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ハイブリッド人生心理学とは 1.ハイブリッド人生心理学とは
2.「取り組み実践」への理解
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 (7) (8) (9) (10) (11) (12)
(13) (14)
3.学びの体系
4.メール相談事例集

2013.9.17 この原稿は『ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説 −「心」と「魂」と「命」の開放−』
として無料電子書籍化しました。今後の更新電子書籍側のみになります^^。


2.「取り組み実践」への理解 - 続き
 (2)成長変化のための心の礎(いしずえ)
「成長変化する人」と「いつまでも変わらない人」  思考の素地 「目的思考」  意識の素地 「現実を見る目」  「現実を見る目」の学びと「内面の開放」  「学び」と「開放」と「自己分析」  「自意識(空想)を生きる」から「現実(今)を生きる」へ  「今までの心の死」を経る  「学び」とのギャップを生きる

「成長変化する人」と「いつまでも変わらない人」

問題は、どのようにして、そうした「今の自分に必要な成長前進とは何か」を感じ取るかになるでしょう。
多くの方は、ハイブリッド心理学がまずは「習得達成目標」とする「否定価値の放棄」までの歩みが、悪感情jの洪水から自分を救い上げたいのならば「分かってもらう」「認めてもらう」そして「人の心に自分が抱かれる」という「愛」から身を離す、そして「真の強さ」に向かうために、「現実において生み出す」ことを根幹とする思考法行動法を体得するという動機のみが、前進を可能にするという言葉に、何かしっくりこない物足りなさを感じるかも知れません。「心の成長」というものにはもっと沢山の面があり、さまざまな「動機」から向かうことがきるものではないのか、と。

もちろん、この説明の最初幅広く奥深いものと触れた「感情と行動の分離」の姿勢に立った実践にはさまざまな「実践項目」があり、その中で自分には特にどれが必要かを感じて重点的に取り組むというアプローチ大いに結構です。
ただしそれは自分の心というものの、基本的な運転技術の話であり、「動機」を問うまでもなく、誰もが一通りを習得したいものの中での話です。ハンドルをどっちにどれだけ回すのが適切かという外面行動法、自分の感情というガソリンにどれだけ不純物が混じっていないかを見分けながら、重要な目標に向かう意志を自分の中に培うアクセルと、欲求衝動の暴走を防ぐブレーキのワーク、そして地面のでこぼこを「ただ流す」ことでやりすごすクッションといった、内面への向き合いと意識法というように。これらは心の健康と成長に向いた「心の使い方の基本」であり、それぞれがそれと異なるものをすると心は未熟と病みに向かってしまうという、はっきりした答えがあります。
これらの習得向上は、基本的な日常生活習慣における成長と言うことができるでしょう。「実践項目ガイド」(あとでリンクつけます^^)が、その一つ一つ個別に解説するものです。

その上で、重要なのは、どこに向かうのかです。今自分が波に流され漂うだけのの中から、大地へと向かい、山の麓にたどり着き、やがて頂きに至る。そこにおける前進変化は、「人生における成長」です。
ハイブリッド心理学が考えるその道のりは、一種類しかありません。そしてその前進を本当に生み出す「動機」になるものも、今述べたような一種類しかないのです。

私たちは大きく二分されることになります。この道を前に進む者と、進まない者と。つまり成長変化する人と、いつまでも変わらない人と。それはこの道の歩みをいかに「正しく理解する」かどうかと言うよりも、悪感情から自分を救うために今までの「愛」から身を離す、そして「現実において生み出す」という「真の強さ」に向かうことを望むという、自らの心に取り組むための「動機づけ」を持つかどうかが、決するということです。
ですから、それを自分が今成すべき成長前進の一歩だと感じ取ることができたら、実はもう答えは出ているのだとも言えます。あとは心の健康と成長に向いた正しい「心の使い方」をすれば、そこに答えは織り込まれているのですから。その点で、この「動機づけ」を感じ取るならば、この心理学を学ばなくとも、人は何らかの同等の学びを、何かから得て、成長変化に向かうことになるであろうと、この心理学では考えています。これは私たち全ての人間の心に、つまり「命」に、用意された道なのです。

ハイブリッド心理学のメール相談においても、「変化する人」「変わらない人」かなり明瞭に二分されたのが、今までの印象です。
メール相談では、まずは相談者にとって一番気になることから題材にして、内面のストレスを減らしながら外面の問題解決に役立つ、なるべく即効的なポイントからアドバイスしていきます。内面動揺があまりに強い場合は、より多くをその解きほぐしに当てながらです。そこで今までの、見事に心の健康と成長に真逆を向いた姿勢と思考法歯止めがかかり、多少の落ち着きと安定が出てくるまではほぼ例外はないのですが、そうして内面に多少の安定が得られ、その人の「地」の思考の役割が大きくなってくる中で、数週間前までの自分がまるで別人に感じられるように、新しい心の状態と、次の課題に向かってどんどん変化していく人と、元のままの固執した思考傾向の繰り返しに戻る方が、かなりはっきり二分されてくるのです。そこで後者に対しては、即効的アドバイスから、心の成長への動機づけを促すようなより深いアドバイスを試みるものの、説明そのものが難しくなる面もありあまり効を奏することはなく、一方前者においては、心の成長への動機づけをこちらから促そうとするような説明はあまり必要としないまま、自分でそれを感じ取り、それに向かう様子があるという、対照的な姿でです。そして残念ながら、そうした前者少数派です。
似たような話を、実績を積んでおられる他のカウンセラーが語っているのを見たことがあります。どうやら2種類の人がいるようです。これこれの実践を日々続けることで変化していく方と、そうでない方、と。
この違いは何から生まれるのか。

その説明によって「変化できない人」「変化できる人」に転じることができかは未知数ですが、そこに、人が心の成長に向かうことを阻むもの促すもの、つまりは人に「今自分にとって必要な成長前進の一歩」を感じ取らせるものと、それをおおい隠すものの、最大の核心があるとハイブリッド心理学では考えています。
それが同時に、残された心の成長の真髄に向かうための動機となる、「自らの魂に向き合う」ということにつながっていくものになるのだろう、と。


思考の素地 「目的思考」

その核心とは、「思考の素地の違い」、さらには「意識の素地の違い」とでも言えるものです。
ここではそれを、「目的思考」、そして「現実を見る目」という2つのテーマで説明しておきたいと思います。

まず「目的思考」とは、これこれの目的のためであれば、これこれをこうすると良い、という「目的」を思考の始まりとして、その「方法」「手段」を考えるという、思考の基本的な働かせ方です。
「目的」には、何かの「問題」を解決すること、「課題」を達成すること、「望み」を叶えること、といったことがあります。それに対して、「こうすれば良い」という「方法」「手段」を考える。するとそこにさらに、それがどのように簡単なことかそれとも難しいことか、どのように効果的かそれとも非効率的か、また合理的かそれとも迷信のような誤りか、といった思考を展開することができます。当然そこに、先の「「心」と「魂」と「命」の開放」で述べたような、「小学校で学ぶような基本的科学知識など本当に確かなことからしっかり積み上げていく論理的思考」が問えるものになります。
そのような「目的思考」の素地を持った人が、「成長変化できる人」です。

一方それとは対照的に、「いつまでも変わらない人」の思考の素地になるのが、「目的思考を欠いた善悪思考」です。「何のために」という「目的」を明瞭に思考することなく、「こうするのが良い」という「善悪」が語られる思考です。
何のことはありません。それは私たちが子供の頃から言われた言葉の、基本的な思考形態です。勉強しなさい。良い大学に入りなさい。良い会社に入りなさい。結婚しなさい。
何のために? 「目的」意識しないその思考には、それがどのように簡単かそれとも難しいか、効率的不合理かも出てきません。そもそも何をどうすればそれが可能になるのかという論理的思考が、最初から欠如しているのですから。その思考の先に出る結論はただ、そうなれなければ「駄目」ということです。あとは「心の惑いと病み、その治癒克服と心の成長」で触れたように、「頑張れば何でも」といった精神論か、はてはもう理屈もへったくれもない、「そうならねば」というストレス。そこから、病みが始まっていたわけです。
これが「善悪」というニュアンスだけではなく、「人間評価」というニュアンスでもしばしば語られます。男は女は、こうでなきゃ。これが勝ち組でありこれが負け組だ。これらはしばしば、「脅し」として語られます。そうでなきゃ、ひどい目にあうぞ、生きていけないぞ、という暗黙で。
そうしてその思考の先でうまくいかず悩みにおちいった時は、「こんな嫌な気分になった。どうすればいいのか? 自分の何が悪いのか?」という嘆きになるという思考の素地です。
それが「目的思考」の場合は、「こんな嫌な気分になった。これは一体どんな問題が起きているということか」という、「問題把握」から始める思考になります。そこから、今までの全ての思考の見直し始まり得るわけです。そもそも、それが良いことだと信じ、そうならなければと考えたことの中にあるのかも知れない、根本的な誤りから・・。

この2つの思考素地違いが、人が「成長」に向かうか否かを分かちます。
なぜなら、人は「何のために」という「目的」、つまり何か解決したい「問題」、達成したい「目標」、叶えたい「望み」を、はっきりと自分で認識自覚し、その上でどのようにするとなぜそれが可能になるのかという原因から結果までのつながりを、心底から理解納得できなければ、心は本当にその方向に動こうとするものには変わらないからです。一方で、「こうすれば良いらしい」という結果だけを自分に押しつける思考に慣らされた私たちにできたのは、「そうしているつもり」という、意識の表面で上の空に浅く回すだけの、自分を本当に変えることのない思考で生き続けることであったわけです。
実は、ハイブリッド心理学のメール相談でも多数派であった「やがては変わらない人」のアドバイスを求める姿勢が、この思考の素地の中にあります。こんな感情です、どうすればいいのでしょうか、と、なぜそうなのかの原因から結果までを深く追い求めることなく、答えだけを求める姿勢。それは自分の病気を知るという姿勢を持たないまま、すぐ治してくれる医者を求めて世の病院を渡り歩く人の姿のように・・。

ですからそれは、この『ハイブリッド人生心理学とは』での最初の話から、そうなのです。「人生成功術による外面の建設的な行動法を支えに、深い心理学による解きほぐしを内面に向ける先に、“自意識”に惑う薄っぺらい“心”を超えた、“魂”“命”が現れる」。そう読んで、これは良さそうだ、と、自分をそのような心の境地に向けて変える効果がある言葉を期待して学ぶという姿勢では、この後の膨大な文章をいくら読んだところで、この歩みへの前進根本的にできません
もちろん、読んで深く感銘し、感じ方や考え方が大きく変わることもあるでしょう。この心理学に限らず。しかしそれは実は、今までの人生の歩みを通して心に潜在的に準備されていた成長が、その言葉によって「気づき」として引き出されたまでです。それを超えてさらに未知の心の境地に向かって成長することは、もう、言葉で感銘を受けて、という形では進めないのです。
これはメール相談を通して変化できた方の、全ての範囲にも言えることです。それはあくまでその人にすでに潜在的に用意されていた成長を、引き出したのです。
一般に、人に言われた言葉によって変化できる範囲とは、すでに心に準備されていた成長引き出すまでです。当然、それで心の成長のゴールまで届くことはないでしょう。それを超えた成長は、人に導かれるものではありません。人に導かれている時点で、それは未熟の段階であり、それを越えるためには、成長に向かうための姿勢根本的に変える必要があるのです。
それは一言で言うならば、私たち人間の心の境地を変化させていくものは何なのか。その「原因」と「結果」を探求する先に、それを自らの中に見出すという姿勢です。それによってのみ、この心理学も、それを紐解き、開くための鍵になり得るのです。

ですから最初のステップは、もしその思考の素地持っていないのあれば、ごく日常生活レベルから、「目的思考」の素地を培うことからです。何のために、何をどうするのが良いのか。目的に応じて、答えがあります。どう理屈がつながるか問えるものとして。目的が違えば、答えも異なるのです。たとえばスーパーでの買い物をどう変えたらいいかの答えが、「目的」が「ダイエット」なのか「お金の節約」なのかによって変わるように。
もちろん「目的思考」さらに以前に、そもそも気分や感情でものごとを考える先入観や偏見や迷信を根本的に卒業する気があるかどうかを、確認する必要がある場合もあるでしょう。「占い」「幽霊」といった思考を持つ傾向を放置したままでは、この登山ルートは不向きです。
そうした「心の問題」以前の基本的な「思考の素地」が、まずこの道のりに向かうための最初のステップです。

まずは日常生活で出会う問題から、「原因」から「結果」までをしっかりつなげて考え、後戻りの必要のない、「目的」のための確かな答えを選んでいくという、基本的な思考の素地培い育むのが良いでしょう。
博識である必要など全くありません。生きる上で本当に重要な知識など、ほんの僅かなものなのです。自分が本当に必要としているものは何なのかを知り、そのために自分が役立てることのできる情報を知ることができるのが「賢さ」です。逆に、自分が何を必要としているのかを自分で分からず、無駄な知識を集めることに駆られるのを「愚か」といいます。その点、森の中の小動物の方がはるかに賢く人間の方がはるかに愚かだと言えるでしょう。
自分では使いこなしようもない、人に感心されるためのような特別な知識や方法を追い求めるのを、やめることです。目の前の現実において、実際に自分が行動することのできる、最も小さな単位の目標を設定し、その一つ一つの達成を喜びながら、次へと向かうことです。部屋の掃除をするならば、今日は掃除機を取り出すことができた、明日はスイッチを押せればいいというように。何をどんなスピードでできるかも、それぞれの人がそれぞれのハンディを持った、唯一無二のものなのです。それを、人生を通して探っていくことです。地味で着実な、小さな前進の積み重ねこそが、他に勝るもののない、大きな目標への最強の向かい方なのです。
このようにして「目的思考」の下で「体得」された日々の生活および人生の生き方は、当然のことながら、同じ思案を何度も繰り返す必要もなく、あまり意識せずともそのように行動するものへと「自動化」される、つまり「考える必要もない」ものになっていきます。揺らぎなさ惑いのなさ、そして充実感の中で。これが、やがて人生の全て「豊かな無」の中で輝くゴールへとつながっていく、思考の素地になるのです。


意識の素地 「現実を見る目」

ただし、やはりそうした「思考法」についての話だけでは、まだ何かが根本的に足りないことも感じます。
そこで起きる可能性があるのは、何が「問題」「目標」「望み」なのかから問う「目的思考」を試みたとしても、再び思考は、「目的思考を欠いた善悪」「目的思考を欠いた人間評価」で抱かれたものが目的だという話に戻るという状況です。は、は、こうでなければ駄目らしい。こんな人間勝ち組であり負け組なのだ。そのためには・・。自分は・・という思考へ。そしてそれはもともと「目的に応じた方法の合理性」など問うべくもなく抱かれた頭ごなしの理想像であることにおいて、結局力づくのストレスで自分にそれを当てはめるという「方法」しか選択肢がないものへと、再び思考の駒が戻るのです。
それは結局のところ、「心の惑いと病み、その治癒克服と心の成長」心の悩み惑いがどのように起きるかを最初に説明したように、「今の未熟な心で想像できる範囲の感情と、それが人にどう見えるかの外面印象の空想ばかりで考えてしまう」姿です。そしてそこで述べたように、「“望むこと”と“努力すること”についての混迷と混乱」へと再びおちいり、やがて「自分がいったい何を本当に望んでいるのか、どう生きようとしているかが、見えなくなってしまう」のです。まさに、何が自分の本当の望みなのかを問うことから始める、「目的思考」とは別の方向へと・・。
その結果は、この心理学にせよ他の取り組みにせよ、学んだはずのことが全て無に帰するかのように、同じような動揺と嘆きに戻るという姿です。もちろん、再び落ち着きを取り戻すことは以前よりははるかに容易ではあるものの・・。
これは何が原因なのか。

実は、昨年3月に亡くなった私の母が、そうした「やがては変わらない人」典型でした。思いやりが通じない苛立ち嘆きから抑うつ感情にも流れてしまうといったものが、主な感情動揺であったケースとして。それで若い頃からさまざまな精神的学びを求めた果てに、私の心理学を熱心に読むに至り、ようやく一時しのぎのごまかしではないものが分かってきたと感じたようでした。それでも、感情動揺場面に際しての思考の様子は、最後まで、まるで学んだはずのことが全て無に帰しているかのような、同じものだったのです。
なぜ母は結局あまり変わらなかったのか。その理由をまざまざと示すかのようなものを、後日見る機会を持ちました。父が、母が遺したものを整理し、私に渡したものの中に。一つは『入門編』の数冊の在庫。その中に、カバーを外し、ほぼ全てのページに鉛筆で線引きがされた『下巻』の一冊。は間違いなく、私の著書の最も熱心な読者の一人でした。それにしても変われなかったなあ・・と私としては感じながら。そしてもう一つが、DVDプレーヤーとそのリモコン。必要最低限のボタンに、「再生」「停止」などと手書きをした紙が貼ってありました。まさにこれが理由だな・・と私としては感じながら。

どういうことかと言うと、「現実世界」に向かう姿勢として、根本的に異なる2つの姿勢があるということです。
一つは、今までの心でできた解釈を「現実」として相手にする姿勢と、もう一つは、ありのままの生(なま)で直(じか)の情報を「現実」として相手にする姿勢と。
これは「思考」がそこから、それを相手に、始まるものとして、「思考の素地」さらに基盤になる、「意識の素地」だと言えます。そして今述べた前者の姿勢が、「いつまでも変わらない人」の意識の素地であり、後者の姿勢が、「変わっていける人」の意識の素地です。

私たちが生きるこの「現実世界」を、を、社会を、そしてそれを取り巻くさまざまなものごとと、そこに生きるさまざまな人の人生を、どう見るか、そうした「現実を見る目」こそが、あらゆる心の取り組みの本当の始点、支点であることを、ぜひ理解頂ければと思います。
こんな目で見られた!」「こんな扱いを受けた!」 大抵はそうした観念で始まる私たちの感情動揺は、そこで起きた現実の事実の捉え方を見直すことから、真の解決のための解きほぐしが、始まるのです。そこにこそ、この現実世界を生きる知恵とノウハウを仕入れ、活かすべきものとして。
人の価値観行動の仕方には、どんな種類のものがあるのか。それぞれにおいて、感情はどのように移り流れるものとして。心が健康で心の自立をしている人と、心が未熟であったり病んでいたりする場合の、その違いを知ることです。人を見て人に合わせることも必要であるならば、やはり健康な心の世界を基準にして考えるのが良いでしょう。未熟や病みを切り捨てるのではなく、それがどう心の健康と成長へと転じることができるのかという、より深い理解も探求しながら。

そうした理解をふまえて、自分が体験した感情動揺を捉え直してみるといいでしょう。「こんな目で!」「こんな扱いを!」と感じることになった、自分の側の原因は何だったか。自分からどう動くという意識のないまま、ただいかに人に良くされるかという衝動の中にいたのではないか。そこに含まれていた、自分自身で自己中心的で傲慢だと感じるような衝動への自己嫌悪感が、人からの「こんな目」「こんな扱い」という感覚として映されていたのではないか、等々。
そういった「学び」「自己理解」を通して、次第に、日常人生で出会うさまざまな課題場面における、望ましい行動の仕方の答えというものが分かってきます。しかし私たちの内面感情は、それに合わせて心が健康で豊かなものへとは、そう都合良くは変わってはくれません。なんとかそこに、自分に行動することのできるぎりぎりの線を見出せれば、そこに向かえばいい。しかしそれもできない時、私たちは未熟なまま、行き場のない心を自分の中にただ見つめ、苦しむことになります。
その苦しみを、ただ流すのです。そしてその苦しみが癒えてきた時、私たちは、もはや同じような場面を前にして、同じ苦しみを感じることなく、行動できる範囲が広がっている、以前とは違う自分を感じ取るのです。ここに、本当の「心の成長」が起きているのです。


「現実を見る目」の学びと「内面の開放」

上に書いた流れに、この心理学が考える、「感情と行動の分離」と呼ぶ心の取り組みのための意識姿勢および意識実践と、それによって生み出される心の成長の、エッセンスが凝縮されています。

つまりそこで行うのは、「現実を見る目」、つまり私たち人間の行動と感情のあり方さまざまなものごとなどの、自分の心の外部にあるものについての学びを得ることです。すると次に、それに応じて自分の望ましい外面行動の選択肢についての考えも、自然と変化するでしょう。そして最後に、自分が実際にどう行動できるかの「気持ち」「感情」については、それに合わない部分を変えていく、のではなく、むしろギャップをクローズアップするように、自分が何を感じているのかを、ありのままに、自分自身に対して開放するのです。望ましい外面行動法合う内面感情あれば、それに向かって突き進めばいい。それがないのであれば、行き場のない自分の心を見つめる苦しみを受け入れるという、基本的な2つの道がそこにあるものとして。
私たちが意識姿勢および意識努力として行うべきことは、そこまでなのです。そしてそれによって起きる心の成長変化は、私たちの「意識」を越えた、「意識」の外部で起きるものになるのです。それが、「命」によって生み出される心の成長変化である。それが、この心理学の根幹思想です。

そこにおいて一見してつながらない、「感情と行動の分離」の意識実践と、「命」が生み出す心の成長変化。この2つをつなげるものとは、「現実世界」を自分の目で、自分の内面感情で歪めることなく見、それに合わない自分の内面感情のギャップをありのままに受け入れるという、外面と内面双方における「現実」に向き合う「真摯さ」、そして「覚悟」の姿勢とでも言えるものであろうことを、ここで添えておくことができます。それが私たちの「心」を「命」へとつなげ、「命」が、「心」を変化させる力を及ぼし始める。そんな仕組みがあるのだろう、と。

「変われない人」の心に取り組もうとする姿勢は、それとは逆に、「こんな目に遭った!」と感じた現実の事実の捉え方を見直すことをせず、また現実世界への向かい方の学びをそこで得ることもなく、現実の事実についての自分の解釈を疑うことなく固定させたまま、その結果の自分の悪感情については変えようとするというものが典型的です。あるいは、変えてくれる人の言葉を求めるというものです。どう感じるようにすればいいのか、と。これは結局、心の成長へと全く向かないまま、再び、「こう感じなければ駄目なのか・・」と自分を見失い、自分の心に枠をはめようとするストレスを加えるという、心の未熟と病みの檻から抜け出せない姿になるわけです。
そうではなく、動揺体験を糧に、学ぶのです。現実の事実の見方と、さまざまな行動と対処のあり方を。そして、学べたからと言って感情を変えようとする圧力は、むしろ拒否することです。学べたとして、自分はこう感じている!それを自分に対して明らかにすることです。
「気持ちのおさまり」を求めてはいけません。それを求めるとは、成長することをやめ、自分を固定化させるということです。現実の見方と、現実への向かい方の学びを得ると同時に、自分の気持ちを、なるように好きにならせるのです。

すると「命」が、私たちの内面感情を浄化させ、より豊かなものへと、力強さを増すものへと、変化させていくのです。ただしすぐに、ではありません。本当に自分で考え、自分の考えを持つようになること、そして「現実において生み出す」という行動法を自分のものとして選択することを足場に、否定できることで自分の価値が高まるという心の深層の衝動を、心底から捨てることをしてからです。それが「心の開放」「魂の開放」であり、先の「歩みの道のり」からここで説明してきているものです。そこから、「現実において生み出す」という新たな生き方が、今までの、自意識に惑いすさんできた感情を、より豊かで力強いものへと浄化していく道が、始まるのです。それを歩むかどうかです。


「学び」と「開放」と「自己分析」

以上述べた「目的思考」「現実を見る目」そして「内面の開放」が、ハイブリッド心理学の「取り組み実践」が向かうものとして「心の成長と「魂」と「命」」で述べた、「今の心の中でこんな心になれればと自意識で想像するものを遥かに超えた、未知の心への成長」2つの方向性のための、意識基盤です。
「現実世界」における心の成長と、「魂の世界」における心の成長という、2つの方向性のためのです。私たちの意識の表面においてはつながりのないまま、互いを生み出し合うものとして。

今の心で決めつけることなく、この「現実世界」を見る目を持つことで、先入観偏見勘違いを捨て、そこにさらに、健康な心の世界と、成長する心のあり方への理解を添えてこそ、この現実世界を生きる知恵とノウハウというものがあります。
そして次に、「だからどう感じるべき」かという思考を、やめることです。現実世界を生きる知恵がこうなのだから、「こう感じるようにすれば」いいと考えるのは、結局、今の心で自分の内面を決めつけ、枠はめをすることです。それは今の心を固定化させることです。それをやめるのです。
それは同時に、今までの未熟であったり病んでいたりする心が見ようとする「現実」の姿が、実際の「現実」であるのかも知れないと感じて反応する内面感情も、同じように開放するということです。もちろん、健康な心の世界への目を持つことなくそれをただ開放するというのは、そもそもこの取り組みを何もしていないという話として。

そこに、今までの未熟であったり病んでいたりする感情と、それを超える、心の健康と成長に向かおうとする感情が私たちの心の中で同時に引き出され、後者が前者を浄化していくという歩みが、始まるのです。
その時私たちの「意識」は、前者行き場のないものとして消え去る苦しみを、主に感じ取ります。そのことを知らないでいると、自分になにかまずいことが起きているかのように感じる、感情の悪化が起きるのです。その大きなものが、「心の死と再生」という様相になるものとして。それを「成長の痛み」と知り、それをただやりすごし、多少の時間を経た時、自分が別の人間へと変化しているのを知るという形になるのです。

またそうした「開放」に際して、より積極的に、自分の内面にそうして湧き出るさまざまな感情が、どのような現実イメージに対応したものであるのか、精緻で微細な感情のあり方の違いに、自分から積極的に向き合い、耳をすませ、「感じ分けていく」ことが、ハイブリッド心理学の取り組みにおいて「感情分析」と呼ぶ本格的な内面向け実践になります。誤った現実イメージに対応したものとして捨て去って良いものか。それとも合理的なものとして、その感情をエネルギーとして現実世界へと突き進んでいけるものか。それともそれは無理なことであり、行き場のない袋小路に向き合う苦しみをただ受け入れるべきものか。さらにそれとも、そこに現実世界への合理性を問うべくもない、それを望んで自分の命が生まれたと感じるような「望み」の感情があるのであれば、ただそれを見つめるのです。
それはしばしば、心に湧き出た時点ですでに歪みを帯びているような感情、たとえばトゲトゲしい隔たりの感覚を伴いながら人に惹かれる感情といったものの、根底にある埋もれた原因感覚とも呼べるものを突き止め、意識表面にクロ−ズアップさせると同時に、歪みを帯びた感情が消滅するといった劇的な作用を生み出すことがあります。


「自意識(空想)を生きる」から「現実(今)を生きる」へ

こうして、「現実を見る目」の学び「内面の開放」、さらにそこに「自己分析」も加える中で、私たちの感情は、「もし自分がこうであればこう思われて」「こうなれさえすれば」「こう見られれば」「もしそうなれなかったら」といった、自意識の中で空想に空想を重ねて複雑巧妙に曲がりくねりながら組み上げられたものから、「そうであるのかどうか」を問わない、「そこにあるありのままの現実」に対して、「自意識の空想」が取り払われた、ストレートでピュアな感情へと、浄化されていくのです。

これが他ならぬ、さまざまな哲学宗教人生論心の幸福と平安と豊かさの指針としてしばしば言われる、「現実を生きる」「今を生きる」という心の境地の真髄になるものだと、この心理学では考えています。
その対照として、心の惑いと不幸を生み出す心のあり方が、「空想を生きる」「自意識を生きる」というものであるものとして。

つまり私たちはこの人生を生き始める中で、未熟な心「もしこうなれれば幸せになれるはずだ」「これさえあれば」と、「自意識の空想」の中で描いたものを追い求め始めるのですが、人生を十分に生きることができた時、言えるのは、それはほとんどが誤りだということです。 もちろん人生をまだ十分に生きていない未熟の段階で、それを分かりようもありません。
どう誤りかと言うならば、まず単純に言って、そう考えてその通り幸福になれた人などいないという、世の人の実際の話として。もし人生の先輩にそう言われたならば、「自分だけは」と考えるような独断的思考の中で、未熟な心「これさえあれば」「こうなれさえすれば」という自意識の思考の中で生き始めるのです。その具体的内容は、才能美貌地位学歴財産豊かな人間関係人に好かれる性格、さらには健康愛情努力勇気謙遜といったものなど、人さまざまに抱く理想像の全てにわたる話です。
そこで起きるのは、「これさえあれば」と想像するものを追い求める衝動が、その完全完璧を求める衝動へと、さらに、微塵たりともその不足を許すことができず怒りを向ける衝動へと、膨張していくことです。
その怒りは、この現実世界において完全完璧というものは実際にはあり得ない、外界のさまざまな不完全な他人や社会、そして他ならぬ自分自身に向かうことになります。

そので起きているのは、実は、「もしこうなれれば」「これさえあれば」という「自意識の空想」を働らかせている時点で、すでに何かが損なわれているという事態です。恐らくそれは、ありのままの自分の「命」で生きることができず、地に足のついていない、見せかけの空ろな存在へと化すことといった表現ができることとして。まず意識の奥底漠然とそれが感じ取られ、次に、それが人からの目に映し出されるものとして。何かを損なったものを見下げる目を、自分に向けられているかのように・・。そして再び、それを消し去るためにはこれがなければ、これさえあれば、これが足りないのが原因だ、という自意識の思考を重ねるのです。自分が偽りの空ろな人間だという奥底の自己不完全感を深めながら。そしてそれを消し去るためには・・と。
私たちはこうして、自意識の空想の塊として心を働かせるようになって、この人生を生き始めるのです。これはもう私たち人間の心がそのような仕組みになっているのであり、宿命だとこの心理学では考えています。
その結果とは、一言でいえば、この「自意識を生きる」「空想を生きる」という心のあり方の中で、私たちは「不幸にだけなれる存在」へと化してしまうのです。

そうした「自意識を生きる」「空想を生きる」という心のあり方から、「現実を生きる」「今を生きる」という心のあり方へと転換していくことが、私たちの心と人生の幸福と豊かさ、そして平安のための、基本的な指針です。

「現実を生きる」「今を生きる」とは、「こうなれれば」「こんな自分」といった自意識の空想を取り払った心の状態で、現実世界に向かって生きるエネルギーをほとばしらせることだと、この心理学では定義できます。
しかし当然、そうしましょうと言われてすぐそうできるような話ではありません。こうした話を聞いて、そのように心を切り換えることができるとすれば、「思考の素地 「目的思考」」で「人に言われた言葉によって変化できる範囲」として述べた通り、もしそうした心のあり方がその人の今までの人生で準備されていれば、準備された程度に、そうした話によって「気づき」を得て、「現実を生きる」「今を生きる」という心のあり方多少引き出されることもあり得る、ということです。
それを超えて、あらゆる心の惑いが消え去るまでに、あるいはそれが準備されていない未熟な心からスタートして、「現実を生きる」「今を生きる」という心のあり方へと向かう。そのための意識実践が、ここで述べた、「現実を見る目」の学び「内面の開放」さらに「自己分析」も加えるという、取り組みなのです。それによって現実を生きる、今を生きる力強い感情を湧き出させる最後の決め手になるのは、先の「「現実を見る目」の学びと「内面の開放」」で述べた、外面と内面双方における「現実」に向き合う「真摯さ」、そして「覚悟」の姿勢になるであろうものとして。
これが、「現実を生きる」「今を生きる」という心のあり方へと自分を変えていくための、この心理学からのアプローチであり、答えです。

ここでさらに理解頂きたい重要なポイントは、「現実を生きる」「今を生きる」という心のあり方のものとして湧き出る感情は、もはや「何をどのように考える」ことによって湧き出させたものでもない、ということです。
上述の意識実践において、「今までの未熟であったり病んでいたりする感情と、それを超える、心の健康と成長に向かおうとする感情」を共に開放させるという部分での後者の感情、また「分析」の中で、「歪みを帯びた感情が消滅」して出現するピュアな心の状態といったものです。それらは、もはやその意識実践の中でのいかなる「考え」「思考」によって引き出したものでもありません「学び」と「開放」を携え、今自分が生きる「現実世界」へと、全てを受け入れ、自分を向かわせる、その「全存在的瞬間」とも呼べるものが、もはや「意識」さえも越えるものとして、今自分がこの現実を、この瞬間を生きているという、生きるエネルギーをほとばしらせる心の状態を、引き出すのです。次に、「思考」がそれをとらえ、表記するならば「!」とでもいう驚きを伴う、自己の内面における新しい感覚を、今まで考えてもみなかった行動法につなげていく、という形になります。もちろん、候補となる行動法の学びができているならばです。
つまり、「現実を生きる」「今を生きる」感情とは、現実の他人や自分への、どんな「解釈」に対応したものでもないのです。もしこうならこう感じる、それともああならこう感じる。そうした、「解釈」によって揺らぐ自分の感情の脆さ、頼りなさを越えて、その全ての可能性を受け入れた上で、最後に、自分から能動的に現実世界に向かうこととして、「解釈」を越えて、「ただそこにある現実」に対応した感情として湧き出るものなのです。

その姿勢においては、「現実」とは常に「未知」です。ひとしずくの水滴が落ちてできる波紋が常に唯一無二の未知であるように、現実の世界とは、全てが常に未知のものとして、前へと向かっていくものなのです。自己をその流れに同じように委ねた時、「現実を生きる」「今を生きる」力強い感情が湧き出ます。それは「解釈」を取り払った未知の「現実」への感情であるからこそ、逆に「現実」のいかなる「形」にも制約を受けることなく、力強く、揺らぎない、ただ自分が今を生きているという、それだけで輝くことのできる感情になるのです。
これがやがて、生きることの全てが輝く「豊かな無」の心の境地実質的内容になることは、容易に想像できるでしょう。
「まず分かっておきたい」と感じるかも知れません。人の本当の気持ちはどうなのか、と。自分がどう行動すると、人はどう感じるのか、と。それが全て分かっていれば、自分を決められるのに、と。そしてその方法を探し求め始めるかも知れません。「人の気持ちを見抜く方法」、さらには「人の気持ちを操縦する方法」など。
しかしその姿勢が熱を帯び始めた時、人は、実際それがどうできるか以前に、人との関係において未来へと前進するための、自分自身の感情を、見失うのです。

私たちの文明は、「自意識を生きる」「空想を生きる」感情と、「現実を生きる」「今を生きる」感情に、同じ「感情」「気持ち」といった言葉を使っています。しかしこの2者の感情は、全く異質のものです。
私はそれを、実際のところ思春期から成人期への段階の脳の発達によるものだと考えています。成人期に至り身体の構造完成されるのと同じ段階で、脳の構造もそのように完成するのだと。「現実を生きる」「今を生きる」感情感じ取る可能性があるものへと。
ですから私たちに問われるのは、思春期になって「人生」という観念が芽生える中で膨張した「自意識を生きる」という心のあり方の中に、成人期以降とどまるか、それとも抜け出るかです。


「今までの心の死」を経る

一方で、まさにそのように自意識の空想による衝動の塊と化した心から、まずは生き始めるのですから、それが「現実を生きる」「今を生きる」という心に転換するのは、それまでの心が一度「死んで」から、新たな心が「再生する」という形になるのが基本になる。これを基本的な心理学知識として持っておくと良いでしょう。

これは人の人生において、大きな「挫折」転機に、しばしば起きるものになります。それがTV番組などでも目にする「人生のドラマ」基本でもあるでしょう。出世と金儲けの虜になってがむしゃになって突っ走った先に大きな挫折を体験し、生活が一変し、やがて何気ない日常の中での人と触れ合いの中に喜びを感じるに至り、過去の自分の愚かさを知る。死に直面するような体験を経て、平凡な毎日の中でも、今を精一杯に生きるという揺らぎない心の境地を知る。
そこにおいて、虜になって向かった出世と金儲けへの衝動も、その時のその人の心においては、嘘偽りのない真実の情熱だったかも知れません。そこに人生の勝利があるはずだと。それが全く別の心の世界へと切り替わる転換は、そうした心の中で何をどのように考え、また自分を説教して変えるというようなものでもなく、「挫折」や「死に面する体験」といった、心の外部からもたらされる、「それまでの心が崩壊する」「それまでの心が壊れる」体験を引き金にして、成されるという形になるのです。もちろん挫折を体験すれば誰でも「現実を生きる」「今を生きる」心になるという話ではなく、基本的に自分から前に進む姿勢と、人生を探求する姿勢があった場合ということになるでしょう。

実は、心が未知のものへと成長変化するとは、全てにおいてこれが基本となるのです。今までの心が一度死に、新たな心が再生されるというものがです。

私たち人間の生涯と、その中で果たされる心の成長は、他の動物とは異なり、「空想」「現実」交差の中にあるように思われます。「こんな自分になれたら」と、「自意識の空想」の中で「望み」へと飛翔し、やがて「現実」へと着地する。このサイクルを繰り返すものとして。
そこで未熟な心は例外なく、絵に描いたような理想の姿になることで、人からちやほやされる安易な望みを抱くことから始まり、そうは簡単にはいかない現実の壁にもぶつかることで、自惚れ幻滅高揚失意を繰り返す中で、向上のための地道な学び、さらには理想通りの完璧な姿ではなくても、ハンディを克服した向上の輝きといったものへの視野を広げることで、やがて「こんな自分」という意識薄れ不運や不遇糧(かて)にも、時にそれを賜物とさえ感じることができる中で、今できることを精一杯にやっていくことに、もはや何の惑いもない充実感人生の幸福を感じるようになる。
その時人は、明らかに「心の成長」を遂げた、かつてとは別人の自分を感じ取るのです。何をどう考えどう感じればいいのかという「意識」さえもう全く働かせる必要もなく、ただ今ここにある現実に向かって自分が生きているという、「現実を生きる」「今を生きる」、命から湧き出る感情とともに。

そんな中で、私たち人間の心には、「業(ごう)」と呼ばれる、自分で自分を不幸にしていく道と、そこから抜け出る道が用意されている、ということになります。
人間の「業」とは、「不実」と「傲慢」であるとこの心理学からは言えます。受け身に与えられることを望む中で、自分から生み出していく内実を失ったまま、それができているかのように自らを装い、他を見下し、特別な座に自分があると思い込もうとする。それは「不実と傲慢」という、自分で自分が嫌な人間になっていっている道でありながら、まさにその道を生み出した「こんな自分であれれば」という「自意識の空想」が、そうした深層の自己嫌悪感情を否定できる自己像を追い求め、それを少しでも支える「現実」、さらには「現実」を無視した「空想」にすがることで、この不安定な心の構造が、維持されるのです。
「ありのままの現実」、そして時に「容赦ない現実」が、そうした私たちの心の構造を、打ち砕きます。もはやいかなる弁解も不可能なものとして、「こうであれている自分」という感覚が、自分自身を欺いていたものであることを知った時、私たちは、その自意識の空想が生み出していた心の浮力を失うと同時に、この「業」から抜け出る道への分岐路を、前にするのです。
ありのままの現実を見る目と、自分から生み出して生きていく姿勢と、おごりを捨てる謙譲の心が、この人間に、後者の道を選ばせます。「気づき」あるいは「悟り」と呼ばれる、意識のひらめきの中で。あるいはもはやそれが働きようもない、「意識」が破綻した「精神の死」「心の死」の中で、「意識」より深い何かの胎動として。

それを経た時、人は自覚するのです。自分がもはや以前の自分とは別の人間になったのだと。それを決定づけるのは、以前の自分がそれによって高揚したり落胆したりした「空想」が、もはや自分の心を揺り動かす重み、「誘引」を失っていることです。今までの自分の心は、その「空想」の中で、生きていたのです。その心は一度死に、今、新たな心がここにあるのだ、と。
今まで心の底で漠然と感じていた、「嫌な自分」を捨てることができたのだという感覚とともにです。「成長の痛み」を代償として。
同時に、真の心の豊かさと幸福に向かうための、自分自身の心の成長の道がどこにあるのかが、見えてきます。それは今までさまざまに思案した「どう考えればどう感じることができるか」といういかなる自意識の思考の中にもなく、ここにあるのだ、と。むしろそれが突き崩されたところに、少なくともそれを超えたところに、あるのだ、と。


「学び」とのギャップを生きる

私たちの心の成長は、こうして説明してきた「現実を見る目」「目的思考」による「学び」、そして「内面の開放」「自己分析」による内面への向き合いを、日常生活および人生での「問題」「課題」「望み」に対して積み重ねていく中で、「自意識(空想)を生きる心」から「現実(今)を生きる心」へと、「今までの心の死」を経て切り替わることも伴いながら前進していくものと、この心理学では考えています。
それをどのようにできるようになればいいのか、ではありません。そう問うのは「目的思考を欠いた善悪思考」です。そうではなく、それらを、今目の前の、日常生活および人生の問題に対して積み重ねていくことが、私たちの成長変化させていくのです。「命」の作用としてです。
それをどうできるかではなく、それをするかどうか、なのです。

おさらいをしながら、流れを見ていきましょう。
まずはごく日常生活上の問題から、「何のためには何をどうすればいい」という「目的思考」を、本当に納得できた確かなことを積み上げて考えていく思考として培っていくと良いでしょう。思春期に、自分は特別と思える感覚の誘惑から覚えた、使いこなしようもない近道のような発想は卒業して、一番地味で着実な、揺らぎようのない知恵に、目を向けていくのです。忘れ物をしないためのラッキーカラーを決める星占いなんてものではなく、気づいた時必ずメモ書きをする習慣というように。
これが、人や社会への行動人生での課題といった、心の成長の本題テーマに取り組むに際しても、人の言葉に振り回されて自分を見失うことなく自分の進む道を自ら模索できるようになるための、姿勢および思考の「素地」になるでしょう。

日常生活でそのように着実な「目的思考」ができることはまた、対人行動と社会行動の基本的な「素材」になるものでもあります。
着実な「目的思考」考えたこと得た知恵を、人に伝え、共有し、人から求められることに対しても、着実な「目的思考」によって対応する。それによって、勘違いや行き違いによるギクシャクをなくし、人からの信頼も得られるようになります。これが基本的な日常の対人行動や、仕事の進め方基本になると言えるでしょう。
ありがちなのは、自分独自の思考の中に閉じこもり、自分の外にある情報を無視した勘違いの思考のまま、「思いやり」や「やる気」などの「気持ちが大切」と、自分の心にストレスをかけるケースです。勘違いと行き違いが直らずに人との関係は悪化したまま、自分の心にストレスと駄目出しを加え始めることで、坂道をころげ落ちるように、心の状態が悪化してしまうのです。気持ちの問題ではなく、着実な目的思考の問題だと、心を思い切って切り換え、日常生活での基本的思考に取り組むことが、そこからの脱出としてまずお勧めできます。

それがまずは人や社会への行動法基本になるものとして、そこからさらに、人との豊かな親愛関係や、社会における自分への自信、そして人生の充実と満足を得るという「目標」「望み」に、そしてそれを妨げる何かの「問題」といったものに、心の成長の本題テーマが出てきます。

重要なのは、そうしたより大きな心の成長テーマに、えがあるということです。心が健康で、心が自立した姿において、それに向かうための望ましい行動の仕方の答えがです。
それが、先の「ハイブリッド心理学のアプローチ」で述べた、「人物印象」によってではなく「現実において生み出す」という結果の向上において自分の価値を高める、「気持ちを分かり合い認め合う」というものではなく「喜びと楽しみと向上を共有する」ことを人との親愛とするといったものです。
それが実際、私たちの日常生活人生で出会う、心を動揺させる問題に際して、具体的にどのように行動できればいいのかに、答えがあるということです。
問題は、私たちの心はそうは動いてくれないところにあります。だからこうした心理学にも取り組むことになるでしょう。人の目に惑い、ストレスを感じ、苛立ちの中で、自分がどこに進んでいいのか分からなくなる。人との親愛を得たい願望の強さ比例するかのように、現実に人に会う場面でトゲトゲしい気分が流れたり、気持ちがふさぎ、やがて絶望感が心に湧いてくる。
そこに「学び」と「開放」、さらに「自己分析」アプローチが出てくることを、説明しました。「学び」としてはこうなる。しかし自分の内面にはこんな感情がある。それを共に、明瞭にすることです。そしてそれがどのように揺れ動く「現実のイメージ」に対応したものであるのかを、じっくりと吟味するのです。

そこに3つの道が現れることになります。
まず基本的な2つの道があることを、「「現実を見る目」の学びと「内面の開放」」ですでに説明しました。もし、そうして解きほぐしていった自分の感情の中に、望ましい外面行動法に合う内面感情あるのであれば、それに向かって突き進めばいい。それがないのであれば、行き場のない自分の心を見つめる苦しみを受け入れる。この基本的な2つの道がある、と。

この2つの道のために、「現実を見る目」から始まる「学び」は、3つの役割を持つことになります。
一つに、ごくストレートな役割として、私たちが生きるこの現実をよりうまく生きるための知恵とノウハウを、そして心の健康と成長に向かう姿勢と行動のあり方を知るためのものとして。
もう一つに、「開放」「分析」に際して、それらと合わない自分の心が、もはやこのまま先に進もうとも、もはや立ち行かないものであることを、私たちに知らしめるためのものとして。それは例えば、人に愛されようとするごとに、「愛されないことは屈辱」という感情が心に湧き出、最後には怒りによって破壊することへと動こうとする自分の心を見つめることになるかも知れません。あるいは愛されたい思いが強いほど、そのためには「こんな自分」にならなければというストレスへの嫌悪感によって硬直していく自分の心を、見つめることになるかも知れません。心の健康と成長に向いた親愛とは、より純粋な「喜びと楽しみの共有」であることを視野にするからこそ、そのままでは自分の心はもう立ち行かなくなるものであるのを感じ取る形で。自分が求めている「愛」に、根本的な誤りがあるのだ・・と。
そうして、そのままではもはや立ち行かなくなる自分の心を、言い訳せず、他のせいにすることもせず、受け入れた時、私たちのはそこにおいて、「「今までの心の死」を経る」で説明したように、一度死ぬのです。行き場のない苦しみの中で。
それを経て、しばらく時間を経た時、私たちは未知の心へと変化してきている、以前とは別の自分を知るのです。もはや同じ場面で苦しみが起きることなく、行動できそうな範囲が広がっている自分「意識の素地 「現実を見る目」」流れを描写したように。そこで自分の心の問題どのように解決したのか、自分でも良く分かりません。というよりも、自分の心の問題どうあったのかかが、薄れているのです。
「学び」3つ目の役割が、ここにあります。「学び」「開放」、そして「分析」も加えて、「今までの心の死」を通った時、新たな心を再生させたのも、やはり、「学び」に示された健康な心の世界を心底から願い向かおうとした、心の土壌なのです。これがなければ、いくら「心の死」のような状態を通ったとして、多少の「慣れ」による安定以上の変化は起きません。

そうしてある、「望ましい行動法へと突き進む」、あるいは「もはや立ち行かない自分の心を見つめる」という2つの道に加えて、もう一つの道があります。
それは、自分が心の健康と成長とは違う道を選んでいることを、はっきりと認めてしまうことです。
これができれば、もう何の疑問もありません。悪感情がなぜ消えないのか。自分で不幸になる道を、自分で選んでいるのですから。例えば怒りを最後のパワーとする姿勢と価値観を。それによって結局は、いつまでも「真の強さ」に向かうことができないまま、人との敵意の応酬の空想の中で、怖れと怒りを膨張させているのです。それが自分の選んでいる道であることを、正直に認めてしまえばいい。
実はそうして自分自身に対して建前を演じるのをやめて、自分が取っている、心の健康と成長とは別の方向を向いた姿勢や価値観を自認した時、心の底がそれを卒業することへと、私たち自身の「意識」よりも深いところで、心は動き始めるのです。
これもやはり、そこから少し時間を経た時、以前とは違ってきている自分を自覚することになります。あ・・自分は今は・・と。
そしてこれもまたやはり、心の健康と成長に向かう方向についての「学び」への、それなりの納得があった上での話です。たとえば、怒りさえ用いないのが真の強さだということは分かる。しかし今ここで、自分の心は怒りのパワーによって相手を叩き潰せることこそが、自分の目指すべきもののように感じている・・というように。
私自身心の成長への歩みスタートの頃に起きたのも、実はそれでした。人と接する時の窒息状態の中で、「相手への配慮をすれば」なんていう上の空の思考が破られ、「憎むことにこれからの人生の目標を置こうか」というドロドロした感情が、自分の中にあるのを知る。のように埋もれていた、そうした感情を一度さらけ出すことで、私の心はさらにその底にある、より純粋な感情への探求を始めたのです。自伝小説『悲しみの彼方への旅』の最初の方(P.59)で記した、大学3年の頃のことでした。

こうしてある、「望ましい行動法へ突き進む」「もはや立ち行かない自分の心を見つめる」「心の健康と成長とは逆を選んでいることをはっきり認める」という、心の成長変化に向かう3つの道のどれもが、結局全て「学び」があった上でのものであることを、理解頂ければと思います。
そこに示される健康な心の世界を、心底から願う、心底からの納得、あるいは少なくとも、「それはそうなのだ」という、心底からの納得による視野があった上でのものだということです。

同時に理解頂きたいのは、そうして心底からの納得による「学び」を得た段階で、すぐ感情が良くなるのではない、ということです。3つの道のどれにおいても、心が安定して別のものへと変化したと自分で感じるようになるのは、それからかなりの時間を経てからです。
かなりの時間を経た後に、「望ましい行動法へ突き進む」道においては、実際にそうした行動がかなりできるようになったという、「現実の実践」積み重なった時、もはや疑う余地なく、心がより健康で成長した、より大きな人間になることができた自分への自信を感じる形で。「もはや立ち行かない自分の心を見つめる」道においては、同じ場面でももはや同じ苦しみを感じることなく、行動できる範囲が広がった自分を感じる形で。「心の健康と成長とは逆を選んでいることをはっきり認める」道においては、自分が惹かれた、心の健康と成長とは逆を向いた何かの価値が、ただ自分にもう響いてこないのを感じる形で。
一方「学び」を得たその段階では、むしろ逆に、心はいわば「次の成長のための準備保留段階」とも言える、不安定な状態になるのです。
「望ましい行動法へ突き進む」道が、最もそれが顕著です。こうした心理学を学ぼうとする方は、「気持ちが落ち着き前向きになる」といったことを期待するでしょうが、そんなものではありません。今までの自分と全く違う行動の仕方が視野に入ってくるのですから、それが現実味を帯びるごとに、良ければ確信的前進感、あるいは武者震い、場合によってパニックに襲われることになるのです。それは自分の心の底で、地殻変動が起きているかのような、恐慌感です。私はこれを何度も体験しています。いずれにせよ、新たな行動の仕方に向かっての、新たな「目標」「望み」あるいは「問題」が見えてくる、新たな段階への突入という感じになります。
「もはや立ち行かない自分の心を見つめる」道においても、心が不安定下に置かれるのは顕著と言えるでしょう。まさに心が死んでしまうのですから。ただこれが問題になるのは、これが心が根本的に新たなものへと再生される通り道であることを理解していない、最初の段階だけです。その時、「希死念慮」「自殺願望」が起きやすいのです。しかしそれを通り過ぎ、これが「心の死と再生」の仕組みであることを理解するごとに、より穏やかな心でこれを通ることができるようになります。
「心の健康と成長とは逆を選んでいることをはっきり認める」道においては、心が一時的不安定に置かれるというよりも、自分の心に取り組み、自分の心を良くしようとした目論見が、自分自身の真実によって見事に覆されたのを、ただただ自覚することになります。望んでいたはずの道とは、逆に遠ざかろうとしている自分を。しかし時間を経て、それが正しい道であったのを知るのです。

いずれにせよ、「学び」の段階から、心が安定して変化したのを感じ取れるまでに、それなりの時間を要することになります。
それがどれだけの時間を要するのかは、「命」が決めます。私たちがどうこう考えてどうなるものでもありません。
一言で言って、上に書いた順に、多くの時間と期間を要するというのが、私の人生の経験からの印象です。最初の、「今までの自分とは違う行動の仕方」へ進む道においては、「現実の実績」積み重ねることで次第に別人になった自分への自信が感じられるというものですから、1年や2年といった期間、「命」がその自信感の引き金を引かないままでいるのはざらです。

人の言葉によって変化できるのは、今までの人生ですでに準備された変化引き出される範囲だと、「思考の素地 「目的思考」」および「「自意識(空想)を生きる」から「現実(今)を生きる」へ」で述べました。
では次の変化を準備するものは何か。こうして、心の健康と成長に向かう行動や姿勢のあり方の「学び」と、その通り絵に描いたようなものにはならない自分の心のギャップに向き合いながら、生きる時間なのです。これがその答えです。



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2012.8.23

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