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ハイブリッド人生心理学 概説 まえがき
1.はじめに・4つの話の領域
2.心の問題とその克服ゴール
3.取り組み実践
4.心の成長変化
 (1) (2) (3) (4)
5.歩みの道のり
 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

5.歩みの道のり
 (7)人生の歩み

「変化」から「円熟」への段階「否定価値の放棄」までの流れ 「変化」の段階 人生の歩みへ 「円熟」の段階

「変化」から「円熟」への段階

・「否定価値の放棄」までの流れ
「否定価値の放棄」が私たちの人生におよぼす影響は、はかり知れないものがあります。
私自身人生を振り返るならば、日々別の人間へ成長変化していくような歩みが、そこから始まったのですが、そうならしめた「否定価値の放棄」節目そのものについて言えば、私は自分がそこで別の人間へと変化したというよりも、何か動物として別の種類変化したかのような印象を、感じているのです。
ありのままの自分の人生を生きる動物へ、ということになるでしょう。それが妨げられた動物・・から・・。

「否定価値の放棄」節目が、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」における「自立の自尊心」対応したものであることは、ハイブリッド心理学取り組み実践流れにおける重点ポイント変遷に、如実に表れます。
ハイブリッド心理学からの大局的指針もしくは展望とは、まず心の動揺や病み程度深刻場合は、まずは自分心の底で何を感じ考えているのか感じ取ることのできる「本心」回復させると共に、「善悪思考」などから自分の心に強烈なストレスをかける混乱状態抜け出し、そうした動揺根底「愛されること」への絶望的な要求の感情呑み込まれていたことへの向き合い、そして自分自身での受けとめによって、そこから自ずと脱する「旅立ち」あるであろう、というものになります。「自分自身への論理的思考」「心の依存から自立への転換」足場の上でです。
心の動揺や病み程度深刻場合ほど、それへの向き合い必要になる、と。

そうした「旅立ち」時期をどれだけ自覚的持つかには個人差があるとして、そこから全ての人に、「学び」段階始まることになります。多少とも落ち着きを持ち、自分の足前に歩くという姿勢基盤にしてです。
取り組み実践力点は、「現実において生み出す」という大きな指針中核とした、建設的外面行動法の学びへと大きく舵を取るものになります。「旅立ち」段階においては、「愛される」ことへの「望み」「要求」感情に向き合う、内面取り組み重要になってくるのから、対照的切り替わってです。
もちろんそれは、感情を無視して理屈だけで行動するというようなものではありません。「旅立ち」の中で築いた「本心」の上で、「分かり合い認め合う」ではなく「楽しみと喜びの共有」として「愛」向かい「打ち負かし」ではなく「現実における生み出し」によって「自尊心」向かうという、「「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法」という「学び」根幹について、自分が本当にどう感じ考えているのか、内面への向き合いを行いながら、自身の成長のために今成すべき外面行動の答え模索していくという一貫した実践を、重ねていくのです。
そこで「学び」が示す通りには心底では納得できていない自分を感じながらも、「感情を鵜呑みに考えない」という根本指針を守りながら実践歳月積み重ねるならば、それがこの人自身意識思考超えて「学び」示す方向へと、この人の感じ方変化させ始めるでしょう。この心理学「パラドックス前進」と呼ぶ歩みとして。

成長変化への原動力全てが、「破壊から自衛と建設へ」という、基本行動様式選択の下において、導かれ開放されるものであることを、ご理解頂ければと思います。「破壊」による対処とは、全て外部から出来事とその破壊消滅という、何も自己の内部からは生み出されるもののない行動法であり生き方であり、「怒り」のストレスによって自己心身状態をいわば仮死状態にして健康な成長を停止させる姿勢だからです。これは『入門編上巻』冒頭で説明した通りです。
ですので、この「破壊から自衛と建設への選択」ついてだけは、取り組み実践最初段階で、その基本的な考えへの、心底からの納得問われるものになります。
その心底からの納得が、ハイブリッド心理学取り組み実践全て入り口であり、ハイブリッド心理学が示す心の成長へのへの歩みが、始まるということです。これは「「実践」とは何をするものなのか」でも述べた通りです。
もちろんそれは、とにかく怒りを捨てましょう、何でも許しましょうという精神論ではありません。「怒り」「破壊」というものが、どう役立つのかそれとも役立たないのか、そして自分目的怒るのかを、対照となる、「怒りを用いない行動法」である「行動学」、そして「社会を生きるスキル」といった知恵ノウハウ学び実践重ねながら、自身問い続けるのです。

その答えこのようなものになるだろう、というものをかいつまんで書いておきましょう。それが経験したものであり、それをもとに、この心理学を作ったというものとしてです。

まず、「破壊ではなく自衛と建設」心底から望む気持ち持つこと、「怒り」克服望むことが、この歩み入口になります。それが自身成長へのになることを、信じてです。
それでも、「自尊心」はまだ「相手を打ち負かす」ことによって感じ取ろうとする、という未熟形からのスタートです。それが若さの未熟というものであり、「現実において生み出す」こともまだあまり知らないのですがら、そうした心から始まるのは、仕方のないことです。
「学び」がそこから、始まります。
実際のところ、「怒り」「破壊」役に立つ場面もあり、それはつねづね言っているですが、クマ出くわした時暴漢襲われた時です。そんな時は、「怒り」奮い起こして、多少の怪我覚悟で、戦うしかない。でもそんな場面ではない日常生活には、「怒り」全く必要ないはずだ。「行動学」がそう教えてくれます。しかしは、実に些細なことに「怒り」「怖れ」反応します。追い詰められた動物のようにです。
そこから、歩み深めていきます。「社会を生きるスキル」大きな支えにしながら、感情を鵜呑みにすることなく外界現実を見る目を培い、感情の反応の中にある不合理分析すると良いでしょう。するとそこに、自分過度の感情反応が、幼少期からの来歴の中にある、多少とも不幸な側面によって染み込まされたものであったことが、見えてくるかも知れません。それは最初、拭い去ることのできない記憶のように感じられても、建設的外面行動法学び模索積み重ねの中で徐々に芽生える「成長」が、そうしたことへの感じ方変化させていきます。自分がもうそれを、あまり引きずらなくてもいい存在のように、次第感じられてくるのです。
そうして内面感情少しづつ軽くなることは、外面建設的行動法への足かせ軽くなることでもあります。やがて「学び」が示す建設的行動法が、実際に、惑いなくできるようになってきている自分を、自覚するのです。
「自尊心」はっきりと、「相手を打ち負かす」ことではなく「現実において生み出す」ことによって獲得するものなのだ、と意識思考においても、感情においても、方向定まってきます。「相手を打ち負かす」ことを自尊心としても、いずれまた自分誰か打ち負かされるという不安を、免れることはできないし、実際いつか打ち負かされるのだ。はやがて必ず老い、衰えるのだから。だが、「現実において生み出す」ことによる自尊心は、によっても打ち負かされることはない。そもそもそれは打ち負かされるかどうかを問うものでさえないのだから。
「真の強さ」は、ここにこそあるのだ。
そうして「真の強さ」が見えてくる頃合いに、「神」についての自分の考え、また「霊魂」「前世」といった神秘思考についての自分の考え整理し直してみたり、「幽霊」「心霊現象」といったものについて感じたことのある恐怖感について、見直してみると良いでしょう。
それらは人間「強さ」「弱さ」に、本質的結びついている観念だからです。これ自体ハイブリッド心理学における心の成長のための「学び」テーマではありませんが、「自分自身への論理的思考」として、「小学校で習う科学の知識」のような現実科学的思考重視しており、私自身その先に至った考え方を、「ハイブリッド心理学の立場からのもの」とも定めています。それが「「否定価値の放棄」をめぐる意識テーマ」の中で、準備となる意識変化および意識テーマ一つとして述べた、「未知への信仰」です。

そうして、「「否定価値の放棄」をめぐる意識テーマ」の中で、準備となる意識変化および意識テーマとしてあげた、
 1)「真の強さ」を得始めることに関係する意識変化
 2)「神」というものについての意識思考 「未知への信仰」
 3)「絶対」「完璧」は存在しないという認識意識

というものがおおよそ整ったのが、の場合30代後半頃のことでした。
私の中「否定できることに価値を感じる」という根底感情意味が、外堀埋めるようになくなっていき、37歳ある日、それでも残り続ける積極的自己否定の感情向き合い、そこに含まれる「これ以上程度の低いものは許せない」という感情に、「自分がその絶対的線引きをできる」という意識下の姿勢があることを明瞭自覚し、「これは自分が神になろうとすることなのだ!これは間違っている!」という鮮烈閃きと共に「否定価値の放棄」成されました。
そうして、私の人生において、自分別の動物の種類になったかと感じるような、大きな節目訪れました。

「否定価値の放棄」までの流れ大きく俯瞰しましたが、お伝えしたいのは、「否定価値の放棄」が、「自尊心」テーマへの取り組みとしてある、ということです。
「旅立ち」段階は、「愛」テーマです。「愛される」というにおける、「依存の愛」への向き合いとして。それを求める気持ち自分自身によって受けとめることにおいて、そこから旅立つのです。
そこから長い「学び」段階訪れ「現実において生み出す」ことによる「自尊心」中心テーマになります。そして「学び」締めくくりのようなものとして、「否定価値の放棄」自ら問い、そして成す、という流れになります。
「否定価値の放棄」節目が、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」における「自立の自尊心」対応したものであることが、お分かりかと思います。

・「変化」の段階
「否定価値の放棄」を過ぎて訪れるのは、まずは「建設的行動法の開花」と呼べる人生局面になるでしょう。
「否定価値の放棄」によって大きく開放される「望み」に向かって、それまでに培った建設的行動法ふんだんに生かして、突き進むのです。
建設的行動法はもはやここでは、「学ぶ」という段階ではありません。「習熟する」という段階でさえないでしょう。それは「否定価値の放棄」への準備、つまり「学び」段階での課題です。「望み」いまだあまり開放されてはいない心で、まずは目の前「仕事」「対人関係」などで建設的行動法学び習熟することで、「真の強さ」芽生えさえ、それを足場「否定価値の放棄」問う、という流れです。「弱さ」が、「否定価値」基本的根源だからです。
そして「否定価値の放棄」によって、「望み」大きく開放されます。「魂」レベルにおいてです。
それに向かって、それまでに培った建設的行動法を、「縦横無尽に駆使する」、そして自ら人の行動助言できるような「熟達者」になっていくと言える段階になります。

それによって進行する過程とは、まずは外面における前進になるでしょう。
この社会自分何をできるのか。それをまずは、社会レールに乗ってどこまで行けるのか、模索し、まい進するというものになるでしょう。によっては、自ら「起業」することにチャレンジする、といったことも含めて。
それによって、「生活」「自分への自信」というものが、右肩上がり向上していくでしょう。もちろん経済的な面での向上がどうできるかは人それぞれでしょうが、心のプラスエネルギーが開放され、生きることへの惑いが消えた心で、湧きあがる「望み」に向かって生き生きと生きることが、それによって毎日の生活の中で、自分の人生に「前進」があること、そして「生きること」がマイナスよりもプラスで占められていく割合が次第に大きくなっていくことを感じ取れるのは、の場合も同じになるでしょう。
そうして自分が自ら幸福に向かうことができるという実感こそが、「自分への自信」生み出し、そして増大させていくのです。
こうした流れが、「心の成長変化の概要図」において、「否定価値の放棄」節目「成長」「治癒」中途にあり、その後「浄化」「成熟」「超越」があるものとして示したものに、他なりません。つまり心の成長大きな変化は、「否定価値の放棄」訪れる、というものです。
では配置上、「成長」「治癒」四角「否定価値の放棄」節目の方が大きくなっていますが、実際には「成長」「治癒」大きな部分が、「否定価値の放棄」にあると言えます。
私たちの心の成長変化最大の原動力は、開放されていく「望み」向かって生きることにあるからです。「自意識の望み」においても、「魂の望み」においても。

そこでは「望み」はまずは、心のプラスエネルギー大きな開放追い風にして、今までの人生で自分にはあまり望めないものと考えていた、プライベート面においても仕事面においても対人関係豊かさ広さ、それを支えにした仕事能力発揮、それによる収入増加、やがてはそれらを手土産にするように、自分にとって理想的異性を探し、家庭を築く、そして自分の家族を持つ、といったものに向かうのではないかと思います。私の場合がそうでした。
そこではもう、どう生きるのが正しいのか、そしてどんな生き方が勝ち組か負け組かといった惑いの思考はもはやなく、ごく自然に、そして素朴に、それが自分「人生の望み」であるのを感じ、そのための目標を立て、それに向かって進む。そうした人生の日々に、もう何も惑うことなく向かうことのできる自分を、感じるのです。
もちろん全て順風に進むものではなく、さまざまな障壁現れるでしょう。しかしまさにそれがこの人の、さらなる成長へのになるのです。残された心の未熟と病み刺激される動揺も起き、まさにそれが力強い「成長」ベクトルの中でこそ起きる、鮮明「治癒」「浄化」にもなってきます。そして再び、そしてさらに力強い人生の歩みができるようになっている自分を、自覚するのです。
「行動力」格段向上し、一年一年と見違えるように「進化」していく自分を感じます。から見える外面においてもそうかはさておき、何よりも、自分自身で感じる自分というものの全体が・・。
これが、「5つの「成長の段階」において、「旅立ち前」から「旅立ち」そして「学び」段階を経て、「否定価値の放棄」節目を過ぎて始まる、残り2つ成長段階1つ目「変化」段階です。

・人生の歩みへ
そこから長い人生の歳月が流れ得ます。参考まで私の場合で言えば、「旅立ち」大学院心理学修士卒業24歳までとして、37歳で至った「否定価値の放棄」節目まで、13年間もの長い「学び」時期が続いたことになります。これは私自身感覚としては少々間延びがあったように感じますが、ここで伝えているような人生の学びが得られなかったゆえ、仕方ないことだったとも感じます。
そこから「永遠の命の感性」へと私が至る46歳までの9年間が、私の人生において「変化」時期だったと感じています。その間44歳2005年会社を辞め執筆に専念したことも、その時点では多少とも出版商業的成功など可能性として目論んだものでもあり、外面的前進主導歩みでした。

「否定価値の放棄」を過ぎてが歩み得る人生の流れを考えた時、そこには主に3つの道があるように感じられます。
1つは、「変化」段階における外面的前進主導の歩みが、おおむね順調なまま、その生涯終えるものです。仕事成功し、良い家庭に恵まれ、愛する家族に見守られてその生涯閉じる、といった姿になるでしょう。もちろん多少の壁には出会うでしょうが、自らの行動力によって乗り越えるような形で。
これは幸運な人生であり、無論幸せな人生であろう一方、本人幸福感最後まで外面的満足に依存しているという可能性があります。「自発的幸福」増大させるものである「成熟」ベクトルが実はあまり前進しておらず、「自発的不幸」を多分に持っている状態とどまるかも知れません。しかしまさにそれを外面的満足補うのですから、それでいいのです。

・「円熟」の段階
残りの2つが、「成熟」ベクトル大きく前進させ、「自発的幸福」に向かう生涯となるものです。
1つ目との違いは、「変化」段階における外面的前進主導の歩みに、もはや「自分」では乗り越えることができないような、大きく、深い壁出会うものです。
それを乗り越えさせるものは、「命」になるのです。しばしば、「心の死と再生」で、「自意識の望み」を、「魂の望み」へと大きく変化させながら。
「魂の望み」とは、「愛」への望みです。はここで初めて、私たちの「命」がそれを持って生まれた、生きることの真の意味知ることになります。「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」変遷における、「成熟の愛」としてです。
ここに至り、歩みテーマははっきりと、「自尊心」卒業し、鮮明「自ら愛する」ものとしての「愛」テーマにするものになります。

そこにまた2つの道があるというのが、「「歩みの深まり」と成長の前進 一覧表」「真髄形」2つの行で記したものであり、その違い「魂の愛への望み」で説明したものです。
一つは、「自分」では乗り越えられないような大きく深い壁が、心の外部現われるものです。たとえば身体大きな病大きな地震被災のように。
それによって、表面的なものばかりを追っていた浅はかな心打ち砕かれ「魂の望み」向かって生きるようになる、というものです。
そしてもう一つは、深く大きな壁が、自分心の内部現われるものです。これは「幼少期に始まる自己否定感情」という心の問題始まりが、ある程度以上深刻場合起きる可能性があり、それを乗り越えるものとは、「もはや自分のものとは思えない」ような、大きな「魂の望み」の感情になる、というものです。
こうして現われる「魂の望み」向かう歩みで、「浄化」「成熟」ベクトルが、この人の大きく前進していくことになります。
「超越」ベクトルは、3つ目の道において働き得るものになります。「永遠の命の感性」という、心の成長ゴールへと至る道特徴づける節目通るものとしてです。

「5つの「成長の段階」最後である「円熟」段階とは、こうして、人生の歩み導くもの重みが、外面的成功満足から、「魂の望み」へと移っていく段階である、と定義できるでしょう。
それによって、「変化」段階「建設的行動法の開花」であるなら、この「円熟」段階とは、「自発的幸福の開花」である、と。
「幸福」というものが、外部から与えられるものというよりも、自分自身の心の内部から、湧いてくるものになる。そうした心の境地が、ここに完成し始めます。

再び私の人生ごく輪郭続きを書くならば、37歳で至った「否定価値の放棄」を過ぎて、自分右肩上がり前進する成長変化足場に、まさに転身となったのが、2002年41歳の時、自分心の全体大きなプラス感情おおわれていることへの確信から、再び心理学へと執筆を始め、44歳2005年会社を辞め執筆専念するようになったことでした。そして2006年最初出版本となる自伝小説『悲しみの彼方への旅』刊行。それがまさに「変化」時期クライマックスでした。
そこから次第に変化落ち着いていく中で、やがて向き合うべき壁に向き合う人生の局面に訪れます。
一つは、私自身心の内部にあった壁であり、人生で最も愛する相手近づくことへの怖れでした。
それは「否定価値の放棄」によるマイナス感情解消と、プラス感情開放、そしてその先に築かれた「自尊心」によっても解決されずに残った、意識の最も深いところにある、自己否定感情の小さな根核のようでした。
私はその向き合いの中で、「原罪の克服」心の深奥を通り、それを足場「永遠の命の感性」へと至ります。
私の心に再び、「否定価値の放棄」節目の時に匹敵するような変化訪れます。それは私の人生の中に染みついていた、「寂しさ」「怖れ」感情の、根底からの消滅でした。最後に残された「自己」をめぐるマイナス感情根源解決は、そのマイナス感情がどう解消されるかではなく「自己」そのものが消えることにあったのです。「永遠の命の感性」獲得によって。「答えが出ることなく問題そのものが消える」としばしば表現している、心の問題の解決真の姿最大のものが、そこにあると言えるでしょう。
私の人生に、生きることの全てが輝いて感じられる瞬間訪れます。
そこまでの私自身変化体験を踏まえてまとめたのが『入門編下巻』であり、2009年上下巻同時刊行しました。
私自身としては、この辺から、私の人生「変化」段階から、「円熟」段階へと移行したように感じています。

そこから再び、私自身にとって未知の心の領域への歩みが始まりました。「「心の成熟」のゴール」「ハイブリッド心理学からの答え」で、「永遠の命の感性」獲得が必ずしも心の成長ゴールイコールではなく、それ自体心の成熟ゴールよりもかなり手前に位置づけられるかも知れない、と述べたようなものとして。
最終的ゴールは、あくまで、「望み」内容が、「与えられる」ことから「自ら生み出し与える」ことへ、やがてもはや何も躍起に求めることなく心が豊かな感情に満たされるようになるという、「望みの成熟」一本の線の、最終点にある、と。
そして「望みの成熟」仕組み自体は、かなり単純なもののようだ、と。「望み」に向かって全てを尽くして生き、「望み」燃やし尽くすごとに、「望み」自ずと、「命」によってプログラムされたその変化をたどる。私たちはそれがいつどのように成熟変化すればいいのかなどと意識する必要もなく、ただ「望み」に向かって全てを尽くして生き、あとは「命」に、自己がどう変化するかを委ねればいいのだ、と。

『入門編』出版は、がいずれ向き合うべきもう一つの壁につながっていました。出版から2年を経た2011年頃、私のこの執筆活動が、商業的な成功を収めるようなものではないことが、何よりも私自身はっきりしてきたのです。売れ行きが期待したほどではなかったこともさることながら、この心理学が、金銭を頂く代わりに効果を与えるというようなものとは、根本的に異なるものだと感じたのです。これは完全に、自ら歩き、自ら前に進むための心理学なのですから。
この心理学執筆専念への転身の中で抱いていた一抹の、経済的成功そして「社会的成功」望み「断念」は、私に再び、小さな「心の死と再生」もたらしたようでした。
私の人生において、「人の目の中で何者かになろうとする」という衝動が、その終焉を迎えたようでした。自分自身でも目をみはるような、「身軽」心の状態現われてきます。
経済的見通しが立たなければ辞めるという覚悟転身をはかった執筆専念であり、とにかく生きることを優先するべく再就職検討します。しかしその中でに、自分の執筆の価値がどこにあるのかはっきりと自覚するようになります。それは「心」と「魂」と「命」という、人間の心の仕組み伝えることなのだ。自分がやってこそ意味のあることとは、この執筆以外にはない。
何のことはありません。商業的成功に失敗したからこそ、そうした浅はかな指標にとらわれることなく執筆に向かうことのできる心を、私は見出せたのです。50歳という節目にして。
それで言うならば、『入門編』までの執筆内容は、まだまだ粗いものです。より精緻内容を伝える必要がある。そうして2012年から執筆したのが『取り組み実践・詳説』です。

一方で、それから何とか一人執筆を続けていくだけの経済的見通しは立てたものの、結婚して家庭を築き家族を持つという「人生の望み」ほぼ断念された私の心は、やや停滞の中にありました。
そこに再び神の手働いたと言えるかのように、私の人生運命歯車が動き出します。「人生で最も愛する相手」向かうという、「愛」単一軸とした「魂の望み」果たすための歩みが、再び訪れたのです。それを最後まで導いたのが、『悲しみの彼方への旅』終盤でもそれが暗示されたように、初恋女性存在でした。


この『概説』締めくくろうとしている2014年暮れも今、神の手最後まで、安易な外面的満足には与えない道用意したようです。とことんまで、「魂の望み」を、自分自身受けとめさせるために。
その先に訪れるとはどのようなものであるのかを、私自身に、指し示すために・・。
私自身としては、もちろん未来全て未知ですが、私自身にある「魂」望みを、私自身人生において、ほぼ受けとめ尽くせた気がしています。
その先に訪れた心の境地とは、そこに至るまでに体験したことの全て伝えていくのが、これからの私のライフワークとして、今ここでその最終的様子短い言葉でお伝えしておくならば、「宿題を終えたあとの夏休み」という感じなのです。
私自身、心の成熟ゴール段階のようだと感じられる心の境地ということで、今常に「人へ」の「愛」の感情の中で生きているかと言うと、あまりそうとは言えないのです。「愛」ことさら意識する必要さえ感じない心の状態とは言えるでしょう。
なぜなら、「魂」「私」ではないからです。「私」は、「「心」と「魂」と「命」の意識の仕組み図」において、やはり、「自意識」を働かせる「心」のことです。そのようなものとして、「私」は、私の人生において、「魂」を、受けとめ尽くせた。その宿題を、だいたい終えることができた、と感じているのです。一方で「魂」は、「心」受けとめ尽くされ安心感で、はすっかり惰眠をむざぼっているようでもあります。

そうして訪れる心の豊かさとは、に流れる、外面においてどんな言葉やり取りできたかに終始する小説ドラマ、そして「生き方」と言えば「人への愛の気持ち」ばかりを持ち上げようとする風潮言うであろうものとは、大分違うものだ、と今感じています。
はむしろ、自分自身「魂」との関係に、着目します。それを伝え続けていくことに、はこれからの生涯を、尽くしていきます。
朝目が覚めてから夜眠りに落ちるまで、「楽しい」という気分毎日生きています。
とても幸せです。

こうして、歩んだ、そしてそれをこの心理学整理したとは、「否定価値の放棄」を過ぎて歩み得る3つの道後ろ2つ、つまり外面的前進主導の歩みに、「自分」では乗り越えられないような壁向き合う道でした。
もちろん、それはもう私たち自身「選ぶ」ものではありません。私たちにできるのは、「否定価値の放棄」までの「学び」であり、その「選択」までです。そこからは、それまでに培った姿勢行動法で、開放される「望み」に向かって、ただ全てを尽くして生きていけばいいのです。その先は、「命」全て決めます。

それが進む先が、いかなる道を選ぼうとも、その先「幸福」訪れるであろうことに、私は今微塵疑念を感じません。
それに向かうことを目指すハイブリッド心理学取り組みとはなのか、もうお分かりかと思います。
それは短期間短時間習得できることを目指す、心の改善法気持ちの改善法とは、根本的に異なるものです。

それは、私たちの人生の歩み、そのものなのです。



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2014.11.26

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