まえがき 1.はじめに・4つの話の領域 2.心の問題とその克服ゴール 3.取り組み実践 4.心の成長変化 (1) (2) (3) (4) 5.歩みの道のり (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) |
5.歩みの道のり (3)一貫した「実践」の歩み
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「旅立ち前」から「学び」までの段階-3 ・2つの取り組み目標 「心の成長」への歩みの道のりが、その最初の段階において前進力をもつための条件を、詳しく説明しました。 それは一言で、
それを踏まえて、この章の冒頭で、 「否定価値の放棄」という目標に向かうために、ハイブリッド心理学の学びに取り組むそれぞれの人が、今何を取り組み課題として意識するのが良いのかは、外部からはかなり明確に分かる。 というのがどういうことかを、ここで言うことができます。 それは単純に、次の2つだということです。 1)もし、上記のようなものとして「自分で考え、自分で前に歩く」ということができていないようであれば、「自分で考え、自分で前に歩く」ということができるようになることそのものが、取り組み目標になります。 2)もし自分で考え、自分で前に歩くということができ始め、「否定価値の放棄」をまだ成していないのであれば、「否定価値の放棄」という大きな道標に向かうことが、取り組み目標になります。 引き続き「自分という船」の喩えで分かりやすいでしょう。自分という船の舵を自分でしっかり握り、自分で方向を決めて進むということがどういうことかがまだ「体得」されていないのであれば、海図においてどこに向かうか以前の話として、自分という船の舵を自分でしっかり握り、自分で方向を決めて進むということそのものを、まず「体得」する必要があるということです。 そしてもしそれができるようになったのであれば、あとはそこからどこに向かうかについて、たった一つの明確な目標があるということです。それは、「命」という頂のある大きな山の麓です。それが「否定価値の放棄」です。 この2つが私たちの人生の歩みの全体を、決するからです。 「自分で考え、自分で前に歩く」ということができていなければ、私たちは心の現状維持にとどまり、未熟な心でいるままの存在か、「人に言われたこと」で右往左往するだけの、「他人の人生」を生きようとする存在でしかありません。そこから抜け出し、自分の考えと自分の「意志」で、自ら方向を定めて前に進むことのできる存在へと、なるのです。 「否定価値の放棄」が成されていなければ、私たちは「自分から不幸になる」という「心の業」の、囚われの存在です。そこから抜け出し、真の心の豊かさと幸福、そして「唯一無二の自分の人生」へと、向かうのです。 ・2つの目標への歩み 「自分で考え、自分で前に歩く」ということができていない様子というのは、大きく3つのものになると理解しておくと良いでしょう。 1)「自分で考える」ということが基本的に苦手で、「思考」を人に頼るというケース。 2)「心の依存」にとどまり、「自立した心」の世界を理解できずに「心の依存」の中でだけ自分のことを考えるケース。 3)社会と他人の様子について、心の依存と未熟そして病みが映し出した、あるいは生育過程で家や学校で教えられた、硬直した観念に固執するケース。「人はこういう目で見るに決まっている」といった、空想によって偏った他人観や、「正しければ幸せになれるべき」といった硬直した道徳的社会観念。これらは本人が自分の心の課題と認識できず、心の外部にある前提のように意識されることにおいて、これらが「自ら前に進む」ことの妨げとなった時、その克服はかなり厄介なものになりがちです。 いずれにしてもそれらは、「「最初の一歩」から「自らによる成長の歩み」へ」という取り組みの仕方の前進がなかなかできないという様子として示されます。 つまり「「取り組み実践」の3ステップ」の後ろ2つ、「具体的場面での応用の学び」がどのようなものになるのかの理解と、それに対する「向き合い」が、自力でできないというものです。 これについては、 1)まずは「感情テーマにおける「選択思考」とは」で述べたように、「自分にとって本当に確かなこと」を、感情で決めつけるのではない、小学校で習う科学のような現実的確かさにおいて、しっかりと論理的に考えることを日常生活において確かなものにすることから始め、それがある程度しっかりした上で、 2)歩みの始まりの様子を「「成長の望み」という羅針盤」で述べたように、まずは見よう見まねでもこの3ステップを日常生活と人生の全ての具体的場面に広げていく、 という道筋をまず考えると良いでしょう。 そして、 3)「パラドックス前進」に述べたように、「学びが示すもの」および「望む成長」と「今の自分」とのギャップを、「学び」への心底からの納得の上でしっかりと捉えることができるようになることが、「自らによる成長の歩み」が可能になったと同時に、「自分で考え、自分で前に歩く」ことができるようになるという、一つ目の目標への到達と考えて良いでしょう。 一方、そこから「否定価値の放棄」という2つ目の大きな目標課題への歩みは、そのギャップが、なくなっていく過程だと理解できます。 「否定価値の放棄」までは、まずは「学びが示すもの」と「今の自分」とのギャップが、ということになるでしょう。「望む成長」とのギャップがではなく。これも本当に埋まり始めるのは、「否定価値の放棄」の後からです。 つまり「否定価値の放棄」までの歩みとは、「「学び」の主要テーマ」として示した、「感情と行動の分離」「破壊から自衛と建設への転換」「行動学」「愛と自尊心ための価値観と行動法」「悪感情への対処」のそれぞれについて、「心の健康と成長への方向」のものが、本当に、心底から、自分のものになっていく過程だということです。 そうして「学び」の全てが、本当に、自分のものとして「体得」されるのです。 それが全てにわたって揃った時、「否定価値の放棄」を成すことが、心の視野に入ってきます。そしてそれを成すのです。 「学び」の全てが体得される必要があるというのは、自分という家が雨漏りするのであれば、屋根と壁と窓といった、雨漏りの原因の、全てをまずふさぐ必要がある、と喩えられるでしょう。どれかをふさいだところで、どこか一つでも抜けがあれば、家はまた悪感情の水浸しになってしまいます。ですから雨漏りするところ全てをふさいでから、最後に、悪感情が底まで染みついた心の床を、快適なプラス感情の、新品のクッションフロアと交換すると良いでしょう。それが「否定価値の放棄」という、ハイブリッド心理学の「学び」の最後の項目に位置づけられる、総仕上げです。 取り組み実践が自分でできるようになってから、「否定価値の放棄」という目標に向かうための歩みも、実際そうしたものになると考えておいていいでしょう。 つまり、日々の「実践」は、まずは目の前の、悪感情の雨漏りがする場所への対処という、目の前にある日常生活および人生の具体的な「問題」「課題」そして「望み」への、3ステップの実践による対処前進として行います。 それを積み重ね、おおよそもう雨漏りの原因は全てふさいだと感じられるようになって、それでも心の床が悪感情に浸されているのであれば、私たちは心の床自体に問題があるものとして、それをしっかり見据え、新品のフロアに交換するということを、意味あるものとして行うことができる、ということです。 あるいはそこで、目の前の雨漏り箇所への対処が不十分なまま、もう全部済んだと思い床を交換したつもりでも、しばらくして心の床がまた悪感情の水浸しになり、実は成したのは玄関マットの交換程度でしかなかったのを自覚する、といったことも起きてくるかも知れません。そして再び、まずは目の前の雨漏り箇所への対処に向かうのです。 ・「社会を生きる自信」という通過点 そうして全ての雨漏り箇所が本当にふさがれてきた状態の目安を、一つの言葉で言うことができます。 「社会を生きる自信」です。 社会に出る前に、「こうであればきっと・・」と頭の中だけで考えて「自分に自信を持とうと」したような、脆いものではなく、「学び」の中で特に「行動学」と「愛と自尊心のための価値観と行動法」の2大テーマにおいて、無論ハイブリッド心理学から「心の健康と成長への方向」とするものについて、「頭では分かる」といったレベルではなく、しっかりと、実際の行動場面において自然にそれが可能になってくるほどに「体得」されることにおいて、自分がこの社会における大よその難題にも対処できるような、この社会においてそう多くの人が身につけるものではない「真の強さ」を、自分が得始めている、その「真の強さ」において、自分はこの社会を生きることができる。 そう感じるようなものとしての、「社会を生きる自信」です。 それが「否定価値の放棄」を成す心の土台の準備が整ったことの目安になることの位置づけは、大きく2つあります。 一つは、私たちは「弱さ」において、ものごとの悪い面に目を向け、それを怒り叩くことに価値を感じるという、「否定価値」とこの心理学が呼ぶ、「自分から不幸になる」という「心の業」の根源を抱くからです。『入門編上巻』をまずその説明から始めた、「怒り」が「弱さ」に基づくという、心の最も基本的なメカニズムが、この根源としてあると言えるでしょう。 「自ら生み出していく」ことを根幹とする思考法行動法および価値観によって培われる「真の強さ」によってこそ、その根源は心の根底から捨て去ることが可能になる、ということになるでしょう。 もう一つの位置づけは、「心の成熟」の大きな流れに関連して、「「魂」による最後の導き」の中で述べたように、「否定価値の放棄」は、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という、「愛」を単一軸とした変遷における、「自立の自尊心」に対応するものだということです。 つまりそれは大自然に生まれた獣が、親の元から旅立ち、やがて自分が生きるその大自然を生きるための能力を獲得し、それを足場に異性を獲得し、今後は自分が新たな命を守り育てる側へと回る。この変遷の全てが「命をつなぐ」という、「愛」という単一軸のためにあり、私たち人間の「心の成長」も、そのような「愛」という単一軸における変遷としてあるものとして、「社会」という大自然を生きる「自立の自尊心」の獲得の節目として、「否定価値の放棄」が私たちの「意識」において成されることが可能になる。そう位置づけているのがこの心理学だということです。 特にこの2つ目の観点から、ハイブリッド心理学では「社会を生きるスキル」の獲得というものを、「取り組み実践」において極めて重視しています。「学び」の主要テーマの中の「行動学」で触れている「仕事の普遍的スキル」などがその内容です。 この点が、ハイブリッド心理学の「否定価値の放棄」という目標の、哲学宗教的な「悟り」と、特に「実践的」な面で異なるものになるでしょう。根本的な本質は同じものだとしてもです。 またこの点で、ハイブリッド心理学は、基本的に「社会に出る」という人生の年代以降の方を対象にした心理学として、現在私自身としては展開しているものになります。 大学生のような若い年代の読者の方も少なくないようですが、そうした方からの相談対応においても、「社会に出る」ということがもう始まっているという視点において、今まで家や学校で、あるいは自身の偏った空想によって植えつけられた誤った社会観や社会で生きる能力についての誤った考え方を修正する取り組みをアドバイスするようにしています。「やる気」や「協調性」などの精神論を、「原理原則行動法」「仕事の普遍的スキル」など具体的なノウハウに交換するといったものとしてです。 また専業主婦の方など、外での「仕事」という場を持たない方においても、話は何ら変わるものではありません。「自分考え自分で行動できる」という1つ目の目標があり、その先に「否定価値の放棄」の目標があるのですが、そこに至るための「学び」の2大テーマ、「行動学」と「愛と自尊心のための価値観と行動法」は、家庭内においても、時と相手を選ぶことなく、一貫して全ての対人行動、社会行動に適用できるものであり、家事をこなすことや地域における役割ごと、さらには近隣トラブルの解決などにおいては、「原理原則行動法」「仕事の普遍的スキル」が活躍するのは、外での「仕事」におけるものと、全く同じです。そうしてそこでも、「社会を生きる自信」という、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「愛」を単一軸とした変遷における「自立の自尊心」の獲得と同期するものとして、「否定価値の放棄」を成すことができるでしょう。 ・一貫した「実践」の歩み ではまとめましょう。「読んで変われる」「言われたことで変われる」という「最初の一歩」の段階を過ぎて、「自らによる成長の歩み」へと移行する、そして「学び」の全てを埋めていって、最後に「否定価値の放棄」を成すという、「取り組み実践」の進め方です。 それは一貫した「実践」の、日々の繰り返し、積み重ねです。 それは「「取り組み実践」の3ステップ」ですが、大きく次の2頭立てになると理解して頂くと良いでしょう。 1)日々の継続的な読書。これが最初の「基本的な学び」に該当します。学校の授業で言うと教養科目にあたると説明しましたが、これは「心の懐」「心の引き出し」を肥やしていくためのもの、という表現をよく使っています。 2)日々の「実践」。これが後ろ2つの「具体場面での応用の学び」とそれへの「向き合い」です。 「何が問題、課題、そして望みか」を明瞭にしていくという「目的思考」を根幹として、明瞭化した「問題、課題、望み」に対する、ハイブリッド心理学からの「学び」、そこにおける「心の健康と成長に向かい得る行動法の選択肢」をできるだけ正確につかみ、それについて自身の理解納得、および「選択」のための内面感情への「向き合い」を行い、それを経て「今向かうべき方向」を感じ取り、「今成すべき行動」へと向かう、という流れになります。 一貫して、最初から、最後まで、「実践」としてはこの同じ流れの、繰り返し、積み重ねです。 ありがちな取り組み姿勢の誤りは、上記1)「読書」によって、自分の心が変わる、自分の感情が変わるという試みを、無理に進めようとするものです。しばしば、一刻も早く全て習得しなければ、という焦りの中で。まるで算数や英語のドリルを頑張って進めるほど学力も向上する、というようなものであるかのように。 「心の成長」とは、そのようなものではありません。 心は、そして感情は、上記2)「日々の実践」ごとの中で、さらには「日々の実践」ごとの後に、目に見えない過程として変化します。「命」が、作用をおよぼす変化としてです。 そのためにも、「そのつもり」という浅い理解ではなく、むしろ、「自分はこれは理解できない」「自分はこれには納得できない」というものを明瞭にするという、「パラドックス前進」が重要になります。そこにこそ、「命」が「今成すべき成長」を決めるための引き金があるからです。これがどういうことを言っているのかは、ごくごく素朴な表現でも可能でしょう。たとえば自分の弱さを認めず、強がってばかりいる人は、いつまでも本当に強くなることができません。自分の弱さを認めた時に、人は「真の強さ」へと向かうことができます。 日々の読書を継続的により多く持つことは、「読んで変われる」ためにではなく、自分は何が理解納得でき何が理解納得できないか、何がすでに自分のものとなっており何がまだなのかを把握するために、必ず役に立つものになります。 この後でも触れるように、この歩みはとても長いものになります。生涯を通してと言えるほどに。その時間は、ハイブリッド心理学の全ての著書を何度も読むに十分足りるでしょうし、そのくらいの読書量はまず必要と、私としては感じています。 そうした中で、一貫して「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解する」という「感情と行動の分離」の姿勢と実践を貫くことで、しばらく時間を置いて、やがて心に変化が起き始めていることに気づくでしょう。 それは「ハイブリッド心理学によってこうなれれば」と期待した変化とは、おそらく違うものでしょう。だからこそそれは「未知への変化」なのです。それが真の「心の成長」です。 「パラドックス前進」でも述べたように、そうした目に見えないように起きる自分の心の変化に、積極的に目を向ける姿勢が役に立つでしょう。最初は「悪感情の中でも以前よりふんばりが利く」といった、地味な変化を皮切りとして。そして再び似たような場面における「実践」の中で、以前とは少し違う感じ方考え方ができるようになっている自分に、気づくのです。 あるいはそこでしばしば、「ハイブリッド心理学によってこうなれれば」と感じる期待の中にこそ、自らが向こうとしている方向の誤りを分析自覚することが可能になる、と加えておくことができます。 それはしばしば、自分の心を何か人の目に良く見えるものに練り上げ、それによって人に良く見られ良く扱われる願望という、私たちが歩みをそこから始める「誤った人生の生き方」、であり「心の依存」の焼き直しです。まさにそこから抜け出し、「心の依存から自立への転換」の心の基盤に目を向けることに、一歩一歩の前進があります。 |
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2014.9.22 |