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ハイブリッド人生心理学 概説 まえがき
1.はじめに・4つの話の領域
2.心の問題とその克服ゴール
3.取り組み実践
4.心の成長変化
 (1) (2) (3) (4)
5.歩みの道のり
 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

5.歩みの道のり
 (4)「取り組み実践」と「魂の望み」

「旅立ち前」から「学び」までの段階-4「否定価値の放棄」までの前進のポイント 「魂の望み」への歩みの中にある「実践」 「取り組み実践」と「魂の望み」 「実践」の足場から「魂の感情」へ)  「取り組み実践」と「魂の望み」の関係図

「旅立ち前」から「学び」までの段階-4

・「否定価値の放棄」までの前進のポイント
そうした一貫した「実践」歩み「否定価値の放棄」まで続くわけですが、前進のためにさらに重要なポイントも出てきますので、おさらいも含めてまとめておきましょう。
全体として次の4つを、ポイントとして心に入れておいて頂ければ良いかと思います。
1)「パラドックス前進」による長い歩み
2)「人生の前進のための外面行動の答え」が都度の「実践」の出口
3)「魂の望み」の感情による心の成熟
4)「否定価値の放棄」に特に関連する意識テーマ

1)「パラドックス前進」による長い歩み
先に触れておいたように、この歩み極めて長い時間要するものになります。生涯をかけて、と言えるようなものとして。
「パラドックス前進」基本的原動力になる歩みとしてです。「今の自分に理解できないこと」を明瞭化する取り組みはやがて、「今の自分であればこれは理解できる」へと、やがてそれが自分の向かうべき方向である感覚が加わり、しかしそれでも逆へと戻ろうとする感情自分の中に生きているのを自覚する、そして再び時間を経て、今度ははっきり成長の方向へと向かう感情芽生え自覚する、というように。
これが幾つか「学び」テーマまたがって進んでいくのですから、とても長い時間がかかることになります。年単位自分変化をあるのを感じる先に、さらに5年、10年と・・。
全てテーマつながり結合にあります。一方「実践」によって都度意識を向けることができるテーマは、せいぜい1つ2つです。そうした「実践」日々積み重ね、硬く閉まったビンの蓋四方から少しづつ緩めると、ある日、大きく変化する節目を感じる時が訪れる、というような歩みとして。
そうした長い歩みによって積み重ねるものとしてこそ、真の「心の成長と成熟」があります。それを嫌い、手っ取り早く自分の心を良くすようとするような方法が傾いた時、私たちの人生における心の成長は、止まるのです。

2)「人生の前進のための外面行動の答え」が都度の「実践」の出口
それでは一体自分の心の問題はいつ良くなるのか・・困惑感じる方もおられるかも知れません。
それについては先の「「実践」とは何をするものなのか」2つ目にすでに答えを述べています。心をどう良くする、感情をどう良くすることが、その都度「実践」出口になるのではありません自分が今立っている人生の立ち位置において、自らの成長と幸福に向かうために、そしてその前進に向かうために、今成すべき外面行動の答えを見出すことが、その都度「実践」出口になります。
「実践」は、根本的に、感情を良くすることとして行うものではありません成長を知り、それに向かうこととして行います。それは場合により、もしろ一時的な感情悪化をもたらすことがあります。「心の死と再生」としてです。あるいは場合によっては、劇的な感情改善をその瞬間にもたらすこともあるでしょう。どちらもありです。
重要なのは、成長を知り、それに向かうことです。
「成長」良く分からないというスタートからの歩み方を、先の「2つの目標への歩み」で説明した通りです。「自分で考え、自分で前に歩く」ということそのものができるように、まずはごく日常生活材料から取り組み、やがてそれを「学び」テーマ全体へと広げていきます。最初の段階困難感じるほど、「前進を成すための2つの心の基盤」について理解納得向き合うことが重要になってくるでしょう。

「否定価値の放棄」について、それによって今の自分の悩みどう解消されるのかと考えることは、また実際そうした質問をしばしば受けますが、心の懐肥やす作業としては無意味ではありませんが、実際においては、「そうなれば良さそうだからぜひ否定価値を放棄しよう」などと考えて成せるものではない、と私としては考えています。
まずは今述べた2つポイント、つまり
 パラドックス前進原動力とした長い歩み、の中で、
 成長に向かうための外面行動の答え、をまずは見出していく。
それが「実践」根幹であり、その都度、私たちは自分の心どう変われたかという以前に、今自分が進むべき道を見出すことの力強さ前進感に、今の自分の悩み解消・・というよりも悩み凌駕するものがあることを感じ取るのです。「もう悩むことのない完璧な自分」になどなれてはいないとしても。
そもそも、こうして悩み、そこからの前進を見出すことをしているからこそ、自分は成長している、成長し続けることができているのです。そうして自分が成長できるという事実自体が、まずは訪れる、最大の、悩み動揺の克服の力となるのです。

「否定価値の放棄」は、そうした「日々の成長」歩みが、
 「魂の望み」感情による心の成熟で、
 ある特定の意識テーマ向かうことによって、
自ら問うことができる、とハイブリッド心理学では考えています。
この残り2つポイントに、ハイブリッド心理学ならではの、真髄の視点が出てきます。

3)「魂の望み」の感情による心の成熟
3つ目ポイントは、「否定価値の放棄」その中で成すような心の成長変遷は、あくまで「魂の望み」向かい続けることが生み出す「心の成熟」としてある、ということです。
のように言うことができます。
「否定価値の放棄」は、「愛」単一軸とした「魂の望み」向かい続けることが生み出す、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「心の成熟」変遷における、「自立の自尊心」対応して成すことが可能になる。
取り組み実践においてこれは、「感情と行動の分離」の両輪を携えて「望み」に向かうという歩みが、「魂の望み」に接することにおいて前進する理解できる。これは「魂の望み」感情守る姿勢ある者において、良く前進するものと言えるだろう。
従って、自身「魂の望み」感情、さらに広く「魂の感情」感じることができるかどうか確認が、この歩み前進のための心の足場整っているかどうかの確認として、役に立つものになる。

・「魂の望み」への歩みの中にある「実践」
「否定価値の放棄」が、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心へ」という心の変遷対応するものであることは、「「魂」による最後の導き」でその大きな流れを説明し、「「社会を生きる自信」という通過点」でその実践面における位置づけを説明した通りです。それは「愛」単一軸とした、のその変遷通過点としてあるのだ、と。

一方でそれは、「実践」の際の私たち自身の意識からは、大分つながらない話です。
つまり「実践」は、今まさに繰り返し述べた通り、「外面行動の答えを見出す」ことをその都度根幹として行います。またその積み重ねによる「成長」目安となる「社会を生きる自信」は、そこで述べた通り、「学び」の中で特に「行動学」「愛と自尊心のための価値観と行動法」2大テーマ体得によるものであることが重要と、これもやはり主に「外面行動法」力点が置かれるものになります。
さらに、「実践では心を変えることはしない」という指針について、「「成長の望み」という羅針盤」でこうも言っています。内面感情根底から変化させる原動力は、内面向き合いではなく、心の外部に展開する世界のものごとの見方、そしてそこにおいて実際に具体的に出会う場面における、思考法行動法と価値観の転換にあるのだ、と。
そのように、「実践」は、「外面行動法」力点を置きます。
しかし今私が再び言ったことは、「否定価値の放棄」その中で成すような心の成長変遷とは、外面行動法の習得習熟のことではない、ということです。あくまで、「魂の望み」向かい続けることが生み出す「心の成熟」なのだ、と。

この辺一番分かりにくく、かつ一番重要部分になりますので、ぜひここに注意して読んで下さい。
「実践」においては「外面行動法」根幹になり、ハイブリッド心理学において学ぶ「外面行動法」は、私たちが未熟から成長、そして成熟へと向かう変遷の中で、一貫としたものです。
だからこそ、「外面行動法」「心の成熟」とは、別のものなのです。
「外面行動法」は、最初から、一貫したものを学び、体得していきます。その同じ、一貫とした外面行動法生きる歩みで、私たちは別の人間へと、異次元の心の世界へと成長していくのです。
ではその「異次元の心の世界への成長」決定づけるのは何か、と視線を向けると、それは「内面」にあります。「魂の望み」です。
これ自体がまた少し「パラドックス的」であるようにも感じます。「実践」「外面行動法」見出すことが根幹になるものだが、「実践」が生み出す「心の成熟」は、「外面行動法」生み出すのではない

いえ、これは何の不思議でもパラドックスでもないのです。そもそも「実践」根幹となるものとして「一貫した「実践」の歩み」でも触れた「目的思考」が、「望み」起点にして行うものだからです。そしてその究極正真のものが、「魂の望み」だからです。
一方「魂の望み」の感情は、「「魂の望み」の感情の異質性」以下で説明したように、私たちが通常「自意識」を働かせる「自我」によって日常的に感じる感情ではない側面があります。そして私たちは「実践」を、まずは「自意識」を働かせる「自我」によって行います。結果、「魂の望み」感情は、「取り組み実践の意識作業」「中」には、直接あまり出てこないのです。
しかし大きな幹が、「実践」「望み」起点にするものだというところにあります。「実践」が、「何が望みなのか」自ら「望み」を問う「目的思考」中で成されるならば、「実践」全体が、「魂の望み」接するものとして成されることが可能になります。もし「魂の望み」の感情を守る姿勢保たれているならば。そして「実践」において見出す「外面行動の答え」が、再び「魂の望み」へと、つながり得るのです。
そうして「魂の望み」が、「実践」積み重ねの中で燃やされていくことで、目に見えない形で、「心の成熟」前進するようになるのです。「取り組み実践による「心の成熟」への歩み」で、「心の成熟」向かうためのポイント3つ目「3)「魂の望み」への向き合い」で、仕掛け花火喩えたように。
「否定価値の放棄」に至る心の変化も、そうしたものとしてある、ということです。これが「否定価値の放棄」「学びのテーマ」の中で、さまざまな「建設的な思考法行動法と価値観」に含まれるものではなく、別格のものと位置づけられるゆえんです。

つまり結論を言うと、「魂の望みの感情を感じ取れる者であること」が、最初から最後まで、前進のための条件だということです。
それは何のことはありません。「魂の望みの感情」を感じ取れるということが、「自分で考え、自分で前に歩くことができる」という最初の目標と、実はイコールなのです。に言えば、「魂の望みの感情」をあまり感じ取れないというのは、「自分で考え、自分で前に歩く」ことができるようになるという最初の目標において、まだ何か深い妨げあることを示している、という確認仕方可能だということです。

この点関連し、なかなか前進が進まないケースとしてしばしば見られるのは、歩み始め方について「「成長の望み」という羅針盤」指摘した、「内面感情への取り組みばかりに偏る」というものとは対照的に、取り組み意識外面行動法ばかり偏り内面感情への向き合い、特に「望み」の明瞭化への取り組みが、深さを欠くケースです。こんな場面で、このように行動すればいいか、と行動法学びしっかり進めているように見える一方で、自分がそこで一体何に悩み、その底にどのような「望み」があっての話なのかを、自らに伏せるかのように。あるいはメール相談においては、それを隠したまま外面行動法の答えだけを知ろうとするかのように。
そこではまた、意識「望み」原点にしたものではなく、「与えられた状況場面」という受け身から始まるのが特徴的です。それを指摘すると、「自分の望みと言えるものは特にない、分からない」という言葉が時に返ってきます。外面行動法への自立的な思考とは裏腹に、心の底「心の依存」の深い壁残されていることを暗示するものとして。
またそうした特徴的なケースでなくとも、「意識を超えて起きる変化」として説明してきたもの、つまり「パラドックス前進」「「自分を超えたもの」が心を変化させる歩み」、そしてそれを感じ取り、自らの進むべき方向を感じ取るという「「成長の望み」という羅針盤」といった大きな前進の流れ感じ取れないというケースは、「魂の望みの感情を感じ取れない」というのが同時に起きる状況だと私は感じています。「2つの目標への歩み」で、「自分で考え自分で前に歩く」ことができていない様子として、1)自分で考えることが苦手2)「心の依存」の中だけ自分を考える、3)人や社会の様子について自分の内面を映した思考固執する、といった大きな3つを言いましたが、そうした全てを通して共通するものとしてです。

・「取り組み実践」と「魂の望み」
これらをどう理解すればいいのかの結論明瞭であり、「取り組み実践」と「魂の望み」の関係を次のように言えます。
取り組み実践「何が問題、課題、そして望みか」を問う「目的思考」から始めた時、前進力を持ち、それがさらに「魂の望み」接していた時、「今成すべき外面行動の答え」見出すという取り組み実践出口がさらに、「魂の望み」の成熟変化伴うようになる。「魂の望み」接していない取り組み実践では、これは起きない
こうした「魂の望み」感情とその成熟変遷は、「実践」に収まるものではなく、「実践」超えたものとしてあるが、「魂の望み」接する条件とは、結局「自分自身への論理的思考」「心の依存から自立への転換」という、取り組み実践前進基盤に他ならない。加えて「望みへの感受性」重要になるであろう。
こうした関係一言で、取り組み実践意識「魂の望み」の成熟変遷があるのではなく、に、「意識」を超えた「魂の望み」の成熟変遷収められるものとして、取り組み実践があると言える。

これをに描いたのが「取り組み実践と魂の望みの関係図」になります。
「取り組み実践」「意識の世界」で行い、「今成すべき外面行動の答え」出すことが「実践」都度出口になるのですが、「実践」を進める基盤となる「目的思考」が問う「望み」が、「意識を超えた世界」「魂の望み」接していた時、「実践の意識作業」としては同じように見えても、さらに「意識を超えた世界」として「魂の望み」の成熟変化起こす、という違いがあるというものです。

ではそうした「意識を超えた世界」「魂の望み」感情どう感じられるようになれるかと、途方にくれる感覚を感じる方もおられるかも知れません。「実践」ができても「魂の望み」を感じられないと大きな前進ができないのか・・と。
話は単純です。今述べたように、「魂の望み」に接する条件とは、結局「自分自身への論理的思考」「心の依存から自立への転換」という取り組み実践の前進の基盤に他ならないことにおいて、「魂の望み」を感じ取れない状況とは、結局「取り組み実践」がうまくできない状況なのです。つまり「取り組み実践」をしっかり進められるかどうかの確認が、結局「魂の望み」を感じる条件の確認に、そのままなるということです。
 「取り組み実践」と「魂の望み」の関係図


 (印刷すると2つのページに分かれる場合があります)

しかもそれは、「取り組み実践」のための、一番基本においてです。
それは、「感情を鵜呑みにしない」ということです。
「感情を鵜呑みにしない」という真の姿勢を確立した時、人は同時に、自らの「魂の望み」を感じ取るための足場を、獲得するのです。

・「実践」の足場から「魂の感情」へ
「実践」足場から「魂の感情」へとつながるポイントは、「自分自身への論理的思考」「心の依存から自立への転換」という2つ心の基盤対応して、「取り組み実践と魂の望みの関係図」にも記したように、「ありのままの現実に向き合う」、そして「自分の感情を自分で受けとめる」という姿勢にあります。それが、「「感情と行動の分離」の両輪による「魂の望み」への前進」でも説明した「感受性」「情緒性」とも手を携え合って、「魂の望み」への架け橋になる、と言えるものとしてです。

「ありのままの現実に向き合う」という姿勢は、「自分自身への論理的思考」から始まるものとしてまとめた「前進への基盤となる意識過程 一覧表」2番目「現実を見る目」がまずは該当します。
「現実」というものを、「こう感じる」という「感情による解釈」とはに、「こう感じる」ものとは異なる可能性を持つものとして「現実」見る姿勢です。
それを、「占い」を信じるといったごく即物的なテーマでの「感情による決めつけ解釈」からの卒業皮切りとして、社会様子といった、対人場面社会場面での自分思考についても推し進めるのです。そしてその先に、「どうせ人はこんな目で見るに決まっている」といった「感情による決めつけ解釈」とは対極とも言える、あらゆる可能性を持つ、「未知の現実」姿をとらえ、自分が向かうべきものとして向き合うのです。
それが、「ありのままの現実に向き合う」ということです。

同時にそこには、この「現実世界」を、「正しければ幸せになるべき」といった「道徳的世界観」ではなく、弱肉強食もあれば無償の愛もある、「あるべき姿のない世界」と見る、『入門編上巻』で示す「サバイバルと性善の世界観」、また『入門編下巻』で示す「開かれた心の世界」などの世界観テーマも出てきます。
これは「学びの主要テーマ」においてどの項目というよりも、学びのテーマ全体底流に流れる、ハイブリッド心理学人間観世界観であり根幹思想だと言えるでしょう。ハイブリッド心理学では、それが私たちの生きる、「ありのままの世界」だと考えるのです。
これについてもやはり、それぞれの方が、まず自らの考えと理解納得問うことが重要になるでしょう。

そうした「現実を見る目」が、なぜ「魂の望み」の感情へとつながるのか答えは、単純なことのように思われます。
そうした「ありのままの現実」に向かうのが、「命」の姿だからです。それによって「命」が、「魂の感情」を、「心」へと返すのです。
一方で私たちが日常働かせるものとして「「心」と「魂」と「命」の意識の仕組み図」にも示した「自意識」は、「現実」というものを「こう感じる」という「解釈」意識世界であり、基本的「命」との接点を失った世界として働いているもの、とこの心理学では考えています。「ありのままの現実を見る目」が、そうした「心」浅はかさ脱するための、そして感情による動揺と揺れ惑い脱するための、「実践」における入り口になると同時に、「魂の感情」への入り口にもなるでしょう。
なおこうした「現実を見る目」持つ持たないのとの、思考の表面違いなどについてのさらに詳しい解説を、『取り組み実践詳説』「第1部・礎」で行っていますので参考頂ければと思います。

そうして自ら「命」向き合わせるべき「ありのままの現実」見る目を持った上で、「自分の感情を自分で受けとめる」というもう一つ姿勢によって、この人自ら「命」から伝えられる「魂の感情」、そして「魂の望み」感情を、感じ取ることができるようになる、ということになります。
この姿勢は、「「心の依存と自立」の根本影響 対比表 」の、「人との間での「感情」への姿勢」として記したものです。「自分の感情を相手が受けとめてくれ良くしてくれるのを期待する」という姿勢ではなく、自分の感情をまずは自分で受けとめる。そして外面行動は、内面の気持ちを相手にぶつけるというものではなく、「行動法」対処する。
私はこれが、「心の依存から自立への転換」によって、感情の流れさまざま変化すると述べたもの全てにわたって作用する、最大公約数のようなものを生み出すと考えています。
それは私たち自身「感情」から「嘘」消し去り澄んだものへと変える「浄化」です。
に、私たちは自分「感情」つまり内面「気持ち」を、それを人に見せ、良く見られ良く扱われることを期待するで、自身の「感情」「気持ち」にやがて「嘘」が混じり込み、その「嘘」への自他からの嫌悪への怖れに、苦しむようになるという、泥沼のメカニズムがあるのです。「心の依存から自立への転換」で、自分の気持ちをまず自分自身で受けとめることをした、そこからの抜け出し成され感情に紛れ込んだ「嘘」消え始め澄んだエネルギーが、私たちの湧き始めます。これが心の成長変化ベクトルである「浄化」の、原動力メカニズムであることは言うまでもありません。

こうして、「自分自身への論理的思考」「心の依存から自立への転換」という、取り組み実践前進のための2つ心の基盤は、「ありのままの現実に向き合う」そして「自分の感情を自分で受けとめる」という2つの姿勢要のポイントとして、「魂の感情」「魂の望みの感情」のための足場にもなります。
この2つ要ポイントの姿勢が、取り組み実践前進にとってもやはりになることを、理解しておいて頂くと良いでしょう。外面において建設的行動は、感情で解釈した「現実」ではなく、「ありのままの現実」相手として検討することでこそ、見出すことができます。内面においては、感情を鵜呑みにし流されるのでもなく、また感情を無視して理屈だけで行動しようとするのでもなく、まさに「自分の感情を自分で受けとめる」ことによっってこそ、「感情をただ流し理解する」ということができるようになるのです。


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2014.9.6

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