動と、それがうまくいかない動揺と、「変わっていなかった自分」への失望に。
それでも、決して後戻りすることのない変化起きています。「足元の強さ」増大とよく呼んでいる変化であり、この人自身意識に見える「こんな自分」変化でもなければ、この人に流れる感情変化でもなく、それらを見るこの人「存在」そのもの、いわば「意識の根元」変化なのです。「強さ」増す方向へと。後戻りない変化として。
つまりこの人「存在」そのものが、「成長」成したのです。たとえばこれを『悲しみの彼方への旅』では、私が「病んだ心の崩壊」危機を越え、相変わらず苦しい「あの下級生の子」への葛藤向き合う場面などに読み取れるでしょう(*19)。それは一言で、自ら生きるこの「現実」によりしっかり力強く立った上で、今まで変わりない感情向き合う。そんな変化です。
そしてその心の変化その人自身が、これから「生きる」ための心の地盤としてよりしっかり握り締めるほどに、またほどなくして、「未知の感情」出現するようになるのです。『悲しみの彼方への旅』のその場面では、「生きることは楽しいこと」といった感情として(*20)

・「意識」には見えない成長
この「意識には見えない成長」こそに、私たち人間「心の成長」さらには「人生」答えがある、とハイブリッド心理学は考えます。それは私たちが普段「こんな自分になれたら・・」「自意識」働かせ空想し、やがて「理想に近づけた!」自惚れたり、「なれなかった・・」落胆したりするといったこととは、全く別のところにある、ということです。そうした心の成長変化が、「愛を得る」ことによってでもなければ「愛に背を向けて自由を選ぶ」ことによってでもなく、述べてきたように、「自らの愛の真実」へと向かう歩みによって生まれるのだ、と。もちろん「心が死ぬ」だけでこの成長生まれるのでもなく
一つ問い出てくるかと思います。この「意識には見えない成長」積み重ねた先あるものとはか。人生を通しての、その究極的ゴールとは。
もちろんそれがハイブリッド心理学主題に他なりません。そしてそれが、全体−1 ハイブリッド人生心理学が目指すものでまとめた、「自己操縦心性の崩壊」「否定価値の放棄」「永遠の命の感性」「超越的幸福」という4つの大きな通過道標を持った人生歩みになるわけです。
そこでの「自己操縦心性の崩壊」というのは、歩み1-2 心を病む仕組みとその克服において「心の病みの傾向」治癒として詳しく説明したものであり、ここで「存在」「根源的自己否定感情」乗り越える姿として「心が死ぬ」という谷間通るものとして描写したものが、心の病みの傾向を抱えた個人において、「思春期」から「青年期」にかけて「今までの心の大きな崩壊」として起きるものに他なりません。その位置づけを、「脱皮成長」のようなものとして、その後人生においても終生起き得るものとして。

これはどういうことなのかと言うと、この心理学「未知の異次元への変化」などと呼んでいる心の成長と成熟への変化は、心の病み傾向治癒を生み出し、またその後生涯においてより健康度増す形で起きる「心の死と再生」が、その顕著通り道になると言えるのですが、それは同時に、この人が「愛」に向かおうとした心における死と再生に、他ならないということです。
つまりそれは、この人の中で、「既知の愛」によって生きようとした心が死に、「未知の愛」によって生きる新たな心が再生するという現象としてある、ということです。
そしてそれが最後には、「永遠の命の感性」「超越的幸福」といった、明らかに私たち人間における「心の豊かさ」最終的ゴールになるであろう境地へと、この人導くものになる。
これはいったいどういうことなのか。どのような仕組み起きることなのか。その背景となる私たち人間の、この地球上で生きる他の動物に対する立ち位置と言えるような事柄を、おおよそ述べてきました。さらにもう少し、私たち人間「愛」感情バリエーション全て確認した上で、「答え」を述べたいと思います。

・変化軸3 「健康」と「病み」
「未熟」から「成熟」へ、そして「真」「偽」に引き続いて3番目、そして最後となる「愛」感情変化は、「健康」「病み」です。
これは位置づけとしては、「未熟から成熟へ」という第1変化軸「心の豊かさ」という主題に対する、この人「存在」そのもの位置示し「真と偽」第2変化軸は、その第1変化軸に対しどのような方向向かおうとしているかという、この人「存在」姿勢方向示すものとして、この2つが、「愛」というテーマで示されるこの人「存在」のあり方示す軸になるものだと言えます。
一方最後「健康と病み」という第3変化軸は、この人「存在」そのもの変化軸というより、「存在」がまとう感情材料変化軸になるものです。この表現分かりにくいかと思いますが、「全体−2 「学び」の全体構成」に示した、運転して進む道のりというイメージ照らす分かりやすいかと思います。「愛」感情第1変化軸は、その道のりにおけるその人到達場所であり、第2変化軸この人自身そして運転する向きです。そして「健康と病み」第3変化軸は、進めようとしているその場荒れ具合とでも言えるものに相当します。幼少期に始まる長雨のような心の病みの傾向影響で、濁流の流れる目の前にあるかも知れません。あるいは蟻地獄のように引きずり込まれるような危険場所があるかも知れません。
つまり概して、がそれに「巻き込まれない」よう、「呑み込まれない」ような姿勢築くことが課題になるという、「病み」傾向影響による、「愛」感情変化が、人間仕組みとしてある、ということになります。
それは具体的どのようなものかを、ここで簡潔整理しておきます。

ここでまず「心の病み」傾向とはそもそも指すものかについては、詳しくは「歩み1-2 心を病む仕組みとその克服」に譲るとして、
 −幼少期からのマイナス体験起因することが考えられる心の荒廃
 −人格分裂不整合
 −不合理自己コントロール不能性
などの心の歪み起きている状態、と理解すると良いでしょう。
生涯歩みにおいて・・その歩み始めにおいて、ということになるでしょう、そうした「心の病み」傾向への変化で、「愛」感情はどのように変化得る・・歪んだり、偏ったものになり得るかということになります。
およそ3つ方向性になるでしょう。「愛の感情の荒廃化」「愛の誘引の膨張」、そして「病みや未熟を優遇する愛」です。

「愛の感情の荒廃化」は、「心の荒廃」一環として起きるものです。すさみ感情荒廃性帯びてくる。
これは基本的に、感情「破壊性」帯びるという理解で良いでしょう。
得ようとする感情他人全般への攻撃感情伴って湧くようになるというものと、相手への愛着感情そのもの攻撃性帯びる、という2形態があると言えるでしょう。前者傲慢な「意識の高さ」起きることとして「「偽の愛」と「罪」」で描写したものであり、ここではまだ感情そのもの病的に歪むことは免れているかもしれません。一方後者は、その典型「破壊が快を帯びる」、つまり病的発達した攻撃性と、愛情への欲求、そして得る満足感脳内ショートカットを起こしたかのように結合するもので、この最も「末期的」発達したものが「快楽殺人」になるというメカニズムが考えられる、病的な歪みのものになります。
こうして病的に破壊的な愛の衝動を、それ自体単独取り上げ「治す」、ことができるような道筋は、ハイブリッド心理学としては知りません。言えるのは、「歩み1-2 心を病む仕組みとその克服」で述べているような、心の病み傾向克服全体を通して、がまとった攻撃性全体捨てていくと同時に、感情がどのように破壊性帯びたのかの、自己分析的な解きほぐしがその道筋になる、というのがハイブリッド心理学での考えになります。

「愛の誘引の膨張」は、「愛」が、心の病み傾向を抱えた個人に対して、健康な心に対しては持たないような、特別強力誘引、つまり引き込まれ心が占領支配されるような魅力価値そして重み帯びるものです。
これは一言で、が、心の病み傾向生み出した、この人心の苦境一気解消する魔法であるかのような様相を示すで、と言えるものです。もし得られれば、それはもともとこの人にあったへの願望満たす同時に、心の病み傾向生み出した、自己統制不可能ストレス圧迫感苦しみ空虚感他人への怒り憎しみ嫉妬などあらゆる耐え難いマイナス感情霧散させ得ることに加え、やはり心の病み傾向の中で発生した人格の亀裂矛盾状態を、相手愛する感情おおうことでおおい隠すことも可能になります。
結果、深刻な心の病みの傾向を抱えた個人において、うまくいく恋愛出会った時、病みの傾向全て消えたかのような姿一時的示すことがあります。問題はその恋愛破綻した・・この流れにおいては相手への過度の依存や執着亀裂を生み出すことで破綻はしばしば免れないものであり、その時まさに魔法解けたかのように、心の病み傾向が生み出す意識の苦境全てこの人一気さらされ精神破滅のような状態引き起こす危険が出てきます。

・「心の病み」と「愛の真実」
そうして、心の病み傾向が絡んだ「愛」は、その激情波乱姿がしばしばドラマとして取り上げられます。
しかしハイブリッド心理学はさらに、心の病み傾向関係に、何かそこに「真実」へと向かうターニング・ポイントのようなものが仕組まれていることに、を向けます。
つまり私たち人間は、むしろ「健康」において、概して「愛」皮相化軽薄化、あるいは「普通」既製服合わせるためのような平準化希薄化帯びる宿命抱えるのです。「自意識」持つことの宿命的結果として。これは「愛への「見えない罪」」でも述べたものです。
それに対し心の病み傾向はそうした「愛への安全弁」とでも呼べるもの壊す、というよりも、心の病み傾向持つに至る来歴で、健康な成長誰も身につけるそうした「愛への安全弁」を、身にまとい損なうというような状況生まれ得る。そのようなことが起きるのだと感じます。
その結果起きることとは、「心の病み」「愛の真実」という2つテーマが、何か特別近いもの、場合により何か手を組むものであるかのように現れるケ−スがある、ということです。
もちろんそれは「心の病み」「愛の真実」向くものとしてあるというのではないでしょう。むしろ「愛の真実」から遠ざかっていく過程として起きる問題であることを、まさしく「歩み1-2 心を病む仕組みとその克服」で説明しています。
それでも私たちは、「心の病み」という問題通して「愛の真実」とは何であったのかに、気づかされる。そんな側面がある。そのようなことがあるように感じられます。他ならぬ島野自身にとり、私たち人間「愛の真実」とは何なのか考えをまとめたものとして『理論編上巻』があり(*21)、それは「愛」をめぐって激しく揺れ動く病んだ心への向き合いから得られた考えに他なりません。例えば深刻心の病み傾向を抱えた「Y子さん」への援助体験を通して。そして私自身の、心の病み傾向克服から始まった人生を通して。

これはどういうことなのかと言うと、それはやはり、病んだ心に対して「愛」持つ誘引「膨張」に、「病み」ではない「真実」側面がある、ということに他ならないでしょう。
つまり私たちは、病んだ心にとっての「愛」重みに、健康な心においては見逃してしまう、さらには見失ってしまう、本来の、そして真実の、「重み」があるのを、時に見るのです。
ではその「重み」の、真実部分とは具体的があるのか。
その一つに、カレン・ホ−ナイ「忘我衝動」があることを指摘しています。自分というものを忘れ何か大きなもの身を委ねる感情最も敬虔「神への祈り」は、そして芸術身を捧げる感情は、これが生み出すのでしょうし、人間「惑い」捨てる一つ姿なのだと感じます。
そしてもう一つに、そもそも「心の病み」が、何から始まるのかを振り返ると良いでしょう。それはこの世生まれ出て、誰も与えられるはずであった「愛」得ることへの躓きから、始まると言えるでしょう。そしてに、幼い心強く求めた感情が、受けとめられることなくくすぶり残り続ける・・。
それを考えた時病んだ心に対して「愛」持つ「重み」は、もはや「膨張」などではなく、むしろそこに「命」ありのままの姿真実かいま見えるような感覚さえ、私たちは持つのです。「健康」で、むしろ見失いがち真実を・・。

もちろんこのように幼少期強い愛情要求満たされないままでいることが、心の病み傾向一因だという考えは、多く取り組み立場共通した認識であり、ハイブリッド心理学同じだと言えるでしょう。
しかし、ではその克服どのようなものとしてあるのかについての考えは、ハイブリッド心理学とは一線画するものになると言えるでしょう。つまり、多く取り組みは、この不遇な心寄り添い、その幼少期得られなかった「愛」を、その人大人になったにおいて「与え直す」ような助けが、大切なのだと考えるかも知れません。
ハイブリッド心理学は、むしろそのとも言えるを取ります。幼少期満たされることなく置き去りにされたその強い「愛」への願い受けとめるべきは、他ならぬその人自身なのです。
そこに、私たちにとって「未知」の、心の変化への世界始まります。それは「魂の感情」この心理学が呼ぶ、私たち人間心自身備える、治癒成熟への神秘の力世界です。これがどのようなことなのか、の「「「愛」と自意識」と「魂の感情」から述べていく「答え」として説明していきます。

心の病み傾向による「愛」あり方歪み3つ方向性として、最後のものについて簡潔指摘しておきましょう。
これは荒廃化誘引の膨張など感情自体変化というよりも、感情そのもの一見して健康なものと変わりないように見えるものの、その「愛」構図の全体が何か病みの中にある、というものです。
それは一言で、「病みや未熟を優遇する愛」呼べるもので、何か病みや未熟を優遇する、さらには押しつけるような「愛」です。
よく目にする事例としては「共依存」呼ばれるもの。これ自体どのようなものか説明不要でしょう。その構図における病みとは、恐らくは、双方対人感情社会行動全般妨げがある状況で、その「愛」がそこからの逃避役割帯びているものと言えるでしょう。その状況において互いへの依存束縛社会行動改善妨げ感情不安定度増し、さらに互い「愛」引き込まれ、さらに健康社会行動への回復妨げられる、という悪循環膨張により破綻免れ得ないものになりがちです。
また精神医療世界では、「代理ミュンヒハウゼン症候群」というのが有名です。関心得よう自ら病気怪我おとしめ「ミュンヒハウゼン症候群」のさらに変形であり、他人主に近親者病気怪我におとしめ自分献身的援助者として賞賛得ようとする。子供盛った上献身的理想母親演じる、といったものが典型です。(*22)
そこまではっきり病的ではなくとも、「病みや未熟を優遇する愛」結構社会散見されるものと言えるかも知れません。「感動ポルノ」という言葉聞いたことがありますが、障害負った人立ち上がろうとする姿、また際した人家族などへの感謝を述べる言葉といったものなどばかり感動覚える人がいるのかも知れません。もちろんその感動があると見る必要など全くない一方で、ごくありふれた健康日常輝き見出せない反動のようにそうした傾向現れているのだとすると、何か問題潜んでいる可能性あるとは言えるかもしれません。
いずれにせよこうした「病みや未熟を優遇する愛」には、における「真」「偽」「病み」という全て混合があるという印象を感じます。そのそれぞれ側面丁寧切り分け守るべきもの克服するべきものそれぞれ適切取り組みをしていくことが、克服へのになるでしょう。

・性衝動の心理医学
「健康」「病み」というに関連し、「性衝動の心理医学」というテーマについても簡潔触れておきましょう。私たちは「性の衝動」というものに対して、健康成長そして成熟という観点から、どのような理解をし、どのような姿勢向き合えばいいのか。
ハイブリッド心理学からは、3つほどの視点が出てきます。
「病み」による「愛」感情歪み方向性は、そのまま性衝動より端的現れること。
「病み」傾向影響というものを超えて広く、私たち人間に見られる、性の刺激膨張
そして性衝動が私たちの「心の豊かさ」にもたらす影響とはどのようなものか。

まず、「病み」による「愛」感情歪み方向性は、そのまま性衝動より端的現れます。
「荒廃化」および「誘引の膨張」という2つにおいてです。
まず「荒廃化」つまり衝動すさんだ、破壊的な性質帯びるという側面については、もちろんその「末期的」姿「強姦殺人魔」といったものになるのでしょうが、ハイブリッド心理学関心向けるのは、もう少し健康との境目現れる段階での・・つまりその人残る健康な心から、何らか心の痛み向き合い得るようなものとしての、歪みです。
それで言うならば、たとえば性衝動が、すさんだ自己嫌悪感情に、そしてそれとくべ合うように「堕ちて」いくというような衝動として湧くといった性質帯びるといったものがあります。もしその衝動まかせたら、自分がただ性行動にとりつかれた廃人のような姿なるかのようなものとして。そういえば太宰治『人間失格』最後場面がそんな描写であったように思います。
そうではなくとも性行為イメージに、何か淫靡色あい混じるかも知れません。いたぶる耐える耐えさせる・・この端的なものが「マゾヒズム」「サディズム」になるのでしょう、吸血鬼のように相手情動反応すするなどなどといった、もはや「愛」とは言えない情動うごめき色あい

そうしたすさんだ色あい帯びる否かに関わらず、性的な接触へのイメージ衝動は、病んだ心において、健康な心におけるものを大幅に膨張させた誘引持つと言えそうです。
たとえばこれについてカレン・ホーナイは、「異性と一対一でいる場面で無差別的に性的雰囲気を抱いてしまう人物には、その人自身が自覚しているよりもはるかに広範囲そして深刻な、対人感情の全般的な障害が認められる」指摘しています。
性的接触誘引膨張は、「変化軸3 「健康」と「病み」」で述べた誘引膨張合成され、「性愛」つまり性的接触のある愛が、この人にとってあまりに魅力あるもの化すことになります。
もちろん性愛魅力あるものに映るのは、健康な心においても、思春期から壮年期といった、人生における長い期間において言えることでしょう。
その違いについては、病んだ心に対して性愛は、闇夜に輝く満月のようであり、健康な心において性愛は、昼間の青空に見える満月のようだ、という表現をしています。つまりその明るさ絶対量同じなのだが、その周り状況違いで、全く違う段違いの明るさ惹きつけるものになる、と。
これは、誘引膨張が「変化軸3 「健康」と「病み」」で述べたようにさまざま情緒的不具合一気全て解決する魔法のような魅力帯びるというものに対し、性的刺激性的満足誘引膨張は、感情抑圧により生じる「身を削るような空虚感」心の病み傾向症状と言える慢性的恒常的圧迫感ストレス不安絶望といった、身体的レベルでの悪感情状態への麻酔剤役割を持つと同時に、抑圧により出口を失った情動エネルギーはけ口として性衝動向かうことで緊張緩和するといったメカニズムが考えられます。ダム決壊防ぐための放水口のように。
性衝動が帯びる淫靡色合いについても、情緒的にははっきり意識されないものが性衝動にいわば場を借りるように表面化しているものと理解して良いでしょう。

性衝動の歪み過度の膨張悩みである場合も、ハイブリッド心理学からの取り組みは、他の悩みきっかけ取り組む場合同じ心の治癒と成長への総合的取り組みになります。
つまり性衝動の歪みという限定した問題よりも、まずは社会生活対人行動での動揺マイナス感情全般取り組み課題としてより重視し、「感情と行動の分離」に始まる「取り組み実践」総合的進めた上で、必要応じ上述の、どのような感情の歪み性衝動の歪みとして表面化したかの自己分析行ってみるといったものになります。そこで感情の歪みの方が回復健康化方向にあった、その表面化であった性衝動の歪みも、捨て去られる消えていく方向向かうでしょう。
これはつまり、ハイブリッド心理学としては、性衝動歪み心の病み傾向背景にあり、あくまで心の病み傾向そのもの取り組むという立場だということです。健康であるにも関わらず性衝動だけ歪んでいるというものは、想定していないということです。もしそのようなものがあるとすれば何か脳など身体的問題が考えられ、この心理学では検討可能範囲外になります。
そうして心の病み傾向というマイナス側面克服加え、もちろん、心の健康プラス側面向上増進取り組むことが、過度膨張した性衝動誘引穏やか鎮まり向かわせるでしょう。対人関係社会生活向上、そして趣味などによる楽しみ充実感増やすことで、に浮かぶ満月よりも周り明るくなるようなでです。

一方で、性衝動膨張性的刺激氾濫は、心の病み影響というものを超えて広く現代人そして現代社会に言える現象のようにも思われます。
これは基本的には、まず進化によるものと思われることとして、人間において発情期という限定消え性的情報社会行動にも広く取り入れられるようになったこと、そして性的刺激興奮が、人間飛躍的向上した記憶力空想力により自己惹起されるという仕組みによるものと思われます。
そのような生物学的背景加えて、やはり上記の、感情の抑圧へのはけ口空虚感への麻酔剤といった心の病み傾向影響による性衝動膨張メカニズム同じものが、その強さ薄めた形現代人広く働く仕組みになっているのではないか、というのがハイブリッド心理学からの考えです。
他ならぬ、「愛」の感情の抑圧と、その結果の空虚への穴埋めとして、性の刺激が重みを帯びる、というものとしてです。
「心の病み」と「愛の真実」」で、「自意識」持つことによってむしろ「健康」において「愛」への「皮相化軽薄化」「平準化」そして「希薄化」帯びる運命にある、と述べましたが、「皮相化軽薄化」側面になるでしょう。表面的なことばかりに奪われ囚われ表面見えない重要な何かを、見失っていく。そうしたこととして、「愛」深い側面見失われ代わりに、性の刺激ばかり飛びかうようになる。
そこで「愛」への行動法価値観などの意識思考までもが皮相化浅薄化する程度人それぞれとして、ありがちなのは、「心を満たすもの」としての性行為イメージ膨張でしょう。小説映画では、交流クライマックス場面として不可欠かのように描かれ、まるで「幸福感」への最強通貨であるかのように、空想性行為イメージされる・・。
もちろん、若く健康身体信頼できる互い愛情の上に得られる性の喜びというものは、「命」つなぐために「命」用意された仕組みであるだけの重みがあるであろう一方で、たとえばもはやその面において身体的衰えもあるであろう結構年配者の犯す性犯罪行動などに、それを駆り立てたであろう性行為快楽というイメージが、もはや誤作動のようなものでしかないことを見る目有用だと言えるでしょう。たとえばそれは、「命」重みのある「愛」見失った心で、もはや快感薄れ性的興奮だけが、「愛を得る」という無意識衝動はけ口としてゾンビにように維持されているものなのだろうと・・。

そして何よりハイブリッド心理学から指摘したいこととは、性衝動満足得ることは、「心の豊かさ」とはおよそ関係ないことだということです。「「自発的幸福」と愛」で述べた、「自発的幸福」によって最終的決定づけられる「心の豊かさ」には、です。
さらに言えば、何か相容れないような面がある、とも。
性的満足得るごとに、そうした「心の豊かさ」への素地損なわれ向かいにくくなる、というほどの直接的影響ではないと考えます。もっと微妙で、目に見えないようなで、性的満足追おうとしたに、「心の豊かさ」向かう道何かが、それてしまう。そのような印象を感じます。
島野自身にとって印象的、そしてこれはどういうことだったのだろう・・感慨感じるのは、その後「超越的幸福」へと至る心の歩み導くことになったのが初恋女性存在となった一方、初恋女性性衝動対象になったことが一切なかったことでした。それよりも遥かに、遥かに重みのある感情があり、その前性衝動などつけいる余地なかったと言えるように感じます。まだ目覚める前、さらにはというものを知る前満たし感情が、最後まで生き続けながら・・。そうして初恋女性とは、性的などころか男女関係的会話さえ一切持たないような間柄保ったことが、のその重みのある感情最後まで守り続けることになり、その感情への向き合いにすごした歳月が、やがて「超越的幸福」へと導くことになったのです。(*23)

性衝動をある相手向けた時、その相手との、そうした重みのある感情壊され消されてしまうということか・・と考えるに、一律にそう考える必要なく結局はやはり性衝動そのものよりも、その時あり方問題になるように思われます。
互いへの愛情交歓高まる中自然湧き出た性衝動が、相手への重みのある感情壊すことはないでしょうし、一方、ただ性的満足利己的得ようとする衝動相手に向けた時、その相手とのにあった重みのある感情壊されてしまう、あるいはその相手とはもう重みのある感情による持ち得ない関係へと切り替わってしまう。そんなことが起きるのかも知れません。望まない性行為暴力であり、当然もはや「愛」ではないのですから、これは当然と言えることかも知れません。
ですのでくれぐれも、豊富な性体験を持てないと幸福になれないのでは・・などとの浅はかな思考陥らないように、というのがハイブリッド心理学からの示唆と言えるでしょう。
それよりも遥かに重みのある感情への、視野アンテナ重要になる、ということになります。「禁欲的」である必要まではないでしょうが、「性的誘惑を深追いしない」ことが、社会的トラブル避けるためにも当然賢明でしょうし、多少とも「愛」テーマとする関係であるのならば、性を追うことで愛が骨抜きになる、愛が消えてしまう分岐路見る目重要になる、と言えるでしょう。少なくとも「偽の愛」ではない「真の愛」に基づく築き育んでいきたいのであれば。

・「愛」と「自意識」と「魂の感情」
以上、「未熟から成熟へ」「真と偽」「健康と病み」という、感情変化について説明してきましたが、最後もう一つ感情についての「違い」要素について指摘することができます。
これはもはや「変化」ではありません意識形態あるいは意識構造意識の器としての違いであり、その変化軸にも増して大きな違いになるものとも言えるでしょう。
同時にこれが、ハイブリッド心理学根幹思想関わるものでもあります。

その根幹思想とは、私たち人間は、「心」「魂」「命」という、3つ分離した「意識体」構成される、というものです。
進化生み出し「自意識」出現による、宿命としてです。「自意識」持つことで飛躍的生存能力高めた代償に、「命」ありのまま重み見失った薄っぺらい「心」持つようになった。
それに対し、「命」重みどこにあるのかを示す感情「心」伝え続けるものとして、「魂」がある。
そしてこの2つに、本来生きる原動力を持つ「命」控えている、という3元構造です。
それにより私たち人間「感情」あり方どうなるのかと見るならば、まず「命」一体としてある「魂」感情を、「心」感情基盤として受け取った上で、この世界「自分」どのようなものとしてあるという「自意識」感情加えて調整していくというのが、本来あり方になるものだと言えます。それにより生涯歩む中で、私たちの「感情」は、源流か細い流れから始まり、やがて大河力強い流れへと変化していき、そしてやがて豊かな大海へと、至るのだと。
ところが「命」から引きはがされ薄っぺらいものになった「心」は、「魂」感情基盤にしないまま淀みをただかき回すかのように「自意識感情」ばかりを振り回し膨張させるということが、起きるわけです。そして私たちの「感情」という流れは、進まないまま、次第濁り「惑い」「動揺」そして「悪感情」おおわれていく。

「愛」感情はそこにおいて、まず「心」働かせ「自意識」というのは、「自分というもの」意識する機能であることにおいて、それを強く働かせることは「一体化への感情」である「愛」基本的希薄化します。「「心の病み」と「愛の真実」」で「人間はむしろ「健康」において概して「愛」が希薄化を帯びる宿命を抱える」と述べたのはこれによるものです。
そのため「自意識過剰」になると「愛」どんなもの分からなくなるという悩み抱えがちです。「どうすれば愛のある自分になれるのか」などと、いくら自意識の中で思案したところで本当答え見えるはずもありません。「こうすればいい・・」考えたものは、むしろ「真と偽」というにおいて「偽の愛」生み出しがちです。

それに対し「魂」が抱く感情は、「真の愛」感情に位置づけられます。
「魂の感情」「自意識の薄れた、命の重みのある感情」などと定義できるものであり、この人どのよう愛しているのか、そして望むのかの真実の感情です。
それは純粋一途な、混じりけのない澄んだ感情です。「自意識感情」との違いを言うならば、まずはその「湧き方」として、「自意識感情」自分どう見られるかと空想によって「描く」、あるいはそうした自己像「こねくり回す」「取り繕う」中湧くものであるのに対して、「魂の感情」この人突き動かすように胸の奥から湧く、あるいは遠くから響く鐘の音のようにこの人おおう、といった違いを言えます。(*24)
この「湧き方」違いにもよるものとして、「自意識感情」「愛」「形」で考え追い求めようとします。その典型「人に目にこう見えて愛される自分」といった自己像として。あるいは性的なものを含んだり含まなかったりする身体的接触として。そして幅広く「親子」「友達」「恋人」とはどうあるものかと、「形」で考える思考として。
対し、「魂」が抱く感情は、しばしば「形」ならないもの、あるいはこの人にとってどんな「形」にできるのかが分からないようなものとして湧いてきます。それはただ「愛」を願う感情であり、自らがその願い感情打たれる。そんな感情になります。
「形」にならない「魂の感情」は、に、睡眠時「夢」として、時に荒唐無稽姿「形」表します。「精神分析」世界「夢」重視される一因がここにあると言えるでしょう。無意識下埋もれ「魂の感情」意識化した時、そこに何らか心の変化への効果があるからです。この効果とはなのか、ハイブリッド心理学考え述べていきましょう。

最後「命」が抱く感情も、「真の愛」感情です。
ただし同じく「真の愛」感情である「魂の感情」とは、大分毛色異なります。まず「命の感情」「感情」としてこの人湧くものというよりも、この人生きる力、前進力そのものとして押し上げるものとして感じ取られます。「愛」においては、愛を願う感情というよりも、この人が実際、現実においてどう誰をそして何を愛することができるのか、どう向かうことができるのかの事実、その強さ示すようなものです。もちろん、偽り惑い、あるいは怖れ要素含まない揺らぎないものとしてです。
結果、「魂の感情」は、多分ウェットであり、少しか弱く、そして純粋一途です。対照的に、「命の感情」は、力強く揺らぎなく多少ドライでもあります(*25)。たとえば人の死際して、「魂」失われ行く命悲しみ「命」は、まっとうされた命喜ぶ、というように。「魂」への感情は、しばしば、それに向かおうとすることへの不安怖れ感情であり、対照的に、「命」への感情は、それに向かうことへの安定自信感情です。
この違いとはどういうことなのか。こう言えるでしょう。「魂の感情」とは、「いまだ叶われぬ愛」への真実の感情なのであり、「命の感情」とは「獲得された愛」への真実の感情なのだ、と。
この、「愛の獲得」とは一体何なのか。これが大きな問いテーマになると言えるでしょう。

・「人生」と「愛」への取り組み
そのような「心」「魂」「命」という意識構造で、私たち人間「成長」「治癒」そして「成熟」へのは、「愛」というにおいてはどのようなものとしてあるのか。これが「愛」へのハイブリッド心理学からの理解テーマ最後になります。
「本来」を言うならば、「心」が、「いまだ叶われぬ愛」への真実の感情である「魂の感情」受けとめ、その「望み」果たすために全力を尽くして生きるで、「獲得された愛」への真実の感情である「命の感情」へと移行していく、というものになります。これがつまり、望みの燃焼の法則働き「成熟」へと前進した、つまり自発的幸福次第増大した状態への変化になるのだと。
ところが人間「宿命」として、自らの、「いまだ叶われぬ愛」への真実の感情である「魂の感情」受けとめることがあまりできないという(さが)抱えることになります。
3つ方向でと理解して良いでしょう。「怒り」「恐怖」などのマイナス反応を起こすというで、受けとめることができないもの。「愛」への全般的「希薄化」「皮相化」によって、重みのあるから遠ざかり疎遠になるもの。代わりに、現代人風潮として多少辛辣表現をするならば、「人の目」「性欲」そして「お金」重みだけがある「愛」へと。向け遠ざかろうにもくすぶる「愛」への望みが、「偽の愛」へと歪んでいくもの。これが他人「世の中」へと「外化」「投影」されることも起きながら、この人他人そして自分自身への不信怒りへと惑い、さらに「愛」から遠ざかる向かうのは、「愛」とはなのか、「人生」とはなのかという「不明」へと・・。
注目すべきは、こうした揺れ惑いが、「健康」「病み」という後者においてだけではなく、前者においても起き得る、まさにそこに人間「宿命」あるということです。もちろん後者深刻化するほどその歪み病的になります。一方後者において、「愛の誘引の膨張」に、「重み」真実見えてくることがある・・。
こうした「愛」感情織り成す綾を、このページ詳しく見てきました。

従って、「成長」「治癒」そして「成熟」へのは、「愛」というにおいて、「いまだ叶われぬ愛」への「魂の感情」受けとめることに背を向け遠ざかる心の要因克服、そしてその先「魂の感情」受けとめ前進するという、2局面のものになる、というのがハイブリッド心理学見方になります。
冒頭記しておいたように、「愛」に取り組むとは「人生」取り組むのとほぼイコール言えるようなものとしてです。
なぜなら、人生歩むことへの重要心理テーマ全てが、直接つながってくるからです。たとえば「いまだ叶われぬ愛」への「魂の感情」受けとめることができなくなる一因として皮相な「プライド」があり、「自尊心」への価値観転換達成というものが、この「愛への取り組み」直接つながります。「怖れ」は、自分にとって重要「愛」向かうための、しばしば、それが本当に重要な愛であるほどに、になります。そして「いまだ叶われぬ愛」への「魂の感情」受けとめることができず置き去りにしてしまう原因になります。その克服は、「怖れの克服」という、人生基本的宿題全体仕上げにも位置づけられるでしょう。まずは「注射」「幽霊」怖がることから卒業するといった身近なものから一歩始める先にあるものとしてです。「こうあるべき」という道徳型の思考「生き方思想」として用いる人は、真の愛感情とは一枚置いた別の世界生きてしまうと言えます。真の愛感情のみならず、その人「命」のありのままの感情全体から遠ざかる形で。『入門編上巻』をそのテーマ始めたように、「情緒道徳」からの卒業が、「愛」というテーマ含めた、心の成長歩み第一歩になります。それにより内面感情開放しながら、精緻分析する「自己分析」取り組み必要になるでしょう。
こうして結局実践の学び全てが、「愛への取り組み」直接つながるものであり、必要になるものだということです。

・「愛に一度別れを告げ再び向かう」「依存の愛」から「成熟の愛」そして「超越的幸福」へ
「愛」に取り組むとは「人生」取り組むのとイコールだというのはそのように、「人生」への取り組み方「愛」への取り組み方直接つながるだけではなく、さらに、「人生」への取り組みの遍歴を通して「愛」向かうことにこそ、「心の豊かさ」への「愛」最大の意味が示されることにある、とハイブリッド心理学は考えます。
この「人生」への取り組みの遍歴とは、「成長」積み重ね全てです。
「愛」含め人生さまざまテーマへの向かい方学び実践し、模索し、体験積み重ね「強さ」得た自分足場に、「愛」再び向き合うことです。
そこで言えるのは、そうして「愛」再び向き合うという歩みは、どうしても、一度今まで望んだ「こんな愛が得られれば・・」という「こんな愛」イメージとそれへの願望に、しがみつこうとするのをやめる、手放す、そして一度「愛」とはの、自分より強くより豊かにする人生活動目を向け向かう必要があるあるということです。
つまり「愛」に一度別れを告げるのです。そしてをかけて、「愛」に再び向かい直す

このように「愛に一度別れを告げ、そして再び向かう」という歩み方自分必要であることを、に、たとえば恋愛うまくいかない時直感的感じるものでもあります。よりもっと魅力的人間になって、自分振った相手見返せるように、といった思考に。
そこでこの人がどのように魅力的人間変化するかはさておき、多少とも「成長」成されるのであれば、この人「愛」感情に起きる変化なのかは言うことができます。
それは「愛における心の豊かさ」因子としてまず直感的言えるであろうものとして「「心の豊かさ」の変化と愛」で指摘した、「弱さ」を足場にして湧く愛の感情から、「強さ」を足場にして湧く愛の感情への変化です。ただ「与えられる」ことを不安定感情の中で求めるようなから、「自ら与える」ものを自分に感じる、より安定した感情へと。「依存の愛」から、次第「成熟の愛」へと向かっていく変化としてです。この都度、私たちは自分に、「未知の愛の感情」現れるものとして感じ取ることができるでしょう。
もちろんそうした「成長」向かう方法直感任せるのではなく、体系立った心理学実践として行うのがハイブリッド心理学「取り組み実践」です。「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみ行う」という「感情と行動の分離」基本姿勢実践を携え、「望み」に向かって全てを尽くして生きるという「取り組み実践」の下での、内面外面にわたるさまざま実践としてです。
それによって、皮相な「プライド」偏った道徳思考などを抜け出すことを皮切りとして、内面においては「偽の愛」揺れ惑う感情解きほぐし「いまだ叶われぬ愛」への真実の感情である「魂の感情」見出し受けとめながら、外面においては行動能力などの「成長」による「強さ」得ていくことで、「愛」向かうことへの最終的となる「怖れ」克服向かう。これが基本的歩みになると言えるでしょう。

ハイブリッド心理学ではさらに、その「取り組み実践」による「成長」は、私たち人間生涯をかけての一つの変遷向かうもの、向かってこそのものと考えます。
それはハイブリッド心理学「命の生涯」と呼んでいる、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という変遷に他なりません。
そこでの「自立の自尊心」獲得節目とは、私たちが人生若い段階「自分も多少は成長できたのでは・・」直感的感じる程度という次元大きく超えた、大自然を生きる自分生きる能力獲得するという節目相当する、「真の強さ」「社会を生きる自信」明確獲得だと、ハイブリッド心理学は考えます。それが可能になるのは、人生経験を積んだ「壮年期」以降になるだろうと。
もちろんそれまで「愛」というテーマ全体から離れるということではなく人生を通して、「望み」に向かって全てを尽くして生きるという歩み「依存の愛」惑う自らの心自覚し、一度立ち止まり自ら「成長」見据え、そして再び「愛」向かうことで、自ら未知なる「成熟の愛」生まれるのを知る。これを繰り返すことになるでしょう。
そんなで、生涯をかけて獲得した「この社会を生きる自信」という「自立の自尊心」足場にして、生涯をかけて果たされ得なかった「愛」への望みに、再び向かう
この生涯をかけての一つ変遷として向かってこそ、果たされ得るものがある。そこに、私たち人間「心の豊かさ」への「愛」意味真実、そして人間の真実そのもの示される。そのようなものがあるとハイブリッド心理学は考えます。

なぜそれを考えるのか。何のことはありません。それが島野人生だったのです。ハイブリッド心理学としてそのように考えると書きましたが、心理学として考えたものに向かって至れたのではなくに、自ら人生探求がその変遷を通して予想だにしない歩みへと至り、それをこの心理学として整理することにしたのです。そしてそれが、人間太古歴史を通して語られているものと符合するのを見た時、私はこれが「人間の真実」であることを確信する。そのようなものになります。
生涯をかけての変遷として向かってこそ果たされ得るものとはまさに、私たちが生まれ出るにあたって起き、そして私たちの「意識」では見えないまま課せられ「意識」では克服することのできない根源的自己否定感情克服他ならないでしょう。
それは「喪失」「豊かさ」へと転じるような、私自身感覚として言うならばまるで自分の人生が魔法にかけらたかのようなもの感じる形で、やがて「超越的幸福」へと至る歩みになった。そのようなものでした。

・「心の豊かさ」への答え
私たち人間「心の豊かさ」「愛」関係とはどのようなもの、どんな仕組みのものなのか。結論を述べましょう。
それは「「愛」と「自意識」と「魂の感情」」で述べたように、私たち人間「心」「魂」「命」という、3つ分離した「意識体」構成されるというのが根底原理としてあり、その結果、私たち人間の「心の豊かさ」は、「失意」や「絶望」を超えた先にこそある。これが「人間の真実」であり答えだということです。
なぜなら、私たち人間「心」がその大元「命」からはがれた薄っぺらいものであることにおいて、「心」が抱く「望み」をいくらそのままで「燃焼」させても、「自発的幸福の増大」が単純な「望みの燃焼の法則」によって生まれるという「命」の法則は働かないからです。そのため、「心」が抱く「望み」がいちど打ち破られて、「魂の望み」が意識に表面化しそれが「燃焼」された時のみ、この「自発的幸福の増大」の仕組みが働くのだということです。

これは私たち自身豊かにするための「実践」を考えた時、少々「もどかしい」話でもあるかもしれません。「望みに向かって全てを尽くして生きる」というのが「取り組み実践」だとして、それによって望みそのまま叶っている外面的満足生まれるであろう一方内面的、そして深いところでの豊かさ増えないままだということになるからです。
となると、望みが叶わない方が良いのか・・、望みが叶わないようにする方が良いのか考える方がおられるかも知れません。もちろんこれは、「実践の歩み」向かわないまま、成長成熟できる最後の心の様子だけを自分に当てはめようとするという、「取り組み実践」とは根本的違う姿勢と思考にいる、まだ取り組み開始前姿です。
ただ確かに、「実践の歩み」向かい心の成長成熟をかなり重ねてさえ外面行動法内面自己分析といった具体的問題での向上前進については日々感じられるとしても、内面深いところでの「豊かさ」前進どのようにあるのかは、自分では見えないのが実状のように感じられます。精神性において凡人島野場合そうでした。
その結果執筆においても、この心理学全体体系大方整理でき心理学本として出版し始めた2009年頃『理論編下巻』にて、「建設的絶望」によって「誤った望み」捨て去られ「真の望み」である「魂の望み」開放される節目なり得る(*25)、そして「魂の望み」最後まで受けとめることで「魂に魂が宿る」とでも表現できる心の豊かさ生まれるとまで述べました(*26)
そこから5年を経た2014年、 「望みの燃焼の法則」に関連触れた通り、執筆本として終盤となる『概説』で、「成熟」「自発的幸福の増大」という側面があること、それが「望み」燃やし尽くすごとに「命」によってプログラムされた「望みの成熟」変化をたどるというかなり単純なもののようだ、と述べる一方、その結果「自発的幸福」はどうも「魂」感情でもなさそうだという示唆を述べ、結論がやや保留になったものです。50台半ばにして「超越的幸福」兆しのようなものが現れ始めたことに対応する考察でした。
島野「超越的幸福」がかなり底堅いものとして感じられるようになったのが、それからまた4年を経た2018年のことでした。そうして私自身でのこの心理学最終説明と位置づけるこの『辞典』で、私たち人間「心の豊かさ」仕組みどのようなものとしてあるのかの結論書ける状況になったという経緯になります。

結論はこうなります。まず「子育て」をするようになったという動物進化対応用意された仕組みとして、その個体「命」重みにおいて「望み」燃焼させ生きるごとに、「自発的不幸」度合い強い「望み」から、「自発的幸福」度合い強い「望み」へと移行していく。この「望みの燃焼の法則」は、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」変遷として働くものであり、この原動力になる「望み」とは結局「命をつなぐ」という目的の、「愛」という単一軸ものとしてある。これが原型根底原理です。
人間場合そこに、「自意識」持つことで生存能力飛躍的高めた代償に、「心」大元「命」からはがれた薄っぺらいものになり、それにより皮相化歪み帯び「自意識感情」望みをいくら「燃焼」させても「望みの燃焼の法則」働かない、という制約そして宿命加わることになります。
その結果私たち人間における「望みの燃焼の法則」は、「自意識感情」の望みが一度打ち破られて現れる、「いまだ叶われぬ愛」への真実の感情である「魂の望み」を、「心」が「十分に受けとめ尽くす」ことが有効な「燃焼」となる形で、「自発的幸福」の度合いが一歩前進した、「獲得された愛」への真実の感情である「命の感情」へと移行する、というものとして起きるようだ。これが結論になります。

・「成長」の支えによる「魂の望み」を受けとめる歩み
そこで焦点当たるのは、「十分に受けとめ尽くす」というのがどういうことか、になるでしょう。「心」が、「魂の望み」をです。
またその、「自意識感情」の望みが一度打ち破られて現れる「魂の望み」とはどのようなものか。恐らくは、半分はそれを体験しないまま生涯終えるのではないかと感じます。あるいはそれよりもさらに多くの人が、そうかも知れません。

「魂の望み」感情どのよう感じ取られるかは、心理学的には、1)その人の心の素養という条件がまずあり、2)出会いによって「魂の望み」感情訪れ3)それに対する本人の向き合いの深さ、という3面から成るものだと言えます。
これについて『概説』ではこう述べています。「「望み」に向き合う「真摯さ」「誠実さ」、さらには「感受性」「情緒性」足場にして、「自意識の望み」が叶えられない失意を超えてなお前へと向いた時、心に訪れるものになる」そして「これはもはや「取り組み実践」超えた、人生における「出会い」領域になる」と(*27)
もう少し平たい言葉で言えば、まず自分自身「望み」あるいは「欲求」への「正直さ」「ストレートさ」というのが、「素養」として一つポイントになるように感じられます。その上で、多少のことでは自分望み捨てない・・少なくとも内面においては・・「一途さ」というものが、「魂の望み」感情感じ取るための性格的素養になるでしょう。
「出会い」とは、外面起きた出来事のことであると同時に、それによって現れた感情への出会いでもあります。それが、今まで「もしこうなれれば・・」「自意識感情」として描いていた通りにはいかない失意絶望ただ打ちのめされるのではなく、さらに深く自分にあった大元「望み」どんなものであったのかに向き合った時、そこに、今まで濁った「自意識の望み」とは異なる何か澄んだ感情が、遠い鐘のように、響いてくる・・。ここでその、まずはかすかな音色のように響いてくる「魂の望み」感情について、どれだけ意識そらさず向き合い、それは音色なのかと、積極的記憶たどってみたりする、「感情分析」呼んでいる「自己分析」精緻なものの実践有無などが、「向き合いの深さ」になります。

こうした説明はもちろん、島野のものなり他の人のものなり、まず「体験」があってそれをから心理学として整理しているものであり、まず理屈として理解することで向かうことができるようなものではないと思われます(これとはに、「行動学」などはまず理屈として理解納得することが必要です)。「実践」越え「出会い」領域でもあり、またそこで問われ「感受性」「情緒性」意識的努力だけではどうにもならない、生来的素質のようなものも関係するかもしれません。
理屈よりも多少ともイメージとして入れるための「教養」としては、特に内面注目して生涯にわたり成長成熟していく様子を描いた大河小説的なものを読み聞きすることが多少役に立つかも知れません。残念ながら私が社会人になってから読んだ昨今人気作家小説などは、「魂の望み」に向きあう成熟変遷描いているようなものはない印象です。これはもちろん島野無学もあるでしょうが、成長描いてはいても、人の目の中で生きる心をあまり抜け出さないままの、ごく小さな変化のような・・。SNSが盛んな今日という文化的背景というものがあるのかもしれません。一方、私が読み「魂の望み」描いたもののように記憶するのは、読んだのは少年少女向け抜粋編集されたものだったかと思いますが、ドストエフスキー『罪と罰』のような歴史的名作に、そうしたものがあったように感じます。
島野としても、2006年最初出版こそは、2002年この心理学執筆開始するまでの前半生を書いた自伝小説『悲しみの彼方への旅』とした一方、その後執筆はもっぱら理屈整理書くものに専念していましたが(*28)、この「愛」についての辞典ページ仕上げたら、その後変遷についてつづる『島野日記ブログ』の方を執筆優先対象移そうと思っています。これを書いている2021年初心の中「超越的幸福」感覚底堅くなり日々感情揺れ動きもほとんどなく年齢としても還暦を迎える自分人生にあったことをつづっていくことに重み移すのに、いい時だろう、と。それが、生涯を通して「魂の望み」向き合う先に現れた心の変化への神秘実際様子を、一つ事例として伝えるものになれば、と思っています。
もちろんそうした変遷「事例」は、「真似をする」という意識では全く役に立つものではなく、まずは私たち人間深奥にある、深く広い世界向ける目持っておくようにする、またそこからの響きすぐには聞き取れないとしてもその方角へのアンテナ持っておく、という目的読んでみると良いかと思います。

ここでは引き続き、「魂の望み」「十分に受けとめ尽くす」という人生歩みとはどのようなものか、心理学理屈として整理してのキーポイントをまとめておきます。
1)「望みが叶わない方が良いのか・・」という発想誤り
2)「魂の望みを十分に受けとめ尽くす歩み」「受動型」「探求型」
3)「現実世界」「魂の世界」という2つ世界における「豊かさ」
4)心の豊かさ最終的ゴールにおける「愛」位置づけ
この4点ほどになります。

まず上述の、私たちが「心」抱く「望み」そのまま叶っている「望みの燃焼の法則」働かないということに関連し、「望みが叶わない方が良いのか・・」考えるとしたら、それは心の変化最後だけ自分に当てはめようとする誤りだというものですが、ではどのよう考え姿勢行けばいいのかというと、まずは望み叶うことを目標に、とにかく全力向かうしかありません。ただし、「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみ行う」という「感情と行動の分離」の基本姿勢と実践を携え、「望み」に向かって全てを尽くして生きるという「取り組み実践」全体においてです。
「魂の望み」感情は私たちに最初から見えるものではなくできるのは、まずは「自意識感情」働かせる中でも自分にとりより真実らしい望みへと、全力尽くして向かうことです。その姿勢においてこそ、物事思い通りには行かない失意にただ流されるのではなしに、さらに自身内面向き合い「自意識感情」隠されていた「魂の望み」感情向き合うことが可能になります。
それは同時に、少なくとも外面行動においては、自分にできる最善尽くした、という安心満足支えられて、ということになるでしょう。そうではなく自分自身としても不満足な行動しかできなかったという場合後悔自責など悪感情妨げられ、失意越え「魂の望み」向き合うというのはできなくなるように思われます。この場合はまず、外面行動法についての見直し向上取り組むことが必要になります。
つまり、「失意を超えてなお前へと向いた時心に訪れる」とは、失意絶望そのまま心の豊かさつながる何か転じさせられるようなものではなく、あくまで失意絶望越える可能性になり得る前進力持った上で、失意絶望先に何を見ることができるかだということです。
これはつまり一言で、「魂の望み」への向き合い「成長」によって支えられる、ということだと言えるでしょう。

そうして「成長」によって「魂の望み」への向き合いできる時、「望みが叶わない方が良い」ではなしに、「この望みが叶わなくてむしろ良かった」という振り返りであれば、人生何度でも訪れ得るものと理解しておいて良いでしょう。
私たちは「望み」というものを、まずは「自己像」「人の目」などの「空想」によって描くのであり、真偽混淆のものとして始まります。自分自身「魂」対してです。そして空想通りにはそう都合良くいかない「現実」出会う中で、自分内面への向き合い深め、やがて「魂の望み」見えてくることもある。まさにこれが「出会い」であり、「人生の歩み」基本だとも言えるでしょう。島野はこれを「望みは人の目に始まり、魂へと抜ける」といった言葉表現しています。
「望み」最初描いた通り安易に叶ってしまうと、むしろ人生違う方向へと向かってしまうこともあるでしょう。もちろんその方向でやがて「幸福」得られるのであれば、「むしろ叶わなかった方が良いか」振り返りようもないし必要もないでしょう。一方、安易叶っていたら人生見失っていたと感じる出来事もあるでしょう。島野が出版本「商業的成功」果たされず、一度「再就職」考えたもののあえなく不採用になり、改めてこの執筆活動をライフワークにすることへの自分自身への意義自覚したのも、「再就職がうまくいっていたらとんでもないことになっていた」ひやひやもの感じるという、そんな実例です(*29)若い頃恋愛行動がうまく行かなくてむしろ良かった・・とも。まあこれはこんな言葉でははかり知れない、はるか重い「出会い」「歩み」あったということであり、それを書き伝えていくことを、上述のように残り人生ライフワークにしたいと思っています。

・心の豊かさへの「受動型」と「探求型」の歩み
以上が、私たちに与えられた、「愛」与件だと言えるでしょう。その感情変化バリエーション意識構造という持ち駒と、それが進み得る一歩一歩です。その背景に、はっきりとは見えないまま与えられ「課題」とその「達成」という目標がある。私たちはそれをどのよう解き得るのか、ということになります。この与件に、どのようがあるのか。
ここからはもう、のその歩み具体的内容は追わず、「心の豊かさ」という目標への歩みあり方、そしてその最終ゴールと、そこにおける「愛」位置づけについて、大まか心理学的整理だけを述べていきます。より詳しい視点からの整理イメージ描写は、『日記ブログ』執筆優先しながら、「歩みの学び」の方でまとめていければと思います。

「成長」に支えられた「魂の望み」受けとめる歩みは、「受動型」もしくは「探求型」いずれか取ると言えるでしょう。
まず「受動型」は、「全てを尽くして望みに向かう」という歩みで、ものごと最初から描いた望み通りにはそう安易叶うものではない「現実」出会いながら、自身内面「望み」への向き合い深めていくで、自然「魂の望み」現れており、そこで「望みの燃焼の法則」働いているというものです。つまりとにかく「全てを尽くして望みに向かう」という生涯歩みあれば、そしてものごと表面安易に流され道をそれるようなことがなければ、特に本人意識しないまま、「受動的」で、この「魂の望み」受けとめによる「心の豊かさ」への歩み前進していくだろう、というものです。これを生涯にわたり続けていくことで、やがて「「自発的幸福」と愛」で触れた「老年的超越」のような境地至ることもあるだろう、と。
一方「探求型」は、文字通り、「心の豊かさ」への歩みというものを積極的意識し、探求向かうものです。これは多くの場合同時に、自分何か「心の問題」感じ、その解決克服探求向かおうとするものとして始まったものでもあるでしょう。島野場合がそうであったように。
するとこの「探求型」において、どのよう「受動型」超える「心の豊かさ」への前進生まれ得るか。ここに焦点当てたいと思います。

するとまず、「探求型」意識的に定める人生生き方「全てを尽くして望みに向かう」ことを主眼とするものになり、実際それに向かった時、「受動型」で述べたように自然どこか「魂の望み」現れ意識しないまま「望みの燃焼の法則」働く生涯歩みによる心の豊かさ前進ベースとして生まれることになります。
ハイブリッド心理学「取り組み実践」もちろんこれに該当するものとしてあります。「取り組み実践」として「価値観」より明瞭意識方向づけたり、より高度「行動学」「自己分析」などの意識的実践取り入れることが、その歩み幅広さ深さ増させることにもなるでしょうが、心の豊かさ前進としては同じ次元における増大有無というものになります。

「探求型」において「受動型」生まれ得るものよりも次元異なる飛躍的異次元心の豊かさへの前進生まれ得る推進要因は、2つになるでしょう。
一つに、これは少し神秘論的含まれてきます。「魂の望み」感情より積極的切り分け向き合いを通して、次第「魂」そして「魂の世界」というものが、「自分」そして「現実の世界」とはまた別にある実体として感じ取れるようになっていくこと。これが推進要因ともあいまって、「自分」という惑い完全に捨てるに、「現実の世界」という制約越えた幸福を見出す心の境地へと向かうことを可能にさせます。
もう一つが、「悟り」新たな心の境地開く前進節目発生です。この「悟り的な前進節目」が、「全体−1 ハイブリッド人生心理学が目指すもの」で、「4つの通過道標」として示したものに他なりません。概要説明そちらに譲りましょう。「自己操縦心性の崩壊」「否定価値の放棄」「永遠の命の感性の獲得」「超越的幸福」という4つ「通過道標」であり、このうち、「魂」「自分」とは別の実体として感じ取れるようになることが「永遠の命の感性の獲得」へとつながります。

・「4つの通過道標」と「2つの世界における豊かさ」
ここでは「愛」テーマ視点から、「魂の望み」受けとめることによって「望みの燃焼の法則」働き「自発的幸福」増大するという仕組みで、私たちのどのよう心の豊かさへのがあるのか、ハイブリッド心理学からの考察まとめておきます。
4つ「通過道標」流れに沿って見ていきましょう。

まず「自己操縦心性の崩壊」は、病み傾向からの大いなる抜け出し節目位置づけられるものであり、幼少期何らか否定的体験などを背景思春期病み傾向表面化する一方で、本人自ら状態改善しようともがく中、青年期「社会に出る」ことなどをきっかけとして、病んだ心自ら絶望崩壊し、代わり健康度向上した再生する、というような流れ想定しています。他ならぬ島野この心理学執筆開始したのも、自らのこの体験心理学的整理することからでした。
注目すべきはこれが、「「心の豊かさ」への答え」で述べた、「「心」が抱く「望み」がいちど打ち破られて」という、人間心の豊かさへの流れ構図に、やはりあることです。つまり、自ら改善したいというもがきが、単に病み傾向苦しみから逃れたいというだけではなく、より前向き自分なれることを渇望するものであれば、「崩壊」経ることで実際前向きな心病んだ心による妨げから解放され開花することが見られるし、さらには、歪んだ自意識とも言える病んだ心打ち破られていくで、置き去りにされていた「魂の愛への望み」感情現れ、その感情本人により受けとめられることが成されていた時、健康度回復したにさらに、むしろ来歴において愛を十分に得た人のものであるかのような安定感と「豊かさ」への一歩見られるという、劇的変化生まれ得るものになります。
このように、病んだ心「崩壊」「脱皮」のような「治癒」節目になるとして、その内側がどのような成長向かおうとしているかが重要になることを、「歩み1-2 心を病む仕組みとその克服」で詳しく説明しています。

「否定価値の放棄」ハイブリッド心理学において、「自分から不幸になる」という私たち人間「心の業(ごう)克服位置づけるものであり、「真の強さ」「社会を生きる自信」獲得足場にして、「否定できることで自分が神の座にあると感じようとする」という無意識根底で抱く「否定価値」自覚し捨て去る節目として、壮年期以降到達し得るものとして想定しています。これを成すことが同時に、「取り組み実践」「習得」集大成として目標になるものです。
これは「歩み1-1 「心の問題」の全体の理解 - 心の問題要因の根本克服 / 2.「否定価値の放棄」」で説明したように、「弱さ」から生き始め人間にとり「否定価値」宿命のようにある一方で、それを超えるだけの大きな足場位置づけになるのが、大自然自分生きる能力獲得する節目相当する、「社会を生きる自信」そして「真の強さ」になるだろう、というものです。
それは同時に、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」変遷における、「自立の自尊心」獲得対応する節目であり、「愛に一度別れを告げ再び向かう」という変遷の中で、私たちが生まれ出るにあたって課され「根源的自己否定感情」阻まれた、生涯通し向かうべきだけの重みのある「愛」向かい直すための足場として述べたものに、他ならないものになります。
「否定価値の放棄」成すことで、根底「魂の望み」大きく開放されます。それを感じ取れるという側面よりも、自分がそれに向かい得る、向かうことを許される存在だという前進側面においてと言えるでしょう。「魂の望み」感じ取ること自体上述の通りまず性格的素養「出会い」が大きく関わるとして、「否定価値」エネルギーを、望み向かうことではなく自分責める、そして自ら「望む資格」断じることへと向かわせるものであり、このエネルギー方向性大きく逆転します。当然この結果として、望み感情よりおおらかに、そしてより明瞭感じ取る方向へも劇的変化するでしょう。

こうして「否定価値の放棄」成すことで、「探求型」における・・ハイブリッド心理学での「取り組み実践」と共に歩む人生における、「全てを尽くして望みに向かう」という人生歩みが、真の姿において始まることになります。
「成熟」へと、「豊かさ」向かうのはまさにここからです。人生歩み後半ということになるでしょうが、「自発的幸福の増大」として感じ取ることが可能になる段階というのであれば、やはり人生後半ということであって然るものでしょう。
ここまでにおいては、「心の豊かさ」への前進としては「受動型」場合同じ次元のものになります。考慮ポイントとしては、「受動型」において「全てを尽くして望みに向かう」という人生歩みどれだけ「魂の望み」解き放たれたものになるかも、やはり、本人意識的探求による自覚はあまりないとしても、いかに「否定価値」免れているかによるであろう、ということです。「否定価値」がそれだけ、「魂の望み」開放するかどうか境目になるものだということであり(*30)、これも「素養」一要素と考えても良いでしょう。

「否定価値の放棄」向かうべき人生後半歩みとは、命の重みにおいて真に愛するものに向かう、雄一無二の人生。この一言尽きるでしょう。
開放された「魂の望み」というエンジン推進力得て、それまでに培った建設的行動法ハンドルさばき駆使して、多少なりともの外面的豊かさ向かうことができるでしょうし、「望みに向かい続ける」ことが生み出す内面豊かさというものを感じ始めることもできるでしょう。これは意識することはできないまま・・つまり「受動的」に、「望みの燃焼の法則」働いていることによるものと言えるでしょう。
一方で、「否定価値の放棄」自ら自身否定することによるマイナス感情動揺劇的消し去るものの、この人生まれ出るにあたって課せられた心の闇・・染みついた根深いマイナス感情傾向であり、もちろんその根底核としてあるのが「根源的自己否定感情」だということになります・・も即座解消するものではないことを、入れておくと良いでしょう。「「根源的自己否定感情」の壁」で述べたような、「意識的な思考や姿勢の誤り」によるものよりも根源深いマイナス感情についてはです。
ではそれら、最も深い根源マイナス感情がどう克服されるのかと言うと、その説明で述べた、私たちの「意識」ではなく「存在」が、そして「人生」どうそれを克服するかという歩みが、まさにここから始まる、ということです。つまり「否定価値の放棄」によって解き放たれていく「魂の望み」と、自らがその望み向かうことを許す姿勢足場にした前進において、やはりそこで述べた「愛への劣等感」や、見えない罪などの漠然とした怖れ、そしてそれを残影のように生み出している「根源的自己否定感情」そのものに、向き合っていくのです。

するとまず言えるのは、そうして意識姿勢誤り全て脱してこそ、意識姿勢誤り生み出すマイナス感情と、意識を超えた深いところにあるマイナス感情が、明瞭区別できるようになる、ということです。
当然、どう意識対処できるか違いもです。前者であれば、ちょっとした意識修正行動法によって越えることができるかもしれない。しかし後者はそれでは越えられず「望む強さ」そのものまず問われることになります。
すると神秘的なことが起き始めます。ここからまた理屈越えた、「体験」からのみ言えることになります。「魂の望み」そのものが、「意識」を越えた動き始めるのです。ある場面では、見えない崖躊躇する「心」眼前に、それは白銀に輝く雄大のようにそびえ「心」はただその大きさ打たれます。ある場面では、「怖れ」根源突きとめようとする「心」に、「魂」「心」から離れ「心」対話をする、哲学劇のようなものが繰り広げられます。「原罪」に、失っていく「魂」・・。「心」は、今度自分「魂」救う番なのだと自覚し、「魂」抱いて「恐怖の砂嵐」へと進むのです。そのに、「新しい世界」訪れます(*31)。これは「「存在」が「根源的自己否定感情」を乗り越える時」の一場面でもあります。
こうした「体験」通して、心の豊かさへの歩み一次元高める推進要因生み出されます。自分に、「自分」とは別のものとしての、そして「自分」を超えるものとしての、「魂」存在があることが、実感として感じられるようになってくるというものです。「“自分”とは別のもの」であるとは、まずはその感情湧き方が、「自意識」を働かせる日常感情が打ち破られ不意現れるような湧き方であることで。そして「“自分”を超えるもの」であるとは、その「魂の感情」こそが、自分生きる上での「命」重みのある、濃い感情であることにおいて。

「永遠の命の感性の獲得」は、そのように自分「魂」実体として感じ取れるようになりながらの、心の豊かさ探求歩み結実する、一つ節目だと言えるものです。
これは 「歩み1-1 「心の問題」の全体の理解 - 心の問題要因の根本克服 / 「永遠の命の感性」の獲得」でまとめたように、「“自分”というものは、大きな“命のつながり”の中の、ほんの仮りの姿にすぎない」という、自己存在根底における悟りとも言えるものであり、自分この世界生きること、そして死んでいくことへの基本的惑い怖れ消え去ります。安定感今までとは異次元の境地入り、これから湧き出るであろう「喜び」「楽しみ」といった豊かなプラス感情への土壌になります。
この「悟り」は、ハイブリッド心理学においては・・つまり島野体験においては、「自分を最も大切な「愛」に近づくことを妨げるものが「魂の怖れ」であり、それが「命のつながり」によって救われるものであることを感じ取った時、獲得される」ものと位置づけられます(*32)。

これがあくまで「考え方」「哲学的思索」としてそう思い至ったというようなものではないことを、ここでは指摘しておきましょう。
つまりそれは、「最も大切な愛」近づこうとする人生節目的体験訪れる、そこで「魂」がこう感じている、それに対し「心」これこれ姿勢取る「魂」こんな反応返したといった、言わば「心の変化反応」の、あくまで「体験」なのです。
つまりそれは、「そう考えてみる」といった「心の持ちよう」のようなものとは、全く次元違うものだということです。それは喩えイメージ的に言えば、私たちが歩む道のりにおいて通過する、別天地に入るのようなものです。そこまでの歩みで得たヒントを元に、番号回し、ついにその開くのです。そのに、新しい世界へと歩み進みます。一方そのはもう消えており、前の世界戻ることはもうありません。もう回し直すこともなく、回し方覚えている必要さえなく、ただ「記憶」には残るかも知れません。そのように、全く後戻りのない節目としてある、ということです。折に触れて実践する意識法のようなものとは全く違ってです。
ですので、「“自分”とは命のつながりの中の仮りの姿」というのは言葉自体はそう難解ではなく、「そう思ってみる」という意識表面ポーズ作りやすいかもしれませんが、それは「永遠の命の感性」とはちょっと、というか大分違うものに思われます。一方「原罪を前に進む力を失う魂を今度は心が救う」というのはもう言葉自体意味分かりにくいと思います。いずれも根本心の成熟歩み「体験」があってそれを言葉表現しているのであり、まず「体験」そのものどんなものなのか、今後執筆していく『日記ブログ』を、「「魂の望み」を受けとめる歩み」で指摘た教養的一助として読んで頂ければと思っています。もちろん「否定価値の放棄」も、「考え方」「哲学的思索」次元のものではなく、同じように「心の変化反応」の「体験」としての通過節目です。

こうして、「探求型」歩みにおいて、「2つの別の世界」における豊かさへの歩みというものが生まれてくる、という流れになります。
全体−1 ハイブリッド人生心理学が目指すもの - 「2つの別の世界」における豊かさへの歩み」で述べた、「現実の世界」における豊かさへの歩みと、「魂の世界」における豊かさへの歩みです。
「現実の世界」における豊かさへの歩み説明もういいでしょう。「自意識感情」働かせることからスタートしての、「こうなれれば」という外面目標主導「望み」向かって「現実」へと向かい生きていくという、私たちの日々生活基本です。
「魂の世界」における豊かさへの歩みというのは、その前進レベルとしてまた2つになるようです。一つは、上述のように、「否定価値の放棄」からの歩みにおいて、「“自分”とは別のもの」としての「魂」感じ取れるようになり、「現実世界」何かではない自分「魂」とのやり取り通して、自分豊かなっていくことを感じ取れるようになるという歩みです。
そしてもう一つは、歩み段階としても最終盤なってきてのものになりそうです。島野場合そうでした。「自分の中に“魂”がある」という、言わば「自分の個的魂」とのやり取りというのを超えて、「沢山の魂が生きている場」としての「魂の世界」が、「現実世界」並ぶような、実体として感じ取れるようになる歩み段階です。
これは理屈としても、「永遠の命の感性の獲得」から歩みになると思われます。自分「魂」つながれていくであろうものがあることを感じ取るのが、その節目だからです。そこからまた、「魂の望み」感情向き合い受けとめる歩み積み重ね経て、ということになるでしょう。「望みの燃焼の法則」による「自発的幸福」増大が、ついに「心の豊かさ」ゴール領域入ってきてた段階だと、島野自身経験からは感じます。
それはに、「超越的幸福」訪れ始める段階であり、「沢山の魂が生きている場」としての「魂の世界」実体として感じることができるようになる。同時に、今まで人生「喪失」あったことのように思えたきたことが、実は「獲得」だったのであることを、感じ取ることができるようになる。
そうした、長い歩みにのみ訪れることのできる秘境のような心の境地だと、島野としても感じるものであり、『日記ブログ』にて何より書き伝えることに価値感じるものになります。そして自分がそれを書くことができることに、今、また一つ「幸福感」加えられるのを感じるものでもあります。

・「心の豊かさ」のゴールと「愛」
「超越的幸福」が、「心の豊かさ」ゴールとしてハイブリッド心理学が考えるものになります。
これはハイブリッド心理学からの最終的定義としては、独自用語組み合わせとなりますが、「望みの燃焼の法則によって増大した自発的幸福が基調感情になった状態」言えるでしょう。
つまり自発的幸福外部から何か良いものがとくに与えられるのではなし内部から湧く幸福感であり、それが望みの燃焼の法則によって増大した」ものであるとは、あるいは人生ごく早期から、ごく一瞬のようなものであればそうした幸福感あり得るかも知れない、さらには何か薬物によって「自発的幸福」と言えるような一時的幸福感起きることもあるかも知れないが、そうしたものは含めないということです。あくまで、「全てを尽くして望みに向かう」という人生歩みで、「魂の望み」出会い受けとめる体験積み重ねに、「自発的幸福」が、「望み」が帯びる性質度合いであるのを超えて、もはやそれ自体単独で心に湧き感じ取られるという状態です。ですので基本的逆戻りして消えてしまうこともない状態としてです。
またそれが「基調感情」になるとは、それが「普段の気分のベース」になるということであり、そので、日々出来事状況への反応としての感情プラスマイナス振れは当然加わることになります。「いついかなる状態においても幸福感に満たされる状態」表現できるような「超越性」までは想定していません。

実感からの表現としては、島野の場合、まずその「兆し」とも言えそうなものを書いたのが、「「命の生涯」と「望みの燃焼の法則」」および「「心の豊かさ」への答え」で触れたように2014年53歳頃執筆『概説』であり、「宿題を終えたあとの夏休みという感じ」「朝目が覚めてから夜眠りに落ちるまで、楽しいという気分の中で毎日を生きて」「今、とても幸せ」といった表現をしています(*33)。これは安定し穏やかな幸福感言えるものになるでしょう。
「超越的幸福」という言葉使うようになったのは、もっと強烈な幸福感言えるものが湧き出してきたことを受けてのものであり、3年後2017年56歳頃のことでした。この辞典では「心理学的幸福主義」のページにて「超越的幸福」の説明項目を設け、「自分が今ここに存在していることに幸福感が涌き出る」状態表現。またブログ「「満足のいくことをやり遂げた一日の終わりにビールを口にしようとした瞬間の幸福感」が、「出っぱなし」になっている、という感じ」という表現記事を書いています(*34)。これがまずは、「超越的幸福」感じ始めた時の、その幸福感強烈さとも言えるものを、まずは実感的多少イメージできる表現になるのではないかと思います。またその後、私自身での表現として「心の底で爆発してくるような幸福感」といったものがありました。
一方これを書いている2021年、ちょうど還暦迎えている最近実感としては、そうした表現感じたような強烈さというものではなく、もっと落ち着いた、特に意識しなくても基底音として流れ続ける幸福感という表現合うものと感じます。そして、「いつもルンルン気分が基調」「何々があるから幸せ、ではなく、最初から幸福感があり何でも楽しい」といった表現感じるものになっています。
そこで感じるのは、その感じ始め強烈表現のものは、「超越的幸福」そのもの生み出す幸福感だけではなく、それまで人生振り返り要素加えた部分があると感じています。自分人生というものを完遂することができた。それを意識表面よりも深い心の底で感じた強烈さなのだろうと。この要素部分はずっと続くというより、次第落ち着き薄まるものでもあるでしょう。
いずれにせよ、私たち人間「自分の人生」というものを意識する存在であることにおいて、「超越的幸福」にはこの「外部から特に何か与えられることなく湧き続けるようになる幸福感」「自分の人生の完遂感満足感」という2つ要素ある言って良いだろうと考えています。

・島野の歩みの例
そこに至る道とはどのようなものか。島野ケースを、時計を戻して最も大きく鳥瞰して書いておくならば・・これが『日記ブログ』ごく輪郭にもなるものとしてちょっと書いておきましょう。
まず『悲しみの彼方への旅』描写した流れ終わりから。大学4年に訪れた最初のそして最大「自己操縦心性の崩壊」によっておおいつくした自殺念慮危機を何とか乗り越え大学院修士を経て、自分人生取り組むためにもと、研究室ではなく社会人へ。IT仕事天職のように感じ、「社会を生きる自信」そして「真の強さ」というものを体得していく一方で、もう心理学世界戻ることはないと考えながらも続けた、カレン・ホーナイ精神分析認知療法学びによる自分への向き合い。この外面内面両面にわたる取り組みが、やがて一つ収束するようなで、「否定価値の放棄」悟り的転換体験訪れたのが、37歳でした。
そこから、IT仕事をする「これが自分の人生なのだ・・」考えたのとは全く違う本当人生動き出したのだと言えるでしょう。右肩上がり増していく内面は、2002年41歳の時に「今ようやく人生というものが分かった気がする!残された人生を本当に最大限に生きたい」という「人生見出し体験」へと至り自分に起きた変化新しい心理学整理することに夢中になり、「島野隆」として執筆への専念開始2006年から2009年にかけて3冊出版。また人生にあったもう一つ大きな一本軸が、初恋女性への思いであり、それまでに何度会ったりする中で自分に、そして「魂」に、向き合う中訪れたのが、「永遠の命の感性の獲得」節目でした。46歳2007年のことであり、一連執筆本内容としても、まずはそこまで私自身心の歩み段階踏まえたものになりました。

人生完結させるために仕組まれたかのような一連運命動き始めたのが、2011年50歳になっただったように、今感じられます。出版本増刷なく商業的には不成功に終わり、執筆そのものへの情熱とはまたに抱いた、心理学執筆家として社会的成功収めることを足場自分家庭築くという自意識感情一抹期待がついえた失意IT企業時代高層マンションとは対照的な、実家所有古びた小さな家一人に。しかしこの失意への向き合いに、自分でも「面白いことになった」とさえ感じるような明瞭さで、残っていた「人の目の中で生きようとする心」を、一枚はがすかのように落とし去り身軽さすがすがしさ一次元高め境地へと至らせます(*35)。そして収入社会的評価には一切つながらないとしても、自分残り人生やって意味あることとは、より精緻この心理学書いていくこと以外にはないという絶対的確信ます。幸い、一人生きていく分にはなんとかなるだろうという算段も。自分死ぬまで生活設計という、人生宿題大きな一つがこれで完結したです。
一方で、自分家庭築くという一つ人生の望みほぼついえたことは、をやや沈滞へと向かわせていました。そこにのような運命歯車動きます。実家帰るまで待っていたかのように訪れた。それをきっかけに、実は数年前、すでに離婚をしていた初恋女性にちょっとした告白をするも進展なくやや退却気味だったのですが、また連絡取るようになり会ったりするで、湧き立ったのは、小学校頃そのままの、その女性への恋心でした。彼女のことしか考えられなくなる・・いやもうそれでいいのだ、と。
ただ置かれ内面および外面状況としても、そしてその女性様子としても、幼馴染という間柄だけではないものへと何か変えることはもう考えにくくは、現実の世界において進める代わりに、魂の世界での進めることへと向かったように感じます。その女性への思いと、一人で生きていくことになった自分への悲しみ。この2つ大きな感情テーマに、執筆趣味山登りなどにいそしみながら向き合う静かな生活送るようになりました。
一方次第に、人生「こうできなければ」自分駆り立てるものはもう何もない・・というしみじみとした平穏得も言われぬ幸福感流れるのを感じ始めました。極楽来たかのような・・。これが2014年53歳頃超越的幸福「兆し」と述べたものに該当します。それで自分にはもう何も問題残っていないかのようにも感じるのですが、に、足下をさらうのように、やはり「悲しみ」湧き立つのをます。特に、正月新年会など家族親戚行事などに。それは濃い「魂の悲しみ」です。それがある限りはその「悲しみ」向き合います。人生通して、それに向き合うことが自分豊かにしてきたものであることが疑う余地ない、そうした「悲しみ」でしたから。

「悲しみ」への向き合い最終局面・・もうそう言っていいと思います・・に至り秘境歩むようになりました。濃い「魂の悲しみ」への向き合い受けとめと、穏やか日常湧く幸福感鮮明さ増大、この繰り返しで、前者後者準備するという「望みの燃焼の法則」働いているのがはっきり実感できるようになり、それまで前者では自分好ましからざる状態感じざる得なかったのが・・これが「「心の豊かさ」への答え」で「少々「もどかしい」話」触れた部分でもあります、この最後になって変化しました。この悲しみが、他の時間に感じる幸福感生み出し、そして増大してくれている。この悲しみ向き合うことは、にとって、家族会うようなことなのだ、と。
はこの「現実の世界」とはまたにある、自分が生きる「魂の世界」というものを、実感として感じるようになりました。これには、実際身近存在としてがもう前者側にはおらずいるとしたら後者側という状況きっかけかも知れません。ともかくそれは笑顔満ちた世界です。今まで私向き合ってきた自分自身「個的魂」孤独悲しみ満ちていたのとは対照的に。そしてこの頃から、「満足のいくことをやり遂げた一日の終わりにビールを口にしようとした瞬間の幸福感」が、「出っぱなし」であるような強烈幸福感感じるようになり始めました。
この最終局面的変化があったのが2017年から18年にかけてので、少しその締めくくりのようなで、初恋女性への思い残っていた要素による惑い突き破られるような自己分析も経て、恋心家族への感情のようなものへと変化するという出来事起きました。57歳頃のことになります。
2019年頃になると、濃い「魂の悲しみ」がもうあまり現れなくなってきました。日記書く材料としても、印象的見た時健忘録程度。あまり意識することなく、「基本いつもルンルン気分」でかなりフラット状態になっています。

およそそんな流れになります。言っておけるポイントとしては、こうした最終的心境までの変化が、「いつの間にか」というようなものではなく濃い「魂の悲しみ」などへの自己向き合い体験ごとに、階段状明瞭状況変化したものであることです。だからこそ、実際それはどんな自己向き合い体験であったのか、『悲しみの彼方への旅』「この頃の自己分析が精神分析としては最も質の高いものになった」触れ(*36)40代冒頭頃のものとあわせ『日記ブログ』書き伝えることに意義感じるものでもあります。

・「老い」「一つの道の歩み」
「超越的幸福」という「心の豊かさ」ゴールまでの流れについて、ハイブリッド心理学からの考察いくつか加え、この「愛への理解」考察締めくくりたいと思います。
「寿命年齢」つまり「老い」との関係「2つの世界における豊かさ」はあくまで「一つの道」にあること、「受動型」「探求型」についての結論、そしてこの「心の豊かさ」ゴールにおける「愛」位置づけおよび出しておいた、「愛の獲得」とは一体何なのかという問いへの結論。ざっとそんな視点になると思います。

まずごく私見的推測になりますが、「超越的幸福」「魂の望み」をとにかく沢山燃やせばそれだけ早く訪れ得るというものではなく身体的年齢段階応じてという前提あるのではと考えています。
一般的表現で言って、やはり「老年期」以降のものではないかと。「老い」ただ悪いことばかりでない最大の面がここにあると言っても良いのではと感じます。
「働き盛り」というような人生時期過ぎ身体的には明らかあとは下り坂という段階以降ということになるでしょう。あるいはそれは絶対的年齢というよりも、「寿命」身体的予見される段階というようなかも知れません。特に間近ではなくともです。それ以前段階では、「命」「心」に対し、「超越的幸福」感じ取ることはまだ許さず、それよりあくまで外界現実向かって「望み」エネルギー用意するのではないかと。その島野場合還暦間近でというのは、手前味噌ですが最早ケース一例ではないかと感じています。
ただケースは多少出来すぎた状況もあるようにも。今振り返る自分でも笑えるようなとして、人の目で生き社会的にも成功した生き方目指し、それが頓挫しての結末ですから。はもう人の目社会的評価も、そして収入気にすることなく自分やりたいこと向かうことができる、またそれでも生きていけそうだという、「取り組み外」外面的幸運もあっての、そしてさらに、結局一人何か創作的なことをしているのが一番好きであり・・もちろんそれでは済まない「悲しみ」人生を通して受けとめ尽くしてこそ結果ですが、自分でも呆れるほどに人との接触希薄楽しくしていられるという性格的要因などの全てが、生活心底からの満足感じるものへと収束したという状況です。
結果的にはそうしたさまざま要因によるものだとして、「探求型」として、加速度的「超越的幸福」へと向かう歩みがあったという一例として参考にして頂ければと思います。もちろんその終わり心の境地だけを自分「こう感じられないか?」当てはめてみるようなものでは進むことが全くできずに、歩み最初から、つまり「全体−2 「学び」の全体構成」にイメージ図で示した歩み姿においてであれば、まず自分という足下装置である基盤から、そして道のり通過点としてより最初から、「自分はハイブリッド心理学が示すものとは違うものを取っている・・」というギャップ自覚するほど、むしろ前進生まれやすくなる。そうした歩みとしてです。(*37)

それは同時に、そうした年齢的前提があることも含めて、私たちはこの「取り組み」歩みにおいては、意識的実践としてはあくまで内面的「自発的幸福」目標にはできず「外面的満足」足がかり目標するしかないのだ、ということでもあります。
なぜなら、「こうなりたい」という外面目標抱くというがないと、「望みに向かう」という心の豊かさへの全て原動力姿勢そもそも生まれないからです。外面的満足得られない代わりに、内面的豊かさを、ではない、ということです。
まずはこの薄っぺらい「自意識感情」描く望み向かってとにかく全力尽くす。その結果その通り叶えば、「自発的不幸」維持されるかもしれないが外面的満足導く豊かさには直接つながるそうでない部分において、「魂の望み」向き合う可能性出てくる、その分「望みの燃焼の法則」働き「自発的幸福の増大」つながる可能性もある。
そういう歩み方しか、できないということです。これが「全体−1 ハイブリッド人生心理学が目指すもの - 「現実の世界」における豊かさへの歩み」で「外面主導にして内面豊かさ築く歩みであり、ますはこれが基本」と述べたものであります。
ですので、探求型歩みにおいて生まれる2つの別の世界つまり「現実の世界」「魂の世界」における豊かさというものを述べていますが、これはその「どちらを選ぶか」という「2つの道」としてあるのではなくあくまで「全てを尽くして望みに向かう」という一つにおける二面なのだということです。
それは「成長」の支えによる「魂の望み」を受けとめる歩み」で述べたように、「最善を尽くしたという安心と満足」積み重ねによって、結局のところ最終的には自分自身豊かだと感じられるような、最善そして最適現実世界での生活築く歩みでもあります。「自意識感情」描いた通り結果ではない可能性大きいものとしてです。これはごく輪郭を書いた島野でも分かるかと思います。
そうした長く大きな視野「全てを尽くして望みに向かう」という姿勢人生向かういい、ということです。

そうした考察とあわせて考えるならば、「受動型」「探求型」にはあまり違いないのでは、と島野としては考えます。「心の豊かさ」向かうべく、あり方、そして人生生き方というものを意識的積極的探求したと、そうでなくともとにかく「全てを尽くして望みに向かう」という姿勢人生を歩んだ結果として、最終的「超越的幸福」のような境地至った人というのは、はあまり違いないのではないか、と。
それはまず、「自発的幸福の増大」を生み出す「望みの燃焼の法則」は、結局のところ、私たちがいかに「探求型」歩みとろうとも、「受動的」にしか働かないということです。心の豊かさへの「実践」としてはあくまで外面的満足足がかり目標にする必要があること、「自発的幸福」自体感じ取れるのは「老年期」前後以降であろうこと、さらには、「望みの燃焼の法則」が働くのは外面的満足目標が叶えられない失意という、苦しい心の状態においてでしかあり得ないということ。
私たちが「探求」できるものと言うならば、その「苦しみ」流されず前に進み得るような姿勢であり目線だということになるでしょう。それは「真実」に向けるであり、成長人生歩みへの大きな視野だと言えるでしょう。もちろんハイブリッド心理学全てがそのためにあります。
一方「探求型」における積極的内面向き合いによって、自分にある「魂」感じ取ること、また「否定価値の放棄」「永遠の命の感性の獲得」のような悟り的節目持つことで、心の豊かさ別次元へと高め得るという側面についても、「受動型」においても意識表面では目立たないとしても、同じような道を通っているのではないかと、島野として考えています。
「超越的幸福」至ったようなにおいては、です。でないと、から考えてみて、「永遠の命の感性」のような人生観持たなければ、人間というのは結局いつまでも「惑い」だらけの存在であり、「否定価値」持ったままだと基本的悪感情に、つまり「不幸」に、自分で火をくべる存在ではないかと。「超越的幸福」にまで至った人というのは、意識表面思考形態はどうであれ・・たとえばそれは何かはっきり特定宗教かも知れないし、哲学思考かも知れない・・これは「探求型」一つになるかも知れません、あるいは自分ではあまりはっきり思考めぐらすことがないまま、言い伝え見聞きしたことの影響などから、「否定価値の放棄」「永遠の命の感性の獲得」相当するような姿勢持った人ではないかと、島野としては考えます。
ですので、言い方をこう変えるのが正しい理解になるでしょう。「超越的幸福」にまで至るような心の豊かさへと、「受動型」歩む人「探求型」歩む人とに分かれるというような違いあまりなく場合基本的には同じものなのだ、と。それは「全てを尽くして望みに向かう」という生き方基本とし、そこにおいて「望みの燃焼の法則」作用「受動型」受けることの積み重ね心の豊かさ増大させる一方「否定価値の放棄」「永遠の命の感性の獲得」といった悟り的転換にはできるだけ「探求型」向かう必要がある。そうした「一つの道」になるということです。

・「愛の獲得」とは何か
最後に、心の豊かさゴールにおける「愛」位置づけについて、最終的考察・・と言っていいと思います・・を述べて、この「愛への理解」締めくくりとしましょう。
「自発的幸福」と愛」で、 「その超越的な幸福感の中で、他者との関係という「愛」というテーマ自体薄れていくことさえ考えられる」と述べておきました。それが島野自身経験として見えてきたことだ、と。これはどう考えられるか。
つまりこれは、「魂の望み」燃やすごと「自発的不幸」度合い強い「望み」「済み」「自発的幸福」増大した「望み」へと移行するというのが、やがて「愛」という「望み」そのもの全体「済んだ」ものとなった段階が、「超越的幸福」ではないか、という考え持ってみたものです。
結論から言えば、これはあまり正しくないようです。結論としては、やはり独自用語での表現になりますが、心の豊かさゴールつまり超越的幸福において「愛」は、「命」の本性通りに叶えられ満たされたものとしてある。そのように言えるように感じます。「心」と「魂」と「命」の間で分断がなく調和したものとしてある、とも表現できそうです。
これはやはり島野自身自己観察からで、「「愛」というテーマ自体が薄れていくことさえ考えられる」書いたのが2019年下旬頃で、終始一人でいる生活底堅く感じるようになった幸福感において、実際のところ意識表面では「愛」というテーマもうなくなっているかのようにも感じてのものでしたが、この2021年年初頃、そうした目線自分見ていてどうもうら寂しいような感覚流れ、やはり現実生活上何か足りないのか・・いや自分生きる「魂の世界」はもう「愛」満ちている、と、「魂の世界」から外れていた自分目線をそこに戻すことでうら寂しさ感覚消えた、といった体験を踏まえ、最終的考えがまとまったものです。
つまり、「未熟の愛」「済んで」「成熟の愛」移行していくという流れがあるとして、人間社会的動物である限り「愛」というテーマ自体済んで消えるようなことはないだろうと。実際島野場合も、現実世界でのとの交流希薄ですが、希薄なり「愛」があるわけです。なお「魂の世界」満ちているのを感じることにおいては、「形」というものはあまりありません「形」があるのはあくまで「現実の世界」ですので。
濃い「魂の悲しみ」がもうほとんど現れなくなったことからも、「超越的幸福」は、「「心の豊かさ」への答え」で述べた、「魂の感情」「命の感情」移行するというものがほぼ尽くされた状態と言えそうです。その上「命の感情」によるへの行動は、もう「変化軸2 「真」と「偽」」で述べた「自意識の誤り」含むこともないその人なりの、その人本性に合った行動になるだろう、ということになります。もちろんそこでは、「愛とは〜すること」と、「愛」「形」考え当てはめようとする枠はめは、全く無用です。
またこの境地は、人間社会的動物であることにいおて、「否定価値の放棄」「永遠の命の感性の獲得」のように明確あり方切り替わる扉節目のようなものとしてあるのではないだろうと感じています。完全完璧というのはないまま、揺れが少なくなっていくというようなものとしてあるのではないか、と。

島野自身感覚として、もう一つ印象的なものがあり、自分「命」がそれとこの世生まれた、「愛」という一本軸「望み」が、「叶えられた」という感覚です。
「超越的幸福」「感じ始め」そこまでは感じておらず、自分人生振り返り多少とも恵まれ生まれたことに「もし心の問題がなかったらどんな素晴らしい人生を歩めていたか!」嘆き喜び混ざった複雑感嘆吐いたりもしていました。つまり「叶わなかったが今は幸せ」という感じ方です。
それがは、ごく素朴に、自分の人生の望みは叶えられて今ここにいるという感覚です。どう考えてという思考ないごく素朴穏やかな安息感のようなものとしてです。そしてどういうことか考えるならば、確かにもし心の問題なかった沢山友人囲まれ異性にもモテ社会的にも成功した姿なれたかも知れない、ただそれで本当どれだけ幸せなれる分かったもんじゃない、とごく素朴考えます。確か私たちは、そうした人生成功姿持ち主薬物手を出したり自殺してしまったりつまらない不祥事起こしてしまったりといったニュースをよくにするものです。
とにかく言えるのは、「人生の成功の姿」として私たちが自意識感情描くものが、いかに当てにならないか、ということにはなるでしょう。それを超えるものとしての、一本へのを、どう持つかが、まさに私たち人間生き方決定づけるだろうと。
なお「むしろ叶えられた・・」という印象的自己振り返りは、いくつか細かい自己分析でも出てきたりします。これは『日記ブログ』で。

これらの考察踏まえて、「「愛」と「自意識」と「魂の感情」」で触れておいた大きな問い、つまり「魂の感情」「いまだ叶われぬ愛」への真実の感情であり「命の感情」「獲得された愛」への真実の感情だとして、ではそこにおける「愛の獲得」とは一体何なのかという問いへの答えは、もう明確なように思われます。
それは「愛される」ことではもちろんないし、性体験持つことでも当然なく家族友人などとの「絆を得る」ことでも、何か「愛」思えるもの「自分のもの」できることでもない
それは、「愛への望み」を、まっとうすることなのだ、ということです。「愛」という「望み」において人生をまっとうすること、とも表現できるでしょう。
そして自分実際にどうそれをまっとうできたのか、まっとうできているのか、そしてその結果としての心の豊かさをどう感じ得るのかを決めるのは、私たちの薄っぺらい「心」、そして薄っぺらい「意識」ではなく、その根底厳然として静か横たわっている、「命」なのだということです。
*1 理論編下巻 P.69
*2 理論編下巻 P69-73
*3 入門編下巻ではこのジレンマを、
「愛されることに恵まれた幸運な心」「愛されることに失敗した不遇な心」対比として、「怒り」につながる心理と共に詳しく説明しています。(P.271-274)一部抜粋===愛されることに恵まれた幸運な心は、「愛される」ことにあまりこだわらなくなれます。気軽な気持ちで人との「喜びと楽しみの共有」に向かうことができ、さらに「愛」を手にすることができます。
愛されることに失敗した不遇な心は、それができません。「愛される」ことへの強いこだわりと願望を引きずってしまいます。それが、「開かれた心の世界」における愛のルールと衝突してしまうのです。===
*4 概説 P.47
*5 「愛とプライドの交錯」については以下など参照。
・入門編下巻 9章 愛への道 P.266===その裏には当然、「存在の身分としての恋愛」といった心理が、幼少期に始まったのであろう問題の深刻さと等しい激しさで「愛を汚染」している姿を、心理学の目が捉えることになります。===
・理論編上巻では「心が病む」という問題を、出生からの心理メカニズム流れとして詳しく説明しており、4章〜7章をそこでの「愛」「自尊心」をめぐる心の動きの説明にあてています。「幼少期における愛への挫折」から「愛情要求」「自尊心衝動」が生まれる一方で、この2つ互いが妨げ合う運命にある、というのがそのミソと言えます。「愛の問題からプライドの問題への切り替わり」については、7章中の「怒りに変わる「思いやり」」節など参照。P.108===それはまるで、バニラクッキーの上にチョコを塗ったビスケットのようなものです。まず気持ちは「愛」というバニラ味で始まるのですが、表面に出る時には必ず、「自尊心」というチョコ味に、変わっているのです!===
*6 理論編上巻 P.109
*7 理論編上巻 P.141
*8 『悲しみの彼方への旅』 P.42、57-59など
*9 『悲しみの彼方への旅』 P.92
*10 『悲しみの彼方への旅』 P.93から「8章 蘇った自己」にかけて
*11 入門編下巻 P.265
*12 理論編上巻 P.25
*13 『悲しみの彼方への旅』 P.204
*14
「愛への劣等感」という言葉から連想できる似たマイナス感情「人生への嫉妬」というものがあります。「人々は愛し合い、楽しみの場を持っている。自分にはそれがない。良いものは自分をす通りしていく。人生が自分をす通りしていく。」という深く激しいマイナス感情であり、「心の荒廃」にあるものとして哲学者ニーチェ言葉を使ってホーナイ指摘したものです(入門編上巻P.170)。これは「根源的自己否定感情」にしてさまざまマイナス傾向とその結果雪だるま式膨張したマイナス感情の塊と言えるでしょう。対し、「愛への劣等感」「根源的自己否定感情」小さな核そのものの感情表現という感じのものになります。
*15 入門編下巻 P.260
*16 入門編下巻 P.120、261
*17 『悲しみの彼方への旅』 P.77
*18 この「新しい世界」とは、「根源的自己否定感情を越えた先に現れる新しい意識世界」とも言えるもので、心の成長成熟過程しばしば体験できる「新たな感情」「未知の感情」よりも「新しさ」規模一次元大きいものとも言えます。これについて著書の方では映画『マトリックス』になぞらえ、新たな世界が「リロード」されるという表現説明しています。あたかもコンピューター再起動し、今まで違うプログラムによる画面現れるというような風情です。『入門編下巻』P.328、『理論編下巻』P.91。
*19 『悲しみの彼方への旅』 P.279===今まで私の自己はあまりに小さく、分裂した人格が引き起こす葛藤はあまりにも大きく、私はその中をさ迷う小さな旅人でしかありませんでした。しかし今私の自己は、葛藤の全てを包含するまでに成長しました。今まで、分裂した人格の一部が私でした。今や、分裂した人格が、私の一部となったのです。===
*20 『悲しみの彼方への旅』 P.280
*21 理論編上巻 4、5章
*22 実践編上巻 P.203
*23 これについては、島野としてはすぐ性行為の描写に走りがちな昨今の文芸風潮(?)へのちょっとしたアンチテーゼのようなものを感じる次第です。『島野日記ブログ』の 「このブログの構成」記事で触れています。
*24 入門編下巻 P.189、理論編下巻 P.98
*25 理論編下巻 P.24、63、64
*26 ハイブリッド心理学概説 P.41
*27 ハイブリッド心理学概説 P.37
*28 『悲しみの彼方への旅』以降執筆をもっぱら理屈整理にあてたのは、島野執筆活動がもとより「作家」的なものより「学問」的感覚でのものであること、また自分にとって現在進行形心の問題はあくまで自分向き合うために、基本的には伝えないという方針でいたためです。今『日記ブログ』移れる感じているということは、同時に、自分「人生」という課題遂げられ、には問題残っていないと感じ、全て過去のこととして書ける感じているということでもあります。
*29 ハイブリッド心理学概説 P.143
*30 ハイブリッド心理学概説 P.38
*31 入門編下巻 10 章 人間の真実「愛」と「命」 P.319からの流れで描写したもの。ハイブリッド心理学概説 P.56に要約あり。
*32 ハイブリッド心理学概説 P.56、入門編下巻 P.329
*33 ハイブリッド心理学概説 P.144
*34 ブログ2017-04-17記事『トップページをマイナーリニューアル・「超越的幸福」の話など^^
*35 この時日記はブログの2011-10-30記事『「悟り」と「未知」-6・乗り越えるべきもの』でちょっと先行(?)紹介しています。読者広場で、「悟り」によって心の壁を越えるとはどいうことと考えるかというような主旨の質問へのアドバイスを、シリーズ記事として書いた中の一つで、心の壁を越えることの一つには心の死を経るというものもあり、ちょうど島野自身ごく最近その一つ体験したというとしてです。ただこのシリーズ記事全体あまり良くまとまっていない印象。改めてその質問へのハイブリッド心理学からの考えと言うならば、
心の問題とその克服という具体的内容考えるのが良いという立場にて、「歩み1-1 「心の問題」の全体の理解」がまさしくその内容該当します。
*36 『悲しみの彼方への旅』 P.332
*37 取り組み実践詳説 P.57 「学び」とのギャップを生きる

「愛」への価値観 
「愛への価値観」は、上記のような「愛への理解」の仕方も含め、「愛」どのような姿勢と行動法で向かうべきものと考えるか、次のどちら採るかの選択として理解することができます。
a.「喜び楽しみの共有」として向かう。それができない時、孤独受け入れる。・・・
b.「分かり合い認め合う」こととして向かう喜び楽しみのみではなく、互い悲しみ辛さ分かり合うことに「愛」があると考える。・・・×
これは「愛」がまずは「楽しみ合い分かり合う」というものとして、その始まりにおいて順調な間は選択問題にはなりませんが、関係に何か亀裂が生まれたり、あるいは人への親愛行動に何か困難を感じた悩みに際して、その選択問われるものになります。
ハイブリッド心理学取るのは、「喜び楽しみの共有」として「愛」に向かい、それができない時孤独を受け入れるという価値観です。

この選択には、多く意味があります。以下の4つを指摘しておきましょう。
 ・愛の純粋な感情を守る
 ・「心の自立」に立つ
 ・健康な愛に向かう
 ・「魂の感情」に向き合う

・愛の純粋な感情を守る
まず、その姿勢「愛」を、その最も純粋な感情として守る姿勢であることです。
一方の.「分かり合い認め合う」こととして「愛」向かおうとする姿勢は、おうおうにして愛を無理強いし、うまくいかないと「怒り」に転じるという、「愛」とはまるで違う感情へと向かわせる傾向があります。たとえそうはならないとしても、その姿勢の中で分からせよう意識する感情というのは、おうおうにして誇張帯びることがあります。
そもそもそうした不安定場面で、私たちは自分自身感情よく分からないことが多いように思われます。まず自分自身に向き合い、自らを知るために一人になれるということが、心の健康と成長にとても大切です。孤独受け入れられることが、そのための重要基盤になります。

・「心の自立」に立つ
では、そうした混乱のない、明白悲しみ辛さについても、互い分かってあげられることに意味はないのか。「思いを伝える」ことの大切さ「気持ちを分かってあげられる」ことの大切さ謳われるのが喧(かまびす)しいことこの上ない昨今でもあります。それ以外心の豊かさへのないかのように。ハイブリッド心理学はそれについても反旗掲げるというのか。
一言で言って、そうだということです。
なぜならそれは、自分の足で前に進むことをしない姿勢前提にしたものだからです。これはもう「愛」だけの問題ではなく、人生の生き方根本にかかわるです。
ハイブリッド心理学では、愛への価値観を、あくまで、自らの足で立って歩き自ら方向を定めていくという生き方価値観一環として選択します。
これはハイブリッド心理学心理学的幸福主義「3つの車軸」の一つ、「自らによる幸福の追求」から自ず導かれるものであり、心の依存から自立への転換という、重要心の基盤でもあるものです。気持ちを人に分かってもらい、人に幸せにしてもらうという姿勢ではなく、自分で自らを幸福にする。その姿勢取るのであれば、「分かり合い認め合い」として向かおうとする姿勢一部は、手放すものになっていきます。
これは「道徳主義」生き方価値観「分かり合い認め合う愛」価値観同調する(参照)のと対照的です。

悲しみ辛さに対しては、ハイブリッド心理学からは、それをどう分かってあげられるかではなく、そこからどう前進すればいいのかに、すぐ話を進めます。それが感情と行動の分離基本姿勢に始まる「実践」に他なりませんが、「心の依存から自立への転換」立ってそれに取り組んだ時、目の前にある問題はもう「愛」とは全く違うテーマになるかも知れません。もし問題テーマ間違いなく「愛」であるのならば、引き続き以下のような愛への価値観視点および取り組みへと向かいます。

・健康な愛に向かう
愛への価値観のための視点として、私たちはさらに、ハイブリッド心理学心理学的幸福主義「3つの車軸」一つ「科学的世界観」に立ち、心理医学的、さらには動物生態学的「愛」あり方見る目を持つことができます。人間において、その健康な姿とはどんなものなのか、と。
心理医学的に言えるのは、相手以外のことが見えなくなるようにのめり込む「愛」背後に、しばしば心の病み伴うことです。それを行動化するごとに、「自己の空洞化」が深まり相手さらにのめり込むという悪循環病理から、踏みとどまる必要があるということです。
また心理メカニズムとして、自分内面感情分かってほしいという衝動抱く人は、同時に、自分内面感情詮索されることへの怖れ嫌悪感にも駆られるという、一つのコイン両面があること、人の感情実に多様であり思いやって感じ取るものが全くの見当外れであることも少なくないことなども、視野に入れると良いでしょう。どのように人の気持ち思いやるかにも、多少健康な限度という線引きがあるということです。
動物生態学的には、人間健康な愛実に多様であり、ある種のように生涯特定の相手寄り添って生きるような姿ものあれば、に生きる肉食獣のように、繁殖期僅かな時間だけに過ごし、あとは単独生き続けるような姿もある。そうした多様性こそが人間だということになるでしょう。

そうして言えるのは、人それぞれは、人それぞれに、唯一無二のものだということです。
「これこそが愛の形」だと一つに決めつけるのは不毛であり不実だということです。うまくいっているように見える真似してみたり、マニュアル習うような行動は、まあ入り口きっかけとしては多少役に立つこともあるでしょうが、最終的に、人生の豊かさに対してはほとんど寄与するものがないということです。
人それぞれは、人それぞれ唯一無二のものであり、それを模索するのが人生だと言えます。
これがまずはハイブリッド心理学愛への価値観です。そしてそれに向かうための、唯一のルールとなるものが、「楽しみと喜びの共有」として向かう、というものになるのだということです。

・「魂の感情」に向き合う
それがまずは「愛に向かう歩み」向かうにあたって携えたい価値観視点だとして、その歩み実際に歩む中で見えてくる、さらなる視点があります。
「魂の感情」向き合う、というものです。実はこれこそが、「楽しみと喜びの共有として向かい、それができない時孤独を受け入れる」という価値観選択に、「愛」にまつわる心の罠向かうのを避けるという消極的意義をはるかに超えた、心の豊かさ方角へと自らを定める積極的意義という、まさに魂を吹きこむものです。

「魂の感情」は、「自意識の薄れた、愛に向かおうとする純粋な感情」などと定義できるものです。そしてそれは、まずは自意識によって描いた愛への望みに向かい、そこで出会う壁を前にして望み打ち砕かれ、それでもなお自分が何を望んでいたのかに向き合った時、「自分」という浅はかさを超えた深みのある感情として、「人間性の核」を重要基盤にして現れ得るものです。
「魂の感情」自分自身の中で受けとめるごとに、私たちの「成熟」へと変化していきます。より純粋さ安定増し「自分から愛せる」そして「自発的幸福」増大という、「心の豊かさ」一歩増した方向へ。あと戻りのないで。
重要なのは、こうした「魂の感情」現れも、それによる成熟変化も、「自分自身への向き合い」という、孤独の中における意識作業、意識姿勢によって発現するということです。そうではなしに、自分感情人に見せるもの意識した時(これはつまり自意識働かせた時ということです)、「魂」姿を消してしまうようなのです。
こうして、孤独を受け入れ自分自身に向き合えることは、心の罠向かうのを踏みとどまるという消極的価値大きく超え心の豊かさ向かうための足場になるという、大きな積極的価値持つことになるのです。
だからと言って、最初から孤独を決め込んでいては、「愛への望み」向かうという、心の成熟への基本的方向性なく「魂の感情」現れることもなくなってしまうように思われます。
「愛への望み」へと全てを尽くして向かい、出会うことで自分自身向き合い「魂の感情」出会う。それによって豊かさ増した心でこそ、人との、より着実感情交流へのも開かれます。

つまりそこにあるのは、自分自身との関係の中に生まれる「魂の世界」における心の豊かさと、人との間での感情交流気持ち触れ合いといった「現実の世界」の豊かさという、2つの、互いに接することのない、次元の異なる豊かさです。
しかしそれは、どちらを取るかというものではなく、その両者があってこそ双方への力強い方向性も培われていくという、相乗的なものだということです。
「愛」「分かり合い認め合う」こととして向かおうとする相互依存的価値観姿勢は、そのどちらをも、次第に見失ってしまうものに思われます。
ハイブリッド心理学が取る、「楽しみと喜びの共有として向かい、それができない時孤独を受け入れる」という価値観は、その2つの道どちらをもに向かう、一つの意識姿勢取るものなのです。
参考資料 
・入門編上巻 1章 怒りのない人生へ - 愛によって人を動かす(P.34) 「怒り」が「正しい」という観念と結びつきやすい一方で、実は「弱さ」の表れだという話(参照)を受けて説明しています。
「悪」は怒りの対象ではなく、「怒り」は弱さの表れである。その逆形として、「善」は愛される対象ではなく、「愛」は強さの表れであると言えます。愛によって人を動かすとは、楽しみ喜び、そして目標共有することであり、これを行動原理にすることで、人はより強くなり、より多くの愛を感じられるという好循環があります。

「愛」への取り組み 
(以下執筆中^^)



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