まえがき 1.はじめに・4つの話の領域 2.心の問題とその克服ゴール 3.取り組み実践 4.心の成長変化 (1) (2) (3) (4) 5.歩みの道のり (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) |
2.心の問題とその克服ゴール
|
心の問題の根本原因 ハイブリッド心理学では、私たちの心の悩み動揺、生きづらさ、人生への疑問、さらには心の病といった「心の問題」を生み出す根本原因として、大きく2つのことがあると考えています。 幼少期に始まる「自己否定感情」と「孤独感」 その一つは、幼少期に端を発する「自己否定感情」と「孤独感」です。幼少期に抱いた「自己否定感情」と「孤独感」が、心に根深くにしみ込み、その後の人生における感情の基本パターンになるように心が支配されてしまう、というものです。 幼少期の「自己否定感情」は、その多くの部分が、親との関係の中で生まれます。それはあるケースでは、親による子供の虐待やニグレクト(無視)など、誰の目にも明らかな愛情の欠如と冷淡さが原因であるかも知れません。あるいは、親の意識としては愛情だと思いながらも、子供にとっては厳しすぎる躾がなされていたケースもあるでしょう。また、親と子の関係は一見良さそうに見えても、子供の心にしっかりとした自己肯定感を築くものではなく、身近な人達とのちょっとした否定的体験の中で、「自己否定感情」にとらわれるようになるケースもあるでしょう。 そうしたさまざまなケースのどれにおいても、「自己否定感情」と同様に「孤独感」が、子供の心に根深くしみ込むものになります。それは「自己否定感情」が生まれた状況にも応じて、全ての他人への不信感の中で抱く、すさんだ孤独感であったり、あるいは人に対して概して内気で消極的な性格のようなものであったり、あるいはちょっとした人見知りの傾向のようなものになるでしょう。そのどれもが、「自分は人にうまく近づくことができない」という「孤独感」につながっています。 幼少期の自己否定感情がそのように根深い問題になる、大きな理由の一つは、それが幼い心に、理由が良く分からない形で始まるということにあります。幼い心に、自己否定感情は、自分がなぜ「否定されるべき存在」なのかが分からない形で始まる、ということです。 もの心がついていく中で、自己否定感情は、いわば「後づけ」で、その理由が子供自身の心に解釈されるようになります。 「心の浅はかさ」 そこにしばしば、もう一つの、万人に共通する問題である、「心の浅はかさ」の問題が合流します。 「心の浅はかさ」とは、心が、それを生み出した大元である「命」からひきはがされた、薄っぺらいものになって、人生を生きることの深い本質が見えなくなり、表面的で安易なものしか見えなくなった状態、とハイブリッド心理学では考えています。それが、脳が発達して「自意識」を持つようになった人間の、宿命なのだ、と。 そのため、自己否定感情と孤独感を抱えた子供は、もの心がついていく中で、その理由を、何かの表面的なものが自分には足りないからだ、と考えるのです。 例えば、日常のものごとが人よりうまくできないからだ、とか、器量が良くないからだ、とか、学校の成績が悪いからだ、とか、いつも笑顔でいなければいけないのにそうでないからだ、つまり性格が悪いからだ、とか。あるいは、そうした「具体的な理由」の解釈を放棄して、「ただ自分は全ての人に否定される星の下に生まれたんだ」と、すさんだ解釈の思考を抱くようになるかも知れません。 「誤った人生の生き方」 そうした「誤った解釈づけ」が、しばしば、人の心を、誤った人生の生き方へと仕向けてしまいます。 つまり、「これがないから駄目なんだ。これさえあればいいんだ」と解釈するものを得ることへと、ストレスで駆られて生きるようになるのです。 それが「誤った人生の生き方」であるのは、そうして「これさえあれば」と考えるものに駆られ、がむしゃらに生きても、いつまで経っても幸せになれない様子に、示されます。 私たちを本当に幸福にするものとは、そのようなものではありません。私たちを本当に幸福にするものが何なのか、その答えを知った時、私たちはそれだけで、感動と、これから生きることへとエネルギーを感じるものです。そして実際にそれに向かって努力を尽くして生きることの中に、たとえ目標通りになれない場合であってさえも、喜びと充実を感じられるようになるのです。 「誤った人生の生き方」の場合、そうはなりません。「これさえあれば」という「答え」を分かった気がした時、私たちの心は逆に、焦りと不安、そして自分がいつか「裁かれる人間」であるというような、暗雲のたちこめる気分と、いっときも休むことは許されないと言われているかのような、ストレスの感覚におおわれてしまうのです。それに向かって努力することは、「喜び」ではなく「苦痛」となり、いつしか、「生きること」そのものが嫌になってきてしまうのです。 「浅はかな心」という万人に共通の問題は、心の問題をそこまで深刻化させないケースにおいても、「人生」というものの意味を、私たちから見失わせがちです。 そこでは多くの人が、「人生」というものを、何歳になったらどんな学校に行って、何歳になったら就職、結婚、子供が何人生まれ、どんな家を持ち、友人は何人、財産はこれくらい、といったごくごく外面のこととして思い浮かべます。すると「人生」というものが、社会に用意された何種類かのレールの上を、ただ進むこと、つまり「人生」というものが、何か決められた通りに生きることであるかのように見えてきてしまうのです。 それが幼少期からの自己否定感情や孤独感と結びついた時、そうした社会のレールに乗り損ねた者は駄目な人間だと、落伍者として社会から否定される存在になるのだといった、焦りと不安に満ちた「解釈」の中で人生が生きられるようになることを、今述べました。心の問題がそのように深刻でない場合も、人生というものが何か回りに流され、惰性で生きる日々のように感じる人も多いであろうことが考えられます。 あるいは、多くの人が「幸福」というものを、今述べたようなごくごく外面のことがらの、合計点数のようなものとして思い浮かべます。それで多くの人は、ティーンの頃に「こうこうなれれば」と思い描いたような、たとえばプロスポーツ選手やアイドルにはなれないことを、20代も過ぎた頃に自覚した時、「人生なんてこんなもの」と、「人生」というものを味気ないものと感じるようにもなるでしょう。 「心の成長」 なぜそうしたことが起きてしまうのかというと、「人生」というものを、未熟な心の中で考え、そこで考えたことを固定化させ、それを基準にしてその後の人生も生きてしまうからです。 心が成長することで、私たちは「人生」そして「幸福」を、それとは全く違う感じ方で感じ取ることができるようになります。 たとえ人の目に華々しく映るようなものでなくとも、自分にできることを日々尽くして生きることに、揺らぎない喜びと充実を感じ取ることができるようになります。さらに、未熟な心においては不運と不遇でしかないように感じられた困苦を、「自意識」の惑いを心の底から捨て去り、すがすがしく豊かな心へと自ら浄化させるための、糧にさえできるようになるのです。その時同時に、幼少期から抱えた自己否定感情と孤独感があったケースも、それはもはや心の根底から消え去った、健康な心になっています。 ハイブリッド人生心理学の「取り組み実践」 そのように、健康な心や成長した心であればどのように「人生」と「幸福」を考え、感じることができるかを説き、「あなたもそのように感じるようにしてみれば?」と、「感じ方」をアドバイスしようとするのが、「人生論」や「人生訓」、あるいは多くの「カウンセリング」であるかも知れません。 しかしハイブリッド心理学のアプローチは、それとは違うものです。 心が健康になり、成長すればどのように感じることができるかではなく、心が健康になる、そして心が成長するという心の仕組みそのものを探求し、それを開放することです。「今の感じ方」については、あまり手を触れず、ありのままに見つめるだけにして。 そうして、とにかくまず心が成長し健康になるための実践そのものに、取り組むのです。そうして心が成長し、健康になった時、以前とはまるで違う感じ方ができるようになっている、以前とはもう別人のような自分を、自覚するのです。 それを、ハイブリッド心理学の「取り組み実践」と呼んでいます。 一言でいうとそれは、「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解のみする」という「感情と行動の分離」の姿勢と実践を携え、自らの「望み」に向き合い、「望み」に向かって全てを尽くして生きる、という人生の生き方を実践するものです。 この大まな概要を、次の「3.取り組み実践」で説明しましょう。 心の問題の克服と成長のゴール ハイブリッド心理学の「取り組み実践」を経て生まれる、心の問題の克服と成長のゴールを、次のように表現しています。 「揺らぎない自尊心によって支えられ、愛によって満たされ、もはや何も恐れるもののない心」、と。 ここに、私たちの「人生」を生きるための、また私たちの心の成長と健康にとっての、大きな3つの課題が示されているのが、まずはお分かりかと思います。それは「自尊心」「愛」、そして「怖れの克服」です。 また、そのような心の健康と成長のゴールに向かうにつれて、私たちの心の中に湧き出るようになり、心を満たすものとして増大していく、特徴的な2つの感情を、ハイブリッド心理学では指摘しています。 それは、「無条件の愛」と「豊かな無」の感情です。ただ「命」がそこにあることにおいて、心が「愛」に満たされるのを感じ取ることができる。「自意識」の惑いがなく、一切の「意識」さえ働かないかのような無心の状態として、生きることの豊かさと輝きを感じ取ることができる。 これらの心の境地は、最終的に、「永遠の命の感性」と呼ぶ感性の獲得によって、決定的に揺らぎないものになる、とハイブリッド心理学では考えています。 それは、「自分」というものは、「命」という大きなつながりの中における、ほんの断片、ほんの仮りの姿にすぎない、と感じる感性です。それによって私たちは、「自分」という惑いを心の底から捨て去り、本当に愛するもののために、今できることを精一杯に尽くして生きることに、「気負い」さえも消えた「平安」も加わった姿において、喜びと充実の中で人生を生きることができるようになるのです。 それはもちろん、ハイブリッド心理学のみならず、人間の歴史を通して多くの先人が見出した、心の成長と豊かさのゴールでしょう。 それが、私たちの心の中に、大きな山の頂きのように、用意されているということです。 山の頂きは一つである一方、その頂きに至るルートはさまざまなものがあるかも知れません。ハイブリッド心理学では、ハイブリッド心理学が考えるものだけが、その頂きに至るための唯一の方法だとは、考えていません。それでも、これは、私たちの心の中に、確実にある道です。 その道の歩み方を、大まかに説明していきましょう。 |
←前へ 次へ→ |
2013.10.29 |