まえがき 1.はじめに・4つの話の領域 2.心の問題とその克服ゴール 3.取り組み実践 4.心の成長変化 (1) (2) (3) (4) 5.歩みの道のり (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) |
5.歩みの道のり (7)人生の歩み
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「変化」から「円熟」への段階 ・「否定価値の放棄」までの流れ 「否定価値の放棄」が私たちの人生におよぼす影響は、はかり知れないものがあります。 私自身の人生を振り返るならば、日々別の人間へと成長変化していくような歩みが、そこから始まったのですが、そうならしめた「否定価値の放棄」の節目そのものについて言えば、私は自分がそこで別の人間へと変化したというよりも、何か動物として別の種類に変化したかのような印象を、感じているのです。 ありのままの自分の人生を生きる動物へ、ということになるでしょう。それが妨げられた動物・・から・・。 「否定価値の放棄」の節目が、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」における「自立の自尊心」に対応したものであることは、ハイブリッド心理学の取り組み実践の流れにおける重点ポイントの変遷に、如実に表れます。 ハイブリッド心理学からの大局的な指針もしくは展望とは、まず心の動揺や病みの程度が深刻な場合は、まずは自分が心の底で何を感じ考えているのかを感じ取ることのできる「本心」を回復させると共に、「善悪思考」などから自分の心に強烈なストレスをかける混乱状態を抜け出し、そうした動揺の根底に「愛されること」への絶望的な要求の感情が呑み込まれていたことへの向き合い、そして自分自身での受けとめによって、そこから自ずと脱する「旅立ち」があるであろう、というものになります。「自分自身への論理的思考」と「心の依存から自立への転換」の足場の上でです。 心の動揺や病みの程度が深刻な場合ほど、それへの向き合いが必要になる、と。 そうした「旅立ち」の時期をどれだけ自覚的に持つかには個人差があるとして、そこから全ての人に、「学び」の段階が始まることになります。多少とも落ち着きを持ち、自分の足で前に歩くという姿勢を基盤にしてです。 取り組み実践の力点は、「現実において生み出す」という大きな指針を中核とした、建設的外面行動法の学びへと大きく舵を取るものになります。「旅立ち」の段階においては、「愛される」ことへの「望み」と「要求」の感情に向き合う、内面取り組みが重要になってくるのから、対照的に切り替わってです。 もちろんそれは、感情を無視して理屈だけで行動するというようなものではありません。「旅立ち」の中で築いた「本心」の上で、「分かり合い認め合う」ではなく「楽しみと喜びの共有」として「愛」に向かい、「打ち負かし」ではなく「現実における生み出し」によって「自尊心」に向かうという、「「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法」という「学び」の根幹について、自分が本当にどう感じ考えているのか、内面への向き合いを行いながら、自身の成長のために今成すべき外面行動の答えを模索していくという一貫した実践を、重ねていくのです。 そこで「学び」が示す通りには心底では納得できていない自分を感じながらも、「感情を鵜呑みに考えない」という根本指針を守りながら実践の歳月を積み重ねるならば、それがこの人自身の意識思考を超えて、「学び」が示す方向へと、この人の感じ方を変化させ始めるでしょう。この心理学が「パラドックス前進」と呼ぶ歩みとして。 成長変化への原動力の全てが、「破壊から自衛と建設へ」という、基本行動様式の選択の下において、導かれ開放されるものであることを、ご理解頂ければと思います。「破壊」による対処とは、全てが外部からの出来事とその破壊消滅という、何も自己の内部からは生み出されるもののない行動法であり生き方であり、「怒り」のストレスによって自己の心身状態をいわば仮死状態にして健康な成長を停止させる姿勢だからです。これは『入門編上巻』の冒頭で説明した通りです。 ですので、この「破壊から自衛と建設への選択」についてだけは、取り組み実践の最初の段階で、その基本的な考えへの、心底からの納得が問われるものになります。 その心底からの納得が、ハイブリッド心理学の取り組み実践の全ての入り口であり、ハイブリッド心理学が示す心の成長への道への歩みが、始まるということです。これは「「実践」とは何をするものなのか」でも述べた通りです。 もちろんそれは、とにかく怒りを捨てましょう、何でも許しましょうという精神論ではありません。「怒り」「破壊」というものが、どう役立つのかそれとも役立たないのか、そして自分が何を目的に怒るのかを、対照となる、「怒りを用いない行動法」である「行動学」、そして「社会を生きるスキル」といった知恵とノウハウの学びと実践を重ねながら、自身に問い続けるのです。 その答えはこのようなものになるだろう、というものをかいつまんで書いておきましょう。それが私の経験したものであり、それをもとに、私はこの心理学を作ったというものとしてです。 まず、「破壊ではなく自衛と建設」を心底から望む気持ちを持つこと、「怒り」の克服を望むことが、この歩みの入口になります。それが自身の成長への道になることを、信じてです。 それでも、「自尊心」はまだ「相手を打ち負かす」ことによって感じ取ろうとする、という未熟形からのスタートです。それが若さの未熟というものであり、「現実において生み出す」こともまだあまり知らないのですがら、そうした心から始まるのは、仕方のないことです。 「学び」がそこから、始まります。 実際のところ、「怒り」「破壊」が役に立つ場面もあり、それはつねづね言っている話ですが、山でクマに出くわした時や街で暴漢に襲われた時です。そんな時は、「怒り」を奮い起こして、多少の怪我を覚悟で、戦うしかない。でもそんな場面ではない日常生活には、「怒り」は全く必要ないはずだ。「行動学」がそう教えてくれます。しかし心は、実に些細なことに「怒り」と「怖れ」で反応します。追い詰められた動物のようにです。 そこから、歩みを深めていきます。「社会を生きるスキル」を大きな支えにしながら、感情を鵜呑みにすることなく外界現実を見る目を培い、感情の反応の中にある不合理も分析すると良いでしょう。するとそこに、自分の過度の感情反応が、幼少期からの来歴の中にある、多少とも不幸な側面によって心に染み込まされたものであったことが、見えてくるかも知れません。それは最初、拭い去ることのできない記憶のように感じられても、建設的外面行動法の学びと模索の積み重ねの中で徐々に芽生える「成長」が、そうしたことへの感じ方も変化させていきます。自分がもうそれを、あまり引きずらなくてもいい存在のように、次第に感じられてくるのです。 そうして内面感情が少しづつ軽くなることは、外面の建設的行動法への足かせも軽くなることでもあります。やがて「学び」が示す建設的行動法が、実際に、惑いなくできるようになってきている自分を、自覚するのです。 「自尊心」ははっきりと、「相手を打ち負かす」ことではなく「現実において生み出す」ことによって獲得するものなのだ、と意識思考においても、感情においても、方向が定まってきます。「相手を打ち負かす」ことを自尊心としても、いずれまた自分が誰かに打ち負かされるという不安を、免れることはできないし、実際いつか打ち負かされるのだ。人はやがて必ず老い、衰えるのだから。だが、「現実において生み出す」ことによる自尊心は、何によっても打ち負かされることはない。そもそもそれは打ち負かされるかどうかを問うものでさえないのだから。 「真の強さ」は、ここにこそあるのだ。 そうして「真の強さ」が見えてくる頃合いに、「神」についての自分の考え、また「霊魂」「前世」といった神秘思考についての自分の考えを整理し直してみたり、「幽霊」「心霊現象」といったものについて感じたことのある恐怖感について、見直してみると良いでしょう。 それらは人間の「強さ」と「弱さ」に、本質的に結びついている観念だからです。これ自体はハイブリッド心理学における心の成長のための「学び」のテーマではありませんが、「自分自身への論理的思考」として、「小学校で習う科学の知識」のような現実科学的思考を重視しており、私自身がその先に至った考え方を、「ハイブリッド心理学の立場からのもの」とも定めています。それが「「否定価値の放棄」をめぐる意識テーマ」の中で、準備となる意識変化および意識テーマの一つとして述べた、「未知への信仰」です。 そうして、「「否定価値の放棄」をめぐる意識テーマ」の中で、準備となる意識変化および意識テーマとしてあげた、 1)「真の強さ」を得始めることに関係する意識変化 2)「神」というものについての意識思考 「未知への信仰」 3)「絶対」「完璧」は存在しないという認識意識 というものがおおよそ整ったのが、私の場合30代の後半頃のことでした。 私の中で「否定できることに価値を感じる」という根底感情の意味が、外堀を埋めるようになくなっていき、37歳のある日、それでも残り続ける積極的自己否定の感情に向き合い、そこに含まれる「これ以上程度の低いものは許せない」という感情の中に、「自分がその絶対的線引きをできる」という意識下の姿勢があることを明瞭に自覚し、「これは自分が神になろうとすることなのだ!これは間違っている!」という鮮烈な閃きと共に「否定価値の放棄」が成されました。 そうして、私の人生において、自分が別の動物の種類になったかと感じるような、大きな節目が訪れました。 「否定価値の放棄」までの流れを大きく俯瞰しましたが、お伝えしたいのは、「否定価値の放棄」が、主に「自尊心」テーマへの取り組みとしてある、ということです。 「旅立ち」の段階は、主に「愛」がテーマです。「愛される」という形における、「依存の愛」への向き合いとして。それを求める気持ちを自分自身によって受けとめることにおいて、そこから旅立つのです。 そこから長い「学び」の段階が訪れ、「現実において生み出す」ことによる「自尊心」が中心テーマになります。そして「学び」の締めくくりのようなものとして、「否定価値の放棄」を自らに問い、そして成す、という流れになります。 「否定価値の放棄」の節目が、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」における「自立の自尊心」に対応したものであることが、お分かりかと思います。 ・「変化」の段階 「否定価値の放棄」を過ぎて訪れるのは、まずは「建設的行動法の開花」と呼べる人生の局面になるでしょう。 「否定価値の放棄」によって大きく開放される「望み」に向かって、それまでに培った建設的行動法をふんだんに生かして、突き進むのです。 建設的行動法はもはやここでは、「学ぶ」という段階ではありません。「習熟する」という段階でさえないでしょう。それは「否定価値の放棄」への準備、つまり「学び」の段階での課題です。「望み」はいまだあまり開放されてはいない心で、まずは目の前の「仕事」や「対人関係」などで建設的行動法を学び習熟することで、「真の強さ」を心に芽生えさえ、それを足場に「否定価値の放棄」を問う、という流れです。「弱さ」が、「否定価値」の基本的な根源だからです。 そして「否定価値の放棄」によって、「望み」が大きく開放されます。「魂」のレベルにおいてです。 それに向かって、それまでに培った建設的行動法を、「縦横無尽に駆使する」、そして自ら人の行動を助言できるような「熟達者」になっていくと言える段階になります。 それによって進行する過程とは、まずは外面における前進になるでしょう。 この社会で自分が何をできるのか。それをまずは、社会のレールに乗ってどこまで行けるのか、模索し、まい進するというものになるでしょう。人によっては、自ら「起業」することにチャレンジする、といったことも含めて。 それによって、「生活」と「自分への自信」というものが、右肩上がりに向上していくでしょう。もちろん経済的な面での向上がどうできるかは人それぞれでしょうが、心のプラスエネルギーが開放され、生きることへの惑いが消えた心で、湧きあがる「望み」に向かって生き生きと生きることが、それによって毎日の生活の中で、自分の人生に「前進」があること、そして「生きること」がマイナスよりもプラスで占められていく割合が次第に大きくなっていくことを感じ取れるのは、誰の場合も同じになるでしょう。 そうして自分が自ら幸福に向かうことができるという実感こそが、「自分への自信」を生み出し、そして増大させていくのです。 こうした流れが、「心の成長変化の概要図」において、「否定価値の放棄」の節目の線が「成長」と「治癒」の中途にあり、その後に「浄化」「成熟」「超越」があるものとして示したものに、他なりません。つまり心の成長の大きな変化は、「否定価値の放棄」の後に訪れる、というものです。 図では配置上、「成長」と「治癒」の四角は「否定価値の放棄」の節目の線の下の方が大きくなっていますが、実際には「成長」と「治癒」の大きな部分が、「否定価値の放棄」の後にあると言えます。 私たちの心の成長変化の最大の原動力は、開放されていく「望み」に向かって生きることにあるからです。「自意識の望み」においても、「魂の望み」においても。 そこでは「望み」はまずは、心のプラスエネルギーの大きな開放を追い風にして、今までの人生で自分にはあまり望めないものと考えていた、プライベート面においても仕事面においても対人関係の豊かさと広さ、それを支えにした仕事の能力の発揮、それによる収入の増加、やがてはそれらを手土産にするように、自分にとって理想的な異性を探し、家庭を築く、そして自分の家族を持つ、といったものに向かうのではないかと思います。私の場合がそうでした。 そこではもう、どう生きるのが正しいのか、そしてどんな生き方が勝ち組か負け組かといった惑いの思考はもはやなく、ごく自然に、そして素朴に、それが自分の「人生の望み」であるのを感じ、そのための目標を立て、それに向かって進む。そうした人生の日々に、もう何も惑うことなく向かうことのできる自分を、感じるのです。 もちろん全てが順風に進むものではなく、さまざまな障壁が現れるでしょう。しかしまさにそれがこの人の、さらなる成長への糧になるのです。残された心の未熟と病みが刺激される動揺も起き、まさにそれが力強い「成長」のベクトルの中でこそ起きる、鮮明な「治癒」や「浄化」にもなってきます。そして再び、そしてさらに力強い、人生の歩みができるようになっている自分を、自覚するのです。 「行動力」が格段に向上し、一年一年と見違えるように「進化」していく自分を感じます。人から見える外面においてもそうかはさておき、何よりも、自分自身で感じる自分というものの全体が・・。 これが、「5つの「成長の段階」において、「旅立ち前」から「旅立ち」そして「学び」の段階を経て、「否定価値の放棄」の節目を過ぎて始まる、残り2つの成長段階の1つ目、「変化」の段階です。 ・人生の歩みへ そこから長い人生の歳月が流れ得ます。参考まで私の場合で言えば、「旅立ち」が大学院心理学修士卒業の24歳までとして、37歳で至った「否定価値の放棄」の節目まで、13年間もの長い「学び」の時期が続いたことになります。これは私自身の感覚としては少々間延びがあったように感じますが、ここで伝えているような人生の学びが得られなかったゆえ、仕方ないことだったとも感じます。 そこから「永遠の命の感性」へと私が至る46歳までの9年間が、私の人生において「変化」の時期だったと感じています。その間44歳の2005年で会社を辞め執筆に専念したことも、その時点では多少とも出版の商業的成功など可能性として目論んだものでもあり、外面的前進主導の歩みでした。 「否定価値の放棄」を過ぎて人が歩み得る人生の流れを考えた時、そこには主に3つの道があるように感じられます。 1つは、「変化」の段階における外面的前進主導の歩みが、おおむね順調なまま、その生涯を終えるものです。仕事に成功し、良い家庭に恵まれ、愛する家族に見守られてその生涯を閉じる、といった姿になるでしょう。もちろん多少の壁には出会うでしょうが、自らの行動力によって乗り越えるような形で。 これは幸運な人生であり、無論幸せな人生であろう一方、本人の幸福感が最後まで外面的満足に依存しているという可能性があります。「自発的幸福」を増大させるものである「成熟」のベクトルが実はあまり前進しておらず、心は「自発的不幸」を多分に持っている状態にとどまるかも知れません。しかしまさにそれを外面的満足が補うのですから、それでいいのです。 ・「円熟」の段階 残りの2つが、「成熟」のベクトルを大きく前進させ、「自発的幸福」に向かう生涯となるものです。 1つ目との違いは、「変化」の段階における外面的前進主導の歩みの先に、もはや「自分」では乗り越えることができないような、大きく、深い壁に出会うものです。 それを乗り越えさせるものは、「命」になるのです。しばしば、「心の死と再生」の形で、「自意識の望み」を、「魂の望み」へと大きく変化させながら。 「魂の望み」とは、「愛」への望みです。人はここで初めて、私たちの「命」がそれを持って生まれた、生きることの真の意味を知ることになります。「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」の変遷における、「成熟の愛」としてです。 ここに至り、歩みのテーマははっきりと、「自尊心」を卒業し、鮮明に「自ら愛する」ものとしての「愛」をテーマにするものになります。 そこにまた2つの道があるというのが、「「歩みの深まり」と成長の前進 一覧表」で「真髄形」を2つの行で記したものであり、その違いを「魂の愛への望み」で説明したものです。 一つは、「自分」では乗り越えられないような大きく深い壁が、心の外部に現われるものです。たとえば身体の大きな病や大きな地震の被災のように。 それによって、表面的なものばかりを追っていた浅はかな心が打ち砕かれ、「魂の望み」に向かって生きるようになる、というものです。 そしてもう一つは、深く大きな壁が、自分の心の内部に現われるものです。これは「幼少期に始まる自己否定感情」という心の問題の始まりが、ある程度以上深刻な場合に起きる可能性があり、それを乗り越えるものとは、「もはや自分のものとは思えない」ような、大きな「魂の望み」の感情になる、というものです。 こうして現われる「魂の望み」に向かう歩みの中で、「浄化」と「成熟」のベクトルが、この人の心に大きく前進していくことになります。 「超越」のベクトルは、3つ目の道において働き得るものになります。「永遠の命の感性」という、心の成長のゴールへと至る道を特徴づける節目を通るものとしてです。 「5つの「成長の段階」の最後である「円熟」の段階とは、こうして、人生の歩みを導くものの重みが、外面的な成功や満足から、「魂の望み」へと移っていく段階である、と定義できるでしょう。 それによって、「変化」の段階が「建設的行動法の開花」であるなら、この「円熟」の段階とは、「自発的幸福の開花」である、と。 「幸福」というものが、外部から与えられるものというよりも、自分自身の心の内部から、湧いてくるものになる。そうした心の境地が、ここに完成し始めます。 再び私の人生のごく輪郭の続きを書くならば、37歳で至った「否定価値の放棄」を過ぎて、自分の心に右肩上がりに前進する成長変化を足場に、まさに転身となったのが、2002年の41歳の時、自分の心の全体が大きなプラス感情におおわれていることへの確信から、再び心理学へと執筆を始め、44歳、2005年に会社を辞め執筆に専念するようになったことでした。そして2006年に最初の出版本となる自伝小説『悲しみの彼方への旅』を刊行。それがまさに私の「変化」の時期のクライマックスでした。 そこから次第に変化も落ち着いていく中で、やがて向き合うべき壁に向き合う人生の局面が私に訪れます。 一つは、私自身の心の内部にあった壁であり、人生で最も愛する相手に近づくことへの怖れでした。 それは「否定価値の放棄」によるマイナス感情の解消と、プラス感情の開放、そしてその先に築かれた「自尊心」によっても解決されずに残った、意識の最も深いところにある、自己否定感情の小さな根核のようでした。 私はその向き合いの中で、「原罪の克服」の心の深奥を通り、それを足場に「永遠の命の感性」へと至ります。 私の心に再び、「否定価値の放棄」の節目の時に匹敵するような変化が訪れます。それは私の人生の中に染みついていた、「寂しさ」と「怖れ」の感情の、心の根底からの消滅でした。最後に残された「自己」をめぐるマイナス感情の根源の解決は、そのマイナス感情がどう解消されるかではなく、「自己」そのものが消えることにあったのです。「永遠の命の感性」の獲得によって。「答えが出ることなく問題そのものが消える」としばしば表現している、心の問題の解決の真の姿の最大のものが、そこにあると言えるでしょう。 私の人生に、生きることの全てが輝いて感じられる瞬間が訪れます。 そこまでの私自身の変化の体験を踏まえてまとめたのが『入門編下巻』であり、2009年に上下巻を同時に刊行しました。 私自身としては、この辺から、私の人生が「変化」の段階から、「円熟」の段階へと移行したように感じています。 そこから再び、私自身にとって未知の心の領域への歩みが始まりました。「「心の成熟」のゴール」と「ハイブリッド心理学からの答え」で、「永遠の命の感性」の獲得が必ずしも心の成長のゴールとイコールではなく、それ自体は心の成熟のゴールよりもかなり手前に位置づけられるかも知れない、と述べたようなものとして。 最終的なゴールは、あくまで、「望み」の内容が、「与えられる」ことから「自ら生み出し与える」ことへ、やがてもはや何も躍起に求めることなく心が豊かな感情に満たされるようになるという、「望みの成熟」の一本の線の、最終点にある、と。 そして「望みの成熟」の仕組み自体は、かなり単純なもののようだ、と。「望み」に向かって全てを尽くして生き、「望み」を燃やし尽くすごとに、「望み」が自ずと、「命」によってプログラムされたその変化をたどる。私たちはそれがいつどのように成熟変化すればいいのかなどと意識する必要もなく、ただ「望み」に向かって全てを尽くして生き、あとは「命」に、自己がどう変化するかを委ねればいいのだ、と。 『入門編』の出版は、私がいずれ向き合うべきもう一つの壁につながっていました。出版から2年を経た2011年頃、私のこの執筆活動が、商業的な成功を収めるようなものではないことが、何よりも私自身にはっきりしてきたのです。本の売れ行きが期待したほどではなかったこともさることながら、この心理学が、金銭を頂く代わりに効果を与えるというようなものとは、根本的に異なるものだと感じたのです。これは完全に、自ら歩き、自ら前に進むための心理学なのですから。 この心理学の執筆専念への転身の中で抱いていた一抹の、経済的成功そして「社会的成功」の望みの「断念」は、私に再び、小さな「心の死と再生」をもたらしたようでした。 私の人生において、「人の目の中で何者かになろうとする」という衝動が、その終焉を迎えたようでした。自分自身でも目をみはるような、「身軽」な心の状態も現われてきます。 経済的見通しが立たなければ辞めるという覚悟で転身をはかった執筆専念であり、とにかく生きることを優先するべく再就職も検討します。しかしその中で私は逆に、自分の執筆の価値がどこにあるのかをはっきりと自覚するようになります。それは「心」と「魂」と「命」という、人間の心の仕組みを伝えることなのだ。自分がやってこそ意味のあることとは、この執筆以外にはない。 何のことはありません。商業的成功に失敗したからこそ、そうした浅はかな指標にとらわれることなく執筆に向かうことのできる心を、私は見出せたのです。50歳という節目にして。 それで言うならば、『入門編』までの執筆内容は、まだまだ粗いものです。より精緻な内容を伝える必要がある。そうして2012年から執筆したのが『取り組み実践・詳説』です。 一方で、それから何とか一人で執筆を続けていくだけの経済的見通しは立てたものの、結婚して家庭を築き家族を持つという「人生の望み」もほぼ断念された私の心は、やや停滞の中にありました。 そこに再び神の手が働いたと言えるかのように、私の人生の運命の歯車が動き出します。「人生で最も愛する相手」に向かうという、「愛」を単一軸とした「魂の望み」を果たすための歩みが、再び訪れたのです。それを最後まで導いたのが、『悲しみの彼方への旅』の終盤でもそれが暗示されたように、初恋女性の存在でした。 この『概説』を締めくくろうとしている2014年の暮れも今、神の手は最後まで、安易な外面的満足を私には与えない道を用意したようです。とことんまで、「魂の望み」を、自分自身の心で受けとめさせるために。 その先に訪れる心とはどのようなものであるのかを、私自身に、指し示すために・・。 私自身としては今、もちろん未来は全てが未知ですが、私自身の中にある「魂」の望みを、私自身の人生において、ほぼ受けとめ尽くせた気がしています。 その先に訪れた心の境地とは、そこに至るまでに私が体験したことの全てを伝えていくのが、これからの私のライフワークとして、今ここでその最終的な様子を短い言葉でお伝えしておくならば、「宿題を終えたあとの夏休み」という感じなのです。 私自身、心の成熟のゴール段階のようだと今感じられる心の境地ということで、私が今常に「人へ」の「愛」の感情の中で生きているかと言うと、あまりそうとは言えないのです。「愛」をことさら意識する必要さえ感じない心の状態とは言えるでしょう。 なぜなら、「魂」は「私」ではないからです。「私」は、「「心」と「魂」と「命」の意識の仕組み図」において、やはり、「自意識」を働かせる「心」のことです。そのようなものとして、「私」は、私の人生において、私の「魂」を、受けとめ尽くせた。その宿題を、だいたい終えることができた、と感じているのです。一方で私の「魂」は、私の「心」に受けとめ尽くされた安心感の中で、今はすっかり惰眠をむざぼっているようでもあります。 そうして訪れる心の豊かさとは、世に流れる、外面において人とどんな言葉がやり取りできたかに終始する小説やドラマ、そして「生き方」と言えば「人への愛の気持ち」ばかりを持ち上げようとする風潮が言うであろうものとは、大分違うものだ、と私は今感じています。 私はむしろ、自分自身の中の「魂」との関係に、着目します。それを伝え続けていくことに、私はこれからの生涯を、尽くしていきます。 私は今、朝目が覚めてから夜眠りに落ちるまで、「楽しい」という気分の中で毎日を生きています。 私は今、とても幸せです。 こうして、私が歩んだ、そしてそれを元に私がこの心理学を整理した道とは、「否定価値の放棄」を過ぎて人が歩み得る3つの道の後ろ2つ、つまり外面的前進主導の歩みの先に、「自分」では乗り越えられないような壁に向き合う道でした。 もちろん、それはもう私たち自身で「選ぶ」ものではありません。私たちにできるのは、「否定価値の放棄」までの「学び」であり、その「選択」までです。そこからは、それまでに培った姿勢と行動法で、開放される「望み」に向かって、ただ全てを尽くして生きていけばいいのです。その先は、「命」が全てを決めます。 それが進む先が、いかなる道を選ぼうとも、その先に「幸福」が訪れるであろうことに、私は今微塵も疑念を感じません。 それに向かうことを目指すハイブリッド心理学の取り組みとは何なのか、もうお分かりかと思います。 それは短期間や短時間で習得できることを目指す、心の改善法や気持ちの改善法とは、根本的に異なるものです。 それは、私たちの人生の歩み、そのものなのです。 |
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2014.11.26 |